ひとまとまりの文字列があって、それを読んだ人間が、ある心理的変化起こすことがある。小説や物語はもちろんのこと、「心理的変化」を広義にとらえれば、およそすべての文章表現は、それを読んだ人間に「心理的変化」を起こすものであるといえる。
この人間と文章表現との関係は、コンピューターのハードウェアとソフトウェアとの関係に似ている。ソフトウェアに記述された通りに、ハードウェアは内部情報を変更し、周辺機器に外部情報として出力する。
ただし、人間は、機械のように画一的な存在ではなく、理性・感情・意志といった広義の「思考回路」が、人間ごとに少しずつ違っていて、文章表現に仕組まれた通りに「心理的変化」を起こすとは限らないということがある。
しかしながら、その違いを超えて、人間に共通の「思考回路」があり、それに対して共通に「心理的変化」を起こす文章表現があることも事実であるだろう。
本稿は、「泣く」という「心理的変化」に絞って、どのような文章表現の仕組みが、そのような「心理的変化」を起こさせるのかを明らかにしようとしたものである。
人間は、「自分のことで泣く」ことがあり、「他人のことで泣く」ことがある。思わず泣くことがあり、泣こうと意図して泣くことがある。男性に対しては「男だったらメソメソ泣くな」とか、「人前で泣いたりして恥ずかしい」とか、「泣くことは自己放棄であるから、一人前の人間のすることではない」とか、泣くことに対する他律的自律的な抑制が働くことが多い。(女性に対しても、自律的な抑制は働くであろう)
事例文の分析にはいるまでに、随筆作品(三國一朗「思いがけない涙」)で、泣く要因について検証しておく。作品中に、「孫一同」・「運動会」・「運転手」と、三つの泣くエピソードがある。
「孫一同」は、いつの年の秋であったか、通りかかった道で、通夜の花篭に孫一同とあるのを見た筆者が、その時は「孫一同、供花に多き黄菊かな」という句のようなものを思い浮かべただけであったが、このところ(最近)、しきりにその時の句が思い浮かんで、堰を切ったように涙があふれである、というものである。この場合、いい孫一同(年齢はたとえ年長であっても幼いものと同じ清い心を持つ存在としての孫たち)に、「可愛さ・立派さ」を感じて、涙を流すのであろう。
「運動会」は、小学校の運動会鑑賞を趣味とする中高年の男性が多く、目的とするところは「泣く」ことにある、というものである。この場合、小学生の「健気さ・可愛さ」に、涙を流すのであろう。
「運転手」は、大島三原山の大噴火の時、その状況や島民の困惑ぶりや、帰島の情景に泣かなかった筆者が、港に待機しているバスの若い運転手の、さっと慣れた物腰で運転席につき、自分の制帽をさっとかぶった手つきを、テレビの放映で見て号泣したというものである。この場合、大島全体をつつむこれからの困難な生活に、「健気に、頼もしく、立派に」立ち向かっていく、気負いのない態度に涙を流すのであろう。
「孫一同」・「運動会」・「運転手」に共通するのは、対象人物の健気さである。人間が、特に他人のことで泣くときは、その人間に「健気さ」を感じているといってよいであろう。「(年少にもかかわらず)困難なことに勇敢に立ち向かう様子」(新明解国語辞典第三版)を、「第三者的な立場」というよりは「保護者的な立場」から、見て泣くのであろう。
もう少し一般的な場合を考えてみると、例えば、よく話の筋を知っている演劇を、「泣きに行く」ということがある。松竹新喜劇しかり、忠臣蔵しかり。よく知っているから、安心して泣けるというのは、観客が「保護者的な立場」で観劇しているといえるのではないか。
泣かせる表現の仕組みは、つぎのようではないかと考えられる。
「一杯のかけそば」(栗良平)と、「ちっちゃななかみさん」(平岩弓江)を事例文として、仮説を検証する。
第一場面
第二場面
第三場面
第四場面
第五場面
登場人物はみんな健気である。母子三人はもちろんのこと、せちがらいこの世の中で、「他人への思いやり」・「他人の悲しみを自分の悲しみとし、他人の喜びを自分の喜びとして受け止める」という人間らしい感情を持ち続ける主人と女将も健気な人物である。
構成面、特にストーリーで際だつのは、「なぜ一杯のかけそばか」・「また大晦日にやって来るか」・「どのように生きて行くのか」というサスペンスである。第一場面・第二場面で、「なぜ一杯のかけそばか」というサスペンスは解明されないまま、読者は主人と女将の視点で、母子三人の行動を見守る。第三場面でそれは解明されるが、「また大晦日にやって来るか」・「どのように生きて行くのか」というサスペンスが新たに生じ、第五場面での解明までそれは持続する。そして、主人と女将の思い入れは漸増する。
プロットを単純化すると次のようになる。
主人と女将は、常に母子三人を見守る存在であり続けていて、物語世界の中で変容したのは母子三人であるから、主人公は母子三人であるといえる。
