関数としての文学

 作者であってもいい。読者であってもいい。文学に向い合う人間を、主体として一括りにする。主体に対して、文学は客体として機能する。

 文学は主体に先立って存在する。

 テクストを読む主体は、文学の機能のなかでテクストを読む。同様に、テクストを書く主体は、文学の機能のなかでテクストを書くのである。主体は、文学に関わりあうことによって、感動したり、絶望したり、成長したり、堕落したりする。文学と主体の関係の中に生じる作用全体が、文学体験である。いま、主体をSとするならば、文学体験は文学関数として表すことができる。

F(S)

 個々の主体、S1, S2, S3, ... Sn を考えてみる。それぞれ才能があったり、なかったり、男だったり、老人だったりする。それぞれの個性、それぞれの体験に応じて、文学へのかかわりが微妙に違ってくるだろう。文学体験は、個人的な体験である。

F(x): x = s1, s2, s3, ..., sn

現実の文学体験は、特定の作品の個人的な体験である。

f1(s1)

 経験的な文学作品研究 F1 は、作家研究だったり、受容史だったりするかぎりで、個人的な文学体験の総体を対象としている。

s1sn f1(x)dx = F1

 さまざまな形をした面として現われるのは、文学の機能の可視化された部分である。文学研究の究極には、あるのだかないのだか定かならぬ F(x) がある。

2006年2月18日
亀井 一

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