マックス・コメレル
一つの時代全体がフモ−ルのしるしの下にあるということを、ジャン・パウルはある日悟ったにちがいない。この洞察が美学入門をつくりだすのだ。印刷紙の時代に、一人の人間が「わたしの」ということばを、一つの思想について発することが許されるとするならば、わたしは、おかしなもの、フモ−ル、イロニ−、そして、機知についてのプログラムに関してそのことばを発する、とかれの第一版への序文にある。フモ−ルが思想として、識別しつつ時代と太古とを眺望する作品の中心をつくりうるには、フモ−ルが、ある特定の精神が現存在に対してどのような関係にあるのかということだけではだめだった。その関係がどれほど主要であり、どれほど余儀ないものであろうともだ。− フモールは時代の概念と大きさになった。ジャン・パウルは、この概念において、この時代に己のロマン的信条を刻印し、そして同時に、ジャン・パウルの理解したロマン派の精神に対する、ジャン・パウルの理解したフモ−ルの関連を述べたのだった。その際、フモ−ルは近代の芸術家のほとんど免れえない志向になった、と。
これが、この作品が時代全体における唯一の正義を、諸王の特性を、行使しうるための重要な前提である。そして、この作品はロマン派をどう理解していたのか。古典的とロマン的の区分は、今日のにせよ、以前のにせよ、すべて、この作品の区分のまえに色褪せる。それは、学派や、それどころか、人物の区分線を消し去り、精神の種類しか認めない。遠くまで届く聴覚によって、インドやアイスランドからロマン派の前奏を聴き取るが、しかし、ロマン派の魂の国の本来の受け取り人はキリストに認める。もっとも偉大な人々の名をジャン・パウルは自分のロマン派の系図に刻む。シェ−クスピア。「霊界信仰を発見しなければ、発明したであろうこの美しい人間」ー ロマン派の霊界のプロスペロ−。かれの作品はバク−の平原の写しである、と。なんと刺激的な表象だろう。さらに大胆にロマン派の先祖としてのプラトン。かれには「賛歌と理念、冥界の天にある星座」があり、かれの教説というロマン的な無限の素材があり、「歌いつつ、戯れつつ、あらゆる知の上空を漂う」世界のイロニ−がある。
第二の前提。この作品は、永遠化された師ヘルダ−の姿へむけての、ほとんどプラトン的ともいうべき賛辞で結ばれる。これは一つの示唆だ。かつてプラトン的ソクラテスという聖像をたてたあの気高い羞恥が、他者の名を借りて究極の目標と秘密を打ち明けるところでは、どこであれ、一つの時代が道を転ずる。ジャン・パウルが、自分自身からばかりか、来るべき世代の種族から成し遂げ、また、成し遂げることを約束した行為、そのあらゆる行為に対して、かれは自分ではなく、偉大さがまたたく間に薄れた死した証人を立てるのだが、それはいっそう力強く地下世界から大音声をかえすためになのだ。一人の超=ヘルダ−こそ、かれ自身の魂とジャン・パウルの魂とロマン派の魂からなる三叉の戟でこれからの時代の海をわけることになるだろう。今日、作品をみて、この弟子を師の上に置こうとする者は、ヘルダ−の書斎で椅子に腰かけて対話する二人の姿を思い浮かべるべきである。一方は、イモリのように闊達で、いささかも品位を気にかけない。涙に潤んだ目と、子どものように大きな額をしている。もう一方は、顔に生まれながらの説教者の表情をたたえているが、それは口許のほとんど女性的な愛らしさと、その口から出てきたものすべてに宿る音楽によって和らげられていた..それから、黒い瞳。その救いがたい悲しみは、当時すでに、嘆き悲しむデメテ−ルの頭像を思い出させたことだろう。けだし、そのようなことを看取した男は、まずあの額を垂れるために、ヘルダ−の方へ歩み寄るにちがいない。ヘルダ−の知の容赦ない圧力。それが、かれを凌ぐ弟子と、かれの言うことを聴かない時代精神の見えざる現存をまえにして、しばしばかすかに震える。そして、かれは激怒し、敗れ、片隅に立っている。かれの不運。それに、かれの怒り。ヘルダ−を運命によってしるしづけたのはこうしたことだったが、そのやりかたは、子どものような夢の王国がジャン・パウルという男をしるしづけたのとは、全然ちがうのであった。それで、ジャン・パウルがこの人間的な暴力をまえにして、以前ゲ−テのまえではほとんど学ぶことのなかった弟子の恭順を、けっして拒まなかったということが理解されよう。これに加うるに、手短に言うなら、次の事情があった。つまり、ジャン・パウルは、ことば、精神、魂、趣味、そして、徳と悪徳といった点で、ヘルダ−を真似たのだ。さらに、両者の本質は多分にロマン派の本質をもっていたのであり、ロマン派とともに、死して後も力ある司令官として、ヘルダ−の精神はかれの闘いを戦った。しかも、勝者として、である。
もちろん、いっそう大きな創造性といっそう少ない世界や物語の素材によって、ならびに、作用の領域によって、ジャン・パウルはヘルダ−から区別される。しかし、ごく一般的なことやごく特殊なことをとおして、詳細においても全体においても類似性の方がはるかに目立つ。すなわち、古代の諸形式の奇妙で魂のこもったにぶい輝き、その自然や芸術の遺産のキリスト教的ないいかえ..そしてさらに、原形質への、それどころか、混沌への渇望がそれであるが、われわれの時代にあっては、この混沌が豊かな精神を明かすのだ。両者ともに、ロマン派の色彩を加えて東洋の経度のなかに南方を描く。両者ともに、彫塑を欲して、比喩をあたえる。両者ともに、一方向的な力の危険に対して、全体性、混合、多層性へ働きかける。だから、精神の個別の職務も、芸術あるいは科学の個別の形式もかれらにおいては純粋に形成されていないのだが、そのかわり、天を撃つ試みと反抗になりかねないものを孕んでいる。両者ともに、柔和と広がり、自由になった自然条件と自由になった理性に対するキリスト教的教化の勝利へと展開する。思想家としては − そうでなくても観点も見方も同じなのだが − ドイツでもっとも広く、もっとも不正確である。かれらはときに、悟性で詩作し、魂で思考し、感覚で秩序づけ、そして、予感がかれらの世界経験に基づいた哲学(注)の概要となる。本質を完成し、実現した精神的指導者たちに対して、かれらの意味するところは、結局、いかにもドイツ的で、生まれざる者の貯蔵庫、なかば切り拓かれたものの可能性ということであり − 精神は、かれらに触れてさらに詩作をつづけるよう促されるのである。
注) 世界経験に基づいた哲学 (Weltweisheit): 世界=知としての哲学。経験に先立つ理性の働きを分析したカント(派)の批判哲学(Philosophie)に対して、ヘルダーは理性そのものが経験に制約されていることを主張した。