城地 茂
English Title
Shigeru Jochi
(補充版・これは、『数学史研究』112号13ー21頁の補充です)
目次
序 章 数学史上に於ける律令体制の位置
第一章 大学寮に於ける教育
第一節 算生の所属
第二節 算生の試験と任官
第二章 数学書の取捨選択
第一節 算経十書
第二節 採用された教科書
序章 数学史上に於ける律令体制の位置
日本の数学史は、大体、前期・後期に分類される。即ち、奈良時代の律令摂取期に導入
された中国数学が繁栄した前期と、江戸時代の和算を頂点とする後期に分類されるのであ
る。(註1)
前期は、『算経十書』(註2)に代表される北中国文明の数学知識を導入することによ
って成立している。これに対して、後期は、『算法統宗』(註3)に代表される南中国文
明の数学知識を導入、応用して成立しものである。これは、日本文化史の特徴と一致して
おり、(註4)日本数学史は、日本文化史の題材として恰好のものと言える。
前期から後期への推移は、計算器具の変化という顕著な形で現れる。前期のそれは、算
木(註5)であるが、明代を境に算盤へと変わってゆく。(註6)これは、計算速度の飛
躍的増加をもたらしたが、算木が二次方程式を解し得るのに、算盤では一次方程式は何と
か解けても、二次方程式は殆ど解答を求め得ない結果となった。(註7)
律令体制は、部族文明の段階から、首長国文明の段階を飛び越し、古代国家文明の段階
の到来を意味するものである。この首長国の飛び越しは、所謂、第一地域に共通する現象
であり、その後の日本多大な影響をもたらした。(註8)
本論は、その律令体制の解明に数学史の立場から迫ろうとするものである。日本数学史
前期に於ける数学の教育制度に限定したのは、先に述べたように、この時期は、北中国文
明の模倣の時期であり、官僚制度に代表される合理的な制度が強調された時期であるから
、制度を研究することが合理的だと考えたからである。
(註)
1 日本学士院編、『明治前日本数学史』、野間科学医学研究資料館、1979、p.1
2 『算経十書』は、唐代に纏められた数学書10種の総称で、『九章算術』、『孫
子算経』などが、有名である。内容その他については、第二章参照。
3 程大位、『算法統宗』、1592年、早期の算盤算術書として有名。
4 石田一良、『日本文化史序説』、
5 『前漢書』律暦志に「其算法用竹、経一分、長六寸( 約 140mm) とあるのが、
最初の記載である。(李儼・杜石然、『中国古代数学簡史』、商務印書館香港分
館、1976、p.9)竹ひご状の棒で、各桁の数値を表し、計算した。
6 交代に関する記述は、前出、『中国古代数学簡史』、p. 205〜p.222 ・銭宝〓
『中国数学史』、科学出版社、1961、1968再版、p. 136・邦文では、戸谷清一、
「元・明時代の計算方法の推移ー と算盤の交替に関して」(日本数学史学会、
『数学史研究』83号、1979年10月〜12月)があるが、次数に関しては、触れてい
ない。
7 代表的和算家の関孝和、及び関流の和算家は、天元術を根本的な問題として取
り扱っている。これは、二次方程式の解法の研究であり、筆者の論法と矛盾する
しかし、初等数学書、『塵劫記』などは、筆者の述べたように算盤を扱っている
関流の和算が世に受け入れ難く、『塵劫記』が広く流布したことを考えれば、や
はり、後期の主流は算盤である。三上義男が指摘するように、和算が趣味の域を
出なかったのは、時代に逆らったこともその一因と言えるだろう。
8 米田治泰、『ビザンツ帝国』、角川書店、1977、p. 141に、「辺境理論」の語
句がある。「辺境理論」に類することは、多く述べられているが、たとえば、高
山龍三、『ヒト・文化・文明』、八千代出版、p. 240、に記述がある。ようする
に、文明の発展段階説の一種で、『文明の生態史観』(梅 忠夫、中央公論社、
1967)の第一地域は、第二地域の国家文明の影響で、その後、封建制度へ移行し
易い状況を呈するというものである。
第1章 大学寮に於ける教育
第1節 算生の所属
数学教育は、主に、算博士が、大学寮で、算生に対して行っていた。『職員令』大学寮
条に
「(前略)算博士二人。掌。教算術。算生三十人。掌。習算術。(後略)」
とあり、これ以外には、国学で僅かに行われていたであろうことが、想像されるだけで
ある。
