かぐや姫の里 讃岐神社 平成17年4月3日 晴
 
 
広陵町竹取公園の竹林
 
昨年よりやや遅い桜の開花。諸処の桜が咲き出した。お宮の桜、お寺の桜、公園の桜、学校の桜、道端の桜、川沿いの桜、溜池の堤の桜、民家の庭の桜、山の桜と里の桜。をちこちそこここに咲く。少々の風には散らない。鵯が花をついばみに枝々をゆらす。花のさそいにいざなわれて、かぐや姫の里の広陵町の讃岐神社を訪ねた。馬見丘陵公園から南に歩くと、すぐに竹の繁る讃岐神社に至る。源を葛城山系に発して併行して北流する葛城川と高田川がやがて合流し、大和川にそそぐ。その地域に広がる馬見古墳群。その古墳群の最大の巣山古墳の傍に鎮座する。ざっくばらんとした開けっぴろげな空間。延喜式に載る古社である。御祭神は、「三代実録」元慶七年の条に「正六位上散吉大建命、散吉伊能城神」と見え、社伝によれば、「大国魂神、倉稲魂神、大物主神」を奉祀するとのこと。また、広瀬大明神と称するのは、大物忌神と同神の広瀬坐若宇加之売神の分霊を勧請して祀つたことに因るという。手水舎にて浄めて、拝殿にて拝礼。本殿は拝殿の格子から垣間見えるばかり。拝殿のほの暗い内を覗けば、あまたの絵馬が掲げられている。絵馬のうち別保管の三十六歌仙偏額六面が有名である。平安時代初期に書かれた「竹取物語」は、讃岐神社の讃岐造をモデルにしたという伝承がある。「竹取物語」の冒頭部に「名をば、さぬきのみやつことなむいひける」とある。「みやつこ」は「御臣」で、郷の長の意である。「さぬき」は「讃岐・散吉」の字を当てる。南に延びる木陰の参道を踏み閑かな池の端を通る。鳥居を抜ける。
 
 
 
讃岐神社
 
三吉集落を抜けて、今池の端を過ぎ、御陵伝説地(新木山)という大きな前方後円墳の横を西に向かう。緩い坂を上りきり二上山が眺められると、復元整備された三吉石塚古墳に出会う。斜面が石葺きで、頂上に円筒埴輪が並べられている。千五百年ほど前に造られた帆立貝式古墳である。古代にあって古墳は、自然と融合したものではなく、周囲から浮き立った人工の建造物であったことがわかる。頂上に立てば、葛城の地が広がる。風が鳴り渡る。古墳の全体を見れば、なるほど帆立貝の形である。真美ヶ丘ニュータウンの整然とした街を俯瞰しながら、古墳のある在来の集落との境の道を北上する。現代と古との狭間を歩くようだ。子どもたちの歓声の響く竹取公園の縁を過ぎる。竹林の暗がりを抜ける竹垣の小径があった。黙してくぐれば異界とつながる不思議な感覚が襲う。「もと光る竹」は見出せず。元の道に再び出て、日の照る現世に戻る。花々の香の漂う馬見丘陵公園の西縁を経て、西日に重なり合う屋根瓦のにぶく光る佐味田集落を抜ける。小道の岐路に、注連縄が張られた石に榊が供えられ、二道大神が祀られていた。くさぐさの桜に嘆息しながら馬見丘陵公園に戻る。