和算の興亡

城地 茂

Rise and Fall of Japanese Mathematics
Shigeru Jochi


和算パラダイムの発展

 科学というものは、一人では到底完成できるものではない。いかな天才と いえども、全くの独創を2つも3つも創造しえるものではない。和算も同様 に多数の和算家の研究の蓄積の結果である。  関孝和(1642?-1708)の名前だけが有名になってしまったので、その他に 和算家がいないような印象をうけるが、事実は全く逆である。関以前にも多 くの有能な和算家がいたから、そこから関の業績が生まれたのである。  同時代の世界各地と比べて、江戸時代の日本ほど、算学が普及したところ は無いだろう。村の庄屋ともなれば、土蔵に和算書の一冊や二冊は所有して いたし、第一、掛け算や割り算ぐらいなら、寺子屋を通じて、津々浦々にま で普及していた。  和算も一つの科学である以上、それを伝え、発展させるシステムがあった。 しかし、現代と違い、かくたる組織もない和算では、独自の方法で伝えられ ていた。そこで、和算は江戸時代にどのように伝えられたか、2つの方法を 紹介しよう。

伝承システム1

一つ目は、和算書によるものであるが、一風変わったものである。和算書 の最後の部分に解答を付けない、いわば「宿題」を載せることがある。現在 なら、既習の範囲内から出すのが普通だろうが、和算では、解答が出せるか どうか分からないような難題を巻末に載せるのである。 これは現在では普通、「遺題」(いだい)といわれているもので、和算家 自身は「好み」と呼んでいた。和算研究家、遠藤利貞(1843〜1915)以降、 「遺題」という呼称が定着した。  読者は和算書の内容を理解した上で、更に新しい方法を考案して「遺題」 に挑戦するのである。うまく解ければ、今度は読者が新しい著者として、そ の新しい方法を出版するのである。  このように、「遺題」という形で、和算家の間に共通の課題が伝わり、こ れが繰り返し継承されることによって、和算の水準が向上した。和算は、幕 府や藩の保護を得るようなことは稀だったから、教育制度が整備されておら ず、関孝和以前にはこの形式が流行した。 遺題には、4系統あるが、その中で有名なものは、関孝和へと続く系統で ある。これは、『塵劫記』(吉田光由、1627年初版)の寛永18年(1641年) 版から始まるものである。  吉田は、中国で出版されたばかりの珠算書、『算法統宗』(程大位、1592 年)を種本に12題の「遺題」を出題した。 この新しい試みに対して、『参両録』(榎並和澄、1653年)『円法四巻記 』(初坂重春、1657年)『算法闕疑抄』(礒村吉徳、1661年)などの和算書 が解答を発表し、さらに自らも遺題を出題したため「遺題継承」となったの である。 これらのうちで、『算法闕疑抄』の遺題は『算法根源記』(佐藤正興、16 69年)、『古今算法記』(沢口一之、1671年)と続き、『発微算法』(関孝 和、1674年)まで続いた。主に天元術を使った難題である。  しかし、関流が成立すると、五段階の免許制度、ーこれは簡単なものから 順に、見題免許・隠題免許・伏題免許・別伝免許・仰可免許の段階があった ーが確立して、教育が行われるようになった。つまり、「遺題継承」の歴史 的意義が終わったのである。 関孝和以後も別の「遺題継承」の流れは続いたが、関孝和の発明した点竄 術は記号を使った代数学である。未知数を置き、それを操作すれば良いので、 問題毎に新しい方法を工夫する必要がなくなった。こうして、「遺題継承」 という時代は終わり、真の和算の時代が始まったのである。

