もう一つの「天元」術・大衍求一術

城地 茂

Another "Celestial Element Method"; "The Technique of Acquiring One in Dayan".

Shigeru Jochi


 和算には算額奉納という研究成果の発表形式があったためか、図形の問題が多かった。
そして、その問題を劇的に解く方法として、中国の天元術がもてはやされた。やがて、そ
れは、関孝和の点竄術へと発達し、和算が世界的水準へ達する要因となった。点竄術の時
代になっても「天元の一を立てて」という術語は残り、和算家にとって「天元術」という
言葉は基本的、かつ普遍的なもので、これを理解しないものはいなかっただろう。
 天元術とは、高次方程式を立てる技術であり、李冶が『測円海鏡』(1248年)で発表し
た方法である。『測円海鏡』の日本への伝来は遅く、和算へは直接影響していない。しか
し、天元術は、朱世傑の『算学啓蒙』(1299年)にも記述され、和算家はこの本によって
独学することができた。『算学啓蒙』は、中国本土では散逸してしまったが、李氏朝鮮で
数学の教科書として採用された(*1)ので、日本まで伝わっていた(*2)のである。
 ところが、中国で天元術が創設された宋代には、別の「天元」術が存在していた。それ
は、天元術と酷似した一節があり、「天元術」と命名されても不思議では無いものであっ
た。
 もう一つの「天元」術とは、秦九韶が『数書九章』(1247年)に大衍求一術として記述
しているもので、李冶のそれより、1年早く発表されていた。。しかし、『数書九章』は
出版されなかったので、一時、完全に忘れ去られてしまった。清代になって、『永楽大典
』の中から再発見されたが、既に天元術という術語は清代の数学者によって、李冶の「天
元術」を指すようになっていたので、秦九韶のそれは本人の術語である大衍求一術とされ
た。
  大衍求一術は一種の剰余方程式(不定方程式)であり、この分野は、西洋ではあまり研
究が進んでいなかった。そこで、再発見以来、清代の数学者は、西洋数学に対抗できるも
のとして、競ってこれを研究するようになったのである(*3)。
 一方、所謂、天元術は西洋の代数学と変わるところが無かったので、独自の発展をしな
かった。中国式の算木の位置による代数法より、やはり西洋式の代数記号のほうが使いや
すかったのである。
  パラダイムが確定する途上では、方法や用語の混乱は珍しい事ではない。しかし、主流
から外れた方法が別の名称で生き残り、しかも、後世、それが発展したような事実は珍し
いだろう。これは、中国数学史だけの問題ではなく、広く科学史全般の問題として考察す
べきであろう。
 本稿では、大衍求一術を考察し、それが和算にどのような影響を与えたかを考えてみた
い。

1 天元術

 秦九韶の「天元」術を考察する前に、先ず、天元術を見てみよう。 李冶は『測円海鏡』(1248年)で天元術を発表したが、これが日本に伝わったのは、関 孝和の時代以降である。和算家は、『算学啓蒙』でこの方法をを知った。天元術の最高著 作というわけではないが、簡単なものから学習したので、多くの和算家が、理解すること ができたと言えよう。同書巻3の第8題の問題は、      今、長方形の田があり、その面積は8畆5分5厘(8.55畆)である。長辺と短     辺の和が、92歩になることしか分からない。各辺の長さは幾らになるか。       答。短辺38歩。長辺54歩。      術。天元の一を立てて(未知数を)、短辺とする。             ○     0    x0             〓     1    x      これを和の数値から引くと、(−x+92)、長辺の長さになる。これに短辺     (x)を掛けると、面積になる。             ○     0            〓〓    92    x            −〓    −1    x2       −−−−(1.1)      左に寄せておく。(左辺を−x2 +92x+0とする。)      畆を歩に換算して、              (1畆= 240歩なので、2052平方歩)+−−−−(1.2)      左に寄せておいた式と加減して、          〓○〓〓   2052            〓〓     92   x            −〓     −1   x2      +−−−−(1.3)             (−x2 +92x=2054)           この式を平方に開く。