大和路 香芝の里 志都美神社  平成16年元旦 天晴
 
延喜式内 志都美神社
 
謹賀新年。新しき春を迎えた。焚いた白豆と黒豆、田作り、蒲鉾、味噌仕立ての雑煮、あり合わせの材料で急遽拵えた煮しめ。まさに「質実剛健」のお節料理と御神酒少々。ほろ酔い加減にて、延喜式内志都美神社に初詣に出掛けた。家から歩いて10分ばかりの所だ。畑の残る在所の道を辿り、武烈天皇傍丘磐坏丘北陵の横を過ぎれば、志都美神社に至る。参拝者の暖をとる焚き火の青い煙が立つ。一人のおばあさんが来る人来る人に新年の挨拶をする。賽銭箱の前に押し車を据えたままである。曲がり気味の腰をさらに幾度もかがめながら曰く、暖かい正月であること、旧年のお礼、どこかへ出掛けるのか、子どもが大きくなったことへの驚き、今年もよろしくとの言葉、を云う。のどかな元旦の風景。そのおばあさんの傍らで逐一にメモを取るのも奇態なことである。志都美神社は、弘仁四年八月九日の創建。御祭神は、天児屋根命、中筒男命、誉田別命である。本殿は江戸時代中期の建立で三間社流造。元禄年間に盲目の僧が境内に湧く清水で目を洗ったところ霊験があったとの伝承によって、「清水八幡」と呼ばれたこともあったという。境内の石鳥居や手水鉢に「清水八幡」と刻まれている。清水山明王院が神宮寺として、明治時代に神仏分離令の出されるまであったとのこと。神社の社叢は、椎の木を主体とした照葉樹林で、長年人の手が入っていない。北にある武烈陵の樹叢と一体になっている自然林である。県指定天然記念物である。拝殿にて拝礼。境内をめぐって各摂社に拝礼。本殿の裏手には、明治13年8月に流行したコレラによる犠牲者が皆無であったことへの感謝の記念碑がある。絵馬殿を覗くと、物置然とした中に、立派な絵馬が掛かっていた。
 
太子道から武烈天皇傍丘磐坏丘北陵を望む
 
神社参道を歩く。参道入り口の右脇に石の歌碑があった。万葉集(巻七十一・九)「片岡の向う峰に椎蒔かば今年の夏の陰にならむか」。「片岡」は香芝市志都美あたりから王寺町にかけての地域である。日本書紀の推古天皇十五年秋七月三日の条に、「小野妹子を大唐(隋)に遣わし、鞍作副利を通訳とした」との記述の後に、「この年の冬、倭国に高市池、藤原池、肩岡池、菅原池を造った」とある。この「肩岡池」は、現在の「籏尾池」もしくは「分川池」の前身と推定されているらしい。これもまた日本書紀の推古天皇廿一年十二月一日の条に、皇太子が片岡に遊行した折りに、飢人が道の辺に倒れていた。名を尋ねたが答えはなかった。食べ物をお与えになり、自分の衣裳を脱いで飢人に掛けて、「安らかに眠れ」と言われた。歌に、.「しな照る、片岡山に、飯に飢て、臥せる、その旅人哀れ、親なしに、汝生りけめや、刺す竹の君はやなき、飯に飢て、臥せる、その旅人哀れ。」とおっしゃった。(後略)、とある。神社の前の小径は「太子道」と呼ばれる。斑鳩の法隆寺から大坂府太子町に至る道である。田圃と在所の家との間を縫っている。コンビニでアイスクリームを買って、普請中の道の端に腰を下ろし、霞む二上山を眺めながら食べた。こうして今年の歩み初めとなった。