伝承システム2

 もう一つは、和算の絵馬のことである。信仰と結びついた日本独自の風習 で、「算額奉納」(さんがくほうのう)といった。 難題が解けた事を神仏に感謝するものであった。問(問題)、答(解答)、 術(方法)の順に述べる形式が一般的である。長さ2、3メートルもある絵 馬で、現在の合格祈願のものよりはるかに大型である。彩色の図入りの幾何 学問題が多い。しかし、幾何学といっても、和算では図形の性質は問題にし ないので、図形の面積や体積などを計算するものになっている。この種の問 題が和算の主流になったのも、算額奉納の普及によるものといえる。 現存する最古の算額は、栃木県佐野市星宮神社に村山吉重(1683年頃)が 奉納したものが伝わっている。しかし、この時期、関東地方に算額は珍しい。 元禄以前は、京阪が算学の中心であり、京都八坂神社の算額(1692年)など が初期の代表的算額である。 化政以降、算学の中心は江戸にシフトし、これ以後、関東・東北地方にも 算額が増えた。関流和算家、藤田貞資(1734〜1807)は『神壁算法』(1789 年)を刊行、関流和算家の算額を整理している。明治以降も、和算の伝統の 残る北関東、東北地方では算額奉納が続き、したがって、現在見られるもの の多くは、これらの地域のものである。 算額が、単に信仰だけではなく、和算家にとって、研究発表の場であった ことを示すエピソードが残されている。 算額の正誤を巡って、会田安明(1747〜1817)と藤田が四半世紀も論争を 繰り広げたのである。 発端は些細なことであった。会田は、藤田を尊敬しており、入門しようと した。藤田も会田の実力を認めていたので、最初の指導のつもりで、会田が 愛宕神社に奉納した算額の誤りを正すように指示したのである。これを会田 は、嫌がらせと誤解し、却って、藤田の算学書の誤りを本にして出版したの で、話がこじれてしまった。  互いに批判されないように、研究をすすめたため、関流も会田の最上流( さいじょうりゅう)もおおいに進歩した。末期になると、つまらぬ水掛け論 になることもあったが、互いに切磋琢磨し、水準が上がったのである。  このように算額は、研究発表や宣伝の役割も果たしていた。算学書の「遺 題継承」と同様、難題の問題のみを掲げ、それに別人が解答し、新たな算額 を掲げることも行われた。

和算の精華:「綴術」(てつじゅつ)

