和算誕生

城地 茂

The Birth of Japanese Mathamtics

Shigeru Jochi


関孝和ー和算パラダイムの創始者

 和算家の中でも、関孝和(1642?-1708)の名声は一際高い。もちろん、当 時、随一の算学者であったことは間違いないのだが、業績の面から見ると、 弟子の建部賢弘(1664〜1739)*1) の方がより高度なものを上げている。  しかし、関孝和が和算の開祖という地位は、やはり揺るぎないものである 。和算のパラダイムを作ったのは、関孝和であり、それ以後の和算の世界的 な業績の数々は、その中で生み出されたものだからである。  関孝和の生み出した和算は、西洋近代数学によく似ている。したがって、 現代という視点から見たのでは、西洋数学の漢文への翻訳者という面しか見 えてこない。  本来、業績中で最も注目すべき和算的代数記号・「点竄術」も、西洋の代 数学と比べると、目新しい事は無いように思える。円の研究など西洋に先駆 けての業績に目を奪われがちであるが、それだけでは、関孝和の真の偉大さ が分からなくなってしまう。本稿では、「点竄術」以降を和算と呼び、それ 以前は、日本の算学と呼ぶことにしよう。  関孝和の業績の多くは、中国語(漢文)で書かれ、しかも、『九章算術』 (著者不詳、1c)の形式で記述されている。そして、その課題は、中国の 宋、元時代のそれと同じものである。  円周率の計算にしても、すでに中国で完成しており、計算に関しては、関 孝和に帰すべきものは少ない。しかし、円周率の公式(注1参照)を求める には、代数記号がなくては不可能であり、中国算学にはそれが無かった。真 の業績を理解するためには、中国算学を理解した上で、その長所と欠点を検 証しなければならない。そして、その欠点の克服を関孝和が成しえたという 事に注目すべきである。逆に言えば、中国算学を研究する上で、和算を見な いということは、その本質や欠点が見えてこなくなってしまう。  そこで、今回は、その母体となった東洋算学の視点から関孝和の業績を見 てゆくことにしよう。

関孝和の伝記

 関孝和は、禄高 250石(後 300石) *2) の旗本である。上級とは言えない が、将軍に謁見を許された武士である。現在でいえば、課長クラスといった ところだろうか。  本来、この位の家系ともなれば、幕府に公式の家系図が記録されているの だが、関家は、関孝和の養子の新七のときに断絶してしまい、そのため、関 孝和の生年月日も分からないありさまである。  一説によると、ニュートン(写真1参照)と同じ1642年といわれるが、確 かな証拠はない。どうやら、この年より何年か前らしく、1637年ごろとも言 われる。父の内山永明の勤務から考えて、1642年生まれならば江戸、1639年 以前(したがって1937年も含む)ならば群馬県藤岡(写真2参照)の生まれ ということになる。  名前の読み方は、「たかかず」であるが、東洋算学史の先達、三上義夫( 1875〜1950)らが英文で「こうわ」と発表したため、欧州ではこの方が通っ ている。もっとも、これはペンネームであり、関新助が通称である。  職務は勘定方で、算学と関係あるものと言える。最後は納戸組頭(出納長 )まで昇進しているから、官僚としても有能だったのだろう。  生前に刊行された算学書は少ないが、名作ぞろいである。『発微算法』( 1674年)は、「甲」「乙」といった漢字を使った代数学、「点竄術」を発表 、この年が和算元年と言える。  数は多くないが、優秀な弟子を育成、1708年10月24日に没した。その墓は 、東京牛込の浄輪寺(写真3参照)にあるが、弟子たちが分骨して、各地に 墓が建立さている(写真4、5参照)。

