英国王立協会図書館蔵『算法童蒙須知』について

城地 茂

"Sampo Domo Suchi" kept at The Royal Society Library

Shigeru Jochi



  知識公開制度の確立は、近代科学成立のための必要条件と言えるだろう。科学が知識の
連続的な積み重ねか、或いは、不連続な革命的なものかは、意見の分かれる所であるが、
いずれにせよ、それを公開し、討論しなければならない。しかし、知識を公開した人物・
機関が、経済的・名誉的に保護されなければ、知識は秘匿され、大いなる進歩は望めなく
なってしまう。著作権という制度は、知識の保護と公開を両立させるものと言える。
  英国王立協会(The Royal Society) は、世界で最初にこの知識公開制度を確立させた、
換言すれば、近代科学誕生の地の一つになった機関である。その英国王立協会図書館に秘
密主義(*1)であるはずの和算書が保管されていたというのも歴史の意外性を感じさせるも
のである。しかも、これは、日本では散逸してしまった写本であった。勿論、所持してい
た和算家が公開しても差し支えのないと考えた和算書であるから、数学的水準は高いもの
ではないが、英国王立協会へ到った経路など興味深いものがあるので、報告してみたいと
思う。

1)王立協会と『算法童蒙須知』の寄贈者
  ロンドンの中心、ピカデリー・サーカスに近い一等地に位置する王立協会は、1660年の
創立であり、ギルド的な大学の枠を越えて研究を進めるという趣旨の元に、新進研究者が
集った。「見えざる大学」(Invisial College)という俗称がそのことを物語っている。16
62年には、国王チャールズ二世 (Charles 2) の勅許状も得られて、英国最高の学会とし
て発展してゆく。1665年以来、機関紙『哲学紀要』(Philosophical Transactions)の発行
を続け、知識の保護に努めている(*2)。この方法が最高のものであったかどうかは分から
ないが、ニュートン卿(Isaac Newton)の『プリンキピア』(Principia, 1687年初版、図2
中央)に代表される近代科学を生み出し、この学会の名声を不動のものとした(*3)。
  英国の研究者にとって会員(Fellow of the Royal Society) になることは最高の栄誉で
ある。現会長は、位相幾何学の「k理論」(*4)のアティア卿 (Michael Atiyah) で、ニュ
ートンの母校ケンブリッジ大学トリニティ学院院長でもある。毎年、40名の新入会員と6
名の外国人会員を迎え続け、会員は、約 850名、中国科学史のニーダム博士(Joseph Need
ham)もその一員である。外国人会員は約40名、昭和天皇も名誉会員であった。
  『算法童蒙須知』は、会員のジェームス・レニィ教授 (James Rennie, 1787-1867)が18
68年1月に寄贈したものである。同教授はロンドン大学キングス校で自然科学史の講座を
担当した後、1867年、オーストラリアのアデレードへ移住しているが、日本に立ち寄った
形跡はない(*5)。『算法童蒙須知』が中国の歴史書『資治通鑑』(司馬光、1084年成立)
と王立協会図書館内部の同じ場所に保管されていることから考えて、香港或いは別な英国
の植民地でこれを入手した可能性が高いのではないだろうか。入手したのは、1867年のこ
とであろう。

3)『算法童蒙須知』の目録と成立時期
  題箋には、『最上流、算法童蒙須知』とあり、内題は『算法童蒙須知』である(以下、
協会本と記す)。最上流三伝、安永惟正の写本である。大きさは、18.7cm×12.4cm、毎半
葉6行×16字である。3編22巻 682章(*6)のうち、初編は全失、中編5〜10巻、後編1〜
5巻の11巻が現存していた。
  安永惟正は、最上流の四天王と言われた市瀬惟長の門弟で、『二一天作五』(1811年) 
『算法約術知津』(1816年)を著し、次いで、甲斐の石和に遊歴し、『甲陽算鑑童蒙知津
(本朝算鑑)』(1816年序、1820年刊)を著している。最晩期の著作は、『最上流算法中
伝目録』(1831年)である(*7)。しかし、協会本は、巻頭と巻末が散逸してしまっており
、著された年代は不詳である。他に残された史料から推定してみよう。
  下平和夫博士が市瀬惟長の門弟、久松彝之が著した『算法童蒙須知』(以下、下平本と
記す)を発見された。下平本は、中編の6、7、10巻の3冊だけであるが、協会本と比較
すると、酷似していることが分かった。