 関以後では、彼の愛弟子の建部賢弘(1664〜1739)の業績は傑出している 。東洋の算学は、計算には優れているが、論理などの面で劣っているとされ ている。こうした中で、建部は研究法を考案したのである。「綴術」と呼ば れるものである。  この名称は、中国から伝わったもののようである。南北朝の祖沖之( 429 〜 500年)の著作『綴術』( 463年頃)がそれである。この本は、日本でも 奈良時代に輸入され、大学寮で教科書とされたが、散逸してしまい、今に伝 わっていない。どうやら円の研究をしたものらしく、円周率を小数点以下7 桁まで計算している。本場の中国でも、科学技術の長官である李淳風( 7世 紀)に「難しすぎて、理解する学者がいない」と言わせたもので、そのため 散逸してしまったのである。  円周率を何桁も計算するだけの単純なものでは、科学技術の専門官にこう いう評価をさせるとは思えない。したがって、何か数値を操作する方法と考 えられるが、本が現存していないので、その方法は謎のままである。  建部の方法が祖沖之の方法と同じものか分からないが、面白いものである ことは確かである。建部の「綴術」は、数列の公式を求めるものである。さ らにこれを進め、無理数や超越数の数値からその公式を求めるということも 行っている。 関は、代数記号を発明していたので、これを応用したのである。問題は、 係数の計算だが、これは小数から近似分数を求めることで解決した。これは 、建部の兄、賢明(1661〜1716年)の発明によるもので、累約術というもの である。  たとえば、円周率を              π=3.14159265− とする。その計算方法は、古今東西同じようなものである。つまり、円に 内接する正多角形の周囲の長さを計算するのである。建部の場合は、内接正 四角形(*1)から始め、八角形、十六角形と計算するのである。 [Katsuen Jutsu]       図1 内接多角形の周囲の計算  円の直径を2とすると、ABの長さは、2/√2 になり、ADは当然1/√2 にな る。三平方の定理からODは、√(12 -(1/√2)2 ) になる。COは、半径である から、半径の長さからODを引いてCDが容易に計算できる。 さらに、ΔADC で、ADとCDは既知であるから、三平方の定理により、ACの 長さが計算できる。これを8倍すれば、八角形の周囲の長さが分かる。以下 、一辺の長さは分かっているから、これと同じ計算を続けてゆけばよいので ある。  これを32768 角形まで計算すると、  角形    一辺の長さ          周囲の長さ    8   3.8268 3432 3650 8977 173 3.0614 6745 8920 7181 7384   16   1.9569 0322 0161 2827 3138 3 3.1214 6745 8920 7181 7021 3   32   0.9801 7140 3295 6060 4682 9 3.1365 4889 0545 9393 4985 3   64   0.4906 7674 3274 1801 5604 3 3.1403 3115 6954 753   128   0.2454 1228 5229 1228 8385 95 3.1412 7725 0932 7729 1340 16   256   0.1227 1538 2857 1992 6283 3.1415 1380 1144 3011 2844 8  1024   0.0306 7956 7629 6597 6334 56 3.1415 8772 5277 1597 6659  2048   0.0153 3980 1865 8475 9147 117 3.1415 9142 1511 1867 3329 6  4096   0.0076 6990 3187 4270 1336 95 3.1415 9234 5570 1046 7614 72  8192   0.0038 3495 1875 7139 4106 063 3.1415 9257 6584 8605 1686 81 16384 0.0019 1747 5973 1070 2696 6 3.1415 9263 4338 5529 8 32768   0.0009 5873 7990 9599 9111 3.1415 9264 8777 6988 6924 8           表1 内接多角形の周囲(*2) これは 内接多角形であるから、真の円周率よりやや小さい、そこで、小数 点以下第9桁を切り上げて、8桁までの値を                 314159265               π≒-----------                 100000000 とするのである。  これを、分子を分母で割る。そうすると、その商は 3になる。  今度は、分母を分子で割って、その商は 7というように、ユークリッドの 互除法(中国では「更相減損」法) を続けてゆく。 その商の数列は、          π=[3,7,15,1,288,1,2,1,3,1,7,4] となる。和算には連分数という概念はないが、数値の計算はこれと同じこと になる。これを適当なところまでで切り捨てることにより、近似分数が得ら れる。  たとえば、[3,7] までにすると、                1 22          π≒ 3+ --- = ---               7 7 となり、22/7は「祖沖之の粗率」と呼ばれるもので、東洋では広く使われ たものである。 [3,7,15,1]と 4桁まで計算すると、                   1   355             π≒ 3+ ----- = ----                  7+ 1    113 -----                   15+ 1 ---                     1 となり、「祖沖之の密率」と呼ばれるもので、有名な数値である。 建部は、代数記号とこの近似分数を求める方法を駆使して、数値から公式 を求めることに成功した。 その中には、世界最初となるものもあった。(arcsinx)2 の数値を計算 、これから「綴術」を使って、                                                ∞ (n!×2n)^2             (arcsin x)^2 =2Σ ------------- x^(2n+2)              n=0 (2n+2)!       という公式を得たのである。オレイルが1737年に得た公式である(*3)。

