村上春樹『風の歌を聴け』の
表現特性について

表現ゼミ 石田直子

序章  課題設定の理由

 村上春樹の処女作品である『風の歌を聴け』は、に群像新人文学賞を受賞した作品である。その選考にあたった吉行淳之介氏は、この作品について

 これまでわが国の若者の文学では、「二十歳(とか、十七歳)の周囲」というような作品がたびたび書かれてきたが、そのようなものとして読んでみれば、出色である。乾いた軽快な感じの底に、内面に向ける眼があり、主人公はそういう眼をすぐ外に向けてノンシャランな態度を取ってみせる。そのところを厭味にならずに伝えているのは、したたかな芸である。
と言っている。また、同じように選考にあたった丸谷才一氏は、
 村上春樹さんの『風の歌を聴け』は現代アメリカ小説の強い影響の下に出来上がったものです。カート・ヴォガネットとか、ブローティガンとか、そのへんの作風を非常に熱心に学んでいる。その勉強ぶりは大変なもので、よほどの才能の持ち主でなければこれだけ学び取ることはできません。昔ふうのリアリズム小説から抜け出そうとして抜け出せないのは、今の日本の小説の一般的な傾向ですが、たとえ外国のお手本があるとはいえ、これだけ自在にそして巧妙にリアリズムから離れたのは、注目すべき成果と言っていいでしょう。
と言っている。わたしがこの『風の歌を聴け』に初めて出会ったのは中学二年生のときであった。当時のわたしには(今のわたしでも無理だが)、上記のような解釈ができるわけもなく、この小説はわたしの中でずっと「謎の小説」であった。しかしそれにも関わらず、この小説にはずっと惹かれるものがあり、折に触れて読み返していた。この卒業論文を始めるまで、わたしにわかっていたことは一つだけだった。それは、「わたしはこの読後感に惹かれている。」ということである。このことを頼りに分析を進めるうちに、この小説は終わり方に特徴があることが判明した。また、丸谷才一氏は「小説の流れがちっとも淀んでいないところがすばらしい。」とも言っている。このようになる原因も、叙述面で何か特徴があるのではないだろうか。この終わり方と叙述方法の特徴が、吉行氏の言うような「厭味にならず伝えている」要因になっているのではないかと考えた。

 そこでこの卒業論文では、終わり方と叙述方法に注目しながら『風の歌を聴け』の表現特性について論じていきたい。特に終わり方については、独自の分類方法を考案し、それに基づいて細かく見ていく。

第1章  課題解明の方法

第1節  『風の歌を聴け』について

 『風の歌を聴け』は、先ほども述べたように村上春樹の処女作品にあたる。また、「鼠三部作」と呼ばれる作品群の最初の作品でもある。「鼠三部作」とは、『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』の3作品のことである。
 この3作品は、「鼠三部作」と言われるようにすべてに鼠が登場する。また、僕もジェイも登場する。言ってしまえば、出演者はすべて同じといえるかもしれない。『風の歌を聴け』に出てくる自殺してしまった三人目の女の子は、『1973年のピンボール』において「直子」という名前を付けられ登場している。また、『風の歌を聴け』で鼠が抱えていた女とのトラブルは、『1973年のピンボール』でもまだ続いていて、『羊をめぐる冒険』において僕の手を借りやっと終わっている。このように、この「鼠三部作」には共通した部分が数多く見られる。 そのほかに、対応した記述も多く見られる。ここに一例だけ挙げておく。

 そんなわけで、僕は時の淀みの中ですぐに眠りこもうとする意識をビールと煙草で蹴とばしながら、この文章を書き続けている。熱いシャワーに何度も入り、一日に二回髭を剃り、古いレコードを何度も何度も聴く。今、僕の後ろではあの時代遅れなピーター・ポール&マリーが唄っている。
「もう何も考えるな。終わったことじゃないか。」
『風の歌を聴け』
 帰りの電車の中で何度も自分に言いきかせた。全ては終っちまったんだ、もう忘れろ、と。そのためにここまで来たんじゃないか、と。でも忘れることなんてできなかった。直子を愛していたことも。そして彼女がもう死んでしまったことも。結局のところ何ひとつ終ってはいなかったからだ。
『1973年のピンボール』
 このように対応した記述が「鼠三部作」全てに渡ってみられる。この例を見たらわかるように、『風の歌を聴け』では、「終わったこと」だと考えているのは何のことなのかさっぱりわからないが、『1973年のピンボール』にはまるでその種明かしのように「終わったこと」=「直子のこと」だと明確に書かれている。しかし、今回の卒業論文では、『風の歌を聴け』のみで考えたときの解釈について分析した。確かに三部作にはなっているから、「終わったこと」=「直子のこと」なのかもしれない。しかしそれでは、『風の歌を聴け』という一作品のわたしの考える「謎」について説明できたとはいえないと考えたからである。 わたしの中で約十年間「謎の小説」と位置づけられていた『風の歌を聴け』について、次の章から考察していく。

第2節  課題解明の方法

 この『風の歌を聴け』は、40の章から成り立っている。一見ばらばらに叙述されているようなこの小説を、一つの物語として捉えるのは難しい。そこで、それぞれの話題ごとに考えることにした。また、各話題を6つに分類し、その終わり方に表現特性があると考え、それぞれの終わり方に特に注目することにする。そのためにここで、課題解明のために使う尾括形式についてまとめておく。 課題解明のために使う考え方は、「6つの話はそれぞれで何らかの終結を見ているが、この小説全体としての完結はしない」というものである。これは塚原鉄雄氏の「尾括形式の欠落する作品は、作品世界は終結するが完結はしない。」という理論に従っている。それではこの「尾括形式」についてまとめる。