                    協会本                                下平本                
大きさ      写本  18.7cm×12.4cm                  写本  18.1cm×12.0cm          
著者        最上流三伝  東都本石町十軒店  処士    最上流三伝  東都日本橋稲荷新街
            櫓山堂(*8)安永伝語橘篤愛  別名格斎    呉橋堂  久松梅司管彝之  観斎  
筆記者      門人  鈴木伊三郎(*9)                  門人  関金太郎                

目録        中編  巻5  米穀諸術                  欠
                        内外眷減                                                
                        御蔵米相場                                              
                        杉形算                                                  
                        諸国引合                                                
                                                                                
            中編  巻6  年利割                    年利割                        
                        月利割                    月利割                        
                        何両一分                  何両一分                      
                        諸利足定法                諸利足定法                    
                        利平均                    利割平均                      
                                                                                
            中編  巻7  材木売買                  材木売買                      
                        尺〆定法                  尺〆定法                      
                        円法                      円法                          
                        周法                      周法                          
                        本挽定法                  本挽定法                      
                                                                                
            中編  巻8  砂糖類                    欠                            
                        芋種
                        中ヶ間引合                                              
                        外店引合                                                
                        上方引合                                                
                                                                                
            中編  巻9  地代勘定                  欠                            
                        沽券割合                                                
                        線香紙鰹節類                                            
                        的中矢数之事                                            
                        平均相場                                                
                                                                                
            中編  巻10  金物類                    金物類                        
                        給金日割                  給金日割                      
                        引合ヶ算                  引合ヶ算                      
                        賃銀割合                  賃金割合  (「金」相違)      
                        飛脚再会                  飛脚再会                      
                        運賃割合                  運賃割合                      
                        残物之法                  残物之法                      
                        平均利割                  平均利割                      
                        奇偶算                    奇偶算                        
                        干支用法                  干支用法                      
                                                                                
            下編  巻1  位附法        40章(図3下)欠                          
                    2  平歩誥        41  (図3上)                            
                    3  〃            30                                        
                    4  立坪誥        33                                        
                    5  皮積(附枡法)28                                        
                欠(6  土方普請      32)                                      
                欠(7  幾裏諸術      28)                                      
                欠(8  差分(附分術)18)                                      
                欠(9  盈〓方程      17)                                      
                欠(10  九章算術      26)                                      
                                                                                
  このように、協会本と下平本は、殆ど同じ物と考えられる。安永惟正と久松彝之が市瀬
惟長の同門で、共に「最上流三伝」を名乗り、初等教科書として同じ物を使っていたので
ある。しかも、その著作権を二人の人物が主張しているのである。このような混乱は、師
の市瀬惟長の生存中は考えられなかったであろうから、いずれが著者だとしても、『算法
童蒙須知』の成立は、市瀬惟長の没後と考えられる。
  著者の問題に関しては、次のように考えたい。著者と考えられるのは、二人の門弟(10)
以外にも、市瀬惟長(遺稿)であった可能性もある。しかし、『算法童蒙須知・附編・地
方算法』も安永惟正が著しているので、著者は、安永惟正であろう。
  市瀬惟長と安永惟正の住所(多分、塾の住所)は同じである。したがって、市瀬惟長の
没後、最上流三伝として、安永惟正が市瀬惟長の塾を引き継いだと考えるのが自然だろう
。市瀬惟長の年記が残る最後の著作は、『宅間流系譜』(1819年)(11)であり、市瀬惟長
は健在である。市瀬惟長が没したのは、市瀬惟長の遺稿(12)が纏められた間である。すな
わち、1819年から1824年の間である。
  しかし、1820年まで安永惟正は甲斐に逗留しており、江戸を留守にしている(13)ので、
師と同じ住所を記することは考え難い。したがって、協会本の成立は、少なくとも1820年
以降である。また、遺稿の整理で、1824年までは、忙殺されていたであろうから、それ以
降に著された可能性が高いだろう。また、安永惟正の総括とも言える『最上流算法中伝目
録』が著わされたのが、1831年である。したがって、1824年から1831年までの間に成立し
たと考えられる。

