信濃国 白馬岳―朝日岳縦走 平成17年 盛夏
 
冷涼な風に吹かれて大雪渓を渡り、白馬岳から朝日岳の稜線を縦走し、蓮華温泉まで下った。雪渓と雪田、乾性と湿性の高山の花々の咲き乱れる、日本一の花の道を堪能した。自然の華麗さに嘆息し、歩きの辛さに呻吟した道のりとなった。前日から日本海に前線が停滞し、天気予報は曇りから雨であった。降水確率60%。幸いなことに山にいた3日間は概ね晴天。白馬連山の壮大な景色と繊細な草花に見とれた。しかしながら、一日一日の歩行距離と時間が大きく、日に照らされ、己の体力の限界を思い知る山行きであった。全行程で歩きやすい道であったが、疲労と油断で用心さを欠けば、危険な道と化すことを身をもって学んだ。登山を楽しむためには、事前の十分な体力づくりと、行動中の注意力・集中が大切である。このことは、山歩きのいろはであって、あまりにも当たり前のことであるが、そうであるが故になおさらに怠ってはなるまい。用意周到の大事さを再確認。思い込みや予断に拠らない。臆病に臆病に。
 
朝日平からの雪倉岳・白馬岳・旭岳の残照
 
大阪難波のOCAT集合。職場の同僚で先達のYさん、初参加のHさん、連れ合いの四人。Yさんが非常食を渡すと、Hさんは「おやつ」は持ってきたと応える。「さわやか信州号(信州白馬方面)」3号車に乗車(9:50)。4号車まであった。リックから転がり出たYさんの朝食のおにぎりを踏んづけたまま、車中に一泊し、明朝に白馬村着(5:20)。ロイヤルホテル前でバス降車。少し休憩した後に、白馬駅まで歩く。リックの重さが肩にかかる。駅前は猿倉行きのバスに乗り込む登山者で賑わう。簡易アイゼンを並べた登山者相手の店がすでに開店していた。割り勘でタクシー利用の方が安いので、タクシーに乗り込む。ミズナラとカラマツの林を縫う狭い舗装道をぐんぐんと上がって猿倉到着(6:00)。30台ばかり駐められる駐車場あり。諸準備をして出発。山荘の脇から樹林帯に入る。しばらくすると工事用の砂利道に出る。右脇に白い筋をひく白馬沢の音を聞く。風はべとつかない。霧に隠れた小蓮華山の尾根が時折に姿を見せる。向かいの斜面に流れ下る金山沢を眺め、道を横切る追上沢を渡ると山道になる。「トイレは御済みですか?白馬尻を過ぎるとトイレはありません御注意ください」との看板。雪渓のただ中でもよおしたらどうしようと不安になる。ま、その時はその時だ。白馬尻到着(7:05)。白馬尻荘の前で朝食。買っておいたサンドイッチが団子になっていた。白馬尻出発(7:30)。灌木の間を少し歩くと、白い帯が谷に広がる。大雪渓。ひゅうっと冷気がくる。アイゼンを装着し、長袖のシャツを着る。大雪渓歩行開始(7:40)。紅ガラで歩く道筋が示されている。が、蟻の行列のように登山者の筋が一列になっているので、人の流れにまかせて歩く。
 
大雪渓
 
こわごわと足を雪渓にのせる。滑るようであるが、意外としっかり氷を踏む。歩きやすい。平坦なようでも、かなりの勾配。見知らぬ人のお尻がちらちらする。ときどきずるっと滑る。休めば、後ろがすぐにつまる。前がつまって速度が遅くなるとうれしい。頭上からの日と雪面からの照り返しで谷全体が光る。振り返ってどれだけ登ったか確かめる。杓子尾根の険しい山肌が迫る。しだいに雪渓が細くなる。葱平(9:30)。一息つく人たちで混雑。アイゼンを外す。谷底から黒い霧が這い上がり追ってくる。雨にはなってくれるな。枕木を利用した道を上る。急斜面を花を楽しみながらぐんぐん登る。小雪渓の横を通る。雪渓を横切る人もいる。単独行らしい老人が話し掛ける。たいぶ疲労している。なんでも息子夫婦と来ていて、彼らは先に行っているらしい。単独行ではなかった。ありがちな若い頃からの山自慢をなさる。でも、年相応の山登りがかえってかっこいいではないか、と聞いていた。老人を置き去りにするような登り方はどうだろうか。
 