「尾括」
最後を括る。括るとは、括られている部分と括っている部分の質的な差のことをいう。
ここでは仮に括られている部分を被括部分、括っている部分を括部分とする。

 また、「尾括形式」をまとめるにあたって「事物論理・思考感情論理」の2つの考え方を使う。まとめると下のようになる。

<事物論理>で終わる
被括部分と括部分の間で、事態に何らかの変化があって終わること。
<思考感情論理>で終わる
被括部分と括部分の間で、思考や感情に何らかの変化があって終わること。
  1. 後日談で終わる。<事物論理> <思考感情論理>
    「しかし彼女は、今までになく幸福そうな表情をしていた。」(『家族八景』 筒井康隆)
  2. 別れて終わる。<事物論理> <思考感情論理>
    「手を振ってくれて、ありがとう。何度も、何度も手を振ってくれたこと、ありがとう。」(『キッチン』 吉本ばなな)
  3. 行動描写で終わる。<事物論理> <思考感情論理>
    「痩せた男は、アイス・ピックを自分の心臓に深ぶかと突き立てた。」(『ウィークエンド・シャッフル』「その情報は暗号」 筒井康隆)
  4. 泣いて終わる。<事物論理> <思考感情論理>
    「その濃やかなはだをとおしてもれだす甘いにおいをかぎながら、また新たなる涙を流した。」(『銀の匙』 中勘助)
  5. 生活時間が終わる(つまり死ぬ)ことで終わる。<事物論理> <思考感情論理>
    「新しい雪が降ってくる。史朗さんの雪だと思った。」(『雪の断章』 佐々木丸美)
  6. 風景描写で終わる。<事物論理> <思考感情論理>
    「今年は柿の豊作で山の秋が美しい。」(『掌の小説』「有難う」 川端康成)

 以上のように6つの形式が考えられる。それでは、ひとつずつその尾括形式について見ていきたい。

1.について

話の粗筋:七瀬という人の心が読める家政婦の女の子が主人公。ある夫婦のところに勤めるのだが、その夫婦はお互いに隣の夫婦のそれぞれの事が好きらしい。それを察知した七瀬は「お互いにウソをつき合うくらいなら」とお互いの浮気がばれてしまうように仕組む。しかしお互いその浮気相手に嫉妬することで相手に対する愛情を確認してしまい、七瀬の思惑とは裏腹によりを戻してしまうのである。この最後の一行は、嫉妬した夫から殴られたことでお互いの愛を確認した隣の主婦が幸せそうに玄関の掃除をしている場面である。
 まず、ここでの終わり方について考える。この話は被括部分と括部分の間で事態に何らかの変化がある<事物論理>と、被括部分と括部分の間で思考や感情に何らかの変化がある<思考感情論理>で終わっているといえる。<事物論理>で終わっているというのは、人間関係が変化していることを指す。つまり、仲の悪かった夫婦(被括部分)が七瀬の企み(括部分)によって、お互いの愛を確認しよりを戻したという事態の変化のことである。また、もう一ついえることとして、時間の経過がある。仲の悪かった夫婦(被括部分)と、翌朝には仲直りしていたという後日談(括部分)との間で、時間が経過しているという変化のことである。これを下のようにまとめる。

<事物論理>で終わる
仲の悪かった夫婦(被括部分)と、七瀬の企みの結果(括部分)の間で、夫婦が仲直りしたという事態の変化があって終わっているということ。
<事物論理>で終わる
仲の悪かった夫婦(被括部分)と、翌朝仲直りしていたという後日談(括部分)の間で、時間が経過したという事態の変化があって終わっているということ。

 また、<思考感情論理>で終わっているというのは、夫婦の間のお互いに対する感情の変化のことである。つまり、仲の悪かった夫婦(被括部分)が、七瀬の企み(括部分)によって、お互いに対して愛情を確認したという変化のことである。もっと言い換えるならば、七瀬の企みによって、夫婦間の心理的な距離が近くなったということもできる。また、もう一ついえることとして、七瀬の考え方の変化がある。七瀬は夫婦の中を壊そうと企んだのに、彼らはその企みでお互いの愛を確認してしまった。「もう、あなた達の好きにすれば。」というような考え方に変わったと推測される。つまり、夫婦の中を壊そうと企んでいた時(被括部分)と、企みを実行した後(括部分)では、七瀬の夫婦というものに対する考え方は変わっているということだ。これをまとめると下のようになる。

<思考感情論理>で終わる
仲の悪かった夫婦(被括部分)と、七瀬が企みを実行した後(括部分)の間で、夫婦間の心理的な距離が変化していること。
<思考感情論理>で終わる
夫婦の中を壊そうと企んでいた時(被括部分)と、企みを実行した後(括部分)の間で、七瀬の夫婦に対する思考や感情が変化していること。

 このように視点をどこに置くかで、尾括形式はさまざまな見方ができることがわかる。また、時間の経過という視点で考えれば、後日談で終わるという形式の中に、語り手が評価して終わるという形式もあてはまる。なぜなら、語り手が評価するには、評価される話題との間に時間の経過が必要だからである。スポーツの実況中継のように、話題と評価が時間的に密接な形は小説では少ない。まして、そんな形で最後を括るのは無理である。 以上のことから、
1 後日談で終わる形には、<事物論理>と<思考感情論理>での終わり方がある
ということがわかった。

2.について

話の粗筋:主人公の女の子は最近交通事故で恋人を亡くし、現実味のない毎日を過ごしている。話す相手と言えば恋人の弟ぐらいなもの。彼の恋人も兄と一緒に交通事故にあって亡くなってしまった。それで彼は毎日恋人のセーラー服を着て学校に通っている。そんななかある日主人公の女の子は不思議な女の子に出会う。女の子は「おもしろいことがあるから10日後にまたここにおいで。」という。彼女がいってみると例の女の子が居て「絶対声を出してはダメよ。」と言う。じっと立っていると川の向こうに死んだ筈の彼が立って手を振っている。彼女も声を出せないので必死に手を振る。彼は最後まで手を振ってまた消えてしまう。しかしやっと彼の死と向かい合えた彼女は心の中で「ありがとう」とつぶやくのである。
 まず、ここでの終わり方について考える。この話は、被括部分と括部分の間で事態に何らかの変化がある<事物論理>と、被括部分と括部分の間で思考や感情に何らかの変化がある<思考感情論理>で終わっているといえる。<事物論理>で終わっているというのは、人間関係が変化していることを指す。つまり、恋人が死んだことを物理的な距離としてなかなか認識できない(被括部分)ということと、不思議な少女と出会い、死んだ恋人に再会したこと(括部分)の間で、主人公が物理的な距離としてやっと恋人の死をとらえられたという事態の変化のことである。これをまとめると下のようになる。

