Wunsiedelへ

ヴンジーデルって、東ドイツなの?
と、卒業論文の審査会で尋ねられて、答えに詰まった。作家ジャン・パウルは1763年にヴンジーデルに生まれた、と論文には書いたものの、ヴンジーデルなる場所がどこにあるのかわたしはまったく知らなかった。当時のわたしの感覚では、ミュンヘンやベルリンといった大都市ですら、アウエンタールやリラールといった小説の舞台と同じようにドイツ語のテクストによくでてくる地名にすぎなかった。

Wunsiedel という地名を地図上に発見した時、自分が調べた作者の履歴が突然、リアルになったような気がした。

ニュルンベルク (Nürnberg) からバイロイト (Bayreuth) へ。バイロイトからちょっと寄り道して、ホーフ (Hof) へ。ホーフからマルクトレトヴィツ (Marktredwitz) に出て、バスに乗る。

この東ドイツ国境に近いフランケン地方の小さな村が、わたしのドイツ旅行の最初の目的地だった。

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わたしは、ドイツに到着すると、すぐニュルンベルクへ向かった。国際空港のあるフランクフルトを素通りしたのは、8月からフランクフルト大学の語学研修に参加する予定だったということのほかに、ガイドブックには駅周辺はとくに治安がよくないとあって、あまり近寄らない方が無難という気がしたためだった(今では、わたしはこの街にかなりの愛着をもっている)。
それにしても、ニュルンベルクは、落ち着いた街だった(最初の印象があまりにもよかったので、後の失望が大きかった)。

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印象的だったのは、広場、街を取り囲む城壁、そして、赤茶けた屋根の煉瓦。


ジャン・パウルは、息子マクスとともに、バイロイトに葬られている。墓を見つけたときは、むやみやたらに感激した。いや、実は、今もその時のことを思い出して、感無量なのである。grab1.jpg


franken1.jpgバイロイトからさらに、東に向かう。意気揚々と出かけたものの、列車から見えるのは、行けども行けどもはてしない麦畑ばかり。車内には、観光客らしき人は一人もいない。だんだん心細くなってきた。


ホーフの町を歩きまわった。最近、映画祭で有名になったが、町そのものにこれといって観るべきものはなにもない。ジャン・パウルの時代は、繊維産業が盛んだったらしい。母方の家も、繊維を営む比較的裕福な商家だった。hof2.jpg 


ホーフのローレンツ教会には、ジャン・パウルの母が葬られている。墓碑銘は、息子が書いたにちがいない。 hof1.jpg

Der Gedanke an eine kleine grüne Stelle neben der Lorenzkirche wird der einzige bittere Tropfe sein der in die Blumenkelche meines Frülings rinnt für Jean Pauls Mutter    + 25. 7. 1797

ローレンツ教会のかたわらの小さな草地への思いは、わたしの青春の花びらに落ちる一滴の苦い雫になるだろう。

小説『ジーベンケース』では、貧しい小市民の夫婦生活が克明に描かれているが、作者の母親との二人暮らしがモデルになっているといわれる。母親のイメージが主人公の妻のイメージに重ねられているところに、心理学的な問題を読む研究者もいる。

わたしはこの日、歩きすぎて、宿についたときは、膝が痛くなっていた。宿の主人はとても気の毒そうな顔をして、ビールでも飲めと言ってくれた。


ヴンジーデルは今でも小さな村なので、ジャン・パウルの生まれた家はすぐに分かる。

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wunsiedel2.jpg フィヒテル山 Fichtelgebirge の麓で空気はいいが、ジャン・パウルが生まれたころと同様、なにもない。宿の主人は、演劇祭が開かれるとか言っていたが、いまでもやっているのだろうか。


1987年7月。ありとあらゆる留学生試験に挑戦するも、全部落第。修士論文をなんとか書いたものの、いまだ業績ゼロ。よほど見るに見かねたか、親がドイツに行ってこいと言ってくれた。日本はちょうどバブル経済に突入しようとしていた時代である。

grab2.jpgそれにしても、御当人は呑気なものだった。


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