大学は、唐の六種の教育機関を縮小的に導入したもので、当初、儒教の教育を行う明経
道と数学の教育を行う算道が設置され、後に、前者から文章道と明法道が分離独立してい
る。主に行われた教育は、儒教の教育であったことは、『学令』釈〓条が、規定するよう
に、
「凡大学国学。毎年春秋二仲之月上丁。釈〓於先聖孔宣父。(後略)」
先聖孔宣父は、孔子の意味であり、教育機関で彼を祭っていたのである。これだけでも
如何に儒教が重視されたかが分かる。北中国文明の根幹が儒教だったとも言える。更に、
大学生の定員が四百人と算生の三十人に比べ格段の多さになっていることからも、儒教を
中心にしていたことが分かる。
儒教の教典(外典)は、外国語―漢文で記述されているため、正しく理解するためには
、先ず、漢文の教育を修め、その後本科である明経道に進むように教程が組まれていた。
音博士・書博士が、予科を担当していたのである。
一方、数学の教典も、『学令』算経条に細かく規定されている。
「凡算経。孫子。五曹。九章。海島。六章。綴術。三開重差。周髀。九司。各為一経。
学生分経習業。」
とあり、『算経十書』を基本とし、『夏侯陽算経』『張丘建算経』『五経算経』『緝古
算経』『数術記遺』を除き、代わりに、『九司』『三開重差』『六章』を加えたものであ
る。(註1)
『算経十書』は、唐代に纏められた十種類の算術書のことで、当然、漢文で記述してい
る。従って、これらを学習するためには、かなり高度な漢文の知識が必要であり、大学寮
の効果的運用のためにも算生を大学寮の中に置いたものと考えられる。大学生・算生以外
の学生、例えば、医生が医師の所轄官庁である典薬寮に置かれていたこととは、対照的で
ある。
算師は、民部省の主計寮、主税寮に置かれており(註2)、算生は、この何れかに、或
いは、民部省に置くのが適当なように思われるが、実際は、式部省の大学寮に置かれてい
る。これは、数学が重視された為では無いだろう。数学者の最高官である算博士の位階は
従七位上であり、他の博士職と比べてむしろ低いくらいだからである。(註3)やはり、
語学力重視の立場から算生の大学寮編入となったと言える。
(註)
1 採用されなかった算術書も日本へ伝来していたことは、藤原佐世、『日本見在
書目録』、8世紀頃、によって証明されている。(前出、『明治前日本数学史』
p. 147 〜p. 149)また、これらの数学書は、殆どが現存、または、復元可能で
あるが、『九司』・『三開重差』・『六章』は、伝わっていない。しかし、前二
者については、高麗の律令に記載があることが、知られている。『六章』につい
ては、全く不明である。(前出、『明治前日本数学史』、p.4 )
2 遠朝廷と呼ばれ、小型の朝廷であった大宰府にも、民部省に相当する組織があ
り、算師がいる。この他に、令外官である修理職にも算師が置かれている。尚、
主計寮、主税寮の違いは、前者が中央の経理を担当し、後者が地方の経理を担当
した。
3 算博士の位は、従七位上で、音博士、書博士、暦博士、針博士、呪禁博士と同
位だが、(明経)博士(正六位下)、助教(正七位上)、陰陽博士(正七位上)
等と比べ、数階低くなっている。表1参照。
第二節 算生の試験と任官
算生は、試験に合格すれば、成績によって、位階を得ることが出来た。試験は、「九章
三条。海島。周髀。五曹。九司。孫子。三開重差各一条。試九。全通為甲。通六為乙。若
落九章者。雖通六。猶為不第。」の組と「其試綴術六章者。准前。綴術六条。六章三条。
試九。全通為甲。通六為乙。若落経者。雖通六。猶為不第。」の組の二種類があった。
(註1)。『九章算術』、『海島算経』、『周〓算経』、『五曹算経』、『九司』、『孫子算経』、
『三開重差』を履修する者と、『綴術』、『六章』を履修する者に分かれていたのである。前者
では、『九章算術』が、後者では、『綴術』が、必修であったことがわかる。
そして、「其得第者叙法」は、「准明法之例」(註2)であった。「明法の例に准へよ
」というのは、明法道の大学生の合格者と同じという意味である。律令の研究課程の大学
生である彼らの得る位階は、「明法甲第大初位上。乙第大初位下」(註3)のことで、30
階の27番目と28番目に任官したのである。
これは、大学寮の四道(文章道・明経道・算道・明法道)のなかで、最も低い位階の一
つで、最高の文章道秀才上上第と比べて4階の差があり、蔭位の制の受益者と比べると問