最上流(さいじょうりゅう)の成立

 和算が発達した理由の一つに、和算の各流派が競ったことが上げられる。 流派といっても現在考えるような閉鎖的なものではなく、和算家は各流派を 行き来して得意な分野を勉強したのである。  関流に対抗するものに最上流がある。これは、会田安明(1747〜1817)が 確立したものである。会田は精力的に研究を進め、生涯に 8冊の和算書を刊 行し、2000巻を越える原稿を残している。また、教育にも熱心で、最上流四 天王といわれる、市瀬惟長 (fl.1819)・丸田正通 (fl.1819)・市野茂喬(fl. 1819) ・渡辺一(1767-1839) 、それに続く斎藤尚中(1773-1844) らを育て、 最上流を確立したのである。 会田は、時代的には化政文化を代表する和算家といえる。現在の山形県十 日町に生まれた。始めに中西流算学を学び、江戸へ出た。そこで、自らの器 量を試したかったのだろう。やがて、御家人、鈴木清左衛門の養子となって、 普請役(土木関係の仕事)として治水工事に従事することになる。  その後、当代一の和算家、関流の藤田貞資に弟子入りしようと、同僚の神 谷定令に頼んだ。会田はすでに芝の愛宕山に算額を奉納するなど、和算家と しての自信を持っていた。これに対して藤田は、弟子入りの条件として、そ の算額の誤りを正すように諭した。最初の指導とでも考えたのだろう。しか し、プライドの高い会田は、誤解して藤田をうらむようになってしまった。  先ず、会田が、藤田の『精要算法』(1781年)を攻撃し『改精算法』(17 85年)を出版する。これに対し、神谷が『非改精算法』(1787年)で反論、 翌年『解惑算法』で再度反発、神谷も負けじと『解惑弁誤』を刊行するとい うように、関流と最上流の全面戦争になった。  関流と最上流は、若干の記号の違いはあるものの、本質は同じものである 。すなわち、実際の数値から公式を帰納するというものであり、建部の「綴 術」と同じである。したがって、両者の議論は和算という土俵の上で、和算 を発展させる事に非常に役立った。  例えば(*1)、2の平方根の近似値を1.4142とする。分数にすると              14142              10000 である。先ず、分子を分母で割ると、商は1、余りは4142である。              1+ 4142/10000 こんどは、分母 1万を分子4142で割ると、商が2 となる。これを続けると、 商は、[1,2,2,2,2,2,1 −] となる。   √2≒1.414         [1,2,2,2,2,2,1 −]   √2≒1.414213       [1,2,2,2,2,2,2,2,1 −]   √2≒1.41421356      [1,2,2,2,2,2,2,2,2,2,2,2,1 −] 元になる近似値の有効桁数を多くとれば、循環する 2の部分が多くなる。 そこで、 2の平方根の真の値なら、 2が無限に循環すると考えられる。 同様に、 3の平方根、 5、 7、−−、97と 2桁のすべての素数の平方根を 考察すると全部循環する事が分かった。そこで、無理数の互除(あるいは、 連分数)は、循環することを示したのである。(『算法零約術』(1800年ご ろ)これなどは、数値計算を通じて、無理数の性質の違いを示したものとい える。計算中心の和算の特長を上手く活かした研究といえるだろう。