短辺が求められるので、(x=38歩を)和(の92歩)か     ら引いて、長辺54歩になり、題意に合う。  このように、未知数を天元として、異なった2つの式を立てる。但し、この2式は同じ 数値を表していなければならない。そして、(1.1) 式=(1.2) 式として、(1.3) 式の方程 式を解けば答えが出ると言うものである。  しかし、何故、未知数を1と強調するのだろうか。天元を未知数とするのであれば、「立天元為○○」の方が分かり易そうなものなのだが。どうもこの部分は謎めいている。 李冶も朱世傑も、自らの方法を天元術とは命名していない。清代の阮元(1764-1849 ) は「立天元一術」と記して(*4)おり、天元術という言い方は、和算家から始まったものか も知れない。

2 秦九韶の「天元」術(大衍求一術)
(秦九韶、『数書九章』18巻、1247年)

 秦九韶は、剰余方程式(不定方程式)         bx≡1(mod a)   a>b:(a,b)=1 −−−−−−(2) を解く方法を次のように記述している。この計算は、大衍総数術の一連の計算の一部なの で、秦九韶は、求める解xを「乗率」、aを「定数」、bを「奇数」としている。     諸衍数、各満定母、去之、不満曰奇。以奇与定、用大衍求一入之、以求乗率。     大衍求一術云。置奇数右上、定居右下、立天元一於左上。先以右上除右下、所得    商数与左上一相生、入左下。然後、乃以右行上下、以少除多、逓互除之、所得商数    、随即逓互累乗、帰左行上下、須使右上末後奇一而止、乃験左上所得以為乗率、或    奇数已見単一者、便為乗率(*5)。         各「衍数」から「定数」の整数倍を引いて、「奇数」とする。「奇数」と「定数    」で大衍求一術を使って、「乗率」を求める。     大衍求一術。右上に「奇数」右下に「定数」左上に「天元」の1を置く。先ず、    右上の数値で右下を割り、その商と左上の1と掛けて、左下にその数値を入れる。    その後、右行の上下で、小さい方の数で大きな方の数を代わる代わる割って、商を    (左行に)代わる代わる掛けて、左行の上下に帰してゆく。すべからく右上が最後    に1になったときにこの計算を終わり、左上の数値を「乗率」とする。「奇数」が    既に1のときは、それを「乗率」とする。  この操作は比較的複雑だが、以下のように考えれば、容易に理解できよう。  aとbを互いに割って行く計算、ユークリッドの互除法、を行うとr(m+2) は最大公約 数になる。aとbは互いに素であるから、これは1になる。この事から、1をaとbだけ を使って表すことが可能である。  先ず、「定数」aを「奇数」bで割ると、商q1 が立ち、余りr1 になる。                a=q1 b +r1       −−−−(3.1)  次に除数だったbをr1 で割る。                b=q1 r1 +r2       −−−−(3.2)  これを繰り返して行くと、             r(m-1) =qm   rm   +r(m+1) −−−−(3.m-1)             rm   =q(m+1) r(m+1) +r(m+2) −−−−(3.m)                        (r(m+2) =1) となる。ここで、一般に、k番目のrk をaとbだけで表せるように、係数ρk とαk を 次のように定義する(*6)。        ρk =qk ρ(k-1) +ρ(k-2)  (ρ1 =1, ρ0 =0)        αk =qk α(k-1) +α(k-2)  (α0 =1, α-1=0) (3.1) 〜(3.k) 式をこれらの係数で表すと        r1 =  ρ1 a−α1 b        r2 =−(ρ2 a−α2 b)        r3 =  ρ3 a−α3 b        rk =(−1)k+1 (ρk a−αk b) となる。m番目の余りrm が1のとき、        1 =(−1)m+1 (ρm a−αm b)+−−−−−−−(4)  この両辺のaの剰余系は、                bαm ≡1(mod a)  したがって、求めるxは商の数列αm という整数になる事が分かる。  互除法は、中国では「更相減損法」と呼ばれ、最大公約数を求める方法として『九章算 術』(*7)以来、良く使われている演算である。秦九韶は、その方法を利用して、(2) 式の ような剰余方程式を解いたのである。  大衍求一術の演算過程を術文にしたがって、算木のように並べてみよう。