葛城古道 一言主神社−九品寺 平成16年11月28日 秋晴
 
葛城古道
 
葛城の古道に閑かに秋が深まる。妹背の二上山、その錦の山麓を抜ける。一言主神社から九品寺への葛城古道を小半刻ばかり歩いた。一言主神社参道を行く。自家の野菜を並べて売っている。一袋百円。目を上げると、神社の石垣の上に大銀杏の黄葉が炎のように天を指し、くっきりと楓の紅が映える。朱色の「一陽来復守り」の幟が石段沿いに立ち、冬至の間近さを想わせる。境内は賑わっている。参拝。神社の右手から九品寺へ通じる沢沿いの道を上る。山蔭の沢に透明な水が迸る。農家の庭先には、大和の吊し柿が藁縄に幾筋も吊されていた。いまだ柿の茜色を鮮やかに残し、まるで太陽が捕らえられ吊されているように見える。軒先には山の芋を置き売りする。一個五百円。道が再び下りになり、東に向かうと、一気に大和盆地が眼前に開く。農家の白壁越しに葛城山腹のもみじが陽光に燃え立つ。行き交う人ごとにかるい会釈。
 
一言主神社の大銀杏
 
小さな溜池を覆い隠すように葦原が繁る。道はそこを半ば巡る。葦の穂が銀色に波打つ。色づきはじめた柑子の木の脇から道はひときわ高くなり、刈田となった棚田の中を縫う。畦を見れば、レンゲと野スミレの花が点々と咲いている。小春の気候に時を間違えたのか。山際の畦に腰を下ろして弁当。この土の上を古代から人が踏んできたのかと想うと、ずんと、はるかな心持ちがした。檜林の手前に、くきりと石柱が立つ。綏靖天皇葛城高宮趾である。神武天皇と伊須氣余理比売との間の御子である。古事記に、「神沼河耳命、葛城の高岡宮に坐しまして、天の下治らめしき。」と見える。神武天皇崩御の後、庶兄の当芸志美美命の謀反を鎮圧した。木の間陰を抜けると、秀逸なすがたの大和三山が視野に収まる。畝傍山を中に、左に耳成山、右に踞るように天香具山。足下には棚田が重なり下り、散り残る秋桜の花が、時折にひとひら舞い散る。工事の為に干された溜池の堤に一羽の鶏が餌をついばんでいた。ハイカーのおばちゃんたちがチャボだと納得し合っている。見れば、烏骨鶏である。小声で烏骨鶏がいるとつぶやき傍らを過ぎた。お寺の石垣に道は当たり、緩やかな小坂を上る。脇の石造りの溝に清冽な水が走る。九品寺門前の六地蔵の祠が見えてくる。
 
九品寺山門
 
夕立に總だちとなる地蔵尊  夢想
 
真っ赤な楓につつまれた山門をくぐる。この九品寺は、僧行基の開基、空海が戒那千坊を創始、永禄年間に弘誓が浄土宗に改宗した。御本尊は、平安時代作の半丈六の、木造阿弥陀如来坐像。石仏の寺の名を持つ。本堂の裏山へ上がると、「身代り石仏」とも呼ばれる「千体石仏」がおいでになる。南北朝争乱の時代、南朝方の戦死者の慰霊のために奉納されたという。木洩れ日の中に、居並ぶ石仏たちよだれ掛けの赤が宗教的な空気を醸している。色づいた楓と椛のもみじ葉を透かし、漏れ降る陽の光の柔らかさに、心の底の荒立つものが静められる。お地蔵様のお顔が誰かに似てはおらぬかとのぞきこみながら小径を下る。本堂の屋根瓦がうねる。大和盆地がのびやかに広がる。扉の陰の仏様に黙礼。石段を下り、山門脇の西国三十三箇所札所巡りをする。白い長塀ごしに銀杏の黄葉が立ち上がる。小さな仏様の間を歩く。ただただありがたい。平安時代様式の池泉回遊式庭園の十徳園は次の参詣の折りにとっておくことにした。参道を下り帰途につく。帰りの県道脇に西吉野の柿を売る露店があった。みんな懸命に働いている。負けぬようにしなければ、お天道様に申し訳ない。