サスペンスこそが、文章を読み進めさせる原動力である、と筆者は考える *01。読者は、サスペンスがあるから読み進み、サスペンスが残るから考えるのである。
多くの英和辞典は「サスペンス」の訳語として「宙ぶらりん、どっちつかず、未決、未定、不安、気がかり等」を挙げている。これはサスペンスの二側面をとらえている。外的状況が「宙ぶらりん、どっちつかず、未決、未定」なので、内的(心理)状況が「宙ぶらりん、どっちつかず、未決、未定、不安、気がかり」なのである。このような、サスペンスの外的状況・内的状況の二側面を、文章における「サスペンス」にあてはめると、次のようになる。
文章において、「サスペンデッド状態」を発生させる「サスペンス」は、多岐にわたる。そのすべてを本稿で考察することは不可能であるので、本稿では「サスペンス」の観点から「比喩」を考察する、にとどめる。考察は次の手順で行なう。
喩 子 | 属性a | 属性b | 属性c | ||
---|---|---|---|---|---|
比喩子 | 属性c | 属性d | 属性e |
このように、比喩をサスペンスの度合いからとらえると、送り手は、サスペンスの度合いの小である比喩と、サスペンスの度合いの大である比喩とに、二つの機能を分担させていることに気がつく。
大 | ← 比喩のサスペンスの度合い → | 小 |
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送り手本位 | ←──────────────→ | 受け手本位 |
被喩詞と喩詞との関係本位 | ←──────────────→ | 被喩詞本位 |
わたしのとらえかたはこうだ | ←──────────────→ | 分かりやすく喩えよう |
サスペンスの度合いの小である比喩は、被喩詞を喩詞によって分かりやすく喩える。被喩詞がどのような属性を持つかを伝達することに主眼がおかれ、受け手の理解を助けようとする。
サスペンスの度合いの大である比喩は、被喩詞と喩詞を関係づける「送り手のとらえかた」を示すことに主眼がおかれ、(一般的常識的なとらえかたでは表現価値がないので、独自的個性的なとらえかたをするから、それを表現した比喩が、受け手にはとらえにくくなる)、被喩詞本位というよりは被喩詞と喩詞の関係本位であり、受け手本位というよりは送り手本位である。このような比喩が成功すれば、受け手の世界観を拡大することになるが、失敗すると、わがままな・独善的な表現で終わることになる。
生ひ立ちの歌 中原中也 | (『山羊の歌』所収) |
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I 幼年時 私の上に降る雪は 真綿のやうでありました 少年時 私の上に降る雪は 霙のやうでありました 十七ー十九 私の上に降る雪は 霰のやうに散りました 二十ー二十二 私の上に降る雪は 雹であるかと思われた 二十三 私の上に降る雪は ひどい吹雪と見えました 二十四 私の上に降る雪は いとしめやかになりました…… |
II 私の上に降る雪は 花びらのやうに降つてきます 薪の燃える音もして 凍るみ空の黝む頃 私の上に降る雪は いとなびよかになつかしく 手を差し伸べて降りました 私の上に降る雪は 暑い額に落ちくもる 涙のやうでありました 私の上に降る雪に いとねんごろに感謝して 神様に 長生きしたいと祈りました 私の上に降る雪は いと貞節でありました |
題名と本文との間に、「生ひ立ちの歌なのに、身の上話じゃなくて、雪のはなしか」というサスペンスも仕組まれているが、この詳細については稿をあらためて述べることにして、本稿では、比喩に限って分析を試みる。
I段では、「真綿・霙・霰・雹・ひどい吹雪」が、「私の上に降る雪」の降りかたを、喩えているかのようにみえる。「真綿」のように、心地よく暖かく私を包み込んでくれる「雪」が、年齢を加えるにしたがって、「霙・霰・雹・ひどい吹雪」と、私にとってより辛い激しい「雪」に変化していくようすが描かれているように見える。
一連の「真綿のような雪」とは一見陳腐な比喩で、サスペンスはない。
二連の「霙」も「雪」の一つの特殊な形で(雪が半ば解けて雨まじりになったもの)、比喩するまでもなく、「私の上に降る雪は、霙でありました」でもよさそうである。すべての連を「私の上に降る雪は……のよう」に合わせようとして、わざわざ比喩の形をとったかのように見える。
しかし、次の三連の「霰」は、「雪」とは少し違う。「大気中から降下した結晶状態の水」という点では共通性を持つが、「霰」は「氷塊」であって、降下のしかたも違っている。霰を雪の喩詞とするのは、すこし無理があるのである。この比喩は、「なにかよくわからないが変だ」というサスペンデッド状態を起こすためのサスペンス表現であるととらえられるだろう。
