平成16年度 修士論文
提出日:平成17年1月14日

平成16年度 修士論文

修士論文題目

志賀直哉の初期作品の表現論的考察

――視点の配賦と叙述法とをてがかりとして――

大阪教育大学 大学院
教育学研究科 国語教育専攻
国語学専修 野浪正隆研究室
田 久嗣


目次

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序章 研究概要
 第1節 研究課題
 第2節 研究対象
  第1項 研究対象
  第2項 分析対象とした作品の概要とその事由
 第3節 研究方法

第1章 先行研究
 第1節 志賀直哉の先行研究
 第2節 視点論の先行研究
 第3節 叙述分析の先行研究

第2章 初期作品の分析と考察
 第1節 『或る朝』における視点の配賦と叙述法
  第1項 『或る朝』の先行研究
  第2項 『或る朝』における場面構成
  第3項 叙述の分類分析の項目
  第4項 『或る朝』の叙述の分類分析による考察
  第5項 『或る朝』における特徴的な叙述についての考察
  第6項 『或る朝』における視点の配賦と叙述法
 第2節 『網走まで』における視点の配賦と叙述法
  第1項 『網走まで』の先行研究
  第2項 『網走まで』における場面構成
  第3項 叙述の分類分析の項目
  第4項 『網走まで』の叙述の分類分析による考察
  第5節 『網走まで』における特徴的な叙述についての考察
  第6項 『網走まで』における視点の配賦と叙述法
 第3節 『剃刀』における視点の配賦と叙述法
  第1項 『剃刀』の先行研究
  第2項 『剃刀』における場面構成
  第3項 叙述の分類分析の項目
  第4項 『剃刀』の叙述の分類分析による考察
  第5項 『剃刀』における特徴的な叙述についての考察
  第6項 『剃刀』における視点の配賦と叙述法

第3章 三つの初期作品の比較考察
 第1節 三つの初期作品における視点の配賦の比較
  第1項 三つの初期作品における視点の配賦の差異点
  第2項 三つの初期作品における視点の配賦の共通点
 第2節 三つの初期作品における叙述法の比較
  第1項 三つの初期作品における叙述法の差異点
  第2項 三つの初期作品における叙述法の共通点

終章 結論

おわりに

参考文献

このページについて

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序章 研究概要

第1節 研究課題

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 本研究は、志賀直哉の初期作品における文章表現の特徴を明らかにすることを目的とする。具体的な作品について、そのひとつひとつの叙述を細かく分析し、その視点の配賦と叙述法に着目することで、志賀直哉の初期作品の文章表現特性を考える。
 視点の配賦と叙述法とは、別々の問題ではない。どこから(あるいは誰から)見ているのか、どこを(誰を)見ているのか、どのように見ているのか(あるいは見ようとしているのか)といった、作品においてどのように視点が配賦されているのか、という問題と、どのように叙述するか(あるいはしないのか)といったことと別々に切り離して問うべき問題ではない。視点の配賦と叙述法とを関連させて考えることで、より立体的で精確な分析・考察が可能となると考える。
 志賀直哉の文章表現を考える際、その変化や変容といった通時的な差異点・共通点ではなく、多種多様な作品を扱うことにより、共時的な差異点・共通点に着目する。ある程度の限定された時期の作品を複数分析・考察することによって、初期における志賀直哉の文章表現特性を明らかにする。
 視点の配賦と叙述法とに着目し、志賀直哉の文章表現特性を明らかにすることは、単に表現論研究や文学研究、志賀直哉研究だけの問題ではない。国語教育の場において、本研究で対象とする初期作品や、志賀直哉の作品を教材としてもちいる場合の基礎的な研究にもなろう。

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第2節 研究対象

第1項 研究対象

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 本研究の研究対象は、志賀直哉の初期作品とする。「初期作品」とは、大正3年(1914年)以前に発表された作品群を指すものとする。志賀直哉は、『児を盗む話』を大正3年4月に『白樺』第5巻第4号に発表後、おおよそ3年間作品を発表しなかった。よって、『児を盗む話』までに発表された作品を「初期作品」として、それ以後の作品と区別して扱うことにする。
 初期作品には、犯罪を題材にした作品や、直哉自身の体験や経験を題材にした作品など、実験的で多様な作品が数多く発表されている。そのため、作品の共時的な共通性・差異性をみるには適した作品群であると考えた。分析対象とするのは、具体的には下の三つの作品(発表年月)である。

『或る朝』 (発表=大正7年3月)
『網走まで』 (発表=明治43年4月)
『剃刀』 (発表=明治43年6月)

 分析・考察の対象としたこれら三つの作品についての成立に関する概要と、対象とした事由については、次に説明する。

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第2項 対象とした作品の概要とその事由

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 第2項では、研究対象とする各作品の成立に関する概要と、志賀直哉自身の作品に対する言及を挙げている。執筆、成立に関するものは、『志賀直哉全集第一巻』(岩波書店1998年)によった。志賀直哉の言及は、昭和3年6月に九巻本全集の巻末に「創作余談」として収録されたものの中から、各作品の部分を引用している。

 『或る朝』

【発表】

『中央文学』大正7年3月号(1918年)

【執筆】

明治41年1月14日 祖父の法事の翌日(1908年)

【「創作余談」における『或る朝』への言及】

「或る朝」は二十七歳の正月十三日亡祖父の三回忌の午後、その朝の出来事を書いたもので、これを私の処女作といつてもいいかも知れない。私はそれまでも小説を始終書かうとしてゐたが、一度もまとまらなかつた。筋は出来てゐても、書くとものにならない。一気に書くと骨ばかりの荒つぽいものになり、ゆつくり書くと瑣末な事柄に筆が走り、まとまらなかつた。所が、「或る朝」は内容も簡単なものではあるが、案外楽に筆が走り、初めて小説が書けたといふやうな気がした。それが二十七歳の時だから、今思へば遅れてゐたものだ。こんなものから多少書く要領が分かつて来た。

(昭和3年6月に九巻本全集の巻末に「創作余談」として収録されたもの。
引用は『志賀直哉全集 第六巻』(岩波書店1999年5月))

 以上のように、『或る朝』が発表されたのは大正7年であり、本研究で「初期作品」と定めた時期より後に発表された作品である。つまり、『或る朝』は、初めて執筆されたときから発表されるに至るまで、10年以上の隔たりがあることになる。さらに、執筆された段階の草稿「非小説、祖母」が発見されていないため、現行の『或る朝』との差異を対照することもできない。そのため、志賀直哉自身が語るように「処女作」として位置づけるには慎重になる必要がある。推測の域は出ないが、草稿「非小説、祖母」の執筆と、完成稿『或る朝』の発表との時間的隔たりを考えると、おそらく草稿段階の「非小説、祖母」と、後に発表された『或る朝』とは、大きく違っている可能性が高いと考えられる。
 しかし、ここで敢えて「初期作品」として『或る朝』を選んだのは、やはり自身が「処女作」として数えるほど、作家・志賀直哉にとって大きな意味を持っているためである。視点の配賦や叙述法を考えるうえで、「初めて小説が書けたといふやうな気がした」と言っている意味は小さくない。「初期作品」として安易に含めてしまうことはできないが、逆に「初期作品」を対象とする以上、やはり無視できない作品である。よって、この『或る朝』は例外的に「初期作品」として扱うことにした。
 なお、上の「創作余談」には、「二十七歳の正月十三日亡祖父の三回忌の午後、その朝の出来事を書いたもの」とあるが、志賀直哉の日記によれば、二十六歳の時であり、『或る朝』の前身である「非小説、祖母」が書かれたのは、法事の翌日であることが記されている。よって、これは志賀直哉の勘違いである可能性が高い。
 『或る朝』の内容について言えば、この作品は、「信太郎」を中心とした三人称小説である。また、上の引用にもあるとおり、この作品は志賀直哉が実際に体験した出来事を基にした作品である。

 『網走まで』

【執筆】

明治41年8月(1908年)
(大正7年3月に新潮社から刊行された白樺同人の作品集『白樺の森』に収録された際、「(明治41年8月)」と執筆年月が記された。)

【発表】

『白樺』第1巻1号(創刊号) 明治43年4月(1910年)

【「創作余談」における『網走まで』への言及】

「網走まで」は或時東北線を一人で帰つて来る列車の中で、前に乗り合してゐた女とその子等から、勝手に想像して小説に書いたものである。これは当時帝国文学に籍を置いてゐた関係から「帝国文学」に投稿したが、没書された。原稿の字がきたない為であつたかも知れない。

(昭和3年6月に九巻本全集の巻末に「創作余談」として収録されたもの。
引用は『志賀直哉全集第六巻』(岩波書店1999年5月))

 『網走まで』は、志賀直哉の作品の中で最初に発表された「処女作」である。『或る朝』とは違い、明治41年に執筆され、約二年後の明治43年に発表されている。やはり志賀直哉の「処女作」の一つであることも、対象とした事由の一つである。
 『網走まで』は、「自分」を中心人物とする一人称小説である。自身の体験と直接的に関わる作品ではないが、「前に乗り合してゐた女とその子等から、勝手に想像して小説に書いたもの」とあることから、題材はその体験によるものであると言える。その意味で、自身の体験に基づいた二つの作品として、三人称小説の『或る朝』と一人称小説の『網走まで』という共通性と差異性をもった作品である。一人称か三人称か、という小説の人称の多様性をみることができると考えたため、『網走まで』を分析対象とした。

 『剃刀』

 『剃刀』の成立および、志賀直哉の作品に対する言及は次の通りである。『剃刀』は発表時にあとがきとして「「剃刀」の後に」という文章を載せられた。そのため、それもあわせて引用しておく。

【執筆】

明治42年9月30日執筆の日付「人間の行為」(1909年)
明治42年10月13日執筆の日付「殺人」(1909年)
明治43年4月24日から同年5月7日まで改稿されたことが日記にある。(1919年)

【発表】

明治43年6月発行の『白樺』第1巻3号に発表。(1910年)
(その後、『留女』(洛陽堂大正2年1月(1913年))に収録、一部改稿。)

【志賀直哉自身の言及】

「「剃刀」の後に」

「剃刀」は去年の秋、仲間の廻覧雑誌に出したものだが此号にそれを出す事にしたので四月二十四日の晩から書直して見た。翌日の晩もそれに費して芳三郎といふ男が剃刀で若者の咽を切る前まで書いて寐た。十二時過ぎだつた。前には殺すシーンは書かなかつたが今度は其シーンを書いて終らせる事にした。然しどうもハッキリした光景が浮ばない。翌朝七時頃から二三時間かかつてどうか、かうか書き上げた。その日は二十六日である。
 自分の家は麻布三河台町で、庭から垣一重の隣家が大鳥圭介氏の宅である。
二十七日の新聞に大鳥氏三男が西洋剃刀で自殺したと云ふ記事が出て居た、時間は二十六日の午前二時ごろである、自分が左ういふシーンを想像しつつ寐て間もなくの事である。家の人がそれを発見されたのは七時頃だと書いてあつた。其時分、自分は隣りで前夜の続きを書いてゐたのである。
 偶然以上のものと信ずる事は出来ないけれども、それにしても不思議な偶然である。

(明治43(1910)年6月発行の『白樺』第1巻3号に発表。
引用は『志賀直哉全集第一巻』(岩波書店1998年12月))

「創作余談」

 「剃刀」床屋で恐らく誰もが感ずるだらう強迫観念から作り上げたものだ。似た材料の詩がビアズレーにあるといふ話を後に聞いた。
 此小説を書いてゐる時、夜、十二時過ぎて、丁度芳三郎と云ふ主人公が若者の咽を切る前まで書いて寝て、翌朝、七時頃か二三時間かかつて、後を書き上げたが、其晩、―私が書きつつあつた時か、寝てからか分らないが、垣一重隣りの人が、西洋剃刀で咽を切つて自殺してゐた。妙な偶然があるものだと思つた。

(昭和3年6月に九巻本全集の巻末に「創作余談」として収録されたもの。
引用は『志賀直哉全集第六巻』(岩波書店1999年5月))

 『剃刀』についての志賀直哉の言及には、『剃刀』が雑誌『白樺』に掲載されたときに「「剃刀」の後に」というあとがきが同じ号に掲載された。ここではこれをあわせて引用しておいた。
 『剃刀』は三つの草稿があり、完成稿に至っている。志賀直哉の言及にもあるように、『剃刀』は、自身の体験に基づくものではなく、創作性の高い作品となっている。山崎正純(1998)「志賀直哉論(二)――“犯罪小説”をめぐって――」(『大坂女子大学国文篇』第49号1998年3月)は、この『剃刀』を、犯罪を扱った作品として、『范の犯罪』、『クローディアスの日記』、『児を盗む話』などとともに、「犯罪小説」として位置づけている。作中人物「芳三郎」を中心とした三人称小説であり、人称は『或る朝』と共通している。しかし、『或る朝』・『網走まで』とは違い、自身の体験に直接題材を得ていないという点で、多様性をみることができるだろうと考えて、対象とした。また、「殺人」を扱った「犯罪小説」であることからも、『或る朝』・『網走まで』とは異質な作品である。
 以上の三つの作品を分析・考察することで、志賀直哉の初期作品の文章表現特性を明らかにしたい。

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第3節 研究方法

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 研究方法は、土部弘氏の「叙述層」という考えに基づいて、叙述の分類分析をおこなう。この方法についての詳細や土部氏による具体例は本稿第1章第3節で整理する。分類項目については、内容や人称、作中人物などを考慮したうえで、その作品に即して作品ごとに設定する。
 各作品に即した項目に従っておこなった分類分析に基づき、視点の配賦と叙述法について考察する。叙述をひとつひとつ分類分析することで、なにをどのように叙述されているのか(あるいはなにが叙述されずに隠されているのか)、具体的に考察することが可能となる。その中でも特徴的な叙述については、別にとりあげてさらに詳細に分析・考察することにする。「主題」「構成(構想)」との関連のなかで叙述のありかたを考え、それらに下支えされた叙述法を明らかにしたい。
 論文の構成は、はじめの目次に記したとおりである。もう少し詳しく書けば次のようになる。序章では、研究の概要について述べた。第1章では、先行研究を整理する。第1節では志賀直哉の文章や表現について言及しているもの、第2節では視点論についてのもの、第3節では本稿の研究方法である叙述の分類分析の下地である土部弘の「叙述層」という分析方法について、みていく。第2節では、視点論の先行研究を整理するとともに、本稿における視点に関する術語・用語を定義づける。
 第2章では、対象とした三つの初期作品についての分析・考察を実際におこなう。分析・考察する順序は、『或る朝』(第1節)、『網走まで』(第2節)、『剃刀』(第3節)とする。分析・考察の手順は、まず各作品の先行研究をみる。第2項では、それぞれの作品についての場面構成を考える。次の第3項では、叙述の分類分析の項目を、作品に即して決定する。第4項で、その分析をもとにした考察をおこない、第5項では、その中でも作品の主題にかかわるような、特徴的な叙述について考察を深める。第6項で、それぞれの作品における視点の配賦と叙述法について、まとめというかたちで考察結果を整理する。
 第3章では、第2章の考察結果をもとにして、三つの初期作品における視点の配賦と叙述法についての比較考察をおこなう。そこで、三つの作品の差異点と、共通点を明らかにしたい。終章では本稿の志賀直哉の初期作品についての結論をまとめる。参考文献の一覧はその後に列挙している。
 資料は、『或る朝』、『網走まで』、『剃刀』の本文と、第2章でおこなった各作品の分類分析の図表を添付した。それぞれの作品の本文は、田が『志賀直哉全集第一巻』(岩波書店1998年12月)をもとに、それぞれの作品に文番号(1、2、3…)と部分番号((a)、(b)、(c)…)を付したものである。傍点は原文どおり付した。原文にあったルビは、すべてはずしている。断わりがない限り、本稿における作品の引用は、これと同じものを引用している。ただし、各作品の先行研究における本文の引用は、文番号・部分番号ともに付していないものを引用した(第2章の各節第1項)。

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第1章 先行研究

第1節 志賀直哉の先行研究

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 この第1章 では、第1節で志賀直哉の文章に関する先行研究、第2節で視点論に関する先行研究、そして第3節では、本稿の研究方法と深く関わる叙述層分析についての先行研究を順にみていく。なお、研究対象とした『或る朝』『網走まで』『剃刀』のそれぞれの先行研究については、第2章の作品分析の、各節の第1項で整理する。
 第1章第1節では、志賀直哉の文章に関する先行研究をみていくことにする。これまで志賀直哉の文章については、多くの研究者や作家などが様々に指摘してきた。それらの全てを取り上げることはせずに、本研究に関わる指摘のみを取り上げることにする。
 小林英夫(1944)「文体からみた志賀直哉」(『志賀直哉研究』河出書房1944年8月)では、志賀直哉の文章について次のように指摘する。

 わたしは神秘主義をこのまないし、またそれは説明からの一種の逃避だと考えるので、「精神のリズム」ということばも、なんらかの別の、タンジブルなことばに置きかえて解釈しないではいられない。
 わたしの考えをいえば、志賀氏のいう「精神のリズム」とは、字義どおりに解して、作者が対象と取っ組み合っているときの精神の緊張といった、精神物理的なものとは思わない。むしろ作者の観察する対象それ自体のもつリズムである。といっても作家が描かぬさきに、または見るまえに、対象それ自体がころがっているわけではないから、かれが描くべく注視するしゅんかんの、対象のもつリズムである。(略)物の重視――レアリテの語源的な意味合いにおいて、志賀氏はまさにレアリストであろう。もちろんここにいう物とは、あながち重量のある、計量可能の物理的対象を意味するのではない。観察対象たるかぎりの、心の動きもそれにふくまれるのである
 この意味で、わたしは志賀氏のいわゆる「精神のリズム」を字面のうえからはまるで反対な、「物のリズム」ということばに、いいかえさしてもらいたい。
 この、「物のリズム」を重視することからして、志賀氏の文章のテンポが決定されるのである。

(下線引用者。以下同じ。
小林英夫(1944)「文体からみた志賀直哉」『志賀直哉研究』
引用は『小林英夫著作集8 文体論的作家作品論』(三陽社、1976年11月))

志賀直哉の文章の特徴として、「物のリズム」を指摘している。その「リズム」とは、「かれが描くべく注視するしゅんかんの、対象のもつリズム」としている。次に、小林英夫(1944)では、次のような実験をおこなっている。

 こころみにわたしは、志賀氏の短篇「焚火」をとり、これを一六名の大学生のまえで、わたしの習慣の、ごくふつうのはやさで、朗読してみた。二一分かかった。メトロノームで量ったわけではないので、正確な数字をあげるのは無意味であるから、大体のことをいうにとどめるけれど、有効な応答をなした一四名のうち、わたしの読みかたの速度を可とするもの一〇名、はやすぎたと評するもの四名、おそすぎたとするものは皆無であった。スケッチふうの作品で、べつにこみ入った事件の生じるわけでもないから、はやく読んでも理解をさして妨げることはないであろうが、味わうためには、もうすこしゆっくり読むことが必要であった。わたしの速度はモデラートくらいであったろうから、アダジオまでいかずとも、せめてアンダンテほどにすればよかったのかもしれない。

(小林英夫(1944))

このような朗読の実験を試み、この大学生が「はやすぎた」と評価したものが四名いたにもかかわらず、「おそすぎた」としたものがいなかった結果を提出する。この結果から志賀直哉の文章について、次のような指摘をしている。

志賀氏の文章にあっては、前の文と後の文との表わす意味が、ロジカルなつながりをもっていないことが多い両者のあいだには真空地帯があって、読む者は前文から後文へ移るときに、その合間を想像力をもって、うめていかなくてはならない。この努力の強要がテンポをおそからしめ、また文章のうわすべりをふせぎ、一々の文に重さをもたせ、つなぎの語の存在をも忘れさせるのである。

(小林英夫(1944))

「前の文と後の文との表わす意味が、ロジカルなつながりをもっていないことが多い」という志賀直哉の文章の特徴をとらえて、そのため、大学生への朗読の実験において、「はやすぎた」と評価したものがいたのに対して、「おそすぎた」と評価したものがいなかったという結果がうまれたのであると説明している。
 波多野完治(1953)「作家の文章心理――谷崎潤一郎氏と志賀直哉氏――」(『文章心理学入門』新潮社1953年1月)では、谷崎潤一郎の文章と比較して、志賀直哉の文章について、考察している。次の指摘は、両者の文章における一文の長短を比較したうえでのものである。谷崎の文章に比べて、志賀の文章は一文が短いことをみたうえで、

小説家はいつでも自己の文章を通じて何等かのニュアンスを出そうと努力しているのであって、特に志賀氏の文章には、外のどの作家にも見られないこまかいニュアンスがよく出ていることを認めないものはあるまい。従って長い文を書くか短い文をかくかは、小説家が言葉の持つニュアンスをおさえて、そのおさえることによって、かえって言葉の内容となっている物のニュアンスをあらわにしようとするかに懸かっている
 「観念的性格」の文章(観念は文章においては言葉であるから)は言葉の持つニュアンスをもって出来るだけこまかく現実の再現を期するに反し「即物的性格」の文章は言葉を適確にして、我我の心を直接に物にむけさせ、物のニュアンスをじかに我々に印象させる方法をとる。観念的性格の文章においては、物のニュアンスの外に、言葉のニュアンスに大きな注意が払われているが、これに反して、即物的性格においては言葉のもつニュアンスが意識的に抑制される

(下線引用者。
波多野完治(1953)「作家の文章心理――谷崎潤一郎氏と志賀直哉氏――」
『文章心理学入門』新潮社
(引用は『論集日本語研究8 文章・文体』有精堂1979年4月))

と指摘する。「観念的性格」の文章とは、谷崎潤一郎のものであり、「即物的性格」の文章とは志賀直哉のものである。小林英夫(1944)では「物のリズム」と評していたが、波多野完治(1953)では「即物的性格」と指摘する。谷崎潤一郎の文章が「物のニュアンスの外に、言葉のニュアンスに大きな注意が払われている」のに対して、志賀直哉の文章は、「即物的性格においては言葉のもつニュアンスが意識的に抑制され」た文章であるという。
 さらに、波多野完治(1965)「谷崎・志賀両氏の文章の形態的相違」(『文章心理学体系1 文章心理学<新稿>』大日本図書1965年9月)では、より詳細に分析している。波多野完治(1965)も、谷崎と志賀の文章との比較を中心に考察をおこなっている。まず、谷崎潤一郎の『蘆刈』と志賀直哉の『山形』とを比較して次のように、指摘する。

谷崎においては事件または事物の叙述が、あくまでも言語を主体として、言語が主役となってかたられている。これに反して、志賀氏においては事件あるいは事物はことばによってかたられていても、この場合ことばはただ媒介をするだけで、主になるものは事物そのもの、事件そのものであることばは事件を暗示するにとどまり、すべて事件自体が直接提示されるしたがって、ことばの役割だけいえば、後者の言語使用はいちじるしく象徴的になる。言語は読者が景色を心象化するための刺激なのであるから。

(下線引用者。以下同じ。
波多野完治(1965)「谷崎・志賀両氏の文章の形態的相違」
『文章心理学体系1 文章心理学<新稿>』)

「ことば」が「主役となってかたられている」谷崎潤一郎の文章に対して、志賀直哉の文章は「事物」「事件」に重きがおかれているという。さらに両者の方向性について、次のように指摘する。

谷崎氏のほうは、言語が前面にでてきている、というかぎりにおいて、自己の緊張体系を社会的なかたちで、ロゴス的な表現形式をとっていくのであるが、志賀氏のほうは、その文章の志向が社会的達意のほうへむかわずに、「物」のほうへむかっている。前者は叙述をいかに社会化するか、という方向にむかい、後者は叙述をいかに「物」に忠実にするか、という方向にむかう。

(波多野完治(1965))

このように、志賀直哉の文章の特徴は、「叙述をいかに「物」に忠実にするか」という方向性をもっていることであるとしている。

 志賀氏の文章が、かかる技巧的な文章創作からくる平均錯差の大数とことなることは、氏の文章の外の性質からただちに判明するが、平均錯差がただちに「事物への関心」を示すものでないことは注意しておいてよい。

(波多野完治(1965))

だが、その志賀直哉の文章の方向性というのも、事物に関心が向けられているものではないことを確認している。文章の特徴として、「ことば」や「言語」ではなく「物」に忠実に叙述するか、という方向性なのである。

志賀氏は、じぶんの頭の中にある表象を、事物に即して分節していく。事物そのものは単なる「存在判断」(ミクロシッヒ、ブレンターノ)と考えてよい。志賀氏はまず事物を事物として言語化するそうして事物の分節(事物の現象変化)を、そのまま言語の分節に変形する。したがってそこでは存在判断の連続がみられるわけになる。一句文の連続とは要するに、事物の分節を、そのまま言語にあらわしたからにほかならない。

(波多野完治(1965))

 続いて、谷崎潤一郎の『金と銀』と志賀直哉の『雨蛙』におけるそれぞれの品詞の多寡や比喩表現などに着目して両者の違いについてさらに考察をすすめている。まず、両者の名詞の多寡に着目し、

谷崎氏に比して、志賀氏の文章にはいちじるしく名詞が多い。後者は前者より約五割ほど名詞が多いのである(志賀氏は千字中に一六六戸、谷崎氏は一一七個)。

(波多野完治(1965))

という顕著な違いを指摘する。さらに、谷崎潤一郎の『金と銀』においては、一文が長く千字中に十七の文しかないのに対し、志賀直哉の『雨蛙』においては、一文が短く千字中に三十の文があるという。にもかかわらず、両者の動詞の数は百十三(谷崎)、百十二(志賀)とほぼ同じであることを明らかにしたうえで、これらの違いを、谷崎の文章を「用言型の文章」、志賀直哉の文章を「体言型の文章」とよび区別する。
 そしてこの「用言型」と「体言型」の文章の差異について次のようにまとめている。

 この体言型の文章と、用言型の文章とがやはり「事物への方向」と、「社会への方向」という心性の基本方向の一つのあらわれであることはただちに推測できよう一方は事物を指示して、事物の直観そのものから、一種の緊張体系をよびおこそうとする。これに反して、用言型の文章では体言とともに、その体言の様相状態をできるだけ「言語的」に叙述する。人にわからせるには、ことばをつくして、用意周到に叙述する必要がある。(略)そうして、説明の主体はかぎられているのであるから、名詞は少なく、名詞についての様相のことば(すなわち用言)が多くなるわけである。志賀氏の文章はこれとは反対に、事物そのものに即しようとする事物をわからせようとするよりも読者が事物の中へとびこむことを要求することばは暗示と手だすけにとどまり、そのこまごました説明はすべて読者の想像にまかせられる

(波多野完治(1965))

 さらに、小林英夫(1944)と同じように、文と文との論理的なつながりが希薄であることにも触れている。

ところが志賀氏の文は、かかる意味ではピリオドは全然ない。氏においては、たとえ八〇何文字の長文であっても四つまたは五つの文が、ただ煉瓦のようにつみかさなっているにすぎないから、非常にブツブツしたいくつものピリオドが、一つの文にふくまれるわけである。

(波多野完治(1965))

こうした文と文とのつながりの希薄さに加えて、志賀直哉の文章には省略が多いことを指摘し、次のようにその説明をする。

 志賀氏の文のもつ弾力はこういう極端な省略にあるとおもう。人は省略されたことによって、文章から文章へうつるさいに飛躍を経験する、ここで、弾力の第一の感じがでてくる。次に、人は省略の箇所を、無意識におぎなう努力をする。読書のさいかような能動的態度が、読者にどれだけ動力的な感をあたえるかは想像にあまりある。第三に、助詞のない体言止や連体止の終止によって、大きな停止の感じをうけ、それが次へうつるさいの踏切板になる。ここにまたリズム――谷崎氏のように語句の連絡からくるリズムでなく、もうすこしほかのリズムの生まれる余地がある。

(波多野完治(1965))

この指摘は、省略の多い志賀直哉の文章についての説明だけではなく、小林英夫(1944)で大学生を対象とした朗読の実験結果をも説明していると言える。つまり、「人は省略の箇所を、無意識におぎなう努力」を要求するものであるため、朗読に対して「はやい」と感じることはあっても、「おそい」という評価は得られないのである。
 そして、この「もうすこしほかのリズム」については、次のように説明する。

 要するに、志賀氏の文章のリズム感は、その大半を、余白におうていることがわかる。ことばが、かかれ、いわれているところからでなくて、ことばとことばとのあいだの白いところ、言葉の発せられない「間」が、極度に利用されているのである。

(波多野完治(1965))

つまり、志賀直哉の文章においては、省略されたところ(読み手が補わなければならない「間」)と、ことばとなっているところとが「リズム」として利用されているのである。これらの特徴に加えて、波多野完治(1965)では、谷崎潤一郎の文章と志賀直哉の文章とでは、形容詞(p.190)や、直喩表現が倍ほど違うことも指摘している(p.195−200)。志賀直哉の文章のそれは、谷崎潤一郎のものに比べて、それぞれ約半分であったというのである。これら多寡も、「社会性」か「事物」かという方向性の違いを示しているものであるという。
 伊沢元美(1960)「志賀直哉のリアリズム」(『島根大学開学十周年記念論文集』1960年2月)では、志賀直哉の文章は「リアリズム」であるとして、次のように指摘する。

短篇にしても本質は単に細部の正確さというものにとゞまるものではない。人生の或る断面を示すには部分が全体の部分としての意味を示すべきである。直哉の短篇にそれに近いものが皆無というわけではないが、多くは自己の実生活に密接した作者の「眼」の捉えた世界であるその世界は細部に於て強く生き/\した視覚的充実を示す
 それは単に対象の写真的再現ではないことは言う迄もない

(下線引用者。以下同じ。
伊沢元美(1960)「志賀直哉のリアリズム」『島根大学開学十周年記念論文集』
引用は『日本文学研究資料集 志賀直哉』(有精堂1970年6月))

このように、志賀直哉の「眼」の鋭さを「細部に於て強く生き/\した視覚的充実を示す」世界を捉えると指摘する。また、志賀直哉の代表作である『城の崎にて』の描写について、次のように指摘する。

(略)それらの描写は何れも直哉の「眼」が細部における対象の写真的再現ではなく主体に裏づけられた生きた写実であることを示す。しかしその写実が細部に限定されないで、現実の種々相と人間相互の諸関係を通じてより高次の世界に行き得るところまで十分に至り得なかつたことは言い得るであろう。

(伊沢元美(1960))

「視覚的充実」を示しながらも、それが「直哉の「眼」」がとらえたものであるため、「主体に裏づけられた生きた写実」であるとともに、「人間相互の諸関係を通じてより高次の世界に行き得るところまで十分に至り得なかつた」と評するのである。そして、それが志賀直哉ひとりの「眼」でとらえられたものであるため、次のような志賀直哉の文章の「弱くなつた点」をも指摘している。

直哉のリアリズムが本能的直観的で主体的な強いリズムがあり、同時に倫理的であり得たということは近代日本の文学中貴重なものであるが、そのリアリズムが知覚的な充実に集中されて、対象の全円の把握という点で弱くなつた点は認めざるを得ない。この点を直哉の小説の私小説性という角度から一方的に責めて、私小説全否定という主張のみでは直哉を乗り越えることは出来ないと思う。

(伊沢元美(1960))

「知覚的な充実」を示すものであるがゆえに、「対象の全円の把握という点で弱くなつた」として、志賀直哉の「リアリズム」の長短について指摘する。
 また、池内輝雄(1977)「直哉のリアリズム」(『近代文学4 大正文学の諸相』(三好行雄・竹盛天雄/編)有斐閣1977年9月)でも、志賀直哉の文章を「リアリズム」として次のように指摘している。

志賀直哉のリアリズムは一口に言うなら、「主観的リアリズム」とでも言うべきであろうか。(略)志賀の方法は自我や主観が前面に出され、しかもその自我や主観さえもがとらえられるべき対象として客観的に描かれる、といったものである。

(池内輝雄(1977)「直哉のリアリズム」
『近代文学4 大正文学の諸相』)

やはり、「自我や主観が前面に出され、しかもその自我や主観さえもがとらえられるべき対象として客観的に描かれる」という志賀直哉の文章に対する評価は、伊沢元美(1960)とおおよそ同じ評価であると言える。
 一方、柄谷行人(1972)「私小説の両義性――志賀直哉と嘉村磯多」(『季刊芸術』第23号 講談社 1972年10月)では、「客観性」と「主観性」とを同時に兼ね備えたとされる志賀直哉の文章について、志賀直哉の多くの作品においてしばしば重要となる「気分」と関わらせて論じている。

ほとんどすべての作品が徹頭徹尾「主人公の気持」あるいは「気分」でつらぬかれているのである。むしろこういうべきではないだろうか、主人公の「気分」が書かれているのではなく、「気分」が主人公なのだ、と
 これは言葉の綾ではない。実際に志賀直哉の小説では、「気分」が主体なのである。そこでは「気分」はたしかに私の「気分」ではあるが、私が所有するものではなく、どこからかやってきて私を強いるものである。こういえば、私小説とは私を書くものでありエゴセントリックで他者を欠如した世界だという定説に背反するようにみえるかもしれない。志賀直哉の世界では、明らかに「他者」が欠落しているが、「私」もまた欠落しているので、ただ「気分」がすべてを支配しているというまでである

(下線引用者。以下同じ。
柄谷行人(1972)「私小説の両義性――志賀直哉と嘉村磯多」
『季刊芸術』第23号)