<事物論理>で終わる
恋人はまだ近くにいると考えていたとき(被括部分)と、不思議な少女に出会い、死んだ恋人に再会したあと(括部分)の間で、主人公が恋人との物理的な距離(つまり、もうそばにはいないということ)を認識したという人間関係の変化のこと。

 また、<思考感情論理>で終わっているというのは、彼女の気持ちの変化である。つまり、主人公が恋人の死を感情的に受け入れることのできなかった(被括部分)ということと、不思議な少女と出会い、恋人と再会したこと(括部分)の間で、主人公がやっと恋人と心理的に離れることができたという変化のことである。しかし、<思考感情論理>で終わっていないという考え方もできる。つまり、恋人の死を物理的に認識したものの、恋人に対する愛情はいまだ衰えていないということになると、思考や感情に何の変化も無いということになる。だから、<思考感情論理>では終わっていると言えるし、終わっていないともいえる。まとめると下のようになる。

<思考感情論理>で終わる
恋人の死を感情的に受け入れられなかった時(被括部分)、と、恋人に再会したあと(括部分)の間で、主人公が恋人と心理的に離れることができたという変化のこと。
<思考感情論理>で終わる
なし。(主人公の恋人に対する気持ちに変化がないため)

 このように、主人公の気持ちなどが暗示されている場合、<思考感情論理>での終わり方は終わっているとも終わっていないとも考えることができる。つまり、<事物論理>や<思考感情論理>でその変化が暗示されているときは、解釈次第で終わっているともいないとも考えることができるのである。
 以上のようなことは、

  1. 行動描写で終わる、
  2. 泣いて終わる、
  3. 生活時間が終わる(つまり死ぬ)ことで終わる、
でもいうことができる。ここに、それぞれの例文をもう一度まとめる。
  1. 「痩せた男は、アイス・ピックを自分の心臓に深ぶかと突き立てた。」
  2. 「その濃やかなはだをとおしてもれだす甘いにおいをかぎながら、また新たなる涙を流した。」
  3. 「新しい雪が降ってくる。史朗さんの雪だと思った。」

 それぞれを見たらわかるように、3.や4.や5.での終わり方は暗示しかしていない。つまり、例えば「史郎さんの雪だと思った。」とあれば、読み手は経験として「ああ、ここでは史郎さんが死んだのだな。」ということを推測するのである。もし、このような表現にふれたことのない人が読めば、「何のことやら。」ということになり、この最後の一文が尾括の役割を果たさないことになる。また、3.の場合、行動描写で終わっているのに、5.のように死ぬことで終わっていると考えることも可能である。もしくは、読み手が「いやいや、これは死んだと見せかけるためのトリックだ。ここからが物語はおもしろくなるんだ。」と考えれば、この一文は尾括にはならないことになる。つまり、3.行動描写で終わっても、4.泣いて終わっても、5.生活時間が終わる(つまり死ぬ)ことで終わっても、読み手の解釈次第で終わっているともいないとも考えることができるのである。

6.について

話の粗筋:ある村の母娘が定期乗合自動車に乗ろうとする。この母娘は、子どもを奉公に出すのに街へ出るためにこの自動車に乗るのである。また、この自動車には、みんなに「有難うさん」と呼ばれている運転手がいる。彼は十分間に三十台の車を追い越しても、礼儀を欠かさない。彼は十五里の街道の馬車や荷車や馬車に一番評判のいい運転手である。そんな運転手に、娘は恋心を抱く。そんな娘を見て、母はこの運転手に娘と一晩一緒にいて欲しいとお願いする。次の朝、娘に泣きつかれ、運転手に叱られて母は奉公に出すことをやめる。そんな帰り道の風景が、最後の一文になっている。

 まず、ここでの終わり方について考える。この話は、被括部分と括部分の間で事態に何らかの変化がある<事物論理>と、被括部分と括部分の間で思考や感情に何らかの変化がある<思考感情論理>で終わっているといえる。<事物論理>で終わっているというのは、人間関係が変化していることを指す。つまり、運転手と娘は町に行くときはただの運転手と乗客という関係(被括部分)だったのが、一晩一緒に過ごしたこと(括部分)で二人は恋人同士のような関係になっているという事態の変化のことである。これをまとめると下のようになる。

<事物論理>で終わる
町に行くときの運転手と娘の人間関係(被括部分)が、一晩一緒に過ごしたこと(括部分)で、恋人同士のような関係になったという人間関係の変化のこと。

 このように人間関係が変わったため、風景が美しく見えたと解釈できる。
 また、<思考感情論理>で終わっているというのは、運転手の気持ちの変化のことである。つまり、町に行くときは娘に対して何の感情も持っていなかった(被括部分)が、一晩一緒に過ごしたこと(括部分)で、娘に対する愛情が生まれたということである。しかし、<思考感情論理>で終わっていないと考えることもできる。何故なら、母親の言葉に、「どんな町のお嬢さまだってお前さんの自動車に十里も乗ったらな。」という言葉がある。つまり、この運転手はこのように「見も知らない人様の慰み物になるのなら、せめて今日はあなたにお願いしたい。」と言われるのは初めてではないと考えられるからである。乗合自動車は同じ道を走る。ということは、同じような家庭事情の人もたくさん乗るということになる。このように考えると、運転手は慣れたことなので娘に対して特別な感情を抱かないということも充分考えられる。まとめると、下のようになる。

<思考感情論理>で終わる
運転手は町に行くとき娘に対して何の感情も持っていなかった(被括部分)が、一晩一緒に過ごしたこと(括部分)で、娘に対する愛情が生まれたという感情の変化のこと。
<思考感情論理>で終わる
なし。(運転手がこんなことに慣れている場合)

 しかし、運転手の気持ちも娘の気持ちも情景描写から推測されるだけである。また、最後の一文も、うれしい気持ちで娘が見ているのか、それとも運転手が「いつもと変わらない風景だ」と思って見ているのか、それとも誰か他の人の視点なのか明示されていない。だから、この風景描写での終わり方も、2.3.4.5.と同じように、読み手の解釈次第で終わっているともいないとも考えることができるのである。