視点は、主人と女将に布置されている。三人称視点である。そして、主人と女将の視点に限定されている。主人と女将は、主人公の母子三人を「大盛りかけそば」・「予約席」・「メニュー札」によって「保護」する役割を担っている。
視点人物の主人と女将が泣くから、読者は泣くのだろうか。本文の「主人と女将が泣く」叙述が無いものとして読んだとしたらどうなるだろうか。読者は、「保護者的な立場」の主人と女将の視点から、健気な母子三人の姿を眺めれば、多分泣くことになるだろうと思われる。視点人物が泣くことは、読者を泣かせるにあたって「だめ押し的」に働いているようである。
ハッピーエンドの後は風景描写で余韻を持続させている、ともいえるが、涙を拭く時間を作っているともいえる。そんな話があり、そんな話に泣いた自分があって、それらをしみじみと振り返る時間を作っているのである。演劇や映画ならば、終演後の照明がともるまでの、あの暗闇のしばらくの時間である。
第一場面
第二場面
第三場面
第四場面
登場人物はみんな健気である。お京も信吉も、若者としての健気さ(一途さ)を持っている。加代と治助は、第二場面で、子供ながら大人なみに働いているという健気さを示すだけではなくて、第四場面で、大人ぶったところが消えても、信吉のために自分たちを犠牲にしようとする健気さを持っている。嘉平夫婦は、最初、娘の幸福を願い、世間体を気にしているだけの存在であったのが、加代と治助に触発されて、「面倒なこと」に立ち向かっていこうという健気を発揮する。
プロットを単純化すると次のようになる。
信吉とお京が、加代と治助の変容を促し、その変容が嘉平夫婦の変容を促すという形である。物語世界の中で変容するのが主人公であるとすれば、加代と治助(加代中心であるが)が主人公か、嘉平夫婦が主人公か、この条件だけでは決め難い。題名は「ちっちゃなかみさん」であり、直接的には加代を示していて、「三四郎」「坊ちゃん」のように、主人公の名前が題名になったとも考えられる。しかし、嘉平夫婦の視点で物語世界がとらえられていることと、物語最後の変容が嘉平夫婦であったこととを、考え併せてみれば、主人公は嘉平夫婦であるといってよい。
ストーリーでは、サスペンス「婿候補は無妻か」「お京は信吉と夫婦になれないか」が際だっている。第一場面・第二場面前半まで、「婿候補(信吉)は無妻か」というサスペンスが、読者を嘉平夫婦の視点に誘導する。第二場面後半・第三場面・第四場面は、「お京は信吉と夫婦になれないか」というサスペンスが、読者に物語世界の進行を見守らせるという形である。
視点は、繰り返しになるが、嘉平夫婦(中心は嘉平)にあって、三人称限定視点である。サスペンス「婿候補は無妻か」とともに、嘉平夫婦の心理描写によって、読者は嘉平夫婦の視点に誘導される。
「視点移入誘導」がどうなされているか、という観点からみると、この作品では、もう一つの仕組みを見い出すことができる。登場人物の呼称の変容である。嘉平夫婦は次のように示されている。
夫婦 | 嘉平・お照 | 親 | |
---|---|---|---|
第一場面 | 嘉平夫婦・夫婦 | 嘉平・母親のお照 | 父親・両親・母親・ふた親 |
第二場面 | 嘉平夫婦・夫婦 | 嘉平・お照・妻 | 母親 |
第三場面 | 夫婦・二人 | 嘉平 | 母親・両親 |
第四場面 | 嘉平夫婦 | 嘉平・お照・妻 |
第一場面は、人物設定の場面であるから、「嘉平・母親のお照」という固有名が用いられているが、後に述べるような積極的な意味は強く持たない。そして、「お京」対「夫婦」の関係が際だつ場面であるから、「〜親」が多用される。
第二場面で特徴的なのは、「お照」・「妻」である。信吉が無妻かどうか自分一人で確かめに行くと主張したときに「お照」が現れ、自主性を持つ人物であることが示される。そんな妻に驚いた嘉平が、「お照」を見るときに、「妻」が現れる。(そして、「お照」は娘のお京と一緒の時には現れない)
第三場面は、ほぼ第一場面と同傾向である。娘の婿取りが頓座してしまって途方にくれる嘉平夫婦は、「親」の立場でしか問題に立ち向かえないし、娘に「豆腐屋のかみさんになりたいのです……この家を出て……」といわれた孤独感が、「二人」という呼称によって示される。
第四場面は、第二場面と同傾向のようであるが、「嘉平・お照」が多用されて、それまでの、「お京の親であること」が中心の立場とは違った、自主性な行動力を持つ二人であることが示されている。
全体の流れとしては
と見ることができるであろう。「三人称限定視点」の「三人称」の部分が変容することで、読者は、より強く嘉平の視点に近づいて、物語世界を見ていくことになるのである。
終結部では、それなりのハッピーエンドの後、風景が描写される。「一杯のかけそば」の場合と同じく、余韻を持続させる働きをしていると見て取れる。