大和路 当尾の里 −石仏を尋ねて−  平成15年11月22日 天晴
 
三体わらい仏(永仁七年、西暦1299年)
 
無性に仏様に会いたくなる時がある。悉皆仏性とは言っても煩悩まみれの者には皆目分からない。そこにおいでの仏様に手を合わせて仏に祈る。平城の都から山一つを越えた当尾の里を尋ねて、ひそやかに時を刻んできた野の中の石仏を巡り歩いた。秋色の里であった。住宅地の整地がすすむ奈良市郊外を抜けて、京都府加茂町に入る。刈田の丘陵を眺めて当尾の里へ向かう道に曲がる。浄瑠璃寺の駐車場に車を停める。駐車料金300円。良心的な料金である。岩船寺をめざして歩き出す。少し先には、赤い唐辛子や土地の農産物を商う露店がある。老農婦人がちょこんと座って軽い挨拶をくれた。帰りに寄ることを告げる。坂を下ると石仏めぐりの小径が車道と岐れる。自然石をくり抜いた愛宕灯籠が立つ。古風な倉の石垣の間を抜ける。行儀のいい犬が庭先に座ってこちらを見ていた。田の脇の小径。清らかな水の流れを辿る。棚田の奥の竹林が風に揺れる。東小田原寺跡を左手に見ながら、杉林の木の下陰の上り坂を行けば、唐臼(からす)の壷の三叉路。そこに一つの巌に二尊。舟型後背に定印の阿弥陀如来座像、その左側の岩肌に地蔵菩薩像がおいでになる。手を合わせる。雑木林に風がわたる。
 
弥勒磨崖仏(文永十一年、西暦1274年)
 
そこから谷田沿いに山道を上る。林の岩肌に一鍬地蔵。前の田には稲藁の束が立ててある。こぼれた小屋の中に脱穀機が朽ちていた。在りし日に発動機の轟音を伴って活躍していたのだろう。再び下って、道しるべの標識にしたがい、陽の光で黄金色に輝く樫の木の黄葉を眺めてながら、一汗かくと三体笑い仏に至る。花崗岩の大岩に、微笑みをたたえた三体の仏様がこちらを向いておいでになる。左脇に蓮台を捧げた観世音菩薩座像、右脇に合掌した勢至菩薩座像、真ん中に浄土への来迎を示すお姿の阿弥陀如来座像。岩の下には、身体を土中に埋めて胸から上だけをのぞかせた眠り仏もまた微笑まれる。ここに立つだけでこちらもにっこりした笑顔になる。がやがやと賑やかに中年女性の4人連れに追い越される。楽しそうだ。右手下に荒れて草むした棚田を見ながら、さらに上る。生駒の山並が見えるところで弁当。谷風が吹き上がる。木の葉が裏返り山全体がごおっと鳴る。岩船寺南口バス停まで歩けば、そこに小川を隔てた岩壁に弥勒磨崖仏。笠置寺の弥勒磨崖仏を写したものである。真っ赤な櫨のもみじの小枝。
 