 これまでのことをまとめてみる。

  1. 後日談で終わる。
    「しかし彼女は、今までになく幸福そうな表情をしていた。」(『家族八景』 筒井康隆)
    <事物論理>、<思考感情論理>どちらでも終わっている。
  2. 別れて終わる。
    「手を振ってくれて、ありがとう。何度も、何度も手を振ってくれたこと、ありがとう。」(『キッチン』吉本ばなな)
    <事物論理>、<思考感情論理>解釈によって終わっているともいないとも考えられる。
  3. 行動描写で終わる。<事物論理>、<思考感情論理>は解釈が分かれる。
    「痩せた男は、アイス・ピックを自分の心臓に深ぶかと突き立てた。」(『ウィークエンド・シャッフル』「その情報は暗号」 筒井康隆)
    <事物論理>、<思考感情論理>解釈によって終わっているともいないとも考えられる。
  4. 泣いて終わる。<事物論理>、<思考感情論理>は解釈が分かれる。
    「その濃やかなはだをとおしてもれだす甘いにおいをかぎながら、また新たなる涙を流した。」 (『銀の匙』 中勘助)
    <事物論理>、<思考感情論理>解釈によって終わっているともいないとも考えられる。
  5. 生活時間が終わる(つまり死ぬ)ことで終わる。<事物論理>、<思考感情論理>
    「新しい雪が降ってくる。史朗さんの雪だと思った。」(『雪の断章』 佐々木丸美)
    <事物論理>、<思考感情論理>解釈によって終わっているともいないとも考えられる。
  6. 風景描写で終わる。<事物論理> <思考感情論理>
    「今年は柿の豊作で山の秋が美しい。」(『掌の小説』「有難う」 川端康成)
    <事物論理>、<思考感情論理>解釈によって終わっているともいないとも考えられる。

 以上のように、1.以外の終わり方では、尾括形式に当てはまっているかどうかは解釈次第ということがわかる。そしてその大きな原因は、暗示にあると考えられる。このような考え方をもとに、『風の歌を聴け』の尾括形式についても考えていく。

第2章  『風の歌を聴け』の構造分析

第1節  作品の基本的な構造について

 *基本的な構造についての仮説 この小説は、40の章から成り立っている。これを登場人物に視点をおいて6つの話に分けられるとし、またその6つの話の間にもつながりがあると考えた。まとめると、下のようになる。

  1. 各章ごとにその話題に対する感想などが書かれており、ひとつひとつの章が小話のようになっている。つまり、この小説は40の話の集積だといえる。
  2. その中にもつながった話があり、大きく6つに分けられる。

 それぞれの仮説について、証明していく。  *仮説1、2について それではそれぞれの章についてみていく。各章の終わり方を感想、後日談、セリフの3つに分けた。また、仮説2であるようにこの40の章は視点を登場人物におくと大きく6つに分けられる。僕と鼠に関する話、僕と彼女に関する話、僕とジェイの話、DJと音楽に関する話、僕自身の語り、書くということについてである。それぞれ6つの話に分け、さらにその終わり方についてまとめてみた。

表2









DJ







各章の話題各章の終わり方
     3 鼠と僕の金持ちについての会話感想 
     4 僕と鼠の出会い後日談 
     5 鼠と僕の小説についての会話感想 
     6 鼠の小説の内容 「ジョン・F・ケネディー」
     7 僕の子供時代のはなし後日談 
     8 僕と彼女の朝 おまけに指が4本しかなかった
     9 僕と彼女が出会ってから別れるまでの説明 「ジョン・F・ケネディー」
「何も覚えてないわ」
     10 僕と離婚した女との会話後日談 
     11 DJのセリフ  ム
     12 僕とDJの会話 「はっはっはっは」
     13 「カリフォルニア・ガール」 カリフォルニア・ガールならね
     14 Tシャツについて  
     15 僕と彼女の再会と別れ 「あなたって最低よ」
     16 僕と鼠の会話感想 
     17 僕がビーチの彼女を捜したことについて後日談 
     18 僕と彼女の電話での仲直り 「ありがとう」
     19 僕が今までに寝た3人の女の子について後日談 
     20 僕と彼女との再会と彼女の家庭事情について感想 
     21 「魔女」と言う小説について感想 
     22 僕が彼女の家に誘われてから家での会話とエルビスの唄の歌詞 「帰ったら電話するわ」
     23 人間の存在理由について後日談 
     24 僕と鼠の女についての会話感想 
     25 鼠の好物について感想 
     26 僕が寝た3番目の女の子について後日談 
     27 僕の夢と兄、鼠との待ち合わせ感想 
     28 僕の生まれた街と友達について後日談 
     29 僕とジェイの鼠についての会話感想 
     30 クールに生きることについて後日談 
     31 僕と鼠の小説と女の子についての会話感想 
     32 ハートフィールドについてと彼の小説について後日談 
     33 彼女からの電話と嘘について 「後で話すわ」
     34 嘘についての昔話後日談 
     35 彼女との再会と彼女の打ち明け話感想 
     36 彼女の部屋での会話 彼女は眠っていた。
     37 DJに届いた手紙とDJのメッセージ 御清聴ありがとう。
     38 僕とジェイの会話後日談 

 ここで<僕自身の語り>のまとまりをみると、1章と40章、2章と39章が対になっていることが分かる。このことから、この小説は1、2章と39、40章が額縁になっている構造だといえる。だから、小説の内容としては3章から38章までを見ていきたい。そのことを踏まえて、今までのことを表2とした。 以上のように、それぞれの話は何らかの終わりをみていることから仮説1は証明されている。また、一部例外がみられるが6つの話はほとんど同じような終わり方をしていることがわかる。

第2節  小説内部の物語の対応について

 *小説内部の物語の対応についての仮説3 その6つの話の間にもつながりが見つけられる。
 上のように仮説を立て、その内容について考える。6つの話の対応する内容として

  1. 僕が昔のガールフレンドに対してついた嘘><僕が彼女に対してついた嘘
  2. 鼠の描く小説の中の鼠と女の関係><僕と彼女の関係
  3. 僕にとっての3人目の女の子の存在><彼女の存在
  4. 鼠の書くという行為><この小説を書いている僕の行為
以上の4つが挙げられる。それぞれについて見ていきたい。