和算の滅亡

 21世紀は太平洋の時代になるであろうが、19世紀は間違いなく大西洋の時 代であった。大西洋の両岸で、産業革命が進行し、圧倒的な西欧文明が世界 を席巻した。  この時代の西洋数学は、物理学から微積分が生まれたように、自然科学・ 技術と極めて密接である。自然科学を基礎として、数学が生まれたと言って も過言ではないだろう。 黒船に代表される西洋文明を目の当たりにして、これをいかに摂取するか が焦眉の急務だった。それに失敗すれば、植民地にされてしまうのであるか ら必死である。 その基礎になるものは、工学に応用するためには、同じ記号の方が分かり やすいという単純な発想で、数学に切り換えられた。結果として、この判断 は正しかったのだが、数学と算学を比較検討してのものではなかったので、 算学の良さは全く無視されてしまった。 艦隊をつくるという目標のために、西洋科学・技術が導入された。この分 野は西洋文明以外には、中国にも、インドにもなかった技術であるから、物 理学、化学、工学(特に兵学)は西洋のものになるのは当然である。測量術 は和算にもあったが、何分、和算は角度の概念が希薄なので、西洋測量術の 敵ではなかった。 このように、明治維新前後の数学の主な担い手は、新設間もない海軍だっ た。船体の材料である鉄鋼は近代工業のシンボルであるし、その鉄で作った 軍艦を蒸気機関で前進させ、さらに、化学で合成した火薬で砲弾を浴びせる 。また、長距離の砲撃では、弾道計算もしなければならない。これは、力学 の得意とする計算である。まさに、海軍は、近代科学の粋を集めたものだっ た。 これを物語る、当時の数学の問題が残されている。  「ドイツの大軍艦リーニー1艘に砲80位 (ちょう) 、兵2000人を載せ、フ レガット船は、砲36位 (ちょう) 、兵 600人を備ふとして、リーニー5艘、 フレガット10艘の砲兵を問。」(柳河春三、『洋算用法』(1857年) ) というものである。問題自体は、単純なものであるが、その題材が、海軍 そのものになっていることに注意しなければならない。 なお、リーニー(写真1参照)とは、英語のlineに相当する。当時は蘭学 であるからこういう発音になるのだろう。日本語に訳せば戦列艦とよばれる もので、後の戦艦に相当する主力艦である。フレガットとは、flegate 、現 代なら、さしずめ巡洋艦か駆逐艦というところだろう。  当時、和算家は数多く存在し、数学教育では、和算の勢力は相当強かった 。しかし、明治5年(1872年)学制が発布され、「和算を廃止し、洋算を専 ら用ふるべし。」という決断が下された。学制は、近代的な教育理念を述べ たものではあったが、これは、当時の数学界の実情に合ったものとは、言え なかった。事実、翌年には、珠算が教育に復活することになる。  いずれにせよ、和算は国家の保護を得られなくなったことは、この時決定 した。しかし、江戸時代でも、和算が政治権力の庇護を受けたことは少ない 。そのため、和算廃止となっても、急激に和算が消滅したわけではなかった 。 和算は明治以降も続いたが、西洋数学により確立したアカデミズムから追 放されるのは、東京数学会社(後の日本数学会)が設立された明治10年(18 77年)である。しかし、その後も初等教育には、鶴亀算など算盤的算術が長 く残り、算数として現在に続いている。  東北地方など、明治政府に反感を持っている地方では、小学校ばかりでは なく、明治末年まで、中学校の数学教師にも和算家は多く存在していた。