題にならない下位であった。(表2参照)
従って、数学を履修しようとする者というのは、「五位以上子孫。」(註4)という大
学生の入学規定の原則に従って入学した学生は少なく、「若八位以上子。情願者聴。」
(註5)という例外で入学した者の方が多かったであろう。六位〜八位の子で、明経道や文章
道に進学出来なかった者が学習していたであろうことは、想像に難くない。
算道の試験に合格すれば、大初位上か、大初位下を得ることになる。1階上の主計寮、
又は、主税寮算師を守るか、両寮の品官である少属(註6)に、任官した。これ以外には
、玄蕃寮の官僚になった例、各国の国司になった例が、報告されている。(註7)しかし
、これらの下級官吏の記録は、特別な場合を除き、伝えられないので、詳細は、不明であ
る。
(註)
1 『学令』書学生条
2 『学令』書学生条
3 『選叙令』秀才出身条
4 『学令』大学生条
5 『学令』大学生条
6 主計寮・主税寮は、頭が、従五位下で、以下、四等官(品官)の階位が、低
く、判官の允が一人という、後世、少寮と呼ばれる寮である。従って、少属の
位階は、大初位上である。尚、大学寮は、大寮である。
7 数学者の官位の研究は、大竹茂雄、「古代律令制下の算・暦家の官位につい
て」(前出、『数学史研究』97号、1983年4〜6月)がある。『六国史』に記
載された算・暦家の官位についての研究である。『六国史』には、五位以上の
殿上人(一部例外あり)の記録が原則なので、22例しか分からない。
第二章 教科書の取捨選択
先に述べたように、律令制下の数学教育制度は、『算経十書』をそのまま受け入れた訳
では無かった。日本で不必要なものは省き、必要なものは加えたのである。従って、『学
令』に記載してある教科書を調べることによって、日本流の律令制度の一端が分かること
になる。本章では、『算経十書』(註1)の各書の特徴を概観して、日本で採用された数
学書と比較検討して行きたい。
第一節 算経十書
1)『周髀算経』(註2)
文中では、周公が、商高に一問一答で教わる形式になっているが、内容などから、前漢
末から後漢初に成立した天文書とされる。(註3)本当の著者や正確な成立年代は、不明
である。
有名なものに、句股定理(註4)の記述がある。又、句股定理を応用した天体観測法の
記述、所謂、「蓋天説」も有名である。この「蓋天説」は、地球を平面として捉え、地球
と太陽までの距離を計算している。(註5)
『周髀算経』の昔栄方問於陳子の条に、
「周髀長八尺、夏至之日 一尺六寸、髀者股也。正 者句也。正南千里、句一尺五寸、
正北千里、句一尺七寸。日益表南 、日益長候句六尺。即取竹空径一寸長八尺、捕影而視
之、空正掩日。而日応空之孔、由此観之率八十寸而得径一寸。故以句為首、以髀為股。従
髀至日下六万里、而髀無影、従此以上至日則八万里。若求邪至日者、以日下為句、日高為
股、句股各自乗併開方除之、得邪至日、従髀所傍至日所十万里。」とある。
これは、夏至のときに、日の影が一尺六寸あり、南北に千里行く毎に、一寸づつ増減す
る。夏至の後に、影が長くなり、六尺になったときにも此の比率で増減するとすれば、太
陽直下まで六万里、髀の高さが八尺であるから、太陽の高度(この場合の高度とは、航空
機などの高度と同様の意味。)は、八万里、直距離は、句股定理により、
R= (80000 +60000) =100000
十万里になるという意味である。
周代の1里は、約 405m であるから、太陽までが、約4万Kmということになる。勿論、
1天文単位(地球から太陽までの距離。AUで表す。)が、地球一周分な訳は無く、これは
、地球が平面であるとしたことと、影の増減率を一定にしたことの二重の間違いによるも
のである。しかし、間違った前提から出発したとはいえ、論理的に推論したことは、評価
されている。
〔図1〕
2)『九章算術』(註6)
正確な年代、著者は不明。最終的には、後漢中期(紀元一世紀頃)に成立したようであ
るが、それ以前の数学知識の集大成とみるべきであろう。 以後の数学書の形式を決定づ
けることになる。「今有〔問題の内容〕、問○○幾何」と出題し、その答えを「答日、×
×」と数値を示し、同種の問題、数題を一まとめにして、「術日、・・・」と解法を示す
のである。
内容は、以後の数学書の基準となったもので、246 題あり、9章に分類されている。名
