和算の源流

城地 茂

The Origin of Japanese mathematics

Shigeru Jochi


和算の源流としての中国算学

算学という言葉は奇異に感じられるかも知れない。一見、算数と数学をま とめたような言葉だが、数字を扱う学問として、かつては一般に使われてい た。江戸時代の数学は和算と言われているが、これは大和の算学という意味 である。 中国でも「数学」という言葉は宋の時代ごろから存在*1) するようである が、これが一般になったのは、近代西洋数学が伝来し、その訳語として定着 した後の事である。中国の数学史研究家、李儼のように中国の計算活動に対 して数学という言葉を避けて、著書の題名を『中国算学史』*2) としている 数学史家も少なくない。そこで、本稿でも、東洋の学問を算学と呼ぶことに しよう。 東洋の算学を見ていると、どうも、西洋の数学とは違うと感じる事が多い 。しかし、これは東洋の算学が西洋の数学に及ばないという意味ではないと 思う。和算では、面積や体積を計算するために積分に相当する算術*3) が存 在していた。行列式*4) を駆使して課題に回答を与えていたのも事実である 。しかし、これは微積分とは異なるものである。ところが、ニュートンの業 績に近い事を誇る事はあっても、同じ機能を有する算法に独力で到達しえた 事に注意する事は少ない。独創を重んじる世界で、誠に不思議な事である。 現在の西洋数学系統は唯一絶対と信じているからなのだろうか。 反対に、和算は至上のものとの誤解も見受けられる。和算がどういうもの か分からないのか、自己の希望を投影してしまうらしい。曰く、微積分を発 明したのは日本の方が古かった、等々の意見である。日本人としては、耳触 りの良いものであるが、日本人の業績を西洋のそれにこじつけて満足すると いうのでは悲しすぎる。 この原因の一つに、日本の算学が学校教育で、教えられていないという事 も考えられるようだ。中学校以降は西洋数学を勉強するので、体系の異なる 算学は排除されてしまう。和算的な問題は、小学校の算数の中に僅かに残っ ているに過ぎない。 そこで、この機会に日本算学を考え直してみたいと思う。このとき、現代 の数学を基準に比較するのでは、その本質を捉えることは難しい。そこで、 「歴史学」の手法で分析してみたい。歴史学者の反論を恐れないで言うなら 、歴史学の本質は時代区分という作業にあるだろう*5) 。つまり、ある時代 とある時代を相互に比較して、その差異を発見するのである。こうする事に よって、その時代が見えてくる。研究する時代を相対的に、客観的に分析で きるのである。 ところが、所謂、和算というのは、17世紀から19世紀の算学であるから、 200年という時間は、個人には充分過ぎる時間ではあっても、この「歴史学 」的手法で分析するには短すぎる。 そこで、和算の源流である中国算学から紐解いてゆく事にしよう。中国算 学は、紀元前後*6) に成立し、17、18世紀まで続いたもので、丁度、和算の 時間を補完するものである。

