伊東靜雄の下宿

『定本 伊東靜雄全集』(人文書院)を読んでいたら、吃驚した。

昭和6年9月22日付けのはがきに、「一度遊びに来て下さい。下宿住ひは徒然のうあります。」とあって、手書きの地図が添えられている(372頁)。「住吉区共立通1ノ43」といえば、我が家の目と鼻の先ではないか。 「住吉中学(旧制)に赴任した伊東靜雄が、ここら当たりの喫茶店でボーっとしていた」という話を聞いてはいたが、まさかこんな御近所さんだったとは。
地図

地図に「原ッパ」と書かれているあたりは、今、教会と保育園が建っている。「ニューヨーク女学校」もなくなってしまったが、今も、近くに、短大やら、女学校やらがあって、時間帯になると、甲高いおしゃべりが、町内にこだましている。

そして、「長屋」と書かれている芋虫のような四角の連なりこそ、他でもない、我が家のならびなのである。
今では、長屋ではなくなってしまった(分断されて、ウナギの寝床のような一軒家になっている)とはいえ、近年、にわかに建て替えの進んだこの界隈で、我が家は、戦前からの佇まいを残す数少ない古屋の一つ。伊東は、こんな部屋で詩を書いていたのだろうかなどと思いながら、部屋の土壁を改めて眺めた。

あるいは、下宿人をおくくらいだから、「織田方」も、当時はこの辺りにもまだあったというお屋敷だったのかもしれない。

いずれにしても、伊東本人は、下宿住まい。およそ近代詩人というには相応しくない風采の上がらない先生だったらしい。

住吉高校のあたりには、ときどき子どもを連れて遊びに行くが、自転車で15分くらい。ちょっと距離がある。

住吉中学の教え子の一人に、庄野潤三がいたという話を読んで以来、どうもこの二人のイメージがダブってしまう。

それまで住んでいた阪南町では、「となりの乙女にほのかな戀情をささげてゐます」などということもあったようだが、ここ、共立通では、当初、ひたすら退屈していたらしい。
しかし、退屈は、最善の文学的状況である。 11月16日付けの手紙には一篇の詩が添えられている。



   私が泉のそばに坐った時
   噴水は白薔薇の花の影を寫した
   私はこの自然の反省を愛した


   私が空に身を委ねた時
   縫ひつけられた幾條(いくすじ)もの銀糸が光つた
   私は又この自然の表現を愛した


   そうして 私の詩が出來た





巻末の年表に、「『自然の反省が表現であり、それが詩だ』という詩精神に目覚めた」とあるのは(547頁)、おそらく、上の詩のことを言っているのであろう。ちなみに、この時期の下宿先については、なんの言及もない。

詩は、耽美的にして、思弁的。ちょっと厭になるくらい、ドイツ的。細い路地に民家の立て込んだ共立通には、およそ縁のない風情である。
しかし、静かな昼下がりにほんやりと本を読んでいると、噴水の上をゆっくりと流れる時間、その風景に想いを凝らす時間が、あたりに、幽かに残っているような気がしてきた。

昭和7年になって、伊東の生活は激変する。父の死。借金の相続。結婚。4月には、阪南町に転居した。

その間、リルケの詩を読み、演奏会に行って、モーツァルトやシューベルトを聴いている。
あるいは、詩の読み方を間違えているのかもしれない、とも思う。瞑想を支えているのは、ぼんやりした時間の流れなぞではなく、煮えたぎるような活力なのかもしれない。

この頃の天王寺はすごい。織田作之助、折口信夫、それから、将棋の坂田三吉。一癖も二癖もある天才がうろうろしていた。

2004年1月22日

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