前もここから来たものである。「方田」章に始まり、「衰分」章、「均輸」章など、実用
的な物資の集積、分配法の記述がある。
3)『海島算経』(註7)
『九章算術』の注釈者の一人である、劉徽の著作。これは、本来、『九章算術』の第十
章として書かれたものが、唐代初年に、独立したものである。『九章算術』では、あまり
詳しく記述していない測量方法を記述したものである。
『海島算経』が述べる測量方法は、「重差術」で三種の「重差術」の記述がある。「重
差術」とは、角度(中国数学には、角度の概念は無く、a-tan θで、角度に相当する表記
をした。)を計り、そして、前後左右に移動して、もう一度、角度を計り、公式に当ては
めて、測定する対象までの距離を算出した。
〔図2。〕
4)『孫子算経』
著者不詳。4〜5世紀の作とされている。(註8)現存するものは、上、中、下の三巻
本になっている。
上巻は、度量衡や大数の名称、算木の計算方法の説明がある。
大数の名称(万、億、兆など)は、「大数之法」節と「量之所起」節では、相違がある
。即ち、前者では、「万万日億、万万億日兆、(中略)万万正日載。」と、8桁毎に新し
い位を使う、8桁進法の法則が遵守されているが、後者では、個(註9)から億は、8桁
になっているが、それ以降は、「十斗六億粟、百斗六兆粟」のように十進法になってしま
い、混乱をきたしている。又、これは、複数の著者によることの証左にもなっている。
中巻は、『九章算術』の内容に相当する問題であり、形式も同じである。
下巻は、算術難題と呼ばれるもので、日本へ多大の影響をもたらしている。「雉兎同籠
」は、「鶴亀算」として馴染み深いものであるし、「物不知数」問題は、「百五減算」と
して、『塵劫記』(註10)巻三、第十三、「百五げんといふ事」に同種の問題がある。
「百五減算」に就いて、説明をしておこう。「物不知数」問題は、
「今有物不知其数、三三数之剰二、五五数之剰三、七七数之剰二、問物幾何。」と言う
問題に、「答日、二十三。」と解答し、その解法は、「術日、三三数之剰二置一百四十、
五五数之剰三置六十三、七七数之剰二置三十、併之、得二百三十三、以二百一十減之、即
得。」と、具体例を先ず示し、「凡三三数之剰一則置七十、五五数之剰一則置二十一、七
七数之剰一則置十五。一百六以上、以一百五減之、即得。」と公式を示すのである。此の
公式に依れば、3の余りに70、5の余りに21、7の余りに15を乗じ、それらを加えたもの
の 105の剰余が、答えになる。最後の 105の剰余をとるときに、 105づつ減じて求めるこ
とから、「百五減算」の名称がきている。
この「百五減算」は、19世紀のガウスの定理による論理的な説明がなされるまで、興味
ある、そして、不思議な問題として取り扱われた。(註11)
5)『五曹算経』
北周の甄鸞著。田曹、兵曹、集曹、倉曹、金曹の五巻からなる地方行政官用の応用数学
書である。形式、内容とも『九章算術』の域内のものである。
しかし、兵曹の第九題、金曹の最後の問題には、小数点以下の単位である、分、厘が現
れ、十進小数の概念が有ったことが指摘されている。(註12)尚、これ以降も、中国では
、小数に関しては、十進法が堅持され、大数のように8桁進法になることは無かった。現
在でも、中国、日本とも、大数は4桁進法であるが、小数は、1桁進法(十進法)である
。(註13)
6)『夏侯陽算経』
現存する『夏侯陽算経』は、北宋の初に散逸してしまい、『算経十書』に収録されてい
るものは、誤って、8世紀の数学書を『夏侯陽算経』として収録したもので、原本では無
い。原文とされる 600余字から内容の一部は分かるが、それ以外は、調査する手段が無い
。(註14)
7)『張丘建算経』
張丘建の著作。現存するものは、上、中、下の三巻本になっている。 466年〜 484年の
間に成立したとされる。また、自序に、「其夏侯陽之方倉、孫子之蕩杯、此等之術、皆未
得其妙。」とあり、『夏侯陽算経』、『孫子算経』の後に成立したことが分かる(註15)
。
従って、内容は、『夏侯陽算経』、『孫子算経』と同じく、『九章算術』の応用、発展
である。これら三書は、同じ系譜であるとも言える。形式もこれらは、『九章算術』の形
式によっている。
『張丘建算経』が主に扱っているのは、自序に、「夫学算者、不患乗除之為難、而患通
分之為難。」とあるように、分数計算である。冒頭から、分数の問題が続いている。