葱平
 
左右の斜面にお花畑が広がる。汗が噴き出す。じぐざぐと登る。休憩する人で混雑する避難小屋(10:40)。紫の小さな花を眺めていたら、青年がイブキジャコーソーだとを教えてくれた。そんならと屈んで匂いを嗅いでみる。それらしい匂いがしたが、麝香そのものの匂いを知らないので、判然とはしない。傍らのおばさんもつられて真似をする。中年二人が青年に低頭捨身の丁寧な礼をする格好になった。上方に宿舎の赤い屋根が見えてくる。なんだかうれしい。ゴールが見えると疲れがやわらぐ。もうすぐこの登りも終わり。両斜面に咲きあがる花々を励みにしながらのんびりと登っていく。村営頂上宿舎(12:00)。さっそくにビール。小腹が減ったので、名物の白馬の豚カレー(800円)。ついでに牛コロッケ(100円)。大きな雪田の横を登り稜線に出る。ゆったりとした緩い坂を上がれば、白馬山荘(13:10)。背からの風が身体を押してくれる。雲が早く流れて、眼前の杓子岳と鑓ヶ岳、旭岳が見え隠れする。
 
杓子岳と鑓ヶ岳
 
身を風に吹かせていたら、身体が冷えてきた。中2階の部屋に入る。汗を濡れタオルで拭き、着替えをする。さっぱりとして外を散策。七交替の第一番目のちょっと早い夕食(16:30)。食後に山荘の裏手を少し登る。大雪渓を見下ろすと、たまさかに白い霧が切れ、深い谷底が口を開く。杓子岳の斜面が険しい襞をつくる。白馬岳は黒霧の中。さっと晴れれば切り立った岩稜がそこにある。山荘のレストランでワインとウインナー。一人畳半畳。Yさんと同じ掛け布団で寝る。布団はかなり湿っている。種々の鼾を子守歌に寝る。この山荘の在り方について、余計なことだとは思いつつも、少し思うことがあった。登山者は「物」ではなく「人」なのだ。下界のようなもてなしや贅沢は求めない。ただ、もうちょっとの工夫があろうか。人が多いのは、けっして山小屋の魅力でなく、白馬連山自体に魅せられたからなのだ。そんなことを思っていたら眠りに落ちた。
 
白馬岳からの立山・剱連山
 
起床(3:30)。清涼な朝。東天に爪形の月が光る。日の出を拝するために、白馬岳の中腹へ。雲海は低い。東空の一点が、だんだんにうすい茜色からオレンジの輝きとなる。登山者の顔の輪郭がくっきりとしてくる。のっこりと日が出る。朝食(5:15)。並んだ順番で食べる。諸準備の後に白馬山荘出発(6:20)。昨日は雲に隠されていた立山や剣岳が遠くに眺められる。軽く歩いて白馬岳頂上(6:40)。西方を望めば、黒部峡谷を隔てて、剣・立山連峰がはるかに連なる。北方を見れば、これから歩みゆく雪倉岳と朝日岳が遠くに重なり合う。東の眼下には、登ってきた大雪渓と白馬沢の白い流れを見下ろす。足が震えるほどに深い切れ込みだ。転がれば一気に谷底まで落ちていく。
 
 
白馬岳から三国境への道
 
小蓮華山を見やりながら、露岩帯の馬ノ背を辿る。山稜を越えていく。砂礫に咲くコマクサの花を見つける。滑りやすい道を下って三国境(7:20)。小蓮華山への道と岐れる。登山者が二手に分かれていくさまを眺める。どこかしら寂しげだ。これまで一緒だった友と別れゆくような感慨があった。所詮、感傷に過ぎないものだろう。砂礫の道からハイマツの緑の道となってくる。それが陽光に照って美しい。いくつかの雪田を越える。お花畑が斜面全面に広がり圧倒される。鉢ヶ岳下通過(8:15)。おばさんたちが皮肉を言い合っている。なんでもグループのうちの二人がどんどん先に行ってしまうことへの非難のようだ。言われる方のおばさんは、自分は登りでの歩きが遅いので、迷惑がかからないように休憩時間を短くして先に行っているのだと駁する。そうすると、遅れても待っているのだから一緒に歩こう、それができないなら他の人と来たらいいと言われる。どう思いますかと私に話がふられる。苦笑いして意見は言わないでおいた。鞍部にある雪倉岳避難小屋(8:50)。トイレあり。白馬岳を背負いながら、淡々と登り返していく。白馬岳方面の稜線がはっきりしてくる。旭岳、裏旭岳、小旭岳、清水岳と峰が連なり、その斜面の雪田たちが美しい模様をつくる。でも暑い。
 
