Bindloch の石柱


 『五級教師フィクスライン第二版への序章の物語』(Geschichte meiner Vorrede zur zweiten Auflage des Quintus Fixlein 1796) を読むと、語り手ジャン・パウルが、かれの女性読者パウリーネと別れるのは、ビントロホの石柱の前ということになっている。



バイロイト郊外は、たしかになだらかな丘陵地帯で、地図には、ビントラハ山 Bindlacher Berg 海抜 493m と記載されている。  


 ジャン・パウルによれば、その石柱に描かれているのは、転覆した馬車で、馬車に乗っていた花嫁が下じきになって死んだのだという。かれは人間(女性)の幸福のはかなさと非情な運命に思いを巡らせ、折しもバイロイトに嫁ぐパウリーネに、物語り『月蝕』(Die Mondsfinsternis) を読んで聴かせるのである (B. I 5, 31)。  

 このラストシーンはそれまでの諷刺的、諧謔的トーンから一転して、『序章の物語』のなかでも最も感動的なくだりである。読者は、登場人物のため息に深く共感し、圧倒的な感情の昂揚を体験することになるはずだった。ところが、わたしは、最後に付された石柱の挿し絵に気をとられて、ついにそういう感動を味わうことができなかった。石柱の絵は、ハンザー版では省略されているが、ベーレントの編集した決定版 (B. I 5, 37) にも、鈴木武樹氏による翻訳(創土社 1974)にも転載されている。

本文を読むよりも先に挿し絵の方を見てしまったためか、この石柱は、目のクルクルしたお化けの像としてわたしの脳裏に焼き付いてしまったのである。



 それから何年たったのだろう。わたしは、フランケン自転車旅行の途中(この旅行の顛末もいつか書いてみたいものだ)、バイロイト郊外で似たような石柱がぽつんと立っているのを見つけた。

 決定版の注に、この石柱は「もはや存在しない」(B. I 5, 535) となっているからには、ジャン・パウルの時代には、丸い円が二つ描かれた石柱も、実際、ビントラハに立っていたのかもしれない。だが、これらの石柱は、なんのために建てられたのだろうか。 


 ジャン・パウルの言うように、伝承、あるいは、なにかの出来事の記念にこのような石柱が建てられたというのは、ありえないことではない。しかし、少なくともわたしの見た石柱は、カトリック教会などでよく見られる、十字架の道を示す留(Station)のような感じでもあった(とはいえ、石柱はこれ一つしかなかったが)。



 この自転車旅行の帰りに、リヒテンフェルス Lichtenfels からマイン川沿いに少し下ったところにある14聖人教会 Vierzehnheiligen という巡礼教会に寄ったが、教会に通じる山道には、やはり留が立っていた。




 ちなみに、この教会の会堂はノイマン Balthasar Neumann が設計したもので、ドイツバロック建築の傑作の一つとされている。  




 お化けという直感を信じるならば、道祖神、ないしは、お地蔵さんのようなものだったのか。

 あるいは、たんなる道標だったのかもしれない。  
 バイロイトへの途上で見つけた道標は、しかし、石柱とちょっとちがっていた。  


 メモ帳によれば、1990年9月9日のことである。わたしは、ミュンヒベルク Münchberg を朝8時に出て、バイロイトに向かった。パウリーネとジャン・パウルはまさにこの道をこの方向に、そして、ジーベンケースとライプゲーバーは同じ道を反対方向に旅したのである。作者も何度となく、この道を行き来したにちがいない。  

ちょっと前まで、バート・ベルネック Bad Berneck の山道を自転車を押しながら歩いていたことを考えれば、整備された道を走るのはなんといっても快適だった。しかし、草地の向こうには、米軍基地などもあり、花嫁の運命を嘆くような気持ちにはやはりなれなかった。



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