記憶を生き直す
先日、小学校時代の同級生のY君が結婚式を挙げ、同じクラスだった友人に会った。
わたしはどちらかといえば、自分の過去に対して悲観的である。自分の過去を振り返って思い浮かぶのは、なんとも無様で、情けない光景ばかりである。われながらなんとも不甲斐ない、ボサッとした子どもだった。
しかしまた、Y君とともにした小学校の生活が、圧倒的に愉快で、希望に満ちていたのも事実である。わたしはその晩、久しいあいだすっかり忘れていたクラスメートの面々を少しずつ思い出し、そして、思い出しつつ、ごく自然に、自分の過去を、そのまま素直に認めてもいいのではないかという気にすらなったのだった。
まあ、ちょっとした回心の経験をした次第である。
思い出を語るということは、たんに過去のデータを再生するというだけのことではないのかもしれない。語っているうちに、語るもの、耳を傾けるものが、過去そのものを回復し、その時間を生き直すということがあるのではないか。
過去が現在として生きられるようなことがあるのではないか。過去の再生が自己の新生となってゆくようなことがありうるのではないか。
このようなことを考えるようになったのは、子どもができて以来である。子どもの振舞い、感じ方にふれているうち、ふと、わたし自身の過去がそのまま蘇ってくることがある。わたしは一瞬、自分が何者であったのかを想起する。そしてまた、自分が何者であるのかに気づく。
キリスト教の告白だとか、立証だとかの本当の意味もそんなところにあるのかもしれない。
過去をどのように受け止めるのかは、文化的、政治的な問題でもある。ヨーロッパのルネサンスは、ギリシア・ローマ文化の再生であると同時に、近代の創出であった。
身近なところでは、15年戦争を歴史的にどのように位置づけるのかとかいった問題も、われわれ自身の問題になりえるのである。
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