 
雪倉岳から白馬岳を見返る
 
ハイマツの道を立ち止まりながら登る。汗がしたたる。やっと雪倉岳頂上(9:40)。ここまで来れば、かなり疲れている。ずっと日射しに照らされ続けた。振り返れば、朝から歩いてきた道のりを実感する。雪田の模様が美しい。これから向かう朝日岳が正面に立つ。穏やかな山容。でも、大下りが待っている。ひたすらに岩屑の斜面を下り続ける。足がつるような感覚あり。対面する朝日岳が高くなってくる。登り返すことを思えば、そんなに下らないでくれよと愚痴を言いたくなる。それでもどんどん高度が下がる。目眩がするほどに急な坂。振り返れば、降りてきた斜面が壁のように覆い被さる。
 
雪倉岳からの朝日岳
 
下りきって燕平(11:30)で休憩。昼食の弁当。高度が低いせいか蒸し暑い。惰性で歩く。赤男山の下のツバメ岩(12:00)。岩が崩壊して大石が積み重なる。 少し行けば、水場。ここで小雨が降り出したが、すぐに止む。取り出した傘を収納。木道となる。小桜ガ原を通過。湿原の花畑。やがて朝日岳・白馬水平道分岐(12:40)。水平道とは名ばかりの起伏の多い道を歩く。樹林帯の斜面を登る。水谷乗越に出る。ニッコーキスゲの黄色い野の木道を少し行けば、赤い三角屋根の朝日小屋(14:30)。歩き通したぞ。充実感というよりも疲労感がどっと襲う。汗まみれの一日。どれだけ水分を補給したことか。身体を拭いて着替える。この小屋には狭いながらも更衣室が用意されている。特に女性にはありがたい施設だ。朝日平を木道にそって散策。のんびりとしたいい時間。特製のシソジュースを飲む。美味。5交替の2番目で夕食(17:15)。茶碗半量ぐらいの食前酒を赤ワイン、焼酎、日本酒のうちから選べた。赤ワインを選ぶ人がほとんどのようだ。これだけの心配りで食事が引き立つ。夕焼けの白馬連山を眺める。空気が澄んで間近に見える。やがて穏やかな夕暮れの色に山々が染まっていく。閑かだ。と、懐メロの合唱が始まった。目をやれば、初老のグループが輪になって歌っている。朝日岳の西斜面に夕陽が照って、なんともきれいな色に染め上げられる。清浄。深夜に外に出る。天の川が天空に流れる。星々がさんざめく。おばさんが人工衛星が3つ見えると言う。どこかわからない。スペースシャトルが無事に地球に帰還することを願う。祈りながら星座たちを眺めていた。
 
夜明けの朝日平
 
起床(4:30)。暗い部屋の中でヘッドランプの明かりがうごめく。いつものように、ビニール袋のがさごそする音があちこちに聞こえる。廊下はリックを開けて出発の準備をする人で混雑している。食堂には長い列ができていた。並んだ順番で食べる。外に出て冷たい風を身に浴びる。高原の朝。しらじらと花々が浮かびあがる。花は露にぬれている。その露が日を宿す。幻想の世界。白馬岳の嶺がくっきりとしてきた。朝食(5:00)。みそ汁の塩味が五臓六腑にしみる。2杯食べる。諸準備の後に朝日平出発(5:30)。露にぬれた草花が朝日に光る。小鳥がさえずる。雪田からもれでた水が集まって沢音を立てる。その流音を聞きながら灌木の道をうねうねと上る。頂上近くのなだらな斜面に朝日に照る花がかたまりをつくりながら広がる。朝日岳頂上(6:30)。立山連峰がくっきりとする。白馬岳から雪倉岳、小蓮華山が間近に迫る。雪田に朝日が反射していっそう白い。これから下っていく五輪尾根がすらりと伸びる。はるか下方に蓮華温泉の赤い屋根が見える。かそけき花々を堪能しながら下っていけば、栂海新道との分岐(7:10)。そちらに行けば日本海の親不知に至る。老年二人組の人がそちらに道をとる。北方向に谷が開いて、日本海が霞み、時にきらりと光る。富山湾であろうか。雪田と花畑の道を下る。清水が流れる。手で掬って飲む。疲れて振り返れば、そこに照る朝日岳が聳える。連れ合いのトレッキングシューズの底が剥がれる。不自然な歩きのせいもあったのだろう、不意に、小さな枯れ沢で転倒し溝に落ちた。頭が石で切れて血が流れる。応急措置の止血をした。頭を打たなかったのは幸いであった。仰向けに倒れたのでリックがクッションになって助かったようだ。Yさんが靴を小紐で括ってくれた。頼りになる。後から来たご夫婦の奥さんも同じ所で転倒した。
 
