山辺道 崇神天皇陵−景行天皇陵 平成17年1月29日 天曇
 
景行天皇陵東からの大和三山と葛城山系
大和国の神奈備である三輪山を仰ぎつつ、崇神天皇陵から景行天皇陵まで小半刻ばかり歩いた。この道のりは、山辺道のほんの一部である。寒気団の狭間にあって、風はぬるんで春先のやさしさであった。老松を見ながら、崇神天皇の御陵の拝所へ石段を登る。常緑樹にこんもりとした御陵を満々と水をたたえる濠が囲む。鴨たちが群れなす。小島には鵜が休む。閑かな時につつまれる。崇神天皇は第十代の天皇。御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいにえ)、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)。古事記の崇神天皇の条に「御陵は山邊の道の勾の岡に在り」とある。天皇の御代に疫病が起こり民が死に絶えようとした。大物主大神のたたりであることを神夢に知る。意富多多泥古(おほたたねこ)を以て神主となし、「御諸山に意富三和の大神の前を拝き祭りたまひき」(古事記)。また、物部連祖の意迦賀色許男命に命じて、「天の八十毘羅訶を作り、天神地祗の社を定め奉りたまひき」(古事記)。宇陀の墨坂神に赤色の楯矛、大坂神に墨色の楯矛を祭り、坂の御尾の神、河の瀬の神にことごとく御幣(みてぐら)を奉りなさった。これによって疫病は終息し国は平安になったと云。少女の童歌によって、山代国に在する伯父の建波邇安王(たけはにやすのみこ)の謀反を知り鎮圧した。この御代に、いわゆる四道将軍を遣わして東国を平定したという。神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)の第一代天皇の神武天皇もまた「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」である。崇神天皇は、神々の祭祀と軍事的統治の両面をもって実質的に倭の国を治めたのであろうか。御陵の壮麗さは、古のことへもの思いにふけさせる。
 
 
崇神天皇陵
 
濠をめぐる堤の縁をたどって裏手に出る。静まる水面の向こうに葛城の山がのぞく。櫛山古墳の下の小径を過ぎる。農夫婦が大和柿の木を手入れする。やがて仕事じまいして、農夫は切り倒した木を肩に担いで小径をたどる。けむる奈良の国中(くんなか)の暮つ方の風景のなかにとけこむ。途は白壁の古家の脇を抜けて渋谷集落の上手を抜ける。道の脇に一匹の小さな犬がいた。控えな目をしてこちらをちらちらと見る。そのしぐさにぐっとくる。清らかな水が溝をかけ下る。一片の大根の青葉が流れ去る。冬。庭先に吊された洗濯物がはためく。三輪山が目の前にある。ふり返れば竜王山が覆い被さる。山から畑が迫ってくる。畦の斜面に朽ちかけた黒っぽい小屋がぼつんとある。古の仮廬のような風情気ぜわしい時の流れに置き去りにされたようだ。
 
 
三輪山を望む
枯れ草色の中を、ぼんやりと歩いていると、景行天皇陵の裏手にあたる。濠の色は薄墨色。ここには一羽の鴨がいるばかりだ。御陵を回り込むと、暮れなずむ大和盆地に出会う。草を焼く白煙に家々が霞む。耳成山と畝傍山とが折り重なる。はるかに葛城の山が青む。御陵を一周して鳥居前に出る。大帯日子淤斯呂和氣天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)こと、景行天皇は、第十二代天皇。古事記の景行天皇の条の大半は、子どもの小碓命(倭建命、日本武尊)の事跡(西征・東伐・薨去・子孫)が記されている。「御陵は山邊の道の上に在り」とある。草を踏んで御陵の辺を廻る。やがて国道に出る。景行天皇陵の脇に「飛鳥ルビー」という品種の苺を売るお店があった。隣接したハウスで収穫し直売する。この苺は、大粒で、甘くとろけるような香りがして食すればさくっと甘い。勇んで戸を開けようとしたら、売り切れの札が貼ってあった。残念。鳥居の前で御陵を拝する。老松の緑がさやかである。国道沿いにわずかに行けば「天草ちゃんぽん」という手書きの看板が見えた。立ち寄る。お店は普通の民家。戸惑いながら引き戸を開けて、テーブルの並んだ座敷に通る。女主人は熊本は天草出身とのこと。薫製玉子入りのちゃんぽんを注文。太めの麺に味噌仕立てのスープ。なかなか青にならない信号機を畑帰りの老農婦とともに待ち、少し坂を上って再び崇神天皇陵の前に戻る。