研究対象としての和算

 遠藤利貞(1843〜1915年)もこうした、和算家の数学教師の一人だった。 和算が洋算に取って変わられるさまを見て危惧を感じ、『大日本数学史』( 1896年)を著した。  全く参考にするべき研究の無いときにまとめられた日本最初の算学通史の 大作である。遠藤のこの力作によって和算が後世に伝えられることになった のである。しかし、反面、このときから和算は研究する主体ではなくなり、 研究される対象になってしまったのである。  その体裁は、編年体であった。遠藤によれば、史料を伝えるために、あえ てこの方法を選択したという。先達の業績のない困難な環境では、『大日本 数学史』に多少の誤謬があるのは、いたしかたのない所であろう。また、出 典の明記がほとんどなく、後学の研究者を悩ませた。  これを完成させたのは三上義夫(1875〜1950年)である。遠藤との怨恨を 捨て、この大著に注釈を施し、『増修日本数学史』(1918年)を出版したの である。さらに、現代数学史家が注釈を加え続け、最近でもこの大著は入手 可能である。 明治の末年になると、2度の戦争に勝利して、民族主義が勃興し、和算を 世界に誇るという傾向が強まった。  この動きの中心は、皮肉にも和算を葬り去った菊地大麓(1855〜1917年) であった。菊地は、英国ケンブリッジ大学(写真2、3参照)に留学し、ト ライポスとよばれる期末テストで数学の優等賞であるラングラーを受賞、帰 国後は日本数学界の重鎮として、文部大臣まで勤めた人物である。菊地は、 帝国学士院(現、日本学士院)の院長をつとめ、和算書の収集に尽力した。  また、帝国学士院では、紀元2600年を期して、『明治前日本科学史』の編 纂が計画された。算学の分野では、藤原松太郎(1881〜1946年)に編纂が依 頼された。藤原は東北大学を拠点に研究を続けた。太平洋戦争の苦難の中、 編纂作業は進められたが、1926年、藤原は帰らぬ人となった。その後、遺稿 は、1956年、『明治前日本数学史』として出版された。これは、現在、最も まとまった日本算学史の研究書といえるだろう。  このように、和算書は、日本学士院、東北大学に多く現存している。また 、日本数学史学会会長・下平和夫(1928〜1994年)の蔵書が同学会に残され ている。これら3つが和算書のセンターといえるだろう。外部にも公開され ているので、算学に興味を持たれた方は、尋ねてはどうだろうか。              (注釈)  1 中国では、伝統的に六角形から計算を始めている。劉徽(fl.263年)   、祖沖之とも同様である。六角形の一辺は半径と同じであるから、計算   の第一歩が簡単になる。 角形  面積 句冪(1/4AD^2) 股(OD)  小句(r-OD) 小股冪(CD^2 )  面冪(AC 2 ) 6                          1000000000000 12 300   250000000000 866025.2/5 133974.3/5  250000000000 267949193445 24 310− 66987298361 965925.4/5  34074.1/5  66987298361 68148349466 48 3132624 17037087366 991444.4/5  8555.1/5  17037087366   17110278813 96 3139344  4277569703 997858.9/10  2141.1/10   4277569703   4282154012 192 3141024 1070538503 999464.3/5   535.2/5   1070538503   1070825156 384 3141408  267706289 999866.1/10   133.9/10   267706289    267724218 768 3141504   66931054 999966.1/2   33.1/2   66931054    66932176 1536 3141504   16733794 999991.3/5    8.2/5    16733794    16733864 3072 3140960 訂正 投稿雑誌では、267949113445になっておりました。謹んで訂正いたします。 投稿雑誌では、34075.1/5になっておりました。謹んで訂正いたします。              表2 劉徽の計算  劉徽は、192 角形まで計算した。以下は、筆者の計算による。有効桁数が 限られているので、1536角形以降は、却って数値が離れてしまう。なお、円 周率の表示方法は、768 角形の場合、314+94/625というふうに、分数で表示 されている。 角形 句冪(1/4AD^2 )   股(OD)  小句(r-OD)    面冪(AC^2 )     外周  6     −    −     −    25000000000000    − 12 6250000000000 4330127. 669873.   6698729836129    31058285 24 1674682459032 4829629.1/10 170370.9/10 1703708702598 31326286 48 425927175649 4957224.3/10 42775.7/10 427756936159 31393502 96 106939234039 4989294.3/ 5 10705.2/ 5 107053839628 31410319 192 26763459907 4997322.9/10 2677.1/10 26770626771 31414525 384 6692656692 4999330.3/ 5 669.2/ 5 6693104788 31415576 768 1673276197 4999832.3/ 5 167.2/ 5 1673304219   31415839 1536 418326054 4999958.1/10 41.9/10 418327809 31415905 3072 104581952 4999989.1/ 2 10.1/ 2 104582062 31415922 6144 26145515 4999997.3/10 2.7/10 26145522 31415926 12288 6536380 4999999.3/10 0.7/10 6536380 31415924 24576 1634095 4999999.4/ 5   0.1/ 5      − −        表 3   祖沖之の内接多角形の外周計算            劉徽の方法で、筆者が計算。  2 『算俎』(村松茂清、1663年)の計算結果(藤原(1954). vol.2: 31   6 より転記)。関、建部らも実際に計算したのではなく、この結果を引   用したようである。  3 下平和夫 (1965). vol.1: 235.                 参考文献 遠藤利貞 (1896; 1918, 1960, 1981). 『増修日本数学史』. 東京: 恒星社 厚生閣. 小倉金之助 (1940). 『日本の数学』. 東京: 岩波書店. 日本学士院編(藤原松三郎)(1954-60).『明治前日本数学史』5巻. 岩波書 店. 下平和夫 (1965-70). 『和算の歴史』. 2巻. 東京: 富士短期大学出版部. 平山諦・松岡元久 (1966). 『会田算左衛門安明』. 富士短期大学出版部. 写真説明 1 日本海軍の「リーニー」、戦艦「三笠」。前列左より2人めが自衛官時  代の筆者 2 菊地が学んだ、ケンブリッジ大学トリニティ学院。ニュートンも学んだ  近代科学発祥の地である。 3 ケンブリッジ大学キングス学院。
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