志賀直哉の作品において、「私」とそれに対峙する「他者」という対立なく、ただ「気分」があるだけだという。さらに、その「気分」の「快」「不快」については、次のように説明する。

志賀の「不快」は父だけでなくあらゆるものに向けられている。しかもそれは対象や他者に責任はなく、また志賀自身にも責任がない。重要なことは、志賀における「不快」がたんなる感情ではなく、いわば「ラクでない」という存在性と結びついていることだ「不快」におそわれたとき、彼は「自分であること」が危うくなっているのを感じる。「近代人としての自我の確立」などという問題は、こういう危機に比べれば何ものでもない。「父」とは、彼の実存をおびやかし縮小させるものの表象であって、実際の父親とはたんに対応しているだけである。

(柄谷行人(1972))

要するに、志賀直哉にとって「気分」は絶体絶命のものであり、他者を殺すかさもなければ自己を殺すかというような本質をもっているのである。

(柄谷行人(1972))

 志賀直哉にとって、「気分」は「存在性」と結びついた「絶体絶命のもの」であるとする。そのため、「気分」の「快」「不快」だけが、「私」の行動基準であり、そこにはいわゆる「主公」としての「私」は存在しないというのである。それは志賀直哉の文章についてもかかわることである。

 志賀直哉の作品はすべて「気分」をベースにして書かれているが、それは彼の恣意的感情に染めぬかれているということを意味しない。おそらく志賀直哉には恣意性はありえないのである。他人にとってどうみえようと、彼自身にとって「気分」は恣意ではない。つまり、われわれは「気分」と「感情」を区別すべきである。彼の「気分」はつねに倫理的判断をふくんでいるばかりでなく、倫理的判断そのものなのだ

(柄谷行人(1972))

志賀の「気分」はそのまま倫理的判断であるが、ここにはどんな恣意性も主観性もない。「気分」は倫理的な絶対性を帯びている。しかし、彼の激しい好悪の表出は、私的な主観的な絶対性を意味しているのではなく、その逆に彼自身においてはむしろ「無私」を意味しているのである
 最初に、私は志賀は他者を欠いているだけでなく私を欠いているのだ、と述べた。たとえば憎悪は他者意識である。志賀の「不快」には他者がいない。「不快」が先につきのぼってくるのだ。志賀の快・不快の表出は、恣意的な判断ではなく、いつもどこからかやってくるものである。彼はあとからその理由を考えるかもしれないが、それは他者(対象)にも彼自身に転嫁しえないものなのである。「不快」と感じたとき、彼自身にもその意味がわかっていなかったというべきだろう。事実、彼は「不快」の理由はほとんど書いていない。そのかわり、「不快」という一語に、彼の全存在的な判断がこめられていたのである。彼が一見自己絶対的でありながら、その内実において「無私」であったという逆説は、まさにここにある。

(柄谷行人(1972))

このように、志賀直哉の文章は、絶対的な倫理的判断としての「気分」があり、そのため、「私」の恣意性、主観性から免れているというのである。さらに視覚と「気分」についても、次のように説明する。

いいかえれば、志賀直哉の「リアリズム」は、風景を克明に描写するところにも心理も精細に記述するところにもありはしない。事物と私の間にある「気分」が明確に形象化されるのだ。そこに恣意性はない。空想の混じりこむ余地はない。
 私は志賀において「気分」と選択・判断・行為は合致すると述べたが、同じように「気分」と彼の視覚は合致するといってよい。彼はけっして余計なものは視ないのである。なぜなら、彼はあれこれを恣意的に視るのではなく、強いられて視るからだ。「気分」による彼の行為が恣意的であるどころか絶体絶命であったように、その視覚もいわば絶体絶命なのである。

(柄谷行人(1972))

そして、「客観」や「主観」といった志賀直哉が「リアリズム」であると評される所以を次のように、指摘する。

 彼らの自己完結性は、その「世界」が強いた必然である。彼らはその「世界」を外側からみる眼をもたなかった。逆にいえば、外側からみることによる混乱・曖昧・欺瞞を彼らは最初からまぬがれていたのである。それはたんに彼らが「知識人」でなかったということではない。彼らは意識が生みだす剰余に関心を払うには、あまりに明瞭な強制的なものにとらわれていたのだ。(略)
 彼らは「私」を書いたが、その「私」は「世界」に閉じこめられたものであり、そこには恣意性がありえない。驚くべきことは、彼らが私についてだけ書きながら、恣意性をまぬがれていたということだ。自己を客観視し世界を客観的に対象化しようとする精神は、必ず恣意性(主観性)につまずかざるをえない。客観性とは一つの神話であり、われわれは「世界像」を世界ととりちがてママいるにすぎない。

(柄谷行人(1972))

ここで「彼ら」とは、志賀直哉と嘉村磯多とを指している。志賀直哉が恣意性を免れたのは、「気分」によるものであるからと指摘する。志賀直哉にとって、「倫理的な判断」でもあり絶体絶命である、この「気分」の支配された作品には、恣意性はあり得ないというのである。
 最後に谷口節子(1977)「「或る朝」にみえる志賀文学の原型」(『武庫川国文』第11号 1977年3月)を取り上げる。谷口節子(1977)では、志賀直哉自身が「処女作」と位置づけている『或る朝』について次のように評する。

 ここには見たもの以外余計なものは一切省かれているのであるから、その鋭いカットにより残されたもの、即ち描き出されたものは実に確かにそして鮮やかに目に浮かび、その形象を通して主人公の心の推移が印象づけられるのである。この一篇に見たものを見た通りに生々しく再現する志賀直哉の天賦の才が現れていると思われる。

(下線引用者。以下同じ。
谷口節子(1977)「「或る朝」にみえる志賀文学の原型」
『武庫川国文』第11号)

このように、『或る朝』に志賀直哉の「天賦の才」を見出したのち、志賀直哉の文章について次のようにも指摘する。

 しかし大切な事はその「眼」に支えられた志賀文学は単に視覚的要素の濃い事実再現の文学に終始しているのではなく、その上に全ての事象を主観の感情に包み入れ心情化する、またそう出来得る感情の細かな動きが常に働いているという事である。換言すれば彼の「眼」は物を生き生きと正確に捉えるばかりでなく、それと共にその時々の気持ちがあらゆる関連性を帯びて捉えられているのである。この気持ちによって個々の視覚的映像が一つになるにつながれ、読者に価値を帯びて迫り、所謂「文学」とよばれるものに高められるのである。むしろ、そのような気持ちの働きによってこそ、それらの視覚映像が生かされていると言っても過言ではない。多くは自己の実生活に密着した作者の「眼」の捉えた世界は、細部に於て強く生き生きした視覚の充実を示すが、それらの描写は対象の単なる写真的再現ではなく主観の働いた生きた写実・・であるこの志賀直哉にとっては、「見る」という視覚的動作は即「考える」という思考的動作につながるつまりいかによく「見」た事象を覚えているか、その確実さはその時の心的内容の確かさであり、見たものとその時の心の状態とが不可分なものとして存在するわけである

(傍点原文。以下同じ。
谷口節子(1977))

志賀直哉の文章において、「見たものを見た通りに生々しく再現する」という「眼」の正確さは、「それと共にその時々の気持ちがあらゆる関連性を帯びて捉えられている」という。それはすなわち、志賀直哉にとって、「「見る」という視覚的動作は即「考える」という思考的動作につながる」ため、「見る」と「考える」とが不可分なものであると考察する。そして次のようにも指摘する。

つまり、「想う」という感情と「為す」という行動とは一体となっているのであり、彼の「自我」が所謂感情・行動統一体と称され生きる所以がここにある。氏の作品には「気分」「気持ち」などという言葉で自己の「実感」を表現するということが極めて頻繁にみられるがそれはそのまま志賀文学を築く上の大切な手法の根本であると思える。

(谷口節子(1977))

このように、「想う」と「為す」とが一体となっているところに、志賀直哉の文章における「手法の根本」であるという。それゆえ、『或る朝』をはじめとする志賀直哉の作品は、「主人公の感情」のみが描かれているのだと結論付ける。

第三者的に遠くから理性的、客観的に相手を見つめつつ描くという事は志賀文学とは無縁なのである。故に「或る朝」の祖母もつきつめれば彼の半身であるとも言えよう。彼の作品の登場人物は全て主人公より小さく、又独立した人格をもって存在する事を許されていないのである究極的には、彼の文学には志賀直哉という一個人の感情しか描かれておらず、他の人物は独立性、自主性を持たずに主人公の感情と「快」あるいは「不快」をもたらす媒体としてしか描かれていないと考えられよう。信太郎が眠りに沈んでいく半睡の快感を阻害する祖母の呼びかけ、又これを必要としている現実の様子についてはただ彼の感情を触発する条件としての意味を持つにすぎず、他の現実そのものについては殆んど彼の意識に映ってこないのである。

(谷口節子(1977))

 柄谷行人(1972)では、「気分」のみが主体性をもつ絶体絶命のものであるため、「自己完結性」を保ち、恣意性から免れたという指摘に対して、谷口節子(1977)では、「作品の登場人物は全て主人公より小さく、又独立した人格をもって存在する事を許されて」おらず、作品全体が、志賀直哉を髣髴とさせる「主人公」の「思考的動作」のみで支配されているというのである。
 以上のように、志賀直哉の文章についての先行研究をみてきた。小林英夫(1944)では、志賀直哉の文章は「物のリズム」であり、「ロジカルなつながり」をもたないことから、読み手は、文と文との「真空地帯」を埋めていく必要があると指摘していた。
 また波多野完治(1953)、同(1965)では、谷崎潤一郎の文章と比較して、「即物的性格」をもち、言葉のニュアンスではなく「物」や「事物」「事件」にその方向性があるとされていた。そして、名詞が多く、短文であり、形容詞や直喩表現が著しく少ないことを分析結果として提示し、「体言型の文章」であり、「事物への方向」という基本方向を示していると説明していた。これは、「物のリズム」と評する小林英夫(1944)と共通する点が多いものであった。
 一方、伊沢元美(1960)では、「リアリズム」である志賀直哉の文章は、志賀直哉自身がとらえた「眼」によって、「細部に於て強く生き/\した視覚的充実」を示す文章であると指摘していた。それと同時に、「そのリアリズムが知覚的な充実に集中されて、対象の全円の把握という点で弱くなつた点は認めざるを得ない」という志賀直哉の文章の「弱くなつた点」をも指摘するものであった。池内輝雄(1977)では、志賀直哉の「リアリズム」は、「自我や主観が前面に出され、しかもその自我や主観さえもがとらえられるべき対象として客観的に描かれる」という「主観的なリアリズム」であるとしていた。
 柄谷行人(1972)では、こうした「主観」「客観」という二項対立ではなく、「気分」から志賀直哉の文章を考察していた。「絶体絶命」さをもった「気分」が主人公となり、倫理的な判断を下し、「選択・判断・行為」、そしてそれは「視覚」とも合致するものであるとする。そのため「無私」が成立し、「世界」に閉じこめられた「私」は、「私」という恣意性から免れていたと結論づける。
 谷口節子(1977)では、「彼の「眼」は物を生き生きと正確に捉えるばかりでなく、それと共にその時々の気持ちがあらゆる関連性を帯びて捉えられている」ところに、作家・志賀直哉の特徴をとらえようとする。「「見る」という視覚的動作は即「考える」という思考的動作につながる」のであり、「「想う」という感情と「為す」という行動とは一体となっている」という統一性を指摘していた。そこには、「他者」が存在せず、志賀直哉一人の感情しか描かれないとしていた。
 だが、この谷口節子(1977)の指摘は、表現である小説一般にあてはまることではないだろうか。小説が、書き手に意図された表現である以上、全ての小説について、「描写は対象の単なる写真的再現ではなく主観の働いた生きた写実・・である」ということが言える。どんな小説であっても、描写はある程度作中人物の心理を投影したものである。だが、それを踏まえたうえでなお、「「見る」という視覚的動作は即「考える」という思考的動作につながる」と志賀直哉の作品における独自の特徴について、指摘していると考えるべきであろう。
 では、そのような志賀直哉の作品の特徴とは、どのようなものなのであろうか。本研究では、この「「見る」という視覚的動作は即「考える」という思考的動作につながる」という志賀直哉の作品の特徴について、志賀直哉の視点の配賦や叙述法といった表現の側面から分析・考察することで、明らかにしたい。
 また、小林英夫(1944)や、波多野完治(1965)などで指摘されていた「物のリズム」や「即物的性格」の文章とは、一体どのような文章であるのか、作品の内容―主題や構成、叙述―に関わらせて考える必要があるだろう。第2章の三つの作品分析を通して、これら先行研究の指摘について具体的に考察していく。

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第2節 視点論についての先行研究

第1項 視点論についての先行研究

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第2節第1項では、視点論についての先行研究を整理する。
 まず、認知科学の分野における先行研究として宮崎清孝・上野直樹(1985)『認知科学選書 視点』(東京大学出版会1985年10月)をみる。次に国語教育における視点論として、西郷竹彦氏の視点論をみる。そして最後に、本稿の「視点の配賦」という考えのもとでもある今井文男氏の視点論を、「配賦視点」という考え方を中心に整理することとする。
 その後、第2項として本稿における言葉の定義をするという構成をとる。
 宮崎清孝・上野直樹(1985)(『認知科学選書 視点』東京大学出版会1985年10月)は、二部構成になっている。「T.視点のしくみ」として、人間が物を見るとはどういうはたらきをいうのか、という人間の認知おける視点について考察している。そして「U.視点の働き―より深い理解へ向けて」として、文学作品において、見るとはどういう働きであるのか、読むとはどういうことか、といったことを認知科学の観点から考察している。T部は上野直樹が、U部は宮崎清孝がそれぞれ執筆している。
 まずT部からみていく。

日常生活の中では、私たちは事物をよく見ようとして、たえず首を傾けたり、身体を移動させることによって視点を動かしつづけているのである。
 マクロのレベルで視点を動かすことによって見えるものは、やはりスナップショットのようなものではなく、変化や流れのパタンといったものであろう。つまり、ミクロのレベルのみならず、マクロのレベルでも、私たちは、変化を見る中で、対象がどのようなものか特定してゆくのである。

(宮崎清孝・上野直樹(1985)『認知科学選書 視点』 p.9)

 このように、「見る」ということは、あるものの停止した状態ではなく、どのように変化するのか、という見る対象と、見る主体との移動や変化の様によって、「対象がどのようなものか特定してゆく」という。そして、見えていた山が見えなくなるという変化について、次のように説明する。

しかし、見えなくなった山は、そこに存在しなくなった山とは明らかに異なったものとして知覚されるのである。視点を動かすことによって、その山が見えなくなったということは、単にその山が網膜像から消えたということと同じではない。今まで見えていた対象の見えなくなり、あるいはそれが見えなくなったこと・・は、それはそれで立派な情報であり、単にセンス・データが存在しなくなったということではないのである。
 見ることは、スナップショットを見るということなのではなく、見え隠れのプロセスを見るということなのである。あるいは、視界から消えるその消え方を見るということなのである。

(傍点原文。以下同じ。
宮崎清孝・上野直樹(1985) p.28)

 対象が見えなくなる、ということは、単に対象が視界からなくなったというのではなく、「今まで見えていた対象の見えなくなり、あるいはそれが見えなくなったこと・・は、それはそれで立派な情報であり、単にセンス・データが存在しなくなったということではないのである」と指摘する。そして、見ることとは、「見え隠れのプロセスを見るということ」であるという。
 宮崎清孝・上野直樹(1985)では、人間が対象を認知するときの「視点」を二つの視点があるという。それが「動的な視点」と「静的な視点」という二つの「視点」である。

 動的視点とは、文字通り、動きつつある視点のことである。見るということは、基本的には動的視点の活動にほかならない。同じことは概念的な理解に関しても言えるだろう。動的視点が見るものは、対象のどの視点からの見えとも、あるいは、どのような個別的な事例とも対応しない。ここで見られるものは、定形(form)ではなく、視点を動かすことに伴う不定形な見えの変化のプロセスといったものであろう。

(宮崎清孝・上野直樹(1985) p.53−54)

 一方、静的な視点とは、あくまで動的な視点の途上に存在するものである。つまり、静的な視点とは、動いている途中で立ち止まったという状態にほかならない。したがって、たとえ静的な視点から見るというときでさえ、スナップショット・モデルの言うような形(form)を見ているのではなく、何らかの変化や変形の途上を見ているのである。あるいは、途上としての“形”を見ているのである。

(宮崎清孝・上野直樹(1985) p.54)

そして、これらの視点を次のようにまとめている。

まとめて言うなら、動的視点は生成的であり、一方静的視点は動的視点の活動によって生み出される個別的な、あるいは事例的な視点だということも可能であろう。つまり、動的視点は、視点の変化に伴う対象の見えの変化のあり方を見るのに対し、静的視点は、そうした連続的な変化の途上にある対象の一つの見え方の事例をながめるというわけである。

(宮崎清孝・上野直樹(1985) p.55)

 続いて、U部の文学作品を読むときにはたらく「視点」についての考察をみていく。宮崎清孝・上野直樹(1985)文学作品を読む、という行為は、以下の大きく二つの働きによるものであると説明する。宮崎清孝・上野直樹(1985)では、他者である文学作品の作中人物に対して、共感的に理解することを、「仮想的自己を派遣する」と呼びながら説明している。

 “見る”働きと“なって”みる働きの二つを統一的にとらえるには、次のように考えてみるとわかりやすいだろう。“見る”働きは、いわば仮想的自己の“眼”の働きである。これに対して、他者に“なって”みる働きは、仮想的自己の内側の働きである。このいい方を使えば、たとえばある目的をもった他者に視点を設定するとは、この他者にたいして仮想的自己を派遣し、その内側に他者の目的を生成してみるということである。
 このように“見る”働きと“なる”働きが同じ仮想的自己の働きだとすれば、この2つの働きが同時におこり、互いに影響しあう事態の存在も予想される。たとえば、ある目的をもった他者に視点を設定する場合を考えてみよう。このとき、その他者のもっている目的や意図を推測し、仮想的自己の内側に生成することによってその他者に“なって”みて、それによってさらにその他者の“眼”で世界を“見て”みる、ここで私たちの用語を使えば、他者の見ている〈見え〉を生成する、という過程がありうるだろう。

(宮崎清孝・上野直樹(1985) p.133)

このように、作中人物を「見る」働きと、作中人物に「なる」働きによって、人は文学作品を読むというのである。人間が、他人の書いたものである文学作品の中の、作中人物の気持ちになって読むというのは、「見る」働きと、「なる」働きによるものであるという。しかし、単に「なる」というだけで作中人物の心情に「なる」というのではないと説明する。

 だがここでは、いろいろな方法の中から、視点の“見る”働きとも密接に関連した1つの理解方略に焦点をあて、それについて考えていくことにしよう。それは、他者の心情を理解するにあたって、まずその他者が彼のまわりの世界についてもっているであろう彼から見た〈見え〉を生成してみる、というやり方である。これを〈見え〉先行方略とよぶことにしよう。

(宮崎清孝・上野直樹(1985) p.139)

「なる」働きは、単にその「作中人物の気持ちになる」、というのではなく、その作中人物がその周りをどのように見ているのか、ということを「見る」ことによってその内面を理解するのであるという。これを「〈見え〉先行方略」と呼び、文学作品の作中人物の心理や心情を読むうえで、重要な「視点」の働きの一つであるとする。

 このように対象が同じであっても、そのときの心情に応じて見えが差異をもつならば、他者を理解しようとするとき、私たちが彼の見ている見えのもつ差異を知り、その見えを生成できれば、そこから彼の心情のあり方について推測していくことができるだろう。つまり、この見えのもつ差異が、心情に関する視点特定情報になるのである。

(宮崎清孝・上野直樹(1985) p.152−153)

対象の見え方の違いを理解することによって、作中人物の心情まで理解する(推測する)ことにつながるのである指摘する。それは、次のようなものである。

 ただここで重要なことは、この因果的な視点特定情報のみをもった見えを生成するだけでは、深い他者理解に到達することができない場合がほとんどであるということだ。他者に影響を与えている事物、出来事を特定できれば、他者理解が十分可能であるように一見みえる事態でも、その事物、出来事が他者によってどのように見えているかを知らなければ、深い他者理解はできないのである。

(宮崎清孝・上野直樹(1985) p.155)

このような文学作品における作中人物の理解のプロセスを、シェイクスピアの『ハムレット』を例にとって次のように説明している。

 たとえばハムレットの例でいうならば、その理解過程はこんなものであろう。まず私たちは戯曲を読む中で、多少とも概念化されたハムレットの心情を理解する。そしてそれにもとづいて彼がもつであろう見えを、とにもかくにも生成してみる。そしてさらにそれを介して、具体的、実感的な心情に関する知識をさがし、それを使ってハムレットの心情を具体的にしていく。そしてその心情にもとづいて、見えをさらに洗練し、より適切なものとして生成されていく。このような見えと心情との間の往復運動をとおし、見えはより適切なものになり、心情もより実感的になっていくのである。
 これをより一般的にいえば、適切な見えが生成可能な一つの前提条件は、〈見え〉先行方略がまず完璧な見えを生成し、そこから心情を理解するといった一方向的なものではなく、それが双方向的なものであるということだ。双方向的な過程が遂行される中で、心情が具体的、実感的になるだけではなく、見えもより適切なものをめざして変わっていくのである。

(宮崎清孝・上野直樹(1985) p.172−173)

 一方、西郷竹彦氏の視点論については、西郷竹彦(1975)『西郷竹彦文芸教育著作集17 文芸学講座(T)視点・形象・構造』(明治図書出版1975年9月)が詳しい。西郷竹彦(1975)では、「文芸作品」における視点を次のように規定している。

視点とは何か
 文芸作品はすべて(詩、散文、戯曲などジャンルのいかんを問わず)ある一定の視点を媒介として表現されています。したがって全ての文芸作品は視点を媒介とすることなしには正しく深くそれを読みとることはできません。


(字体は原文による。以下同じ。
西郷竹彦(1975)『西郷竹彦文芸教育著作集17
文芸学講座(T)視点・形象・構造』 p.338)

このように規定し、西郷竹彦(1975)で言う「視点」とは「だれの眼から」「どこから」描いているのか、という問題であるとする。しかし、その「視点」とは、単に作品内部だけの問題ではなく、その作者と密接に関わるものであることも確認している。

観点と視点
 ほかならぬその視点からえらばれたということは人間にたいする、世界にたいする作者の人間観、人生観、世界観、また芸術観など、つまり作者の観点にもとづくものですしたがって、読者はその作品の視点のありかたによって作者の観点をとらえることも可能となります
 科学の文章、あるいは国語教育でいうところの説明文は、客観的な視点(もしくは無人称の視点)をとるもので主観を排除するところに独特な性格があります。
文芸の文章は(文芸の形象は)視点の設定によって、作者の主観と客観が弁証法的に止揚統一されたものです。

(下線引用者。以下同じ。
西郷竹彦(1975) p.339)

視点の設定
 作者は対象を表現するときに、つぎのような視点を設定します。
 一人称の視点のばあい、<私>その人の体験を述べるものと、<私>は紹介者、話者として、他者の体験を読者に語り伝えるというものとあります。
 二人称の視点は、一般的にはまだ作品化されていませんが最近フランスなどでその試みがなされています。
 三人称の視点には対象を外がわからまったく客観的に描写する客観の視点と、作中のある特定の人物の視点と一致させた限定の視点があり、さらに、対象を外から、また内から自在に(ということは反面きわめてあいまいにということでもありますが)描きだす全知の視点とがあります。(略)三人称全知の視点は超越者の視点、神の視点ともいわれます。

(西郷竹彦(1975) p.339)

「文芸作品」における、「視点」は、「一人称」と「三人称」とにまず二分され、「三人称」は「全知」「限定」「客観」という三種があるとする。「一人称視点」とは、一人称の語り手によって語られる作品である。「私」や「僕」「自分」といった一人称の作中人物として作品内に登場するものと、作中人物としてではなく単に語り手としてのみ登場するものとがあるという。
 「全知」とは、いわゆる「神の視点」であり、すべての作中人物の内面を見通す「視点」である。「限定」とは、一部の特定の作中人物の内面からのみ描かれる視点を指す。「客観」とは、作中人物の内面からは描かずに、全て作中人物の外面から描くという作品である。

内からの視点、外からの視点
 すべての視点を私は、この二つの視点によって分類します。たとえば一人称の視点の場合は、<私>なる人物の眼をとおして世界をながめるもので、したがって、<私>なる人物の内面をくぐった、あるいは<私>の主観に彩られた世界といえますが、このばあいの視点を<内からの視点>あるいは略して≪内の目≫と名づけます。三人称客観の視点は<外からの視点>あるいは略して≪外の目≫と名づけます。三人称限定の視点は特定の人物の内面をとおすとともにその人物を外からも描く視点であって、たとえていえば三人称の客観と主観が統一されている視点です。このばあい≪内の目≫と≪外の目≫がかさなったものといえます。三人称全知の視点は特定の人物だけでなくすべての登場人物の「内と外」をとらえる視点です。しかもそれは≪内の目≫と≪外の目≫が、あるときは「区別」され、あるときは「かさなり」、また多くのばあい「あいまい」となります。

(西郷竹彦(1975) p.339−340)

このように、「内の目」と「外の目」という二つの視点によって、「文芸作品」を読むという。西郷竹彦氏の視点論では、この「内の目」で「文芸作品」を体験することを、「同化体験」とよび、「外の目」で体験することを「異化体験」と呼ぶ。「文芸作品」のほとんどは、この二つの目(「視点」)が相互に関わりあうことによって、読みすすめていくことになる。この二つの目が関わりながら「文芸作品」を体験することを、「共体験」(あるいは「文芸体験」)と呼ぶ。
 この「同化体験」、「異化体験」という区別は、宮崎清孝・上野直樹(1985)で「なる」働きと、「見る」働きとによって作品を読むという指摘と共通するものであると言える。すなわち、おおよそ以下のような共通点である。

西郷竹彦氏の視点論 宮崎清孝・上野直樹(1985)
同化体験(「内の目」による体験) …… 「仮想的自己」の「なる」働きによる理解
異化体験(「外の目」による体験) …… 「仮想的自己」の「見る」働きによる理解

 宮崎清孝・上野直樹(1985)でも、西郷竹彦氏の視点論でも共通しているのは、作中人物の内面(心理、心情、気持ちなど)を描くことが「なる」働き、「内の目」による「同化体験」なのではなく、内面から描くことが「なる」働きによる作中人物の理解であり、「同化体験」するということと説明している点である。「何を」描いているかという問題ではなく、「誰から」あるいは「どこから」描いているのか、という「視点」の問題を重視しているのである。換言すれば、見られる対象ではなく、見る主体が視点論では重要であるということである。

視点人物
 視点を設定された人物を視点人物と名づけよう。(一人称の視点にあっては〈私〉ママが視点人物です。物語にあっては<話者>が視点人物となります。)
視点人物の条件
 視点人物にえらばれる人物は、作者の観点、つまりは作品の主題と思想を形象化するために必要な条件をもたねばならない。条件とは、視点人物の性格、生活、思想、立場などです。
 視点人物の眼(主観)をとおして見られた人物(対象人物、あるいは焦点人物という)や世界は、したがって視点人物の条件によって規定されるものです。このことは、視点人物の主観によって反映された客観の世界ということです。(主観と客観の弁証法的止揚統一としての文芸形象)(視点をプリズムとしてとらえられた、表現された、客観的現実の主観的反映)

(西郷竹彦(1975) p.341)

そして、「視点」が置かれた作中人物を「視点人物」と呼び、それ以外の人物と区別して扱っている。この「視点人物」を通して、作品の事件や出来事を「共体験」することになるのである。さらに、見る「視点人物」と、その人物に見られる「対象人物」との関係を次のように示している。

視点人物と対象人物(焦点人物)
 視点人物によって見られているのがわの人物を対象人物(とくにその中心となる人物を焦点人物)といいます。視点人物と対象人物はその描写・表現の上でつぎのようなちがいがあります。
 視点人物にたいして対象人物を主人公と名づける論者があるが誤りです。作品によって視点人物が主人公であるばあい、対象人物が主人公であるばあい、あるいは両者ともに複数的に主人公と考えられるばあいなど、さまざまです。(略)



 対象人物の内面を的確に描きだすためには、その人物を視点人物として転換(きりかえ)する方法があります。つまり見るがわと見られるがわの関係を逆転する方法です。(略)
 視点人物の条件(性格・思想。立場……)の変化・発展にともなって。対象のとらえかたが変化・発展することはもちろんです。つまり、対象人物や対象となる形象となる自然などの形象がちがったものとなってきます。

(西郷竹彦(1975) p.341−342)

このように、「視点人物」の内面はよく描かれる一方で、外面はとらえにくく、「対象人物」の外面はよく描かれる一方で、内面はとらえにくい、としている。
 このように西郷竹彦氏の視点論では、「文芸作品」を理解する場合の重要な要素として、その文や文章がどこから(誰から)、とらえられた(描かれた)ものなのか、という「視点」に注目したものである。
 今井文男(1975)『文章表現法大要』(笠間書院1975年4月)では、文章表現をおこなう表現する過程として、「視点」が関わっているとする。まず、「表現」について次のように整理する。

 何かを何かであらわすことを「表現する」という。「何かを」とは、見たこと、聞いたこと、感じたこと、考えたこと等々をさす。それを「何かで」あらわすのである。音楽は音であらわしたものであり、絵画は線や色であらわしたものである。「あらわす」とは、はっきりわかるように外に打ち出すことである。外に打ち出されたものは「かたち」をもつ。
 このことを別のことばでいいかえると、つぎのようになる。「何かを」が表現対象、「何かで」が表現手段、「あらわす」が表現行為、外に打ち出された「かたち」が作品、作品を打ち出す主体が表現主体である。表現主体は意志をもった存在であり、その意志が表現にあらわれるとき、表現意図とよばれる。あらゆる表現は表現主体の意図なしに成立される。

(今井文男(1975)『文章表現法大要』 p.1)

 次のように、人間(「表現主体」)がある「表現意図」を持って文章を表現するとき、かならず「レフ」というはたらきによって、「ひらめく」のだと説明する。

 あらゆる表現は場においてなされる。場をもたない表現はない。これは表現主体(一般的にいえば人間)が場のなかで具体的に存在しており、表現対象も同様な存在であり、しかも表現主体がその場で表現対象に志向することからくる。
 ことばは、そういう場のなかで、対象をみつめる主体の頭を通してひらめき出る。このひらめきは、反省(Reflexion)によっておこる。反省といっても倫理的な概念をさすのではない。対象をことばにひるがえす、そのようなはたらきをさしていうのである。

(今井文男(1975) p.16)

この「レフ」というはたらきについて、今井文男(1968)『表現学仮説』(法律文化社1968年12月)では、次のように五つの段階にわけて説明されている。

 まず、目の前に本の「現物」があるとしよう。机の上にその「現物」があるのである。第1のレフは、その「現物」を「本」という語で代表させることである。この場合、「本」という語が、擬態的段階や類推的段階でなく、象徴的段階であるとしても、このことはあてはまる。語は物と名とを結合させるものではないからである。「本」という語は「現物」そのものではない。語と現物との間には断絶がある。にもかかわらず語は現物を代表する機能をもっている。したがってその断絶をこえるために意識はレフせざるをえないのである。いいかえれば、代表させうるのはレフのはたらきである。
 第2は、その「現物」である「本」をいろいろに中心転換して語としてつかみとる場合である。「現物」全体のもっている表情が、部厚くて、「太っちょ(太ったひと)が汗かいている」ようにみえたり、本の大きさが細長くて薄いときは、「寂しがっている」ようにみえたりする場合(相貌的知覚)もここにふくめる。それから「現物」が聖書であったりすれば、それを「わが精神の糧」とみることもできるから、その場合は、「本」であることと同時に「精神の糧」となることが二重になって認識されることになる。

(今井文男(1968)『表現学仮説』 p.67)

 第3は、判断による意識のレフである。「現物」を「本」だと認定し、また「美しい」等々と判断するとき、「われ」の意識はどう動くかである。ここにも一次的意識と二次的意識のレフがあった。第1の場合でも、第2の場合でもこれははたらいているとみなくてはならない。
 第4は、語それ自体におけるレフである。語が物と名を結合させるものではなく、それ自体が「現物」とは別の体制であり、語事態が所記と能記のレフ構造をもち、このゆえに「意味の幅」をもちうることである。
 第5は、第1から第4までのケースの上に立って、それらのものを表現の機構のうちに整序する機能としてのレフである。それは重層的にながめられているにすぎない。それに前後軽重をつけて一行構造にまでもってゆくためにはレフがはたらかなくてはならぬ。だから、表現そのものにはたらくレフということができよう。語としてレフされたものを積みあげ(結合させ)て文とさせ、またそれらの文を積みかさねて文章とするときにはたらくレフである。

(今井文男(1968) p.68)

このように、表現主体としての人間が、現物であるモノ・コトを認識し、それを言葉として一行構造としての叙述にする際、以上のような五つの「レフ」がはたらくという。「レフ」という言葉の和訳として、次のようにも説明する。

 レフの語を使いたくなければ、反省・内省・返照・反照などの訳語に読みかえても、なんのさしつかえもおこらない。

(今井文男(1975) p.17)

