河内路 交野 星野妙見宮−星野神社  平成15年11月8日 天晴
 
交野の刈田
 
花壇の朝顔の蔓に青い花が咲いた。最後の蕾が開いたのだ。秋は深まった。正午まで読書し、午後から弁当を携えて交野の地の散策にぶらりと出掛けた。「交野」は現在の行政区画として交野市があるが、本来は枚方市を含めた広い範囲を言う。この交野の地は、王朝時代に平安貴族の狩り場であった。鷹狩りの名所である。伊勢物語の「渚の院」の段(第八二段)に、「いま狩する交野の渚の家、その院の桜、ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を下りて、かざしにさして、かみ、なかしも、みな歌をよみけり。」として、馬の頭(業平)の歌とて次の歌がある。「世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし」。この歌によって文学の世界で有名になった。この伊勢物語の章段を踏まえるかたちで、例えば、詞花集には藤原長能の歌、「霰降る交野の御野の狩衣濡れぬ宿かす人しなければ」がある。また、藤原俊成が歌合の場で詠んだ歌に、「またや見ん交野のみ野の桜狩花の雪散る春のあけぼの」(慈鎮和尚自歌合、新古今集に収録)がある。「桜狩」は、桜の花を観賞しつつ鷹狩をすることである。この歌の場合には桜の花を尋ね歩いて鑑賞することと解されている。
 
星田妙見宮
 
府道を抜けて、刈田の畦道をまぜながら歩く。脱穀した稲藁が積まれていた。どこからか懐かしい匂いが漂ってきた。籾すりした籾殻のくすぶる薫りであった。JR学園都市線の架線をくぐり星田駅まで歩く。星田駅前にあるロードマップを参考にして星田妙見宮への道筋を確認する。奥まで行けば「星のブランコ」と呼ばれる吊り橋に至る。街中を少しばかり歩く。星田小学校の脇を抜けて、やがて柿の実の茜色が美しい丘陵の道に出る。急速に新興住宅地化しつつあるが、まばらに田圃も残っている。星田妙見宮の標識を辿り、脇の井出に迸る清やかな水を眺めながら緩やかな坂を上っていく。横道に逸れて竹林と小さな果樹園の前を過ぎれば、天野川の支流の妙見川原にある星田妙見宮。鳥居の前に馬を象った石像があり、歌碑となっている。藤原秀能の歌、「夕付く日暮るる交野の桜狩り花に宿借る天の川風」(如願法師集)とその説明が彫られていた。当宮の御祭神は、天之御中主大神(神道)、北辰妙見大菩薩(仏教)、太上神仙鎮宅霊符神(陰陽道)である。平安時代の弘仁年間に弘法大師空海上人が私市にある獅子窟寺の岩屋で、仏願仏母尊の修法中に当霊山に七曜の星が降臨したと伝える。鳥居をいくつかくぐりながら深閑とした薄暗い参道を歩く。やがて長い石段を登って拝殿に至る。お香のいい薫りが香る。大きな巌にしめ縄が張られていた。横手の小径を行けば、稲荷神社、豊玉竜王と豊正竜王を祀る祠がある。再び住宅地に下りる石段で昼食。松林のこもれびと松の香に心がやわらかくなる。
 
星田神社
 
妙見川原を下っていく。畑の中に、多くのお地蔵様の姿を見た。義晴地蔵寺とのこと。室町時代の第十二代将軍足利義晴公の墓と、その奥方が敵味方の区別なく菩提を弔なうために篤く信仰したお地蔵様をお祀りしたものという。星田妙見宮の鳥居の前を過ぎて、桜の木のもみじを見ながら歩いていく。狭い路地に入る。焼いた板張りの塀や土塀、白壁がゆかしい。暮らしの伝統を感じる。路地が開けると星田神社。村の鎮守様である。御祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后。参拝。祭囃子がテープで流れていて、村祭りのような雰囲気であった。再び路地を抜けて帰る。交野の神社を尋ね歩き立ちて帰れば日は暮れかかった。こうして交野の中つ秋を歩く3時間のあまりの逍遥となった。