大和国 飛鳥の里 かんなびの郷 稲渕 平成16年5月29日 晴
 
稲渕の勧請縄
 
飛鳥稲渕宮殿跡を基点に、蜻蛉の飛び交う飛鳥川の流れに沿って稲渕から栢森まで歩いた。稲渕の棚田は、田植えの時期をひかえて、「マンガ」(水耕)がなされ、そこにがんぶりと水が引かれている。その田は、銅鏡のように、空の青と四方の山の新緑とを映していた。田の畦は泥で畦塗りされている。土手の斜面は草刈りが済まされて、まるで芝生を敷きつめたようだ。張り巡らされた水路を覗けば、縁を越えんばかりに鮮烈な水が流れつづける。刈られた青草の一片がさっと流れ去る。勧請橋に来ると、川の上に勧請縄の男綱が掛け渡されていた。さらに上流の栢森には、勧請縄の女綱が張ってある。陽物と陰物とをそれぞれが象っている。「カンジョ掛け神事」と言い、五穀豊穣と子孫繁栄を祈願し、川と道から侵入する魔を払う厄除けである。綱は正月11日に替えるとのこと。川石を積んだ石垣の迫る小路をゆっくりと抜けて、農家の庭先の花を眺め眺めして歩く。標示板にしたがい民家の軒先の小径を下ると、飛鳥川の両岸をつなぐ石の道である飛び石。流れは石に急かれて早む。万葉歌の石碑あり。「明日香川明日も渡らむ岩橋の遠き心は思ほえぬかも」(万葉集巻十一 二七〇一)。ギンヤンマが重爆撃機のように川面を飛翔していった。再び元の道に戻る。
 
南淵請安の墓のある神明塚
 
竜福寺の石垣の下をやや行けば、「南淵先生墓」と記した石柱が花に埋もれて立つ。ここから細道を集落の裏手の高台へ上がる。石の鳥居が立ち、立派な祠がある。祠の裏手に廻ると飛鳥川を見下ろすように、南淵請安の墓がある。請安先生は唐で学び舒明12年(西暦640年)に帰国した。大化改新の立て役者である中大兄皇子と中臣鎌足の二人は、周孔の教えを説く請安先生の塾に通い、その道すがらに、蘇我氏誅滅の計画を語り合ったという。拝礼して立ち去る。畑の畦を歩く。時折に山風が吹き抜ける。草いきれの畦道を下る。清冽な水の迸る沢に出会う。「命の水」という言葉が脳裏にはしる。関西大学飛鳥文化研究所の前を抜けて、かんなび橋に出る。道から岐れた杉木立の陰の涼しい谷川の端に腰掛けて弁当。もろい砂岩が流れに洗われて清浄な肌合いを晒している。川底の砂がかそやかに揺れる。川筋ぞいに飛んできた一羽のキセキレイが尾羽を振って石を叩く。
 
飛鳥川上坐宇須多岐比売命(あすかのかわかみにますうすたきひめのみこと)神社
 
岩奔る飛鳥川を見下ろしながら木陰の道を流れを遡っていく。飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社を示す石柱に出会う。そこから長い急な石段を登っていく。杉木立のもとを参道がぬう。ぱっと天井が開けて光がこぼれる。石の鳥居をくぐる。この神社は、明日香村稲淵と栢森間の宮山中腹に鎮座する。ご祭神は宇須多伎比売、神功皇后、応神天皇。宇須多伎(臼滝)比売命は飛鳥坐神社の裔神とされる。神社東方の大字畑には、「ウスタケ」の小字が残る。稲淵は皇極天皇が雨乞をした南淵の河上(「日本書紀」皇極天皇元年八月条)。神社の北方に南淵山がある。拝礼。拝殿の周囲を一周する。檜の板の香りが立つ。用心しつつ石段を下る。少し歩くと谷間に勧請縄の女綱が張ってある。悪疫除けの古習である。栢森の集落が見えだした地点から引き返す。吉野町との境となる芋ヶ峠までの心づもりであったが、暑さのための疲労で、ここで止めることにした。再び飛鳥川に沿う道を辿る戻り道。ジョギングをする若者に越される。一家総出の田植えをする水田もあった。勧請橋のたもとの「野菜売場」に立ち寄る。地元のとれたて野菜と加工品がならぶ。胡瓜と茄子の漬け物、おばあちゃんのお奨めの吉野大根の酢漬けをもとめた。朝風峠への道を半ば行って、田植え間近な棚田を見下ろしながら飛鳥稲渕宮殿跡へ戻った。農作業の合間の一服をする老人がこちらを眺めていはった。