城地 茂
The Research of Gnomon in China−−
Shigeru Jochi
Hypotheses of 10 'chi' Gnomon in the Qing Dynasty
西洋の数学が哲学と密接な関係があったように、中国の数学は天文学と不可分な関係に ある。有名な数学者、例えば、祖沖之(註1)、王孝通(註2)、李淳風(註3)、秦九 韶(註4)、梅文鼎(註5)などは、いずれも天文学上の業績を残している。そこで、中 国天文学の二つの潮流の一つである蓋天論、および、その基礎となった中国最古の天文機 器−圭表の研究を通して、中国天文学、数学の特徴を探ってみたい。本論では、特に、清 朝の十尺の圭表を分析し、そこから清代という時代の文化史上の位置を考えてみたいと思 う。 I 「圭表」の構造と機能 「圭表」は、中国文明(黄河文明)最古の天文観測機器であるが、その構造は極めて簡 単である。まず、垂直に8尺の棒を立てる。これが「表」である。この「表」で太陽の影 の長さを測るのであるが、その物差しが「圭」である。後世には、正確に測定するために 、水準器も付属した「圭」もある。 「表」が8尺であるのは、正確に垂直に立てるためと考えられる。つまり、最も簡単な 整数比の直角三角形は3:4:5なので、このような比率で作った定規のようなものを二 つ組み合わせれば、容易に垂直が決まるからである。また、天を意味する「表」が身長よ り低いというのは不都合であるし、弦を区切りのよい1丈(10尺)にするために、6尺: 8尺:10尺としたと考えれば、「表」が8尺であることは容易に理解できよう。 太陽の影の長さを測る「圭表」には、『中国天文学史』によれば(註6)、次のような 機能がある。 1)方向を定める +――――――+ 2)季節(節気)を知る | | 3)時刻を知る | 図1 | 4)宇宙論の構築 +――――――+ 1)の方向を定めるというのは、Indian Circle Methodとして知られている方法である。 中国では、それより古く、『周礼・考工記・匠人篇』に既に記載がある。これは、先ず、 午前中の任意の時間に影の長さを測り、この点をaとする。a点を通り、「表」oを中心 とした円を描く。次に、午後に影の先がこの円と一致した点をa'とする。aとa'を結べば 、正確に東西が決まるというものである。 〓枠01〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 〓 〓 〓 西 a a’東 〓 〓 〓 〓 o 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 図 2 圭表による方向の定め方 2)の季節を知るというのは、毎日、南中時に影の長さを測り、1年で影の最も短い日が 夏至であり、最も長い日が冬至となるというものである。 また、これら以外にも、影長によって季節が分かる。試みに、地球の公転軌道を円と仮 定して計算してみよう。 春分点を0度として、地球が公転軌道上x度にあるとき、太陽が赤道から離れ る角度z は、赤黄交角をεとすれば、 〓枠02〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 〓 〓 〓 黄道 sinx sinz 〓 〓 z = 〓 〓 o x 赤道 sin 90 ° sinε 〓 〓 春分点 ∴z=sin -1(sinε sinx) 〓 〓 〓 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 図 3 太陽の天球上の運動 となる。したがって、緯度φにおける太陽の南中高度eは、 e=90−φ+z =90−φ+sin'(sinε・sin x) となる。ここで、高さbの「表」を立てると、その影の長さyは、 y=b・cot e =b・tan 〔φ−sin'(sinε・sin x) 〕―――――1) で表すことができる。 3)は、日時計として、独立した機器になるので、細かい説明は省略する。 4)の宇宙論とは、地球の大きさや太陽までの距離を求める機能である。蓋天論と呼ばれ るもので、『周髀算経』にあるように、夏至の影の長さが1尺6寸となる地点(緯度)を 世界の中心、「地中(註7)」と考えている。そして、南に1000里行くと影の長さが1寸 短くなるので、1万6000里南が太陽直下になると計算し、さらに、比例計算から太陽高度 が8万里と計算している。しかし、これらは地球が平面であり、しかも、三角関数が一次 式になるという仮定での計算であり、直観的な宇宙論と言えよう。 