関孝和の学んだ中国算学

 元寇を境にして、日本の中国文化にたいする考え方が変わってきた。それ 以前は、憧憬の彼方にあって、せいぜい模倣するしかなかったものが、急に 現実のものとなったのである。戦争という形でそれに直に接し、しかも、防 衛に成功したことで、日本文化と並列するものへと引き下げられた。  中国文化自体も変質したようである。上古の北中国文化は、競う相手の無 い、絶対のものだったが、この頃になると文化の中心は、江南(揚子江の南 )へと移っており、北中国文化を尊重しつつも、それと並立する新たな文化 が華開いていた。  そして、この南中国文化は水稲農業を基礎とするもので、日本の風土と近 いものだった。そこで、この文化を基に、応用して日本独自の文化を育てて いったのである。畳を敷き詰めた日本式の建築や食生活などは元寇の後、室 町時代頃に成立したものである。  算学の分野でも、前回紹介した位取りといった基本的なものが日本風に変 わり、日本独自の算学、和算が生まれる土壌が整えられてきていた。しかし 、和算が成立するためには、知的なインパクトが必要だった。そして、それ はやはり中国からもたらされたのである。  関孝和の活躍した時期は元禄時代で、文化の中心は上方であり、この時代 の算学者も京阪に多い。彼らは、民間貿易で入手した中国算学書を独学で習 得していた。  日本算学を草の根レベルまで普及させるという世界に類を見ない業績であ る『塵劫記』(吉田光由、1627年)は有名である。これは、『算法統宗』( 程大位(写真6、7参照)、1592年)をもとに編纂されたものである。また 、解が複数ある高次方程式を研究した沢口一之の『古今算法記』(1671年) 、これは『楊輝算法』(楊輝、1275年)をもとに研究したものである*3) 。 これら京阪の算学者の業績の上に、和算は打ち立てられたのである。

『算学啓蒙』と『算法統宗』

 豊臣秀吉の朝鮮出兵により、中国本土でも見ることができなくなっていた 稀覯本、『算学啓蒙』(朱世傑、1299年)という算学書が戦利品としてもた らされた。名前のように入門書であるが、算木算学の最高傑作ともいえる「 天元術」を解説する本だったのである。  当時中国では、算木システムから算盤システムへと移行しており、「天元 術」も忘れさられていた。しかし、これは、中国算学の退化ということでは ない。算盤算学では、小数点以下25桁まで無理数を計算したり、大型の魔法 陣を作ったり、膨大な計算量を必要とするものが重視されていた。これは、 西洋近代数学とは異なるものだったので、現在では評価されていないようで あるが、方向性の違いと考えるべきで、退化というのは当たらないだろう。 今後、コンピュータ的数学が成立すれば、脚光を浴びるような種類の算学で あった。  この算盤算学の最高峰といわれるのが、『算法統宗』である。これは、『 楊輝算法』という算木算学の集大成とも言えるものを算盤算学に焼き直した ものである。『算法統宗』の入手経路は、分からないが、民間貿易を通じて もたらされたようである。なお、『楊輝算法』は、朝鮮出兵時にもたらされ 、関孝和はこれをもとに独学し、算学の基礎を身につけたのである。