今井文男氏の視点論では、その「レフ」するはたらきと、表現主体との関係性を次のように「視点」ということばで説明するのである。

 レフするはたらきが表現主体によるのは当然であるが、その主体のもともと持っている視点を原視点とすると、ref、a、b、cを生むそれぞれちがった視点は、原視点から分けられたもの、すなわち、配賦視点としてなくてはなるまい。(視点を原視点から配賦することのできるのも、じつはレフのはたらきによる。)
 配賦視点というのは、やさしくいえば、「八方に目をくばる」などというときの、くばられた目のことである。映画でひとつの物を写すのにいろいろとカメラの位置をかえてその全体の真実を写し出そうとするが、そのときの、かえられたカメラの幾つかの位置を考えてみてもよい。
 原視点はoriginalだからSo、配賦視点は原視点からallot(割りあて)されたものだから、Saと符号化する。

(今井文男(1975) p.18)

表現主体が、どのように言葉として表現するか、というときに「原視点」から「配賦」した「視点」によって「レフ」し、線条性をもつ叙述として一行に「レフ」することで、文章として「かたち」すなわち作品として成立させる、というのである。つまり、今井文男氏の視点論は、表現過程を見通した、表現論としての視点論なのである。

 視点にはいろいろある。表現主体のoriginalにもっている視点を原視点(So)、それからくばられる視点を配賦視点(Sa)とすることは既述の通りである。配賦視点がはたらくというのは、たとえばつぎのようなことを考えあわせればよい。ある書物を紹介しようという場合、<著者は?><内容は?><難易は?>などと見ていくが、その<著者は?><内容は?><難易は?>などという問う視点は、別々といわなくてはならない。しかもその別々の視点は、ある書物を紹介しようとする主体の目(原視点 So)からわけられたものである。逆にいえば、このように視点をいくつかにくばることなしには、対象をいろいろの角度から見ることができない。<著者は?><内容は?><難易は?>などいうのは、その点、くばられた視点、すなわち配賦視点であるといってよい。
 しかし配賦するといっても段階はある。段階的にくばられなくては認識は深まらない。たとえば、<難易は?>と問う場合、一般向きとしてだけではなく、高校生むきにはどうか、大学生むきにはどうか、と問う場合は、さらに配賦視点をわけて設定しているといっていいだろう。

(今井文男(1975)p.44−45)

「表現主体のoriginalにもっている視点を原視点(So)」とは、「表現主体」の広い意味での「表現意図」として言い換えが可能である。ある文章を、文章として作品にしたいと考えた「表現意図」である。その「原視点」を、どのように達成させるか、どのようにことばとして、文章作品として「かたち」にするか、という段階を「配賦視点」が担っているのである。上の引用の場合、「この本を紹介すること」が「表現主体」の「視点」=「原視点」となり、それをどのような観点・・から(著者、内容、難易度など)、どのような角度・・から表現するかという「配賦視点」によって、文章(あるいは文)となるということである。
 今井は「視点」と「文章」との関係について、次のようにも指摘する。

かんたんにいえば、文章とは、視点の見てまわりがその順序に書かれているもの、とみなしてよい。視点が見てまわるという行動によって文章はできあがっているのである。

(今井文男(1975)p.59)

このように、文章表現をおこなっていくうえでの表現過程の中に「視点」という概念を導入し説明している。その意味で、宮崎清孝・上野直樹(1985)や、西郷竹彦氏の視点論とは違った「視点」の概念であるといえる。
 宮崎清孝・上野直樹(1985)では、認知科学という観点から、「人がモノを見るとはどういうことか」、「かたちをとらえるとはどういうことか」という現実世界の「視点」のありかたとともに、「人が文学作品を読み、その作中人物の心情を理解するとはどういうことか」という文学作品を読むにあたっての「視点」について考察していた。そのなかでは、人がモノを視覚によって認知するということは、対象の「かたち」の変化の様を見ることであり、「動的視点」と「静的視点」とがあるとしていた。また、文学作品を読む際には、「なる」と「見る」という二つの働きによって、「仮想的自己を派遣する」のだとしていた。作中人物の心情そのものを理解するのではなく、その人物の「眼」を獲得することで、その人物になって作品の世界内のモノを見る。文学作品において読み手は、「見る」とともに、「なる」という双方向的な理解によって、作中人物の心情を共感的に理解するとしていた。
 西郷竹彦(1975)は、「文芸作品」において、「視点」とは「だれの眼から」、「どこから」描いているのか、という問題であるとしていた。それは、「一人称」なのか「三人称」なのか、という作品全体をどのように描くのか、という問題である。また、作中人物の「内の目」から描くのか、「外の目」から描くのか、という問題でもある。人物の内面から描くことで読み手は「同化体験」をし、外面から描くことによって「異化体験」をするとしていた。その「同化」と「異化」を繰り返すことで、「文芸作品」を読む、すなわち「共体験」するという。
 一方、今井文男氏の視点論は、宮崎清孝・上野直樹(1985)、西郷竹彦(1975)の視点論とは違い、どのように表現はなされていくのか、という表現過程の中での「視点」を構想していた。すなわち、「表現主体」の「表現意図」をどのようにすれば、文章(ことば)として成立させうるか、という問題を「視点」ということばで説明するのである。コレを表現しようという「原視点」から、「視点」を「配賦」することで「レフ」し、何度も「レフ」することにより、叙述という一行構造として成立させるのであるとする。よって、今井氏の視点論は、どのように表現するのか、「表現意図」をどのように作品として成立させるのか、という表現論にかかわるものである。どのように表現するのか、という「視点」の「配賦」という視点論は、西郷竹彦氏の視点論における「どこ(誰)から描かれているか」という問題をも含めたものであるといえよう。
 本稿では、この今井文男の視点論における「配賦」という考えを参照し、志賀直哉の初期作品を考えるてがかりとしたい。第2項では、今井文男氏の視点論と西郷竹彦の視点論を関連させたかたちで、本稿における「視点」についての用語・術語の定義をおこなうことにする。

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第2項 「視点」の定義

 第2項では、第1項でみてきた視点論についての先行研究に基づいて本稿における「視点」に関することばの定義をおこなう。
 本稿は、論文の表題にもあるように今井文男(1968)、同(1975)の視点論における「視点の配賦」という考え方に関連させて、文章作品における「視点」を考えていくことにする。本稿で用いる際の「視点」および「視点」に関することばを、次のように用いるよう定義する。

「原視点」……………  表現主体の「コレを表現したい」というときの、表現対象に対する視点である。作品における「主題」と、「表現主体」の「表現意図」である「原視点」とが混同される恐れがあるため、本稿では「主題」とする。「主題」を、どのように文章として成立させるかという問題を、「配賦視点」が担うことになる。
「配賦視点」…………
(「視点を配賦する」)
 どこ、だれに視点をおき、どの順番で構成し、どのように叙述するか。どこ、誰からみるか、ということやどのように文や語句を選択するか、という叙述のしかた、されかたにもかかわる配られる視点である。どこから(誰から)見るのか、どこに視点を置き描かれているか、という西郷竹彦氏の視点論を参考にしながら、作品の構成にもかかわる、どのように作品として作品たらしめているか、という視点のはたらきである。
 視点を配賦するというときは、その動詞形であり、「どのように視点を配っているのか」ということである。
「視点を置く」………  西郷竹彦氏の視点論で問題にされていた、「どこから」「誰から」描くのか、という問題を考えるとき、「視点の配賦」や「配賦視点」ということばではなく、「視点を置く」「視点が置かれる」と「置く」ということばをつかうこととする。「視点人物」は誰か、といった問題である。

こうした視点の配賦の問題を、叙述法とのかかわりのなかで考察していく。作品における視点の配賦を分析・考察することで、文章を成り立たせている「主題」「構成(構想)」「叙述」を考えることになろう。
 叙述法を考察するてがかりとして、土部弘氏が提案する「叙述層分析」という方法を参考に、叙述の分類分析をおこなう。「叙述層分析」については、第3節で詳しくとりあげることにする。

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第3節 叙述分析についての先行研究

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 第3節では、叙述の分類分析の参考として、土部弘氏の「叙述層」という考えをみることにする。文章は、ひとつひとつの叙述がどのように折り重なり、統一体たる文章として「層序」をなしているか、ということを明らかにすることを目的とした考え方である。
 土部弘(1986)「言語空間の仕組み―文章表現の叙述層と構成―」(『表現学大系総論篇第一巻 表現学の理論と展開』教育出版センター1986年3月)の中で、文章が「いかに成立しているか」という問題から、文章における叙述がどのように「述べられているか」という問題を明らかにするために、叙述の「層序」をとらえることが必要であると指摘する。

 文章成立(性質)論の課題「空間的全体と時間的全体」は、文章構成論の課題「結構と文脈」にひき継がれ、さらに、それは、文章様相論の課題「叙述の層序」につながる。文章表現は、叙述されて、文章作品として成りたつ。そのような「仕組まれかた」は、そのような「述べられかた」によって文章作品に定着している。そのような「ものごと」やその「とらえかた」のありようは、そのような「記述・描写」や「説明・評釈」のありようによって、叙述面に「層序」をなして顕現されている。

(土部弘(1986)「言語空間の仕組み――文章表現の叙述層と構成――」
『表現学大系総論篇第一巻 表現学の理論と展開』)

そして、叙述は次のように体系をなしているとする。次の引用は、土部弘(1995)「小説表現における叙述層の重層構造」(『国文学』第73号関西大学国文学会1995年2月)によるものである。

表現主体は、ある「ものごと」をある「とらえかた」でとらえて表現するが、「ものごと」のありように即して表現する場合と、「とらえかた」のありように即して表現する場合とが、見分けられる。「叙述」は、そのような表現方法に即して、「ものごと」本位の「対象表現」である(一)「(広義)記述」と、「とらえかた」本位の「叙述者表現」である(二)「(広義)説明」とに、二大別され、それぞれは次表のように細分される。
 (一)「(広義)記述」は、「事態」(ものごと)を個別的・細密的に詳述する(1)「描写」と、事態を一般的・概括てきに略述する(2)「(狭義)記述」とに、識別される。小説や芸術的随筆の主要部分は(1)「描写」であり、新聞社会面記事の主要部分は(2)「(狭義)記述」である。また、(二)「(広義)説明」は、「事態」(ものごと)を分析・総合して内部の要素を相互関係によって位置づけたり、その事態を外部の事態と関係付けたりすることによって、「事態」の存立事情を「解明」する、という(3)「(狭義)説明」と、事態を客観的・主知的に「解釈」して意味づけたり、事態を主観的・主情的に「評価」して意味づけたりすることによって、「事理」を「究明」し、「見解」を「表明」する、という(4)「評釈」とに、識別される。「説明文」「解説文」の主要部分は(3)「(狭義)説明」であり、「論説文」「評論文」の中心部分は(4)「評釈」である。

(土部弘(1995)「小説表現における叙述層の重層構造」『国文学』第73号)

ここににある「次表」とは、右の図表を指している(土部弘(1995)より引用)。さらに小説をはじめとする「芸術的文章」については次のように区分されるという。

 一方、「物語文」「小説文」などの「芸術的文章」は、「人物(性格)」「環境(背景)」「事件(行動)」などによって構成される。通常、「話題」を担う「人物」すなわち主人公や福主人公の行動・状態が「話題」の「事態」として設置され、その「事態」に対する「説明」や「評釈」が配置される。したがって、「対象表現」が上層(上部構造)に位置し、「叙述者表現」が下層(下部構造)に位置する。通常「人物描写(記述)」「事物描写(記述)」「説明」「評釈」という「叙述層」によって構成される。細分すれば、主要部分の「人物描写(記述)」は「談話描写(記述)・動態描写(記述)・静態描写(記述)・心理描写(記述)」というように、ものごと本位の描写(記述)ほど、より上層に位置して、四分(八分)される。同様に、「事物描写(記述)」も、「動態描写(記述)・静態描写(記述)」というように二分(四分)される。


(土部弘(1995))

 このように叙述を細分化し、「芸術的文章」と「論理的文章」との叙述の「層序」のありかたが、「対象表現」「叙述者表現」が逆転してみられるとしている。
 次に、その分析方法について、具体例をあげておこう。次の引用は、最初に引用した土部弘(1986)である。分析の具体例として下の芥川龍之介の『蕗』をとりあげている。作品『蕗』文文の引用が孫引きになってしまうが、土部(1986)の分析と下の本文とを切り離して引用することは、具体例の紹介として意味を成さないため、芥川龍之介の作品の原典にはよらずに、土部弘(1986)のものをそのまま引用した。

T @坂になった路の土が、のように乾いている。A寂しい山間の町だから、路には石塊いしころも少なくない。B両側には古いこけらふきの家がひっそりと日光を浴びている。
U C僕等二人の中学生は、その路をせかせか上っていった。Dすると、赤ん坊を背負った少女が一人、濃い影を足もとに落としながら、静かに・・・坂を下ってきた。E少女は、袖のまくれた・・・・・・手に、茎の長いふきをかざしている。F何の為かと思ったら、それは、真夏の日光が、すやすや寝入った赤ん坊の顔へ当たらぬ為の蕗であった。G僕等二人はすれ違う時に、そっと微笑を交換した。Hが、少女それも知らない・・・・・・・ように、やはり静かに通りすぎた。
V Iかすかに頬が日に焼けた大様の顔だち・・・・・・・・・・・少女である。Jその顔が未だにどうかするとはっきり記憶に浮かぶことがある。(芥川龍之介「蕗」)


(土部弘(1986))

 本文に書き込まれている文番号(@、A、B…)、三種の下線、傍点・ルビ等は、全て土部弘(1986)によるものである。以上のように作品とその分析図表によって、次のように作品を考察している。

「寂しい山間の町」の「静態描写」を背景にして、作者の分身である「ぼく(ら)」(視点人物)にそっと「微笑」を交換させた、話題の人物「少女」の「動態描写」「静態描写」が織りなされ、一小事件が展開される。そして、その後に、「少女」の顔が「未だにはっきり記憶に浮かぶ」という後日談が付加される。
(略)
 物語文・小説文においては、いわゆる「主人公」が、話題の人物として「題目」を担うばあいが多い。主人公の「少女」の「動態描写」層「静態描写」層のDEHを、一文に収束すれば(1)「少女が、赤ん坊をかざして、静かに坂を通りすぎた。」となるであろうか。ところが、(1)は「話題文」ではあっても、「主題文」とはみとめられないであろう。(1)では、作者が事態をそのような思いでとらえ(感じとり)、深く印象づけられていたであろうものが、ほとんど捨象されてしまっている。それを叙述面にひるがえして、(1)を叙述しなおす、とすれば、(2)「少女が(題目)、赤ん坊をかざして、静かに坂を通りすぎるのを見て(説述)、ほのぼのと心温まるもの(素朴で無心な愛情)を感じた(趣意)。」となるであろうか。
 「ほのぼの心温まるもの(素朴で無心な愛情)」というのは、作者の分身である「ぼく(ら)」の「微笑」を誘った赤ん坊への思いを注いでいる動態描写・静態描写」における「喚情的意味」を、収束し(概念化し)て、叙述しなおしたものである。表題(タイトル)の「蕗」は。そのような「趣意」の象徴であろう。

(土部弘(1986))

このように、「叙述層」の分析とは、叙述がどのように有機的に層となって文章を成立させているか、ということを明らかにするための分析であり、図表であると言える。この「叙述層」のなりたちを見ることで、作品の主題や構成といった問題をも含んだ分析が可能となる。この「叙述層分析」が優れているもう一つの点は、対象作品や研究目的に即して応用させることができる点である。分析対象とした作品の何を明らかにするのか、という目的に応じて、叙述の下位区分を再考することができるという流動性と可能性をもった分析方法でもある。
 本稿では、この土部弘氏の「叙述層」という考え方に基づき、叙述の分類分析をおこなうことで、志賀直哉の初期作品における叙述法を考えるてがかりとしたい。その際、作品の内容に即した分類項目を考え、作品ごとに違った項目を立てることにする。
 なお、土部弘(1986)では、縦書きで、図表の横軸に叙述の区分が、図表の縦軸に叙述の展開(文)が配置され、叙述が右から左へと展開するようになっている。これは、「芸術的文章」における叙述を「上部構造」=「対象表現」、「下部構造」=「叙述者表現」と構成されている前提によるものである。しかし、本稿では、横書きで、図表の横軸(列)に叙述の分類項目を、図表の縦軸(行)にして、上から下へと叙述が展開するように配置する。これは、船所武志(2001)「要約類型と主題文型――芥川龍之介『ピアノ』を原文章として――」(『国語表現研究』第9号1996年3月)でこころみられている芥川龍之介の『ピアノ』を分析した叙述層の図表を参考にしたものである。
 これら第1章で整理してきた先行研究を踏まえて、続く第2章において実際に志賀直哉の初期作品の分析をおこなうことにする。

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第2章 初期作品の分析と考察

第1節 『或る朝』における視点の配賦と叙述法

第1項 『或る朝』の先行研究

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 『或る朝』の分析・考察をおこなう前に、まず『或る朝』についての先行研究をみていくことにする。そのあと、第2項ではそれらの先行研究を踏まえたうえで、『或る朝』の梗概、場面構成について整理する。第3項では、第1項、第2項の内容を踏まえて、叙述の分類分析の項目を決定する。そして第4項で、その分析結果をもとにした考察をおこない、第5項で、考察結果をもとに『或る朝』特徴的な叙述について考察していき、最後の第6項で作品における視点の配賦と叙述法をまとめる、という手順を踏むことにする。この順序は、第2節『網走まで』、第3節『剃刀』の分析・考察でも同様である。
 赤木俊(1944)「私小説作家としての志賀直哉」(『志賀直哉研究』河出書房1944年6月)では、志賀直哉の作品に共通する四つの段階を「処女作」である『或る朝』に見出している。
 『或る朝』において、何度も起こしに来る「祖母」に対しての、「信太郎」の「立腹」という感情が、作品の契機となっていることから、これを「反撥」と呼ぶ。そして、「祖母」と口喧嘩になり、床の中で「祖母」を心配させて、困らせようと思案する段階を「葛藤」とする。そして「祖母」とのやりとりによって涙を流す段階が「和解」。最後に弟妹たちの部屋で会話を交わす段階が、「調和」である。『或る朝』におけるこれらの四段階があることを踏まえたうえで、次のように指摘する。

以上のごとく反撥、葛藤、和解、調和といふ四段階の過程を想定することから、私小説作家としての志賀直哉の本質をときほぐすための手掛かりがえられるのではあるまいか。もちろん、本質といつても、静止せるものではなく、成長し変化する動的なものである。あるときは葛藤の要素が大きくなり、あるときは和解の要素が強くなり、またほかのときには調和の比重がいちじるしく増えるといつた具合に、それぞれの時期におけるうつりかはりはあるにしても、この四段階の過程が、それぞれの仕方で、個々の作品をつらぬいてゐるのである。

(赤木俊(1944)「私小説作家としての志賀直哉」『志賀直哉研究』
(本名は「荒正人」。
引用は「日本文学研究資料叢書 志賀直哉」有精堂出版1970年6月))

さらに、この四つの段階が志賀直哉の作品の前期における「私小説」の典型であり、作家・志賀直哉はこの有無によって前後期で大きく二分されるという。

きはめて大きく概括して、反撥、葛藤、和解、調和といふ過程のなかに「私」の世界をいとなんでゐたこれまでの時期を、いまかりに前期とよぶことにしよう。これに反して、後期は、最後の段階たる調和のほかはこれを作品のそとへ追放してしまひ、さうすることによつてえられた心境を「私」の核心に据ゑようとつとめる時期である。前者が本来の意味における私小説であるとすれば、後者は、それが変貌して心境小説になつてゐるのだといへよう。

(赤木俊(1944))

そして、『或る朝』と長編の『暗夜行路』とに次のような関係性を見出している。

その観方からすれば、一応は異例と考へた「暗夜行路」は、「或る朝」の原型が極限にまで拡大したものであつて、その結末近い箇所などは、この時期の本質と密接につながるものである。

(赤木俊(1944))

ともすれば、力点をこの時期の調和の面においたうへで、私小説作家志賀直哉が云々されがちなのだが、わたくしは、それを心境小説として、本来の私小説の解体現象だと考へる。それ故、私小説作家としての志賀直哉を素描するにあたつては、反撥と葛藤をつよく押しだした前期の純粋な小説をとくに重く視る。うけつぐべき精神はむしろそのなかにあるのではないか。

(赤木俊(1944))

以上のように、この「反撥」「葛藤」「和解」「調和」という四段階が、「私小説作家志賀直哉」を考えるうえで重要であるとしている。
 町田栄(1972,c)「志賀直哉の文学形成考(三)――三処女作の検証――」(『文学』40巻3号岩波書店1972年3月)では、『或る朝』が完成に至る経緯を考察し、作家・志賀直哉と関わらせて論じている。

「非小説、祖母」は「お婆さんとの喧嘩」を扱いながら、題名の示す如く、その経過の内に、志賀が切実に感得した祖母への愛情をモチーフとする。祖母を主人公とし、「私」志賀が愛憎を語ったものであろう。志賀の朝の寝起きの悪さ、我儘勝手をめぐって、叱責する祖母と反抗する孫との口論から仲なおりまでを漸層的に描く、「喧嘩」は、志賀家内で最も赤裸裸になり得る両者間の、粗野な感情の生理にまかせた、客観的には無意味な寸劇である。しかし、この寸劇は無意味ゆえに、むき出しの感情を蕩尽しても、さわやかな清涼感を分かち合える性質を持つ。

(町田栄(1972,c)「志賀直哉の文学形成考(三)――三処女作の検証――」
『文学』40巻3号)

このように、『或る朝』は、志賀直哉自身が「切実に感得した祖母への愛情をモチーフ」としていることを指摘する。また、それが自身の家庭内での出来事を描いた作品であるため、「客観的には無意味な寸劇」であるがゆえに、「むき出しの感情を蕩尽しても、さわやかな清涼感を分かち合える性質を持つ」と指摘している。
 『或る朝』の冒頭で、「祖母」と「信太郎」との対立が、すでに両者の対立を予感させるものであることを確認し、朝を迎えた二人のやりとりについて次のように指摘する。

 祖父直道の法要を営む日の朝、六時に主人公は祖母に起こされる。幾度となく寝室に来て、信太郎に声をかけては忙しく出ていく祖母には、いかにも法事一切の宰領者たる姿がりりしい。二、三十分の間に三度部屋を出入りする祖母と、主人公との対応は見事な序破急の諧調をもって進行する。

(町田栄(1972,c))

この「序破急の諧調」をもったやりとりのなかに、「信太郎」の弟妹たちのやりとりが描かれていることについて、次のように分析する。

しかし、信三と芳子とのふざけ合う言葉は、起きろ起きないと「何遍も同じ事を繰り返し」言い争った信太郎の苦い内心を、反証するのに効果的である。弟妹たちは内心を照らす鏡であり、祖母は主人公の外貌を映す鏡である。主人公は祖母から先ず見られ、叱責され、常に受身に或いは後手になって反発する。志賀の自己凝視のメカニズムが、これである。二面の鏡に映し出された信太郎は、つまらぬ意地と虚勢を張っているが、内心は小心な孝行者である。

(町田栄(1972,c))

この弟妹たちのやりとりが、「祖母」と「信太郎」とのやりとりを反証するものとして位置づけられているという。そして、赤木俊(1944)の言う「和解」が成立した後の、作品の最後の部分について、次のように考察する。

 最後に、信太郎は寝部屋を出て、隣の子供達―前掲の、主人公の「不安」を掻き立てた弟妹点景部とは対照的に描かれる―に入って、嬉戯する中に溶け込む。志賀の家族愛への回帰する心情方向は確定的である。(略)―「和いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た信太郎」は、志賀の非情な自己凝視から検出した自画像である。孤独を保って、内に諦念と外に静謐調和を漂わせている姿である。家族的恵福の状態が、作家の嬉々と自覚され、自己を律し、孤独を求める心情から生み出されたものである。いわば、和解後半歳を経た志賀の現況にぴったりと重なり合う。

(町田栄(1972,c))

この「和いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た信太郎」という「内に諦念と外に静謐調和を漂わせている姿」に、「和解後半歳を経た志賀の現況」を見出している。ゆえに、この『或る朝』を完成は、「非小説、祖母」が書かれた時期(明治41年1月14日(1908年))ではなく、『或る朝』として発表された時期(大正7年3月(1918年))であると推測している。
 須藤松雄(1976)『近代の文学 志賀直哉の文学(新版)』(桜楓社 1976年6月)では、『或る朝』について詳細に考察をこころみている。まず、『或る朝』における人称の問題について次のように確認する。

 この小事件は、どういう側面を主として形成されているか。青年には信太郎という名が与えられ、一応、三人称の形になっているが、実質的感銘からいえば一人称であり、作者自身であって、この信太郎の見たり感じたりしたものとして祖母の交渉がしるされる。

(須藤松雄(1976)『近代の文学 志賀直哉の文学(新版)』 p.20)

さらに、志賀直哉の作品には「作者の生の絶対的な倫理」が存在することを指摘し、それが志賀直哉の作品には志賀直哉自身を題材にしたものが多いのであると説明する。

 志賀文学の基底に生動しはじめた人間像は、作者自身の生きる原理であり、この作者の絶対的な倫理である。もちろん作者が、実生活のあらゆる瞬間に、この人間像の最高の状態を実現しているなどというのではない。しかしこの最高状態への志向を常に内蔵し、時に臨んでこの最高の状態を実現し、作者もそういう自分の状態を肯定して疑わないという意味で、この作者の生の絶対的な倫理なのである。この人間観を蔵し、その高い価値を発揮して生きるのは、特に作者自身であるから、志賀文学では、作者自身を描くことが基本的な方向になる。

(須藤松雄(1976) p.23)

 要約していえば、その経験をもう一度生きることにおいて描くのである。もちろん、記憶された印象を、現在の自分とは遠く離れたものとして静かに観照しつつ描くというような、志賀文学とは違った行き方の描写においても、その記憶された経験を、何らかの程度、何らかの仕方でもう一度行き直すという契機が働いていなければ、それは成り立たない。しかし、志賀文学の場合には、そういう一般的な、なまやさしい程度ではなくて、文字どおりもう一度生き直すのである書かれる経験が、感情、行動統一体として、強烈、純粋に生きることを原型とするものであるから、生き直すのも、そのような生を生きるのである。それはもちろん、原稿用紙に一字一字書き進みつつ心の中で生きるのであるが、だからといって、現実の生より影が薄いというようなものではない。志賀文学とは限らず、どの芸術家でも、現実に生きる場合よりも、それを表現しつつある場合の心の中の生は、影が薄くなるどころか、強化、純化され、より高度に凝集しているはずであって、それであってはじめて芸術作品を結晶させることができる。

(須藤松雄(1976) p.24)

このように、志賀直哉の作品は、志賀直哉自身の体験した出来事を「文字どおりもう一度生き直す」ことによって作品として成立するのだという。

作者自身の経験を書くのではなくて、他人の経験した事実や、想像のことがらを書く場合でも、創作主体が一人物に入り込み、いきいきした感情、行動統一体として生きることに即して、それを形成する場合、作中人物は、作者からいっての一人称的実質のものになりがちであろう。まして、作者自身が、感情、行動統一体として生きた経験を、右のような創作主体としてしるせば、信太郎、大津順吉などと三人称らしく名づけられていても、作者からいっての一人称的実質を備え、作中の他の人物は、この一人称的人物の生に入ってくる限りにおいて描かれ、対等の資格で存在するものとしては描かれにくいということになる。

(須藤松雄(1976) p.36)

「文字どおりもう一度生き直す」ことで作品を成立させるため、たとえ三人称小説であっても、「一人称的実質」をそなえた作品になるという。

その信太郎の生は、作者から見ての一人称的実質の感情、行動統一体として展開されているが、最後の部分でその点が変わっている、それは『和いだ、然し少し淋しい笑顔で立つて居た信太郎が、「西郷隆盛に髭はないよ」と云つた。』という箇所である。明らかに信太郎は、信太郎から離れた作者によって、外からながめられている顔の表情が描かれて(それも「淋しい」という形「信太郎」も、それまでの一人称的実質から三人称的実質に変わって、弟妹たちと同列にならんでいる容詞などを使って)、。この変化は、たとえば作者がうっかりして、このように不統一になったというようなものではない。この作者の創作主体の本質から見て自然な、必然的な変化なのである。

(須藤松雄(1976) p.37)

『或る朝』の最後の「和いだ、然し少し淋しい笑顔で立つて居た信太郎が、」という一文が、「外からながめられている顔の表情が描かれて」いることに着目して、「それまでの一人称的実質から三人称的実質に変わって、弟妹たちと同列にならんでいる」という。このように「調和」が成立したことを、「一人称的実質から三人称的実質」へという人称の変化にみているのである。
 寺本喜徳(1989)「志賀直哉の文章」(『表現学体系各論篇第一一巻 近代小説の表現三』教育出版センター1989年1月)は、『或る朝』について、作品の冒頭部と結末部に着目して論じている。

 祖父の三回忌の法事のある前の晩、信太郎は寝床で小説を読んで居ると、並んで寝て居る祖母が、
 「明日坊さんのおいでなさるのは八時半ですぞ」と云つた。

(『或る朝』『志賀直哉全集第一巻』岩波書店1998年12月)

『或る朝』の冒頭第1文が、「祖母が」「云つた」にもかかわらず、「信太郎は」と叙述されていることについて、次のように指摘する。

 作者自身でもある「私」が、作者の意識の中で既に場面に登場している人物として取り扱われているところに「非小説、祖母」の名残を認めてもよいであろう。「或る朝」の主人公には一応「信太郎」という固有名詞を与えている作者自身と切り離そうとしているが、彼は限りなく「私」に近い人物である。
 読者をいきなり小説場面の真直中に連れ込むために、新しく登場する人物を「は」でもって表示する方法が採られることがあるが、「或る朝」におけるそれは、そういう効果を狙った意識的な叙述とは思われない。

(寺本喜徳(1989)「志賀直哉の文章」
『表現学体系各論篇第一一巻 近代小説の表現三』)

須藤松雄(1976)でも「一人称的実質」を備えていると指摘していたが、寺本喜徳(1989)でも同じように「信太郎」は「限りなく「私」に近い人物」としている。一方、作品の結末部の「信太郎」についての描写で、「和いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た信太郎が、」となっている点について、次のように指摘する。

(略)信太郎は、突如として見る主体から見られる対象へと位置を変える。ここでは、信太郎は弟妹達と同列に配され、彼等の弾んだやり取りに加わっている人物へと退いている。この部分はむしろ「信太郎は」とあるべきところが、「信太郎が」とあらためて表示し直して、彼を弟妹達と同等に見る作者の存在を明らかにしているのである。信太郎と祖母との小さな対立の芽を紹介した一編の序奏部においては、主人公と作者との癒着を露呈させていたが、終局部においては、ほとんど意識的と言っていいほどに、作者は主人公との間に距離を設け、突き放している。この場面は、「或る朝」では重い意味を持つことになる。

(寺本喜徳(1989))

この引用部で、「信太郎と祖母との小さな対立の芽を紹介した一編の序奏部においては、主人公と作者との癒着を露呈させていた」とは、冒頭第1文が「信太郎は」となっていることを指している。冒頭の第1文と対照して、「信太郎が」となっていることから、「彼を弟妹達と同等に見る作者の存在を明らかにしている」という変化を指摘する。それまで「信太郎」の内面に置かれていた視点が、この一文により、他の作中人物と「作者」の位置まで後退しているということであろう。さらにこの視点の変化を次のように意味づける。

 生理と心理の自然を取り戻した信太郎が閉じた世界から広い世界へ出ると同時に相対化され、拡大して映し出された意識の内部は一気に消し去られる。それまで、刺激に対する反応という形で外界を内化し続けていたのを、自己の外在化へと急転させて終わる。信太郎が外界に放たれると同時に読者も解放される。

(寺本喜徳(1989))

このように、「閉じた世界から広い世界へ出る」ことを示す変化であるとする。『或る朝』については、次のようにまとめている。

 「或る朝」は、我の強い一青年の気質の劇を描いたものというふうに要約できよう。しかし、その気質の劇は、生理や心理の自然に従って生きようとする生の構造の上に、それが阻害された時の不快な気分を攻撃的な方向へと増幅させようとする意識の作用をかぶせた二重構造を持っているのである。
 作者志賀直哉は、ある朝の直哉自身の直接体験に材を取るに当たって、単位体験そのものを写生的に叙述するのではなくて、意識の内部を対象化して、気質のもたらした出来事をまさに劇たらしめようとしているのである。直哉は。不快感や怒りといった負のエネルギーの加速度的な増幅が、新しい行動のエネルギーに転化し、その瞬間に生の充実を実感できることをよく知っていた。「或る朝」はそういう自己の対象化を試みようとした作品であった。

(寺本喜徳(1989))

このように、寺本喜徳(1989)では、『或る朝』の主題は、「我の強い一青年の気質の劇を描いたもの」であり、その「青年」の心理の変化というものは、「それまで、刺激に対する反応という形で外界を内化し続けていたのを、自己の外在化へと急転させ」るという変化であると、結論付けているのである。
 また、先の第1章第1節志賀直哉の先行研究でも取り上げた、谷口節子(1977)「「或る朝」にみえる志賀文学の原型」(『武庫川国文』第11号 1977年3月)でも、寺本喜徳(1989)と同様の考察をこころみている。寺本喜徳(1989)とは、論文の発表年月の順序が前後してしまったが、最後に引用して確認しておく。