ここで、秦九 韶の「天元」とはα0 の事である。商q1 を天元α0 (1)に掛けて、α-1(0)に足し た数値をα1 としていることが分かる。       +−−−−−−+      +−−−−−+     +−−−−−+       |α0 =1  b| +−→  |α0  b |+−→  |α2  r2 |       |α-1=0  a| (q1 )  |α1  r1 |( q2 )  |α1  r1 |       +−−−−−−+      +−−−−−+     +−−−−−+       +−−−−−−−−−−−+ +−−→  |α 2m   r 2m  =1 |       |α(2m-1) r(2m-1)  |       +−−−−−−−−−−−+  ここで、α0 はa,bがいかなる数値を取ろうとも、1でなければならない。「立天元 一於左上」という一節は絶対必要なのである。秦九韶の方法は、李冶のものより古く、し かも、「天元」を1とする整合性において、李冶のものより、「天元術」と名付けられる べきであった。  しかし、秦九韶は自ら大衍求一術と命名していたから、敢えて、後世の学者が別の名前 を付ける理由はない。更に、『数書九章』は余り流布されなかった。『数書九章』の系統 図は概略、以下のようになっている(*8)。                   (図1)  このように、大衍求一術の方法自体が広く知られていなかったのであるから、李冶の「 天元術」が、余り考慮される事無く、天元術に定着してしまったのである。  日本には、『宜稼堂叢書』(1842)本以外には伝わっておらず、関孝和などが、『数書九 章』を手にする機会は無かったようである。

3 日本へ伝わった「天元術」

 日本へ『測円海鏡』自身が伝わったのは、1726年の事である(*9)。しかし、『算学啓蒙 』を通じて、天元術が伝えられており、その方法は、沢口一之の『古今算法記』(1671年 )で正しく理解されるようになっていた。  関流の時代になっても、点竄術という音は、天元術に近く、これを意識したもののよう である。このように和算では、「天元」と言えば、高次方程式のことで、剰余方程式とは 関連がなさそうである。  それでは、日本へは、もう一つの「天元術」は、伝わらなかったのだろうか。  関孝和は、剰余方程式の解法は剰一術(10)としており、秦九韶の術語とは異なっている 。しかし、関孝和の方法は、秦九韶のそれと驚くほど似ている。  関孝和の剰一術では、(2) 式で、bは「左数」aは「右数」で、xは「左段数」、求め る答え「左総数」はbxに相当する。    今有以左一十九、累加之、得数。以右二十七、累減之、剰一、問左総数幾何。       答曰。左総数一百九十。      術曰。以左一十九、除右二十七、得商一、不尽八、為甲。       以甲不尽八、除左一十九、得商二、不尽三、為乙。       以乙不尽三、除甲不尽八、得商二、不尽二、為丙。       以丙不尽二、除乙不尽三、得商一、不尽一、為丁。〔乃余左一而止〕       甲商与乙商相因、加定一、得三、為子。       子与丙商相因、加甲商、得七、為丑。       丑与丁商相因、加子、得一十〔是左段数〕。       以左一十九乗之、得左総数一百九十、合問(11)。      今、左に19があり、これを何倍かした数がある。右に27がありこの倍数を引く     と余りが1になる。左の何倍かした数は幾らになるか。       答え。 190。      方法。左19で右27を割ると、商が1で余り8になる。これを甲とする。      甲の余り8で左19を割ると、商が2で余り3になる。これを乙とする。      乙の余り3で甲の余り8を割ると、商が2で余り2になる。これを丙とする。      丙の余り2で乙の余り3を割ると、商が1で余り1になる。これを丁とする。     〔左が1になったので計算を止める〕      甲商と乙商を掛けて、1を足して、3になる。これを子とする。      子と丙商を掛けて、甲商を足して、7になる。これを丑とする。      丑と丁商を掛けて、子を足して、10になる。〔これが左段数である〕      左一百七十九掛けて、左総数は 190になり題意に合う。  この答え10は、                10 ×19≡ 1 (mod 27)  となっており、この方法が正しいことを示している。  秦九韶の大衍求一術と関孝和の剰一術とは、ほとんど同じ計算をしている。秦九韶が商 を計算すると逐次αk を計算してゆくのに対し、関孝和は、先に全部の商を計算してから 、最後にq1 ×q2 ×−と「上から」計算をしてゆく事が違いである。