大和国 飛鳥の里 女渕―男渕 平成16年水無月13日(日) 晴
 
女渕
 
田植えを済ました水田に梅雨の晴れ間の透明な青空が映る。そこに白雲がつうっと流れる。畦道を歩けば、蛙たちが次々に田圃に飛び込んでいく。オタマジャクシが田底の泥に幾筋もの跡をつけて泳ぎ去る。ひょろりとした稲苗の先に青い蜻蛉がとまるたびに、水面まで苗がたわむ。彼が飛び去れば、軽くゆれて何事もなかったようにぴんともどる。谷風がさざなみをたてる。小波の底では田螺がゆっくりゆっくり這っている。栢森から、竜在峠に発する細谷川沿いの道を遡り、女渕、さらに上流の男渕まで逍遥した。全行程約2時間。ずっと谷川の清冽な水音とともに歩いた。栢森の入り口の、川に張り渡された勧請縄の雌綱。陰物を象る。いよいよ他郷に入り込むような不思議な心持ちがする。籠を背に負い、手に鎌を携えて畑に向かう途のもんぺ姿の老婦人が会釈して迎えてくださった。やや行って振り返れば山近くの畑で鍬をふるう二人のご老人の姿があった。子どもの時分、私の回りの大人の女性たちは、たいがいもんぺをはいて仕事をしていた。どの家の庭先にも洗い干されたもんぺが風に揺れていたものだった。なつかしい記憶に身をとらえられた。吉野町との境である芋ヶ峠への道と岐れて、集落の中を縫う小径に入る。
 
栢森の集落
 
飛鳥川に沿うかるい上りの道を辿る。石垣と白壁。そこに山風がさっと吹き下る。すでに廃屋となった家もある。せまる両脇の山の緑に呑み込まれそうに見える。川床の岩床を水がたぎり落ちる。水辺の青草がちぎれるほどに流れは早い。集落の裏手に出る。タチアオイの花が咲いていた。入谷へ上がっていく道と出会う。そこにぽつんとお地蔵様がござった。少し行けば棚田ごしに栢森を一望できる高みとなる。谷あいの村。畦道に腰を下ろして弁当。自転車で下ってきた若者と会釈する。緩やかな上り坂を歩む。やがて入谷への道と岐れる。谷の底の畑で草刈りをする人がいる。道が谷を過ぎてようやく山に入るところに女渕がある。田の畦を踏んで川に下りていく。光は両岸の大木に遮られて薄暗く、ひんやりとした空気が流れる。滝音のみ高い。異空間。淵に落ち込む白い水を見つめていると、ふいに異形のものが立ち現れて、いまにも引きずり込まれそうな気がしてくる。女渕の主は女神の竜神。淵は竜宮に通じるという。上流の男渕とともに雨乞に霊験が著い。明治時代末までは明日香村のあちこちで雨乞いが行われていた。日照りが続き水不足となれば、「ホーラクダブ、ハチマンダブ、男渕、女渕」などにそれぞれの集落で雨乞いの踊りを奉納したという。みんなで「タンボレ、タンボレ、雲に雫はないかな、雲に雫はないかな。」とお囃子をした。日本書紀に皇極天皇元年(642年)の条に、天皇が南渕の川上に幸して降雨祈願をしたことが記されている。
 
加夜奈留美命神社(かやなるみのみことじんじゃ)
 
杉木立の木洩れ日の道を辿っていく。陰と光とが交差する道である。沢音が静寂さに満ちた空間を満たす。たっぷりと水をたたえた羊歯の葉の茂る地面。洗い出されたごつごつした石がころがっている。ところどこの石垣を苔が覆う。道は橋を渡って右岸を這う。川は深い谷底となり遠ざかる。川音だけが足下より這い上がってくる。むらなす山の頂が林の切れ間から垣間見える。もえあがる杉林の若緑。杉林がこんなにも美しいとは。再び川と寄り添う。畑方面への道と岐れる。いよいよ鬱蒼たる杉林。林道。ここまで来ても水量は依然として豊かである。北の谷との岐れを過ぐ。間伐された杉林。「男渕」の標識を目印に谷に下る。僅かに差し込む一条の光に川底の石が透き通る。ここもまた異空間である。押し流されてきた木材にせき止められ岩と砂が堆積している。渕を見出せず。けれども清流のせせらぐ谷底のこの地には異なる力がこもっている気がした。再び林道を先に進むと道幅が狭くなり地道になる。小さな流れを渡る。源流近くに覚えた。ここから折り返した。帰途の下りは早い。栢森の裏手から村中に下りる小径の脇に加夜奈留美命神社が鎮座する。小さい石段を上り石の鳥居をくぐる。拝礼。摂社に九頭神社と宇須多伎比売命神社がある。水の神様。この神社の下手で二手から流れ下った川が一つになる。水はときに渦巻いて流れ下る。谷あいの村にはや夕暮れが近づく。山の頂きあたりに日の当たるところだけがあかあかと明るい。谷あいの村の夕暮れである。