明らかに信太郎=作者自身でなくなり、信太郎から分離した作者によって信太郎の顔の表情が描かれ、今までの一人称的存在から三人称的存在に変わって弟妹と同じ位置におかれているのである。

(谷口節子(1977)「「或る朝」にみえる志賀文学の原型」
『武庫川国文』第11号)

上の指摘は、「和いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た信太郎が、」という作品の結末部についての言及である。その変化について、次のように指摘する。

「反発」が終わり「和解」「調和」の域に達すると、感情・行動統一体としての自我を貫く生も静まり、と同時に創作主体の働きも静まり「静」の境地に入る。そうなれば信太郎は元来の三人称的存在に戻るのであり、作者はある一定の距離をおいて信太郎の世界をみることになる。

(谷口節子(1977))

このように、「「反発」が終わり「和解」「調和」の域に達すると、感情・行動統一体としての自我を貫く生も静まり、と同時に創作主体の働きも静まり「静」の境地に入」ったことによって、「和いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た信太郎が、」という「三人称的存在に戻る」という。この谷口節子(1977)における、『或る朝』の結末部の考察は、須藤松雄(1976)や、寺本喜徳(1989)と共通点をもっていると言えよう。
 以上のように、『或る朝』についての先行研究をみてきた。赤木俊(1944)では、『或る朝』の「信太郎」がたどる心理を四つの段階を、「反撥」、「葛藤」、「和解」、「調和」として、志賀直哉の作品に共通する過程をとらえていた。そこに「私小説作家」としての志賀直哉を見出していた。
 町田栄(1972,c)では、「祖母」と「信太郎」とのやりとりとともに、弟妹たちの描写が「信太郎」の「内心を照らす鏡」であり、「つまらぬ意地と虚勢を張っているが、内心は小心な孝行者である」という「信太郎」の人物像を指摘した。そして、「和いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た信太郎」という描写から、「内に諦念と外に静謐調和を漂わせている姿」を見出し、『或る朝』の成立を推測していた。
 須藤松雄(1976)では、「信太郎」という三人称で呼称されながら、「実質的感銘からいえば一人称」であると確認する。だが、「和いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た信太郎が、」という叙述によって、「一人称的実質から三人称的実質に変わ」るとして、そこに「調和」が成立した事を見出していた。
 また、寺本喜徳(1989)では、冒頭の第1文が「信太郎は」と、構文上不自然であるのに対し、結末部の「和いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た信太郎が、」という叙述は「信太郎が、」となっていることに着目する。そして、その変化とは、「閉じた世界から広い世界へ出る」という寝床のある部屋を出ることと、意識が「外界を内化し続けていたのを、自己の外在化へと急転」するという変化であると説明していた。また、谷口節子(1977)でも、同じ叙述について、「「反発」が終わり「和解」「調和」の域に達すると、感情・行動統一体としての自我を貫く生も静まり、と同時に創作主体の働きも静まり「静」の境地に入る」という変化を見出していた。
 以上のように、先行研究では、『或る朝』において「信太郎」の内面の過程が重要であり、作品の主題と密接にかかわるものであるという点は共通していたといえる。その一方で、「和いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た信太郎が、」という叙述が、作品を考えるうえでどのような意味があるのか、という点を重要視していた。これらについて、第4項以降で実際に分析・考察していく。
 次項の第2項では、その前段階として、先行研究を踏まえたうえでの『或る朝』の梗概、場面構成について整理することにする。

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第2項 『或る朝』における場面構成

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 叙述分析の分類項目を決定する前に、『或る朝』の梗概と場面構成について考えておきたい。分類項目は、作品の何を明らかにするのか、作品の主題はどのようなものか、といった問題にかかわっている。叙述の分類といっても、作品に即した分類項目でなければ、作品の主題を明らかにすることにつながらない。そこで第2項では、前項でみた先行研究を踏まえながら、作品のおおまかな流れと、場面の構成について整理しておく必要があろう。その後、第3項で、実際に叙述の分類項目について、決定することにする。
 「信太郎」は祖父の法事の前の晩、小説を読んでいると「祖母」に寝るように促される。「信太郎」はそれにかまわず読み続ける。「祖母」が寝てしまい、「信太郎」も眠気を感じるのが、夜中の一時過ぎだった。「信太郎」は漸く眠りにつく(場面T)。
 翌朝(法事当日)、「信太郎」が寝ていると、「祖母」が起きるように促す。「信太郎」は眠気のあまり、生返事をするがまた眠りにつく。再び「祖母」が起こしに来ると「信太郎」はすぐに起きるような素振りをみせて「祖母」を追い返す。三度目に「祖母」が起こしに来ると、「信太郎」は腹を立てて、「わきへ来てそうぐづ/\云ふから、尚起きられなくなるんだ」と「祖母」に言い放つ。「信太郎」はこのやりとりによって、眼が覚めてしまうが、今度は「祖母」に腹を立て、起き上がろうとしない。「祖母」が起こしに来なければ起き上がろうか、思案する(場面U)。
 「信太郎」は隣の部屋にいる弟妹たちの声に耳を傾ける。いつもは寝坊の「信三」は、妹たちと何度も同じやりとりをして遊んでいる(場面V)。
 再び「祖母」が起こしに来る。しかし、「信太郎」は起こされることによって、余計に起きられなくなる。「信太郎」に手伝わせようと、部屋で布団をたたみ始めた「祖母」だったが、「信太郎」は黙って見ている。たまりかねた「祖母」は、「不孝者」と怒鳴る。しかし「信太郎」も「年寄の云ひなり放題になるのが孝行なら、そんな孝行は真つ平だ」と言う。その言葉で「祖母」は泣きながら部屋を出て行く。もう起こしに来ることはないと思った「信太郎」は、漸く起き上がる。着がえながら「信太郎」は、さらに「祖母」を困らせようと諏訪にスケートに行くことを思いつく。そんなことを考えていると、今までのやりとりを忘れたような顔をして「祖母」が再び部屋に入ってくる。坊さんに書いてもらう卒塔婆のための筆を探しに来たという。「信太郎」は、自分の買って来た筆ではなく、父親の筆を使うように言う。「祖母」は、言われるがままに部屋を出て行く。「信太郎」は急に可笑しくなり、布団をたたみながら涙を流す。そしてすがすがしい気分になる(場面W)。
 部屋を出た「信太郎」は、隣の部屋にいた「信三」たちへ「和いだ、然し少し淋しい笑顔」を見せる(場面X)。
 以上のように要約することができる『或る朝』は下のように5つの場面に区切ることができる。表内の文番号とは、資料として添付した『或る朝』本文の文番号を指している(作成は田)。

表: 『或る朝』の場面構成表
場面番号 文番号 場面 場面の梗概
場面T 1〜12 前の晩のやりとり 「祖父の三回忌の法事のある前の晩」、「祖母」と「信太郎」が隣同士で寝ている。「祖母」が、小説を読んでいる「信太郎」に早く寝るように促す。
場面U 13〜49 「祖母」とのやりとり@ 法事がある翌朝(「明治四十一年正月十三日」)、「信太郎」が「祖母」に起こされる。三度「祖母」が起しに来るが「信太郎」は起きようとしない。
場面V 50〜53 隣の部屋の様子 「信太郎」が寝ている隣の部屋での二人の弟妹がはしゃいでいる様子。同じようなやりとりを繰り返している。
場面W 54〜122 「祖母」とのやりとりA 再び「祖母」が「信太郎」を起しに来る。やがて「祖母」は「信太郎」に怒るが、「祖母」との何気ないやりとりに、「信太郎」は涙を流し和解する。
場面X 122〜131 隣の部屋での弟妹たちとのやりとり 起きた「信太郎」が部屋を出て、隣の部屋へと行く。「信太郎」は、隣の部屋の「信三」ら弟妹とやりとりする。

 このように整理すると、『或る朝』の大部分は、「信太郎」と「祖母」とのやりとりが展開されることが明瞭になろう。「信太郎」が「祖母」とのやりとりによって、起き上がり部屋を出るまでの微妙な心理の過程を描いていると言える。赤木俊(1944)では、『或る朝』の「信太郎」の心理に、「反撥」「葛藤」「和解」「調和」という志賀直哉の作品に共通した心理の過程を見出していた。『或る朝』を考えるうえで、「信太郎」の心理変化の過程を考えないわけにはいかない。逆にいえば、一度「祖母」に反発した「信太郎」がどのようにして部屋を出るに至るのか、という心理の過程を見ることが、作品を明らかにすることになるといえるだろう。
 一言で「心理」といっても、『或る朝』の「信太郎」の内面は、一様ではない。もともと眠たいだけだった「信太郎」の起きられない理由は、何度も起こしに来ることで「祖母」への「反撥」に変わる。「祖母」を追い出し布団から起き上がったあとも、「信太郎」は「祖母」をいかに困らせるかと考える。そして「祖母」とのやりとりによって、一気に「和解」へと変化していくのである。これらの経過は、単に内面の変化だけではなく、内面の質的な変化も起こっている。即ち、生理的な欲求である眠気、「祖母」に対しての反撥、いかに困らせようかという思考、といった変化である。
 叙述を分析する場合においても、こうした「信太郎」の心理の変化をとらえるためには、内面の質的な変化をもとらえる必要がある。
 これらのことを踏まえて、次に叙述の分類するための項目を考える。

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第3項 叙述の分類分析の項目

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 第1章第3節でみたように、土部弘(1986)でこころみられている叙述層分析の方法を参考にして、『或る朝』を分析・考察するために有効な分類項目を決定する。なお、論文構成上は、演繹的に項目を決定するような順序になっているが、実際に項目を考える際は、何度も項目を立てては項目を再考する、という作品に即した帰納的な順序によって決定した。
 まず、「叙述者」に即した「叙述者」の主観性を伴う叙述と、対象に即した、より客観的な叙述とを識別し、それぞれを「叙述者表現」と「対象表現」とに二別する。
 さらに「叙述者表現」には、より客観的で「対象表現」の補足説明として叙述される「説明」と、より「叙述者」の主観性を帯びた「解釈」、そして「叙述者」からの主観的な「評価」とに下位区分されうる。しかし、『或る朝』には、「叙述者表現」そのものが少なく、作品を考えるうえで下位区分する必要はないと判断し、「説明・評釈」として一括した。
 「対象表現」は、人物について描写された「人物描写」と、事物について描写した「事物描写」とに下位区分されうる。だが、『或る朝』については、分析した結果「事物描写」に相当する叙述がないため、設けない。しかし、場面のいま・・ここ・・を設定するための「場面設定」の叙述がある。よって、「対象表現」は、「場面設定」の叙述と、「人物描写」の叙述とに下位区分する。
 「人物描写」は、作品の中心となる作中人物の「信太郎」と、それ以外の「祖母」や弟妹たちの「人物描写」とを区別した。「人物描写」のそれぞれの下位には「談話描写」・「行動描写」・「状態描写」・「心理描写」を設けた。「談話描写」は、直接話法(一重鍵括弧(“「”“」”))による人物の会話の描写である。「行動描写」とは、人物の動態的な行動や動きが描写されたものである。その人物の意識的な行動だけではなく、人物の動作に関するものはすべてこの叙述となる。「状態描写」とは、人物の静態的な様子や容姿が描写されたものである。服装などの描写は「状態描写」である。「心理描写」とは、人物の内面を描写したものである(「心中描写」)。
 『或る朝』において、「信太郎」の内面の過程が主題と関わる重要なものであるため、「信太郎」の「心理描写」については、さらに「感覚」・「心情」・「思考」という三つに下位区分する。「感覚」とは、「信太郎」の五感をはじめとした身体感覚によって認知されたことを描写した叙述である。「心情」とは、「信太郎」の非言語的で抽象的な感情を描写した叙述である。「思考」とは、「信太郎」の言語的で具体的な理知を描写した叙述である。
 以上の分析項目を箇条書きにまとめると次のようになる。(例)としたものは、『或る朝』における、その項目の叙述の具体例である。文番号、部分番号は添付した資料の本文と同様のものである(作成は田)。下線部があるものは、その下線部のみがその叙述である(下線は田)。原文にあるルビは外した。

「叙述者表現」… 「叙述者」に即した主観的な表現。
「説明・評釈」… 「叙述者」によるより客観的な「説明」「評釈」の叙述。
(例)24お写真と云ふのは其部屋の床の間に掛けてある擦筆画の肖像で、信太郎が中学の頃習った画学の教師に祖父の亡くなつた時、描いて貰つたものである。
 
「対象表現」…… 叙述されることがらに即した、より客観的な表現。
「場面設定」…… 場面のいま・ここを設定する叙述。
(例)13(a)翌朝(明治四十一年正月十三日)(b)信太郎は祖母の声で眼を覚した。
「談話描写」…… 直接話法によって抜き出された各作中人物の会話の描写。
(例)「5それ迄にすつかり支度をして置くのだから、今晩はもうねたらいいでせう」
「行動描写」…… 人物の動態的な動作、動きの描写。
(例)18さう云つて祖母は部屋を出て行つた。
「状態描写」…… 人物の静態的な様子、容姿の描写。
(例)25黙つている彼を「さあ、直ぐ」と祖母は促した。
「心理描写」…… 「その他の人物」についての内面の描写。「信太郎」の「心理描写」は、すべて以下の三つに下位区分にする。
(例)73祖母は信太郎が起きて手伝ふだろうと思つて居る。
「感覚」…… 「信太郎」の「心理描写」。「信太郎」の五感をはじめとした身体感覚によって認知されたことを描写した叙述。認知された内容そのものではない。
(例)118物が見えなくなつた。
「心情」…… 「信太郎」の「心理描写」。「信太郎」の非言語的で、抽象的な感情を描写した叙述。
(例)83彼もむつとした。
「思考」……  「信太郎」の「心理描写」。「信太郎」の言語的で具体的な理知を描写した叙述。
(例)48もう少しこうして居て起しに来なかつたら、それに免じて起きてやらう、さう思つている。

 これらの項目を、縦軸(列)におき、文を横軸(行)においた。図表のタイトル行は次のようになる。

表: 『或る朝』分析図表 分類項目
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人物描写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考

 左端に文番号をおき、「対象表現」、「叙述者表現」とならべた。「対象表現」は左から「場面設定」、「人物描写」として、以下「信太郎」、「その他の作中人物」の「人物描写」を対比させられるようならべた。「人物描写」の下位項目は、左側にいくほど外的な描写、右側にいくほど人物の内面にかかわる描写になるよう配置した。
 例えば、「談話描写」は、相手を注視しなくても聴覚でとらえうるが、「行動描写」はきちんと相手を見る必要がある。「状態描写」になると、より意識的に見ることが必要となる。また、「感覚」は様子を注意深く観察することである程度推し量ることができるが、具体的な「思考」の内容を知ることは難しい。「心情」はその中間である。つまり、言い換えれば、その対象をとらえる困難さによって、並べているということである。
 分析は一文をそのまま一つの項目に分類するのではなく、叙述が部分的に分けられる場合は、分けている。文番号以外にも、部分番号が必要なのはそのためである。また、例えば次のような文の場合は、文全体で「祖母」の「行動描写」として分類され、その中に「信太郎」の「心理描写」が含まれていると考えられる。

(a)すると(b)眠つてゐると思つた(c)祖母が又同じ事を云つた。 

(『或る朝』第3文)

 そのため、(a)「すると」は、(c)「祖母が又同じ事を云つた。」につながる叙述であると考え、「祖母」の「行動描写」として分類する。
 分析は場面ごとにおこない、図表にして、本稿の巻末に資料として添付するとともに、第4項以降の考察でも、言及している部分の分析図表を抜き出した。なお、本稿に抜き出した図表は、簡略化するため「談話描写」、「行動描写」……を、それぞれ「談話」、「行動」……と略記している。
 表記については、次のようにした。添付した分析図表の資料は、場面ごとにおこなったものである。図表に書き込むのは、原則として、文番号(1、2、3…)と部分番号((a)、(b)、(c)…)のみである。この文番号は、本稿の巻末に資料として添付した『或る朝』の本文と対応している。「場面設定」の叙述は、文番号以外に直接表に書き加えている。また、第5項で詳しく考察する複合性のある叙述として複数の項目に分析された叙述については、その文を一文抜き出し表に書き加えている。
 以上のように、叙述を分析した結果を元に、第4項で具体的に『或る朝』について考察をおこなっていくことにする。

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第4項 『或る朝』の叙述の分類分析による考察

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 次に、叙述の分類分析の図表を元に、叙述に即した作品の考察を行なう。ここで着目することは、「信太郎」の心理の過程がどのように描かれているか、ということである。なお、一つの叙述が複数の項目に分類されている叙述があるが、それについては次項以降で言及することにする。
 本項で引用する『或る朝』本文の傍点は、原文による。文番号、部分番号は引用者による。

【場面T】

 1(a)祖父の三回忌の法事のある前の晩、(b)信太郎は寝床で小説を読んで居ると、(c)並んで寝て居る祖母が、
 「(d)明日坊さんのおいでなさるのは八時半ですぞ」(e)と云つた。
 2暫くした。3(a)すると(b)眠つてゐると思つた(c)祖母が又同じ事を云つた。4彼は今度は返事をしなかつた。
 「5それ迄にすつかり支度をして置くのだから、今晩はもうねたらいいでせう」
 「6わかつてます」
 7(a)間もなく(b)祖母は眠つて了つた。
 8(a)どれだけか(b)経つた。9信太郎も眠くなつた。10時計を見た。11一時が過ぎて居た。12彼はランプを消して、寝返りをして、そして夜着の襟に顔を埋めた。
図表: 『或る朝』場面T 叙述の分類分析図表(1〜12文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
1 1(a)     1(b)       1(d) 1(c)(e)      
2 2                       
3              3(b)   3(a)(c)      
4       4                
5               5        
6   6                    
7 7(a)間もなく       7(a)(間もなく)       7(b)祖母は眠つて了つた。      
8 8(a)どれだけか
(b)経つた。
      8(a)(どれだけか)              
9         9              
10     10                  
11 11(一時が過ぎて居た)         11一時が過ぎて居た。              
12     12                  

 これは作品の冒頭部である。作品の主要な時間である「或る朝」の前の晩における、「信太郎」と「祖母」とやりとりを描いた場面である。
 第1文(a)「祖父の三回忌の法事のある前の晩」という特定の日時が、「場面設定」の叙述によって設定される。第1文は、「信太郎」が「小説を読んで居る」ことと、(c)(d)(e)と「祖母」の「行動描写」の「談話描写」が、一文として叙述されていることが特徴的であろう。場面の設定と、「信太郎」の状況、「祖母」の行動が一文であらわされている。3文から6文までの叙述によって、法事があるので早く寝てほしいと考える「祖母」に対して、「信太郎」はそれにはかまわず小説を読むことに熱心になっているという両者の考えの違いが示されている。7文で「祖母」は「眠つて了」うが、「信太郎」は小説を読み続ける。「信太郎」は「一時が過ぎ」たところでようやく眠気を感じ、眠りにつく。
 2文(b)の「眠つてゐると思つた」という「心理描写」の「思考」、9文に「信太郎も眠くなつた」という「心理描写」の「感覚」があり、「信太郎」の内面に視点が置かれ叙述されている。
 場面Tでは、「信太郎」と「祖母」との明らかな対立は生まれていないものの、考えの違いが既に生まれている。だが、同時に二人が「並んで寝て居る」ことから、ふだんの両者の人間関係は、険悪な敵対するような関係にはないことも同時に示されている。

【場面U】 

13(a)翌朝(明治四十一年正月十三日)(b)信太郎は祖母の声で眼を覚した。
 「14六時過ぎましたぞ」15(a)驚かすまいと(b)耳のわきで静かに云つて居る。
 「16(a)今起きます」(b)と彼は答えた。
 「17直ぐですぞ」18さう云つて祖母は部屋を出て行つた。19彼は帰るやうに又眠つて了つた。
図表: 『或る朝』場面U 叙述の分類分析図表(13〜19文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
13 13(a)   13(b)                  
14 14(六時過ぎ)              14        
15                 15(b)   15(a)  
16   16(a) 16(b)                  
17               17        
18                 18      
19     19                  

 「翌朝」になり、「祖父」の法事の朝を迎える。「祖母」は寝ている「信太郎」を起こしにくる。しかし、「信太郎」は眠いため、再び眠ってしまう。
 「信太郎」は翌朝になって、「祖母」の声で目を覚ます。「信太郎」は、16文で「今起きます」と答えると、また「帰るやうに」(19文)寝入ってしまう。「帰るように」とあり、この時点の「信太郎」にとっては、眠ることが自然であり、目覚める(あるいは起こされる)ことは、不自然な状態であるように叙述されている。「祖母」に対する不機嫌や反発的な感情ではなく、眠りたいという生理的な欲求によって再び眠ってしまうのである。
 15文(a)「驚かすまいと」と「祖母」の「心理描写」があるが、13文(b)で「信太郎」の内面に視点が置かれていることから、これは(b)の「耳のわきで静かに云つて居る」という「祖母」の口調から「信太郎」が「祖母」の心理を推し量ったものであり、「祖母」の内面に視点が置かれているとまでは言えない。場面Tに続き、場面Uも「信太郎」の内面に置かれた視点から叙述されている。

 20又、祖母の声で眼が覚めた。
 「21直ぐ起きます」22(a)彼は(b)気安めに、(c)唸りながら夜着から二の腕まで出して、(d)のびをして見せた。
 「23此お写真にもお供へするのだから直ぐ起きてお呉れ」
 24お写真と云ふのは其部屋の床の間に掛けてある擦筆画の肖像で、信太郎が中学の頃習った画学の教師に祖父の亡くなつた時、描いて貰つたものである。
 25(a)黙つている彼を(b)「さあ、直ぐ」(c)と祖母は促した。
 「26大丈夫、直ぐ起きます。27――彼方へ行つててください。28直ぐ起きるから」29(a)さう云つて彼は(b)今にも起きさうな様子をして見せた。
 30祖母は再び出て行つた。31彼は又眠りに沈んで行つた。
図表: 『或る朝』場面U 叙述の分類分析図表(20〜31文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
20         20              
21   21                    
22     22(a)彼は
(c)唸りながら夜着から二の腕まで出して、
(d)のびをして見せた。
      22(b)(気安めに、)
(d)(のびをして見せた。)
         
23               23        
24                       24
25       25(a)       25(b) 25(c)      
26   26                    
27   27                    
28   28                    
29     29(a)さう云つて彼は
(b)今にも起きさうな様子をして見せた。
      29(b)(今にも起きさうな様子をして見せた。)          
30                 30      
31     31                  

 「信太郎」が起きないため「祖母」が再び起こしに来る。
 21文、22文にあるように、「信太郎」は眠いため起きる気はないが、「祖母」を追い払おうとする。対する「祖母」は何とか起きてもらおうと23文「此お写真にもお供へするのだから直ぐ起きてお呉れ」と「信太郎」が起き上がらなければならない理由を提出する。「信太郎」は26〜28文のように対応し、30文で「祖母」が出て行った後、31文で再び寝入ってしまう。
 「信太郎」は「祖母」を説得するために、今にも起きるだろうという演技を見せる。一度目は返事をするだけだった「信太郎」は、意図的に相手を追い払おうとしており、覚醒しはじめている。
 22文、29文に「見せた」とあり、視点が「信太郎」の内面に置かれている。

 「32さあ/\。33どうしたんだつさ」34(a)今度は(b)角のある声(c)だ。35信太郎は折角沈んで行く、未だ其底に達しない所を急に呼び返される不愉快から腹を立てた。
 「36起きると云へば起きますよ」37(a)今度は彼も度胸を据ゑて(b)起きると云ふ様子もしなかつた。
 「38本当に早くしてお呉れ。39もうお膳も皆出てますぞ」
 「40わきへ来てそうぐづ/\云ふから、尚起きられなくなるんだ」
 「41あまのじやく!」42(a)祖母は(b)怒つて(c)出て行つた。43信太郎ももう眠くはなくなつた。44起きてもいいのだが、余り起きろ/\と云はれたので実際起きにくくなつて居た。45(a)彼はボンヤリと床の間の肖像を見ながら、(b)それでももう起しに来るか/\という不安を感じて居た。46起きてやろうかなと思ふ。47然しもう少しと思ふ。48もう少しこうして居て起しに来なかつたら、それに免じて起きてやらう、さう思つている。49彼は大きな眼を開いて未だ横になつて居た。
図表: 『或る朝』場面U 叙述の分類分析図表(32〜49文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
32               32        
33               33        
34         34(a)
(c)
        34(b)    
35           35            
36   36                    
37       37(a)
(b)
  37(b)          
38               38        
39               39        
40   40                    
41               41        
42                 42(a)
(c)
  42(b)  
43           43            
44           44            
45     45(a)     45(b)            
46             46          
47             47          
48             48          
49     49                  

  三度「祖母」は起こしに来る。「信太郎」が「祖母」をどなりつけることで、「祖母」は出て行くが、「信太郎」も眼が覚めてしまう。
 なかなか起きない「信太郎」に対して「祖母」は、34文「角のある声」で話す。対する「信太郎」も、35文「折角沈んで行く、未だ其底に達しない所を急に呼び返される不愉快から腹を立て」る。そして、40文「わきへ来てそうぐづ/\云ふから、尚起きられなくなるんだ」と言い放つことで、「祖母」を追い払ってしまう。「祖母」と言い合いになったことで、「信太郎」は完全に覚醒してしまう。しかし、目は覚めたものの、44文「余り起きろ/\と云はれたので実際起きにくく」なり、起き上がろうとはしない。そして48文「もう少しこうして居て起しに来なかつたら、それに免じて起きてやらう」と考える。
 ここに至って、「信太郎」は生理的な眠気ではなく、「祖母」に対する精神的な不安(45文「それでももう起しに来るか/\という不安を感じて居た」)と、怒り(48文「もう少しこうして居て起しに来なかつたら、それに免じて起きてやらう」)によって起き上がらない、あるいは起き上がることができなくなる。起き上がらない理由が、自身ではなく、対「祖母」になるのである。
 これまでも、「信太郎」の「心理描写」には「思考」に分類される叙述が認められたが、44〜48文は具体的な「思考」であることに注目される。32文以前までは、自分が眠り続けるために「祖母」を追い払おうとしていた。しかし、この32文からの引用部で「祖母」に三度起こされることによって、「信太郎」は、自身が起き上がりにくい状況を自覚し(44文)、起き上がるための条件を考え(48文)、そしてそれが達成されるまでは起き上がらないと決めるのである(48文)。これは、「信太郎」が完全に覚醒し、具体的に「思考」していることを表わしている。叙述の質の変化によっても、「信太郎」の起き上がれない理由が変化していることが示されているのである。
 34文は「今度は角のある声だ。」と評価的な判断を表わす叙述になっているが、これは「叙述者」から「叙述者表現」ではなく、「信太郎」の判断によるものであり、「信太郎」の内面に置かれた視点からの「信太郎」の「心理描写」「感覚」であろう。
 42文に(b)「怒って」と「祖母」の「心理描写」があるが、これは視点が誰に置かれているかという問題にかかわるものではなく、15文(a)「驚かすまいと」と同じように、口調や仕草などの外的な特徴であろう。場面Uも、「信太郎」の内面に視点が置かれている。
 このように場面Uでは、「祖父」の三回忌の朝になり、「祖母」が起きようとしない「信太郎」を三度起こしにくる。三度目に起こされると、「信太郎」は眠気ではなく「祖母」への怒りによって、起こしにくる限り起き上がらないことを決める。場面Uは、「信太郎」の起きる理由が変化する場面となっている。

【場面V】

 50いつも彼に負けない寝坊の信三が、今日は早起きをして、隣の部屋で妹の芳子と騒いで居る。
 「51(a)お手玉。南京玉、大玉、小玉」(b)とそんな事を一緒に叫んで居る。52(a)そして一段声を張り上げて、
 「(b)其内大きいのは芳子ちやんの眼玉」(c)と一人が云ふと、一人が(d)「信三さんのあたま」(e)と怒鳴つた。53二人は何遍も同じ事を繰り返して居た。
図表: 『或る朝』場面V 叙述の分類分析図表(50〜53文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
50                 50      
51               51(a) 51(b)      
52               52(b)
(d)
52(a)
(c)
(e)
     
53                       53

  「信太郎」は、自分の寝床がある部屋から、「隣の部屋」での様子を伺う。隣の部屋では、弟の「信三」と妹の「芳子」とが同じ事を繰り返して遊んでいる。
 寝床を出ることができない「信太郎」は、隣の部屋の様子を、聴覚からの情報によって伺っている。51文や52文で、「談話描写」や「行動描写」の主体が「一緒に」、「一人が」となっているのは、誰の「談話描写」であるのか寝床にいる「信太郎」には判別できないからである。よって、この場面Vにおける隣の部屋の様子も、「信太郎」の内面に置かれた視点によって「信太郎」の耳からの認知されたことがらが叙述されているのである。

【場面W】

 54又、祖母が入って来た。55信太郎は又起きられなくなつた。
 「56もう七時になりましたよ」57(a)祖母は(b)こわい顔をして反つて丁寧に(c)云つた。58信太郎は七時の筈はないと思つた。59彼は枕の下に滑り込んで居る懐中時計を出した。60(a)そして、
 「(b)未だ二十分ある」(c)と云つた。
 「61どうしてかうやくざ・・・だか……」62祖母は溜息をついた。

(傍点原文。以下同じ。)

図表: 『或る朝』場面W 叙述の分類分析図表(54〜62文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
54                 54      
55       55                
56               56        
57                 57(a)
(c)
57(b)    
58             58          
59     59                  
60   60(b) 60(a)
(c)
                 
61               61        
62                 62      

 場面Wの冒頭部。再び「祖母」が起こしに来ると、「信太郎」は「祖母」に対する感情によって、再び起きられなくなる。
 「祖母」に対する反発から、「信太郎」は起き上がりたくなくなるのではなく、55文「起きられなくな」る。そして、起き上がらないために、「祖母」の言葉に反発する。55文は「信太郎」の「状態描写」で示される。これは、「信太郎」の意思とは関わりなく、起き上がることができないという状態であるということである。「祖母」に対する反発が、「信太郎」の行動に強く作用しているのである。

 「63一時にねて、六時半に起きれば五時間半だ。64やくざでなくても五時間半ぢやあ眠いでせう」
 「65宵に何度ねろと云つても諾きもしないで……」
 66信太郎は黙つて居た。
 「67直ぐお起き。68おつつけ福吉町から誰か来るだらうし、坊さんももうお出でなさる頃だ」
 69母はこんな事を言ひながら、自身の寝床をたたみ始めた。70祖母は七十三だ。71よせばいいのにと信太郎は思つている。
  72祖母は腰の所に敷く羊の皮をたたんでから、大きい敷布団をたたまうとして息をはずませて居る。73祖母は信太郎が起きて手伝ふだろうと思つて居る。74(a)所が信太郎は(b)其手を食はずに故意に(c)冷かな顔をして横になつたまま見ていた。75(a)たうとう(b)祖母は怒り出した。
 「76(a)不孝者」(b)と云った。
図表: 『或る朝』場面W 叙述の分類分析図表(63〜76文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
63   63                    
64   64                    
65               65        
66     66                  
67               67        
68               68        
69                 69      
70             70          
71             71          
72                 72      
73                     73  
74     74(a)
(c)
      74(b)          
75         75(a)(たうとう)           75(a)たうとう
(b)祖母は怒り出した。
 
76               76(a) 76(b)      

 「信太郎」と「祖母」とが起きるか起きないかをめぐって、やりとりを繰り返す箇所である。
 何度言葉で促しても起きないため、「祖母」は、「信太郎」に手伝わせることで起き上がらせようと、自身の寝床をたたみ始める。しかし、「信太郎」は74文、「其手を食はずに故意に冷かな顔をして横になつたまま」である。
 70文「祖母は七十三だ。」は「叙述者」からの説明的な「叙述者表現」というかたちであるが、34文の「今度は角のある声だ。」と同様に、これは「信太郎」の「心理描写」「思考」の叙述であろう。
 73文「祖母は信太郎が起きて手伝ふだろうと思つて居る。」と「祖母」の「心理描写」があるが、これは先ほどまでと同じように、「信太郎」が「祖母」の作戦を見破っているのであり、「祖母」の内面に視点が置かれたものではないと考えられる。「祖母」とのやりとりで起き上がれなくなった「信太郎」にとって、その意思が容易に読みとれる「祖母」の言動では、起き上がるきっかけにはなり得ない。なぜなら、そのような「祖母」の見え透いた作戦は、「信太郎」にとって、これまでと同じように直接「起きろ」と言われているのと同じであるからである。「祖母」に強く反発している「信太郎」は、「冷かな顔をして横になつたまま見てい」ることしかしないのである。
 そこで75文、「祖母」は怒り出す。これも73文同様に、「信太郎」に置かれた視点からの「祖母」の様子であろう。76文の口調から、「怒り出した」ことを認知したのである。

 「77年寄の云ひなり放題になるのが孝行なら、そんな孝行は真つ平だ」78彼も負けずと云つた。79(a)彼はもつと毒々しい事が云ひたかつたが、(b)失策つた。80文句も長過ぎた。81(a)然し(b)祖母をかつとさす(c)にはそれで十二分だつた。82祖母はたたみかけを其処へはふり出すと、涙を拭きながら、烈しく唐紙をあけたて・・・・して出て行つた。
図表: 『或る朝』場面W 叙述の分類分析図表(77〜82文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
77   77                    
78     78(a)
(c)
    78(b)            
79             79          
80             80          
81                     81(b) 81(a)
(c)
82                 82      

