描写とは物事に心を語らせること
高校生に小説を書かせた場合、指導以前の彼らの自然状態では記述ばかりになりやすく、あらすじだけになってしまい、描写が現れにくく、その結果として一定分量以上には書けないことが多い。この現実だけをもって仮説を立てることは危険ではあるが、
外界の事象に対する人間の基本的な認識とその表現の型は記述である。
そして、基本的な時間認識の幅は継時を中心にしているのではないか。
ということが考えられる。
現実場面において、人間は目を凝らし耳をすましてはいないのではないか。あるいは、認識の受け皿には、たとえ目を凝らし耳をすましたとしても、瞬時瞬時の外界の姿が折り重なって一つの継時的な姿にまとまってしまっているのではないか。まるでパイのように。
それゆえ、基本からかけ離れた瞬時の描写に出会った場合に、「外界事象を叙述した文」以上の意味を感じるのではないか。その意味とは、視点人物が対象としてその事象を選び取った意味(事情)=(視点人物の評価)であろう。そして、視点人物が叙述者と多く重なるとき、それは叙述者の評価に多く重なる。
叙述は大きく、「描写」・「記述」・「説明」・「評価」、の四層に分けることが出来る。(「説明」の中に「解説・解釈」を含む。「評価」の中に「評価・心情表出」を含む)
この叙述の四層を、表現対象(外界・内界)と表現スタイル(直接・間接)との2軸で切り分けると次のように図示できる。
(表現対象) 外界表現(事物論理) │ 描写層│記述層 直接────┼────間接(表現) 評価層│説明層 │ 内界表現(思考論理・感情論理)
これらの四層は縦一列に並ぶような性質のものではなく、円環をなしていると考えた方が良いように思える。つまり描写層は記述層と連続し、記述層は説明層と、説明層は評価層と、更に評価層は描写層と、それぞれ連続しているということである。
┌───┬───┐ ┌┘ 描 │ 記 └┐ ┌┘ ┌─┴─┐ └┐ │ 写 ┌┘ └┐ 述 │ ├──┤ ├──┤ │ 評 └┐ ┌┘ 説 │ └┐ └─┬─┘ ┌┘ └┐ 価 │ 明 ┌┘ └───┴───┘
人は、文章表現をするとき、二つのチャンネルと二つのスタイルを使用する。二つのチャンネルとは外界用チャンネル(自分以外の外部世界を描こうとする時に用いるチャンネル)と、内界用チャンネル(自分の内部世界を描こうとする時に用いるチャンネル)である。
二つのスタイルとは間接的表現スタイルと直接的表現スタイルである。間接・直接という表現スタイルの差は、視点の存在と大きく関わる。直接的表現スタイルは、現実場面の視点に表現場面の視点をできるだけ近づけて、叙述する。間接的表現スタイル、は表現場面における視点を固定して、表現場面の視点本位に、叙述する。
また、現実場面視点は、現実場面が持つところの「時」の支配を受けるとともに、「時」を所有する(あるいは「時」を設定する)。そして、現実場面視点は、瞬時を、基本的な「時」として所有する。
描写は「ある限定された時空間」における「もの」や「こと」を叙述するものであるから、基本的には「瞬時」の現象文であるスル文(行為文・動作文・現象文)が描写文を作る。例えば次のような文である。例文と分類は、中島一裕氏の「対象のありよう・認知のありようからみた文の類型」によった。
行為文
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| 動文作
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| 現象文
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そして、「ある限定された時空間」における「もの」や「こと」が、過去の時点から継続している場合、それを描写するためには「行動継続文」・「存在文」・「結果存続文」・「結果状態文」・「単純状態文」が用いられる。
つまり、描写文は基本的に瞬時の現象文であるのだけれども、(それは対象の持つ事物論理に即した場合と、現実場面視点が持つ思考論理・感情論理に即した場合とがある。)対象が持つ事物論理が継続性を持つ場合に、現実場面視点が持つ思考論理・感情論理がいくら瞬時性に即していても、事物論理の持つ継続性が文法的に優先されてしまい、記述文的(継時的)文型になる。だから、記述文的(継時的)文型だから、その文が「描写文でなく記述文だ」とはいえない。たとえば、次の例文は描写文である。
行動継続文
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| 行動継続文
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| 存在文
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| 結果存続文
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| 結果状態文
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| 単純状態文
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描写は機能であって、形態ではない。
非常に要約的な記述に対して、読者が具体的形象を得るとき、(例えば「戦後二十年間と言うもの、日本人全体は勤勉に働いた。」という叙述に対して、ある読者が、過ぎしあの時のあの事、この時のこの事を克明に想起した場合)その記述はその読者に対して、描写機能を持ったといってよい。ただし描写は機能であるから、一般的には「手続き」が必要である。
描写の手続きとして、まずは「枠組み」を取り上げる。
闘鶏の眼つむれて飼われけり 村上鬼城
「眼のつぶれたシャモが飼われている」という事柄が記述されているとも読めるが、「俳句が基本的に描写の文芸」であるという枠組み(暗黙の了解事項)によって、「闘鶏」だけでなく、それを注視している視点人物が、この文章に畳み込まれていると読み取られる。ただし枠組みに頼るだけではなく叙述上の工夫がされているのは言うまでもない。