岩船寺
 
大きな木の根本の地蔵様を拝して、その横から山中の小径に入る。緩やかな上りの道。熟柿となった柿の林。空中に赤い灯火が浮かんだようだ。藪を背負った巌の壁に三体地蔵がおいでになる。そこだけ西日が差し込んで、仏様が浮かび上がる。山道に積もる枯葉を踏む。降り積もった枯葉は柔らかく踏み音はしない。木の枝の風を切る音だけが聞こえる。孟宗竹に覆われた堀切の道を下れば、岩船寺の裏手を抜けて門前の参道に至る。土地の農産物と加工品を売る小店が連なる。梅干しや漬け物がビニール袋に入ってしつらえた棚に掛けられている。一袋100円。梅干しを買って缶の中に百円硬貨を入れると、大根畑で農作業をする老婦人が「オーキニ アリガトサン」と声を掛ける。岩船寺の門から三重塔を覗き見る。はっとするその鮮やかさに息を呑む。境内には立ち寄らず。門前の茶店にて、日野菜の漬け物と胡瓜の古漬けを求める。日野菜の根の紫の色がなんともゆかしい。胡瓜の古漬けは水に浸けて塩抜きをするようにと付言される。奥の床机に腰掛けて草餅を食べる。番茶とともに醤油と黄粉。焼きたてで柔らかく、蓬の香りが立つ。車道を少し歩いて、山道を竹藪に下る。ざわざわと竹葉がさわぐ。薄暗い。ひんやりとする。不動明王の磨崖仏と出会う。厳しいお顔でにらみつける力強い姿。どきりとする。礼拝。ざわざわと竹葉はさわぎ、竹は軋む。時に枯竹の折れる音がこだまする。この斜面には四方の谷風が集まる。
 
大門仏谷(阿弥陀磨崖仏)
 
同じ道を上り戻して石仏めぐりの小径に戻る。八帖岩を過ぎる。林に吸い込まれる脇道に入る。椎茸のほだ木が朽ちている。野苺の赤い実をつむ。口に含めば甘酸っぱい。道には竹が生えて、もはや使われていない道となってしまったことがわかる。かつて里山に張り巡らされていた小道は、里山の利用が減ってしまい、もとの林に戻ろうとしている。わずかな道跡を辿って農家の裏手にやっと出る。藪の中地蔵の手前から道標にしたがって大門仏谷への道に逸れる。土壁の家。庭先で蕪大根の土を洗う作業をする老夫妻に会釈。蕪の白さが冬の近さを思わせる。首切地蔵に拝する。当尾の在銘石仏で最古の阿弥陀石仏(弘長二年、西暦1262年)。人家が途絶えて寂しい道を少し歩くと、大門無縁仏。わずかに光がさす静寂な空間に、たくさんの石の仏が居並んでいる。向かいの神社に参拝。大股で下っていく。山中のいくつかの農家の軒先を通り過ぎる。車道から逸れて谷田に下る道をとる。下りきろうとする刹那、杉の幹の間から、いきなり阿弥陀磨崖仏が現れる。西日に照らされて、くっきりとその存在を示す。湿田の畦道を歩き、そのお側に寄る。礼拝。丈六の仏様である。堂々たる風格に圧倒される。去りがたい思いに振り返りつつもとの道に戻る。少し歩くと、大きな楓の紅葉ごしに谷を隔てて再びお姿を拝することがかなった。
 
浄瑠璃寺(九体寺)本堂
 
道はやがて平坦になる。畳のように広がる刈田。稲藁の束が田の中一面に立ててある。まるで埴輪のような風景。芋を保存する土に掘られた室。少年の研修施設の山の家を過ぎる。バス道を浄瑠璃寺に向けて上りはじめる。辻の堂焼け仏、たかの坊地蔵、西小無縁地蔵、長尾阿弥陀仏を拝しながら緩い坂道を歩く。途中の茶屋は既に閉店。夕暮れ間近の風はずいぶんと冷たい。ほてった身体を適度に冷ましてくれる。薄の穂は白い。人声がし出すと浄瑠璃寺の駐車場に至る。趣のある小さな参道を歩き山門。古刹浄瑠璃寺の境内に一歩身をおけば、おだやかな時間が流れている。池畔をめぐりながら、池面に影を写す三重塔、本堂を拝する。本堂の正面に立つ。少し開かれた明かり窓を凝視する。すると、阿弥陀如来の慈顔がうすぼんやりと浮ぶ。がさつな心もこの瞬間に静まった。こうして冬の訪れを控えた秋の穏やかな日に、当尾の里の石仏に出会う三時間あまりの里歩きを終えた。帰り道に寄ると約束した露店の老婦人、立ち寄ると、既に閉店していたので約束を違えることになった。次には真っ先に寄ろう。