 「信太郎」は怒り出した「祖母」に対して、言い返す。それを聞いた「祖母」は泣きながら部屋を出て行く。
 「不孝者」という「祖母」のことばに、「信太郎」も対抗して77文「年寄の云ひなり放題になるのが孝行なら、そんな孝行は真つ平だ」と言い放つ。しかし、それは「祖母」の「不孝者」ということばと比して、毒々しさが足りず、79文(b)「失策つた」、80文「文句も長過ぎた」ものであった。結果的には、「祖母」を泣かせて出て行かせるほどの効果を発揮したが、「信太郎」は毒づき足りないのである。
 78文「彼も負けずと」という「行動描写」から、「信太郎」に対する怒りは、明確に「祖母」へ向けられたものであり、自分の言ったことばが「祖母」のものと比較しているということでも、それが示されている。

 83彼もむつとした。84(a)然しもう起しに来まいと思ふと(b)楽々起きる気になれた。
 85彼は毎朝のやうに自身の寝床をたたみ出した。86(a)大夜着から中の夜着、それから小夜着をたたまうとする時、彼は不意に(b)「ええ」と思つて、(c)今祖母が其処にはふつたように自分の其小夜着をはふつた。
 87彼は枕元に揃えてあつた着物に着がえた。
 88あしたから一つ旅行をしてやらうかしら。89諏訪へ氷滑りに行つてやらうかしら。90諏訪なら、此間三人の学生が落ちて死んだ。91祖母は新聞で聴いてゐる筈だから、自分が行つてゐる間少くとも心配するだらう。
図表: 『或る朝』場面W 叙述の分類分析図表(83〜91文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
83           83            
84           84(b) 84(a)          
85     85                  
86     86(a)
(c)
    86(b)            
87      87                  
88             88          
89             89          
90             90          
91             91          

 「祖母」を怒らせ、「もう起しに来まい」と思った「信太郎」は、起き上がり、「祖母」を困らせる方法を思案する。
 「祖母」に悪態をぶつけることで追い出した「信太郎」は、ようやく起き上がることができるようになる。84文「楽々起きる気になれた」とあることからも、「信太郎」は自らの意志によって起き上がろうとしなかったのではなく、たかぶった気持ちによって、それまで起きることができなかったことがわかる。だが、「信太郎」の怒りはそれだけでは収まらない。86文(b)「「ええ」と思つて」とあり、怒りはまだ完全に払拭しきれていない。
 そして、88〜91文「心理描写」「思考」で、翌日から旅行に出掛けようかと思案する様子が示される。起き上がるきっかけが、「楽々起きる気になれた」と自らの意志とは無関係な叙述であったのに対し、困らせようとする「信太郎」の内面は、「心理描写」「思考」で示されるのである。

 92(a)押入れの前で帯を締めながら(b)こんな事を考へて居ると、(c)又祖母が入つて来た。93祖母はなるべく此方を見ないやうにして乱雑にしてある夜具のまはりを回って押入れを開けに来た。94彼は少しどいてやつた。95そして夜具の山に腰を下ろして足袋を穿いて居た。
 96祖母は押入れの中の用筆笥から小さい筆を二本出した。97五六年前信太郎が伊香保から買つて来た自然木のやくざ・・・な筆である。
 「98これで如何だらう」99(a)祖母は今迄の事を忘れたような顔を(b)故意として(c)云つた。
 「100何にするんです」101信太郎の方は故意と未だ少しむつ・・としてゐる。
 「102坊さんにお塔婆を書いて頂くのつさ」
 「103駄目さ。104そんな細いんで書けるもんですか。105お父さんの方に立派なのがありますよ」
 「106お祖父さんのも洗つてあつたつけが、何処へつて了つたか……」107さう云ひながら祖母は其細い筆を持って部屋を出て行かうとした。
 「108(a)そんなのを持つて行つたつて駄目ですよ」(b)と彼は云つた。
 「109さうか」110(a)祖母は(b)素直に(c)もどつて来た。111そして丁寧にそれを又元の所に仕舞つて出て行つた。
図表: 『或る朝』場面W 叙述の分類分析図表(92〜111文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
92     92(a)       92(b)   92(c)      
93                 93      
94     94彼は少しどいてやつた。     94(彼は少しどいてやつた。)            
95     95                  
96                 96      
97                       97
98               98        
99                 99(a)
(c)
  99(b)  
100   100                    
101             101          
102               102        
103   103                    
104   104                    
105   105                    
106               106        
107                 107      
108   108(a) 108(b)                  
109               109        
110         110(b)(素直に)       110(a)祖母は
(b)素直に
(c)もどつて来た。
     
111                 111      

 泣きながら出ていった「祖母」は、再び「信太郎」の寝床のある部屋にやってくる。両者が会話を交わすことで、「信太郎」はわだかまりを氷解させる、その直接的なきっかけとなる箇所である。
 「信太郎」が「祖母」をいかに困らせようかと思案しているところに、再び「祖母」が部屋に入ってくる。押入れから筆を取り出した「祖母」は99文「今迄の事を忘れたような顔を故意として」「信太郎」に話しかける。当然怒っているはずの「祖母」が、自然に話しかけることが不自然であったため、99文(b)「故意として」と「信太郎」は「祖母」の意図を読み取ろうとする。ここでも、「祖母」に視点が置かれているのではなく、「信太郎」がその意図を見透かしている(あるいは見透かそうとしている)と考えられる。そのため、「信太郎」も「祖母」に対して101文「故意と未だ少しむつとしてゐる」様子で対応するのである。
 102〜109文では、『或る朝』ではじめて「祖母」と「信太郎」が会話らしい会話を交わす。演技であるとわかりつつも、互いに演技の会話を交わすことがきっかけとなり「信太郎」は「祖母」とのわだかまりを解消することになる。「故意と」でありながらも、交わす会話の間に「信太郎」の「心理描写」がない。これは、「信太郎」にとって、それまで考えていた、いかに「祖母」を困らせるか、という思惑からではなく、深い打算もなしに会話を交わしているということである。

 112信太郎は急に可笑しくなつた。113旅行もやめ・・だと思つた。114彼は笑いながら、其処に苦茶々々にしてあつた小夜着を取り上げてたたんだ。115敷布団も。116(a)それから祖母のもたたんでいると(b)彼には可笑しい中に何だか泣きたいやうな気持が起つて来た。117涙が自然に出て来た。118物が見えなくなつた。119それがポロ/\頬へ落ちて来た。120(a)彼は(b)見えない儘に(c)押入れを開けて祖母のも自分のも無闇に押し込んだ。121間もなく涙は止つた。122彼は胸のすが/\しさを感じた。
図表: 『或る朝』場面W 叙述の分類分析図表(112〜122文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
112           112            
113             113          
114     114                  
115     115                  
116     116(a)     116(b)            
117     117                  
118         118              
119     119                  
120     120(a)
(c)
                 
121     121                  
122         122              

 この引用部は、「祖母」とのやりとりによって、「信太郎」の反発が氷解する箇所である。ここで、「信太郎」は涙を流し、「祖母」へのわだかまりを解く。
 112文「急に可笑しくなつた」「信太郎」は、小夜着をたたんでいるうちに、116文(b)「可笑しい中に何だか泣きたいやうな気持が起つて」くる。そして、117文「自然に涙が出て来た」とあり、「行動描写」される。続く118文「物が見えなくなつた」、119文「それがポロ/\頬へ落ちて来た」、121文「間もなく涙は止つた」、122文「彼は胸のすが/\しさを感じた」とあり、すべての叙述が「心理描写」の「感覚」と「行動描写」となっている。
 「信太郎」が「祖母」を困らせようと考えていたときは、「心理描写」の「思考」で示されていた「信太郎」の内面が、「祖母」とのわだかまりが解かれる際には、自然に起こった変化として叙述されていることに注目される。起き上がることができない様子と同じように、「祖母」とのわだかまりが解かれる様子も、「信太郎」の意志とはかかわりのない叙述で示されるということである。起きられなくなる状況――即ち、「祖母」とのわだかまりがうまれる状況――へのきっかけも、「祖母」とのわだかまりが解かれる状況へのきっかけも、「信太郎」にとって、自らの意志とはかかわりのないところで起こった変化として叙述されているのである。

【場面X】

 123彼は部屋を出た。124上の妹と二番目の妹の芳子とが隣の部屋の炬燵にあたつて居た。125信三だけ炬燵櫓の上に突つ立つて居た。126(a)信三は彼を見ると急に首根を堅くして天井の一方を見上げて、
 「(b)銅像だ」(c)と力んで見せた。127(a)上の妹が、
 「(b)さう云へば信三は頭が大きいから本当に西郷さんのやうだわ」(c)と云つた。128(a)信三は得意になつて、
 「(b)偉いな」(c)と声を張つて髭をひねる真似をした。129(a)和いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た信太郎が、
 「(b)西郷隆盛に髭はないよ」(c)と云つた。130(a)妹二人が、(b)「わーい」(c)とはやした。131(a)信三は、
 「(b)しまつた!」(c)と(d)いやにませた・・・口(e)をきいて、櫓を飛び下りると、いきなり一つでんぐり返しをして、おどけた顔を(f)故意と(g)皆の方へ向けて見せた。
図表: 『或る朝』場面X 叙述の分類分析図表(123〜131文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
123     123                  
124                 124      
125                 125      
126               126(b) 126(a)
(c)
     
127               127(b) 127(a)
(c)
     
128               128(b) 128(c)   128(a)  
129   129(b) 129(a)
(c)
                  
130               130(b) 130(a)
(c)
     
131         131(d)(いやにませた口)     131(b)「しまつた!」 131(a)信三は、
(c)と
(d)いやにませた口
(e)をきいて、櫓を飛び下りると、いきなり一つでんぐり返しをして、おどけた顔を
(f)皆の方へ向けて見せた。
  131(e)故意と  

 場面Wで「祖母」と和解を果たした「信太郎」はようやく「信三」たちのいる隣の部屋へと向かう作品の最後の箇所である。
 部屋を出た「信太郎」は、ふざけあっている弟妹たちと顔をあわせる。「信三」が「信太郎」を見てふざけて126文(b)「銅像だ」といえば、「上の妹」は127文(b)「西郷さんのやうだわ」とおだてる。「信三」は得意げになって、128文(b)「偉いな」と言う。それに「信太郎」も参加して、129文(b)「西郷隆盛に髭はないよ」と言う。
 それまで隣の部屋で様子を伺うだけであった「信太郎」は、「祖母」とのわだかまりを解消したことで、弟妹たちの遊びに参加するようになる。
 128文(a)「信三は得意になつて、」は、叙述としては「心理描写」に分類されるものの、これだけをもって直ちに「信三」の内面に視点が置かれているとまでは言えず、「信太郎」に置かれた視点からの叙述であろう。
 129文(a)「和いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た信太郎が、」について、第1項でも引用したが、寺本喜徳(1989)は、次のように述べていた。

(略)信太郎は、突如として見る主体から見られる対象へと位置を変える。ここでは、信太郎は弟妹達と同列に配され、彼等の弾んだやり取りに加わっている人物へと退いている。この部分はむしろ「信太郎は」とあるべきところが、「信太郎が」とあらためて表示し直して、彼を弟妹達と同等に見る作者の存在を明らかにしているのである。

(寺本喜徳(1989)「志賀直哉の文章」『表現学体系 各論篇第一一巻 近代小説の表現三』)

 だが、冒頭の第1文「信太郎は」という叙述と、この「信太郎が」という叙述とのみをてがかりとして、視点が置かれる人物が変化しているととらえるのは、早急ではないだろうか。
 場面Xに至っても、依然として「信太郎」の内面に視点が置かれているということは、131文(c)「いやにませた・・・口」という叙述をてがかりとすることで、確認される。131文(d)は、これまで考察せずに保留としてきた複数の項目に分類されうる叙述――複合性のある叙述――である。次項の第5項では、その一つの項目に分類しきれない、複合性のある叙述について考察していくとともに、その他の特徴的な叙述についても考察をすすめていく。

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第5項 『或る朝』における特徴的な叙述についての考察

 複合性のある叙述とは

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 これまで、第3項第4項では、叙述の分類分析についての考察を深めてきた。叙述の分類項目は、土部弘(1986)などをもとにしたものであり、原則として、ある叙述はどれかの一つの項目分類されるものである。しかし、『或る朝』を分析した場合、一つの項目に分類してしまうと、他の項目に分類されうる可能性を見逃してしまうような、二つ以上の項目に分類されうる叙述がある。これらは、二つ以上の項目に分類されうるような複合性をもった叙述である。それらの二つ以上の項目に分類されうる叙述について、具体的に例を挙げて、その複合性について考える。
 下の引用は、一度起しに来たにもかかわらず全く起きようとしない「信太郎」に対し、再び「祖母」が起しに来るという箇所である。

 「21直ぐ起きます」22(a)彼は(b)気安めに、(c)唸りながら夜着から二の腕まで出して、(d)のびをして見せた。
 「23此お写真にもお供へするのだから直ぐ起きてお呉れ」
 24お写真と云ふのは其部屋の床の間に掛けてある擦筆画の肖像で、信太郎が中学の頃習った画学の教師に祖父の亡くなつた時、描いて貰つたものである。
 25(a)黙つている彼を(b)「さあ、直ぐ」(c)と祖母は促した。
 「26大丈夫、直ぐ起きます。27――彼方へ行つててください。28直ぐ起きるから」29(a)さう云つて彼は(b)今にも起きさうな様子をして見せた。

 ここでは、「信太郎」のまだ寝ていたいために、何とか「祖母」を納得させて起こすのをやめさせようとする行動が示されている。この箇所を第3項で立てた項目に従って分類するとすれば、次のようになろう。
 21文は、起こしに来た「祖母」に対しての「信太郎」の「談話描写」である。22文は一文全体は「彼(信太郎)」の「のびをして見せた」という「行動描写」である。その「行動描写」に、「祖母」を納得させるための(b)「気休めに、」という「心理描写」「思考」が含まれている。23文は、起きるように促す「祖母」の「談話描写」。24文は「写真」についての「叙述者」による「叙述者表現」「説明」、25文の(a)は「信太郎」の「状態描写」、(b)は「祖母」の「談話描写」、(c)は「祖母」の「行動描写」である。26、27、28文はすべて「信太郎」の「談話描写」である。29文は、全体で「信太郎」の「行動描写」となる。
 それを図表にすると次のようになる。

図表: 『或る朝』場面U 叙述の分類分析表(21〜29文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
21   21                    
22     22(a)彼は
(c)唸りながら夜着から二の腕まで出して、
(d)のびをして見せた。
      22(b)(気安めに、)          
23               23        
24                       24
25       25(a)       25(b) 25(c)      
26   26                    
27   27                    
28   28                    
29   29(a)さう云つて彼は
(b)今にも起きさうな様子をして見せた。
                   

 しかし、この図表では叙述の分類分析のものとしては不十分である。なぜなら、これでは「信太郎」の内面が23文の(b)「気休めに、」という叙述によってのみ示されているということになるからである。しかし、実際には「信太郎」の内面が23文(d)「のびをして見せた」、29文(b)「今にも起きさうな様子をして見せた」という叙述によっても示されている。この二つの叙述は「心理描写」ではない。「祖母」を納得させるために、すぐにでも起きそうな「見せる」という外的で動態的な「行動描写」である。しかし、この「見せた」という叙述には、それ一語で「信太郎」の「心理描写」をも示している叙述となっている。それは読み手がいわゆる行間を補うことで読み取れる「信太郎」の内面ではない。叙述として・・・・・、「心理描写」が含まれた・・・・「行動描写」になっているのである。この23(d)文、29文(b)は、「行動描写」に「信太郎」の「心理描写」が含まれている複合性のある叙述なのである。
 こうした叙述を分析図表に反映するために次のような分析図表にして、複合性のある叙述を浮かび上がらせるような図表にする必要があろう。

図表: 『或る朝』場面U 叙述の分類分析表(21〜29文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
21   21                    
22     22(a)彼は
(c)唸りながら夜着から二の腕まで出して、
(d)のびをして見せた。
      22(b)(気安めに、)
(d)(のびをして見せた。)
         
23               23        
24                       24
25       25(a)       25(b) 25(c)      
26   26                    
27   27                    
28   28                    
29   29(a)さう云つて彼は
(b)今にも起きさうな様子をして見せた。
        29(b)(今にも起きさうな様子をして見せた。)          

 このように、一つだけにしか分類できないような図表ではなく、二つ以上に分類されるように流動性のあるものにする。こうすることによって、叙述として二つ以上の項目に分類されるような複合性のある叙述についての分析が可能となる。複合性のある叙述については、直接表に書き加えることによって、着目しやすいように配慮した。これらの叙述に着目することによって、「信太郎」の内面の、より複雑で立体的な過程をたどることができよう。それによって、場面Xの129(a)「和いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た信太郎が、」という叙述についての考察を深めるてがかりにもなろう。
 では、続いて『或る朝』における、こうした複合性のある叙述(図表の網掛け部分)について考察をすすめる。その後、その考察の結果をてがかりとして、『或る朝』において、重要であると考えられる特徴的な表現についての考察を合わせて行なうこととする。

複合性のある叙述

【場面T】

 1(a)祖父の三回忌の法事のある前の晩、(b)信太郎は寝床で小説を読んで居ると、(c)並んで寝て居る祖母が、
 「(d)明日坊さんのおいでなさるのは八時半ですぞ」(e)と云つた。
 2暫くした。3(a)すると(b)眠つてゐると思つた(c)祖母が又同じ事を云つた。4彼は今度は返事をしなかつた。
 「5それ迄にすつかり支度をして置くのだから、今晩はもうねたらいいでせう」
 「6わかつてます」
 7(a)間もなく(b)祖母は眠つて了つた。
 8(a)どれだけか(b)経つた。9信太郎も眠くなつた。10時計を見た。11一時が過ぎて居た。12彼はランプを消して、寝返りをして、そして夜着の襟に顔を埋めた。

(下線引用者。以下同じ)

図表: 『或る朝』場面T 叙述の分類分析表(1〜12文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
1 1(a)     1(b)       1(d) 1(c)
(e)
     
2 2                       
3              3(b)   3(a)
(c)
     
4       4                
5               5        
6   6                    
7 7(a)間もなく       7(a)(間もなく)       7(b)祖母は眠つて了つた。      
8 8(a)どれだけか
(b)経つた。
       8(a)(どれだけか)                  
9         9              
10     10                  
11 11(一時が過ぎて居た)         11一時が過ぎて居た。               
12     12                   

 先にも引用した、作品の冒頭部である。三回忌の前の晩の、「信太郎」と「祖母」とのやりとりを描いた箇所である。
 3文や9文の叙述から、「信太郎」の内面に視点が置かれていることは既に確認した。ここで問題にするのは、下線を引いた7文(a)「間もなく」、8(a)「どれだけか」である。これらの叙述は時間の経過を示しているため、「場面設定」の項目に分類される叙述にあたる。しかし、視点人物として設定されている「信太郎」の内面と深いかかわりのある叙述であるため、単に「場面設定」の叙述として分類せずに、複合性のある叙述として、分類しなければ「信太郎」の内面を精確にとらえることはできない。ここでは、「信太郎」の時間経過の「感覚」が反映された叙述である。
 7文(a)「間もなく」「祖母」は眠ってしまうが、それに対して「信太郎」は8(a)「どれだけか」と、時間の経過を忘れるほど小説を読んでいるということが示されている。「祖母」と「信太郎」とが対比されているのである。5文の「それ迄にすつかり支度をして置くのだから、今晩はもうねたらいいでせう」という「祖母」の「談話描写」は、「祖母」にとって「信太郎」を心配するあまり、眠ろうとしているところを敢えて声をかけ、眠るように促している。だから、「間もなく」眠ってしまうのである。
 それに対して、「信太郎」は、明日何時に起きなければならないか、ということではなく、小説を読みふけり、ようやく眠くなったときに10文「時計を見」て、時間を確認する。8文「どれだけか」というのは、「信太郎」が時間を忘れるほど、小説に読みふけっているという姿を、浮かび上がらせる。「信太郎」にとって「どれだけか」という意識なのであり、単に「場面設定」の叙述として分類するだけでは、その内面にある意識をとらえきれない。
 三回忌の前の晩における「祖母」と「信太郎」との意識の違いを「信太郎」の「間もなく」と「どれだけか」との対比によって叙述されているのである。

【場面U】

 20又、祖母の声で眼が覚めた。
 「21直ぐ起きます」22(a)彼は(b)気安めに、(c)唸りながら夜着から二の腕まで出して、(d)のびをして見せた
 「23此お写真にもお供へするのだから直ぐ起きてお呉れ」
 24お写真と云ふのは其部屋の床の間に掛けてある擦筆画の肖像で、信太郎が中学の頃習った画学の教師に祖父の亡くなつた時、描いて貰つたものである。
 25黙つている彼を「さあ、直ぐ」と祖母は促した。
 「26大丈夫、直ぐ起きます。27――彼方へ行つててください。28直ぐ起きるから」29(a)さう云つて彼は(b)今にも起きさうな様子をして見せた
 30祖母は再び出て行つた。31彼は又眠りに沈んで行つた。
図表: 『或る朝』場面U 叙述の分類分析表(20〜31文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
20         20              
21   21                    
22     22(a)彼は
(c)唸りながら夜着から二の腕まで出して、
(d)のびをして見せた。
      22(b)(気安めに、)
(d)(のびをして見せた。)
         
23               23        
24                       24
25       25(a)       25(b) 25(c)      
26   26                    
27   27                    
28   28                    
29     29(a)さう云つて彼は
(b)今にも起きさうな様子をして見せた。
      29(b)(今にも起きさうな様子をして見せた。)          
30                 30      
31     31                  

 引用したのは、一度起こされた「信太郎」が、再び「祖母」に起こされる箇所である。
 22文(d)「のびをして見せた」、29(b)「今にも起きさうな様子をして見せた」という叙述が複合性をもつ叙述である。どちらも、「祖母」を納得させるために、「信太郎」が起きそうな演技をする。一度目に「祖母」が起こしにきたときは、「信太郎」は生返事をするだけだったが、二度目に起こしにくると、返事だけではなく行動によって「祖母」を納得させようと起きる素振りを見せるのである。
 22文(d)「のびをして見せた」、29(b)「今にも起きさうな様子をして見せた」は、「信太郎」の「行動描写」に分類されるが、「見せる」という叙述には「信太郎」の内面が反映されている。即ち、「信太郎」が「祖母」を納得させて、なんとかこの場は追い返しもう少し寝よう、という意図である。この叙述を「行動描写」とするだけでは、その内面をとらえることができない。
 相手を納得させようという「心理描写」「思考」が含まれた「行動描写」だが、これをこのまま「行動描写」と「心理描写」とに分けて叙述したとすると、「信太郎」がまだ眠く、覚醒し切れていない様子を示すことができなくなる。逆に言えば、「心理描写」(「思考」)してしまうと、「信太郎」は覚醒してしまう・・・・・・・のである。よって、ここでは「信太郎」の「行動描写」に「心理描写」の「思考」を反映させた「起きさうな様子をして見せた」という叙述がされているのである。
 この26文と29文とは、「信太郎」の行動と、「信太郎」の生理的な状態と思惑とをとらえるためには重要な叙述である。

【場面W】

 72祖母は腰の所に敷く羊の皮をたたんでから、大きい敷布団をたたまうとして息をはずませて居る。73祖母は信太郎が起きて手伝ふだろうと思つて居る。74(a)所が信太郎は(b)其手を食はずに故意に(c)冷かな顔をして横になつたまま見ていた。75(a)たうとう(b)祖母は怒り出した。
図表: 『或る朝』場面W 叙述の分類分析表(72〜75文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
72                 72      
73                     73  
74     74(a)
(c)
      74(b)          
75         75(a)(たうとう)           75(a)たうとう
(b)祖母は怒り出した。
 

完全に覚醒した後、再び「祖母」が部屋にもどってくるが、「信太郎」は起きない。上の引用は、そこで、「祖母」が布団をたたみはじめ、それを「信太郎」が見つめるという箇所である。
 「信太郎」が「祖母」の行動の意図を読み取り、「冷かな顔」で見つめていると、75文(a)「とうたう」「祖母」を怒らせてしまう。ここでも、「たうとう」という副詞が「信太郎」の内面を含んだ複合性のある叙述になっている。75文全体は、先にも述べたように、「信太郎」の視点から、「祖母」の外的な特徴をとらえたうえでの「心理描写」に分類されうる。しかし、75文(a)の「たうとう」の叙述は、「信太郎」の内面を含みこんだ叙述と考えられる。
 「信太郎」は、「祖母」がいつか怒り出すかもしれない、とある程度予想を立てながら、「祖母」を74文「見ていた」のである。「信太郎」自身、「祖母」を怒らせている行動をしていることを、自覚している、その上で「見ていた」ということである。「とうたう」には、「信太郎」の、もうすぐ怒り出すかもしれない、でも自分は手伝う気はないという「祖母」に対する大きな反発が起こっているということである。よって、この「たうとう」が「信太郎」の内面を反映した叙述であるから、依然として「信太郎」の内面に視点が置かれていると判断できるのである。
 「信太郎」の予想ともいえるこの「たうとう」は、やはり「祖母」の「心理描写」とするだけでは不十分な複合性のある叙述なのである。

 92(a)押入れの前で帯を締めながら(b)こんな事を考へて居ると、(c)又祖母が入つて来た。93祖母はなるべく此方を見ないやうにして乱雑にしてある夜具のまはりを回って押入れを開けに来た。94彼は少しどいてやつた。95そして夜具の山に腰を下ろして足袋を穿いて居た。
図表: 『或る朝』場面W 叙述の分類分析図表(92〜95文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
92     92(a)       92(b)   92(c)      
93                 93      
94     94彼は少しどいてやつた。     94(彼は少しどいてやつた。)            
95     95                  

 「祖母」と激しく言い合ったあと、「信太郎」が起き上がって着がえていると、再び「祖母」が「信太郎」の寝床のある部屋にやってくる。
 ここでも、94文が複合性のある叙述となっている。激しく言い合って「祖母」を追い出した「信太郎」だったが、それでもわだかまりは解消されずに、「祖母」を困らせる方法を思案する。そこへ「祖母」が部屋に入ってくる。当然「信太郎」は、「祖母」に依然として反発している。そのため、入ってきた「祖母」に対して、「少し」だけ退くことになる。94文は、「信太郎」の「行動描写」である。しかし、「信太郎」の依然として「祖母」に対して怒りを感じている内面をも含みこんだ「行動描写」となっているのである。「少しどいてやつた」というのは、「信太郎」の動いた物理的な距離だけではなく、「信太郎」の「祖母」への「心情」が含まれている。
 それは、「行動描写」から読みとられる読み手の解釈といった問題ではなく、叙述として「心理描写」が含まれているのである。「行動描写」としてだけなら、「少しどいた」や、「どいた」としても差し支えなかったはずであるにもかかわらず、ここでは「少しどいてやつた」となっている。「信太郎」が「祖母」に対しての「心情」が含まれているからこそ、動いた距離が「少し」であり、「どいてやつた」となるのである。
 微妙な心理ではあるものの、「信太郎」の内面をとらえるためには見落としてはならない重要な複合性のある「心理描写」を含んだ「行動描写」である。
 

「98これで如何だらう」99(a)祖母は今迄の事を忘れたような顔を(b)故意として(c)云つた。
 「100何にするんです」101信太郎の方は故意と未だ少しむつとしてゐる。
 「102坊さんにお塔婆を書いて頂くのつさ」
 「103駄目さ。104そんな細いんで書けるもんですか。105お父さんの方に立派なのがありますよ」
 「106お祖父さんのも洗つてあつたつけが、何処へつて了つたか……」107さう云ひながら祖母は其細い筆を持って部屋を出て行かうとした。
 「108(a)そんなのを持つて行つたつて駄目ですよ」(b)と彼は云つた。
 「109さうか」110(a)祖母は(b)素直に(c)もどつて来た。111そして丁寧にそれを又元の所に仕舞つて出て行つた。
図表: 『或る朝』場面W 叙述の分類分析図表(98〜111文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
98               98        
99                 99(a)
(c)
  99(b)  
100   100                    
101             101          
102               102        
103   103                    
104   104                    
105   105                    
106               106        
107                 107      
108   108(a) 108(b)                  
109               109        
110         110(b)(素直に)       110(a)祖母は
(b)素直に
(c)もどつて来た。
     
111                 111      

 95文に続く、「信太郎」と「祖母」とが会話を交わす場面である。
 ここで着目したいのは、110文の「祖母は素直にもどつて来た」という叙述である。この下線部(b)「素直に」という叙述も複合性のあるものになっている。先に引用した92文で「祖母」が部屋に入ってくるまで、「祖母」と「信太郎」は激しい言い合いを繰り返していた。にもかかわらず、108文の「信太郎」の提言に対して、「祖母」は109文「さうか」と反発することなく部屋に戻ってくる。
 ここでは、それまで言い合い対立していた「信太郎」にとって、「祖母」の行動は驚くべきほど「素直に」「信太郎の」言うことを聞いたのである。やはりこの叙述も、単なる「行動描写」の様子を叙述したものではなく、「心理描写」の「感覚」が叙述として含まれ、「信太郎」の内面を反映した叙述であると言える。

【場面X】

 123彼は部屋を出た。124上の妹と二番目の妹の芳子とが隣の部屋の炬燵にあたつて居た。125信三だけ炬燵櫓の上に突つ立つて居た。126(a)信三は彼を見ると急に首根を堅くして天井の一方を見上げて、
 「(b)銅像だ」(c)と力んで見せた。127(a)上の妹が、
 「(b)さう云へば信三は頭が大きいから本当に西郷さんのやうだわ」(c)と云つた。128(a)信三は得意になつて、
 「(b)偉いな」(c)と声を張つて髭をひねる真似をした。129(a)和いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た信太郎が、
 「(b)西郷隆盛に髭はないよ」(c)と云つた。130(a)妹二人が、(b)「わーい」(c)とはやした。131(a)信三は、
 「(b)しまつた!」(c)と(d)いやにませた・・・(e)をきいて、櫓を飛び下りると、いきなり一つでんぐり返しをして、おどけた顔を(f)故意と(g)皆の方へ向けて見せた。
図表: 『或る朝』場面X 叙述の分類分析図表(123〜131文)
文番号 対象表現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 説明

評釈
「信太郎」 その他の作中人物
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
123     123                  
124                 124      
125                 125      
126               126(b) 126(a)
(c)
     
127               127(b) 127(a)
(c)
     
128               128(b) 128(c)   128(a)  
129   129(b) 129(a)
(c)
                  
130               130(b) 130(a)
(c)
     
131         131(d)(いやにませた口)     131(b)「しまつた!」 131(a)信三は、
(c)と
(d)いやにませた・・・
(e)をきいて、櫓を飛び下りると、いきなり一つでんぐり返しをして、おどけた顔を
(f)皆の方へ向けて見せた。
  131(e)故意と  

 「祖母」と和解を果たした「信太郎」は、ようやく隣の部屋に向かう。
 131文(d)の「いやにませた・・・口」という叙述が、複合性のある叙述となっている。寺本喜徳(1989)では、129文(a)「和いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た信太郎が、」という叙述から、視点が「信太郎は弟妹達と同列に配され、彼等の弾んだやり取りに加わっている人物へと退いている」としていた。しかし、このように説明してしまうと、131文(d)の「いやにませた・・・口」という叙述が誰に視点が置かれ、誰の目からとらえたものであるか、説明できなくなる。「叙述者」とするならば、「いやに」という主観的な評価の語を敢えてつける必要は認められない。
 であるならば、やはり場面Wまで視点人物として視点が置かれていた「信太郎」にとって、「いやにませた」口調だったと考えるのが妥当ではないだろうか。「信三」の口調が「いやにませた」ように聞えたのは、「信太郎」のこれまでの言動を省みてとらえられた「信三」の口調の印象なのであろう。「信三」の口調を「いやにませた・・・口」ととらえる「信太郎」は、それまでの「祖母」との自身の言動を省み、「信三」と比較したのである。「信三」が自分より「大人」であるか、「信太郎」が「子ども」であるかというはっきりとした対比ではないが、少なくとも「信三」を「いやにませた・・・」ととらえさせるほどに、自己に対しての意識を獲得しているということである。
 このように考えると、寺本(1989)で指摘されていた129文(a)「和いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た信太郎が、」という叙述は、やはり「信太郎は弟妹達と同列に配され、彼等の弾んだやり取りに加わっている人物へと退いている」という視点の変化は認められがたい。129文だけではなく、場面Xは依然として、「信太郎」に視点が置かれているのである。では、「信太郎」が「いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た」と自身をとらえているのは、なぜだろうか。
 この叙述は、「信太郎」の意識の変化なのである。その意識の変化とは、それまで「祖母」を見つめ、「祖母」と対立し続けていた「信太郎」が自分はどのような表情をしているのか、意識するようになったということである。「祖母」に反発することに意識が向いていた「信太郎」にとって、どんな表情をしているかという意識を獲得するには、「信三」をはじめとする弟妹たちと会話を交わす必要があったのである。それは、家族の者であっても他者を意識するという意味において重要な変化であろう。
 129文(a)「和いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た信太郎が、」という叙述も、131文「いやにませた・・・口」という叙述も、反発するだけだった自己を見つめなおし、他者にとっての自分、あるいは自身と他者とを比較するという意識を獲得したことのあらわれなのである。
 129文(a)「和いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た信太郎が、」という叙述を、「信太郎」の意識の変化であり、「信太郎」が自身をとらえたからこそ、「いやにませた口」という「信太郎」の「心理描写」「感覚」を含んだ叙述になっているのである。
 このように、複合性のある叙述について考察していくと、『或る朝』における主題を考える上でてがかりを得ることができる。これらの複合性のある叙述におおむね共通していることは、「少し」「たうとう」「いやに」など、「叙述者」の主観的な評価性をもった単語が多いということである。「主観的な評価性をもった単語」とは、形容詞、形容動詞、副詞、連体詞などの品詞をはじめとした、叙述者の主観による評価が付加された単語のことである。『或る朝』において、作品の中心として考えられる「信太郎」の心理の過程をとらえようとした場合、こうした主観的な評価性をもった単語が、重要な役割を果たしているのではないだろうか。
 そこで、複合的な叙述として分類されなかったが、特徴的なこれらの主観的な評価性をもった単語について続いて考察していこう。