高次方程式の解法

 東洋算学での高次方程式の歴史は長い。開平方、開立方、さらに一般の2 次方程式はすでに『九章算術』(著者不詳、1世紀)で解決していた。唐代 になると王孝通が『緝古算経』( 620年)で一般の3次方程式を使って、体 積を題材にした問題を解いている。  これらは、現在の筆算や算盤の方法と同じである。答えを1桁ずつ求めて ゆくが、このとき図形を使って、次の桁の係数を求めている。   +−−−−−−−+−−−+ x2 |    1   |  2 |   +−−−−−−−+−−−+  「商」   |       |   |  「実」       〓〇〇 x1 |  x1 2   |  3 |  「方」xの項      〇 20|  400  |   |  「隅」x2 の項     〓   |       |   |   +−−−−−−−+−−−+       x1     x2      20    2.36−    図 1-1 開平方の計算       図 1-2 算木の布算  図 1-1は、開平方の計算を図示したものである。開く数値が正方形の面 積で、一片の長さが求める答えである。  例えば、√500 なら、「実」として 500を2段目に並べる。「方」*4) x の一次の項は0で3段目、「隅」x2 は1で4段目である(図 1-2)。なお 、0の記号は宋代からで、それ以前は空白であった。  先ず、1桁目(最上位)の数値を求める。「実」は3桁の数値であるから 「商」は2桁の数値である。10の2乗の 100を度外視すれば5。2の2乗以 上、3の2乗以下であるから、1桁目の「商」は20とわかる。図形では、こ れがx1 になっている。算木では、最上段にならべる。  これに、「隅」の1を掛けて、20となり、それを「方」に足す。「方」は もとは0だから20になる。「商」20を新しい「方」20に掛けて、400 となり これを「実」から引く。  残った図 1-1の斜線部の矩形の面積は 100である。これを伸ばして長方形 にすると、       +−−−−−−−+−−−+−−−−−−−+     x2 |    1   |  2 |    3   |       +−−−−−−−+−−−+−−−−−−−+          x1 20   x2    x1 20           図 1-3 開平方の2桁目の数値 となる。横は、1桁目の数値の2倍に、以降の数値(1桁小さい若干の値、 x2 )を足したものである。この2倍という係数を表すために、「商」20を 「隅」に掛けて、それをこれを「方」に足す (図 1-5) 。 「商」        20             20 「実」      1 00←−−+ 500−20×20 1 00 「方」xの項     20←+++ 0+20×1   40←+ 20+20×1 「隅」x2 の項     1++            1++          図 1-4              図 1-5  残りは 100で、横の長さは40+αなのだから2桁目の数値は、2ぐらいが 適当だろう。縦が2、横が42だから84になり、これを 100から引く。図 1-6 の白い部分である。       +−−−−−−−+−−−++−−−−−−−+       +−−−−−−−+−−−++−−−−−−−+      2|       |   ||       |       +−−−−−−−+−−−++−−−−−−−+          20     2      20                図 1-6   「商」  22             22   「実」  16←−−+ 100−42× 2   16   「方」  42←+++ 40+ 2× 1   44←+ 42+ 2× 1   「隅」   1++            1++        図 1-7            図 1-8       +−−−−−−−+−−−−−−−+−−−+−−++       +−−−−−−−+−−−−−−−+−−−+−−++          20      20     2   2                図 1-4  残る面積は16で、横が44+αであるから、3桁目は3、つまり0.3 が適当 と分かる。次の長方形の横・「方」は、44.6になる。  以下、これを続けて行けばよいのである。尚、2桁毎に区切っているのは 、1桁違えば、数値が「商」の二乗 100違ってくるからである。  4次以上になると、図形を使えないので、係数の計算に中国算学者は苦労 したようであるが、賈憲(11世紀ごろ)が「増乗開方法」を発明し、原理的 には無限次数の方程式(1元)を解くことが可能になった。二項展開の係数 を求めるのと同じ事であるが、その方法は開平方と同じで、興味深い。  4次方程式     −x4 +763200x2 −40642560000=0 を例*5) に説明しよう。先ず、上から「実(実数項)」「方(1次の項)」 「一廉(2次の項、上廉と言うこともある)」「二廉(3次の項、下廉)」 「隅(4次の項)」を並べる。       「実(実数項)」  −〓〇〓〓〓〓〓〇〇〇〇       「方(1次の項)」            〇       「上廉(2次の項」       〓〓〓〓〇〇       「下廉(3次の項)」           〇       「隅(4次の項)」           −〓  5次以上になれば、中間の「廉」を増やしていけばよい。「上下」を「一 、二」として「三廉」「四廉」・・・のようにしてゆく。反対に2次方程式 なら、「廉」は無くなることになる。図 1-1の 3が「隅」とは、言いえて妙 である。なお、このように縦にも数値を並べるから、算盤では非常に不便だ った*6) 。  ここで、答え「商」を探すわけであるが、これが極めて東洋的な方法であ る。「商」とは商売というように、相談して値段を決めるという意味である 。つまり、大体の数に目星を付けて、それを修正してゆくというのである。   800ぐらいが適当であるから、それを「商」に立てる。  これに、「隅」−1を掛けて、それを「下廉」に足す。元は0だから、 − 800になる。  次に、「商」 800を「下廉」− 800に掛けて、「上廉」763200に足すと、 123200になる。「商」を「上廉」123200に掛けて、「方」0に足すと 98560000になる。「商」を「方」に掛けて、「実」−40642560000 に足すと 、38205440000 になる。  同様に「商」 800を「隅」−1を掛けて、それを「下廉」に、また、「商 」を掛けて、・・・と「方」まで繰り返すと、「方」は、−826880000 にな る。次は「上廉」、最後は「下廉」まで繰り返すと、       「商」           800       「実」   38205440000  1×x1 4       「方」    −826880000  4×x1 3       「上廉」     −3076800  6×x1 2       「下廉」        −3200  4×x1       「隅」            −1  1×1 になっている。ここで「実」は、x1 (800+各係数の巾乗)の4乗を加 えた事になっている。「方」にはx1 の3乗を4回、「上廉」にはx1 の2 乗を6回、「下廉」にはx1 を4回足したことになる。  なお、2桁目の「商」40で同様の操作をすると、       「商」         840       「実」           0 ←−−−−−−+       「方」  −955136000 ←−−−−+++×40       「上廉」   −3206400 ←−−+++×40       「下廉」      −3240 ←+++×40       「隅」          −1 ++×40  の状態で、「実」が0になる。つまり、840が答えになる。  このように計算してゆくと、係数は次数に応じて、所謂、パスカルの三角 形、 +−−−−−+ |     |          1 |     |         1 1 |別図 1 |        1 2 1        (a+b)2 |     |       1 3 3 1       (a+b)3 |     |      1 4 6 4 1      (a+b)4 |     |     1 5 10 10 5 1     (a+b)5 +−−−−−+    1 6 15 20 15 6 1    (a+b)6            図 3 「開方作法本源図」  になっている。  中国算学者は、この方法を使って、無限次数の1元高次方程式を解く事が 可能になった。微積分こそ使っていないが、ホーナー法(Horner Method) *7 ) と同じものである。後は、問題から方程式を立てることだけが残された課 題である。