その他、等差級数、開平方の問題も有名である。しかし、最も有名なのは、「百鶏」問
題である。下巻の最後の問題で、
「今有鶏翁一直銭五、鶏母一直銭三、鶏雛三直銭一、凡百銭買鶏百隻、問鶏翁、母、雛
各幾何。」
というもので、
x+ y+ z=100
5x+3y+1/3z=100
の方程式を解き、
x=4t
y=25−7t
z=75+3t t=1,2,3
と、解くのである。
8)『五経算経』
北周の甄鸞撰。6世紀の成立。上、下二巻本であ。五経、つまり、『書経』『詩経』『易
経』『春秋』『礼記』の数学的知識、計算技能について、詳細な説明を加えたものである(註16)。
冒頭、『書経』の定閏法の記述で始まるなど、暦法、天文の記述が大きな部分を占めて
いる。
8)-1 『綴術』
通常『算経十書』には、数えないが、テキストの目次に、「第四冊 (中略)五経算経
〔第九種綴術原逸〕(後略)」とあるので、ここに掲げる。これは、『綴術』は、『九章
算術』の注釈として、その巻末に綴ったために、その名前があるとされているという通説
と異なっている。(註17)しかし、何れにせよ、散逸してしまったので、詳しいことは、
分からない。
『綴術』は、劉宋の祖沖之( 429〜 500)の著作で、球体の研究を主題にしていたであ
ろうことが、推測されている。当然、円周率の研究も手掛け、多分、
3.1415926 <π<3.1415927
まで、求め得ていたと、考えられている。(註18)
9)『緝古算経』
唐の王孝通の撰及び注の一巻本である。『綴術』失伝後、中国最古の「開帯従立法」の
書である。この「開帯従立法」とは、三次方程式の正の解を求める方法である。(註19)
10)『数術記遺』
一巻。巻頭に、「漢徐岳撰。北周漢中郡守、前司隷、臣注。」とあるが、原著のみでは
理解出来ず、注によって分かるようになっている。ここから、甄鸞が、徐岳に託して著作
したものであろうとされている(註20)。
『数術記遺』では、大数の命位法、進法の記述が、注目に値するところである。
「黄帝為法有十等、及其用也。乃有三〓。十等者億・兆・京・〓・〓・穣・溝・澗・正
・載。三等者謂上・中・下也。其下数者十十変之。若言十万日億、十億日兆、十兆日京也
。中数者万万変之。若言万万日億、万万億日兆、万万兆日京也。上数者数窮則変。若言万
万日億、億億日兆、兆兆日京也。」
とある。これは、億から載まで、10種類の大数があり、その進法は、3種類あるというこ
とである。1桁進法(十進法)、8桁進法、それに、2の(n+2)乗桁進法の3種類で
ある。
『数術記遺』の形式は、『九章算術』と異なり、事項を説明するようになっている。非
『九章算術』形式の算術書である。
『算経十書』を系統的に、表記すれば、下記のようになろう。
1)『周髀算経』―――――――――――――――――――――――――――――――――
+3)『海島算経』☆――――――――――――?――『三開重差』
| 8)『五経算経』
| +―――10)『数術記遺』――――――?――『三等数』
| +―――5)『五曹算経』☆
2)『九章算術』☆+――+++―――――――――――――――――――――――――
| +――8'『綴術』――9)『緝古算経』
|
+―4)『孫子算経』☆+―6)『夏侯陽算経』☆
| 7)『張丘建算経』☆
☆―『九章算術』形式 |
+――――――――――『塵劫記』☆
(註)
1 使用したテキストは、王雲五主編、『国学基本叢書四百種』、台湾商務印書館
民国57年(1968)、所収本である。『算経十書』については、清乾隆年間に刊行
された、『微波 叢書』(孔継涵刊行)本の復刻である。これは、乾隆38年(17
73)四庫全書館の戴震が、『永楽大全』や汲古閣本を纏め、校正したものである
。汲古閣本は、南宋の鮑 之が刊行したものであるが、一部しか現存していない
。
2 日本語訳本に、薮内清編、科学の名著 2『中国天文学・数学集』、朝日出版社、
1980、に収録されたものがある。『周髀算経』の翻訳は、橋本敬造。
3 『周髀算経』巻上に「呂氏日・・・」の記述があり、これは、『呂氏春秋』の
呂不 のことであり、大体の成立年代が、推定出来る。これ以外に、『淮南子』
天文訓、『漢書』芸文志に記載がある。(前出、『中国古代数学簡史』、p.31)
4 日本では、「句股定理」とはせず、「勾股定理」としているが、本論では、中
