わたしたちは、言語主体(表現主体・理解主体)として、現実場面(現場)・表現場面(表現過程)・言語場面(言語作品)・理解場面(理解過程)にわたる言語表現の機構をくぐりながら、多種多様な生理的・精神的な言語活動を行なっている。と述べて、言語行動の場面を四つに分けている。
現実場面 → 表現場面 → 言語場面 (現場) (表現過程) (言語作品) | 表現主体による |
現実場面 ← 理解場面 ← 言語場面 (現場’) (理解過程) (言語作品) | 理解主体による |
現実場面 → 表現場面 → 言語場面 (現場) (表現過程) (言語作品) ↑ ┃ 現実場面 ← 理解場面 ←━━━┛ (現場’) (理解過程) |
表現主体=原作者 ‖ 推敲主体=原作者 ‖ 理解主体=原作者 |
現実場面 → 表現場面 → 言語場面 (現場) (表現過程) (言語作品) ‖ 現実場面 ← 理解場面 ← 言語場面 (現場’) (理解過程) (言語作品) ↓ 現実場面 → 表現場面 → 言語場面 (現場”) (表現過程) (言語作品’) |
表現主体=原作者 理解主体=添削者 ‖ ‖ 表現主体=添削者 |
原作者が作り上げた言語作品を元に、添削者は、「現場’」を再生する。その時点で、「現場’」に対する添削者の趣意(このような景なら、こう見るのが良い)が働いて、「現場”」が生じる。添削者は、「現場”」の言語作品化を表現過程をくぐること(このような景と情なら、こう表現する。とか、このような景なら、こういう情を暗示して、こう表現する)でおこなう。
このように、「言語作品」(原句)と、「言語作品’」に変えていく表現過程を言語化した「解説」と、「言語作品’」(添削句)を併記した文章が、添削である。
山口誓子『俳句添削教室』(玉川大学出版部 1986 ISBN 4-472-11691-X2092)に、次のような添削例がある。
舟で来る瀬戸の花嫁島は春
いきなり「舟で来る」といってある。来るのは「瀬戸の花嫁」である。瀬戸内の島から島へ嫁ぐ花嫁である。
そして最後に「島は春」が出て来た。「島は春」が最後に出て来たが、「瀬戸の花嫁」に対して出方が遅過ぎる。
まず「島は春」と置き、春の麗らかな気分を撒き散らして置いて、花嫁を登場さした方がよい。
島は春瀬戸の花嫁舟で来る
山口誓子氏が「島は春」に読みとっているのは、空間としての「島」、季節としての「春」、そして、そのような「島の春」がもつ「春の麗らかな気分」である。そういう全体状況をあらわすような叙述は、下五に置くより上五に置けということであろう。
しかし、「島は春」は、それだけを表しているのだろうか。港で花嫁を迎えている島の人々の姿や気分が含まれていないのであろうか。
「島の春」のような全体状況をあらわす叙述は、山口誓子の言うように、上五においた方が安定感がある。下五におくと「変」である。「変」だから、「なんでこんなところに、これをおくのか?」という疑問が生じる。この疑問に対する解答のしかたが、読みを二つに分ける。
一つは、山口誓子氏のように、下五にあっても全体状況だけを示していると読む場合である。もう一つは、下五にあるのだから、全体状況だけを示しているのではなく、「なにかが意図的に付加されている」と読む場合である。
山口誓子氏は、「港で花嫁を迎えている島の人々の姿や気分」まで読みとって(文章中に明示してはいないが)、なおかつ、上五においてもそれが表せるという主張をしているのかもしれない。句の形の安定を優先し、読み手に手がかりを与えなくても、俳句に通じれば読めるはずであると考える立場を、仮に「伝統派」と名付けておく。
「伝統派」に対して、手がかりを与えなければ読めないとする立場がある。句の形の安定よりは、伝達のための手がかりを優先する立場である。これを「表現派」と名付けておく。「港で花嫁を迎えている島の人々の姿や気分」まで表すためには「島の春」を下五に置く必要があるという立場である。
