宇陀の里 墨坂神社 平成18年11月19日 小雨
墨坂神社
うまい鰻を食いたくなる時がある。もちろん、うまいカレーやトンカツ、ラーメン、秋刀魚、新粉の蕎麦、贅沢を言えば、焼き蟹や鯛の刺身、すき焼き、もろもろに唐突に食べたくなる時がある。だが、今は鰻だ。身を持ち崩すほどの道楽におぼれているわけでもなく、帰宅途中に居酒屋に寄って一杯やるということもない。(単にお金が不如意だけの話だが)。これといった取り柄もなく、いてもいなくても気にされず、考えてみればどこにでもあるようないくつかの気がかりなことを除くと、ありがたいことに、諸事ころがっていく。東天に朝日を拝み、昼間は精一杯に仕事をさせていただいて、西方のあかね色の夕日に見とれ、夜空いっぱいの星のきらめきの下に帰宅する。少々の読書と書き物。雨が降れば清められた木々に見とれ、風の吹く日は雲の早さに嘆息する。夏には、暑い暑いと嘆き、冬には寒い寒いと言っても詮ないことを口にする。いろいろと不平不満も人並みにあり、愚痴をこぼしては言わなければ良かったと後悔する小心者。でも、そんな平々凡々の暮らしがしごく気に入っている。でも、たまさかに、うまいものにうっとりしたい。新生の宇陀市の近鉄榛原駅から少しばかり西寄りに歩いたところに、それはそれはうまい「櫃まぶし」を食べさせる鰻屋さんがある。ここは人気のお店で、食事どきには満席になる。櫃まぶしは、木の櫃から小さな茶碗によそいながら小分けして食べる。ちょうど3杯分。一杯目はそのまま、二杯目は葱と海苔、わさびをのせて、三杯目はいよいよ出汁をかけたお茶漬けにする。出汁はいりこの香りがほどよい。いくらお茶漬けが美味とはいえ、三杯ともお茶漬けにすると、つまらない。段々にそれぞれの味をふまえる方が、最後までおいしい。隣の席の若いカップルがいきなりお茶漬けにした。止めようとしたが、やめにした。食べ方は好きずきだし、他人様に言うことでもなし、まして一見のおじんがうんちくを垂れても見苦しいかろう。黙っていた。二人は勢いよくうまいうまいと食べ始めたが、案の定、女性は二杯目半ばで力尽きた。もう食べられないと男性に残りを渡す。まんざらでもない顔で彼氏はうけとる。それはそれで微笑ましい。うらやましくはないぞ、馬鹿野郎。(つい、取り乱しました。失礼)。ここは注文してから鰻を焼き始めるから、しばらく待つことになる。この間、胆煮を頼んでおくと、それが早めに来るので、苦にならない。今日は白菜の漬け物をサービスしてくださった。旬のものはこれまたうまい。鰻で満足の後に、榛原の街を抜けて、古事記に逸話のある墨坂神社まで歩くことにした。雨は小降り。駅前から南下して宇陀川に出る。ずんずんと川沿いに川下にすすむ。まわりの山は紅葉の盛り。それが雨に濡れて鮮やかだ。吹き流しが二本立つ、朱色の橋が見えてくる。墨坂神社の下で橋を渡る。川岸を曽爾高原に向かう道を辿る。遊歩道が尽きるあたりで橋を渡り引き返して対岸。ほんのちょっとだけと歩き出したらずいぶんと距離を歩いた。すっかり体はぽっかぽっかになる。風があたってももう寒くない。橋のたもとで赤い鳥居をくぐる。寄贈の石柱の銘を読みながら、神社への石垣の坂道をぼったりぼったり上る。小坂の途にある祓戸神社に拝礼して穢れを祓う。神水で心身を清める。なんだかすがすがしい。境内に入ると、朱の柱に白壁の、横に広がる社殿がぐっと迫る。本殿は春日造。ご祭神は、墨坂大神(天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、大物主神)。鎮まる神に拝礼。境内末社に祭られる神々に拝礼。横手にすすんで、竜王宮(罔象女神)に詣る。祠の前の、冷たく透明な水をたたえる小池に金魚らが泳ぐ。波紋の中に金属の光沢。香芝市の逢坂神社と対になる墨坂神社を訪れることができた。鳥居の間から、宇陀川の上面に、大和富士の異名を持つ額井岳が雨にけぶる。この山は、三峰からなる「山」の字の姿である。すっくりと天をさす山姿は、まことに「富士」の名にふさわしい。川に遊ぶ鴨や、川面にぽつりと立ったまま動かない鷺を見ながら帰途つく。水かさが増した川面に樫の黄葉が、なにがしか急ぐように、流れ去った。