さらに、四連の「雹」となると直径5ミリ以上の氷塊であるから、雪の喩詞とするのは無理である。「雹であるかと思われた」のは「雪」ではないのではないか、と気づかせる機能を持ったサスペンス表現である。そして、「雪でない何なのか」というサスペンデッド状態を発生させる機能を持ったサスペンス表現でもある。
五連の「私の上に降る雪はひどい吹雪と見えました」も、「雹」の比喩と機能は同じである。吹雪は強い風に吹かれて横なぐりに降る雪で、「私の上」に降り落ちてくる雪ではないから、「雪でない何かの辛さ激しさの程度が、より甚だしいのだ」と理解される。受け手のサスペンデッド状態をより強めようと仕組んだサスペンス表現ではなく、六連のの「わたしの上に降る雪はいとしめやかになりました」とともに、サスペンデッド状態を解消するための手がかりを示す機能を持ったサスペンス表現である。
これまでのところを整理すると次のように図示できる。
サスペンスの度合 無 小 中 大 中 ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ 喩詞(真綿・霙・霰・雹・ひどい吹雪)→被喩詞「雪」 ↓ サスペンスによる転換 ↓ 喩子「雪」→被喩詞「X(何か)」 |
II段には、I段で仕組まれたサスペンス「雪とはなにか」を、解消する比喩がちりばめられている。
一連「花びらのやうに」という一見陳腐な(形や落下のしかただけを喩えているならば)比喩から始まるのは、I段の「真綿のやう」で始まるのと同じである。
二連「いとなびよかになつかしく 手を差し伸べて」という比喩によって、「雪」が喩える「なにか」が、人間であり、それもたぶん女性であることが推察できる。その女性との関係が、
三連「暑い額に落ちくもる 涙」を流させるあるいは流させられる関係であること、
四連「いとねんごろに感謝して 神様に長生きしたいと祈り」たいような気持ちにさせられる関係であること、が手がかりとして与えられる。
最終五連の「いと貞節でありました」は、「何か」が女性であることを確認させようとするかのような比喩である。
「生ひ立ちの歌」だからノンフィクションでないといけない、ということはないにしても、つまりフィクションであってかまわないのであるけれども、現実の一部分でも反映している可能性があるので、「雪」で喩えられている「何か」を明らかにするために、中原中也の年譜の内の「長谷川泰子」に関する記述をたどってみる。右に詩を対照させた。(年譜の年齢は満年齢であり、作品中の年齢(数え年)と、一歳ずれている)
年譜 | 生ひ立ちの歌 |
---|---|
15歳以前 | 幼年時 私の上に降る雪は真綿のやうでありました 少年時 私の上に降る雪は霙のやうでありました |
| 十七ー十九 私の上に降る雪は霰のやうに散りました |
| 二十ー二十二 私の上に降る雪は雹であるかと思われた |
| 二十三 私の上に降る雪はひどい吹雪と見えました |
| 二十四 私の上に降る雪はいとしめやかになりました |
出会い、同棲し、友人の愛人となって去られ、京都で共に遊び、産んだ子の名付親になってやった長谷川泰子との関係のみが、「霰・雹・ひどい吹雪・しめやか」と喩えられる「雪」で喩えられていると判断するのは乱暴であろう(「雪」は、自分を受け入れず辛く当たる世間などの「外的世界(女性を含む)」の被喩詞である、ととらえるのが「おだやか」である)。ただし、二十四歳時点の、産んだ子の名付親になってやるような長谷川泰子との「しめやかな」友人関係に比べれば、それ以前の精神的苦痛を伴うようなひどい男女関係を「霰・雹・ひどい吹雪」と喩えられる「雪」で喩えられていると判断することはできよう。(最終連の「いと貞節でありました」を、長谷川泰子に対する一種の賞賛の言葉としてとらえると、この詩が、現在の「しめやかな」友人関係を中心にし、過去の関係を現在の関係に対立するものとして描いている、ととらえることが、より自然になる。)
さて、中原中也の一編の詩の分析を通じてだけではあるが、次のようなこと(羅列のままで構造化していないが)が分かりかけたように思う。
およぐひと 萩原朔太郎
- およぐひとのからだはななめにのびる、
- 二本の手はながくそろへてひきのばされる、
- およぐひとの心臓はくらげのやうにすきとほる、
- およぐひとの瞳はつりがねのひびきをききつつ、
- およぐひとのたましひは水のうへの月をみる。