天元術

 天元術は、その方程式を立てる方法である。未知数を「天元」として、代 数的に問題を処理する方法である。これは、『測円海鏡』(李冶、1248年) や『四元玉鑑』(朱世傑、1303年)が高度なものを記述しているが、和算家 は、『算学啓蒙』でこれを独学した。同書巻3の第8題の問題は、    今、長方形の田があり、その面積は8畆5分5厘(8.55畆)である。    長辺と短辺の和が、92歩になることしか分からない。各辺の長さは幾    らになるか。      答。短辺38歩。長辺54歩。     術。天元の一を立てて(未知数を)、短辺とする。                ○     0    x0                〓     1    x    これを和の数値から引くと、(−x+92)、長辺の長さになる。こ    れに短辺(x)を掛けると、面積になる。                ○     0               〓〓    92    x               −〓    −1    x2     左に寄せておく。(左辺を−x2 +92x+0とする。)     畆を歩に換算して(1畆= 240歩なので、2052平方歩)、左に寄せ    ておいた式と加減して、             〓○〓〓   2052               〓〓     92   x               −〓     −1   x2     この式を平方に開く。短辺が求められるので、(x=38歩を)和(    の92歩)から引いて、長辺54歩になり、題意に合う。  というものである。現在の代数と同じものであることがお分かりだろう。 しかし、「天元術」では、記号を全く使わず、算木だけで未知数や定数を表 すので、未知数は1つしか置けない。朱世傑は、『四元玉鑑』で算木の場所 によって4つに未知数を表す「四元術」を考案したが、実用にならなかった 。