和算と中国算学のパラダイム

違う体系のもの同士を比べても、余り意味があるとは思えない。ところが 、日本と中国に限っていえば、和算は中国算学の影響下で発達したものであ るから、体系は似ている筈である。 日本語と中国語では全く異なる言語だが、幸い漢字という同文言語である 。発音は異なるが、講義録のようなものであれば、和算家は、中国人算家と 同じ条件で学習することができたのである。そして、中国算学は『九章算術 』 (著者不詳、A.D.1cごろ成立) で確立されたパラダイム(模範となる業績 )をずっと踏襲してきたのである。これは、次のような形式であった。 先ず、数値を問う「問」という形式で出題し、「答」が述べられ、最後に 答えを求める方法を「法」を記述した。例えば、方程式の語源になった、『 九章算術』の「方程」(多元一次方程式)を見てみよう。 今、上禾三秉、中禾二秉、下禾一秉にして、実三十九斗。上禾二 秉、中禾三秉、下禾一秉にして、実三十四斗。上禾一秉、中禾二秉 、下禾三秉にして、実二十六斗なる有り。上、中、下禾一秉にして 、実各幾何を問ふ。 答に曰く。上禾一秉九斗四分斗之一。 中禾一秉四斗四分斗之一。 下禾一秉二斗四分斗之三。 方程術に曰く。上禾三秉、中禾二秉、下禾一秉、実三十九斗を右 方に置く。中、左禾の列右方の如し。右行の上禾を以て、中行に偏 く乗じ而して、以て直ちに除く。又、其の次に乗じ、また以て直ち に除く。然るのち中行中禾を以て尽きざるは、左行を偏く乗じ、而 して以て直ちに除く。左方下禾尽きざるは、上を法と為し、下を実 と為す。実即ち下禾の実なり。中禾を求むるは、法を以て中行下実 に乗じ、而して下禾之実を除く。余は中禾秉数の如くして一、即ち 中禾の実なり。上禾を求むるは、また法を以て右行下実に乗じ、而 して下禾、中禾の実を除く。余は上禾秉数の如くして一、即ち上禾 の実なり。実皆法の如くして、各一斗を得。(巻8、第1題) 当時は、算盤では無く、算木という計算器具を使っていた。長さ六寸、直 径1分*7) というから、占いの筮竹よりやや小振りな竹ひごのようなもので ある。5までは数だけ、〓のように並べる。6からは算盤の五珠のように上 に1本を並べ〓のように並べる訳である。なお、転がって間違えないように 1(個)、百、万・・・の位は縦に、十、千・・・の位は横に並べた。 したがって、この問題では、 〓 〓 〓 (上禾) 〓 〓 〓 (中禾) 〓 〓 〓 (下禾) 〓〓 〓〓 〓〓 (実) のように並べられた。長方形に式を並べるという意味が「方程」というので ある。後は、加減法の要領で、各項を消去してゆけばよいのである。計算に ついては現在と同じ用語が多いが、「〜の如くして一」というのは、〜毎に 商が1、つまり、割るという意味である。 以来、中国算学ではこの形式で伝統が伝えられた。日本でも多くの算学書 がこの形式で書かれた。幾何の問題でも形を問う事はなく、数値を問題にし た。したがって、研究方向も数量を問うものに限定されたのである。