題名と一行目に不自然さは感じられない。およぐひとの姿がおよぐひと以外の第三者(詩人の)視点から叙述されている。ただ、「およぐ」という行為を描くにしては、やや静態的である。「およぐひとはからだをななめにのばす」と他動詞文を使って、行為であることをより明確にしようとするところである。あるいは、「からだ」を主題にするのであるならば、「およぐひとのからだは(およぐひとの意志によって)ななめにのばされる」と、およぐひとの意志とからだと動きとの関係を、受動態の文で示す可能性もある。詩人は、「のびる」と自動詞文にすることで、およぐひとの意志が介在しない「状態」として示そうとしたのであろうか。
二行目は不自然さを感じさせる。手は、人間にとって最も意志的に運動させることができる器官であるから、およぐという行為をおこなっている人物本位にとらえると「二本の手をながくそろへてひきのばす」が自然な叙述である。
二行目には二通りの解釈が可能である。
第一の解釈は、およぐという行為をおこなっている人物以外のなにものかがひきのばしていて、手およびおよぐひとが、まるで受身になっているという現実世界には物理的にありえない「状態」が示されているととらえるものである。疲労していたり義務感のみがあって、行動主体の自由意志が薄れてしまっている場合には、このような「心理的状態」がありうると考えると、この二行目は、意志のない「心理的状態」を示そうとしたのであると考えられる。詩人は、およぐひとのおよぐ様子を見て、およぐひとには意志がないかのようにとらえたのである。
第二の解釈は、詩人の視点がとらえたものが、まず、手であって、手本位にとらえた後に、およぐひとと手との関係をとらえたがゆえに(手とおよぐひととを分離して)、手からいえば「ひきのばされる」と受動態の文で叙述したというものである。「二本の手は(およぐひとによって)ながくそろへてひきのばされる」の「およぐひとによって」を省略した叙述であるというものである。
二行目を、一行目での、およぐひとの意志が介在しない「状態」として示そうとしたこと、と関連させて解釈するならば、第一の解釈、意志のない「心理的状態」を示そうとした、が自然であろう。
三行目は、比喩が使用されているという点で不自然さを感じさせる(もちろん「詩に比喩はつきもの」という観点からは、自然であるが)。喩えられている「心臓」には「こころ」とルビがうたれている。物理的な、血液を循環させる器官としての心臓と、精神的な、仮想器官としてのこころと、二重の意味が込められている。喩えているのは「くらげ」である。海で泳いでいるのなら、近くを漂っているかもしれない。場は共有しているといってよい。結合点は「すきとほる」である。「くらげのやうにすきとほった心臓」「くらげのやうにすきとほったこころ」両方ともにイメージすることは可能である。アクリルでつくられた人体模型の心臓、あるいはコンピュータグラフィックで描かれた人体模型の心臓をイメージできる。
一・二行目で隠在していた、意志のない「心理的状態」を、「くらげのやうにすきとほったこころ」によって、顕在化したととらえられる(意志があると、心は、濁っていたり、何らかの色が付いていたりするのであろう)。と同時に「くらげのやうにすきとほった心臓」という形象に、意志のない「心理的状態」を定着・象徴させているともとらえられる。
以上の分析を、比喩表現を中心に、サスペンスの観点から、整理すると、萩原朔太郎の「およぐひと」において、比喩表現「およぐひとの心臓はくらげのやうにすきとほる」は、比喩表現としてサスペンデッド状態を発生させる。心臓が二重の意味を持っていることが明示されているので、イメージもとらえやすく、サスペンデッド状態は、短時間に解消する。と同時に、先行する一・二行目で発生したサスペンデッド状態を解消する。つまり、比喩表現による小サスペンスが、先行する大サスペンデッド状態の解消の働きを担っていたのである。
サスペンスという観点は、文章の構成分析において有効であると思われる。
本稿で取り上げた「比喩表現」は、文章構成との関わりで論じられる時、「比喩表現が作り出す感情文脈、イメージの流れ」という観点を用いるにとどまっていた。そして、文章の構成のメインストリームを形成する要素というよりは、サブストリームを形成する要素としての研究であった。
詩作品において、「比喩表現」が構成のメインストリーム(ストーリー・プロット以外のものも視野にいれて)を形成する要素の一つであるのは、「比喩表現」が持つサスペンスの機能によるものである。逆にとらえなおしてみると、「比喩表現」に限らず、文章中でサスペンスの機能をもつ表現の中には、構成のメインストリームを形成する要素になっているものがあるのではないかと考えられる。そのような表現を、われわれの心はとらえているのに、頭はとらえていないのではないかと考えられる。表題を「文章表現におけるサスペンスについて(1)」としたのは、(2) 以下で、それらを明らかにしていきたいという願いの現れである。