律令期の算学

城地 茂

Japanese Mathematics at the Ritsuryo Period

Shigeru Jochi


律令体制と古代日本算学の特徴

日本の古代文化は北中国文明を親文明として生まれた。東アジアで最高の 文明を誇っていた中国に国策として留学生を送り出し、貪欲にそれを吸収し ていったのである。 当時、中国大陸は南北朝の動乱が終わり、唐の算学は漢時代のパラダイム が完成した時期であった。ノーマルサイエンス(普通科学)を進めるべく、 算学教育も完備されていた。試行錯誤の時代を越えて、完成した絶対のもの として日本へもたらされた。 この時代は、算木という計算器具を使う時代であって、まだ算盤は現れて いない。算木は占いの筮竹を少し小さくしたようなもので、算盤に比べて計 算は遅くなるけれども、多くの項を同時に並べて計算するのに適している。 これを使って、日本全国の事務を処理したのである*1) 。 しかし、北中国の算学は、水利社会を運用するためのものであった。広大 な黄河平原で、季節を客観的に把握するための天文暦を作るためのものであ り(写真1〜4参照)、遠く離れた地方に班田を行い、徴税するためのもの であった。 これに対して日本は、山を一つ越えれば気候も違うようなムラ単位の水稲 農耕である。星の位置をどうこう言うよりも、花が咲き、鳥が歌う事で季節 を知る自然暦の方が適している。 これは、算学に限ったことではなく、律令制度そのものが日本の風土に適 したものとは言えなかった。そこで、経済のような下部構造は比較的早く日 本的なものへと改められたが、文化のような上部構造は維持されるという二 重構造が日本史の特色になった*2) 。算学も定着したわけではなく、応用ま でゆかず、模倣されるだけだった。