算盤への移行、「割り算九九」

掛け算の「九九」は、小学校の低学年で勉強するものであるが、これも中 国算学の伝統の一つである。 中国語は1つの単語が1音節、しかも、1文字で表すという珍しい言語で あるから、「九九」を歌のようにして覚えると、とても覚えやすい。1つの 掛け算が5音節以内で唱える事ができる。むしろ、結果が1桁のもの、例え ば、「二、二如(が)四」のようの場合は短すぎるので「如(が)」を補っ たりしているぐらいである。 「九九」の歴史は古く、春秋時代にまで遡る事ができる。ある時、斉の桓 公(B.C.685-643)が人材を求めた時に、「九九」を暗記しているという特技 で採用された者がいたという記事が残っている。しかも、この男が言うには 、「九九」のような一般的な教養があるだけで召し抱えられる事が天下に知 られれば、有能な浪人が広く応募してくるだろうから、宣伝効果として有効 だというものであった。事実、そのように桓公の下には多くの人材が集まっ たのだが、これからも分かるように、「九九」はこの時代にすでに広く流布 していたのである。 「九九」という言い方は、「九九、八十一」から始まる形式だったからで ある。後漢の墓から出土した竹簡はこのようになっている。交換法則は認識 されており、「八九、七十二」は「九八、七十二」で既に出ているので、省 略し、「八八、六十四」から8の段が始まっている。 現在のように小さな数からになったのは、5世紀ごろの事で、『孫子算経 』(著者不詳、 400年ごろ成立)前後からである。明確な「九九」の表は無 いが、「八九、七十二」のような表現があるから間違いないだろう。現在で は省略されている1の段、「一一如一」や「一二如二」も唱えられていた。 元代ごろになると、割り算の「九九」も発明された。今では、ほとんど使 われなくなってしまったが、「二一天作の五」という聞き覚えのある歌であ る。これは、1を2で割ると、0.5になるという意味である。 これは、「九帰」と言う。割り算の商と下の桁に「帰す」余りを歌にした ものである。日本と中国では、若干の違いがあり、『算学啓蒙』(朱世傑、 1299年)では、「二一添作五」と言っている。「添」は日本語では「天」と 同音であるから、こう変えられたのだろう。以下、「逢二進一十」、2を2 で割ると1が立ち、余りは0になり、「三一、三十一」、1を3で割ると、 0.3余り0.1になるというように進んで行く。余りは次の桁へ「繰り下 」げてゆく。 現在のように、掛け算の反対として割り算を考えるのは「亀井算」と言っ て、江戸時代の中期以降であるとされている。しかし、前出の『孫子算経』 には、既に、割り算を次のように計算するように明記されている。 「凡そ除の法、乗と正異。乗は(答えを)中央に得、除は上方に得。」 つまり、掛け算や割り算を算木では、3行に並べる訳である。掛け算なら 1行目と3行目に並べて、答えは2行目に出てくる。割り算は反対に、「実 (被除数)」を2行目に並べ、「法(除数)」は3行目に並べて、答えは1 行目に現れるのである。 例えば、738÷6なら、以下のようになる。 商(答え) 〓〓〓 実(被除数) 〓〓〓 法(除数) 〓 『孫子算経』以来、掛け算と割り算を同じ原理である事は知られていたが 、計算速度を上げるために、掛け算と割り算を違う演算として扱うようにな ったのである。 これは珠算が普及したことも関係がある。算木は確実に計算できるが、何 と言っても計算速度が追いつかない。間違えない為に、1桁毎に縦、横とい う様にしている事も面倒になる。ある数値を10倍にしようとすと、これが中 々厄介で、只1桁移動させるだけでは駄目なのである。1桁毎に縦式から横 式に並べ換えなくてはならないからである。 そこで、全部同じ様に表現できて、しかも間違えないようにするために、 珠を串に通すという器具が考えられた。これなら、10倍にするにも簡単だし 、それ以外の数値を盤面に置くにも素早くできる。 しかし、大陸的な大らかな、悪く言えばいい加減な、工芸技術では、日本 の算盤の様に小型のものを作る事はできなかった。珠が容易に誤って動かな いようにするには、ある程度の重さが必要である。当然、算盤は大きくなり 、算木のように何行も縦に並べるような計算方法では、巨大な算盤になって しまい実用にはならなくなってしまった。 「帰除法」はこの珠算という器具に適した計算方法と言える。割る数値に よって、下の桁へ「繰り下」げる数が決まってくるのだから、「割り算九九 」を覚えていれば、とても速く計算できる。中国の珠算が梁上に五珠が2つ 、梁下に一珠が5つあり、1桁で15まで置けるのは、「繰り下」げやすくす るためである。9が置いてあるところへ9を「繰り下」げる事もあるから、 18まで置けるとよいのだが、実用的には15までで何とかなる。事実、五珠が 3つ、一珠が5つの算盤も作られたが、普及しなかった。 また、16進法の単位、例えば、1斤=16両、1両(=4分)=16朱も良く 使われていたので、これらの計算には二珠の算盤が都合が良かったのである 。 日本では、やがて梁上一珠になり、更に梁下四珠のものへ移行した。これ は、「帰除法」が廃れ、メートル法が普及した事と規を同じくしている。 四則演算だけならば珠算の方が算木より便利であるが、先の「方程」のよ うに項が多い場合は不便である。開平方、開立方になると算盤では相当難し くなる*8) 。0次の項(「実」)、1次の項(「方」または「法」)、2次 の項(「廉」)、3次の項(最大次数の項「隅」)と項を置くだけでも大変 である。これ以上の高次方程式は珠算では殆ど不可能である。 現在のコンピューターでは、計算を全て足し算に還元して行っている。引 き算は補数を足して、最上位をカットすればよいし、掛け算は乗数分だけ足 し算を行い、割り算は、除数を何回引けるかというものに置き換えられる。 以下、高度な計算も四則演算に還元できるから、全ての計算は足し算の応用 と言える。ここが、コンピューターが「数学」であるという所以だろう。森 羅万象を公理に帰納して、そこから世界を構築するという技法である。 これに対して、算盤時代の中国算学はある目的に向かって、必要な計算を 創造するものである。「割り算九九」は割り算にしか使えないが、割り算を するだけなら、極めて速いし、間違いも少なくできる。割り算をする時に、 何も掛け算まで考慮する必要はなく、掛け算をするときには掛け算の「九九 」を使えばよい。筆者はこのような考え方のほうが、人間の思考らしいと思 うし、人に優しいと思うのだが。 また、コンピューターのプログラムを作る時にも、算学的思考の方が優れ ているのではないだろうか。例えば、1から10の自然数を入力するようなル ーチンがあったとする。入力者が間違えて、11以上や小数を入力しないとも 限らないから、このトラップは用意するにしても、キーボードから無理数を 入力するのは難しいだろう。まして、虚数を入力するのは至難の技である。 そうなれば、無理数や虚数に頭を悩ますより、無視して先へ進んだ方が建設 的と言うものだろう。