一人の俳句愛好者のなかに、「伝統派」と「表現派」が併存している場合が多いと思われる。句によって「伝統派」で読んだり、「表現派」で読んだりするのであろう。また、「伝統派」も「表現派」を吸収しながら伝統の厚みを作り上げてきたのであろう。
どちらがいいとか優れているとかということではない。読む場合や詠む場合に、そのような読みがあることを自覚しておく必要がありそうである。
鷹羽狩行「添削例に学ぶ 俳句上達法」のまえがきに
添削については、助詞の使い方や文法の誤りだけを指摘するという人、発想そのものから問題にする人など、指導者によって姿勢はさまざまです。季題を変えるところまで踏み込むべきかどうかに対しては、大きく意見が分かれましょう。しかし俳句では、季語の選択が一句の完成度を大きく左右しますので、私の添削は、季語によってどれだけ変わるかということも試みました。初学の頃は、季語に対する理解が浅いために効果的な季語の使い方ができないという例も多いからです。とある。原句の表現過程のどの場面に対して添削を行うのかということである。
もちろん、添削はあくまで作者の発想を生かすために、その表現の手助けにとどめることが原則です。私の添削が絶対というのではなく、それをヒントに、最終的には作者じしんが考えるべきものであることは言うまでもありません。ここに収めた実例から、読者の方々に推敲のポイントを学びとっていただければと思っています。
鷹羽狩行氏の添削が意図しているのは、句のまとめ方の向上を含んで、句の発想の仕方の精錬であるらしいことがわかる。そして、発想の仕方は、その句がユニークであることに大きく関わるので、「添削はあくまで作者の発想を生かすために、その表現の手助けにとどめる」し、「それをヒントに、最終的には作者じしんが考えるべきものである」と位置づけるのであろう。
笛太鼓渡すや雛眼あげ (p149)
雛を飾っているところをよく観察した句です。五人囃が笛や太鼓の撥を持つ手は、持ち物を持たせなくても仕草そのままで、まさに人形をしか思えません。しかし、持つべきものを持たせると急にいきいきとして、生命があるもののようにさえ感じさせます。その様子を「眼あげ」と表現したのでしょう。
それはよいのですが、笛太鼓を渡すのは人間であり、一句の中の動詞の主体が別々のためにチグハグな印象を与えています。これを雛のことに統一して――
笛太鼓渡されて雛眼あげ
原句では「や」によって二文に分けてあるので、誤解は生じにくい。ただ、この「や」は、「切れ」よりも「〜とたんに」という瞬時の転換の強調として働くようである。一句中に二主体の動作が盛り込まれているから、ばたばたした落ち着かない印象を与えるのは、添削者の言の通りである。
「できれば、一句中に主体は一つ」が俳句の表現なのであろう。
添削句の「渡されて」という受動態を用いるのは、「主体一つ」にするための方法であるが、受動態は行為の主体を暗示する。それまでも消し去れば、より「主体一つ」に近づくことになる。「笛太鼓手にして雛眼あげ」では、どうだろうか。生き生きとする時点が「眼あげ」より以前の「手にして」に移行して、最初から生命があるようになってしまって、無気味さが出てきてしまうだろうか。
呼びあひてやがて競ひて虫の鳴く(p148)
秋の虫の音の変化をとらえた句です。宵の口には、あちこちから少しずつ聞こえてくるさまを「呼びあひて」といい、だんだん数がふえて激しい虫時雨にまで高まった状態を「競ひて」と言ったところがよいと思います。
しかし、一句全体で虫の声のことを表現しているのですから、わざわざ「虫の鳴く」と言ってはダメ押しになり、興がそがれます。
そこで――
呼びあひてやがて競ひて虫の夜
とすれば、時間的にも空間的にも拡がりが生まれ、味わいがいっそう深まるでしょう。
