山城路  酬恩庵 一休寺   平成15年11月1日 天晴
 
一休寺
 
秋の盛り。昼下がりにぶらりと散策に出る。連れ合いと二人、洛南の京田辺市にある一休寺を訪れた。市役所前の駐車場に車を停めて、街中の国道沿いに歩く。古い構えの家が点在する。交通量は多い。くりくり坊主頭の子どもの一休さんを描いた看板を見かける。用水路が国道を跨ぐところに上りの坂道がある。そこを往くと、棚倉孫神社。棚倉孫神社の祭神は天香語山命(高倉下命)。創祀年代は不明であるが式内社である。現在の本殿は桃山時代の建物で、一間社流造。参拝。この神社には「瑞饋神輿」という、秋に収穫される26種類ほどの野菜や穀類で飾った神輿がある。この習いは明治中期頃にはじまり、昭和初期に中断したが、現在は再び有志によって復興され、隔年で10月10日に製作しているとのこと。田辺区域を巡行する。神輿は境内に展示されている。なにせ生ものであれば保存が難しいようだ。室内には、武者絵や孔雀図、人物画など江戸時代製作の大きな絵馬が掛かる。帰り際に、正装して宮参りをする家族に出会う。秋の神域の清浄さ。
 
棚倉孫神社
 
再び国道に戻り、一休寺の案内板にしたがって山手に歩いていく。畑の畦には、柿の木が茜色の実をたわわにつける。柿の葉はわずかに残るばかり。山が間近になれば一休寺の門前に至る。静かな佇まいである。このお寺はもともと「妙勝寺」という名である。一休禅師が晩年を過ごしたことで、「一休寺」との通称で知られている。鎌倉時代に臨済宗の大應国師が禅の道場を建立。後に元弘の戦禍を蒙る。六代の法孫一休禅師は堂宇を再興し、酬恩庵(師の恩に酬いる意)と名付け、後半の生涯をここで過ごした。禅師八十八歳で大徳寺住職になった折りも、この寺から通った。文明十三年(西暦1481年)十一月二十一日、禅師八十八歳の齢にて当寺で示寂され、遺骨は当所に葬られている。門を入れば、すぐに石畳の参道の脇に一休禅師墨跡碑がある。曰く、「諸悪莫作 衆善奉行」(諸の悪をなすことなかれ 衆の善を奉行せよ)。お釈迦さまのお弟子の阿難尊者の作と言われるものである。悪とはなんぞや、善とはなんぞや。少しつっこんで考えればわからなくなる。教条的ではなく現実に即するほどに判断停止に至る。複雑怪奇。迷いのまっただ中にいる、この身である。
 
一休寺の方丈庭園
 
拝観受付で拝観料四百円。苔の美しい小径を、一休禅師墓、虎丘庵と前を抜けて中門に至る。石の階段を少し下りて庫裏の玄関から入る。竈の焚き口が横にある。黒光りする板敷き。中年の男性が、やや段のある上がり口を上がる老父を介添えする。老父は土産売り場を覗こうとした。それを制して「冥土の土産は後で」と言う。傍の者は、こんな時にはちょっとばかし笑うしかないのかもしれない。順路に従い方丈を一周する。それぞれの間の説明書きを読む。方丈中央には、一休禅師木像が安置されている。うす暗さに目が慣れると、禅師がこちらを向いておられた。縁に結跏趺坐して方丈庭園を眺める。先ほどの老父と男性もまた並んで座り庭を静かに見つめている。彼らの中に流れてきた長い時間に他人は入れない。忖度することさえよけいなお世話なのだろう。秋の日は白砂を透明なまでに白くする。なにも考えなくなる。何かを感じていたが、それさえも忘れた。一巡し庫裏で抹茶をいただく。一休寺納豆入りの落雁の菓子が添えてあった。ほどよい甘味。ささやかであるが落ち着いた生け花。胡座をかいて一服。ゆったりとした時間の流れがここにある。子どもたちのはしゃぐ声が甲高い。展示されているアニメの一休さんのセル画に歓声を上げているのだ。彼らにとっては、これが自然な振る舞いである。名物である一休寺納豆を購入。冷蔵庫に入れないようにと注意される。常温でも6年間保存できるとのこと。方丈を去り、本堂と宝物殿を巡って少年一休像に対面。帰路に長年の風月で木材の虫食いが目立つ鐘楼に立ち寄る。三本杉の脇を通り、振り返りながら参道を帰る。お寺の前の公園で持参した握り飯で遅い昼食。燃えるような楓のもみぢ葉に見とれる。帰路は国道から逸れ、民家の路地を抜けて山の手の道。こうして小さな秋の散歩となった。