『巨人』と『死霊』

立花隆氏の『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』という本を読んだ。ちょっとびっくりしたのだが、立花氏はジャン・パウルの最長の長編小説『巨人』を読んでいる。わたしのような研究者ならともかく、たんなる趣味で、国書刊行会から出たあの大きな本を読んでみようと思う人は、ホンモノの読書家だと思う。

それにしても、立花氏は、『巨人』のどこをどう読んだのだろう。

この本の最初の方では、「大量読書術」が開陳されているが、それによれば、かれは効率よく情報を収集するために、各段落の最初の一文だけを拾い読みするのだという。ジャン・パウルの小説の場合、最初から全部読み通そうとして悪戦苦闘するより、案外そんないい加減な読み方のほうが楽しむことができるかもしれない、とも思う。

立花氏の本をさらに拾い読みしていくと、『死霊』を論じているくだりで、再度『巨人』が出てくる。中村真一郎が埴谷雄高の書架に「ドイツ語原文のジャン・パウルの緑色の全集の列」を見つけたという記事につづいて、「なかんずくジャン・パウルの『巨人』の世界にきわめて似通ったものがある」と。

うーん。それはどうだろうか。

ジャン・パウルのほかの小説を読んでみると分かるが、ジャン・パウルの小説のなかで『巨人』はいちばん『死霊』に似ていない。『死霊』に似た小説を挙げるとするなら、晩年の『彗星』か、(緑色の全集とは、おそらくマイヤー版だろうから、それに収録されているものに限るとすれば)『見えないロッジ』あたりだろう。ジャン・パウルの本領は、蝟集する奇抜な比喩表現、流麗な文体で綴られた彼岸への憧憬と複雑な構文で韜晦する諧謔の混在、といったところ。次々に現れる終末論的なイメージ群には、たしかに『死霊』との類似性なきにしもあらずかもしれない。
ところが『巨人』では、これらの特性はいずれもかなり抑制されている。この小説は、文学史では通常、ジャン・パウルの代表作ということになっているが、かれの小説としてはむしろ例外的な作品なのである。

それにしても、埴谷は本当に、ジャン・パウルを読んだのだろうか? 

作者が実際に作品を読んでいなくても、文学の受容はありうる。『死霊』が、ドストエフスキーを経由して、ヨーロッパのメニッポス文学(バフチン)に繋がっているとするならば、ジャン・パウルの小説とは、まあ、叔父・甥くらいの関係になるだろう。シルクロードの文化伝播のような大きな流れを想定すれば、ジャン・パウルの小説も、日本近代文学史に無縁ではないような気もする。

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