中国算学の時代区分

このように、中国算学は、大体漢代に成立し、唐、宋と発展した。清の算 学者、梅文鼎はこれを「籌(算木)」の時代と区分している*9) 。比較的西 洋数学に近い体系のために評価されている時代である。 この時代には、算木を使い、4次以上の高次方程式を解いている。これは 「天元術」の名で、よく知られている。これについては、次回以降で詳しく 述べるつもりである。 やがて、元代を経て、明代になると珠算を使う算学へと変質する。算盤で は、高次方程式を解くことは難しいから、これに代わって方陣(魔法陣)の ようなものが発達する。梅文鼎の孫、梅〓成によれば、これは算学では無く 、呪術だと言う*10)。 +― 剋 ――――― 火 ←+ ↓ +―――+―――+―――+ 剋 金 | 4―――9 | 2 | | □ 奇数 | +―――+―――+―|―+ | 偶数 | | 3 |5 土| 7 | | | +―|―+―――+―――+ | 木数 : 3, 8 剋 | 8 | 1―――6 | 水 火数 : 2, 7 | +―――+―――+―――+ ↑ 土数 : 5 +→ 木 剋 金数 : 4, 9 水数 : 1, 6 これは、中国で不思議な力を持っていると信じられている「洛書」と言わ れる方陣である。縦横の和が15という性質以外に、奇数が辺に、偶数が角に なっている。さらに、数字には五行があり、その順番が、天の回転する方向 (麻雀と同じ方向)という。 このように、西洋数学とは、掛け離れているために、算盤時代は数学とし ての評価が低くなっている。 そして、清代になると、西洋数学が圧倒的に流入して、その本質すらも変 わってしまうのである。梅文鼎によれば、筆算の時代という。 中国算学史家には、元代ぐらいまでの算学を中国の伝統と考える事もある ぐらいである。

日本への伝来

日本へ中国算学が伝えられたのは、2回である。第1回目は唐の律令制度 を学ぶために遣唐使が派遣された奈良時代、または少し前である。その時に 、律令制度に組み込まれた算学が伝えられた。土地を区分したり、徴税した りといった行政に必要な算学、それに暦を作成するときに、太陽や月、惑星 の軌道を計算するための算学である。 これは「律令期」とでも呼ぶべきだろうか。体制に組み込まれた算学なの で、比較的洗練されたものが伝えられたようである。 先に紹介した『孫子算経』もこの時、伝えられている。しかも『孫子算経 』は、算木のための教科書として、『学令』の筆頭に挙げられ、当然、最も 広く学習されたはずである。『孫子算経』の問題、例えば、「鶴亀算」に類 する問題など僅かに後世に伝えられている。しかし、平安時代までには、こ れらの伝統は滅んでしまったようである。律令制度そのものと同じように、 全くの模倣であり、日本の風土に根づくことは無かったのである。 2回目は、豊臣秀吉の朝鮮出兵のおりである。朝鮮では、宋、元時代の算 学書、『楊輝算法』(楊輝、1275年)、『算学啓蒙』(朱世傑、1299年)を 教科書として使っていたので、戦利品としてこれらの書籍が伝えられた。ま た、中国との貿易を通して、『算法統宗』(程大位、1592年)がもたらされ た。 前二者と後者は、中国算学史上では、性格を異にするものである。したが って、日本へは、ほとんど同時に、2種類の算学が伝わった事になる。これ は、色々な意味で、非常に重要である。日本の算学者は、異なった算学を前 に戸惑った事であろうが、反面、取捨選択ができた。「律令期」では、絶対 的な算学が押しつけられたのに対し、今回は、相対的なものだったのである 。つまり、中国の算学は絶対的なものではなく、日本の算学者が自ら応用す る余地を残していたのである。 中国算学の精華である「天元術」も、模倣だけに止まらなかった。『算学 啓蒙』という入門書だけを頼りに、和算家は「天元術」を吸収して、独自の 和算を作り上げたのである。関孝和の「点竄術」は一種の代数的記号であり 、算木という器具を使う「天元術」より〓かに便利だったのである。このよ うに、前回とは同じ中国算学の導入ではあったが、性格の異なるものなので 、「和算期」と呼びたい。 「和算期」の寺子屋レベルでは、算盤教育が中心である。それ以上の、所 謂、和算となると算木を基礎とした算学に切り換えるのである。本来、異な った算学が接ぎ木されていたのである。このように異なった体系、例えば算 数から数学、へと移行する事に、江戸時代から日本人は慣れてきているよう である。

