西ノ京 薬師寺−唐招提寺−垂仁天皇陵   平成18年11月4日 晴
 
 
 
刈田ごしの垂仁天皇陵
 
 
平城の都の西ノ京を、薬師寺から唐招提寺を経て垂仁天皇陵までの径を往復した。名高い二つの大寺は、境内には入らずに、門のところから、中を覗かせてもらっただけである。秋篠川の堰堤に出て北に歩き出す。なんだか走りたくなればずんずん走る。すぐに息切れがすると歩く。薬師寺の東塔が大和棟の屋根越しに見える。農家の白壁に吊された褐色の玉葱。秋篠川は藻で緑色になっている。目を凝らすと鯉が泳ぐ。釣り糸を垂らすおじさん。西に道を入れば、唐招提寺の前に至る。古びたみやげ物店が並び、おばあさんたちが呼び込みをする。が、多くの観光客は素通りする。門前は入場券を求める人の列が長い。中を見ると、普請中らしい。ここは、聖武天皇の御代に渡来した鑑真和尚の建立なさったお寺。和尚のお顔は日本史の教科書でお馴染み。踏切を渡って北に道をとる。線路沿いをゆったりと歩く。大根の葉が青い。民家の庭に花梨の実が黄色く垂れて下がる。渋柿が木いっぱいになってあかね色に燃える。小坂を上ると、御陵が見えてくる。道脇の畑で里芋の葉がゆらりとゆれる。若い母親が幼児をあやす。なんちゃって制服を着た女子高生が鞄を提げて急ぎ足。稲藁を立てた刈田の向こうを普通電車が走り去る。白い砂利を敷いた道が伸びる垂仁天皇陵の壕に出る。石の鳥居の立つ正面で拝礼。垂仁天皇は第十一代。こんもりとした御陵の森。水際の一本の木に鵜たちが群がりとまっていた。壕の東にぽっかりと小さな島がある。垂仁天皇の命で常世の国に不老不死の果物を探しにいった田道間守(たじまもり)の墓という。壕の端の松の木の緑が鮮やか。お壕の横の道をどんどん北に歩む。おばあさんたちの一群に出会う。道は誰でも歩ます。あれがいいこれが嫌いだとは言わない。ただ黙って通すばかり。せせこましいことはない。尼ヶ辻駅に出る。寂しげな尼ヶ辻駅の横手を抜けて少し北に行けば、車の頻なる阪奈道路。くるりとそこから踵をかえす。自転車の溢れる地元のスーパーに立ち寄る。いなり・巻きずし・鯵とウインナーのフライを購入。地元のスーパーはおもしろい。なんだかわくわくするものだ。垂仁天皇陵の裏手の畑の畦道をすいすいと歩む。刈田の畦に腰を下ろして昼飯。うまい。のんびりとした時間。刈り取った大豆が稲掛けに掛けられ干されている。里の秋の風景。
 
 
 