五輪尾根
 
灌木を抜けると青ザク(9:00)。眺めが良い。でも相当に疲労がある。これから下る木道が一本の白線となって尾根を縫う。歩幅をとることが難しい木道を辿って、湿原にある花の三角点(9:30)。木道の両側に花畑が広がる。ここは休憩をとる人で賑やかだ。蓮華温泉から登って来た人たちとすれ違う。とても疲れている様子。後で思えば、さもありなん。逆コースはさらにハードである。樹林帯に入る(9:50)。かもしか坂。日陰になって直射日光を避けることができるが、ここまで下ってきたのかとちょっぴり寂しさがよぎる。長い長い樹林帯の道をこれでもかと下る。薄暗い林から、いきなり白く明るい石の原に出る。白高地沢(10:45)。大石のころがる河原で大休憩をとる人々。弁当の昼食。汗まみれのTシャツを沢水で洗う。ひんやりとする。登山靴と靴下を脱いで、足を水に浸す女性。どうですかと言えば、冷たいと応える。一息ついて白高地沢出発(11:10)。 危なっかしい橋を渡って対岸を沢筋に少し下る。
 
白高地沢
 
樹林帯に入り小さな清流で水を飲む。ここから緩い登りとなる。ひっそりと静まるひょうたん池の横を抜けていく。老年のグループだけには越されたくないと思うが、ひたひたと近づく彼らの話し声。ミズナラの大木を見上げたり、倒木をやっとのことで越えたりしながら歩く。川音が林に高く響く。下りとなり、樹林の中を下りきれば、瀬戸川橋(12:20)。轟音をなして流れ下り、岩壁にしがみつくように花が咲く。ここからまたまた上りだ。樹林帯の急坂をうだうだと登る。4人組の一行の中の女性がもう歩けないと荷物を男性に持たせている。はてのない道のり。どこまでも続くようなしんどさだ。歩き疲れてうんざりした眼にぱっと、一面の花畑がとびこむ。樹林に囲まれた兵馬ノ平(13:05)。湿原の花畑。沢の水音を聞きながら平坦な木道を歩む。心底ほっとする。登りつめた安堵がある。少し行けば、また上りでがっかりするが、道はしだいに広くなり歩きやすい。蓮華ノ森自然歩道に出会う。やがて砂利道となり、キャンプ場の前を抜ける。かすかに硫黄の匂いがする坂道を上がれば蓮華温泉(14:00)。バスの発車時間まであと20分。でも汗を洗い流したい。露天風呂めぐりは次の機会に。受付で、おばさんたちがあれこれとまどっている。もどかしい。蓮華温泉ロッジの内湯に入浴。せっぱ詰まっていたけれど、洗髪もし温泉成分で白く濁る浴槽に浸かって向かいの山も眺めた。使い捨てられたひげ剃りでちょろちょろ伸びた髭を剃る。鼻の下を二ヶ所切ってしまい、二筋の鼻血のような血。バス停まで5分。血をしたたらせて走る。この慌ただしさの中にも、Hさんは酎ハイの缶をしっかりと買っていた。バスはすでに満席。後部の補助席に座る。「山のことはなんでも知っている」と豪語する中年男性。もう少し謙虚な方がかっこいいのにと思いながら話を聞いていた。うねうねと下って、平岩駅を経て、糸魚川駅(15:55)。その手前で野営するという高校生のグループが下車。弁当と飲み物を買い込み、遅延した特急はくたか14号に乗車。富山駅で40分ばかり待って特急雷鳥46号に乗車(17:59)。指定席は売り切れ。始発駅で先頭部に並んでいたおかげで自由席に余裕で座ることができた。北陸の日本海沿岸の風景を堪能する。Yさんは、加賀の柿葉寿しをあてに、缶ビールの山をつくる。大阪駅に着けば、むっとする都会の空気が身体を包んだ(21:19)。こうして白馬岳から朝日岳の稜線を歩く旅を終えた。山帰りのいつものように活字が欲しくなる。もちろん風呂にじょんのりと浸かりたいのが一番だ。