大和路 葛城古道 高天彦神社−橋本院  平成15年睦月10日 天晴
 
高天彦神社と白雲峯
 
高鴨神社から橋本院を経て高天彦神社まで葛城古道を歩いた。同行三人。葛城の山々は冬の風の中に凛として聳える。その山麓の棚田と在所の家々の間を縫う道を辿る。東に吉野の山は重なる。飛鳥の里をはるかに眺める。「葛城王朝」のことを考えて歩いた。この道を歩けば、行き詰まることなく、どこまでも広がっていく感覚が襲う。こんもりと静まる高鴨神社の杜を後にしながら歩き出す。諸処に立つ道標を頼りにする。伏見の集落を過ぎる。朽ちかけた厩を見る。家の木戸口を抜けて、橋本院への山道に入る。山田の畦道を伝いながら、やがて檜と杉の林の暗き小径を上る。鮮烈な水のほとばしる沢を渡る。ただちにも掬って飲める清らかさ。命の水の尊さを思う。水底の砂が幽かに動く。
 
橋本院
 
薄暗がりの林を抜けると、一気に視界が開ける。橋本院の伽藍がそこにある。穏やかな威厳のある構え。背筋がぴんと伸びる。この宝宥山高天寺橋本院は、金剛山中腹の高台に建つ格式の高いお寺である。街道ぞいの人里と隔絶した静かな佇まい。石垣と白壁の塀の道を伝って山門に至る。橋本院付近の水田地帯一帯の高原台地が高天原。なるほど天孫降臨の「高天原」の伝承地の趣きである。わくわくする。山門を少し過ぎると万葉歌碑がある。「葛城の高間の草野早領りて標刺さましを今そ悔しき」(万葉集巻七 一三三七)。大意は、「葛城の高間の草野を早くわがものにして、しるしのシメを立てればよかったものを、(遅れてしまって)今こそ後悔される」(『日本古典文学大系 万葉集二』 252頁)。標を立てるのは神との契約の印しとのこと。しばし佇みて刈田ごしに橋本院の屋根を眺める。冬枯れの紫陽花の居並ぶ清浄な小径を高天彦神社をめざす。老杉の大木のひとむらが、家の屋根越しに見えてきた。脇の溝には透明なせせらぎが奔る。倉のある堂々とした屋敷が並ぶ里である。かつては「高天千軒」と呼ばれるほどに栄えた地であるという。金剛山にかかる陽の影が長くなってきた。
 
高天彦神社
 
細い道を辿って高天彦神社の脇に至る。蛙の形をした大石がでんと座る。幸せを呼ぶという蛙石である。幸せを祈りつつ頭部を撫る。高天彦神社は、高く天を突く老杉の参道の奥に鎮まる。荘厳。御祭神は高皇産霊尊。葛城一族の祖神を祭る。幾社かの摂社が居並ぶ。苔むす境内。古社の風格。神々に柏手を打って参拝。参道に立って、杉の大木を仰ぎ見る。何かが一直線に天に届くような感覚があった。振り返って、ほの暗い参道の老杉の隧道を通して社殿を見る。神社の背景に、白雲峰が鋭くせり上がってくる。御神体である。高天彦神社の前の畑の脇に「鶯宿梅」という梅の木がある。標識に記された謂われによれば、高天寺の小僧が若死し、その師が嘆いた。梅の木に鶯がきて、「初春のあした毎には来れども、あはでぞかへるもとのすみかに」と鳴いた。そこで、この梅を鶯宿梅と呼ぶようになったとのこと。この日は鶯は鳴かなかった。初音はまだ先。天彦神社参道の手前には蜘蛛窟がある。大きな土蜘蛛がすんでいた所という。天皇の勅使が矢で殺して土蜘蛛を埋めたと伝わる蜘蛛塚もある。「土蜘蛛」というのは土着の先住民のことであろうか。神武天皇が、カツラの木で編んだ網で、反抗する土蜘蛛を捕らえたという伝説から「カツラギ」という名前が生まれたと言われる。林に入る。舗装された急坂道をどしどし下る。檜と杉の林を抜けると、吉野の山々が明るく靄の中に霞む。大和盆地が広がる。棚田はどこまでも下方に続く。道の脇には轟々と音を立てて清流がたぎり落ちる。街道筋まで来ると、まるで下界に降り立つような心持ち。点在する溜池の脇を通りながら、わいわいと冗談を言いつつ、やがて高鴨神社に戻る。こうして、冬の日の小散策を終えた。陽は金剛山の陰に隠れた。たたなづく葛城の山の稜線がくっきりと見えた。放生池の鴨が静かな池面に長い軌跡をひいて横切った。