国数学界の呼称である「句股定理」で統一する。この定理は、ピタゴラスの定理
に相当するものである。
5 『周髀算経』の序文に「周髀算経二巻、古蓋天之学也。以句股之法、度天地之高
厚、推日月之運行、而得其度数。其書出於商周之問、自周公受之於商高、周人志之
、謂之周〓。(後略)」とある。(下線は、引用者)
6 日本語訳に前出、『中国天文学・数学集』がある。川原秀城訳。或いは、薮内清
編、世界の名著12『中国の科学』、中央公論社、1979、収録本がある。
7 日本語訳に前出、『中国天文学・数学集』がある。川原秀城訳
8 『隋書』経籍録に「孫子算経二巻」の記述があり、少なくとも此の時点で成立し
ていた。(前出、『中国数学史』、p.75〜p.79)
9 1の位と日本では、呼称されているが、1というのは、各位の数量を表すもので
ある。位を表すのは、十とか百であって、 100を表すには、一百とするのが、合理
的である。従って、1の位というのは、個の位とすべきであろう。現代中国の教科
書、国立台湾師範大学編、『国語会話』、1984、p.95では、命位法は、個 十、百
、千、万・・・となっている。
10 吉田光由、『塵劫記』、寛永4年。活字本は、与謝野寛他校訂、『日本古典全集
』古代数学集(上)、日本古典全集刊行会、1927、或いは、大矢真一校注、岩波文
庫青ー24ー1『塵劫記』、岩波書店、1977、がある。
11 ガウスの定理とは、a1,a2,―ahの h個の素数で割った余りをR1,R2 ―Rhとして、
M=a1*a2*―ah,N〓Ri(mod ai),i=1,2,3, ―h とすれば、
N 〓Σki*M/ai*Ri(mod M)
となると言うものである。(前出、『中国数学史』、p.77)
西洋数学界に、「百五減算」を紹介したのは、1852年に宣教師ワイリー(Alex
-ander Wylie,18153〜1887)が伝え、1874年、l.Mathiesen が、ガウスの定理に
に符号することを指摘した。(前出、『中国数学史』、p.78)
12 前出、『中国数学史』、p.92
13 アメリカでは、大数、小数ともに3桁進法である。即ち、大数は、千倍毎に、
Thousand、Million 、Billion 、Trillion――となり、小数は、千分の一毎に、
m(mili) 、μ(micro) 、n(nano) 、p(pico) ――となる。イギリスでは、大数は、
6桁進法になり、小数は、3桁進法になっている。
14 前出、『中国数学史』、p.79
15 前出、『中国数学史』、p.80
16 前出、『中国数学史』、p.92
17 前出、『中国数学史』、p.85
18 前出、『中国数学史』、p.87
19 開帯従立法の応用問題が、第三題である。(前出、『中国数学史』、p.95〜p.98
)
20 前出、『中国数学史』、p.93
第二節 採用された教科書
『算経十書』は、唐代に勅命によって、李淳風(註1)らの手で纏められた数学書であ
り、唐の数学教育では、『算経十書』が、そのまま教科書になっている。これを分かりや
すくまとめると、表3のようになる。(別表3参照)
日本へ伝わったものは、藤原佐世の『日本国見在書目録』(註2)によれば、
『九章算術』 九章九巻。〔劉徽注〕 『海島算経』 海島二。
〃 〃 〔祖中注〕 〃一。〔徐氏注〕
〃 〃 〔徐氏撰〕 〃二。〔祖仲注〕
〃術義九。〔祖中注〕 〃図一。
〃十一義一。 『綴術』 綴術六。
九章図一。 『夏侯陽算経』夏侯陽算経三。
〃乗除私記九。 ――― 新集算例一。
〃妙言七。 『五経算経』 五経筆二。
〃私記九。 『張丘建算経』張丘建三。
九法筆術一。? ――― 元嘉算術一。
『六章』 六章六巻。〔高氏撰〕 『孫子算経』 孫子算経三。
〃図一。 『五曹算経』 五曹算経』五。〔〓〓注〕
六章私記四。 ――― 要用算例一。
『九司』 九司五巻。 『数術記遺』 記遺一。
〃算術一。 ――― 五行算二。
『三開重差』 三開三巻。
〃図一。 (暦法関係を除く)
である。9世紀の後半に、少なくとも、これだけの数学書があったのである。
『学令』算経条の規定する算生の教科書は、
「凡算経。孫子。〔釈云。一巻。即人名也。古記云。一巻。即人名也。今選三巻。〕
五曹。〔釈云。一巻。即人名也。古記云。一巻。即人名也。今選五巻。〕
九章。〔釈云。九巻。徐氏祖仲。種々計算也。古記無別。〕
海島。〔釈云。一巻。徐氏祖仲。海島計算也。古記無別。〕
