文学を体感する

昨年、ベルリンでヘルマン・ヘッセ展を観た。文学者の回顧展というのは、大概、作者の写真、手紙、原稿、初版の作品、はては、眼鏡やらペンやらがならんでいるだけで、実に退屈きわまりないことが多いのだが、このヘッセ展はちょっとちがっていた(やはり退屈したが)。

なにしろ一年前のことなので実は、記憶にあやふやなところがあるのだが、たとえば、ヘッセのテクストが書かれた透明なパネルが何枚もぶら下がっていたり、朗読を聴くブースがあったりで、ただぼんやりと作者の遺品を眺めるというふうではなかった。

文学からはずれるが、ベルリンのユダヤ人博物館もそうだった。個々の展示品というよりは、博物館そのもの、その空間全体が、圧倒的な印象だった。微妙に歪んだ通路や、天井から射しこむ一条の光で、ユダヤ人の歴史の一面が(疑似)体験できるように演出されている。怖くて、泣き出した子どもがいるくらいだった。
全体としてなんとなく、緊張感があったのは、テーマが重いということのほかに、9月11日のテロ事件からそろそろ一年ということで、空港と同じくらい厳重なチェックを受けて入場したということもあったのかもしれない。

閑話休題。

見世物的パフォーマンスと文学は、本来、それほど無縁なものではないのかもしれない。演劇はもちろんのこと、ミンネザンクの吟唱から、今日の詩人の朗読会にいたるまでみな文学を見せる催し物である。修辞学、弁論術のギリシア・ローマ以来の伝統もある。「詩のボクシング」といった催しや、「にほんごであそぼ」といったテレビ番組も、この系統につらなる企画であろう(なんと日本独文学会にも、パネル発表なるものが出現した)。

文学はしかしながら、つねに見世物であったわけではない。バフチンによれば、ラブレーで頂点をむかえる民衆文学は、18世紀末のサドの乱痴気騒ぎで終焉する。以降、20世紀のカフェー・ヴォルテールのパフォーマンスが出てくるあたりまで、文学は密室の営みであり続けた。

識字率の高上、音読から黙読への移行、「通俗的芸能」と「高尚な芸術」の乖離、ドイツ文献学、文芸学の成立、などなどといった出来事が、文学の密室への退却と併行しておこってくる。ゴットシェドからゲーテの時代にかけて、文学をめぐる環境は凄まじい変化をみせている。

近代小説が精力的に書き継がれたのは、まさに民衆文学の空白期だった。同じ時代に書かれたものでも、詩やドラマにくらべて、散文で書かれた長編小説はどうも見世物としての迫力に欠ける。とはいえ、このことでこのジャンルを貶めるいわれはない。ゲーテからムジルまで、近代小説は、一世紀かけて内面生活の描写を追究したのである。

2003年9月5日

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