句末に時間や空間を表す語を置くことで、それまでに述べた事態「(虫が)呼びあひてやがて競ひて」が、その空間や時間に位置を占める。と同時に、その事態以外の事態(書かれてはいないが、例えば、暗さや、街灯の明かりや、星や、時折吹く風など)が想起できるということであろう。同様の添削がある。(p )が付いている方が原句である。
木の芽雨小枝小枝に玉しずく (p23)
枝々に玉のしずくや木の芽雨
卒業証口一文字眉高く (p27)
眉高く口一文字卒業式
木々芽ぐむ洗ひざらしの空の色 (p144)
木々芽ぐむ洗ひざらしのやうな空
川筋が折れ渦を巻く雪解川 (p12)
雪解けの頃の川の様子が想像される句です。しかし、「川筋が折れ」という表現はもどかしく、一句の調子から雪解川らしい勢いを伝えるところまで達していません。
そこでこれを――
折れ曲がるたび渦を巻き雪解水
としてみましょう。“折れ曲がるたび渦を巻き”と強調することで、ダイナミックな光景が印象づけられると思います。「川」とは言っていませんが、一句全体からそれとわかりますし、はじめから「川」を出さないほうが、一瞬何のことだろうと思わせて、効果的な表現といえましょう。
謎を仕掛けておいて、読み手を引きつけるという表現法である。俳句は省略しないと成り立たない文芸であるから、その省略した部分(謎)を読み手に補い読みさせるという点で、基本的にサスペンスの文芸といえる。
この句の場合「川」とは言わないで「川」をわからせるというサスペンスがあり、「折れ曲がるたび渦を巻き」と事態だけを述べることによって生じる「主体は何か」というサスペンスがある。前者は俳句の基本的なサスペンスであるが、後者はレトリカルである。「主体は何か」というサスペンスは句末ですぐに解消するので、短期的サスペンスといえる。それに対して、「そのような雪解川の姿をなぜ詠んだのか」というサスペンスがある。こちらは、謎が解消しにくい長期的サスペンスである。短期的サスペンスの解が長期的サスペンスの解に関連すると一般化できればよいが、そうはならないようである。ただ、短期的サスペンスの解が季語である場合は、長期的サスペンスの解は「季感そのものの表出」といえそうである。
理解主体にとっては、「短期的サスペンスの解が、句の焦点である。」といえるし、表現主体にとっては、「あるものごとを句の焦点にしたければ、短期的サスペンスの解に置け」という表現法であるといえる。
同様の添削がある。
寒雀おくれし一羽飛び去れり (p17)
残りゐし一羽も去れり寒雀
春一番髪を庇えば裾襲う (p32)
髪を庇えば裾乱れ春一番
大根掛け誰にも届かざる高さ (p33)
女には届かぬ高さ大根掛け
鉦叩き少しせはしき叩き初め (p106)
打ち出しのややせはしなき鉦叩き
木の実独楽並べ甲乙つけがたし (p107)
甲乙のつけがたきかな木の実独楽
草の実のとびつく如く手に足に (p109)
手に足にとびつくごとく草虱
返り花つぼみ一つを従へて (p111)
つぼみいくつか従へて返り花
縄電車大緑陰を一まはり (p111)
緑陰を一まはりして縄電車
松手入れして支へ木の数ふやす (p114)
今年また支へ木ふやし松手入れ
単純に倒置してあるのではなく、上五+中七と下五とは、それぞれ一文相当であって、切れは深い。そして、解にあたるものごとは、時間空間の拡がりを持つ前掲の「夜」「空」などではなく、点景といえるものである。サスペンスによる焦点化と、ものごとそのものの性質による焦点化とが協調しているのであろう。
ものごとそのものの焦点化では、次のような添削がある。
新蕎麦や暖簾に紺の匂ふ店 (p144)
思わずのれんをくぐりたくなるような、蕎麦屋の店先の景です。匂うばかりの紺ののれんが新蕎麦の風味を引き立てている、というところだと思いますが、「紺の匂ふ」とそのまま述べてしまうのはどうでしょうか。趣が乏しくなるように思います。
