大阪教育大学キャンパスことば(16)
           ―若者言葉の中の外来語―
                        
                                 国語教育講座  井上博文
 
T.日本語の語彙としての外来語
 年の初めに「あけおめ」と書かれた年賀状が届いたと知らせてくれた人がいた。「あけおめ」は「あけましておめでとう」の略である。賀状はちょっとおすまし顔のよそおいで新春の朝に届けられる。そのいずまいを正した雰囲気が年の初めに似合っている。そこに普段の顔で「あけおめ」とやってきた。比喩的に言えば、敬語で話していた座談会で、いきなりタメ口でしゃべりだしたようなものである。若者言葉はとうとう「あけおめ」まで進出した。
 外来語は「外国語から自国語の体系の中にとりいれられた単語」(『世界大百科事典』)と定義される。日本語の語彙は語種の観点から、和語(やまと言葉・固有の日本語)、漢語、外来語、混種語に分類される。本来は外来語の一種である漢語は、古来より歴史的に日本語の中に取り込まれ、もはや日本語の血肉となっており、外来語から外して別格扱いしている。日本語の文章の表記形態は「漢字仮名交じり文」である。日本語に取り入れられた表意文字としての漢字には音と訓とが備わっている。音は中国音をもとにした字音(中国語音から日本漢字音へと日本語化した)、訓は意味の一致・類似をもとに和語をあてはめて読む訓み方である。外来語と言えば主に西欧語、なかんずく英語からの借用語を指す。明治時代には西洋の知識を導入する必要に迫られ、新しい概念を表すために漢語による造語を行なったり、既存の漢語に新しい概念を盛ったりした。明治期までの知識人は漢語漢文の素養が豊かであった。敗戦後は外来語が幅を利かした。現在ではカタカナ表記の外来語ではなく原語表記の外国語がのしてきた。
 部分的に最近では「電子計算機→コンピュータ→電脳」と英語出自の外来語を押しのけようとする勢いの漢語も現れている。これも日本での造語ではなく現代中国語からの借用語である。日本語の造語力が低下している。ただ、日本語の位相語としての若者言葉の造語力は、その質を問わなければ、勢いを持っている。
 漢語の他に朝鮮語・アイヌ語などが入り、西洋諸国の言語から室町時代以降にポルトガル語・スペイン語、江戸時代になるとオランダ語、その後に英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語・イタリア語などが入ってきた。現在はアメリカ英語(米語?)の一人勝ちの状態である。日常口頭語としての方言の語彙に「標準語」にはならなかった外来語が取り込まれる場合がある。例えば、山口県瀬戸内海域・島根県の一部・長崎西部域などに朝鮮語のチング(ー)<仲の良い者>が用いられている。
 外国語でなく日本語の語彙としての外来語であるから、語形や意味は日本語の音韻、語彙構造、文法(構文法)の影響下にある。
(1)語形の問題 
 日本語の音節は原則として開音節構造(音節は母音で終わる)であり、閉音節構造(音節が子音で終わる)ではなく、子音が連続する場合には先行子音に母音が添えられ音節化される。したがって語形が長くなってしまう。語形が長いと不便なので、いきおい省略(短縮)される。また日本語の音韻にない音素は、原語での区別を失って日本語の近似の音韻を以て取り込まれる。老年層では殺虫剤のDDT(進駐軍の思い出と重なる語である)をデーデーテー、レーレーテー、リーリーチーと発音する人も多い。レモンティはレモンテーとなる。rとlの区別はラ行子音で、thとsの区別はサ行子音で同じく発音される。ところが英語教育などによって外国語(特に英語)に身近に接するようになった結果、日本語になかった音や組み合わせを受容してきた。外来音と呼ぶ一群の音である。例えばfilmをフイルムからフィルムと発音する者が増えた。この場合、意味の面で、写真のフイルムと映画のフィルムと言い分けることもある。
 原語のアクセントも変化する。例えば、果物のbananaはアクセント(無論、強さアクセントと高さアクセントの違いはあるが)の位置が異なってナナとなる。動物のgorillaは関西方言でゴラ、東京式アクセントでリラ、方言によってゴリラ(例えば熊本・宮崎)、ゴリ(宮崎県都城)と方言差もある。              
 「英語読み」という語が学生のレポートにあった。漢字を英語の発音で読むことである。そうすると従来の字音と訓読みに新しい読みが加わることになる。例えば「山」という字を「マウンテン」と発音する。英語のmountainをマウンテンとすれば、発音の面ですでに日本語化(古い言い方では和習)している。
(2)意味・用法の問題
 外来語は、原語の類義語や対義語などの意味構造から切り離されて日本語の単語に借入されるために、原語の意味・用法から逸脱したり別物になったりする。文体的な面はなおさらである。例えば、riceは稲・米・飯の総称である。日本語のライスは洋食の皿によそおったご飯に限定される。rice cakeが餅であるが、日本語のケーキの一種にするには違和感がある。しかし、大教の生協食堂で茶碗に盛ったご飯を注文するときライスという人が多くなったようでもある。意味が転義していく。
 語彙体系に組み込まれると使い分けがなされるようになる。例えば、別れの挨拶は、親しい者どうしではバイバイ(バイ、バーイ、バイビー、バイブー、バイチョー、バイバイキーン)で、フォーマルな場面では「失礼します」と漢語を用い、「さよなら」(これも「さならば」と漢語を含む。)は少しその中間的な場面で用いる。ついでに言うならば、言葉に付随する身体表現も違ってくる。
 