2 十尺の「圭表」の二つの仮説 現在、南京の紫金山天文台に保管されている「圭表」は、清代に公式に使用されていた もので、青銅製で装飾が施されたものである。周公が定めたとされる伝統的な8尺のもの とは、 1 高さが10尺であること 2 「圭」の北端に直立した「小表」があること の2点で異なっている(註8)。『大清会典』にその詳細な記述があり、これによると 、明の正統7年(1437年)に8尺(明尺)の「表」として製造されている。これを清の乾 隆9年(1744年)に「表」高10尺(清尺)に改造したのである。従来の「表」の上に継ぎ 足した形跡が、現在でも確認できる。「圭」の方は改造した形跡はなく、長さ16尺5寸(清尺)であるから、明代に製造した時は15尺(明尺)として設計されたようである(註9)。そして、この「圭」の北端に「小表」3尺5寸(清尺)が立っている。 まず、この「小表」から考えてゆこう。これは、冬季に影が伸びたとき、「圭」に収ま りきれなる場合がある。そこで、「圭」の北端を立てて、影の高さを読み取り、これを換 算して測定するというものである。尚、観測記録には、「小表」に影が達したときでも「圭」に換算した数値を記録している。 この方法では、「小表」の観測値を実際の影の長さに換算しなければならず、求める影 の長さyは、「圭」の長さをg、「表」の高さをb、「小表」上の測定値をxとすると、 〓枠03〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 〓 〓 bg 〓 〓 小表 表 y= ―――2) 〓 〓 x b b−x 〓 〓 圭g 〓 〓 y 〓 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 図 4 小表から圭への換算 となり、単純な比例計算ではあるが、計算が複雑になるだけで、「小表」の利点は考え にくい。「小表」設置の目的は何だったのだろうか。 ここで、この「圭表」が製造された明代の歴史を考えてみよう。明は、朱元章が蒙古族 の支配に抗して1368年に革命を起こし、南京を首都として建国された。しかし、その子の 建文帝のときに、叔父の永楽帝がクーデターを起こし、1421年に北京に遷都したという歴 史がある。このことが、「小表」の創設と結び付かないだろうか。 ここで、一つ目の仮説を述べてみたいと思う。 名前の通り、南京は北京の南にある。南京で、最も影が長くなる冬至での長さは、3)式 で、「表」の高さb=8尺、南京の緯度φ= 32.05°、当時の赤黄交角ε= 23.47°、冬 至x= 270°であるから、 y=11.6271366尺 までしか到らない。 ここで、『周髀算経』の蓋天説によれば、夏至の1尺6寸の影長のとき、北へ1000里行 った所では1寸長くなる。そこで、明代の技術者は、冬至のとき「地中」では影長は、1 丈3尺5寸であるのだから、北へ1000里行けば8寸4分強長くなると考えたのではあるま いか。そうすると、北京−南京間は、鉄道の営業キロで1166km、約2900里である。したが って、北京では、14尺余りとなるはずであった。15尺の「圭」があれば充分と計算したと しても不思議はない。 しかし、実際には、1)式に北京の緯度φ= 35.55°を代入した、 y=15.9549375尺 まで影の長さは伸びてしまう。「圭」は既に完成してしまい、皇帝の親銘までもらって いる。作り直すという訳にもいかない。そこでやむを得ず、「小表」を設けて測定出来る ようにしたのではないだろうか。つまり、蓋天説に盲従し、「圭」の寸法を間違えたので はないかというのが、「小表」創設の仮説である。 次に、「表」を10尺にしたことを考えてみたい。このことは、8尺の「表」で構築され た蓋天論を顧みなくなったということであり、伝統的な宇宙論を捨て去ってまで10尺にし た理由は何だったのだろう。 従来、その理由として、三角関数が伝来し、計算を簡素化するためとされていた(註10 )。この計算とは、太陽高度の計算のことと考えられるが、太陽高度を測定するには、専 門の機器が既に発明されている。郭守敬が13世紀に実用化している「仰儀(註11)」であ る。こうした機器があるのだから、「圭表」をわざわざ改造しなくても問題ないはずであ る。また、「小表」を「圭」の数値に換算する際にも、2)式のbを8から10に変えても、 計算がさほど簡単になるとは思えない。 そこで、二つ目の仮説を述べてみたい。これは、「小表」を利用しようとしたのではな いか、という仮説である。 1)式でb=10、φ= 39.90°、ε= 23.47°として、y>15となるxを求めると、 225.194856°<x<314.805144° となる。