これは、秦九韶の 計算が算木であり、関孝和のそれが筆算であった事の差異であり、本質的なものではない 。つまり、両者とも「上から」計算を進めている事では、同じである。  これに対して、インドのクッタカ(二元一次不定方程式)では、商の数列を反対にqm ×qm-1 ×−と「下から」掛け合わせて、同じαm を算出している(12)。このように「上 から」と「下から」の計算の違いが、インドと中国の影響関係を否定するもの(13)とされ ている。この論法からすれば、日本はインドから影響を受けたのでないのは確かで、独自 に発明したか、それとも、中国から影響を受けた事になる。  秦九韶の影響を感じられるのが、負の答えを正に変換する所である。  大衍求一術の術文では、「右上」が1になった場合計算が終わるということである。4) 式が示すように、偶数回演算を行った場合α2mは正の整数になる。しかし、二つの数値、 aとbによっては、奇数回の演算によって、余りが1になってしまうことがある。秦九韶 が『数書九章』で行った、38回の大衍求一術では、bが1または0で計算の必要のないも の14回をのぞき、偶数回のものは10回で、奇数回のものは14回である。奇数回のとき、答 えα(2m'-1) は左下に出てくる。そして、実際の答えは、その負の数値である。  このまま負の数を答えとしてもよいのだが、秦九韶は独特の方法で、正の数に変換して いる。右下が先に1になってしまっても、更に計算を続けるのである。現在の除法であれ ば、除数が1なのだから余りが0になってしまうが、算木の「除法」とは、除数を被除数 から何回「除く」かを計算するのであるから、q2m' −1回、除数である1を「除」いた ときに、計算をやめればよいのである。  商q2m' で割り切った場合、α' 2m' はaになるので、            α' 2m' =q2m' α(2m'-1) +α(2m'-2) =a  商を(q2m' −1)として計算した秦九韶の答えα 2m'は、            α 2m' =(q2m' −1)α(2m'-1) +α(2m'-2) となる。したがって、               α 2m' =a−α(2m'-1)  ここで、a>α(2m'-1) だから、                  α 2m' >0 であるし、aの剰余系を考えても、            α 2m'≡α(2m'-1) (mod a ) となっていることが分かる(14)。  計算を図式化すると、以下のようになる。    +−−−−−−−−−−−−+                  (q2m' −1)|α 2m'  r 2m'  =1 |      +−−−−−−−−−−−−++−−→ |α(2m'-1) r(2m'-1) =1 | 右下が先に|α(2m'-2)  r(2m'-2)  |     +−−−−−−−−−−−−+ 1になった|α(2m'-1)  r(2m'-1) =1|     +−−−−−−−−−−−−+ 状態。  +−−−−−−−−−−−−+−−−→ |α’ 2m' r 2m'  =0 |                   (q2m' ) |α(2m'-1) r(2m'-1) =1 |                         +−−−−−−−−−−−−+  このような例は、『数書九章』巻1、第1題で早くも現れる。「奇数」が3、「定数」 が4の場合である。       先以右上少数三、除右下多数四、得一、為商。以商一乗左上天元一、只得一      帰左下。其右下余一。       次以右下少数一、除右上多数三。須使右上必奇一、算乃止遂於右行。最上商      二、以除右衍、必奇一。乃以上商命右下定余一。除之右衍余一(15)。       先ず、右上の小さい3で右下の大きい4を割り、商は1となる。商1に左上      天元の1を掛けて、1になり、左下に置く。右下の余りは1である       次に右下の小さい1で右上の大きい3を割る。右上を1にすると計算を止め      るので、商は2になり、右(上)の「衍数」から引くと余りは1になる。この      商と右下の1を掛ける。右の「衍数」の余りは1である。       +−−−−+    +−−−−+    +−−−−+       |1  3|+−→ |1  3|+−→ |3  1|       |0  4| (1)|1  1| (2)|1  1|       +−−−−+    +−−−−+    +−−−−+          1          2          3                           +−−−−+                       −−→ |4  0|                        (3)|1  1|                           +−−−−+                              3’  ここで、 2の左下に現れた1を負の数値、つまり、−1とすると、これもも与式を満足 する答えになる。しかし、更に計算を続けて、3という答えを得ていることが分かる。  関孝和も同様に負数から正数に変換している。『括要算法』巻2「剰一術」の第2題は 、    今有以左一百七十九、累加之、得数。以右七十四、累減之、剰一、問左総数幾何。       答曰。左総数七千六百九十七。      術曰。列左一百七十九、満右七十四去之〔若左少右多者不去。或去之、余左一      則直為左一段〕。余三十一。       以左三十一、除右七十四、得商二、不尽一十二、為甲。       以甲不尽一十二、除左三十一、得商二、不尽七、為乙。       以乙不尽七、除甲不尽一十二、得商一、不尽五、為丙。       以丙不尽五、除乙不尽七、得商一、不尽二、為丁。       以丁不尽二、除丙不尽五、得商二、不尽一、為戊。       以戊不尽一、除丁不尽二、得商一、不尽一、為己。〔乃余左一而止〕       甲商与乙商相因、加定一、得五、為子。       子与丙商相因、加甲商、得七、為丑。       丑与丁商相因、加子、得一十二、為寅。       寅与戊商相因、加丑、得三十一、為卯。       卯与己商相因、加寅、得四十三〔是左段数〕。       以左一百七十九乗之、得左総数七千六百九十七、合問(16)。      今、左に 179があり、これを何倍かした数がある。右に74がこの倍数を引くと     余りが1になる。左の何倍かした数は幾らになるか。       答え。7697。      方法。左 179を並べ、74の何倍かを引く。〔もし、左が右より小さければ引か     ない。また、引いて左が1になれば、直ちに左の数の1倍を答えにする〕余りは     31になる。      左31で右74を割ると、商が2で余り12になる。これを甲とする。      甲の余り12で左31を割ると、商が2で余り7になる。これを乙とする。      乙の余り7で甲の余り12を割ると、商が1で余り5になる。これを丙とする。      丙の余り5で乙の余り7を割ると、商が1で余り2になる。これを丁とする。      丁の余り2で丙の余り5を割ると、商が2で余り1になる。これを戊とする。      戊の余り1で丁の余り2を割ると、商が1で余り1になる。これを己とする。     〔左が1になったので計算を止める〕      甲商と乙商を掛けて、1を足して、5になる。これを子とする。      子と丙商を掛けて、甲商を足して、7になる。これを丑とする。      丑と丁商を掛けて、子を足して、12になる。これを寅とする。      寅と戊商を掛けて、丑を足して、31になる。これを卯とする。      卯と己商を掛けて、寅を足して、43になる。〔これが左段数である〕      左一百七十九掛けて、左総数は7697になり題意に合う。  秦九韶と同じように、算木的に並べてみると、はっきりする。    +−−−+   +−−−+   +−−−+   +−−−+  +−−−+    | 1 31|   |1 31 |   |5  7 |   |5  7 |  |12 2|    | 0 74| (2) |2 12 | (2) |2 12 | (1) |7  5 | (1)| 7 5|    +−−−+   +−−−+   +−−−+   +−−−+  +−−−+    +−−−+   +−−−+ |12 2| |43 1 | (2) |31 1| (1) |31 1 |    +−−−+   +−−−+ となっているのである。関孝和は算木を2列に並べている訳ではないから、「右下」が1 になったかどうかは分からない。しかし、「戊」が1になっているのもかかわらず、更に 計算を続けている。ところが、その事について何も説明を加えていない。 関孝和は、余りの数列を十干で表しているので、「弟(乙、丁・・・)」が1になった 場合に計算を止めるという意味であろうことは推測できるが、術文には明確な説明は無く 、何とも舌足らずである。  「左下」の数値をそのまま負の数値にして使っても良いし、他にも、正の数に変える方 法は存在する。