葛城古道 葛木坐御歳神社 平成17年3月20日 春分の日 天曇
 
御歳神社参道からの葛城山
 
葛木の小径に沈丁花の香りが流れ、そこここの畑に菜の花が群れ咲く。大和棟の塀ごしに白梅が香をはなち、たまさかに紅梅がのぞく。冷たい風のうちにも春のぬるみがある。金剛山に源を発する葛城川の東岸、御所市の御歳山の北麓に鎮まる葛木坐御歳神社を訪れた。この御歳神社は、葛城の地にある三鴨社の一つである。高鴨神社(上鴨社)と鴨都波神社(下鴨社)に対する中鴨社であり、「中鴨さん」と呼称され、稲の神・五穀豊穣をもたらす神様として尊ばれ親しまれている。国道24号線を水越道と交わる室の交差点を紀伊国方向へ少し過ぎて、小殿で左折する。曲折する小道を抜けると神社の石の鳥居に行き会う。参道を歩めば、右手に葛城山地がかぶさってくる。田畑と家並みが斜になった丘陵を金剛山に向かって這い上がる。いよいよ山の斜面に視線がぶつかるあたりに、高天原の高天彦神社が鎮座する。参道を歩む。左手に谷田。くずほれかけた土塀を支えるかたちで桜の古木が立つ。久遠の時の流れが刻まれているようだ。荒れた畑に梅が白く幕をひく。手水舎で陶器の水盤に湛えられた水を柄杓で汲んで浄める。この水を汲んできて清らかに保っておいでになる行為に有り難さを思う。投げ上げられた小石の積む鳥居をくぐり、石段を上がる。心の奥底にじんとくるものがある。拝殿が見えてくる。石段を登りきれば、拝殿の虚ろを抜けて本殿の朱色がのぞく。居並ぶ摂社。杉と檜の大木に陰となった境内は苔むし、静寂の中にある。春日造りの本殿は、天が開いてただに明るい。拝殿にて拝礼。御祭神は、御歳神(みとしのかみ)。農業神、五穀豊穣の神、万物育成の神であるという。古事記の大年神の神裔の条によれば、大年神と香用比売の子。若年神と同じく年穀を掌る神であり、祈年祭の祭神。相殿には、大年神(おおとしのかみ)、高照姫命(たかてるひめのみこと)がお祀りされている。拝殿の左右に摂社がならぶ。本殿に向かって左側に、味鋤高彦根命、高皇産霊命、神皇産霊命、天照皇大神が祭られ、右側に、事代主命、天雅彦命、雅日女命、一言主命が鎮まる。天つ神と国つ神である。
 
 
御歳神社本殿
 
御歳神祭祀の古伝承が、「古語拾遺」(斎部広成一撰 大同二年(西暦809年))に見える。この「御歳神」の段の構成は、「一(ある)いは、昔在神代に・・・・・・。是、今の神祇官、白猪・白馬・白鶏を以て、御歳神を祭る縁なり。」となっており、古伝承が今日の祭祀の淵源であることを叙す。御歳神の古伝承は以下のようのものである。
 
「大地主神が田を営る日に、牛の肉を農夫に食わせた。その時に御歳神の子が、その田にやってきて饗物に唾を吐きかけて帰り、様子を父親に報告した。御歳神は怒って、蝗(おほねむし:稲の害虫の総称)」をその田に放った。苗の葉はたちどころに枯れてしまい篠竹のようになってしまった。そこで大地主神は、片巫・肱巫に理由を占わせたところ、『御歳神が祟りをなしている。白猪・白馬・白鶏を献上して、その怒りを解くべし』と申した。教えにしたがって謝した。御歳神が答えておっしゃることには、『まことに私の意である。麻柄でカセヒ(糸巻き)を作って、それに麻をかけ、その葉で掃い、天押草(胡麻葉草)で押さえ、烏扇(檜扇)で扇げば蝗は出る。もしそうやっても出ていかなければ、牛の肉を溝口に置いて、男根形のものを作ってこれに加え、じゅず玉・山椒・胡桃の葉・塩を田の畦に散布しなさい。』と。その教えのようにしたところ、苗の葉は再び繁茂し稲は豊作となった。」
 
大地主神と御歳神との上下関係が明白。拝殿の板の間に据えられた小机の上にお供えが奉られ、古びた和太鼓が隅にある。柱だけの開けっぴろげの空間に風が抜ける。神域の清浄さが満ちる。自ずとしんと心が静まる。ふり返れば常緑の葉の間から葛城山の頂が透ける。参拝の帰途、旧新庄町のとある牛舎の前で、積まれた籾殻が焼かれていた。煙りながらちろちろと燃えるところに、ヒヨドリが群れ居て餌をついばんでいる。ついぞ焼き鳥になりはしないかと眺めていたが、彼らは時に羽ばたきながら、巧に火を避けて餌をさがす。不思議な光景であった。食を得ることへの執念とともに、その難しさを思い、同時に果敢に挑戦し工夫するすがたを見た。なんとかしなければならぬ時には、なんとかするものだ。いよいよせっぱ詰まれば、愚痴なぞ言う暇はない。春楊の葛城古道で、禽の所作を一瞥して、そんなことが心をよぎった。春弥生の一事を記す。