その他の特徴的な叙述
 「40わきへ来てそうぐづ/\云ふから、尚起きられなくなるんだ」
 「41あまのじやく!」42(a)祖母は(b)怒つて(c)出て行つた。43信太郎ももう眠くはなくなつた。44起きてもいいのだが、余り起きろ/\と云はれたので実際起きにくくなつて居た。45(a)彼はボンヤリと床の間の肖像を見ながら、(b)それでももう起しに来るか/\という不安を感じて居た。46起きてやろうかなと思ふ。47然しもう少しと思ふ。48もう少しこうして居て起しに来なかつたら、それに免じて起きてやらう、さう思つている。49彼は大きな眼を開いて未だ横になつて居た。

 場面Uの最後、なかなか起きない「信太郎」は、「わきへ来てそうぐづ/\云ふから、尚起きられなくなるんだ」と言い放ち、「祖母」を追い出してしまう。
 ここで着目したいのは、44文「実際」と49文「大きな眼」という叙述である。44文の「実際」は、40文「わきへ来てそうぐづ/\云ふから、尚起きられなくなるんだ」という「信太郎」の「談話描写」に対しての「祖母」の41文「あまのじやく!」という「談話描写」について受けたものであろう。「わきへ来てそうぐづ/\云ふから、尚起きられなくなる」ことは、「あまのじやく」であるのは勿論だが、「信太郎」としては「実際」起きられなくなっていた、ということである。「実際」とあることで、「信太郎」自身、「あまのじやく」であることは理解しているものの、それでも起きにくくなっているという屈折した内面を描写している。複合性のある叙述ではなく、「心理描写」に分類される叙述であるが、「信太郎」の内面を考えるうえで重要な叙述である。
 49文「大きな眼」を開いている「信太郎」は、顔の外的な特徴を表わしているのではなく、既に完全に覚醒してしまっていることを表わしている。三度起こされ、「祖母」に腹を立てている「信太郎」は、具体的に45〜48文にあるように思案している。「信太郎」の内面において重要な叙述ではないが、「信太郎」が覚醒していることを如実に示している叙述という点において重要であろう。

 97祖母は押入れの中の用筆笥から小さい筆を二本出した。96五六年前信太郎が伊香保から買つて来た自然木のやくざ・・・筆である。
 「98これで如何だらう」99(a)祖母は今迄の事を忘れたような顔を(b)故意として(c)云つた。
 「100何にするんです」101信太郎の方は故意と未だ少しむつとしてゐる。

 場面Wで、怒って出て行った「祖母」が再び部屋に入って、「信太郎」の筆を取りに来る箇所である。
 ここで、「祖母」は、97文「小さい」、96文「五六年前信太郎が伊香保から買つて来た自然木のやくざな筆」を持ち出そうとする。96文、97文の下線部は、「信太郎」が買って来たという「筆」についての形容である。これは「信太郎」の内面ではなく、「祖母」の内面を表わしていることで注目される。後の99文にもあるように「故意と」「信太郎」の使えない筆を取りに来る。孫である「信太郎」と和解するためにこのような行動に出るのだが、96文97文で「小さい」「やくざな筆」と形容詞と形容動詞で評価を下すことによって、その意図が示されることになる。「信太郎」の内面をとらえるための叙述ではないが、和解のきっかけとなる「祖母」の意図をとらえるためには注目される叙述であろう。
 このように、『或る朝』におけるこれらの主観的な評価性をもった単語は、複合性のある叙述を含めて考えると、「信太郎」の内面をとらえるために重要な役割をもっていると言える。無論、作品中の主観的な評価性のある単語すべてが「信太郎」の内面を色濃く反映したものとはいえない。しかし、少なくとも、これらの評価性をもった単語に着目することで、「信太郎」の心理の過程がより明瞭にとらえられることは確認されよう。
 そして、これまでみてきた叙述法の特徴は、叙述法のみの問題にとどまるのではなく、視点の配賦にもかかわることである。
 次の第6項で、以上までの考察によって明らかとなった、『或る朝』における視点の配賦と叙述法について、まとめることにする。

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第6項 『或る朝』における視点の配賦と叙述法

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 第2章第1節では、『或る朝』における視点の配賦と叙述法をてがかりとして、『或る朝』について分析・考察をおこなってきた。その結果、『或る朝』は次のようにまとめられよう。
 「信太郎」は、何度も起こしに来る「祖母」に対して、それまでの眠たいという生理的な欲求ではなく、「祖母」に対する不機嫌によって起きられなくなる。「祖母」が起こしにこなければ起きてやろう、と考える「信太郎」の部屋に、「祖母」は起こしに来るが、「信太郎」は起き上がろうとしない。とうとう怒りだして怒鳴る「祖母」に対して、「信太郎」も言い返す。「祖母」を泣かせた「信太郎」がようやく起き上がり着がえているところに、「祖母」が平生を装い部屋にやってきて、両者はこの日はじめて会話らしい会話を交わす。「祖母」が部屋を離れると、「信太郎」は涙を流し、すがすがしい気分になる。部屋を出た「信太郎」は、弟妹たちに和らいだ寂しい笑顔を見せる。
 そして、『或る朝』の主題は次のようになろう。「祖母」に起こされることで不機嫌になった「信太郎」が、何気ないやりとりによって「祖母」に対する怒りを解消させる、という経験によって、それまで一室から他者をみつめるだけであった「信太郎」に、他者に向かう自己という意識が芽生える。
 主題にかかわる『或る朝』における、視点の配賦と叙述法については、次のようにまとめられよう。

視点の配賦の特徴

  以上のように、これまで考察してきた結果をもとに『或る朝』における視点の配賦の特徴について整理しておく。
 『或る朝』は、第4項における分析・考察によって、作品中常に、視点は「信太郎」の内面に置かれることが明らかとなった。「信太郎」一人に視点が置かれることによって、「祖母」に対する感情の起伏という、「信太郎」の内面が浮かびあがることになる。
 法事の前の晩であるにもかかわらず、「祖母」の言葉も意に介さずに、「信太郎」は眠くなるまで小説を読みふける。そこには小説を読みたいという思いと、眠くなったから眠るという自分自身の自分勝手とも言える欲のままに振舞う人物としての「信太郎」を描き出す。
 翌朝、法事の用事で忙しく動き回っているであろう「祖母」は、「信太郎」を起こしにくる。だが、「信太郎」は返事をするだけで起きない。眠いながらも、「祖母」を追い返そうと起きる仕草までする。三度目で両者の反発が大きくなり、「信太郎」は眼が覚めてしまうにもかかわらず、「祖母」が起こしに来ることで起き上がることができなくなる。覚醒から、起きられなくなるまでの過程が「心理描写」の有無と、その質の変化によって示される。
 そして「信太郎」は、横になったまま「信三」ら弟妹の様子を聴覚から伺う。場面Vは、「信太郎」に置かれた視点からの叙述であるため、「談話描写」や「行動描写」の主体が「一人が」という叙述で示される。「信太郎」はひとり部屋から外界を見聞きするという状態が、弟妹たちの様子を伺う場面Vを挿入することによって、示めされるのである。これは、場面Xに隣の部屋に行くという変化を浮かび上がらせる。
 起き上がらない「信太郎」の元へ再び「祖母」が来ることで、「信太郎」はますます起き上がることができなくなる。布団や小夜着をたたみ始めた「祖母」の意図まで見通して、「信太郎」は冷ややかに見つめる。「祖母」の「心理描写」がされることで、「信太郎」と「祖母」とのやりとりが示される。その態度に怒り出した「祖母」と言い合いになることで、「祖母」を泣かせた「信太郎」は、起こしにこないだろうと考えようやく起き上がる。それでも怒りがおさまらずに、スケートに行って心配させようかと「心理描写」(「思考」)される。そこへ再びやってきた「祖母」は、それまでのことを忘れたかのように話しかける。それが「故意と」であることを悟った「信太郎」は、自らも「故意と」むっとした態度で応じる。しかし、その会話に、「心理描写」の「思考」の叙述で示されるような打算はない。「祖母」が去っていったあと、「信太郎」は涙を流し、胸のすがすがしさを覚えるのである。これらの叙述はすべて「信太郎」にとって自然で意図しない変化として示される。
 部屋を出て弟妹のもとに姿を見せる「信太郎」は、自身の表情を「和いだ、然し少し淋しい笑顔をして」いることに意識を向け、「信三」の「いやにませた・・・口」を聞くのである。弟妹たちの様子を自分の寝室から聞いていただけの「信太郎」は、他者にどのような表情をしているのか、という自身への意識を芽生えさせるのである。その意識の変化は、どう感じたのかという「心理描写」で示されるのではなく、どう見たのかという複合性のある叙述によって示される。
 この複合性のある叙述を下支えする視点の配賦は、作中人物(「信太郎」)の内面に視点を置くか、あるいは外に置くのか、といった二項対立的なものではなく、その両者を統一する視点の配賦である。あるいは内面を見通しながら、外面を描く、という視点の配賦なのである。

叙述法の特徴

 『或る朝』は、「信太郎」の内面に置かれた視点によって、内面を描くだけではなく、あらゆる対象は「信太郎」の内面からとらえられ叙述されることになる。大きく三つに分けられうる「心理描写」によって、複雑で微妙な「信太郎」の内面の過程が立体的に描かれる。その三つとは、語感による認知を叙述した「心理描写」の「感覚」、抽象的で非言語的な内面を叙述した「心理描写」の「心情」、より具体的で言語的な「心理描写」の「思考」である。これらの、質を異にした「心理描写」によって、「信太郎」の覚醒状態や、心理状態、具体的な思考内容などが、立体的に示されるのである。
 さらに、多様な「心理描写」に加えて、複合性のある叙述によっても「信太郎」の内面が描かれる。複合性のある叙述とは、「信太郎」「祖母」にかかわらず、「行動描写」の叙述に「心理描写」も含まれているという叙述である。それは、「行動描写」から作中人物の内面が読みとれる、といったものではなく、叙述として「心理描写」が含まれているということである。また、複合性のある叙述だけではなく、主観的な評価性をもった単語も「信太郎」の内面を反映した叙述であった。これは複合性のある叙述ではなく、叙述としては「行動描写」であったり、「叙述者表現」であったりするが、「信太郎」の内面の過程をたどるうえで無視できない叙述となっていた。
 こうした、多種多様な叙述によって、「信太郎」の内面の過程が描出される。「祖母」に起こされ不機嫌になり、「和解」を果たす、という単純な物語であるが、その内面を描き出す叙述は複雑さをもっている。『或る朝』を精確に的確にとらえるためには、こうした叙述法と、それを下支えしている視点の配賦を考えることは有効であろう。
 続いて第2節では、『網走まで』について分析・考察することにする。

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第2節 『網走まで』の視点の配賦と叙述法の分析

第1項 『網走まで』の先行研究

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 まず『網走まで』の分析・考察をすすめるにあたって、これまでの『網走まで』についての先行研究をみておきたい。そののち、それらの先行研究を踏まえて、第2項以降で実際に視点の配賦・叙述法という観点からの分析・考察をおこなっていく。
 町田栄(1972,b)「志賀直哉の文学形成考(二)――三処女作の検証――」(『文学』第40巻2号 岩波書店1972年2月)では、「網走まで」という表題と、「宇都宮」の友人に会いに行くという冒頭の設定について、次のように指摘する。

 作品は、宇都宮の友人を誘って日光見物に行く小旅行――つまり上野駅で乗車し、宇都宮駅では下車しなければならぬ数時間のことに、先ず設定する。本来「宇都宮まで」と題されてよい作品である。この設定は、実に巧妙である。上野駅・車中・宇都宮駅の推移する三つの場面でそれぞれ主人公の母子との出合い・交渉・別れを載せるという完結された構成を持っている。一つの劇が、冒頭において「別れ」でもって結末するものと、計算されているのだ。

(町田栄(1972,b)「志賀直哉の文学形成考(二)――三処女作の検証――」
『文学』第40巻2号)

「網走まで」という表題にもかかわらず、冒頭での「宇都宮」の友人に会いに行くという設定であることによって、「一つの劇が、冒頭において「別れ」でもって結末するものと、計算されている」とする。そして、作中人物の「男の子」と志賀直哉の関係を次のように指摘する。

子供をよく題材とする志賀であるが、例えば『鵠沼行』・『和解』・『或る朝』・『子供四題』などに登場する子供たちは、いずれも豊かな情操と、伸びやかな活力に満ち、子供らしい素直さを持って描かれる。彼らはある絶対客体として存在し、作者から眺められ、描写される外景なのである。『謙作の記憶』(現『暗夜行路』序詞にあたる)に描かれる少年像は、この「男の子」に近い性情の持ち主である。過敏性、強い癇癖、ある偏執性を帯びている。謙作少年の性情は志賀の血脈を分け、「男の子」の仮構には、志賀の自己投影がなされているのだ。

(町田栄(1972,b))

だが、この「「男の子」の仮構には、志賀の自己投影がなされている」という指摘は、単なる両者の共通性にととどまることではなく、『網走まで』の作品への影響をも指摘する。

主人公は「男の子」に触発されて、母親の運命やその夫の境遇をさまざまに、――実は放恣に想像してみるが、「想像」内容があたかも事実であるかの如くフィットし、確固たるプロバビリティーを保証しているのは、志賀も主人公も共に「男の子」の中に入って、自在に操作しているからである。三者に独立性はない。青年の寄せる母子へののめり込み・・・・は、全く検索されることなく、直情のおもむくままに続けられる。志賀自身によそえて造型した「自分」と「男の子」とが、――その「男の子」から端を発し、放射的に描く主人公の「想像」に、実は志賀の「勝手に想像」した内容に、高いリアリティを与えるのだ。

(町田栄(1972,b))

「自分」が勝手に想像したはずの「母親の運命やその夫の境遇」が、事実であるかのような蓋然性をもっているのは、「志賀自身によそえて造型した「自分」と「男の子」と」によって、「高いリアリティを与える」のだという。そして、蓋然性の高いこの「想像」が、「死」にまで到達することに着目する。

主人公の「想像」が「死」に到達していることは注意されねばならない。主人公が別れに投函を託された、鉛筆書きの「名宛は共に東京で、一つは女、一つは男名」のはがきが象徴的である。受取人が両親、兄弟姉妹、親戚か、或いは友人であるかは、あまり問題ではない。この薄幸な「二十六、七の色の白い、髪の毛の薄い女の人」が、辛うじて生きて来たよすがとも言える「男女」、よすが・・・ともなっていた「東京」に宛てた「端書」は、――現世への或る訣別を意味する。『網走まで』という題名は、原型作以来もちこしたものにせよ、初出作の時点では、その意味を耽情性のより強いものに変えている。――「女の人」の暗澹たる悲涼の人生を暗示する、と。

(下線引用者。町田栄(1972,b))

だが、「「女の人」の暗澹たる悲涼の人生を暗示する」までも暗示した「端書」を「自分」は最後まで読むことはない。そこに作家・志賀直哉の「誕生」を見出している。その意味で、志賀直哉の作品の中でも、「最も「処女作」の性格を備えている」というのである。

主人公は一種の遺書である「端書」を非情にも読まない。志賀の資質が耽情的なものとして明瞭に自得され、自己救済の主我主義がはっきり主張されているのだ。――志賀文学の「誕生」である。

(下線引用者。町田栄(1972,b))

つまり、町田栄(1972,b)では、「想像」が「死」に到達することをおさえながら、それでも「一種の遺書である「端書」」を読まない「非情」さ、そこに作家・志賀直哉としての「自己救済の主我主義」の主張があるのだと指摘しているのである。
 小林幸夫(1985)「「網走まで」論――〈生きられる時間〉の破綻と隠蔽――」(『作新学院女子短期大学紀要』9号1985年12月)では、「自分」が「女の人」に抱く「エロス」が重要であるという読みを提出する。まず小林幸夫(1985)は「現実の女」と「虚構の女」とを次のように明確に区別する。

(略)小説の中に現前する女、これを〈現実の女〉と呼ぶことにする。小説の現実の中に実在する女である。そこから仮借なく汲みとれるのは、漠然たる不孝のイメージであろう。それは、当然、男に、女に対する抽象的な認識、範疇や典型程度の認識しかもたらされない。それに対して、その抽象的な漠たる認識に、血の脈略と通った具体的な輪郭を与えるのが前述した男の〈認知への想像力〉というわけである。

(小林幸夫(1985)「「網走まで」論――〈生きられる時間〉の破綻と隠蔽――」
『作新学院女子短期大学紀要』9号
(引用は『認知への想像力 志賀直哉論』双文社2004年3月))

そして、この「自分」の「認知への想像力」によって形成された「虚構の女」と、「小説の中に現前する女」である「現実の女」との関係を次のように指摘する。

重要なことは、この女の像が〈現実の女〉と重なる保証はどこにもないということである。その意味において、この女の像は、〈虚構の女〉と呼ぶにふさわしい。男において〈現実の女〉は〈認知への想像力〉のもとに〈虚構の女〉として成熟したのである
 ところで、織り上げられたタピストリーには〈死すべき女〉の烙印が押された。過去の若々しさと華やぎを明滅させながら、網走まで加速度をつけて零落してゆく女である。ここに悲劇のヒロインは成立した。男の心を同情と共感に誘い込む魅惑の成立である。本来ならば、認識の不安定に満足を与え、認識行為を停止させるはずの〈認知への想像力〉がこの男の場合に限っては諸刃の刃となった。〈死すべき女〉という映像を最後に認識行為が終結をみたのだが、その認識の成立と同時に、悲劇の女性を見守り救うことも可能な、いわゆるヒーローの入り込む余地のある劇空間が成立してしまったのである。しかも、この劇空間の成立に間髪を入れずに汽車は宇都宮駅にすべり込み、停車時間の間に男の子を小用につれてゆこうとする女との間にやりとりができてしまうのであるから、彼は現実と劇空間との弁別をする間もなく、自らの作り上げた劇空間で〈虚構の女〉と対したまま現実の中に放り出されたことになる。

(下線引用者。以下同じ。小林幸夫(1985))

 「想像」の産物である「虚構の女」が、「死」まで「想像」されることによって、「死すべき女」としての「悲劇のヒロイン」が成立するという。そしてそれは、この「悲劇のヒロイン」を、「ヒーロー」である「自分」が助けるという「劇空間」の成立をも意味するというのである。

(略)宇都宮とは、男がヒロイックな気分で埋めることのできる空間、男の演技を保証する劇空間なのである。男はここで、〈現実の女〉を、自らの〈認知への想像力〉が作った〈虚構の女〉とすり換えて行為しているのであり、その誤認の中で悲劇の女を見守り救いの手を差し伸べる優しいヒーローを演じているのである。

(小林幸夫(1985))

また、その「女の人」とのやりとりとは、「ヒーロー」である「自分」の一方向的なものではなく、「女の人」もまた、「ある許しあるいは親炙をこめて私性を投げかけようとした心」を示すような双方向的なものであるという。

葉書を懐から出そうとして紅くする耳の根は、赤児を背負った帯が胸のところで十字になってしまっていたという物理的条件によっているのだが、男の子の、母親の行為を咎めるような口ぶりと、女の周章ぶりとを合わせて考えれば、女がある許しあるいは親炙をこめて私性を投げかけようとした心の紅さ――羞恥を示していると考えてよいと思われる。

(小林幸夫(1985))

そして、「端書」を読むことについては次のように言及する。

託された葉書の文面を読むこと、それは具体的に女の生活の何がしかを知ってしまうことである。この部分に関して男の倫理性を読みとり、他人の私生活を盗み見る下劣さに耐えたと言うこともできる。たしかにそういう一面もあったろう。車内においても男は必要以上に女の私生活に踏み込んでいない。しかし、それ以上に男はある積極的な欲求に牽引されていたと見られる。というのは、葉書を読むことによって、自分が作り上げた〈虚構の女〉の像を補強することもあり得る反面、その像が変更を余儀なくされ、破壊される可能性も強いからだ。もし後者であった場合には、せっかくの交感のエロスも無に帰してしまう。男は自分の作り上げた悲劇の崩壊を恐れた自分の像増力の破綻を恐れた。彼が好奇心の跳梁を必死に抑えて求めたのは、悲劇の舞台で演じられた親和空間の隠蔽である。読者の目から言うならば、男が女と作り上げたと思った親和性の保持である。自らが女と共に〈生きられた時間〉の温存である。これによって彼は永遠に交感のエロスをつなぎとめ、女と親和された時空を共に生きたという充実感を手に入れたのである
 しかし、葉書を読まなかったということは、もう一方において、男が結局は空想家という傍観者であり、現実家ではないということを暴露している。彼は、いわば傍観者としての錯覚のヒロイズムないしはナルシシズムに酔っているにすぎないのであって、この小説が最終的に表出させているものは、対象と虚像とを同一視することによって傍観者が得た、共生感という錯覚のエゴイズムに他ならない。現実よりも自己の想像の方に手ごたえを感じてゆく男の誕生、これが「網走まで」の固有性である。

(小林幸夫(1985))

「自分」が「端書」を読まなかったのは、「葉書を読むことによって、自分が作り上げた〈虚構の女〉の像を補強することもあり得る反面、その像が変更を余儀なくされ、破壊される可能性も強いから」であり、「自分」がそれまで創り上げてきた「虚構の女」と違う「現実の女」の情報を認知しないためであると説明する。自身の想像を「端書」からの情報で壊さなかったことによって、「永遠に交感のエロスをつなぎとめ、女と親和された時空を共に生きたという充実感を手に入れ」るという。だが、そのために、「傍観者としての錯覚のヒロイズムないしはナルシシズムに酔っているにすぎない」という側面を浮かび上がらせることになったと指摘する。
 このように小林幸夫(1985)では、「自分」が僅かな「現実の女」である「女の人」から得た情報により、「虚構の女」という想像を作り出すと説明する。そしてその想像は「女の人」を「悲劇のヒロイン」に仕立て上げ、「自分」を「ヒーロー」として、両者の「劇空間」を成立させる。そこで得られた「交感のエロス」を永遠に保持するために、「端書」を読まずに投函してしまうという、「錯覚のヒロイズムないしはナルシシズム」を見出すのである。
 栗坪良樹(1985)「志賀直哉・知と観念の指向性――初期作品の問題について――」(『青山学院女子短期大学紀要』第39号1985年11月)では、『網走まで』を『或る朝』と同じように、「感情の起伏」の「循環」の物語であると位置づける。

 志賀の作品を読んでいて気づくことの一つに、登場人物の感情の起伏の激しさが、理性では押さえようもなく沸き上がり引いてゆく、その循環がたどられる。激しい喧嘩・・が起きればその対極に必ず和解・・がある。肉親に対する甘えが書かれるとすれば、その対極に厳格・・が書かれる。過度の不快感・・・がたどられるとすれば、その対極に過度の快感・・がたどられるといったふうである。「網走まで」の主人公の内もその路線から少しもずれていない。〈女の人〉に対する過度の同情・・もしくは快感・・は、その対極に〈男の子〉と彼の延長にあると見られるその〈父〉・彼女の〈夫〉への角の嫌悪感・・・もしくは不快感・・・を呼び覚ましている。(略)主人公は、そのような感情の極と極に立ちながら、母子一行の過去と現在と未来を、全部自分の眼の内に集合しようとしているのである。

(傍点原文。以下同じ。
栗坪良樹(1985)「志賀直哉・知と観念の指向性――初期作品の問題について――」
『青山学院女子短期大学紀要』第39号
(引用は『日本文学研究大成志賀直哉』国書刊行会1992年10月))

「女の人」を「同情」「快感」を呼び起こすものであり、その対極に「男の子」や「夫」が「嫌悪感」「不快感」を呼び起こすものであると位置づける。そして、両者の関係性を次のように説明する。

 主人公の眼の内に写った母と子の対照が、このようにして、たちどころに同情心・・・不快感・・・にパターン化され、この感情のパターンがこの物語を動かす基底となる。
 しかし、この感情の対照は、主人公が〈女の人〉への同情の原因になっている〈男の子〉のわがままぶり、そのわがままぶりを鎮めることにより、主人公はもっと〈女の人〉に近づくことが可能になるのだ。

(栗坪良樹(1985))

だが、この「物語を動かす基底」は、「自分」が「男の子」の父親を想像する箇所になって、変化するという。

 志賀直哉の表現する人間としての〈指向性〉が、〈男の子〉を要として彼の母と彼の父の〈運命〉を客体化、洞察、予言するところまで進んでゆく。この限りにおいて、主人公は殆どこの小説を書く志賀自身と同じ位置に立ち始めている。表現者としての志賀直哉の属性が浸み出した様に、この主人公は彼女の家の運命を堂々と洞察・予見しているのである。「網走まで」開巻の主人公は、同情心と不快感に左右される単なる感情の人・・・・であったが、ここではほぼ完璧に認識者・・・予言者・・・の位置に立っている。すなわち、彼女の家族全員を自身の内に集合させた認識の器・・・・としてここに立っている。

(下線引用者。栗坪良樹(1985))

この引用は、「男の子」の父親を想像する箇所について指摘している。この想像によって「自分」は、それまで「同情心と不快感に左右される単なる感情の人・・・・」であったのに対し、この想像に至って「彼女の家の運命を堂々と洞察・予見」する、「彼女の家族全員を自身の内に集合させた認識の器・・・・」となるという。

(略)志賀直哉の〈知や観念〉の〈指向性〉は、志賀自身の身近な体験から生じた一人の主人公を、動かしようのない一つの世界に封じ込めたのである。この主人公は、同情者・・・であった自分の運命、そして〈女の人〉の運命、彼女の一家の運命をその脳裡のスクリーンに焼き付けて、それを全部を過去のこととして、彼女と出会う以前の世界に戻ったのである。それは一人の表現者の誕生を意味し、主人公の〈指向性〉の一つの結末をも意味している。

(栗坪良樹(1985))

「過去のこととして、彼女と出会う以前の世界に戻った」というのは、「女の人」に出すように頼まれた「端書」を、読まずに投函することの説明である。単なる「同情者」「感情の人」であった「自分」が、「表現者」として「認識の器・・・・」となることで、志賀直哉の「知や観念」の「指向性」を示していると指摘する。『網走まで』という作品に、作家・志賀直哉の「指向性」を見出そうとしたのである。
 最後に、蓼沼正美(1992)「テクストの受容と生成――「網走まで」という〈空所〉――」(『国語国文研究』第92号北海道大学1992年12月)では、『網走まで』という作品が、「テクスト」の「空所」を埋めるように要求するものであると主張する。

 とまれそうした「女の人」の依頼に対し、「自分」は「『よう御座います』」と「快く」言うのである。それはまさに「自分」が「女の人」を脆く果敢ないものとしてしか見ていないからである。つまり「自分」は、そういう「女の人」から依頼をされ、それを承知出来ることが、「快」いのである。そうしたその「快」さこそが、「自分」が『網走まで』を語る動機モティーフの一つなのだ。

(ルビ原文。
蓼沼正美(1992)「テクストの受容と生成――「網走まで」という〈空所〉――」
『国語国文研究』第92号)

このように、「自分」にとってのみの「「快」さ」を、『網走まで』における「動機モティーフの一つ」であるとしたうえで、次のように、小林幸夫(1985)が提出した読みに疑問を投げかける。

そもそも「端書」とは、文面の公開された書簡である。つまりそれは、常に他の誰かに読まれることが前提とされた書式なのである。それだけに「女の人」が「自分」に投函を依頼したのは、「自分」に対し殊更な倫理観を期待していたからではなく、むしろその「端書」がたとえ読まれたとしても差し障りのない、通り一遍のものであったからだといってもよい。

(蓼沼正美(1992))

小林幸夫(1985)では、「女の人」に頼まれた「端書」を敢えて読もうとしないのは、自身で創り上げた「虚構の女」を壊したくなかったからだ、という説明していた。しかし、蓼沼正美(1992)では、この「端書」という特性に着目し、「たとえ読まれたとしても差し障りのない、通り一遍のものであった」と指摘する。そして、「自分」と「女の人」母子三人とが別れる際、「吾々」という呼称を用いられることに関しては、次のように指摘する。

しかしここで注意を払わなければならないのは、「吾々」という表現が、「自分」と「女の人」とによって選択されたものではなく、あくまで「自分」の側の選択を言い表したものだということだ。つまりこれまで見て来て分かる通り、「女の人」にとって個々の出来事は、決して「自分」との関係に「吾々」という語の選択を導き出すようなものではなかった。そういう「女の人」の現実に対し、「自分」が「吾々」という語で二人の関係を捉えることは、逆に「女の人」の現実をまったく疎外していることになるのだ。

(蓼沼正美(1992))

このように、この「吾々」という呼称は、あくまでも「自分」にとっての「女の人」との関係性をあらわしたものであることを確認する。だが、蓼沼正美(1992)で論じられていることは、単に小林幸夫(1985)の批判ではない。『網走まで』という作品じたいに、小林幸夫(1985)で指摘されていたような「エロス」といった読み方を要求する「空所」があるという。作品冒頭の、

 宇都宮の友に、「日光の帰途には是非お邪魔する」と云つてやつたら、「誘つて呉れ、僕も行くから」と云ふ返事を受け取つた。
 それは八月も酷く暑い時分の事で、自分は特に午後四時二十分の汽車を選んで、兎に角その友の所まで行く事にした。

(『網走まで』『志賀直哉全集第一巻』1998年12月)

という時間設定によって、「「自分」によって語られている過去の時間」「そしてそれを「自分」が語っている時間」「読者として私たちがこのテクストを辿っている時間」という「三重の時間構造」をもつことになることを確認する。しかし、それが次のように、「「自分」によって語られている過去の時間」だけが「前景化」されるという。

(略)短文で、しかもその場の動きや喧嘩ノイズを畳み掛けるように再生することで、語り手自にもまた私たちにも、あたかもそれが眼前の場面であるかのように意識されていく。それによって「自分」の体験した過去の時間が、テクスト内のリアルな現在いまとして前景化され、語り手や読者としての時間は、背景として退けられていくのである。
 ところがその時間に、亀裂が入る時がある。それが「宇都宮までどんなに母は困らされたらう。」という言述である。これはコンパートメントの時間に従うならば、「宇都宮までどんなに母は困らされるだろう・・・・・・・・。」と言うべきである。それに対し「困らされたらう」という言述は、「自分」がそれまでのコンパートメントの時間構造から逸脱し、語り手として物語を語る現在いまに立ち戻って語られている。

(傍点原文。蓼沼正美(1992))

『網走まで』の後半の「宇都宮までどんなに母は困らされたらう。」という叙述に着目し、この叙述によって、「「自分」がそれまでのコンパートメントの時間構造から逸脱し、語り手として物語を語る現在いまに立ち戻って語られている」というそれまで「前景化」していたはずの時間が「背景」化してしまうと考察する。そして、それこそ、『網走まで』に仕組まれた「空所」であるというのである。

 「自分」がコンパートメントの現在いまから逸脱するということは、列車の乗客であることをやめ、語り手としての現在いまに立ち戻ることである。それによって私たちもまた、同乗者としての現在いまに引き戻されることになる。この時問題なのは、「自分」と私たちとの〈現在いま〉の質的相違ではなく、「自分」はあくまでその母の苦労をよく知っていて、私たちは全くそれを知らないということだ。つまり「どんなに母は困らされたらう。」という言述で、その苦労についての〈空所〉を抱え込んでしまうのは、「自分」ではなく私たちの方なのである。そのようにして語り手は、私たちにその〈空所〉を具体化すること――書くことエクリチュール――を求めているのである。
 その意味で『網走まで』の語り手が意識的であったもう一つのことは、私たち読者に対する呼び掛けに応えることは、私たちの読むことレクチュールを、テクストの神話――から解放することでもある。

(蓼沼正美(1992))