例えば、「左下」の数値を「定数」(これは最初の右下の数値として並べ ている)から引いて、正の数に換算することも可能である(17)。また、余りが0になるま で計算したα’2m' を計算し、その数値からα(2m'-1) を引いて換算することも考えられ る。  ところが、関孝和は算木時代の「除法」の計算を彷彿させるような計算で換算している のである。「乃余左一而止」という言い方にしても、「左」とは如何にも算木の布算を思 わせる表現で、折角の代数記号が何のためにあるのか分からないほどである。 秦九韶と関孝和の間には 400年以上の隔たりがある。その間に算盤という新しい計算器 具が開発され、そのため「帰除法」(割り声)が確立している。さらに「亀井算」も発明 され、現在我々が考えるような「割り算」になっている。こういった時代背景を考えれば 、関孝和の方法が秦九韶と同じであるというのは、何とも不自然である。  現在残されている『数書九章』は無いが、関孝和が種本を焼き捨てたという伝説は有名 である。関孝和は、秦九韶のような「天元」という用語を全く使っていないとしても、計 算過程から考えて、『数書九章』の有形・無形の影響を受けたと考えた方がよいのではな いだろうか。                   注釈 1 李氏朝鮮の世宗12年(1430年)(金容雲・金容局、『韓国数学史』、槇書店、1978   年、p.158 )。  2 日本へ伝わったのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の戦利品としてである。これを1658年に   久田玄哲が訓点を施し、復刻した(児玉明人、『十五世紀の朝鮮刊銅活字版数学書』   、自家版、1966年、参照)。  3 代表的な業績として、黄宗憲、『求一術通解』、1862年が上げられる。 4 『重刻測円海鏡細草』序文、1798年・『四元玉鑑細草』序文、1834。  5 秦九韶、『数書九章』巻1、大衍求一術条(『四庫全書』巻797 、pp329-330 )。 6 李儼、『中算史論叢』巻1、商務印書館、1933年、pp.123-174。  7 『九章算術』巻1、第5〜6題(前出、『九章算術注釈』pp.15-17)。  8 李迪、「『数書九章』流伝考」(呉文俊編、『秦九韶与数書九章』、北京師範大学   出版社、P.57)に筆者の調査を加えた。  9 日本学士院(編)、『明治前日本数学史』第5巻、岩波書店、1954年、p.428 。  10 秦九韶の大衍総数術に相当する関孝和の算法は、『算法統宗』(程大位、1592年)   や『楊輝算法』(楊輝、1275年)と同じく、翦管術である。したがって、関孝和の剰   一術は、翦管術の一部をなす。  11 『括要算法』巻2、第1題(平山諦他編、『関孝和全集』、大阪教育図書、1974年   、pp.301-302)。  12 バスカラ2世、『リーラーヴァティー』、(1149 年/1150 年?)、第6章(矢野道雄   編、『インド天文学・数学集』、朝日出版社、1980年、p.174-180 )。  13 Libbrecht, Ulrich. 1973. Ca   mbridge, Massachusetts: The MIT press. p.358.  ?  14 前出、 p.344及び pp.357-8 に   も同様の考察がある。  15 『数書九章』巻1、第1題(『四庫全書』巻797 、pp.331-332)。  16 『括要算法』巻2、第2題(前出、『関孝和全集』、p.302 )。  17 バスカラ2世の『リーラーヴァティー』にある方法(1149-50?年)は、この方法で   ある(前出、『インド天文学・数学集』、p.179 )。                  参考文献    Gauss, Karl Friedrich. 1801. Libsiae: Gerh Flei   scher.    李儼、『中算史論叢』5巻、1933年。    林鶴一、『林鶴一博士和算研究集録』(上・下)、東京開成館、1937年。    日本学士院(編)、『明治前日本数学史』5巻、岩波書店、1954年。    Needham, Joseph. 1954-. 7vols. project.    Cambridge: Cambridge Univ. press.    平山諦、『関孝和』、恒星社厚生閣、1959年。    銭宝〓、『中国数学史』、科学出版社、1964年。    児玉明人、『十五世紀の朝鮮刊銅活字版数学書』、自家版、1966年    大庭脩、『江戸時代における唐船持渡書の研究』、関西大学出版部、1967年。    