算学教育

北中国算学は式部省(人事院)の大学寮(寮は現在の局に相当する。写真 5〜7参照)で教育されていた。天文や陰陽、医学といった算学以外の方伎 (ほうぎ、技術)職はその役所で自家養成されたが、算学は中央で養成され た。民部省の主計寮と主税寮の算師という専門家以外にも、一般職でも算学 は必要だったのである。 教授として算博士が2人、学生は算生が30人である。算博士は、算学の最 高官で、唐では算学博士と呼ばれたが、日本では「学」が省略されている。 このような些細な変更を除けば、ほとんど唐の教育制度の模倣である。 算生の入学資格は貴族の子弟に限られ*3) 、その他には国学(国ごとにあ る学校)の優秀者や史部(記録官)など限られた階級だけで、庶民が入学す ることは難しかった。 教科書は、『学令』算経条に細かく規定されている 。書名はもちろん、誰の注釈を使うかまで細かく決められている。 「凡そ算経は、『孫子(算経)』『五曹(算経)』『九章(算術)』『海 島(算経)』『六章』『綴術』『三開重差』『周髀(算経)』『九司』、各 一経と為せよ。学生は経を分かち業習へ。」 と、中国、朝鮮の算学書が主体で、漢文で記述している。したがって、これ らを学習するためには、高度な漢文の知識が必要であり、大学寮の効果的運 用のためにも算生を大学寮の中に置いたのだろう。 2人の算博士が、それぞれ『九章算術』『海島算経』『周髀算経』『五曹 算経』『九司』『孫子算経』『三開重差』を履修する組と、『綴術』『六章 』を履修する組を、15名づつ教育していたのだろう。 唐の制度と比較すると、相当な類似点が見られる。唐の李淳風が編纂した 教科書『算経十書』のうち、6部が同じものである。律令制度の運営に必要 なものが選ばれている。 +――――――+―――――――――+――――――――+――――――――――+ | | 唐 | 新羅 | 日本 | +――――――+―――――――――+――――――――+――――――――――+ | 教員 | 算学博士2人 |算学博士又は、 | 算博士2人 | | | (従九品下) |助教1人 |(従七位上 | | | 助教1人 | | 後に正七位下) | | 入学資格 | 14〜19才 | 15〜30才 | 13〜16才 | | | 八品以下 |大舎(12/17) 以下|五位以上(八位可) | | | | |東西史部、国学優秀者| |卒業後の叙位| 従九品下 | 大奈麻、奈麻 |大初位上、大初位下 | | | (30/30) | (10,11/17) | (27,28/30) | | | | | | | 教科書 |九章、海島、孫子 |六章、三開 |九章、海島、周髀 | | |五曹、張丘建 | |五曹、九司、孫子 | | |夏侯陽、周髀、五経| |三開重差 | | | | | | | |緝古、綴術 |九章、綴術 |綴術、六章 | | |―――――――――+ | | | 基礎教育 |数術記遺、三等数 | | | +――――――+―――――――――+――――――――+――――――――――+ 表1 東アジアの算学教育の比較 (位階の下の数字は、全位階分の序列、(27/30) は30階中の27番目を意味する。) 教科書の採用に当たって、律令の制定者はかなり研究したようである。採 用しなかった算学書も輸入されており、同種の数学書の中から、代表的なも のを選び、学習を効果的に進めるように工夫を凝らしている。 これらの教科書を1部 200日かけて教育した。そして、試験に合格すると 、成績によって位階を得ることになっている。 しかし、どこまで理解したかは疑問であり、漢字1文字を隠して、それを 当てるような問題であったとも言われている。 『九章算術』と『六章』からは特別に3問出題される。その他は1問づつ なのにである。しかも、3問とも間違えた場合は、他の算学書が満点でも、 落第になってしまった。『六章』は『九章算術』の前半6章と考えられ、規 定上は『九章算術』が重視されていたが、双方とも日本では後世への影響は 少なかった。 いずれにせよ、満点なら大初位上(30階中27番目)、9問中6問以上でき れば大初位下(28番目)に叙せられた。これは、蔭位の制の受益者と比べる と問題にならない下位であった。そのため、算生の主体は六位〜八位の子だ ったようである。そして、実務官僚として主計寮と主税寮算師(従八位下) といった計算を任務とする役職に任官した。また、玄蕃寮(仏教関係)の官 僚になった例、各国の国司になった例が報告されている*4) 。 ところが、やがて算学は、小槻氏・三善氏が算博士を世襲するようになり *5) 、有名無実化してしまう。世襲を超克しようとした律令体制が、実力本 位であるべき算学の分野まで崩壊してしまったのである。 これには『周髀算経』を利用した他氏排斥運動があったようである。天平 三年 (731)3月7日、『周髀算経』ができない者は卒業できない規定になっ た。『周髀算経』は中国式宇宙論、「蓋天論」を展開する暦書であり、算学 書のように独学で学習できる種類のものではない。哲学的教養と語学力が必 要である。そこで、渡来人系の氏族は、これを必修とすることで、他氏を算 学から締め出したのである。