点竄術

 算木や算盤では、位置によって未知数の次数を表していた。位取りと同じ 発想である。しいて言うなら、「位置代数」とでも名付けられよう。ところ が、この方法だと、 〓枠02〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 〓                1               〓 〓                                〓 〓               x−1              〓 〓                                〓 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓  といった簡単な数式ですら表現できないのである。また、2元以上の方程 式も難しい。  関孝和は、未知数を漢字で表すことでこの問題を解決した。  中学校から、aやxなどに慣れてきた我々には、別段、難しい発想には思 えない。しかし、数値を記号で表すというのは、飛躍を必要とする発想なの である。  中国では、既知数を漢字で表すことは一般的に行われていた。先に紹介し た「実」などがそれである。しかし、これを未知数まで拡張することは、つ いに無かった。中国語は、一音節、一文字で一概念を表す言語であるから、 漢字そのものが記号のようなものである。文字が意味を持ってしまうので、 関孝和のように、天干「甲」「乙」・・・や地支「子」「丑」・・・といっ た計算と無関係の漢字を未知数にするという発想はできなかったのだろう。  その点、日本人は、万葉仮名に見られるように、発音だけを表す記号とし て文字を見るのに慣れている。日本語やヨーロッパ言語のように単語が長い 音節で綴られる言語の方が、代数の発想を得やすいのだろう。また、筆算を するために紙が安価で自由に手に入るという社会的な原因も、もちろん考え なくてはならないだろう。江戸時代という豊かな時代なればこそ、和算が誕 生したのである。  関孝和の代数記号は次のようなものである。       〓甲  〓〓子  〓甲三乗冪  〓甲開平商       1a  23x   a3     √a  マイナスは、〓に斜めに線を入れて表した。除法は、松永良弼(1690?-17 44)の時代になって、                   乙〓甲 のように表すようになった。「点竄術」の名称も彼以降である。  点は添、竄は削を意味し、加減乗除という意味なのだろう。また「天元術 」との発音が近いものを選んだと思われる。  関孝和のこの僅かな発明が、和算を中国算学から脱却させ、それを大きく 進歩させることになったのである。               (注釈)  1 『綴術算経(不休綴術)』(1725年)を表し、数値から公式を求める   方法を考案した。実際にその方法で、   〓枠01〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓   〓             ∞                      〓   〓               (n!×2n )2              〓   〓   (arcsinx)2 =2           x2n+2          〓   〓               (2n+2)!              〓   〓             n=0                      〓   〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓   という公式を得た。  2 正確に言うと、切米 250俵取りである。これは、領地をもらうので   はないが、 250石の領地とほぼ同じ価値がある。領地からの収入は、五   公五民の税率として玄米 125石。1俵は4斗だが、白米に直したり、さ   まざまな経費を考えると、25%ぐらいは無くなってしまう。  3 城地 茂 (1991a)参照。  4 宋代ごろから「方」と呼ぶようになった。『九章算術』では「法」と   言った。  5 秦九韶の『数書九章』(1247年)で、「正負開方術」として完成した   ものである。数値も、同書、巻5「尖田求積」題のものである。  6 『塵劫記』では、算盤を縦に何台も並べ、それぞれに「商」「実」−    「隅」と置算するのである。算盤を使ってはいるが、算木と同じ事を    行っている訳である。これを「商実法」と言った。                  +−−−−−−+                  | 別図 2 |                  +−−−−−−+         図 4  「商実法」による高次方程式の解法     この方法では、算盤の軸間の規格が同じものを何台も用意しなけれ    ばならず、当業技術では困難が予想される。実用的には3次以下の計    算しか出来なかったのではろうか。また、何段にもなった特別な算盤    も作られている。  7 Horner, W. G. (1819). "A New Method of Solving Numerical Equat    ions of All Orders by Continuous approxumation".     109: 308-35.               参考文献 遠藤利貞 (1896; 1918, 1960, 1981). 『増修日本数学史』. 東京: 恒星社 厚生閣. 小倉金之助 (1940). 『日本の数学』. 東京: 岩波書店. 平山 諦 (1959). 『関孝和』. 東京: 恒星社厚生閣. 下平和夫 (1965-70). 『和算の歴史』. 2巻. 東京: 富士短期大学出版部. 城地 茂 (1991a). 「日中の方程式論再考」、『数学史研究』 128号、26頁 〜34頁。 城地 茂 (1992).「英国王立協会蔵『算法童蒙須知』について」、『数学史 研究』 132号、6頁〜15頁。 城地 茂 (1993). The Influence of Chinese Mathematical Arts on Seki Kowa". Ph.D Thesis (London). 写真説明 1 ニュートンの生家前で、リンゴの落下実験をする筆者。 2 関孝和生誕 350周年に藤岡市に建てられた関孝和座像、後方の石碑は、 200 周年のもの。 3 東京都新宿区牛込、浄輪寺の関孝和の墓。 4 金沢、立像寺の関孝和の墓。 150回忌で建立。 5 金沢、卯辰山医王寺の関孝和の墓。 150回忌で建立。 6 中国安徽省黄山市屯渓の程大位の旧宅。 7 程大位の旧宅に懸かった「珠算宗師」の額。 別図1 『永楽大典』(1407年)巻 16344、ケンブリッジ大学図書館所蔵。 別図2 『塵劫記』(吉田光由、1627年)巻3、第19「開平方を商実法にて    除之事」より。
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