「眼つむれて闘鶏の飼われけり」ではなく、まず闘鶏の全体像が提示され「視点人物の視野に入り」、その次に「良く見ると」その闘鶏は、眼がつむれているのを「発見する」という語句の順になっているのである。そのように、「眼がつむれていることを発見することができる、闘鶏と同じ高さ」に、視点があることも叙述しているのである。さらにこの俳句の主題は、枠組み・語順から生ずる描写機能の内の視点の位置・方向(闘鶏の眼と同じ高さで水平)、距離(眼がつむれているのが分かるほどの近距離)、が関わって、視点人物と対象との関係を「眼がつむれて飼われている闘鶏は不運でもあり幸運でもある。不本意であるかもしれないが、生きながらえていられることは、まずは結構なことである。私も同じようにこの人生を生きていくのだなあ。」と、とらえたものとなるであろう。つまり、俳句という枠組みが描写機能を作り出し、描写機能が対象と視点人物の評価を作り出しているのである。
「午後」
歓声が沸き上がる
鳩と風船が青空を隠す
病人はベッドの上
寝返りを打って
ボリュームを絞る
スイッチを切る
回診です
微熱が続いているんです
回復期にさしかかったようですね
病人はベッドの上
起き上がって
スイッチをいれる
ボリュームを上げる
ゲートからランナーが走り込んでくる
歓声が沸き上がる
赤土のトラックを一人で走る
歓声が沸き上がる
描写のみで作られた詩である。意味付られないところがあったりしても、短い詩であるから、読み直してくれたり、保留して後から理解してくれるであろうという、読者への期待が、この詩の場合には前提(枠組み)になっている。そして、第二の枠組みとして、「連」をとりあげることができる。連という枠組みがあるからそれぞれの連はそれぞれの場面として成立し、それぞれの文は描写として機能する。
叙述法 | 文番号 | 文内容 |
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記述 | 1 | ある日の暮れ方のことである。 |
2 | 一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。 | |
3 | 広い門の下には、この男のほかにだれもいない。 | |
描写 | 4 | ただ、所々丹塗りのはげた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。 |
説明 | 5 | 羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二、三人はありそうなものである。 |
記述 | 6 | それが、この男のほかにはだれもいない。 |
叙述法 | 文番号 | 文内容 |
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描写 | 124 | 「きっと、そうか。」 |
125 | 老婆の話が終わると、下人はあざけるような声で念を押した。 | |
126 | そうして、一足前へ出ると、不意に右の手をにきびから離して、老婆の襟上をつかみながら、かみつくようにこう言った。 | |
127 | 「では、おれが引剥をしようと恨むまいな。おれもそうしなければ、飢え死にをする体なのだ」 | |
128 | 下人は、すばやく、老婆の着物をはぎとった。 | |
129 | それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。 | |
説明 | 130 | はしごの口までは、わずかに五歩を数えるばかりである。 |
描写 | 131 | 下人は、はぎとった桧皮色の着物をわきにかかえて、またたく間に急なはしごを夜の底へ駆け下りた。 |
132 | しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起こしたのは、それから間もなくのことである。 | |
133 | 老婆は、つぶやくような、うめくような声をたてながら、まだ燃えている火の光をたよりに、はしごの口まで、はって行った。 | |
134 | そうして、そこから、短い白髪を逆さまにして、門の下をのぞき込んだ。 | |
記述 | 135 | 外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。 |
136 | 下人の行方は、だれも知らない。 |
もちろん小説という枠組みがあって、描写・場面が成立するのであるが、小説内部にはもう一段階の枠組みがある。それは記述の枠組みである。舞台設定、人物設定などの設定を行う冒頭部分は、描写でももちろん可能であるが、記述によってそれがなされることが多いようである。終末部を、記述で始まった冒頭部分と呼応させて、記述によって枠組みを完成させることが多いようである。
事態描写 | (風景描写・自然描写) |
人物描写 | 状態描写−容姿・服装等 行動描写 |
談話描写 | メタテキスト的 |
心理描写 |
対象が描写されると、空間というか場面というか平面というようなものが形成される。(場面は一般の場面と、空間も一般の空間と紛らわしいので平面を仮に使っておく)
叙述層で、人物描写を細分化して、談話描写・心理描写・動態描写・静態描写を取り立てるのは、談話平面・心理平面・動態平面・静態平面の重なり具合いをとらえようとすることである。もちろん、文単位でも、1文内の句単位でも、平面は形成される。(あるいは平面の1部分が形成される)
取り扱いに注意しなくてはならないのが談話描写と心理描写である。談話描写の中に1つの文章がある場合、地の文章と談話描写内の文章と、どちらが主でどちらが従か(多くは談話描写内の文章が従であるが)を決定して、従の文章については文章としての分析はしないことで、分析の複雑さを現在の所は回避しているが、戯曲などの談話描写本位の文章の分析が充分に出来ない状態である。心理描写も「回想」などでは談話描写の場合と同様なことが言える。また、語り手の評価層と登場人物の心理描写層の相似性にも、なんらかの位置づけが必要である。
事態を描写的に叙述するということは、常に、事態に対する意味付けは読者に委任されているということである。
「つまりこのポスターを見て通行人は自分で結論を引き出すべきなのである。彼が理解したときは、自分で思想をつくったような気になって、半分以上それに納得されてしまう。」(サルトル)
このような力を持つ描写とは何かに対する解答を、思いつくままに書き並べた。描写論としてまとまるまでに、記述と描写の差異について、次のような課題を克服しなければならないであろう。