4)『算法童蒙須知』の内容
  それでは、『算法童蒙須知』は、どの程度の数学的水準であったのだろうか。題名から
見て、教科書と考えられるが、その対象となった生徒の水準を考えてみたい。
  上編は全く散逸してしまっているので、想像するしかないわけであるが、『甲陽算鑑童
蒙知津(本朝算鑑)』(1820年刊)には、「八算見一」の説明がなく、この部分を補うよ
うな、算盤の基本操作のようなものではないだろうか。
  中編になると、巻7の「円法」では、日本初等数学の伝統的円周率、π〓3.16を使って
いる。つまり、「円理」までは教えていないのである。
  また、中編、巻10の「引合ヶ算」では、
        今、小銭(一文銭)ト四文銭(14)ト交テ、四十二銭アル。此ノ銭ヲ以テ、一ツニ
      付三(15)文ツツノ桃三十九ヶ也。小銭、四文銭ノ数ヲ問。
            答曰。小銭十七文、四文銭二十五文。
          術曰。桃三十九ヶニ三文ヲ乗ジ、甲トシ、又、四十二文ニ四文ヲ乗ジ、内甲ヲ
        引余リ実トシ、別ニ四文ノ内一文引余ル三文ヲ以テ実ヲ除キ、小銭ヲ知ル。

  という、所謂「鶴亀算(16)」の応用問題を出している。
  代数的に表記すれば、一文銭の数をx、四文銭の数をyとして、
                  〓x+  y= 42
                  〓x+4y=117(=3×39)
  という連立2元1次方程式を解く訳であるが、このような代数的方法は、欠巻になって
いる下編、巻9「盈〓方程」で教授していたのであろう。ここでは、一風変わった、大小
の差が3である「鶴亀算」で解いている。
  42枚の硬貨が全部四文銭であると仮定すれば、 168文あることになる。ところが、題意
では、1個3文の桃が39個であるから 117文である。仮定との差が51文であるから、小銭
(一文銭)が四文銭に代わってゆけば、1枚につき四文銭との差3文が修正される。した
がって、51÷3=17枚が小銭の数である。
  この問題は、桃1個の価格3文と、小銭(一文銭)と四文銭の差3文が同じになってお
り、工夫を凝らしたものと言える。最初の仮定のように、 168文あるとすれば、桃は56個
になり、一文銭が1枚増える毎に桃1個(3文)が減少する。ここから直ちに、56−39=
17として、一文銭の数が計算できる。
  このように、普通の「鶴亀算」で「足」の部分が、「桃」で表されているために、仮定
的思考に習熟していなければ、混乱してしまう。したがって、この問題を解決できる生徒
は、一般的な寺子屋で、普通の「鶴亀算」を既に学習した水準の生徒と考えられる。
  また、中編、巻10の「奇偶算」も一見、『孫子算経』巻下第26題「物不知其数」問題の
剰余方程式(翦管術、不定方程式)を思わせる問題であるが、実は級数を使う問題である
。
        今、十露盤ニ物数アリ。其数ヲ知ラス。只云、奇数ヲ以テ〔一、三、五、七、九
      、十一、十三、逐如此〕是ヲ累減ノ余リ三個。又云、偶数ヲ以テ〔二、四、六、八
      、十、十二、十四、逐如此〕是ヲ累減ノ余リ八個。
            答曰。物数二十八箇。
          術曰。偶ノ余ル内、奇ノ余リヲ引キ、五個トナルヲ自乗シテ、奇ノ余リヲ加ヘ
        、物数ヲ知ル。

