大和路 女人高野室生寺     平成15年7月6日  天陰
 
梅雨の季節。大和の古寺、室生村の室生寺を訪れた。開祖は役行者小角と伝えられる。高野山が女人禁制であったのに対して、室生寺は女人参詣を許していたので、女人高野と親しまれている。当山の五重塔は、平成10年9月の台風7号による大杉の倒木で損傷を蒙り、その後、平成12年10月に修復が完成し落慶法要がなされた。蘇った塔に会いに行きたいと願っていた。山は緑に窒息するほどに犇めいている。山ごとに木々ごとに緑は同じからずして、一本の木であっても一葉一葉に陰影を異にしている。時々の季節、陽光のあんばい、枝の揺れ具合によって瞬時瞬時にうつろう。そして人ごとに、そしてその折り折りの心持ちによってもまた変化(へんげ)の相を呈している。それはそうでありながら、さりながら木は緑。緑陰を吹き去り吹き来る涼風。ふいに我が名を呼ばれて、間を入れずに即答するような、ある刹那になにやら目覚める感覚がある。それが何であるのかを文字の上に表そうとするとするりと霧散し、強いれば論理矛盾に陥ってしまう不可思議な感覚の訪れである。室生寺の石楠花の花の盛りは過ぎていた。まもなく夏の暑さがやってくる。
 
室生寺五重塔
 
大野寺の対岸の磨崖仏を拝する。大野寺磨崖仏は、室生川の岸壁に線彫りされた総高14mほどの弥勒菩薩像。葦の茂る清流ごしに眺める。川音は高い。じっと仏様に向かっているといつの間にか川音が聞こえなくなる。ややあれば聴覚が戻る。川の中を見つめていると、魚影が走る。鮎。しなやかに泳ぎ去る。釣り人がいるなと見れば、一向に動かない。竹竿をもたせたマネキンである。滑稽さに哄笑する。川原で遊ぶ。深呼吸一つして立ち去る。梅雨で水嵩の増した室生川に沿う道を辿る。いくつもの朱塗りの橋を渡っていく。道に迫る両岸の緑。やがて室生寺に至る。山裾の斜面に集落が展開する。白い煙がたなびいている。山かいの村の風情。静かで穏やかな時間が流れている、と旅人は無邪気に思う。だけどもここの暮らしには、ここでの暮らしの、苦労がある。それでもここに暮らしの根がある。余所者もそのところに帰れば、もはや余所者ではない。それぞれがそれぞれに何ものかを背に負いながら主となる。それぞれに覚悟がある。土産物屋は川沿いの道にそって連なっている。
 
室生寺弥勒堂
 
朱塗りの太鼓橋を渡ると、表門に出会う。女人高野室生寺と彫られた大きな石柱が立つ。石組みの上に白い壁が続く。杉の大木がよい影をつくる。小石の敷き詰められた道を壁沿いに歩く。紅葉の葉から光がもれている。拝観受付(拝観料5百円)を抜けて右に進む。歩をすすめるごとに玉砂利がかすかに鳴る。正面に朱色の柱の仁王門。左に青色、右に朱色の身体の仁王様が憤怒のすがた。「上着シャツを腰に巻きつけての入山はお断り」の紙が貼ってあった。バン字池の蓮を見る。石楠花の葉ごしに鎧坂を見上げる。石段を登りきろうとする頃に、こけら葺きの金堂の屋根が現れる。金堂前庭の左手に弥勒堂がある。扉の開かれた堂内から淡い光がもれ出ている。目を凝らせば、須弥壇に弥勒菩薩立像が浮き上がる。吸い寄せられるように近付く。蝋燭の灯りに似せた両脇の小さな電灯に浮かぶお姿を拝する。その横には客仏の釈迦如来座像が安置されている。この仏様もうす灯りに尊いお姿が闇の中に彫りだされる。金堂に上がる。内陣には仏様が立ち並びなさる。釈迦如来立像を中心に、右側に薬師如来像、地蔵菩薩像、左側に文殊菩薩像、十一面観音菩薩像が慈悲深く静かにお並びになり、伝運慶作の十二神将像が躍動感に溢れるお姿で並ぶ。ご本尊の釈迦如来立像の背後の大きな板壁には、帝釈天曼陀羅図が描かれている。帝釈天はインドの古代神話の降雨の神である。なぜだか知らぬが、ふと十一面観音菩薩像に心が吸い付けられ身動きができなくなった。知らず自ずから合掌し礼拝する。
 
室生寺奥の院への石段(位牌堂からの俯瞰)
 
苔むした小さい石段を上がる。新緑の紅葉葉ごしに本堂(潅頂堂)。葵の御紋の幔幕が張られている。お香の良い香りがもれてくる。蝋燭一本に灯をともし供える。本堂の横の細長い石段の上に、五重塔が聳える。優美というか艶っぽい雰囲気がある。塔の相輪は、九輪の上に宝瓶を載せる。屋外に建つ五重塔では最小の塔。朱塗りの柱に白壁である。朱といっても渋い色合いである。お久しぶりと呟く。倒木した大杉の跡かと思う切り株を見る。山上の奥の院をめざして400段の石段を登る。賽の河原の無明橋を渡り、ところどころのお地蔵様に手を合わせる。息がきれると休む。しっとりと濡れた空気が身を包む。巌谷のお地蔵様。明るい谷を背景に黒いシルエットである。小石がうず高く積まれている。このあたりは暖性シダ群落地とのこと。鉄錆びた細い手すりに掴まりながら登る。脇に続く苔むした石板には寄進者の名前と住所が刻まれている。信仰の篤さを想う。じっくりと汗がにじみ、木の柱を組み合わせた位牌堂の結構を見上げると、奥の院、御影堂にたどりつく。蝋燭を供えて礼拝。位牌堂をめぐらす板張りの廊で休憩。涼風が吹き抜けている。座禅の真似事をしてみる。この頃の瑣事にとりまぎれるさまを振り返る。瑣事は瑣事ながらこれもまた我が事。そして驢事さらずして馬事至る。日日是好日。それでも愚痴の一つも呟くことはやむことはない。涼風はいつも吹いている。ゆっくりとした時の流れに身を置く。下山の途に、二体のお地蔵様に蝋燭を供える。うす暗がりにぽっと灯がともる。烏の鳴き声を真似、口笛にてうぐいすの忍び音を出す。鶏の時を告げる声をいだしたら、天狗に憑かれたと評された。さもありなん。天魔のしわざよ。
 
天神社
 
金堂前庭まで下り来る。古びたお堂ごしに小さな祠がのぞく。天神社である。神々しい空気につつまれて清澄な光があった。太鼓橋を渡り返して室生川の上流に向かう。駐在所を過ぎ、野草を並べる店をのぞき、橋を渡る。郵便局の前を少し行きすぎると、道から逸れて小橋が架かっていた。この橋の上で昼食。握り飯と牛肉のしぐれ煮、それと玉子焼き。川音の高さを聞き、揺れる竹林を眺めて時を過ごす。引き返して、よもぎ入りの回転饅頭を楽しむ。これはうまい。川の見える無造作な休憩所でほおばる。土産物屋を冷やかして葛湯を購う。あいかわらずに室生川は流れている。針インター近くの温泉が、設備の不調で休館であったため、温泉を逃したのは残念。またの機会に寄ることにしよう。広島の友人は無事に帰った。こうして七夕近いひと日を楽しんだ。閑話休題。室生寺のそこかしこに、演歌歌手田川寿美の「女人高野」という歌のポスターが貼られていた。どんな歌なんだろうか。