1.について

 まず、僕が昔のガール・フレンドについた嘘について。去年の秋、二人は裸でベッドの中にもぐりこんでいて、サンドウィッチを食べながら「戦場にかける橋」をみていた。そのときの二人の会話。
「ねえ、私を愛してる?」
「もちろん。」
「結婚したい?」
「今、すぐに?」
「いつかもっと先によ。」
「もちろん結婚したい。」
「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。」
「言い忘れてたんだ。」
「子供は何人欲しい?」
「3人」
「男? 女?」
「女が2人に男が1人。」
彼女はコーヒーで口の中のパンを噛み下してからじっと僕の顔を見た。
「嘘つき!」と彼女は言った。
しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。(p  )
 このときの僕の嘘は、僕の気持ちを試そうとしている彼女との衝突を避けるための嘘だといえる。そして今の彼女も、やっと打ち解けてきた2人の関係を壊したくないために、子供をおろすために「明日から旅行するの。」と嘘をつく。2人の関係を壊したくないための嘘を主題とした話ということでこの二つの話題は重なっている。

 2.について

 僕の唯一の友人である鼠は、おそろしく本を読まない。今ある本に対して「他に書くべきことは幾らでもあるだろう?」と思っているからだ。そして僕と話しているうちに「俺ならもっと違った小説を書くね。」ということになり、ストーリーを考える。そのストーリーの主人公は鼠自身で、女が出てくる。その女との関わり方が僕と彼女の関わり方と対応していると考える。次の図で詳しく解説する。

表3
彼女 対応していること
 鼠と女(僕と鼠に関する話) 僕と彼女(僕と彼女に関する話)  
乗っていた船が太平洋のまん中で沈没する 「没寸前の客の船」のようなジェイズ・バーで飲む ・僕も彼女も精神的に難破船である。
  僕=前の彼女が自殺した
  彼女=恋人と別れた
浮輪につかまって夜の海を漂っている   ビールを飲みながら、鼠を待っている。
鼠が来ないので、トイレに行って帰ることにする
  ・何かを待って、漂っている。
  浮き輪につかまって鼠のところに泳いでいく   トイレの床に倒れている ・彼女とも女とも偶然出会っている。
2人で世間話をする。ビールが流れてきたので2人で飲む。 僕が彼女を家まで送ることになる ・鼠も僕も女の子に対して積極的である。
「でも島は無いかもしれない。それよりここに浮かんでビールでも飲んでれば、きっと飛行機が援助に来てくれるさ。」 これからどうするの」私は島がありそうな方に泳いでみるわ」 急性アルコール中毒で死んだ友人のことを思いだし、泊まる   ・考え方が安易な点で対応している。
二日酔いのまま飛行機に救助される  一人で泳いでいく。二日と二晩泳ぎ続けて、どこかの島にたどりつく。 「でも何もしてないぜ。」
「ジョン・F・ケネディー」
僕が偶然入ったレコード店で二人は再会する
「ねえ、もしよかったら一緒に食事しないか」
彼が泊まったことに対し 誤解し、怒る
「意識を失くした女の子と寝るような奴は最低よ。」
「どんな話をしたの?」
「何も覚えてないわ。」
「一人で食事するのが好きなの。」
「前にも言ったと思うけど、あなたって最低よ
・二人の女の子は、目の前の現実に対して必死にもがいている点で対応している。
  女=一人で泳いでいく
  彼女=僕を一生懸命拒絶している
・二人とも、意志が強い。
・二人とも、自尊心が強い。
・二人とも、自分の弱さを一生懸命隠している。
何年か後に山の手の小さなバーで偶然めぐりあう  彼女の方から僕に電話をかけるジェイズ・バーで会う約束をする  ・傷ついた女の子達は、鼠、僕のところに帰ってきている。 
「ねえ、人間は生まれつき不公平に作られてる。」
「ジョン・F・ケネディー。」 
「誰の言葉?」     

 以上のように、この二つの話の話題は男と女の関わり方についてであり、その関わり方までとてもよく似ている。だからこの二つの話は重なっていると言える。

3.僕にとっての三人目の女の子の存在と彼女の存在について

 この「三人目の女の子」の三人目とは、僕が21歳までに寝た女の子が全部で3人で、その3番目の女の子という意味である。一人目の女の子とは高校を卒業してほんの数ヶ月で別れて、今では眠れぬ夜に、時々彼女のことを考える程度である。二人目の相手はヒッピーの女の子で、一週間ほど僕のアパートに滞在して、ある日「嫌な奴」という書き置きをして姿を消していた。三人目の女の子とは大学の図書館で知り合った。彼女は翌年の春休みにみすぼらしい雑木林の中で首を吊って死んだ。この三人目の女の子だけ、2章にわたって語られている。また、現在の彼女についての描写も細かい。この2人の対応について次の図で詳しくみてみる。

三人目の女の子 彼女 分かること
彼女は真剣に(冗談ではなく)、私が大学に入ったのは天の啓示を受けるためよ、と言った。
「でもそれは天使の羽根みたいに空から降りてくるの。」  
「立派な人間は自分の家のゴタゴタなんて他人に話したりしないわ。そうでしょう?」
「君は立派な人間?」
15秒間、彼女は考えた。
「そうなりたいと思ってるわ。かなり真剣にね。誰だってそうでしょう?」
  • 自尊心が強い。
  • 自分の弱さを完全に受け入れている三人目の女の子に対し、完全に受け入れていない彼女。
「彼女は彼女にとってふさわしいだけの美人ではなかった」というのが正確な表現だと思う。
僕は彼女の写真を一枚だけ持っている。裏に日付がメモしてあり、ケネディー大統領が頭を撃ち抜かれた年だ。
それは見た人の心の中の最もデリケートな部分にまで突き通ってしまいそうな美しさだった。
彼女は14歳で、それが彼女の21年の人生の中で一番美しい瞬間だった
「お父さんは五年前に脳腫瘍で死んだの。ひどかったわ。丸二年苦しんでね。私たちはそれでお金を使い果たしたのよ。きれいさっぱり何もなし。おまけに家族はクタクタになって空中分解。よくある話よ。そうでしょう?」
彼女は楽しそうに笑った。何年か振り、といった笑い方だった。
  • 現在の彼女たちは、あまり幸せではない。
  • 輝いていた時期を過ぎてしまった彼女たち
 