『孫子算経』の影響

大学寮で教育された算学書の中で影響が最も大きかったのは『孫子算経』 である。入学して最初に学習する教科書なので、印象が強かったのかもしれ ない。 『孫子算経』は中国の算学書には珍しく、算学の問題の他に、算木による 演算方法を解説したり、位取りを説明したりしている。入門書として最適で あった。 しかし、著者も明らかではない。成立は 400年前後とされている。現存す る最古の版本、南宋本では、上、中、下の三巻になっている。 上巻には、度量衡や大数の名称、算木の計算方法の説明がある。ここで、 大数の名称(万、億、兆など)が、「大数之法」の節と「量之所起」の節で 異なっている。前者では「万万を億と曰ひ、万万億を兆と曰ひ、(中略)万 万正を載と曰ふ。」と、8桁毎に新しい位使う、言わば八桁進法となってい る。これは『数術記遺』(甄鸞、6世紀)によれば、「中等数」という方法 で、中国では現在でも使うこともある。しかし、後者では、『数術記遺』の 「下等数」という方法、すなわち、億の十倍が兆のように原始的な十進法( 1桁進法)になっている。これは『孫子算経』が複数の著者によることの証 左だろう。なお、「上等数」は、それまでに定義した大数を最大限に使うも のである。つまり、万万が億になり、億億が兆、兆兆が京になる。 中巻は、『九章算術』の内容に相当する問題であり、形式も同じである。 『九章算術』のダイジェスト版ともいうべきもので、これといって目新しい 問題はない。 下巻は、算学の難題を集めたもので、面白い問題が多い。「雉兎同籠」は 、「鶴亀算」として馴染み深いものである。また、「物不知其数」問題は、 江戸時代まで伝わっている。 ここで「物不知其数」問題を説明をしておこう。 「今、物有り。其の数を知らず。三三とこれを数ふるに二剰り、五五とこ れを数ふるに三剰り、七七とこれを数ふるに二剰る。物幾何を問ふ。」 という問題である。つまり、ある数を3で割ると2余り、5で割ると3、7 で割ると2余る。ある数は幾つかという問題である。 105以下の数なので、順次、適当な数を当てはめても答えは得られる。23 が答えになる。しかし、『孫子算経』ではその一般解として、 「凡そ、三三とこれを数ふるの剰り一を七十と置き、五五とこれを数ふる の剰り一を二十一と置き、七七とこれを数ふるの剰り一を十五と置く。(こ れを并せ、)一百六以上は、一百五を以ってこれを減じ、即ち得。」 と公式を示している。 この公式によれば、3の余りに70、5の余りに21、7の余りに15を掛けて 、それらを加えたものの 105の剰余が、答えになる。最後に 105づつ減らし て求めることから、江戸時代は「百五減算」と呼ばれた。「孫子定理」、「 中国剰余定理」とも言われている。 xをaで割った余りをRとして、これを x〓R(mod a) と書くことにする。 x〓 2(mod 3) 〓 3(mod 5) 〓 2(mod 7) のとき、 x〓 2×70+ 3×21+ 2×15(mod 3× 5× 7) 〓 233 (mod 105) ∴ xmin = 233− 2× 105 = 23 となり、23は確かに正解である。 どうやら、この計算の秘密は70、21、15という数字にありそうである。21 は 3と 7掛けた、15は 3に 5を掛けたものに違いない。しかし、70は 5に 7 を掛けたものに更に 2を掛けている。 一般に、 x〓R1 (mod a1 ) 〓R2 (mod a2 ) 〓Rn (mod an ) (ai ,aj )=1 のとき、ai を全部掛け合わせたもの、m=Πai (『数書九章』(秦九韶 、1247年)の術語では、「衍母」と言う、以下同書の術語を併記する)と mi =m/ai (「衍数」)を考えてみよう。 各除数は互いに素なので、必ず、 ki mi 〓1(mod ai ) を満足するki が存在する。剰余方程式には乗法定理が成立するから、両辺 に余り、Ri を掛けると、 Ri ki mi 〓Ri (mod ai ) となる。このRi ki mi のうちのmi は、ai 以外の全てのaj を掛けた ものであるから、 Ri ki mi 〓0 (mod aj ) となる。 ここで、各Ri ki mi を足すと、加法定理が成立するので、 R1 k1 m1 +R2 k2 m2 +―+Rn kn mn 〓R1 +0 +―+0 (moda1 ) 〓0 +R2 +―+0 (moda2 ) 〓0 +0 +―+Rn (modan ) となり、ΣRi ki mi は題意をすべて満足する。そして、これにmを加減 しても、同値であるから、最小値、xmin を求めるために適当な回数だけm を引けばよい。 x 〓ΣRi ki mi (mod m) xmin =ΣRi ki mi −pm (p∈I,p≧0) 『孫子算経』の問題は、ai =3,5,7 ; Ri =2,3,2 なので、 ∴ k1 =2 k2 =1 k3 =1 したがって、 k1 m1 =70 k2 m2 =21 k3 m3 =15 となる。つまり、このki mi (「泛用」)が術文にあった数値だったので ある。そして、引いてゆく数mは 105である。