六章。〔釈云。六巻。高氏也。古記無別。〕
綴術。〔釈云。五巻。相氏也。古記無別。〕
三開重差。〔釈云。三巻。高氏也。古記無別。〕
周髀。〔釈云。一巻。古記云。一巻。今選二巻。天地高計也。〕
九司。〔釈云。一巻九司。古記云。一巻九司事雑計也。〕」(改行引用者)
である。
先の、『日本国見在書目録』と一致するものに、下線を付してみた。前ページを参照さ
れたい。
ここで、『算経十書』や唐の教科書と日本の教科書を見てみると、先ず、気が着くこと
は、『数術記遺』と『三等数』の取扱である。唐では、此の二書は、必修になっているの
に対し、日本では、全く履修しないのである。『三等数』は現存していないけれども、『
数術記遺』の内容が三種類の大数を記述していることを考えれば、同種のものであろうこ
とが考えられる。唐では、此の二書を始めに学習し、命位法など基本的な事項、定義を学
んだのである。しかし、日本では、代数の定義の部分を省略し、いきなり応用計算に入る
事になる。
命位法に関しては、『孫子算経』の上巻でも取り扱っているので、先の二書の代用とさ
れていたと考えられる。これは、『学令』算経条で、『孫子算経』が、筆頭に挙げられて
いることからも証明出来ることである。本来ならば、『周髀算経』或いは、『九章算術』
が筆頭に来るのが自然であるのに、あえて『孫子算経』から教科書の羅列が始まっている
のである。
従って、日本の命位法は、『数術記遺』のいう「中数」のみが『孫子算経』を通じて、
広く伝わっていった。事実、「中数」即ち、8桁進法は江戸時代の『塵劫記』が4桁進法
にするまで広く使われ、『塵劫記』以後も、初等数学書ではよく使われていた(註3)。
『孫子算経』系列の『夏侯陽算経』、『張丘建算経』は、採用されていない。これは、
基本的な『孫子算経』までで止めたのであろう。
これらの事を考えあわせると、日本の律令導入の様子が窺い知れる。『数術記遺』、
『三開重差』を学習し、『孫子算経』、『夏侯陽算経』、『張丘建算経』を学ぶには、漢
語を使う中国人でさえ、規定によれば、2年半+αの計算になる。それを『孫子算経』だ
け、唐の規定では、半年分の学習内容で速習しようというのである。到底、「術理弁明」
(註4)など出来る筈は無く、形ばかりの数学教育であった。
次に、『綴術』の重視が注目される。『綴術』と言うよりは、祖沖之という個人の研究
が非常に大きな比重を占めている。『九章算術』にしても、祖沖之の注釈を使うことが指
示されている。
祖沖之は、指南車(羅針盤の一種)を作製したり、改暦を行った人物である。しかし、
何と言っても、円の研究、就中、円周率の研究で有名である。円に代表される曲線は二
次方程式になる。無理数になる場合もよくあり、これを解くには、無限級数の概念が必要
になる。これは、現在に到るまでこの方法以外に有効な概念が発見されていない、数学の
頂点の一つを形作る概念である。南朝で生まれたこの概念は、北朝に吸収され、唐代の
王孝通の『緝古算経』へと発展する。
しかし、この『緝古算経』は、日本へ伝来していない。これは、日本が北朝(北中国文
明)に対して、奥底では拒否反応を示しているのかも知れない。難解なので導入すること
が出来なかったとも考えられる。尤も、例え伝来していたとしても、先の『孫子算経』と
『夏侯陽算経』、『張丘建算経』の関係のように、難解なものは教科書たり得なかったで
あろう。
『令集解』の『綴術』の注釈にある「相氏」は、「祖氏」つまり祖沖之の可能性が大き
い。現代中国語の発音では、Xiang とZuで全く違っており、当時の発音も異なっていたで
あろうが、日本語では、「そう」と「そ」で近い発音である。また、字形も似ており、誤
写の可能性もある。しかし、他の箇所では、「中之」とか「仲之」として祖沖之を表記し
ているので断定は出来ない。
甄鸞の『五曹算経』を採用していながら、『令集解』の注釈は余りに的外れである。
『五曹算経』が人名というのは、『令集解』の各注釈者の数学に対する知識の少なさが
暴露されるというものである。田曹など5種の曹から題名の『五曹算経』がきていることは、
少しでも書を紐解けば、容易に分かることである。それにもかかわらず、このような注釈
を付すと言うことは、注釈者がその労を省いている、若しくは、理解出来なかったという
ことである。
「徐氏祖中」という、多分人名であろう注釈が『九章算術』と『海島算経』にある。こ