また、助詞の使い方もギクシャクしていますので――
新蕎麦や匂ふがごとき紺のれん
としてみましょう。清潔そうな紺ののれんが目も楽しませ、食欲をそそるようです。
原句では「店」と言っていますが、新蕎麦でありのれんでありということになれば、店であることは自然にわかりますので、省きたい一語です。添削のように“紺のれん”を最後に持ってくればポイントが明確になり、句の姿としてもスッキリします。
部分を示すことで、全体を想起させようとする表現法である。
部分だけが叙述されるので、全体を叙述した場合に比べて、視点と対象との位置関係が決まりやすく、現実感が加わる。とともに、部分から全体を想起するという余地=短期的サスペンスを残すことで、読み手を作品世界に導入するという働きを持つことになる。
電線の切り絵の構図寒夕焼け (p142)
真赤な寒夕焼けの空に、黒い電線がくっきり見える光景を「切り絵」ととらえたユニークな句です。
しかし「切り絵の構図」はどうでしょう。「切り絵」が直感的に把握した画面を思わせるのに、さらに「構図」と言って協調すると、ダメ押しの印象を与えます。「切り絵」という飛躍した発想を活かすには、むしろ“○○のごとし”としたほうがよいでしょう。
電線が切り絵のごとし寒夕焼け
できるだけ景そのものの描写にとどめる必要があるということであろう。「構図」は、「そのような構図として私はとらえたのだ」という視点人物の趣意の表明になってしまうので、「強調」「ダメ押し」の印象が生まれるのである。
このような視点人物の趣意の表明を過剰として添削している例として次のようなものがある。
水弾む音たのしくて木の実落つ (p146)
水音をたのしむごとく木の実落つ
空はまた泣きだしそうに花菖蒲 (p146)
午後はまた降りだしそうに花菖蒲
白木蓮の闇寄せつけぬ息づかひ (p148)
白木蓮の闇寄せつけぬ白さかな
ユニークな句を作ろうとすると、景そのものの描写だけでは不十分に感じられるものであって、そこに何かを足そうとするとき、視点人物の趣意の表明が選ばれてしまうことが多いのだろう。木の実の落ち方が「たのしい」というのは、趣意の表明である。「たのしむごとく」とやや朧化することで、あらわな趣意表明を避けることができるのであろう。
「泣き出しそう」「息づかひ」と擬人化するのも、「ユニークであれ」と願った結果であろうが、短い文章である俳句の中では、変に目立ってしまって、景そのものの持つ性質が表せないのである。
俳句をどう読むのが正しいか、俳句をどう詠むのが正しいかということに対しての回答は表現論の成しえないところである。なぜなら、正しいかどうかは「美しいかどうか」であるから。ただ単に綺麗という美しさではなく、真実が持つ美しさであり、事実が持つ重さであり、表現主体の繊細さ大胆さである。理解主体の楽しさも含まれるだろう。と、書いた。
「美しく」なるまで推敲を重ね、「美しく」なるまで読み返すのであろう。
「美しい」かどうかは、美学の範疇である。表現論が成し得るのは、もしその句が、その読みが、美しいとするならば、文章表現上のどんな要因がどう関係しているかを整理することであろう。
添削という表現主体の違う推敲ならば、いくつかの書籍が出版されている。さらに、添削者は、俳句の達人である。どこに問題があるのか、どう読むのかが、解説されている。また、「より良くする」表現法が解説されている。絶好の資料である。
しかしながら、俳句の表現法のいくつかの要素を取り上げるにとどまってしまった。要素間の関係には少ししか言及できなかった。論者の俳句の力の不足である。そして、興味関心のある部分だけ取り上げるという恣意の結果である。
では、拙稿「俳句の読み」の最後を繰り返すことにしよう。
楽しみながらすすめていきたいと思う。