  という問題で、
  求める数をx、偶数の余りをre 、奇数の余りをro とすると、
                 n                                                              
            x=Σ 2K   +re =nU −n+re     ――――――――1)            
                k=1                                                             
                 n                                                              
            x=Σ(2K+1)+ro =n2     +ro     ――――――――2)            
                k=1                                                             
  1)2)式を整理して、n2 を消去すると、
                              −n=ro −re     ――――――――3)            
  求めるxは、2)式に3)式を代入して、
                    x=n2 +ro =(ro −re )2 +ro                       
  となり、術文のようになる。
  このような問題は、翦管術への導入(17)や級数の初心者用の問題としてよく出来た、最
上流らしい問題と言える。また、問題に有るように算木を使わず、算盤で解いていたこと
が分かる。
  このように、中編は、中級の生徒を対象にした教科書と考えられる。
  下編では、平面幾何や立体幾何(位附法、平歩誥、立坪誥、皮積(附枡法))(18)であ
り、下編巻5までを見るかぎり四則演算の範囲を越えるものではない。開平方・開立方は
なく、「算術」の水準である。これ以後は、『附編・地方算術』や『甲陽算鑑童蒙知津(
本朝算鑑)』を学習させたのではないだろうか。


5)まとめ
  以上の考察から、『算法童蒙須知』は、初心者から中級者までの教科書と考えられる。
比較的よくできた教科書で、そのため、少なくとも、安永惟正と久松彝之の二つの塾で使
われていた。しかし、協会本が海外へと流失したのは、単なる偶然だったのだろうか。
  和算が、西洋科学とは異なった結果となったのは、冒頭で述べたように、その流派毎の
奥義を最後まで秘匿し続けた事と無関係ではあるまい。勿論、和算にも公開する制度はあ
り、それは、2種類に大別できる。
  一つは出版(含写本)である。遺題継承の時代(19)には、短期間に中国数学の吸収を成
し得ていた。しかし、著作権、出版権は確立しておらず、『塵劫記』(1627年初版)の例
に見るまでもなく、他者が自由に出版し、著者吉田光由は偽物に苦慮(20)していた。
  もう一つは日本独自の制度で、「算額奉掲」と呼ばれるものである。関流と最上流の論
争の発端となったのが、会田安明が愛宕神社に奉納した算額を藤田貞資が訂正を示唆した
ことから始まっている(21)。このことからも、この制度が論壇の一部を担っていたことが
分かる。しかし、算額は印刷されず1枚だけのものである。別な地方の和算家が情報を得
ようとしても、近世の交通事情から考えれば、限界は否めない。また、算額は1枚の絵馬
なので、その中に盛り込まれる情報量も制限されよう。
  このような知識公開制度が完成しなかった和算界にあって、輸出できる和算書は限られ
てくる。秘伝を公開する訳にはいかない。しかし、一方では、圧倒的な西洋文明との邂逅
は、民族主義を芽生えさせた。和算という民族科学を誇示しようとしたに違いない。出来
るだけ完成度の高い和算書を、と考えただろう。この矛盾する状況のなかで、和算家や書
店にとって、協会本の選択は、最善の選択ではなかったのだろうか。

  末筆ながら、資料を提供して下さった、王立協会図書館司書、デビット・フォスター氏
(David Foster)、ロンドン大学アジア・アフリカ学院、クリストファー・カレン博士(Chr
istopher Cullen)、日本数学史学会、下平和夫博士、佐藤健一氏及び早稲田大学図書館、
日本学士院図書館、東北大学図書館に対し、御礼申し上げます。


