葛城の里 柿本神社 平成16年11月14日 天曇
 
春楊葛城山にたつ雲の立ちても坐ても妹をしぞ思ふ(万葉集巻十一 二四五三)
 
柿本神社
 
林の道を踏めば、落ち葉がかさこそと枯れた音。旧新庄町の屋敷山公園から柿本神社まで葛城山下ろしの秋風に吹かれながら半刻ばかり歩いた。葛城山を背に負いながら東下。刈田の湿田や牛舎の間の道を近鉄御所線の線路に行き当たり北上。天照皇大神を御祭神とする神明神社に参拝。新庄駅を行き過ぎて柿本池。柿本川の流れを見て、二上山を逆さに映す群鴨の遊ぶ西室池。踏切を横切り人麻呂北橋からやや新庄駅側にとって返して、布袋葵の群生する川辺に坐して弁当。旧新庄町役場の南、新庄駅の北に柿本神社(しほんじんじゃ)が鎮座する。境内には十一面観音立像を御本尊とする柿本寺(影現寺)があり、鐘楼、本堂が建つ。神社の御祭神は柿本人麻呂。参拝。宝亀元年三月十八日の創建。拝殿の後に鮮やかな朱色の本殿がのぞく。社殿の左裏手に万葉歌碑と碑文、「柿本大夫人麻呂の墓」と記した墓碑とがならぶ。舞い散った落ち葉に埋もれるように。社伝によれば、宝亀元年石見で逝去した人麻呂の遺骸をこの地に葬り、その傍に神社を建立したという。柿本氏は和珥氏の同族。本籍地(本貫)は大和国添上郡櫟本の東、現天理市とされる。その分派が葛城山麓の柿本村に居住し、一族の氏神を祀ったのがこの神社であるとされている。人麻呂の生没年未詳、父母の名さえ不明。『続日本紀』に見える従四位柿本朝臣佐留は、人麻呂の父あるいは叔父かとみられる。彼には依羅娘子(よさみのおとめ)や「泣血哀働歌」に見える妻など複数の妻がいたらしいがはっきりしない。宮廷歌人として、天武・持統・文武の三朝に仕えて活躍した。和歌史上では、最初の詩の自覚者とされ、後に神格化されて歌神として崇められるようになった。鳥居の北側に、葡萄の実ほどの大きさの柿がなる「ぶどう柿」と呼ばれる柿の木がある。伝説では人麻呂が明石から持ち帰ったと云う。柿本神社と天満神社には毎年陰暦三月十八日に「ちんぽんかんぽん」と称する祭りがある。伝説によれば、依佐良姫という人麻呂の恋人は、柿本村生まれで、晩年同棲して柿本村で亡くなった。その墓は根成柿の天満神社の神苑内にある。両社の間には坑道が通じ、二人は死んだ後も通っていると伝える。
 
石の道標
 
人麻呂を祭神とする「柿本神社」は、全国に分布し、北海道から熊本まで二百数十社に及ぶという。「人麻呂」を「人丸」とし、「ひとまる」と読んで「人生まる」「火止まる」となり、開運・火難除け・商売繁盛・安産の神様として信仰を集めてもいる。歌聖たる人麻呂の相知らぬことであろう。時折に踏切の警告音が高く響く境内で、万葉歌人に思いをいたした。柿本神社を出でて西に向かう。天領であった新庄の格調高い町屋を縫う小径を左に右にと折れる。白壁に己の影を歩ませる。辻に立つ石の道標を読む。奈良・郡山、當麻、長谷寺、大坂・堺、吉野・壷坂、高野山へと岐れる辻である。葛城山を仰ぎながら道なりに行くと、葛木御県神社 (かつらぎみあがたじんじゃ)。延喜式神名帳に「葛木御県神社」とみえる。御祭神は、神天津日高子番能瓊瓊杵命、天剣根命の二柱。葛木県は、あの蘇我氏の本居という。歩道橋を渡って、前方後円墳の古墳のある屋敷山公園。秋のひとひを遊ぶ家族連れで賑わっていた。葛城の里の落葉の一片ごとに秋は深まる。