『網走まで』の「語り手は、私たちにその〈空所〉を具体化すること――書くことエクリチュール――を求めている」というのである。このようにして、小林幸夫(1985)でこころみられていたような読解が、『網走まで』の「テクスト」がもともともっている「空所」を埋めるためのものであることを指摘する。『網走まで』は、「交感のエロス」といった読解を促すような、「空所」を持つ「テクスト」であるというのである。
 以上のように『網走まで』についての先行研究の指摘をみてきた。町田栄(1972,b)では、「男の子」の父親を「想像」し、その「想像」が死に達するものであることを確認し、それでも「一種の遺書である「端書」」を読まない「自分」の「非情」さに、「自己救済の主我主義」という主張を指摘していた。
 小林幸夫(1985)では、『網走まで』に、「悲劇のヒロイン」であると見立てた「女の人」と、それを救い出す「ヒロイックな気分」の「自分」とが、「交感のエロス」を抱く物語であるという主題を見出す。「端書」を読まないのは、その「悲劇のヒロイン」である「虚構の女」像を壊さないためであると考察していた。
 一方、栗坪良樹(1985)は、『網走まで』は、そのほかの志賀直哉の作品と共通する「感情の起伏」の「循環」をたどるという「基底」をもつと確認する。だが、「男の子」を想像する際、それまで「感情の人」であった「自分」は、「認識の器」となり、「彼女の家族全員を自身の内に集合させ」ていくと考察していた。そして、それは、作家・志賀直哉の「知や観念」の「指向性」を示すものであると指摘していた。
 最後に、蓼沼正美(1992)では、「自分」と「女の人」とのやりとりが、「自分」のみの「「快」さ」にすぎず、その「「快」さ」が作品の「動機モティーフ」であるという。それまでの「時間構造」を逸脱した、「宇都宮までどんなに母は困らされたらう。」という一文により、『網走まで』という「テクスト」に「空所」が生まれると指摘し、読み手にその「空所」を埋めるための「書くことエクリチュール」を求めるように書かれている作品であると考察していた。
 これらの先行研究を踏まえて、次項の第2項で『網走まで』の梗概と場面構成について整理することにする。

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第2項 『網走まで』における場面構成

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 第2項では、前節の『或る朝』の分析でもこころもみたように、分析項目を考える手がかりとして、作品全体の大まかな梗概と場面構成とを整理する。第1項の先行研究を踏まえながら、『網走まで』について考えていく。
 夏の暑い時期の夕方、「宇都宮」の友人に会いに行くため、「自分」は「上野」駅から「青森行」の汽車に乗り込む。いつも通りの騒がしい乗客をよそ目に、「自分」は混雑が避けられる一番前の車両の一番後ろの一間に乗り込むことにする。そこに、出発間際になって、二十六七歳の「女の人」が二人の幼子をつれて、「自分」のいる一間に乗車してくる。そして汽車が出る。(場面T)
 汽車が出ると、「女の人」は「自分」の向かい側の、日が当る場所に席をとる。日が当る場所しかないことに困った様子の「女の人」に対して、連れられた「男の子」は恐ろしい顔をして答える。「女の人」の困っている様子を見かねた「自分」は、「男の子」に席をゆずってやる。しかし、「男の子」は無愛想なままである。火の当らない場所に席が空き「女の人」がそこに移動すると、負ぶっていた「赤児」が眼を覚まして泣き出してしまう。「女の人」があやすが、「赤児」のおしめが濡れていることに気づき、再び「男の子」の座る場所がなくなってしまう。それを見ていた「自分」は、再び「男の子」に席を譲ってやる。「男の子」が席に戻ると、「自分」は母子の行き先を尋ねる。北海道の「網走」まで行くと聞いた「自分」は、あまりに印象の違う母子の目元が似ていることに気づき、「男の子」の父親を想像し始める。(場面U)
 「自分」は、「女の人」の話と、服装などから、昔の華やかな暮らしを想像する。しかし、夫の会社がうまく行かなくなって、気難しい男になってしまったのだろうと思いをめぐらせる。(場面V)
 「自分」が二人の子の父親を想像していると、「男の子」が小便を訴える。しかし、汽車には便所がなく、駅夫は「宇都宮」まで小便をする時間がないという。必死に我慢するように促す「女の人」だったが、「赤児」までも泣き出してしまう。二人の子どもに困らされる様子をみて、「自分」は「女の人」がやがて死んでしまうのではないか、と考える。「宇都宮」につくと、「女の人」に赤ん坊をみておいてくれ、と頼まれ、「自分」は快諾する。しかし、母親が離れようとすると「赤児」は泣き出してしまう。仕方なく背負うことにした「女の人」は、「自分」がこの「宇都宮」で降りると告げると驚く。フォームで歩いていると、「女の人」は「自分」に葉書を出すように頼む。しかし、その葉書がなかなか取り出せずにいると、「自分」は、「女の人」の肩のハンカチがはだけるのをみて、それを直そうと手を差し伸べる。そして「自分」と三人の母子は別れる。(場面W)
 駅で葉書を出そうとするとき、「自分」はその内容を見るか見まいか迷う。しかし、結局見ずに投函する。(場面X)
 『網走まで』の梗概をまとめると以上のようになる。場面構成は次のように分けられるであろう。なお、『或る朝』と同様に、表の「文番号」は、本稿に資料として添付している『網走まで』本文(作成は高田)の文番号に対応するものである。

表: 『網走まで』の場面構成表
場面番号 文番号 場面 場面の梗概
場面T 1〜12 乗車・発車 作品の冒頭。「自分」が青森行の汽車に乗りこみ、二人の子をつれた女の人が「自分」の乗る車両に乗り込んでくる。汽車が発車するまで。
場面U 13〜129 母子とのやりとり@ その後の「自分」と母子とのやりとりが展開される。「自分」は「男の子」を隣に座らせる。「女の人」の目的地が「網走」であることを知る。
場面V 130〜153 父親(夫)の想像 「自分」が母子の姿を見ながら、かつての同級生を思い浮かべ、その父親を想像する。
場面W 154〜197 母子とのやりとりA 再び、母子とのやりとりが展開される。「男の子」が小便をしたいと言い出す。宇都宮で下車し、母子と別れるまで。
場面X 198〜204 手紙の投函 母子と別れたあと、頼まれた手紙を投函する。

 『網走まで』では、「自分」と汽車の中で出会った「女の人」との交流が中心的な作品になっている。先行研究では、「自分」が「女の人」へ「エロス」を感じることが、作品の主題であると指摘されていた(小林幸夫(1985))。しかし、考察の前提として、その「エロス」を考えるのではなく、「自分」がいかに「女の人」に関心を抱き、心的な距離を近づけていくか、という点に着目することにする。「エロス」を感じていたか否か、あるいは「自分」が「女の人」に対してどのような感情を抱いていたのか、という点は作品全体を統一する主題にかかわる問題である。『網走まで』における主題が、具体的にどのようなものであるか、ということについては、次項以降で叙述法や視点の配賦の分析・考察を通して、明らかにしたい。
 その心的な距離が近づくということを考えるためのてがかりとして、「女の人」と、その子どもである「男の子」や「赤児」といったその他の作中人物たちとが、どのように対比的に描かれていくのか、という点を一つの観点として分析・考察を進めていく。場面Wの終わりで、「自分」と「女の人」らが、「吾々」という一語で呼称される。それまで「自分」と「女の人」、「母親」と明確に分けられていた呼称が、一つの語で呼称されるようになるということは、それだけ「自分」と「女の人」との心的な距離が近づいたということであろう。「自分」は、偶然汽車で乗り合わせた「女の人」に対して、「吾々」と呼称されるほどに心的な距離が近づけていく、その過程を考えることが、作品の主題を考えるてがかりになる。
 次項第3項では、これらのことを踏まえて、実際にどのような分類の項目を設けるのかを決定することにする。

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第3項 叙述の分類分析の項目

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 『網走まで』の叙述の分類分析の項目を決定する。前節でもこころみたように、土部弘(1986)や『或る朝』で分析した項目を踏まえながら、『網走まで』の内容に即した項目を決定する。『網走まで』においても、これらの分類項目は、作品に即したものにするため、何度も再考し帰納法的に決定したものである。
 『或る朝』と同じように、「叙述者表現」と「対象表現」に二分される。「叙述者表現」は、『或る朝』におけるそれほど少なくないため、下位区分として、「叙述者」による、より客観的な補足説明の叙述「説明」と、より主観的な「解釈・評価」を下位区分として設ける。
 「対象表現」は、「人物描写」、「事物描写」に二別される。『網走まで』では、「事物描写」の叙述があるためこれを設けることにする。「事物描写」は、事物の動きや動作を表わす「動態描写」と、事物の様子や状態を叙述した「静態描写」とに二分される。また、「場面設定」の叙述がみとめられるため、これも「人物描写」・「事物描写」に加えることにする。
 『網走まで』は、第1項の先行研究や、第2項の場面構成の整理でみたように、一人称「自分」が「女の人」に心的な距離を近づけていく、という物語である。そこで中心的な作中人物となる「自分」を「人物描写」で区別して扱うことにする。また、「女の人」と、「男の子」をはじめとする他の作中人物との描きわけが重要な意味をもつものと考えたため、「女の人」も別に分類することにした。ぞれぞれの「人物描写」には「談話描写」・「行動描写」・「状態描写」・「心理描写」という四つの下位区分をする。『網走まで』においては、「心理描写」に下位区分を設けない。
 これらの分類項目を箇条書きに整理しなおすと以下のようになる。(例)としたものは、『網走まで』における、その項目の叙述の具体例である。文番号、部分番号は添付した資料の『網走まで』本文と同様のものである(作成は田)。下線部があるものは、その下線部のみがその叙述である(下線は田)。原文にあるルビは外した。

「叙述者表現」… 「叙述者」に即した主観的な表現。
「説明」………… 「叙述者」によるより客観的な補足説明の「説明」の叙述。
(例)24又其処しか空いて居なかったので。
「解釈・評価」… 「叙述者」によるより主観的で評価が加わった「解釈」、「評価」の叙述。
(例)52荷といつても、女持の信玄袋と風呂敷包が一つだけだ。
   
「対象表現」…… 叙述されることがらに即した、より客観的な表現。
「場面設定」…… 場面のいま・ここを設定する叙述。
(例)2(a)それは八月も酷く暑い時分の事で、(b)自分は特に午後四時二十分の汽車を選んで、兎に角その友の所まで行く事にした。
「談話描写」…… 直接話法によって抜き出された各作中人物の会話の描写。
(例)「25(a)母さん、どいとくれよ」(b)と七つ許りの男の子が眉の間にしわを寄せていふ。
「行動描写」…… 人物の動態的な動作、動きの描写。
(例)46自分は男の子の手を取つて自分の傍に坐らせた。
「状態描写」…… 人物の静態的な様子、容姿の描写。
(例)42子供は耳と鼻とに綿をつめて居た。
「心理描写」…… 「その他の人物」についての内面の描写。
(例)40顔色の悪い、頭の鉢の開いた、妙な子だと思つた。
「事物描写」…… 人物ではない、事や物についての叙述。以下の二つの叙述に下位区分される。
「動態描写」…… 事物についての動的な描写。事物の動きや、動作といった時間的な変化を描写した叙述。
(例)6鈴が鳴つて、改札口が開かれた。
「静態描写」…… 事物についての静的な描写。事物の様子や、状態といった空間的な描写を描写した叙述。
(例)16それでも七分しか入つて居ない。

 これらの項目を、縦軸(列)におき、文を横軸(行)においた。図表のタイトル行は次のようになる。

表: 『網走まで』分析図表 分類項目
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 「女の人」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写

 各項目の叙述は、『網走まで』においても、前節の『或る朝』と同じように配置した。左端に文番号をおき、「対象表現」「叙述者表現」とならべた。「対象表現」は左から「場面設定」「人物描写」として、以下「自分」「女の人」「その他の作中人物」の「人物描写」を対比させられるようならべた。「人物描写」の下位項目は、左側にいくほど外的な描写、右側にいくほど人物の内面にかかわる描写になるよう配置した。
 分類分析は、一文をそのまま一つの項目に分類するのではなく、叙述が部分的に分けられる場合は、分けている。文番号以外にも、部分番号が必要なのはそのためである。これらのことも『或る朝』でおこなった分類分析に準じている。
 分析は場面ごとにおこない、図表として資料として添付している。各場面で全くみられなかった項目については、図表を簡略化するため削除している。場面Uにおける「人物描写」の「女の人」の「心理描写」などがそれである。また、第4項以降の考察でも参照しやすいように、言及している部分の分析図表を抜き出した。なお、本稿の中に抜き出した図表は、簡略化するため「談話描写」、「行動描写」……を、それぞれ「談話」、「行動」……と略記している。
 表記については、次のようにした。添付した分析図表の資料は、場面ごとにおこなったものである。図表に書き込むのは、原則として、文番号(1、2、3…)と部分番号((a)、(b)、(c)…)のみである。この文番号は、資料に添付した『網走まで』の本文と対応している。「場面設定」の叙述は、文番号以外に直接図表に書き加えている。
 以上のように、叙述を分析した結果を元に、第4項で具体的に『網走まで』について考察をおこなっていくことにする。

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第4項 『網走まで』の叙述の分類分析による考察

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 前節の『或る朝』の分析と同じように、叙述の分類分析により、『網走まで』の考察をすすめる。ここで着目すべき点は、「女の人」と「男の子」をはじめとするその他の人物とがいかに対比的に描かれているか、という点である。その対比とは、「女の人」と「男の子」や「赤児」らとが正反対にあるのではなく、「自分」が「女の人」に関心を持ち、同情する一つの要因として、「男の子」や「赤児」の印象的な描写があるということである。
 つまり、いかに「自分」が「女の人」に関心をもち、同情するか、という点を考えるうえでのてがかりとして、両者の対比を叙述から考察していくという手続きになる。
 『網走まで』において視点が置かれているのは、『或る朝』とは違い、一人称小説であるため、一人称の「自分」である。以下の考察も、「自分」に視点が置かれていることを前提としてすすめていくこととする。
 本項で引用する『網走まで』本文の傍点は、原文による(『志賀直哉全集第一巻』岩波書店1998年12月)。文番号、部分番号は引用者による。

【場面T】

 1宇都宮の友に、「日光の帰途には是非お邪魔する」と云つてやつたら、「誘つて呉れ、僕も行くから」と云ふ返事を受け取つた。
 2(a)それは八月も酷く暑い時分の事で、(b)自分は特に午後四時二十分の汽車を選んで、兎に角その友の所まで行く事にした。3汽車は青森行である。4(a)自分が上野へ着いた(b)時には、もう大勢の人が改札口へ集つて居た。5自分も直ぐ其仲間へ入つて立つた。
図表: 『網走まで』場面T 叙述の分類分析図表(1〜5文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 「女の人」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
行動描写 状態描写 心理描写 行動描写 状態描写 談話描写 行動描写 状態描写
1 1宇都宮の友に、(略)云ふ返事を受け取つた。                        
2 2(a)それは八月も酷く暑い時分の事で、                      2(b)  
3                       3  
4   4(a)             4(b)      
5   5                    

 

  この引用は『網走まで』の冒頭にあたる。「自分」が「宇都宮」に行く理由が提示され、具体的な時間と空間の設定がされ、「自分」は「青森行」の汽車がある「上野」の駅に着く。
 第1文の段階では、「云つてやつたら」という主体が誰であるのか、不明である。この「云つてやつたら」という叙述は「行動描写」に分類されうるが、「云ふ返事を受け取つた」とあることと、「友」とのやりとりが具体的な場面において叙述されているわけではないこととから、この叙述は、手紙などでのやりとりと考えられるため「場面設定」の叙述として分類した。
 続く2文、3文の叙述も、「場面設定」と「叙述者表現」の「説明」である。この冒頭3文までで注目すべきことは、先行研究で指摘されていたように、作品の表題が「網走まで」であるのに対し、「自分」の目的地が「宇都宮」であることが明かされる点である。この冒頭部の時点では、「女の人」の存在は明らかにされないが、読み手は違和感を持つことになろう。作品の表題が「網走まで」であるのに対し、「自分」の目的地は「宇都宮」であり、食い違っている。この表題と冒頭の食い違いは、やがて訪れる「女の人」との出会いが、別れを前提とするものであるということが示されている。どれだけ心的に近づいたとしても「自分」は「女の人」と別れるという結末を暗示しているのである。
 また、この冒頭は同時に、「自分」にとっては、「上野」から「日光」へという空間的な移動を伴う行動であれ、日常の出来事であることも示されている。

 6鈴が鳴つて、改札口が開かれた。7人々は一度にどよめき立つた。8(a)鋏の音が繁く聞え出す。9改札口の手摺へつかへた手荷物を口を歪めて引つぱる人や、本流から食み出して無理に復、還らうとする人や、それを入れまいとする人や、(b)いつもの通りの混雑である。10巡査が厭な眼つきで改札人の背後から客の一人々々を見て居る。11(a)此処を辛うじて出た人々はプラットフォームを小走りに急いで、駅夫等の(b)「先が空いています、先が空いています」(c)と叫ぶのも聞かずに、吾れ先きと手短な客車に入りたがる。12(a)自分は一番先の客車に乗るつもりで(b)急いだ。
 13(a)先の客車は(b)案の定(c)すいてゐた。14自分は一番先の車の一番後の一 ト間に入つた。15後方の客車に乗れなかつた連中が追々此処までも押し寄せて来た。16それでも七分しか入つて居ない。17発車の時がせまつた。18遠く近く戸をたてる音、そのおさへ金を掛ける音などが聞える。19(a)自分の居る間の戸を今閉めようとした帽に赤い筋を巻いた駅員が手を挙げて、
 「(b)此方へいらつしやい。20(a)こちらへ」(b)と戸を開けて待つて居る。21(a)所へ、(b)二十六七の色の白い、髪の毛の少い(c)女の人が、一人をおぶひ、一人の手を曳いて入つて来た。22汽車は直ぐ出た。

図表: 『網走まで』場面T 叙述の分類分析図表(6〜22文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 「女の人」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
行動描写 状態描写 心理描写 行動描写 状態描写 談話描写 行動描写 状態描写
6                   6      
7               7          
8                   8      
9                 9(a)       9(b)
10               10          
11             11(b) 11(a)
(c)
         
12   12(b)   12(a)                  
13       13(b)             13(a)
(c)
   
14   14                      
15               15          
16                     16    
17 17発車の時がせまつた。                        
18                     18    
19             19(b) 19(a)          
20             20(a) 20(b)          
21         21(a)
(c)
21(b)              
22                   22      

 「上野」の駅についた「自分」は、先頭の汽車の、一番後の一間に乗車する。そして、発車間際の汽車に、「自分」の乗る一間に二人の幼子をつれた「女の人」が乗車し、汽車は発車する。
 駅に到着した「自分」は雑踏を避けて、混雑の少ない先頭の車両の、一番後の一間に乗車する。ここで、注目すべきことは、「自分」とそれ以外の混雑する人々とが対比されていることである。9文「改札口の手摺へつかへた手荷物を口を歪めて引つぱる人や、本流から食み出して無理に復、還らうとする人や、それを入れまいとする人」たちの、「いつも通り」の人々と、「自分」とは既に一線を画するように描かれている。11文「叫ぶのも聞かずに、吾れ先きと手短な客車に入りたがる」とあり、「自分」は人々を冷静にとらえている。さらに、12文「自分は一番先の客車に乗るつもりで急いだ」とあるように、「自分」とその他の乗客とが対比的に描かれている。深い関心と同情を傾けることになる「女の人」と出会う前に、一般客とは、一線を画する「自分」という人物像と、その意識が描かれているということである。
 また、「自分」に関してもうひとつの注目されるのは、日常的に汽車を利用している人物であるという点である。「いつも通り」とする乗客や、混雑を見越してはじめから先頭の車両に乗り込む「自分」にとって、汽車に乗ることそのものは、それほど特別なことではないのである。
 そのような混雑の中、二人の子どもをつれた「女の人」が、「自分」と同じ一間にやってくる。第21文にあるように、「女の人」は、それまでのその他の人物たちとは違い、「二十六七の色の白い、髪の毛の少い」と細かい「状態描写」がされていることから、見かけた時点ですでに興味を持っていることを伺わせる。
 このように場面Tでは、「自分」は他の一般の乗客とは違う意識をもっている人物であることが示されている。また、その「自分」は、汽車の時刻をあらかじめ決めていたり、混雑を見越して乗る車両に目星をつけている様子から、汽車に乗ることが日常的な生活の中にある人物でもある。その「自分」は、冷静で他の人間とは違う意識を持った人物として描かれている。やがて「女の人」に強い関心と深い同情をもつようになるが、それでも「女の人」の人生に立ち入ろうとしないのは、この冷静に自身と他人との違いを見つめる人物として設定されているからである。

【場面U】

 23女の人は西日のさす自分とは反対側の窓の傍に席を取つた。24又其処しか空いて居なかったので。
 「25(a)母さん、どいとくれよ」(b)と七つ許りの男の子が眉の間にしわを寄せていふ。
 「26(a)ここは暑つござんすよ」(b)と母は背の赤児を下ろしながら静かに云つた。
 「27暑くたっていいよ」
 「28日のあたる所へ居ると、又おつむ・・・が痛みますよ」
 「29(a)いいつたら」(b)と子供は恐ろしい顔をして母をにらんだ。
 「30(a)滝さん」(b)と静かに顔を寄せて、「(c)これからね、遠い所まで行くんですからね。31若し途中で、お前さんのおつむ・・・でも痛み出すと、母さんは本統に泣きたい位困るんですからね。32ね、いい児だから母さんの云ふ事を肯いて頂戴。33それにね、いまに日のあたらない方の窓があくから、さうしたら直ぐいらつしやいね。34解りまして?」
図表: 『網走まで』場面U 叙述の分類分析図表(23〜34文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 「女の人」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
23           23                  
24                           24  
25               25(a) 25(b)            
26         26(a) 26(b)                  
27               27              
28         28                    
29               29(a) 29(b)            
30         30(a)
(c)
30(b)                  
31         31                    
32         32                    
33         33                    
34         34                    

 これは、場面Uになり「女の人」と「男の子」とがやりとりをくりかえすのを「自分」が見つめる箇所である。
 ここでは、「自分」についての「行動描写」や「心理描写」などがみられない。なぜなら、この箇所は、二人の親子のやりとりを、他人である「自分」が見つめているのみであり、「自分」はその親子には直接関与していないからである。
 ここで重要なのは、やはり「女の人」と「男の子」との対比的な描かれ方である。25文「男の子が眉の間にしわを寄せていふ」のに対して、母親である「女の人」は26文「静かに」云う。また、29文「恐ろしい顔をして」にらむ「男の子」に対して、「女の人」は、30文「静かに顔を寄せて」丁寧に「男の子」を諭す。「自分」は二人のやりとりに直接参加してはいないが、すでに「男の子」の印象が「自分」にとって否定的なものであることが確認される。「女の人」「男の子」両者の描かれ方は対比的ではあるが、その対比的な描写というのは、正反対ではなく「男の子」の嫌な印象が際立つように描かれている。つまり、その両者の対比性は、その嫌な印象をもつ「男の子」が、母親である「女の人」を苦しめるという対比なのである。

 「35(a)頭なんて痛くなりや仕ないつたら」(b)と子供は尚ケン/\しく云ひ張つた。36母は悲しさうな顔をした。
 「37困るのねえ」
 38(a)自分は突然、
 「(b)此処へおいでなさい」(c)と窓の所を一尺許りあけて、「(d)此処なら日が当りませんよ」(e)と云つた。
 39男の子は厭な眼で自分を見た。40顔色の悪い、頭の鉢の開いた、妙な子だと思つた。41自分はいやな気持がした。42子供は耳と鼻とに綿をつめて居た。
図表: 『網走まで』場面U 叙述の分類分析図表(35〜42文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 「女の人」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
35               35(a) 35(b)            
36           36                  
37         37                    
38   38(b)
(d)
38(a)
(c)
(e)
                       
39                 39            
40       40                      
41       41                      
42                   42          

 「自分」は、困っている「女の人」の様子を見て、「男の子」に席を譲ることを申し出る。
 母子にとってそれまで乗り合わせた乗客にすぎなかった「自分」が、席を譲ることを申し出ることで、母子と「自分」とやりとりを交わすようになる。38文「此処へおいでなさい」と、「突然」話しかけた「自分」に対して、「男の子」は「厭な眼で」見つめ返す。「自分」は、そこで41文「自分はいやな気持がした」と「心理描写」され、「男の子」の印象が悪いことが示される。これまで母子の様子を見ていただけだった「自分」にとって、やりとりを交わした時点で既に「男の子」の印象が悪いということが、「心理描写」としてはっきりと示されるのである。

 「43まあ、どうも恐れ入ります」44(a)女の人は悲しい顔に笑を浮かべて、「(b)滝さん、御礼を云つて、あそこを拝借なさい」(c)と子の背に手をやつて此方へ押すやうにする。
 「45いらつしやい」46自分は男の子の手を取つて自分の傍に坐らせた。47男の子は妙な眼つきで時々自分の顔を見て居たが、小時して漸く外の景色に見入つた。
 「48なるたけ、其方ばかり見て居たまへよ、石炭殻が目に入るから」
 49(a)こんな事をいつても(b)男の子は返事を仕ない。50やがて浦和に来た。51(a)此処で自分と向ひ合つてゐた二人が降りたので、(b)女の人は荷と一緒に其処へ移つた。52荷といつても、女持の信玄袋と風呂敷包が一つだけだ。
図表: 『網走まで』場面U 叙述の分類分析図表(43〜52文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 「女の人」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
43         43                    
44         44(b) 44(a)
(c)
                 
45   45                          
46     46                        
47                 47            
48   48                          
49           49(a)       49(b)          
50 50やがて浦和に来た。                            
51           51(a)     51(b)            
52                             52

 続いて、「自分」の申し出に対して、「女の人」が促すことで「男の子」は、席を移る。
 「自分」の申し出に対して、「女の人」が44文「悲しい顔に笑を浮かべて」「男の子」を「自分」の席へと促す。しかし、促された「男の子」は「自分」の親切からの助言にも耳を貸さない(49文)。やはりここでも、「自分」に丁寧な「女の人」に対して、「男の子」は「返事を仕ない」と対比的に描かれている。対比させることで、無愛想な「男の子」が、単に子どもであるという幼さからの態度ではなく、「自分」に嫌な印象を与える人物として描かれているのである。
 52文「荷といつても、女持の信玄袋と風呂敷包が一つだけだ」という「叙述者表現」の「解釈・評価」の叙述になっている。これは、先の30文(c)の「女の人」の言葉や、これ以降の102文の目的地が「網走」であることと関わっている叙述であろう。「一つだった」や「一つだ」といった文末ではなく、「叙述者」に「だけだ」という「評価」が下されるのは、「遠い所まで行く」、「網走」まで行くにもかかわらず、荷物が「女持の信玄袋と風呂敷包が一つ」しかないからである。

 「53さ、滝さん、こちらへ御いでなさい。54どうもありがたう御座いました」55女の人はさう云つてお辞儀をした。56動いたので今までよく眠つて居た赤児が眼を覚して泣き出した。57(a)母は、
 「(b)よし/\」(c)と膝の上でゆすりながら、(d)「チチカ、チチカ」(e)とあやす・・・やうに云ふが、(f)赤児は踏反りかへつて益々泣く。「58(a)おおよし/\」(b)と同じやうな事をして、今度は、「(c)うま、上げよう」(d)と片手で信玄袋から「園の露」を一つ出してやる。59それでも赤児は泣きやまぬ。60(a)わきからは、
 「(b)母さん、あたいには」(c)とさも不平らしい顔をして云ふ。
 「61(a)自分で出して、おあがんなさい」(b)といつて母は胸を開けて乳首を含ませ、帯の間から薄よごれた絹のハンケチを出して自分の喉の所へ挟んでたらし、開いた胸を隠した。
 62(a)男の子は信玄袋の中へ手を入れて探つて居たが、
 「(b)ううん、これぢやないの」(c)と首を振る。
 「63それでないつて、どんなの?」
 「64玉の」
 「65玉のはない。66あれは持つて来なかつた。」
 「67いやだあ! 68(a)玉のでなくちや、いや」(b)と鼻声を出す。
 「69其下にドロップが入つてますから、それをおあがんなさい。70ね、いい児、ドロップでもおいしいのよ」
 71男の子は不承々々うなづく。72母は又片手でそれを出して子の手へ四粒ばかり、それをのせた。
 「73(a)もつと」(b)と男の子が云ふ。74母は更に二粒足した。
図表: 『網走まで』場面U 叙述の分類分析図表(53〜74文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 「女の人」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
53         53                    
54         54                    
55           55                  
56                 56            
57         57(b)
(d)
57(a)
(c)
(e)
    57(f)            
58         58(a)
(c)
58(b)
(d)
                 
59                 59            
60               60(b) 60(a)
(c)
           
61         61(a) 61(b)                  
62               62(b) 62(a)
(c)
           
63         63                    
64               64              
65         65                    
66         66                    
67               67              
68               68(a) 68(b)            
69         69                    
70         70                    
71                 71            
72           72                  
73               73(a) 73(b)            
74           74                  

 「女の人」と抱いていた赤ん坊が、席を移動したため、赤ん坊が泣き出してしまう。泣き止ますため「園の露」を与えようとすると、「男の子」もせがむという母子のやりとりが展開される。
 この箇所も、「自分」は母子を見つめる観察者となり、一切の「行動描写」や「心理描写」がなくなる。57文「女の人」が泣き出した「赤児」に「あやす・・・やうに云ふ」が、「赤児」のほうは、「踏反りかへつて益々泣く」。あやしている傍から、「男の子」が60文「不平らしい顔」をしてせがみ、ほしいものがないとわかると「鼻声を出」し、母親の言葉に、「不承々々うなづく」。やはり、「女の人」の丁寧で落ちついた態度に対して、「赤児」と「男の子」は、嫌な印象を与えるように描かれている。

 75乳に厭きた赤児は、母の髪から落ちたバラフの櫛をいぢつて、仕舞にそれを口へ入れようとする。
 「76(a)いけません」(b)と母が其小さな手を支へると、(c)赤児は口を開いて、顔を其方へもつて行く。77下の歯ぐきに小さく白い歯が二つ見えた。
 「78さ、うま/\」79(a)膝の上へ落ちた「園の露」を顔の前へ出すと、(b)あー/\と云つて居た赤児は黙つて、眼の玉を寄せて暫く見つめてゐたが、櫛を放してそれを取る。80そして握り拳のまま口へ入れようとする。81其口元からタラ/\と涎水がたれた。
 82女の人は赤児を少し寝せ加減にして、股の間へ手をやつて見た。83濡れて居たらしかつた。
 「84おむつ・・・を更へませうね」85(a)かう独言のやうに云つて更に男の子に、
 「(b)滝さん、少しそこを貸して頂戴、赤ちやんのおむつ・・・を更へるんですから」
 「86(a)いやだなア――母ァさんは」(b)と男の子は(c)いや/\(d)起つ。
 「87(a)此処へお掛けなさい」(b)と自分は再び前に掛けさせた場所を空けてやつた。
 「88恐れ入ります、どうも気むづかしくて困ります」89女の人は寂しく笑つた。
図表: 『網走まで』場面U 叙述の分類分析図表(75〜89文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 「女の人」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
75                 75            
76         76(a) 76(b)     76(c)            
77                   77          
78         78                    
79           79(a)     79(b)            
80                 80            
81                 81            
82           82                  
83                         83    
84         84                    
85         85(b) 85(a)                  
86               86(a)
86(b)
(d)
86(c)          
87   87(a) 87(b)                        
88         88                    
89           89                  

 赤ん坊のおしめを換えるため、再び「自分」が「男の子」に席を空けてやる。
 この箇所で、「自分」は再び母子のやりとりに関わる。だが、87文で「此処へお掛けなさい」と「男の子」に申し出るまでは、やはり観察者であり、「自分」についての「対象表現」はない。また、二回「男の子」に席を空けてやるのは、二回とも「女の人」が困った様子を見かねての行動である。しかし、この二回の「自分」の行動は、能動的で好意的な行動ではあるのだが、それまで観察者を貫く態度(母子とやりとりするような、「自分」についての「対象表現」がないこと)や、相手(「女の人」)が困ったときだけ関わろうとしていることから、積極的に関わろうとはしていない。同じ一間に乗り合わせて、困っている様子だったから席を空けた、という程度のことである。
 ここでは、これまで母子の「人物描写」は、「談話描写」・「行動描写」・「状態描写」が中心だった。しかし、86文(c)「いや/\」は、「男の子」の「心理描写」がされる。これは、置かれる視点が変化するというものではなく、「男の子」の外的な様子(86文(a)の「談話描写」の口調や、(d)の「起つ」様子など)から「自分」が読みとったものである。

 「90耳や、鼻のお悪いせゐ・・もあるでせう」
 「91(a)御免遊ばせ」(b)と女の人は後を向いて包から乾いたおしめ・・・と濡れたのを包む油紙とを出しながら、
 「(c)それもたしかに御座います」(d)といふ。
 「92何時頃からお悪いんですか」
 「93是は生れつきで御座いますの。94お医者様は是の父が余り大酒をするからだと仰有いますが、鼻や耳は兎に角つむり・・・が悪いのはそんな事ではないかと存じます」
 95腰掛に仰向けに転がされた赤児は的もなく何かを見詰めて、手を動かして、あー/\と声を出してゐた。96(a)間もなくおしめ・・・を更へ、濡れたのを始末して母は赤児を抱き上げると、
 「(b)ありがたう御座いました……サア滝さん、此方へいらつしやい」(c)と云つた。
 「97(a)かまひません、此方へお出でなさい」(b)と云つたが、(c)男の子は黙つて立つて向う側へ腰かけると直ぐ窓へよりかかつて外をながめ始めた。
 「98まあ、失礼な」99女の人は気の毒さうに詫を云つた。
図表: 『網走まで』場面U 叙述の分類分析図表(90〜99文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 「女の人」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
90   90                          
91         91(a)
(c)
91(b)
(d)
                 
92   92                          
93         93                    
94         94                    
95                 95            
96         96(b) 96(a)
(c)
                 
97   97(a) 97(b)           97(c)            
98         98                    
99           99                  

