大和路 香芝の里 大坂山口神社  平成15年12月28日  天晴
 
香芝市二上から二上山雄岳と葛城山系を望む
 
師走の中つ頃に河内国枚方市から大和国香芝市に居を移した。小庭の鉢に氷が張っていた。浮かべていた山茶花の花も凛とする。氷の中に、くれないの花と葉の緑はひときはあざやかであった。鉢の底の金魚は動かない。ただ時折に目玉をくるりとまわすばかりだ。鉢の氷が溶けた午後に散策に出掛けた。二つの大坂山口神社をめざす。丘の中ほどにある家から二上の方向に坂を下り、中和幹線に行き当たる。少し東に向かい、在所の集落の小径に入る。石垣や土塀、焼いた板壁の狭間に縫う道をゆっくりと歩む。新興住宅街に囲まれるようにして逢坂の在所がある。その中心に神社の杜に守られて逢坂大坂山口神社が鎮座する。神社の前の道は往古の伊勢街道である。鳥居をくぐる。白い幣が掛けられた石づくりの狛犬。逢坂大坂山口神社の御祭神は、大山祇命、素戔嗚尊、神大市比売命。近世には牛頭天皇社と称した。本殿は三間社流造の檜皮葺。拝殿にて拝礼。拝殿と社殿との間に、亀に似た巨石を傍らに伴い、樹齢数百年の白樫の大樹があるという。ご神木なり。神社の南東には「祝部」の旧跡が残る。現在は民家の庭の中にあり。古事記の崇神天皇(御真木入日子印恵命)の条に、疫病が流行した折りに天皇の夢に大物主大神が顕れて、意富多多泥古(おほたたねこ)を以て我が御前を祭らしめたならば疫病は起こらず国は穏やかになると告げた。そこで早馬を四方に遣わして意富多多泥古を河内の美努村(みののむら)に探し出した。彼を神主にして御諸山に大三輪の大神を祭らしめた。また伊迦賀色許男命に命じて天の八十平瓰を作り、天神地祇の社を定めた。「又宇陀の墨坂神に赤色の楯矛を祭り、又大坂神に墨色の楯矛を祭り、又坂の御尾の神及河の瀬の神に、悉に遺し忘るること無く幣帛を奉りたまひき。」(『日本古典文学大系』による)、こうして疫病はおさまり世の中は安らかに平らいだ、と見える。また日本書紀崇神紀九年三月の条には、「天皇夢、有神人、誨之曰、以赤盾八枚、赤矛八竿、祠墨坂神。亦以黒盾八枚、黒矛八竿、祠大坂神。」、同四月の条には、「依夢之教、祭墨坂神、大坂神。」とある。
 
逢坂大坂山口神社
 
近鉄大阪線二上駅南口から西へ歩く。集落ごしにこんもりとした杜が見える。小径を行けば穴虫大坂山口神社の鳥居の前に至る。古からの幹道であった大坂越えの一つ「穴虫峠」の位置にある。この神社は延喜式内社であり、御祭神は、牛頭天王、八幡、春日の諸神。当社の牛頭天王信仰は、近世には広く知られ、かつて廃寺となった祇園宮寺があった。奉納宮相撲が有名で「馬場のお宮さんの相撲」として秋の例祭には賑わったという。石段を上がる。鹿の絵や唐人の絵が掛かる絵馬堂をくぐり、また石段を上る。常磐の緑に覆われた小高い丘の中腹に、三間社流造の社が建つ。神さびた空間。拝礼。電車の走る音が風音の中に聞こえた。
 
穴虫大坂山口神社
 
鳥居から右手に曲がり井戸の横の小径を辿る。電柱の標識を見れば、「香芝町」と表示されている。市制以前のままなのだろう。小さな谷田の畦道を上りきれば二上山が現れる。小路を折り曲がりながら古風な土塀づたいに歩く。一つの角を折れる。しゃぼん玉が庭から路地にあふれ出てゆらりと舞っている。幼い子どもたちの歓声が路地裏にいっせいに響く。近づきしゃぼん玉の空間をくぐる。見ると姉らしき子どもがさかんにストローを吹いてしゃぼん玉を吹き出している。年端のいかぬ弟妹はしゃぼん玉をとらまえようと両の手を宙に伸ばしては前後左右に跳び回る。姉らしき者は、そのはしゃぐ姿を眺めながらなお無数のしゃぼん玉を飛ばす。そのふくらました頬は林檎色であった。二上郵便局の横手から国道165号に出る。絶えず二上山の雄岳が眼前にある。田畑越しにけぶる畝傍山とその背景にゆったりと伸びる飛鳥の山々の夕暮れを見つめる。近鉄大阪線下田駅の近くのお肉屋さんでハムカツを買って道の脇のベンチで頬張る。こうしてこの日は大和の国の住人となってのはじめての里歩きとなった。西国から大和国に入る道の関の位置にあった大坂山口神社二社に参拝した。挨拶がてらの香芝の里の小散策。