Libbrecht, Ulrich. 1973. Ca   mbridge, Massachusetts: The MIT press.    平山諦・広瀬秀夫・下平和夫編、『関孝和全集』、大阪教育図書、1974年。    金容雲・金容局、『韓国数学史』、槇書店、1978年    矢野道雄編、『インド天文学・数学集』、朝日出版社、1980年。    呂子方、『中国科学技術史論文集』(上・下)、四川人民出版社、1983年。    白尚恕、『「九章算術」注釈』、北京師範大学出版社、1983年。    白尚恕、『測円海鏡今釈』、山東教育出版社、1985年。    呉文俊(編)『秦九韶与「数書九章」』、北京師範大学出版社、1987年。             図1 『数書九章』の系統図                秦九韶の原稿 (1247)                    +    +−−−−−−−−−−−−−−−+−−−−−−−−−−+   文淵閣本 (1421)                『永楽大典』(1403)    |                          |  王応〓(1545-1620)                     |    |                      『四庫全書』 (1772)  趙〓美 (1563-1624)                戴震(1724-1777)    |                          |    |      +−−−−−−−−−−−+−−−−−−−+−−−−−−−−+ 銭曽(1626-1701)  李〓(?-1811)   銭大〓(1728-1804)  孔広森(1752-1786)   |    |? |               +                | 張敦仁(1754-1834) +−−−−−−−−−+  |  汪莱(1768-1813)       |    +   秦恩複 → 顧千里→ 李鋭(1769-1817)     焦循(1763-1820)  |    |  (1760-1843) (1770-1839)     +−−−−+    |      |    |   李兆洛 (1769-1841)−−−−+ | 王萱齢(19c)   |      | 沈欽裴(19c)            毛岳生(1791-1841)  +    |      |    +−−−−−−−−−−−−−−+ | |    | 李盛鈬(19c)     |                   宋景昌(19c)    |    |      |                   | | |    |    |      |                   郁松年(19c)    |    |      |            +−−−−−−+ |      |    |      |       『宜稼堂叢書』(1842)   陸心源 (1834  |    |      |    +−−−−−−−+−−−−−−+ |  -1894) |    |      | 『古今算学叢書』 『叢書集成』(1936)| |      |    |      |   (1898)  『国学基本叢書』(1936)| 静嘉堂 北京図書館 北京大学 北京図書館    |       |      | 文庫        図書館 甘粛省図書館   多 数     多 数    多 数              故宮博物院   しかし、朱世傑は、未知数が4つある高次方程式を四元術として研究しており(『四 元玉鑑』(1303年))。李冶の天元術を応用して解いている。「四元」とは、天元と他の 3つの元であり、李冶が天元術を発表して50年程で、それは高次方程式の解法と、少なく とも北中国では、考えられていたようである。 『九章算術』巻4、第12〜16題(白尚恕校注、『九章算術注釈』、科学出版社、1983年、 pp.102-111)。 『九章算術』の開平方には、「借一算」という表現で、2次の項を1に するという操作を行っている(*7)。伝統的に、最高次数を1にする しかし、宋・元代では、2次の項が1ではない、一般の方程式も解いている。開平方や開 立方という最高次数の係数が1という特別な場合だけでは無いことを知り尽くしている筈 である。
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