春休みにテニス・コートの脇にあるみすぼらしい雑木林の中で首を吊って死んだ。
三人目のガール・フレンドが死んだ半月後、
僕のペニスのことを「あなたのレーゾン・デートゥル」と呼んだ。
人間の存在理由をテーマにした短い小説を書こうとしたことがある。
おかげで奇妙な性癖にとりつかれることになった。全ての物事を数値に置き換えずにはいられないという癖である。 そんなわけで、彼女の死を知らされた時、僕は6922本目の煙草を吸っていた。
何故彼女が死んだのかは誰にもわからない。彼女自身にわかっていたのかどうかさえ怪しいものだ、と僕は思う。
死んだ仏文科の女の子の写真は引っ越しに紛れて失くしてしまった。
僕が冬に街に帰ったとき、彼女はレコード屋をやめ、アパートも引き払っていた。
僕は夏になって街に戻ると、いつも彼女と歩いた同じ道を歩き、倉庫の石段に腰を下ろして一人で海を眺める。泣きたいと思う時にはきまって涙が出てこない。そういうものだ。
  • 僕は2人とも失ってしまっている。
  • 三人目の女の子の唯一と思われる写真を無くし、彼女は跡形もなく消えている。その喪失感を「6922本目」、「泣きたいと思うときにはきまって」という表現で表している。
 

 以上のように、三人目の女の子と彼女は同じような状況であったり対比した性格であったりする。しかし、共通して言えることは、僕はどちらの女の子のことも真剣に愛していたし、彼女たちを失ったことでかなりのショックを受けているということである。それは、上にも挙げたように「6922本目」、「泣きたいと思うときにはきまって」という表現から読みとれる。

4.鼠の書くという行為とこの小説を書いている僕の行為

 僕は、額縁構造の額縁部分にあたる1章で「今、僕は語ろうと思う。」と、書くということについて語っている。また、鼠は物語部分にあたる31章で僕の「これから何をする?」という質問に対し、「小説を書こうと思うんだ。」と答え、書くということについて語っている。これをまとめると、下のようになる。

いま、僕は語ろうと思う。
結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。
小説を書こうと思うんだ。
しかし少なくとも、書くたびに自分が啓発されていくようなものじゃなくちゃ意味がないと思うんだ。
 共通する点として、自分のために文章を書こうとしていることが挙げられる。しかし、対比として上げられる点がある。それは、書くという姿勢の原点の違いである。僕の場合、「自己療養」のためだという。「自己療養」ということは、僕は今癒されなくてはならないマイナスの精神状態だということができる。それに対し、鼠は「啓発」されるためだという。「啓発」ということは、鼠は今健全な精神状態であると言える。なぜなら、「啓発」とは「知能をひらき進めること」であり、そんなことは例えばマイナスの精神状態ではとてもできないことだからである。
 以上のように、僕と鼠の書くことに対する姿勢は対応しているといえる。

 1.から4.のように、6つの話は単に独立したものではなく、対応し合った話があるということがわかる。

第3章  物語構造の特徴とその効果

第1節 特徴1:暗示について

 『風の歌を聴け』の大きな特徴として、暗示された叙述が多いということが挙げられる。また、この作品を分析する上で、一番頭を悩まされたのが、暗示しかされていない叙述を解釈することである。。尾括に関わる叙述だけでもどれだけ解釈が分かれたか、ここで特筆される分についてもう一度まとめてみたい。
(2)僕と彼女に関する話

「何度もそう思おうとしたわ。でもね、いつも駄目だった。人も好きになろうとしたし、辛棒強くなろうともしてみたの。でもね。」
「お母さん。」
【解釈1】・このセリフは、僕に対しての答えである。
【解釈2】・このセリフは、母親に向けられたものである。
【解釈3】・このセリフは、子どもの意識の現れである。

(4)DJと音楽に関する話

「みんなの楽しい合言葉、MIC・KEY・MOUSE。」
【解釈1】・音楽は、DJのための伏線である。
【解釈2】・僕は、「大人」の世界から逃避している。
【解釈3】・ミッキー・マウスの歌は、60年代を示すものである。
「僕は彼女と喧嘩した。だから彼女に手紙を書いた。ごめんね、僕が悪かった、てさ。でも手紙はかえってきた。宛先不明、受取人不明。」時は、余りにも早く流れる。
【解釈1】・彼女の家に行った感想を、初めてのデートに関連して
【解釈2】・彼女の家に行った感想を、初めてのデートに関連して(解釈1とは正反対に)
【解釈3】・エルビスと比べて、僕の僕自身に対する感想 
僕は・君たちが・好きだ。
【解釈1】・DJは実は真面目な人物設定だと考えて
【解釈1の1】・DJは実は真面目で、これは読者に向けてのセリフである。
【解釈1の2】・DJは実は真面目で、これは手紙の女の子のためのセリフである。
【解釈1の3】・DJは表面的に真面目で、これは読者に向けてのセリフである。
【解釈1の4】・DJは不真面目な人間だが、少しは真面目な人物である。
【解釈2】・DJは不真面目な人物設定だと考えて。
【解釈2の1】・DJは実は不真面目で、これは読者に向けてのセリフである。
【解釈2の2】・DJは実は不真面目で、これは手紙の女の子に向けてのセリフである。
【解釈2の3】・DJはとても不真面目で、これは誰に向けてのセリフでもない。
【解釈2の4】・DJは不真面目だからこそ、これは作者のメッセージである。

(6)書くということについて

 医者の言ったことは正しい。文明とは伝達である。表現し、伝達すべきことが無くなった時、文明は終る。パチン 0FF。
【解釈1】・3つの章で、はじめてひとつの話である。
【解釈1の1】・僕は、三人目の女の子のために書いている。
【解釈1の2】・僕は、彼女のために書いている。
【解釈1の3】・僕は、鼠のために書いている。
【解釈2】・それぞれが、他の章のために役割を果たしている。

 以上のように、多くて4、5行の文から、なぜこれほどの解釈が可能になるのだろうか。また、「暗示する」とは具体的にどういうことをいうのだろうか。それは、「誰に対して」、「何を伝えたいのか」明確に示されていないことだと考えられる。これを、上記の例で見てみる。  例えば、(2)のセリフを見てみる。