U.若者言葉の外来語(外来語的造語)
 従来の外来語は新しい事物、思想など文化の摂取・導入とともに入ってきた。現代の若者言葉に横溢する外来語は性質が異なるようである。言葉遊びの要素が大きく、事物や概念との結び付きが弱い。外来語そのものというよりは外来語を借りた新造語である。若者言葉の外来語を利用した造語は、新奇さ・目新しさが命であるために、ほとんどの語が短時間のうちに新鮮さを失って廃語になっていく。跡には累々たる死語の群がある。「ナウい」はすでにナウくなく、「ヤング」なんて口にする者はもはや若くない。外来語を造語成分として取り込んだチョベリバ<最悪!>は、チョベリグ<とても良い>・チョベリブ<とても悲しい>を派生させたものの、またたくまにあだ花と散った。ズックはスニーカー、プリンはプディングへと外来語のなかで交替が見られる。
 以下に聞き得た外来語(を含んだもの)のいくつかを品詞に分けて例示する。これらもまた日本語の語彙構造の表層でうたかたのように浮かんでは消えていく。助詞や助動詞、基礎語彙のなかに食い込んできたときに日本語が大きく変貌するときである。
(1)名詞
柏キャン<柏原キャンパス>、天キャン<天王寺キャンパス>
どたキャン<約束などを直前に取り消すこと>
レアもん<珍しい物>
パティー開き<スナック菓子の袋を皆で食べやすいように上下と背を開ける開け方>
マイブーム<自分のなかでの流行> ○今の私のマイブームは椎名林檎です。
メアド<メイルアドレス> ○今度、パソコン買ってーん。メアド、また教えてー。
ボンバーヘッド<きついパーマの爆発したような髪型>
いけメン<かっこいい男性> ○コンパしたらモリゴー(森田剛)みたいなイケメンがいてー。
トーク<語ること>、本音トーク<腹をわって本音で語ること、マジトークとも>
クリコン<クリスマスコンパ>
ゲーセン<ゲームセンター、遊技場> ○どこ行くー、プリクラとろーか、ゲーセン行くー。
一般ピーポー<一般の人、大勢の人> ○一般ピーポーは黙ってて。
(2)動詞
ゲットする<手に入れる、自分のものにする> ○彼女、ゲットしちゃえよー。
パニクる<どうしてよいか分からなくなること> ○昨日、レポート三つあってパニクった。
コピる<複写機で複写すること>、ダビる<ダビングすること>
セブる<セブンイレブンに行くこと>、デニる<ファミリーレストランのデニーズに行くこと>
パンる<パンを食べる>、ジュースる<ジュースを飲む>
キャッチが入る<電話中に別の電話が掛かってくること>
(3)形容(動)詞・副詞
アバウト<いい加減な性格> ○あの子、アバウトやなー。
ラブラブ<恋愛が順調なこと> ○あの子んとこ、ラブラブやなー。
ブルー<悲しい気持ち> ○昨日ふられて、超ブルー入ってる。
ラッキー<突然に舞い込んだ幸運。感動詞として用いることが多い> ○今日、三限、休講やってー、ラッキー。
ハッピー<幸せな心情、状態>
グロい<奇怪な状態> ○あの映画の場面、グロかったね。
キャパオーバー<能力の限界> ○レポート重なって、もう私、キャパオーバー。
ミラクル<あり得ないことが起こってしまうこと、瓢箪から駒>
マッハ<早いこと> ○もうアタシ待ってるから、マッハで来てー。
リアル<生々しいこと、現実的なこと> ○これってなんかリアルやなー。
〜チック<接辞。〜的> ○この服、イエモンチックやね。
 
V.しぶといぞ日本語
 一神教であるキリスト教の「God」を「神」と日本語に翻訳したために、伝統的な日本国の八百万の神々のお一人になった。本地垂迹という神仏同体説はすでに奈良時代に起り、「仏」はずっと早く神々のお一人になられた。クリスマスの喧噪を忘れたように大晦日になればお寺の除夜の鐘を心に響かせ、明くれば神社に初詣しおみくじをひいて神意を仰ぐ。お寺で柏手を打って手を合わせる若者も見るようになった。数珠を持って仏式のお葬式に参列し、家に帰れば玄関で塩でお清めをする。仏事の法事で親族が寄り集まり、教会での結婚式、七五三の宮参りで祝詞(のりと)を聞く。困ったときには「神様、仏様」と祈る。足らなければついでに十字をきってみる。ひそやかな心のうちを思い切ってチョコレートに託してうちあけるというはにかみを含んだ行為から、すっかりホワイトデーのお返しをにらんだ海老で鯛を釣る方式へ変貌したバレンタインデーのお祭りさわぎ。なんとも節操がないようだが、昨今の世界の宗教対立や宗教に名を借りた侵略を見るとき、このおおらかさもまんざら悪くはない。悪くはないが、知らぬ間になんでも経済活動に取り込まれお金を使わされるように仕組まれる。方言調査の途に、田んぼの脇のお地蔵様や小さな祠にひそやかに手向けられた野辺の花を見るとき、ふるえるようななつかしさを覚える。若者言葉の外来語を整理していたら、こんな情景がふっと去来した。国際公用語の英語が堪能でないと(実際上に必須の人は当然のことである。)、身をかがめて小さくなっていなくてはならない風潮が世を覆いはじめている。国際化の美名に節を曲げる。誰にとっての「国際化」なのだろうか。この国の山河、野や海、都市それぞれを生活の場として暮らしてきた人々のさまざまな歴史・文化を支えながら、連綿として展開してきた日本語である。なかなかにしぶとい生命力と可能性を秘めている。鍛え上げていくのは若者の権利であり義務である。
 
 
付記;澤田さん、石川さん、寒いなかたくさんの質問に答えてくれてありがとう。