死の体験

ジャン・パウルがシュヴァルツェンバハに戻った頃(1790年3月から1794年4月まで)の証言。

Einst tritt seine Speisewirtin Christiane Stumpf zu ihm ins Zimmer und findet ihn bleich, mit verstörter Miene am Fenster stehn. Sie ruft ihn an, aber erst beim dritten Male erwacht er wie aus einem hypnotischen Schlaf und dankt der Frau mit aufgehobenen Händen, daß sie ihn durch ihr Darzwischentreten vor dem Ausbruch des Wahnsinns gerettet habe. (Berend, Eduard (hg.): Jean Pauls Persönlichkeit in Berichten der Zeitgenossen, Böhlau 1956, S. 7)

「料理係のクリスチアーネ・シュトゥンプフが部屋に入ると、ジャン・パウルが真っ青になって、混乱した面持ちで窓際に立っていました。彼女が呼びかけると、三度目になってようやく気がつきました。まるで催眠状態から覚醒するようでした。かれはその婦人に、手を挙げて感謝して、あなたがわって入ってくれたおかげで、狂気の発作から救われたと言いました。」

年表をみると、とにかく人がよく死ぬ。ジャン・パウルの生涯をとおして、親戚、友人、知人が、バタバタと死んでゆく。一般に、生活が貧しかった上に、凶作や戦争が重なった。ドイツ古典主義時代は、想像以上に悲惨な時代だったのかもしれない。

ホーフ (Hof an d. Saale) の歴史を調べると、出生率が死亡率を上回ったのは、18世紀前半になってからである。

18世紀に入っても、1713/14年、1757年、1760年、1770年、1790年、1800年は、飢饉だった。

17世紀前半にいたるまで、ペストはもっとも恐るべき病気だった。全部で、27回の流行が記録されている。
天然痘 (Blattern) も、1803年に予防接種が行われるようになるまで、深刻な疫病だった。
赤痢 (die Ruhr) は、1598年、1681年、1689年、1781年に大流行した。
神経熱 (Nervenfieber, Typhus)は、1787年に現れた。
また、18世紀末には、猩紅熱が子どものあいだで蔓延していた。

Vgl. Trautmann, Dietmar: Die wirtschaftliche und soziale Entwicklung der Stadt Hof von Anbeginn bis zur Gegenwart. Mit einem Abriß der Entstehungs- und politischen Geschichte, T. 1. Die Zeit bis zur Eingliederung in das königreich Bayern, 1979, S. 115 ff.

ジーベンケースは、『悪魔の文書』を執筆する際に、ある種の Hypochondrie に陥る。小説では、1985年の冬の出来事ということになっている。

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