                                      注釈                                      

  1  日本学士院編(藤原松三郎編)、『明治前日本数学史』第4巻、岩波書店、1959年
    、pp.179-180
  2  他に『会報』(Proceedings of the Royal Society,1800〜) 、『記録』(Note and 
    Records of the Royal Society,1938 〜) も発行している。
  3  ニュートン卿は、反射望遠鏡(図1中央)を寄贈した功績により、1672年に会員と
    なり、1703年〜27年まで会長を務めるとともに、近代物理学・数学を創立した。図2
    左は、デス・マスク。
  4  Atiyah, F. Michael, K-Theory, W. A. Benjamin Inc., New York, 1967.
  5  Dictionary of National Biography (up to 1900, POCOCK to ROBINS), Royal Soc
    iety, London, 1909, pp.904-905.
  6  安永惟正、『算法童蒙須知・附編・地方算術』(早稲田大学図書館小倉文庫蔵、写
    本5巻のうち残2巻)凡例による。本編も附編と同様に、1巻が1冊になっており、
    1章が1問題である。大きさは本編と殆ど同じく、18.7cm×12.7cmである。これでは
    、安永惟正は、「最上流再伝」となっている。市瀬惟長は「最上流直伝」となってい
    る(註12参照)事が多いので、このように自称していたようである。
  7  前出、『明治前日本数学史』第5巻、1960年、p.275 。
  8  忠怒(恕カ)堂とも号す。また、安永伊織時正之供ともある(遠藤利貞、『増修日
    本数学史』、1896年初版、1981年、p.470 、林鶴一頭注)。
  9  安永惟正、『甲陽算鑑童蒙知津(本朝算鑑)』(1816年序、1820年刊、東北大学図
    書館林文庫蔵)の跋には、安永惟正の甲斐での門弟の名が列挙されているが、その中
    には見られない名前である。したがって、江戸へ戻ってからの門弟であろう。
  10  確認できる市瀬惟長の門弟は、このほかに、森川徳次郎尺明がいる(前出、『明治
    前日本数学史』第5巻、 p.296)。
  11  前出、『明治前日本数学史』第5巻、pp.296-297。
  12  市瀬惟長遺稿、『最上流珠盤術自三乗至六乗』(1824年序、早稲田大学小倉文庫蔵
    、筆者未見)は、安永惟正序、久松彝之編となっている。また、その巻末には、安永
    惟正、『天正法起源』が付されている(前出、『明治前日本数学史』第5巻、pp.273
    -274)。
  13  1819年に会田安明の三回忌が浅草観音で行われ、算子塚が築かれたが、その時の石
    碑に安永惟正の名前は上っていない(前出、『増修日本数学史』、 p.503)ので、江
    戸不在だったようである。したがって、江戸に戻ったのは『甲陽算鑑童蒙知津(本朝
    算鑑)』の跋文に記された1820年以降と考えられる。
  14  1768年に鋳造された真鍮銭で、江戸時代後期にかけて、よく流通した。なお、1863
    年の文久銭(銅銭)も有名である。
  15  下平本は、五となっているが、術文により三に改める。
  16  「鶴亀算」は、『孫子算経』( 400年頃)巻下第31題「雉兔同籠」以来、大小の差
    は2でる。2足の鳥と4足獣の合計が何頭、足の合計が何本で、それぞれの数を問う
    ものであった。鶴と亀という目出たい動物になったのは、坂部広胖、『算法点竄指南
    録』(1810年刊、序)からである(下平和夫、『和算の歴史』(上)、富士短期大学
    出版部、1965年初版、1970年、p.45)。
      村井中漸、『算法童子問』(1781年序、1784年刊)で大小の差が2でない場合も計
    算している(佐藤健一、『数学の文明開化』、時事通信社、1989年、 p.195)。
      尚、『九章算術』(A.D.1c) 巻2第38〜43題の「其率術」は大小の差が1の「鶴亀
    算」とする説がある(北京師範大学白尚恕教授、未発表)。
  17  斎藤尚中、『斎藤尚中草稿』(1829年、日本学士院蔵)(前出、『明治前日本数学
    史』第5巻、pp.276-283)など、最上流では剰余方程式の造詣が深かった。
  18  安永惟正、『歩誥坪誥解』(成立不詳、東北大学図書館林文庫蔵)には、点竄術に
    類するの記号があるが、これと『算法童蒙須知』とは別なものである。
  19  吉田光由、『新編塵劫記』(1641年刊)から沢口一之、『古今算法記』(1671年刊
    )の間が遺題によって数学が発展した時期とされている(前出、『和算の歴史』(上
    )、p.167 )。
  20  前出、『明治前日本数学史』第1巻、1954年、p.41。
  21  1781年のことである(前出、『和算の歴史』(下)、1970年、pp.130-134)。以後
    、藤田貞資、『精要算法』(1781年刊)に反駁する会田安明、『改精算法』(1782年
    稿、1785刊)から会田安明、『算法非撥乱』(1801年稿)、神谷定令、『福成算法』
    (1802年稿)の間にかけての論争は関流と最上流の相互に好結果をもたらした(前出
    、『明治前日本数学史』第4巻、pp.490-504)。
                                                                                


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