日本独自の位取りの発明

このように奈良時代に北中国の算学が伝わったが、その後の様子は、史料 が極めて少ないため、不明な点が多い。数少ない史料も模倣が多く、日本独 自のものは少ない。 「物不知其数」も不思議な問題として『二中暦』(鎌倉時代)などでよく 取り上げられたが、この問題で重要なki を求める方法を解明することがで きなかった*6) 。したがって、各除数ai を7、5、3から他の数に変える ことはできず、70、21、15の数値を使うだけだった。余りRi を変えるのが 精一杯で、模倣の域を出なかったのである。 数少ない独自性の一つは、『孫子算経』にあった八桁進法を現在のように 四桁進法に改めたことである。 中国では、ずっと八桁進法が用いられた。算盤時代(明代)になっても、 その代表的著作『算法統宗』(程大位、1592年)も八桁進法である。近年、 四桁進法も使われるようになったが、現在でも辞書には2つが併記されてい る。 江戸時代にベストセラーになった『塵劫記』(吉田光由、1627年)は四桁 進法だったので、日本にはこれが広く普及した。 最初の四桁進法の記述は、『以呂波字類抄』(鎌倉時代の増補版)に見ら れる*7) 。万以上、億、兆、京、垓、〓、壌、冓、潤、正、載と、『孫子算 経』と名称は同じであるが、「万億を兆と為す」と4桁ごとに新しい単位に なる。 鎌倉新仏教である浄土宗、真宗では西方浄土まで、十万億土の仏地がある と説いている。したがって、鎌倉時代前半は、八桁進法を使っていたと思わ れる。 日本文化史の時代区分では、古代は元寇のころまで続き、所謂、中世は過 渡期であり存在せず、近世が元寇以降始まることになる。したがって、この 時代区分が算学史にもあてはめられれば、元寇以降と推測できる。 なお、『口遊』(平安時代)には、一桁進法の記述もある。 英国と米国の位取りが異なっていることは有名である。英国では六桁進法 だが、米国は三桁進法であり、これは中国と日本の関係に相当する。偶然に しても面白いことがあるものである。 いずれにせよ、このように西洋では3の倍数になっている。これは、体積 との関係によるものと考えられる。一辺を10倍すれば体積は1000倍になるか らである*8) 。 これに対して、東洋では4の倍数である。これは、中国では面積の概念は あったが、体積の概念が希薄だったからである。面積の概念から二桁進法と なり、これが四桁進法になったようである。 『九章算術』(著者不詳、1世紀)に次のような問題がある。 今〓有り。上広、一丈六尺三寸、下広、一丈, 深さ、六尺三寸, 袤、一十 三丈二尺一寸。積幾何かを問ふ。 答に曰く。一萬九百四十三尺八寸。〔八寸は穿つ地を謂ふ。方尺、深さ八 寸。此の積の餘り方寸中二分四厘五毫有れども、これを棄つ。(以下略)] 〓枠01〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 〓 〓 〓 〓 〓 16.3尺 〓 〓 6.3 尺 〓 〓 10 尺 〓 〓 132.1尺 〓 〓 図1 〓 〓 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 問題自体は簡単である。図1のような図形の体積を求めるものである。答 えの「一萬九百四十三尺八寸」に注意しなければならない。 中国では、『九章算術』以来、ずっと平方尺も立方尺も同じ尺という単位 で表している。つまり、この尺は立方尺のことである。しかし、寸は立方寸 ではなく、1尺平方の底面積で高さ8寸余りと注釈している。つまり、1尺 平方の面積に高さを掛けたもので、体積を表しているのである。 中国では円は「平円」で球は「立円」とするのも同じ考え方である。この ような考え方からは西洋と異なる体積の概念が発達することになる。 これに対して、日本では体積の概念は比較的西洋のそれと似ている。 時代は下るが、『本朝度量衡攷』(狩谷〓斎、18世紀)には、 酒井家に参河以来, 用ひ来りしと云ふ量を伝へらる。縦五寸, 横四寸九分 、深さ二寸六分。 [積六十三寸七百分。今の九合八勺七撮弱を受く。] とあり、この「七百分」とは 700立方分のことである。これは算学の専門書 ではないから、相当早い時期に日本では体積の概念が広まっていたのだろう 。 このように僅かながら、日本独自のものを目指す動きがあり、和算を生む 下地は鎌倉時代後半から育っていたのである。