つまり、大体、立冬(225°) から立春(315°) となる、という答えを得る。す なわち、二十四節気上での「冬季」に影が「小表」にかかるようになるということである 。不便であった「小表」を逆用して、「圭表」の 2の機能である、季節を知るという機能 を強調するようにしたのではないだろうか、というのがこの仮説の骨子である。 ところが、「表」は清尺の10尺であり、「圭」は明尺の15尺である。そのため、今述べ たような機能はこの「圭表」にはない。もしも、この仮説のように天文家が考えたとして も、明尺と清尺を混同するという失敗をしたことになる。「表」と「圭」が分離可能であ ったので、現場でその失敗に気が付かなかったのかも知れない。 「圭表」が南中時のみ測定するようになって機能 1は失われ、日時計として独立した機 器が生まれ機能 3も無くなった。そして、「表」の高さを10尺にするというのは、8尺で の影で構築した宇宙論との訣別を意味する。したがって、10尺の「表」とは、残る季節を 知るという機能を強化したものと考えた方が理解し易いのではないだろうか。 3 清代の文化史上での位置 「圭表」が8尺から10尺に変えられたというのは事実であるから、宇宙観が変化したの は確実である。これは、古代黄河文明の受容の態度が変化したと言ってよいだろう。すな わち、明代が伝統を尊重して遵守したのに対し、清代はそれを改良、応用したのである。 つまり、清代に、大きく時代の思潮が変わっていると言えよう。 数学でも、橋本敬造教授が指摘する(註12)ように、明代と清代では、計算方法が珠算 から筆算へと大きく変化している。算術が主体である中国数学にとって、このことは、画 期的な大変化である。数学と天文学の密接な関係を考えたとき、変化がどちらかだけとい う方が不自然と言えるかもしれない。 自然科学史の分野でこのような変化が見られるにもかかわらず、明清は文化的に同一視 されることが多い。清代が明代の延長であるという位置付けになっているのである。しか し、自然科学だけが他の文化とは全く独自なものとするのは不自然である。数学、天文学 以外の文化が、明代と清代は同様なものなのか、もう一度確認する必要があるのではない だろうか。清代が従来のものとは異なった地位を得る可能性もあるだろう。 (註) 1 429〜 500年。円周率を計算した『綴術』の著作がある。また、初めて歳差現象を 取り入れた『大明暦』を作る。 2 7世紀。初めて3次方程式を解いた『周髀算経』を著す。この中にも、天文学関係 の記述もあり、また、彼の職は、太史丞(天文台の次官)だった。 3 7世紀。『算経十書』に注釈を施す。このとき、太史令(天文台の長官)の職にあ った。 4 13世紀。高次方程式の解法、剰余方程式の解法などを論じた『数書九章』を著す。 このうち、剰余方程式の解法は、暦学上の必要性から考案されたと考えられている。 5 1633〜1721年。中国に西洋式の筆算法を紹介した。死後に纏められた『梅氏暦算全 書』は天文・暦学の研究として有名。 6 中国天文学史整理研究小組編著、『中国天文学史』、科学出版社、中国北京、1987 年、p.174 。 7 「地中」の緯度は、夏至の影の長さが1尺6寸、冬至が1丈3尺5寸であるから、 35.33度、すなわち、黄河流域となる。なお、このとき、赤黄交角ε= 24.02°であ る。 8 8尺以外の「表」には、『准南子・天文訓』にあるような実在したかどうか不明で あるが、10尺のものの記載がある。また、梁代の大同10年(544年) には、「地中」よ り南にある荊州(現在の湖北省江陵県)で、「地中」と影長を合わせようとして9尺 の「表」を試みたことがある。元代には、相対誤差を少なくするために、8尺を5倍 にした40尺の「表」が作られた(前出、『中国天文学史』、p.177 〜178 )。 9 明の1尺は 31.10cm、清の1尺は 32.00cmである(呉承洛、『中国度量衡史』、商 務印書館、1937年、p.66)。 10 前出、『中国天文学史』、p. 177。 11 直径1丈2尺の椀状の機器。中心にピンホールがあり、太陽の像が「仰儀」の球面 に投影される仕組みになっており、太陽の位置を観測する。 〓枠04〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 図 5 迎儀 〓 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 12 橋本敬造、「梅文鼎の数学研究」(『東方学報』1973年44号、p.241 )Back to Home Page