「何度もそう思おうとしたわ。でもね、いつも駄目だった。人も好きになろうとしたし、辛棒強くなろうともしてみたの。でもね。」「お母さん。」
 上の方のセリフは、僕と話しているときの彼女のセリフである。ということは、このセリフは彼女が、僕に対して言っていると考えるのが一般的であろう。しかし、僕と断定してしまうには何かが足りない。その何かとは、「何を伝えたいのか。」ということである。彼女は誰を「好きになろうとした」のか、また何に対して「辛棒強くなろうと」したのか。同じようなことが、(4)のセリフでもいえる。
僕は・君たちが・好きだ。
 このセリフでも、「君たち」とは誰なのか、どういうことに対して「好きだ」と言っているのか書かれていない。
 このような視点で、もう一度
【解釈】の内容を見てみる。すると、解釈の分かれている部分は、「誰に対して」の部分か、「何を伝えたいのか」という部分かのどちらかの部分であることがわかる。
 このように「暗示する」、すなわち、「誰に対して」、「何を伝えたいのか」、ということを明確に言わない、もしくは一般的なもの(例えば「人」など)に置き換えてしか言わないことが、複数の解釈を可能にする叙述なのだといえる。

第2節 特徴2:複数の尾括形式について

 この『風の歌を聴け』のもう一つの大きな特徴として、一つの話に対して複数の尾括形式が考えられるということが挙げられる。ここで、6つの話の尾括形式について解釈ごとにまとめると下のようになる。

(1)僕と鼠に関する話
僕と鼠は物理的、心理的に離れてしまった事物論理、思考感情論理
僕と鼠は心理的に離れてしまっていない事物論理
この場面は、いつも通りの場面であるなし
(2)僕と彼女に関する話
僕と彼女は物理的、心理的に離れてしまった事物論理、思考感情論理
僕と彼女の心理的距離はもともと離れている事物論理
彼女は去ったが気持ちが離れたわけではない事物論理
(3)僕とジェイに関する話僕とジェイの心理的距離はいつも一定である事物論理
(4)DJと音楽に関する話ラジオが切られるとDJの存在は消される事物論理
(5)僕自身の語り
各章は、それぞれが他の章のための役割を果たしているそれぞれのすべての章事物論理
僕自身の語り=三人目の女の子のための話であるなし
(6)書くということについて
3つの章で、はじめてひとつの話である「火星の井戸」の青年は僕の比喩である事物論理、思考感情論理
「火星の井戸」の青年は僕の比喩でないなし
各章は、それぞれが他の章のために役割を果たしている
7章事物論理、思考感情論理
30章事物論理
32章事物論理
 このように、6つの話は複数の尾括形式の可能性を持っている。これは、何を意味しているのだろうか。
 そこでもう一度、尾括形式に着目するきっかけとなった塚原鉄雄氏の説について考える。
「尾括形式の欠落する作品は、作品世界は終結するが完結はしない。」
 果たしてこの『風の歌を聴け』は、完結していない小説なのだろうか。完結した小説ならば、塚原鉄雄氏の説の逆ということになるので、
「尾括形式の欠落していない作品は、作品世界が完結している。」

 ということになる。このことを考えて、もう一度6つの話の終わり方について見てみる。すると、すべての章で<事物論理>、<思考感情論理>のどちらかの尾括形式に当てはまっていることがわかる。しかし、だからといって『風の歌を聴け』が完結した作品だとは言い切れない。何故なら、6つの話の中に、「尾括形式の欠落した」部分があるからである。「欠落した」部分だけを挙げると、下のようになる。
 

(1)僕と鼠に関する話・この場面は、いつも通りの場面であるなし
(5)僕自身の語り・僕自身の語り=三人目の女の子のための話であるなし
(6)書くということについて・3つの章で、はじめてひとつの話である 
「火星の井戸」の青年は僕の比喩でないなし

 以上のように、「尾括形式の欠落した」話が6つのうち3つあることがわかる。ということは、解釈次第でこの『風の歌を聴け』の半分は「尾括形式の欠落した」話だといえるのではないだろうか。すなわち、『風の歌を聴け』という作品は完結していないとも解釈できるのである。 このことを、仮説4をもとにをまとてみると下のようになる。
 *仮説4 6つの話はそれぞれに何らかの終結を見ているが、この小説全体としての完結はしていない。
                    ↓                    ↓
 6つの話は、解釈によってはそれぞれに何らかの終結を見ているが、解釈によっては「尾括形式が欠落した」話が全体の半分を占めている。ということは、「尾括形式の欠落していない作品」とはいえず、この小説全体としての完結はしていないということができる。
 このように、6つの話が解釈によって複数の尾括形式を持つことで、この『風の歌を聴け』が完結した作品だとも、完結していない作品だとも考えられるのである。

第3節 特徴1、2の効果=閉じないための効果

 第1節、第2節について、もう一度ここにまとめる。
    特徴
  1. 暗示について特徴1の効果:複数の解釈を可能にする叙述になる。
  2. 複数の尾括形式について特徴2の効果:『風の歌を聴け』が完結した作品だとも、完結していない作品だとも解釈することができる。

 これらの特徴とその効果は、作品全体にどのような影響を与えているのだろうか。
 ここでも、解釈の分かれるところである。

【解釈1・『風の歌を聴け』は、視点によって全く違った話になる】
 これだけ複数の解釈を持ち、これだけ複数の尾括形式が考えられるということは、視点によって全く違った捉え方ができるということである。これは、当たり前といえば当たり前の話なのだが、この『風の歌を聴け』の場合それは極端な形で現れる。なぜかというと、第2章 第1節にあるようにこの作品は6つの話に分けることができる。ここで、例えば「この話の主題になっているのは、実は僕とジェイの話なんだ。」と思って読み進めると、『風の歌を聴け』は僕とジェイの静かなひと夏の話ということになる。彼女とのことや、鼠とのことまでが「退屈な夏の出来事」の一つに過ぎないと解釈することができる。他にも例えば「この話の主題となっているのは、実はDJと音楽に関する話なんだ。」と思って読み進めると、『風の歌を聴け』はDJが主人公ということになり、「ぼくは・君たちが・好きだ。」はもっと露骨なメッセージということになる。
 このように、『風の歌を聴け』は視点をどこに置くかで、全く違った物語になりうるということがいえる。