唐招提寺の西脇
 
 
ひょいひょいと畦道を抜けて、民家の軒先をご免こうむりながら、再び線路を越えて唐招提寺前に戻る。旅の情緒をかもす店の点在する小道を薬師寺に向けて歩く。くずほれた土壁のある屋敷。門の屋根で鬼瓦が睨む。薬師寺の近くに奈良漬け専門のお店があった。いろいろな野菜を漬け込んだ奈良漬けがずらりと並べられて、それを勝手に試食できるようになっている。この際だから(どんな際?)片端からつまんでみた。胡瓜や瓜は定番、生姜や柿、西瓜とメロンもある。おやおや、セロリまで漬け込まれているぞ。あれ、ここにはニンニクが丸ごとに。素材の種類の違いばかりではない。漬け込んだ年数の違いもある。入れ替わりに訪れるお客さんに紛れるように食べている。売り子さんが寄ってくる。こんなにあると迷いますねってとかなんとか言いながら作業をすすめる。端から端まで食べてきて、あることに、ふと、気づいた。みんな「奈良漬け」の味がする。古いものほど素材の違いを超越している。そして、ずいぶんと喉が渇くものだ。お茶を所望するほどにまだあつかましくはない。薬師寺を門前から覗くと、東塔が黒くそびえている。なかなかにいい。これが白鳳の姿か。この薬師寺は、藤原京から平城京遷都に伴って移築されたものである。度々の兵火や天災で創建時の伽藍はたいがいが失われてしまった。現在は伽藍の再建が進められている。新しい伽藍はそれはそれでいいものだ。鮮やかな色合いは、このままにいにしへの人々が信仰の対象にしたものなのだろう。多くの日本人にとって、お寺は信仰の場でなく、文化財・観光資源となりはてた。薬師寺に隣する鎮守社の休岡八幡宮に参拝する。閑かな社。いったん秋篠川まで出て、再び西に歩みをとる。畑や民家のなかを過ぎながら、薬師寺の西にある大池をめざす。大池は小高い丘の中腹にあり、万葉集に詠まれた勝間田池と言われている。霞む若草山を背に、金堂・西塔・東塔が望まれる。池面に水鳥たちが波紋を立てる。水面をわたって風が吹く。平城の地にいるのだという感覚が襲う。道路にそって大池の半周を廻る。下って上り返してまた下り、薬師寺の裏手に戻る。駐車場の前に品のいいお店がある。わらび餅を求める。抹茶ソフトにも心惹かれたが、やっぱりわらび餅だ。注文すると、店頭のおばさんが出来立てを持ってくるからと、奧に走り込む。やや時間がかかる。店先には行列ができた。蜜ときな粉をたっぷりとかけてくださった。とてもいいものをもとめたような取り扱いをしてくれた。思うに、端的にはその物を買うのだが、実はそれを買う一連の応対行為が含まれている。同じ品物であっても、それをどういう雰囲気で手にするのかによって、品物自体の価値が上下する。丁寧に扱えば丁寧な物であり、ぞんざいに扱われた物は下品な物と化す。人は心を持っている。
 
 
 
大池ごしに薬師寺の塔
 
 
垂仁天皇陵の壕の堤に、もみじした桜葉の下で、薄が風にゆれていた。どうでもいい人にはどうでもいいことだが、薄(ススキ)と茅(チガヤ)は、そのすがたかたちが、よく似ている。二つを並べてみると、その違いはありありだが、それぞれに別個に眺めると、おうおうに混同しがち。しかし、私は間違わない。そんなに堂々と宣言するほどのことでもなく、別段に自慢している訳ではない。どうして間違わなくなったかと言えば、両者を取り違えたために、子どもの時分に、痛い目にあったからである。薄の細長い葉は格好の遊び道具であった。葉っぱの芯の硬い部分を残して柔らかい両側を少し剥いて左手に持って、もう片方の手で柔らかい二筋の葉を勢いよく引っ張れば、反動で硬い芯の部分が、前方にすいと飛んでいく。「薄鉄砲」とでも言うべきもの。これを茅でやって、ざっくりと手を切って以来、よくよく注意するようになった。植物の葉は、ちょっとした拍子で鋭利な刃物のように切れることがある。昨日の文化の日は大学説明会で出勤。親御さんだけが来ていたり、高校生本人よりも熱心に質問するようになった。そんな時代と言えばそんな時代である。HPやパンフレットでは分からない大学の雰囲気を実際に知るには、いい機会になる。知識的なことは重要である。一方ではその場に身をおいてこそ感じる感覚的なもの直観的なものも大切である。ある場に身を置くことで、言語化することはなかなかに難しいけれども、それが故にいかんともしがたい身体的で頑固な把握をすっとすることがある。その意味で将来の学びの環境にあらかじめ訪問することは無駄ではない。見合い結婚でも写真と実際のお見合いとでは違うことが普通であろう。何事も、どうでもいい人にはどうでもいいが、どうでもよくない人には、なかなかに大事な差異がひそんでいるものだ。大和の国の西ノ京を歩きながらなま臭い事を考えていた。秋のひとひ、天平・白鳳の時代の風に吹かれた(ような)歩きとなった。いつの世も穏やかではなかったろう。