紀州路 大和街道 粉河寺 平成16年4月11日 晴
粉河寺本堂
はや諸処の桜は散りがたになりぬ。春爛漫。華やかな陽射しが、あまねく降りそそぐ。葛城山系の斜面の山桜花は白い衣を払い捨てて若緑の葉桜となった。もはやその在処を知るには来春を待たねばならない。広島の友人とともに同行三人、紀州の粉河寺を尋ねた。葛城の山々の麓をめぐる道づたいに往き、高野街道の橋本市から西に下る。紀ノ川づたいの道は、和歌山と大和を結び、大和街道と呼ばれた。当初は「古南海道」との名であった。古くは御幸路であり、江戸時代には参勤交代の道として栄えた街道という。紀ノ川沿いの、ゆるやかな山の斜面は、その中腹まで果樹園となっている。耕して天に至る勢い。穏やかな風景のなかに、人のたゆまない勤労の厳かさがある。
おくれゐて恋ひつつあらずは紀の国の妹背の山にあらましものを(万葉集巻四544 笠朝臣金村)
(後に残って恋慕っているのではなく、紀伊の国の妹背の山のようにずっと傍にいたい。)
紀ノ川の河邊
歌枕「妹背山(いもせのやま)」あたりの紀ノ川の河原に下りる。妹山と背山とを紀ノ川が隔てる。昨夜の残りの飯をつめた弁当で昼飯。清流の寄せる瀬のもと、石に腰掛けてゆったりとする。角のとれた丸っこい石ころの河原。油菜の黄の花が咲く。急く川面に石を投げれば、波紋さえもすっと流される。川岸の公園は家族連れで賑わう。土地の物産を商う売店をのぞく。野菜や蜜柑類、漬け物や民芸品がならぶ。いづれにも生産者の個人名が記されている。その人がどんな人かは知らないが、誰が作ったのかはっきりしているので、安心感と親しみを覚える。はっきりと名前を書くことで、生産者に責任と自負心が生まれる。作り手と買い手とが、そこには直接には立ち会わないが、眼前の「物」を仲立ちに向き合っている観がある。ごまかしがない。一つ一つの手作りだから、品々は不揃いである。これがかえって好もしい。正確な規格を要求される工業製品ではないのだから。粉河町に至り、すこしばかし山手に入る。山伏姿の人をちらちら見かけると、西国第三番札所・厄除観音の粉河寺。この風猛山粉河寺は、紀ノ川中流の北岸に建つ古刹である。ご本尊は千手観音様。「粉河寺縁起絵巻」(国宝・鎌倉時代初期)がある。宝亀元年(七七〇年)に大伴孔子古によって開創された。鎌倉時代には大いに栄えていたが、天正十三年(一五八五年)の兵乱のために、堂塔伽藍と多くの寺宝を焼失した。威勢のいいおばちゃんがしきる門前の駐車場から歩く。
石畳の道と粉河寺中門
楠木の大木を仰いで見上げて、金剛力士の尊像が守る朱色の大門をくぐる。石畳と玉砂利の道。小川がゆったりと曲線をえがく。散りがたの桜花が風に舞い散る。その花影をくぐりながら、不動堂、童男堂を拝し、仏足石を見る。「風猛山」との扁額のかかる中門をぬける。ここに四天王を祀る。中門より振り返れば、雲のごとくに舞う桜花。茶店を過ぎて、石組みの日本庭園ごしに本堂を仰ぎ見る。地蔵堂の横には、「ひとつぬきてうしろにおひぬころもがへ」との芭蕉句碑がある。丈六堂を覗けば、丈六の仏様に射竦められる。小さな石段をあがる。六角堂、鐘楼を見る。ここにも古木の楠木が凛として立つ。本堂の階で、線香のけむりを手で仰いで身体にかける。本堂の中を拝観させていただく。蝋燭に火を灯す。仏様の前に座っているだけで静かになる。なんだかむやみに有難い。戒壇の神将たちがいまにも動きだしそうな躍動感で迫る。うす暗い堂内を一周する。飛騨の匠の左甚五郎作という虎の木彫りがある。まあ虎と言えば「虎」かなあと不埒な感想をもらす不埒者がいた。本堂の屋根にあがった鬼瓦を見つつ、裏手の小径を産土神社へ歩く。朱色と白の鮮やかな社殿。参拝。行者堂、宝形造りの千手堂を拝して、中門脇の茶店で休む。赤い毛氈の台に腰掛けて、甘酒とおでん。飲み放題のほうじ茶に麦飴を遠慮無なくいただく。置かれた麦飴が茶店の人によってだんだん遠くにもっていかれた。時折の風に桜の花びらがひらひらと舞い散る。穏やかな時の流れのなかに座る。門前にて山伏姿の一行の出立に出会う。背負ったリックが現代的だ。広島の友人を駅まで見送り紀州路の一日を終えた。