まとめ

このように、日本算学は、日本古来の算学だけではなく、中国算学を重層 的に影響されるという複雑な発展を示している。これを図に示せば、次のよ うになるだろう。 西洋数学 ↓ 漢 唐 宋 元| 明 | 清 中国 ――――――――――――+――――――+―――――――― 算木時代 | | 算盤時代 | 筆算時代 | +――――――――+| ↓ ↓↓ 日本 ―――――――――――――――――――――――――― 律令期 和算期 ↑ 西洋数学 このような日本算学を考える上で、日本だけを考察するのでは不十分であ る。中国算学、西洋数学といった直接影響を与えたものは勿論、宋、元算学 を 500年間保持し、日本へ伝える役割を果たした李氏朝鮮も考えなければな らない。その意味で、日本算学研究は歴史と数学の狭間という学際的視野の みならず、国際的視野が要求される分野である。 現在、小学校の算数は算学の一部を学習していることになる。これらの延 長である和算の方法でも数学の問題は解決できるが、現代数学とは体系が異 なるために、中学校からは学習されなくなってしまう。現代数学を算学的に 変換して、小学校と中学校を繋げることも不可能では無いだろうが、労力が 掛かりすぎる。数学だけでは無く、算学まで理解しなければならないのだか ら。 注釈 (*1): 秦九韶、『数書九章』 (1247年) の序文などが最も古い例であろう。 (*2): 李儼、『中算史論叢』も、中国の算学という意味である。 (*3): 村松茂清、『算俎』(1663 年) では、球を 100個に輪切りにして体積 を計算している。 (*4): 関孝和、『解伏題之法』(1683 年) 。 (*5): 石田一良、『時代区分の思想』参照。 (*6): 最古の算学書は紀元前 186年ごろの『算数書』と呼ばれる竹簡で、中 国湖北省から出土している(拙稿、「中国湖北省江陵県張家山遺跡出土 『算数書』について」参照)が、未だ『九章算術』のパラダイムは成立 していない。 (*7): 許慎、『説文解字』、第五上による。 (*8): 程大位、『算法統宗』(1592年)が開平方、開立方を算盤で解いてい る。 (*9): 梅文鼎、『梅氏叢書輯要』(1761年、梅〓成編) 「方程式論」方程論 発凡、方程残欠之故、「筆算」自序。以下の時代区分も同じ。 (10): 梅〓成編、『増刪算法統宗』、1757年の序文。程大位、『算法統宗』 (1592年)から方陣などは数学ではないとして削除した算学書である。 参考文献 石田一良(編). (1986). 『時代区分の思想』. 東京: ぺりかん社. 城地茂. (1987). 「中国湖北省江陵県張家山遺跡出土『算数書』について」 『数学史研究』112: 13-21. 李儼. (1937). 『中国算学史』. 上海: 商務印書館. ―――. (1933-47). 『中算史論叢』. 4巻. 上海: 商務印書館. 第2集. (1954-5). 5巻. 北京: 科学出版社. 李儼・杜石然. (1976). 『中国数学簡史』. 香港: 商務印書館香港分館. 日本学士院 (編)(藤原松三郎). (1954).『明治前日本数学史』5巻. 東京: 岩波書店. 銭宝〓. (1964). 『中国数学史』. 北京: 科学出版社. 下平和夫. (1965-70).『和算の歴史』. 2巻. 東京: 富士短期大学出版部. 藪内清. (1974). 『中国の数学』. 東京: 岩波書店. Needham, Joseph. (1954-). Science and Civilization in China. 7 vols. projected. Cambridge: Cambridge Univ. Press.
Back to Home Page