葛城の里  為志神社 ― 飯豊天皇陵 平成16年11月23日 晴
 
式内小社為志神社
 
晩秋の葛城の風。櫨の朱色がひときわに冴える。屋敷山公園から飯豊天皇埴口丘陵までぶらりぶらりと小一時間ほど歩いた。新庄中学校の裏手の道を高田川沿いに東上。御県神社から道と交差し南下する。鍬を振り上げて畑打ちする老婦人が腰を伸ばす。大根の葉が青々とし、里芋の葉がしんなりと垂れている。再び道を東にとると、半透明に霞む飛鳥の山が正面になる。黄色くもみじした杜の為志神社に立ち寄る。御祭神は伊古比都幣尊。明治三九年の勅令寺社合併令によって明治四三年に廃社され、近郷の葛木坐火雷神社に合祀となるも、氏子の尊崇厚く、昭和五七年に社殿を再建し祭神を還して再興されたとのこと。土地の神々を合祀し統合することは、土地の歴史・伝説を奪うことになる。政治的な意味合いがそこにある。国譲り神話を思い起こしていた。それぞれの集団がそれぞれの神を斎き祀ることの意味を考えてもいた。刈田ごしに薄の穂の白波がゆれている。その向こうに、こんもりとした常緑の森に石の鳥居がにょきりと立っている。飯豊天皇埴口丘陵である。
 
飯豊天皇埴口丘陵
 
古事記に拠れば、雄略天皇の御子、清寧天皇の崩りし後、皇后、御子無きによって日継の王を尋ね求めたところ、市邊忍歯別王(いちのべのおしはわけのみこ)の妹の、忍海郎女(おしぬみいらつめ)、亦の名を飯豊王、葛城の忍海の高木の角刺宮(つのさしのみや)に坐した、とある。実質的に政務を執ったのであろう。針間国で見つけ出された意祁王、袁祁王、後の仁賢天皇、顕宗天皇の叔母である。御陵の松籟を聞く。南面の拝所にて拝礼。周の堀は濃緑の藻に覆われ、静に群れ泳ぐ鴨の軌跡が池面を切り割く。御陵を一周して近鉄御所線を渡る。国号24号を忍海方向に歩く。途を西にとり踏切を越える。葛城歴史博物館は休館日。なだらかな勾配の田の道を直上。湿田の枯れ蓮の葉ずれが乾いた音をこぼす。林堂新池の畔に立ち、日の入り際の堂々たる葛城山を仰ぐ。牛舎の前で一服する老人がこくりと会釈。県道30号に架かる歩道橋を渡る。大和棟の白壁がうす紅に照る。ひゅっと冷たい風が吹き下ると、みるみるうちに、凸に反る重厚な屋根の連なりが黒くなっていく。暮れなずむ間もない晩秋の葛城山麓は暮れた。