れは、「祖中」は祖沖之で良いとしても、「徐氏」の方は疑問が残る。甄鸞の仮託した名
前が徐岳であることは、前節の『数術記遺』のところで述べたが、ここから類推して、甄
鸞を指すものとも考えられる。『九章算術』と『海島算経』に、〓〓又は徐岳、祖沖之の
注本は現存していない。しかし、『日本国見在書目録』にも所在が示されており、当時存
在していたであろうことは、かなり確率の高いものと言える。
『三開重差』は、不明な部分の多いものである。新羅の数学教育で使われていたことが
知られている数少ないことである(註5)。想像するに、「重差」と言うのは、『海島算
経』の測量方法であり、その種類が3種類であることから、『海島算経』に類するもので
あろう。少し出来すぎの嫌いもあり、また、他の例から言って、同系統の書は1冊になっ
ていることもあるので、これも想像の域を出るものではない。
『令集解』の「高氏」も、これまた全く不明の『六章』の撰者と同じということを示す
だけで、どれも分からない。ただ、この両書が唐では無く、高麗に代表される朝鮮半島の
もの、若しくは、朝鮮半島を経由したものを「高氏」は示していると見なすことは、許さ
れるであろう。
『九司』に到っては、全く不明である。巻数からしても余り重要なものでは、なかった
ようである。「雑計」とは、重要ではない公式による計算という意味であろう。
教科書の採用に当たって、律令の制定者はかなり研究したようである。同じ種類の数学
書は、代表的なもの、簡単なものを選び、学習を効果的に進めるように工夫を凝らしてい
る。学問的に見れば、画一的になってしまうが、限られた時間で急速に学ばせるには、こ
れしか無かったのである。結果的に中国数学が、古代日本に定着しなかった(註6)が、
異文明を何とかして導入しようとする意欲、情熱は、決して人後に落ちるものでは無かっ
た。ただ、如何せん算学の需要、漢文学力と言った社会状況と、律令に代表される、そし
て未知なる古代国家文明導入の理想との乖離は、覆うべくも無かったのである。
(註)
1 現存する『算経十書』に、「唐朝議大夫(正五位下)行太史令(陰陽頭)上軽
車都尉臣李淳風等奉 勅注釈」(括弧内引用者、日本で相当する位階、官職)と
ある。唐の高宗に仕えた数学者である。
2 『続群書類従』巻 884、「日本国見在書目録」三十五、暦数家〔百六十七巻。
如本。暦術。九章。漏刻。海島。算。〕に、数学書の記載がある。(前出、『明
治前日本数学史』、p. 147〜p. 149)
3 例えば、江戸時代後期の数学書、松岡清信、『新編算学稽古大全』、建林堂他
文化5年(1808年)、6丁表の「大数」では、8桁進法である。
4 『学令』書学生条。古記によれば、「術理。謂。術道也。求知所隠微。謂之術
也。」とあり、隠れた部分まで研究することである。
5 前出、『明治前日本数学史』、p. 145〜p. 146
6 やがて算学は、小槻氏・三善氏が算博士を世襲するに到り、有名無実化してし
まう。『二中暦』には、延喜年間から鎌倉時代の算博士37名の名前が列挙されて
いるが、小槻姓が16人、三善姓が10人である。(前出、『明治前日本数学史』、
p. 153)
参考文献
戴震校、『算経十書』(王雲五編、『国学基本叢書四百種』、台湾商務印書館、1967、
台湾、所収)
薮内清編、『中国の科学』中公バックス世界の名著12、中央公論社、1979
薮内清編、『中国天文学・数学集』科学の名著2、朝日出版社、1980
『令集解』(『国史大系』第2部・3〜5、吉川弘文館、1953)
『律令』(『日本思想大系』3、岩波書店、1976)
吉田光由、『塵劫記』岩波文庫青ー24ー1、岩波書店、1977
銭宝〓編、『中国数学史』、科学出版社、中国北京、1964
李儼・杜石然、『中国古代数学簡史』、商務印書館香港分館、香港、1976
日本学士院編、『明治前日本数学史』、野間科学医学研究資料館、1979復刻
呉文俊編、『《九章算術》与劉徽』、北京師範大学出版社、中国北京、1982
遠藤利貞、『増修日本数学史』、恒星社厚生閣、1960
小倉金之助、『中国・日本の数学』小倉金之助著作集3、 草書房、1973
三上義夫、『文化史上より見たる日本の数学』、恒星社厚生閣、1984
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