これは、やがて南中国算学書 がもたらされると、一挙に花開くことになるのである。 注釈 (*1): 『倉庫令』受地租条には、「凡そ地租を受けむことは、(中略)京国 の官司、輸さむ人と共に籌(算木)を執りて、対して受けよ(後略)」 とあり、官吏は算木を使って税金を計算することを定めている。 (*2): 律令体制とは、もはや血縁関係がその社会の構成要因とはならないほ ど大型化した社会で、古代国家文明ともいうべきものである。日本では 氏姓制度という社会学でいう部族文明の段階から、首長国文明の段階( 国家の構成が血縁関係による社会)を経ずに急に律令社会という古代国 家社会になってしまったのである。この飛び越しは、後世、資本主義が 定着した、所謂、第一地域に共通する現象であり、その後の日本に多大 な影響をもたらした。 部族→首長国→古代国家―――――→社会主義? 第二地域(中国・インドなど) | +――――→古代国家→封建社会→資本主義 第一地域(西欧・日本) 梅棹忠夫. (1967)『文明の生態史観』(中央公論社)参照。 (*3): 算生の入学資格も、学生と同じく、五位以上の子や孫で、八位以上の 子も特別に許される規定だった(拙稿. (1987)参照)。 (*4): 大竹茂雄. (1983)に『六国史』に記載された算・暦家の官位22例の報 告がある。 (*5): 『二中暦』には、延喜年間から鎌倉時代の算博士37名の名前が列挙さ れているが、小槻姓が16人、三善姓が10人である。(日本学士院編. (1954) v.1: 153) (*6): ユークリッドの互除法(中国では「更相減損」法)を使って求めるこ とができる。 ax+by=1 (a,b)=1 からx,yを求めるのと同じ計算である。中国では『数書九章』(秦九 韶、1247)、日本では『括要算法』(関孝和、1712)に詳しい説明があ る。 (*7): 大矢真一. (1980): 85. (*8): 森毅. (1989): 30. 参考文献 大竹茂雄. (1983). 「古代律令制下の算・暦家の官位について」, 『数学史 研究』97号 大矢真一. (1980). 『和算以前』. 中央公論社. 小倉金之助. (1973). 『中国・日本の数学』. 頸草書房. 亀田隆之. (1980). 「奈良時代の算師」, 『日本古代制度史論』. 吉川弘文 館. 金容雲・金容局. (1978). 『韓国数学史』. 槙書店. 請田正幸. (1986). 「平安初期の算道出身官人」, 『古代国家の支配と構造 』. 田名網宏編. 東京堂出版 沢田吾一. (1927). 『奈良朝時代の民生経済の数的研究』. 富士房. 城地茂. (1987). 「律令期の数学教育」, 『数学史研究』 117号. ―――. (1991). 「日中の方程論再考」, 『数学史研究』 128号. 銭宝〓編. (1963). 『算経十書』. 北京: 中華書局. 銭宝〓. (1964). 『中国数学史』. 北京: 科学出版社. 日本学士院編. (1954). 『明治前日本数学史』5巻. 岩波書店. 橋本義彦. (1976). 「官務家小槻氏の成立とその性格」, 『平安貴族社会の 研究』. 吉川弘文館. 三上義夫. (1984). 『文化史上より見たる日本の数学』. 恒星社厚生閣. 桃裕之. (1947). 『上代学制の研究』. 吉川弘文館. 森毅. (1989). 『数の現象学』. 朝日新聞社. 李儼. (1937). 『中国算学史』. 上海: 商務印書館. 写真説明 1 中国河南省登封県の古観象台(元代) 高さ40尺の「圭表」(影長観測器) 2 中国河南省登封県の古観象台(元代) 3 同敷地内にある周公の「表」(影長観測器) 4 北京の古観象台(清代) 高さ8尺の「圭表」(影長観測器) 5 北京国子監(大学)で復元された釈奠(孔子の誕生会) 祭酒(大学学長)が主催する。 6 釈奠に参加する教授と学生 7 学生の礼装に身を包んだ筆者 外字 〓 のぎへん(禾)に市 p.7 l.17 〓 漸のしたに土 p.7 l.38 p.8 l.11 〓 きへん(木)に夜 p.8, l.24 狩谷〓斎 〓 たまへん(王)に宗 p.10 l.9,10 銭宝〓
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