大和路 藤原京 畝傍山−橿原神宮  平成16年睦月15日 天曇
 
畝傍山
 
大和平野に冬の風が吹く。椿の蕾はもとのふくらみのまま。暮つ方の一刻に藤原京の一隅を歩いた。畝傍山を目印とする。まずは奈良県立橿原考古学研究所附属博物館を見学。旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、中世と発掘調査の出土資料を時代別に整理して陳列してあり、それの詳しい説明がなされている。出土した実物資料がたいへんな迫力で迫ってくる。じっと見つめていると、人物や馬の埴輪の目の奥の暗闇がそのまま古代に通じているような錯覚。じっくり館内を見学し、博物館から一歩外に出れば、現代の明るさに戸惑いと眩暈を覚えた。寒風に逆らいながら橿原神宮に向かって歩く。石の大きな鳥居をくぐる。常緑樹の生い茂る橿原森林遊園の中の参道。木漏れ日が斜光となって森林の薄暗に射す。神さびた神域。小川の流れが幽かな沢音が漏れ聞こえる。玉砂利を踏んで檜皮葺の外拝殿に向かう。社殿は畝傍山を背負って壮麗。あまねく日の光がそそぐ明るい境内である。御祭神は、神武天皇、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)。畝傍山の北東に神武天皇陵が比定されている。御鎮座は明治23年4月2日。外拝殿にて柏手を打って拝礼。幣殿の千木が天を衝く。『古事記』の神武天皇東征の条によれば、「故、如此荒夫琉神等(かくあらぶる神ども)を言向け平和(やわ)し、伏はぬ人等を退け撥ひて、畝火の白檮原宮(かしはらのみや)に坐しまして、天の下治らしめき。」とある。また、「凡そ此の神倭伊波禮毘古天皇の御歳、壱佰参拾漆歳(ももちまりみそぢまりななとせ)。御陵は畝火山の北の方の白檮の尾の上に在り。」と記される。御陵の位置は、『日本書紀』では「畝傍山東北陵」とある。ちなみに、畝傍山の北西部に綏靖塚、南西部に安寧天皇陵、南部に懿徳天皇陵がある。
 
橿原神宮
 
参道の脇から、標識にしたがって、畝傍山への小径に入る。緩い上り坂が続く。鎮守の宮の東大谷田女神社を拝する。そこからやや勾配がきつくなるが、やはり緩やかな上り道。羊歯や樫類のおのれ生えの小さな木を楽しみながら歩く。広葉常緑樹の明るい林。群生する野苺の赤い実が地を覆う。畝傍山を一周するように巻きながら道は続く。耕作地と家並み、その間を縫う道路が木の陰から透ける。標高199mの頂上に立つ。死火山である。耳成山は美しい円錐形の山容を控え目にそこにある。中大兄皇子の歌、「香具山は畝火ををしと耳梨と相争ひき神代よりかくあるらし古昔も然にあれこそうつせみも嬬を争ふらしき」(万葉集巻第一13)を呟く。畝傍山は男山なのか女山なのか、両説がある。木立が切れた合間より夕映えの二上山を拝する。帰途は落ち葉の積もった東斜面の急坂の道を下った。山陰で底冷えする。
 
大和三山耳成山
 
葛城山方向の道を帰り道とする。高取川を渡り新沢千塚古墳群の脇を通る。細い道に迷いつつ、国道24号線に至る。溜池の土手に枯れ薄の白い穂が風に煽られていた。鴨の一群れが泳ぐ。近づけば羽ばたいて水を蹴って池面を走って舞い上がる。大騒ぎだ。少しすると、また向岸から何事もなかったように水面を舐めるように泳いで戻ってくる。寒くはないかと問いかけてみる。すました顔で横切るばかりだ。振り返れば、落日の光線が葛城山系金剛山を包んで、すっと消えた。シルエットとなった幾重もの尾根が薄暮の里に緩やかに伸びる。焚き火の青い煙は、いつの間にか見えなくなった。