【解釈2・『風の歌を聴け』は、完結した作品と言えるのか】
 もし、例えば「この作品の主題は、僕と彼女の話にある。」と断定できるとすれば、この作品は完結した作品になりうる。なぜなら、複数の解釈ができるところを「僕と彼女が主題だから」という理由で、ひとつの解釈に断定することができ、なおかつ尾括形式もひとつに断定することができるからである。塚原鉄雄氏の説の逆の発想である、「尾括形式の欠落していない作品は、作品世界は完結する。」に当てはまることになる。
 しかし、この『風の歌を聴け』には主題を断定できるような叙述はどこにもない。「この話だ」と決めつけて筋を通していくことは、いくらでも可能である。可能ではあるが、そこにはどうしても説明しきれないことが出てくる。このように、主題を断定することができないということは、「尾括形式の欠落した」部分がないとは言い切れないことになる。すると、『風の歌を聴け』は完結した作品とは言えないのではないだろうか。

 以上のように、『風の歌を聴け』の最終的な解釈をするときにも解釈は分かれてしまう。つまり、この『風の歌を聴け』は、「叙述にしろ尾括にしろ、解釈を特定することは出来ない。」ということが最大の特徴だと言えるのではないだろうか。だからこそ、「完結していない」つまり「閉じない」のではないだろうか。ここで、「閉じない」という言葉を使ったが、それは下記のような意味である。

「閉じていない」
 物語世界が最後に何らかの終わりを見ない、つまり、作品世界が広がったまま終わっている、ということ。
 『風の歌を聴け』は、まさにその典型的な作品だといえるだろう。複数の解釈を可能にする叙述があり、複数の尾括形式が可能ならば、作品全体の解釈は枝分かれのようにどんどん広がっていく。まさに無限大だといえる。そのために、「閉じない」つまり「広がりを持たせたまま終わっている」のではないだろうか。
 以上のことをまとめると下のようになる。
作品の主題(1)→主題に沿った解釈1→解釈1の1→解釈→解釈に沿った尾括
作品の主題(1)→主題に沿った解釈1→解釈1の2→解釈→解釈に沿った尾括
作品の主題(1)→主題に沿った解釈1→解釈1の3→解釈→解釈に沿った尾括
作品の主題(1)→主題に沿った解釈2→解釈2の1→解釈→解釈に沿った尾括
作品の主題(1)→主題に沿った解釈2→解釈2の2→解釈→解釈に沿った尾括
作品の主題(1)→主題に沿った解釈2→解釈2の3→解釈→解釈に沿った尾括
作品の主題(1)→主題に沿った解釈3→解釈3の1→解釈→解釈に沿った尾括
作品の主題(1)→主題に沿った解釈3→解釈3の2→解釈→解釈に沿った尾括
作品の主題(1)→主題に沿った解釈3→解釈3の3→解釈→解釈に沿った尾括
作品の主題(2)→主題に沿った解釈1→解釈1の1→解釈→解釈に沿った尾括
作品の主題(2)→主題に沿った解釈1→解釈1の2→解釈→解釈に沿った尾括
作品の主題(2)→主題に沿った解釈1→解釈1の3→解釈→解釈に沿った尾括
作品の主題(2)→主題に沿った解釈2→解釈2の1→解釈→解釈に沿った尾括
作品の主題(2)→主題に沿った解釈2→解釈2の2→解釈→解釈に沿った尾括
作品の主題(2)→主題に沿った解釈2→解釈2の3→解釈→解釈に沿った尾括
作品の主題(2)→主題に沿った解釈3→解釈3の1→解釈→解釈に沿った尾括
作品の主題(2)→主題に沿った解釈3→解釈3の2→解釈→解釈に沿った尾括
作品の主題(2)→主題に沿った解釈3→解釈3の3→解釈→解釈に沿った尾括

 このように、『風の歌を聴け』は無限の広がりをもった作品であり、またそのために「閉じない」作品になっているということができるのである。

終章

まとめと今後の課題

 わたしの中で約十年間「謎の小説」であった『風の歌を聴け』は、卒業論文の対象にしたことで「村上春樹作品の原形」という位置づけに変わった。分析を進めれば進めるほど、その位置づけは確かなものであるという確信がわいた。村上春樹自身

 でもね、ホントのこというと、ここまで、chapter1まで、この文章がホントに書きたかったの。あとはどうでもよかった。
(略)
 この文章は今でも暗記するくらいよく憶えてるし、それはホントに正直に書けたと思ってる。それはホントに正直です。だから、僕がいちばん小説で書きたかったことは、そこに全部入ってると思う。あとは展開させているだけです。
(『宝島』 1983年11月号 ロングインタビュー「ムラカミ・ワールドの秘密」)
 と言ってるように、この『風の歌を聴け』の1章がその後の作品の原形になっているのである。また、登場人物の人物設定も、『風の歌を聴け』とそれ以後の作品では、共通した人物がほとんどである。
 今後の課題として、『風の歌を聴け』の尾括形式や叙述の特徴を明らかにしたのだから、それを証明するためにも、例えば「鼠三部作」の中でその特徴がどのように見られるのか分析してみたい。最後だからいえるのだが、この卒業論文は本当は「鼠三部作」について考察する予定であった。しかし、予想以上に『風の歌を聴け』が深い内容であったためと、わたし自身の計画性のなさで分析に時間がかかり、『風の歌を聴け』のみの考察になってしまった。だから、この卒業論文は一読すると独りよがりなものに思われるかもしれない。自分自身の中にもあるその疑問を解消するためにも、ぜひいつか他二作品、もしくは『ノルウェイの森』などと比較、考察してみたいと思う。
 最後に、ここまでこの卒業論文を見守ってくれた野浪先生に深く感謝したい。先生の、まるでつぼを針で刺すような、的確なご指導がなければこれほどの分析はできなかった。さらに、わたし自身が気付くまでじっと見守ってくれたことで、(わたしごときがいうのはおこがましいが)「勉強する楽しさ」というものを体験することができた。このことが、卒業論文を一年間やってきた最大の収穫である。また、いろんなことに親身になって聞いて下さった先輩方、一緒にずっと励まし合いながらやってきた同輩、何かと励ましてくれた後輩達にもこの場を借りて深く感謝したい。
 本当に、ありがとうございました。