 再び「男の子」に席をゆずった「自分」は、赤ん坊のおしめを換えている間「女の人」と会話を交わす。
 ここで「自分」は、はじめて会話らしい会話を「女の人」と交わす。おしめを取り換えたあとも、「自分」は97文「かまひません、此方へお出でなさい」と言うが、「男の子」はそれに応じない。それに対して「女の人」は、99文「気の毒さうに詫を云」う。ここでも、「自分」にとって、「男の子」の態度は良いものとは言えない。だが、やはりその印象の悪さは、「男の子」の幼さによるものとしてではなく、「男の子」自身の「自分」に対する嫌な印象として描かれている。「女の人」が「気の毒さう」なのは、「自分」にとって「男の子」の態度が悪いということを示しているのである。

 100(a)小時して自分は、
 「(b)どちら迄おいでですか」(c)と訊いた。
 「101北海道で御座います。102網走とか申す所ださうで、大変遠くて不便な所ださうです」
 「103何の国になつてますかしら?」
 「104北見だとか申しました」
 「105そりや大変だ。106五日はどうしても、かかりませう」
 「107通して参りましても、一週間かかるさうで御座います」
図表: 『網走まで』場面U 叙述の分類分析図表(100〜107文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 「女の人」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
100   100(b) 100(a)                        
101         101                    
102         102                    
103   103                          
104         104                    
105   105                          
106   106                          
107         107                    

 「自分」は再び「女の人」に話しかけ、母子の目的地を訊く。
 ここではじめて「自分」は「女の人」の目的地が「網走」であることを知る。ここでは、ほぼ「自分」の「談話描写」と「女の人」の「談話描写」のみで叙述される。これまで、たびたび席を空けたり、話しかけたりすることで、「自分」は「女の人」に対して関心を寄せてはいる。しかし、「自分」の「心理描写」がなく、その会話の内容も一般的な世間話程度の内容と言えるものであることから、「自分」は深い意図もない会話として叙述されている。つまり、「女の人」への関心や同情をもっていたとしても、それは深く大きいものではないということである。

 108汽車は今、間々田の停車場を出た。109近くの森から蜩の声が追ひかけるやうに聞える。110日は入つた。111西側の窓際に居た人々は日除け窓を開けた。112涼しい風が入る。113今しがた、母に抱かれたまま眠入つた赤児の一寸許りに延びた生毛が風にののいて居る。114赤児の軽く開いた口のあたりに蝿が二三疋うるさく飛びまはる。115母はぢッと何か考へて居たが、時々手のハンケチで蝿をはらつた。116小時して女の人は荷を片寄せ、其処へ赤児を寝かすと、信玄袋から端書を二三枚と鉛筆を出して書き始めた。117けれども筆は却々進まなかつた。
 「118母ァさん」119(a)景色にも厭きて来た(b)男の子は、ねむさうな眼をして云つた。
 「120なぁに?」
 「121まだ却々?」
 「122ええ、却々ですからね、おねむになつたら母ァさん倚りかかつて、ねんね・・・なさいよ」
 「123ねむかない」
 「124さう、ぢや、何か絵本でも御覧なさいな」
 125男の子は黙つて首肯いた。126母は包の中から四五冊の絵本を出してやつた。127中に古いバックなどが有つた。128男の子は柔順しく、それらの絵本を一つ/\見始めた。129其時自分は、後へ倚りかかつて、下目使ひをして本を見て居る男の子の眼と、矢張り同じ伏目をして端書書いて居る母の眼とがそつくりだといふ事に心附いた。
図表: 『網走まで』場面U 叙述の分類分析図表(108〜129文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 「女の人」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
108 108汽車は(略)を出た。                            
109                       109      
110 110日は入つた。                            
111                 111            
112                       112      
113                 113            
114                       114      
115           115                  
116 116小時して         116                  
117           117                  
118               118              
119                 119(b)   119(a)        
120         120                    
121               121              
122         122                    
123               123              
124         124                    
125                 125            
126           126                  
127                         127    
128                 128            
129       129                      

 汽車は進み、日没の時間を迎える。ようやく落ちつき始めた二人の子どもの様子を見ながら、「女の人」は端書を書き始める。「男の子」も、景色に飽きて絵本を見始める。
 再び、「自分」は母子を見つめる観察者となると、叙述も「自分」についての描写はなくなる。「男の子」と「女の人」とのそれぞれの目が似ていることから、「自分」は子どもたちの父親を想像し始める。
 この場面Uでは、「自分」は何度か母子たちとやりとりを繰り返すが、おおむね観察者として母子を観察している。困っている様子を見ては、「男の子」に席を空けてやるが、母子、特に「女の人」と「自分」との関係は、特別親密と言えるほどの叙述はない。他の乗客についての叙述がないことから、積極的にこの三人の母子を観察しているとは言えるものの、「自分」は母子に積極的に関わろうとはしていない。嫌な印象の「男の子」に困らされている「女の人」を二度助けるとしても、依然として「自分」は、自身と他人とを明確に線引きするような冷静な態度である。
 その観察者としての「自分」の印象に残るのは、「女の人」への同情ではなく、むしろ「男の子」への嫌な印象である。丁寧で、静かな口調という「女の人」の描かれ方に対して、「男の子」は、「自分」は露骨とも言えるほど41文「いやな気持」が「心理描写」される。先ほども述べたように、この「男の子」は、子どもだからという幼さによる「自分」への無愛想な態度としてではなく、「自分」に「いやな気持」を与える者として描かれている。
 「女の人」への関心や、「男の子」「赤児」の嫌な印象が、「女の人」への強い関心と深い同情に変わるのは、場面V以降である。続いて、場面Vの考察を行なう。

【場面V】

 130自分は母親に伴はれた子を――例へば電車で向ひ合つた場合などに見る時、よくもこれらの何の類似もない男と女との外面に顕れた個性が小さな一人の顔なり、身体つきなりの内に、しつとりと調和され、一つになつて居るものだと云ふ事に驚かされる。131最初、母と子とを見較べて、よく似て居ると思ふ。132次に父と子とを見較べて矢張り似て居ると思ふ。133さうして、最後に父と母とを見較べて全く類似のないのを何となく不思議に思ふ事がある。
図表: 『網走まで』場面V 叙述の分類分析図表(130〜133文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
130                       130  
131                       131  
132                       132  
133                         133

「男の子」と「女の人」との目が似ていることから「自分」は、二人の子どもの父親を想像しはじめる。
 それまでの「自分」の経験を想起し、「自分」は二人の子どもの父親を想像しはじめる。そのきっかけの叙述は、すべてこれまでの「自分」の経験に基づいた「叙述者表現」の「説明」となっている。場面Uまでで、「女の人」と「男の子」が対比的に描かれ、両者が正反対とも言える印象にもかかわらず、二人の目元が似ていることを発見し、不思議な思いに駆られるのである。

 134今、此事を思ひ出して、自分は此母に生れた此子から、その父を想像せずに居られなかつた。135さうして其人の今の運命までも想像せずに居られない。
図表: 『網走まで』場面V 叙述の分類分析図表(134、135文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
134         134                
135         135                

 電車での経験を思い出すことによって、二人の親子が似ていることに気づいた「自分」は、父親を想像したいという欲求に駆られる。134文、135文ともに、「自分」の「心理描写」だが、「想像せずに居られなかつた」、「想像せずに居られない」と、強い衝動に突き動かされていることに注目される。「自分」にとって印象の悪い「男の子」と、丁寧な態度の「女の人」との対比、さらに北海道の「網走」まで行くという背景と、その父親から、「自分」は母子とその父親(夫)に対して強い関心をもっている。その強い関心が、「想像せずに居られない」という「心理描写」となっているのである。

 136自分は妙な聨想から此女の人の夫の顔や様子を直ぐに思ひ浮べる事が出来た。137自分が元ゐた学校に、級はそれ程違はなかつたが年はたしか五つ六つ上で、曲木といふ公卿華族があつた。138自分は其男を憶ひ出した。139彼は大酒家であつた。140大酒をしてはいつも、大きな事を云つて居た。141驚鼻の青い顔をした、大柄な男で、勉強は少しもしなかつた。142二三度続けて落第して、たうとう自分で退学して了つたが、日露戦争後、上州製麻株式会社とかいふのの社長として、何かの新聞で其名を見たぎり、今はどうして居るか更に消息を聞かない。
 143自分は不図此男を想ひ浮べて、あんな男ではないかしらと思つた。144然し彼は大言壮語をするだけで別に気六ヶしいといふ男ではなかつた。145何処か快活で、ヘウキンな所さへあつた。146尤も、そんな性質はあてにならぬ事が多い。147如何に快活な男でも度々の失敗に会へば気六ヶしくもなる。148陰気にもなる。149きたない家の中で弱い妻へ当り散かして、幾らか憂ひをはらすと云ふやうな人間にもなる。
 150此の子の父はそんな人ではないだらうか。
図表: 『網走まで』場面V 叙述の分類分析図表(136〜150文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
136         136                
137                       137  
138         138                
139                       139  
140                       140  
141                       141  
142                       142  
143         143                
144                       144  
145                       145  
146                         146
147                         147
148                         148
149                         149
150         150                

 ここでは、これまでの経験から「自分」は父親を想像し始める。具体的に「曲木」という固有名詞を出して、想像を膨らませていく。
 136文「直ぐに思ひ浮べる事が出来た」、138文「自分は其男を憶ひ出した」、143文「あんな男ではないかしらと思つた」、150文「此の子の父はそんな人ではないだらうか」という文が、「自分」の「心理描写」にあたる。この引用部すべてが、「自分」の内面の動きを叙述したものには違いないが、この四つの文がその内面が「心理描写」として叙述されているのである。これらの「心理描写」は、父親像を考えていく過程の間に挿入され、「叙述者表現」の「説明」・「解釈・評価」と、「心理描写」が交互に叙述されていく。
 具体的なある人物を想像し、その経歴を「説明」し、143文「あんな男ではないかしら」と思う。だが、144文「気六ヶしいといふ男ではなかつた」145文「何処か快活で、ヘウキンな所さへあつた」と考える。しかし、その「曲木」という男の性格も、146文「そんな性質はあてにならぬ事が多い」と「叙述者表現」の「解釈・評価」によって否定し、147文「如何に快活な男でも度々の失敗に会へば気六ヶしくもなる」、148文「陰気にもなる」、149文「きたない家の中で弱い妻へ当り散かして、幾らか憂ひをはらすと云ふやうな人間にもなる」と想像を自身の中で確定的なものとして「解釈・評価」で判断を下しながら、捉えなおしていく。そして、150文「此の子の父はそんな人ではないだらうか」という結論に至る。
 このように、この想像は、母子の外的な様子や「網走」に向かうという情報から、父親を想像し、自身の経験に基づいてその仮説・・を補強し、「解釈・評価」で判断を下し結論に至るという、「自分」の中で完結された論理によっているのである。

 151女の人は古いながらも縮緬の単衣に御納戸色をした帯を〆て居る。152自分には、それらから、女の人の結婚以前や、其当時の華やかな姿を思ひ浮べる事ができる。153更に其後の苦労をさへ考へる事が出来た。
図表: 『網走まで』場面V 叙述の分類分析図表(151〜153文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
151               151          
152         152                
153         153                

 さらに、「女の人」の服装から、それまでの「自分」の想像を補強する。
 「女の人」の服装が「状態描写」され、「自分」の想像が再び「心理描写」される。「心理描写」の文末が、152文「できる」、153文「出来た」となっており、「自分」の意識的な「心理描写」ではなく、自発的な内面として「心理描写」されている。「自分」の想像であるはずの「女の人」の素性が不幸な夫をもった女性として、「自分」とって確定的な事実・・のように、とらえられているのである。
 場面Vでは、「自分」は「男の子」と「赤児」との父親を想像する。この想像は、「自分」が、場面Uまでの「女の人」の外的な様子と、自身の過去の経験とを照らし合わせた上で、想像を膨らませていく過程が、「心理描写」、「叙述者表現」の「説明」そして「解釈・評価」で叙述されている。
 注目されるべきことは、やはり、それが「自分」の内面で完結された想像であり、それが「自分」にとって、「女の人」についての確定的な事実・・として想像されていくことである。場面W以降、この「自分」にとっての確定的な事実・・は、どのような意味を持つのであろうか。

【場面W】

 154汽車は小山を過ぎ、小金井を過ぎ、石橋を過ぎて進んだ。155窓の外は漸く暗くなつて来た。
 156(a)女の人が二枚端書を書き終つた時、(b)男の子が、
 「(c)母ァさん、しつこ・・・」(d)と云ひ出した。157此客車には便所が附いてゐない。
 「158もう少し我慢出来ませんか?」159(a)母は(b)当惑して(c)訊いた。160男の子は眉根を寄せてうなづく。
 161(a)女の人は、男の子を抱くやうにして、あたりを見廻したが(b)別に考もない。
 「162(a)もう少し、待つてネ?」(b)と切りになだめるが、(c)男の子は身体をゆすつて、もらしさうだといふ。
図表: 『網走まで』場面W 叙述の分類分析図表(154〜162文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 「女の人」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写
154 154汽車は
(略)過ぎて進んだ。
                       
155                   155      
156           156(a)   156(c) 156(b)
(d)
       
157                       157  
158         158                
159           159(a)
(c)
159(b)            
160                 160        
161           161(a) 161(b)            
162         162(a) 162(b)       162(c)      

 

 引用は、場面W、汽車は「石橋」を過ぎて進んだところで、「男の子」が小便をしたいと訴える箇所である。
 父親(夫)の想像を終えると、「男の子」が156文「母ァさん、しつこ・・・」と尿意を訴える。しかし、客車には157文「便所が附いてゐない」ため、「女の人」は困惑することになる。やはりここでも「自分」は観察者であり、「男の子」と「女の人」とのやりとりを見守っているのみであるため、「自分」についての描写はない。
 ここで注目すべき叙述は、159文(b)「当惑して」、161文(b)「別に考もない」という叙述である。これらは、「女の人」の「心理描写」である。「自分」という一人称に視点が置かれているため、これらの叙述だけが「女の人」の内面に視点が置かれているとは考えにくく、「女の人」の外的な様子を「自分」のとらえたものが、叙述されたのであろう。しかし、それまで、一度も「女の人」の「心理描写」がなかったにもかかわらず、159文(b)、161文(b)が「心理描写」されていることは、やはり重要である。
 これは、場面Vにおいて、「男の子」の父親を想像したことによるものである。「自分」は、「女の人」の夫と、「女の人」の境遇を想像することで、「女の人」に対する関心と同情が高まったため、「女の人」の「心理描写」も叙述されたのであろう。「自分」が「女の人」への関心と同情を高めたことによって、「女の人」の外的な様子だけではなく、その内面までもとらえようとしているのである。「男の子」への嫌な印象は、そのまま「女の人」への同情へと変わったとも言えるだろう。

 163(a)間もなく汽車は雀の宮に着いたが、(b)車掌に訊くと、(c)其間はないから此次になさい、といふ。164此次は宇都宮で八分の停車をする。
 165宇都宮まで、どんなに母は困らされたらう。166其内に眠つて居た赤児も眼を覚した。167(a)母はそれへ乳首を含ませながら、只、
 「(b)もう直ぐですよ」(c)といふ言葉を繰り返して居た。168此母は今の夫に、いぢめられ尽して死ぬか、若し生き残つたにしても此児に何時か殺されずには居まいと云ふやうな考も起る。
図表: 『網走まで』場面W 叙述の分類分析図表(163〜168文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 「女の人」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写
163 163(a)(雀の宮)         163(b)     163(c) 163(a)      
164                       164  
165                         165
166                 166        
167         167(b) 167(a)
(c)
             
168       168                  

 汽車は一旦「雀の宮」に到着するが、「宇都宮」まで用を足す時間はないという。「自分」は、二人の子どもに板ばさみになった「女の人」の死を予感する。
 163文(b)の「車掌に訊くと、」とあるのは、「女の人」の「行動描写」であろう。165文「宇都宮まで、どんなに母は困らされたらう。」と「叙述者表現」の「解釈・評価」がされる。これは、「宇都宮」まで「女の人」が何度も「小便をしたい」とせがむ「男の子」に対し実際に困ったということと、「自分」がそれに深い同情をもったということが示されている。突然小便がしたいと言い出した「男の子」に、困惑している「女の人」に対して、深い同情をもち、168文の予感まで昇華されるのである。
 さらに、ここで、「自分」は、「女の人」の死を思い浮かべる。その「心理描写」が、168文「此母は今の夫に、いぢめられ尽して死ぬか、若し生き残つたにしても此児に何時か殺されずには居まいと云ふやうな考も起る」と叙述されている。「今の夫」が「女の人」を苦しめる存在として、既に確定的な事実のように「自分」は考えているのである。「考も起る」という文末になっていることから、「自分」にとって自然に思い当たった考えとして叙述されていることにも注目される。死を予感させるほど、「自分」にとって「女の人」の境遇の想像が、やはり確定的な事実・・のように考えていることが示されているのである。「女の人」に対して「自分」は深い同情を抱いていることが、端的に表われた「心理描写」である。

 169やがて、ゴーウと音をたてて、汽車はプラットフォームに添うて停車場へ入つた。170(a)未だ停らぬ内から、
 「(b)早くさ/\」(c)と男の子は前こごみに下腹をおさへるやうにしていふ。
 「171さあ、行きませう」172(a)母は膝の赤児を腰掛けに下し、顔を寄せて、「(b)柔順しく待つてて頂戴よ」(c)といひ、更に自分に、「(d)恐れ入ります、一寸見てて頂きます」
 「173(a)よう御座います」(b)と自分は(c)快く(d)云つた。
図表: 『網走まで』場面W 叙述の分類分析図表(169〜173文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 「女の人」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写
169                   169      
170               170(b) 170(a)
(c)
       
171               171          
172               172(b)
(d)
172(a)
(c)
       
173   173(a) 173(b)
(d)
173(c)                  

 

 「宇都宮」のプラットフォームに汽車が到着し、「女の人」は「自分」に赤ん坊を見ておくように頼む。
 この箇所で、はじめて「女の人」に協力を頼まれると同時に、これまで観察者であった「自分」もまた、はじめて積極的に「女の人」に協力する。「宇都宮」で降りるにもかかわらず「自分」は、173文(c)「快く」「女の人」の申し出に応じる。「自分」の「女の人」への同情が深くなっていることを「心理描写」されることで示している。

 174汽車は停つた。175自分は直ぐ扉を開けた。176男の子は下りた。
 「177(a)君ちやん、柔順しくしてるんですよ」(b)と其処を離れようとする背後から、(c)手を延べて赤児は火のついたやうに泣き出した。
 「178困るわねえ」179(a)母は(b)一寸ためらつたが、(c)包から、スル/\と細い、博多の子供帯を出すと、赤児の両の腋の下を通して、直ぐ背負はうとしたが、袂から木綿のハンケチを出して自身の襟首へかけ、手早く結ひつけおんぶにして、プラットフォームへ下り立つた。180(a)自分も後から下りて、
 「(b)ぢやあ、私は此処で下りますから」(c)といつた。181(a)女の人は驚いたやうに、
 「(b)まあ、さうで御座いますか……」(c)と云つた。182(a)そして、
 「(b)色々、ありがたう御座いました」(c)と女の人は叮嚀にお辞儀をした。
図表: 『網走まで』場面W 叙述の分類分析図表(174〜182文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 「女の人」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写
174                   174      
175     175                    
176                 176        
177         177(a) 177(b)     177(c)        
178         178                
179           179(a)
(c)
179(b)            
180     180(b) 180(a)
(c)
                 
181         181(b) 181(a)
(c)
             
182         182(b) 182(a)
(c)
             

 汽車がとまり、母親が席を離れようとすると、赤ん坊は泣き出してしまい、「女の人」は、赤ん坊を抱きかかえる。
 「女の人」の申し出を「快く」引き受けた「自分」は観察者ではなく、その母子に積極的にかかわろうとする。175文「自分は直ぐ扉を開けた」とあり、母子に積極的に協力しようとしていることを示している。また、179文(b)「一寸ためらつた」と、再び「女の人」の「心理描写」がされることによっても、「自分」にとっての「女の人」との心的な距離が縮まっていることを示している。
 それが「自分」にとっての心的な距離の縮まりであることは、181文(a)「女の人は驚いたやうに」という「女の人」の驚きが示している。この駅で降りるはずの人が、なぜ自分の子どもを見ておくことに快諾したのかと「女の人」は驚いたのである。「女の人」が驚くほど、「自分」は「女の人」に深い同情をよせているのである。

 183(a)人ごみの中を並んで歩き出した時、
 「(b)恐れいりますが、どうか此端書を」184(a)かういつて懐から出さうとするが、(b)博多の帯が胸で十字になつて居るので、(c)却々出せない。185女の人は一寸立ち止つた。
 「186(a)母ァさん、何してんの」(b)と男の子が振りかへつて叱言らしく云つた。
 「187一寸、待つて……」188女の人は頤を引いて、無理に胸をくつろげようとする。189力を入れたので、耳の根が、赤くなつた。190(a)其時、自分は(b)襟首のハンケチが背負ふ拍子によれ/\になつて、一方の肩の所に挟まつて居る(c)のを見たから、(d)つい、黙つてそれを直さう(e)と其肩へ手を触れた。191女の人は驚いて顔を挙げた。
 「192ハンケチが、よれてゐますから……」193かう云ひながら自分は顔を赧らめた。
 「194恐れ入ります」195(a)女の人は(b)自分がそれを直す間、(c)ヂッとして居た。
 196(a)自分が黙つて肩から手を引いた時に、(b)女の人は「(c)恐れ入ります」(d)と繰り返した。
図表: 『網走まで』場面W 叙述の分類分析図表(183〜196文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 「女の人」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写
183         183(b) 183(a)              
184           184(a)
(c)
          184(b)  
185           185              
186               186(a) 186(b)        
187         187                
188           188              
189           189              
190     190(a)
(c)
(e)
190(d)   190(b)              
191           191              
192   192                      
193     193                    
194         194                
195     195(c)     195(a)
(b)
             
196     196(a)   196(c) 196(b)
(d)
             

 ここは、母子三人と、「自分」が下車し歩き始め、「女の人」は端書を出すように「自分」に頼む箇所である。
 「女の人」は、端書を出そうとするのだが、184文(b)「博多の帯が胸で十字になつて居る」ため、出すことができない。無理に出そうとしたとき、「自分」は、190文「襟首のハンケチが背負ふ拍子によれ/\になつて、一方の肩の所に挟まつて居るのを見たから、つい、黙つてそれを直さうと其肩へ手を触れ」る。深い同情を寄せていた「自分」は、「女の人」の苦しむ様子を見て「つい」触れてしまう。その「自分」の行動が「女の人」にとって不意であったことは、続く191文「驚いて顔を挙げた」という「行動描写」されていることが示している。
 「自分」は、「女の人」に深い同情を抱いていたため、「つい」「女の人」の肩に触れようとする。193文で「顔を赧らめた」とあることから、この行動は、意図したものではなく、まさに「つい」であり「自分」の「女の人」に対する同情が思わず行動にあらわれてしまったということである。
 場面Vで父親を想像することで「女の人」への高まった関心と、同情が、困っている「女の人」に対する「自分」も意図しない行動へと「つい」駆り立てられていく。だが、「自分」にとって、「女の人」への関心と同情が最も大きく深くなるのは、この箇所ではない。

 197吾々は、プラットフォームで、名も聞かず、又聞かれもせずに、別れた。
図表: 『網走まで』場面W 叙述の分類分析図表(196文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 「女の人」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写 心理描写 談話描写 行動描写
197     197                    

 この一文で、はじめて「自分」と三人の母子が同じ「吾々」という一括りの主語によって叙述される。厳密に言えば、この「吾々」という呼称には、その場にいる「男の子」・「赤児」という二人の子どもは含まれておらず、「女の人」と「自分」とを一括りに呼称したものであろう。「自分は、……女の人と別れた。」と叙述されても、文としてはなんら違和感のない箇所であるにもかかわらず、「吾々」と一括りに呼称されるのは、「自分」にとっての「女の人」との心的な距離が近づいたために他ならない。
 また重要なことは、「別れた」とあり、「自分」と母子三人が別れる際に「吾々」となっている点である。「吾々」という一括りの主語で叙述されるのは、「自分」にとっての、「女の人」との心的な距離が一番近づくのが、この別れる際だからなのである。「自分」は「女の人」に対して、強い関心と深い同情をもっているため、「女の人」と別れる際に、「吾々」という一括りで叙述されるほど心的な距離が近づくのである。なぜなら「自分」にとって、「女の人」は、「此母は今の夫に、いぢめられ尽して死ぬか、若し生き残つたにしても此児に何時か殺されずには居まい」という悲壮な運命を背負った女性だからである。「自分」は別れたあとの「女の人」の行く末を案じているのである。「自分」にとって、「女の人」と物理的に一番近づくのは肩のハンカチを直そうとする時だが、心的に一番近づくのは、この別れの際なのである。
 場面Vで、二人の子どもの父親と「女の人」の境遇を想像したことにより、場面Wでは「自分」は「女の人」に深い同情をよせ、母子に積極的に協力しようとする。「自分」は「女の人」の困惑する様子をみて、死さえ予感する。「宇都宮」の駅で手紙を出せないでいる「女の人」を見かねた「自分」は、「つい」肩に触れてしまう。そして「自分」は、「女の人」の運命を思いはせながら、別れるのである。

【場面X】

 198自分は端書を持つたまま停車場の入り口へ来た。199其処に函のポストが掛つてあつた。200自分は端書を読んで見たいやうな気がした。201又読んでも差支へないといふやうな気もした。
 202(a)自分は一寸迷つたが、(b)函へよると、名宛を上にして、一枚づつそれを投げ入れた。203入れると直ぐもう一度出して見たいといふやうな気もした。204何しろ、投げ込む時ちらりと見た名宛は共に東京で、一つは女、一つは男名であつた。
図表: 『網走まで』場面X 叙述の分類分析図表(198〜204文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
場面設定 人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「自分」 その他の作中人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
198     198                    
199                     199    
200         200                
201         201                
202     202(b)   202(a)                
203         203                
204                     204    

  「女の人」らと別れた「自分」は、「宇都宮」のポストに頼まれた端書を投函することで、『網走まで』は終わる。
 「自分」は頼まれた端書を200文「自分は端書を読んで見たいやうな気がした」、201「又読んでも差支へないといふやうな気もした」と「心理描写」され、みるかみまいか迷う。「自分」は、この端書に興味を示しながら、読まずに投函してしまう。この「自分」の迷いは、なぜであろうか。一つには、小林幸夫(1985)の指摘にあるように「自分」が想像したことを壊したくなったということもあろう。また、蓼沼正美(1992)で指摘されているように、

そもそも「端書」とは、文面の公開された書簡である。つまりそれは、常に他の誰かに読まれることが前提とされた書式なのである。それだけに「女の人」が「自分」に投函を依頼したのは、「自分」に対し殊更な倫理観を期待していたからではなく、むしろその「端書」がたとえ読まれたとしても差し障りのない、通り一遍のものであったからだといってもよい。

(蓼沼正美(1992)「テクストの受容と生成――「網走まで」という〈空所〉――」
『国語国文研究』第92号)

という、「端書」の性質からの迷いでもあろう。それに加えて、たとえ差し迫った事情が書かれていたとしても「女の人」が「自分」に託したということで、「自分」が「読んでも差支へない」と考えたのかもしれない。
 だが重要なのは、そうしたことではない。「自分」は既に「女の人」と別れており、自身の日常(=「日光」への旅)へ戻りつつある。「女の人」へ深い同情こそ抱くものの、「自分」にとっては、一連の出来事はやはり「いつも通り」の日常の一コマに過ぎない。よって「自分」は、複雑であろうと予想されるこの母子の事情には立ち入らない。「自分」は既に「女の人」と別れている・・・・・のである。冷静に自身と他人を区別することができる「自分」は、既に救うことが不可能な他人に対して、関わろうとはしないのである。「名宛を上にして、一枚づつそれを投げ入れ」るという極めて丁寧な扱いで端書を投函するのは、死にゆく・・・・「女の人」に対する同情の表れであろう。しかし、それでも「自分」は、他人である「女の人」とより深く関わろうとはしないで、日常へともどっていくのである。
 このように、『網走まで』は、「自分」の日常の中で出会った「女の人」に強い関心と深い同情を抱く作品となっている。見るからに嫌な印象の「男の子」に困らさる「女の人」を見かね、席を空けて助けたことで、興味と同情を示しその同情は父親の想像を経ることでより深いものになっていく。しかし、「自分」にとって根本的に他人である「女の人」に対してその行く末を予感させられつつも、別れる。同情しつつも、それでも「女の人」に深く関わろうとしないのは、「自分」が、乗客を冷静に見つめる「自分」に裏打ちされた、自身と他人とを明確に区別する人物であるからである。
 「女の人」に対する、その深い同情への過程は、徐々に大きくなっていくのではなく、場面Vにおける二人の子どもの父親を想像することを境にして、突然大きくなる。あるいは、場面Uで描かれていた「男の子」への嫌な印象が、「女の人」への同情へと変わる。こうした「自分」の変化は、どのような叙述の特徴があるのだろうか。『網走まで』には、叙述に「心理描写」を含んだ「行動描写」といった、前節『或る朝』にみられた複合性のある叙述は認められなかった。しかし、『或る朝』に共通する叙述の特徴があるようである。次項では、そうした叙述の特徴についてさらに考察を深めることとする。

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第5項 『網走まで』における特徴的な叙述についての考察

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 第5項では、第4項で叙述の分類分析により考察した『網走まで』における、特徴的な叙述について考察を深めることとする。
 『網走まで』の主題に、「女の人」と、「男の子」をはじめとするその他の作中人物とが、対比的に、対照的に描かれていることは、第4項で考察したとおりである。だが、五つの場面ごとに分析・考察した結果、その対比は、正反対に位置づけられるようなものではないとも言える。「男の子」やその他の作中人物が「自分」に嫌な印象を与えれば与えるほど、「女の人」に関心をもち、深く同情していくといったものであった。また、場面Uでは、「男の子」と「赤児」の印象が、「自分」にとって好ましくないものであったが、「女の人」への関心・同情は深く大きいものではないことも確認した。「自分」は「女の人」に積極的に関わろうとしたのではなく、「女の人」が困っている時に「席を譲る」という行動に出るのみである。

 「35(a)頭なんて痛くなりや仕ないつたら」(b)と子供は尚ケン/\しく云ひ張つた。36母は悲しさうな顔をした。
 「37困るのねえ」
 38(a)自分は突然、
 「(b)此処へおいでなさい」(c)と窓の所を一尺許りあけて、「(d)此処なら日が当りませんよ」(e)と云つた。
 39男の子は厭な眼で自分を見た。40顔色の悪い、頭の鉢の開いた、妙な子だと思つた。41自分はいやな気持がした。42子供は耳と鼻とに綿をつめて居た。
 「84おむつ・・・を更へませうね」85(a)かう独言のやうに云つて更に男の子に、
 「(b)滝さん、少しそこを貸して頂戴、赤ちやんのおむつ・・・を更へるんですから」
 「86(a)いやだなア――母ァさんは」(b)と男の子は(c)いや/\(d)起つ。
 「87(a)此処へお掛けなさい」(b)と自分は再び前に掛けさせた場所を空けてやつた。
 「88恐れ入ります、どうも気むづかしくて困ります」89女の人は寂しく笑つた。

 このように、「女の人」に対して、「自分」は特別な行動に出ているとまでは認められない。また、「女の人」と会話を交わすが、それは大きな関心や深い同情といった特別なものではなく、席を譲ったことをきっかけにした一般的な会話であると言える。

 100(a)小時して自分は、
 「(b)どちら迄おいでですか」(c)と訊いた。
 「101北海道で御座います。102網走とか申す所ださうで、大変遠くて不便な所ださうです」
 「103何の国になつてますかしら?」
 「104北見だとか申しました」
 「105そりや大変だ。106五日はどうしても、かかりませう」
 「107通して参りましても、一週間かかるさうで御座います」

 しかし、この「自分」の態度は、場面Wでは「女の人」に積極的に関わろうとするようになる。

 170(a)未だ停らぬ内から、
 「(b)早くさ/\」(c)と男の子は前こごみに下腹をおさへるやうにしていふ。
 「171さあ、行きませう」172(a)母は膝の赤児を腰掛けに下し、顔を寄せて、「(b)柔順しく待つてて頂戴よ」(c)といひ、更に自分に、「(d)恐れ入ります、一寸見てて頂きます」
 「173(a)よう御座います」(b)と自分は(c)快く(d)云つた。
 174汽車は停つた。175自分は直ぐ扉を開けた。176男の子は下りた。

このように「宇都宮」で「自分」も下車するにもかかわらず、「快く」赤ん坊の面倒を引き受けたり、積極的に「自分は直ぐ扉を開け」たりするのである。そして、別れる際に、「吾々は、プラットフォームで、名も聞かず、又聞かれもせずに、別れた。」という「女の人」と「自分」とを「吾々」という一つの呼称で一括りにされるほど、「自分」にとっての「女の人」との心的な距離が縮まる。
 このように場面Uと場面Wとの「自分」の「女の人」への関心は、明らかに違いがある。これは、「自分」が「女の人」の夫であり、「男の子」「赤児」の父親を想像する場面Vによるものであることは、すでに第4項で考察したとおりである。しかし、この「女の人」への関心と、「男の子」・「赤児」への印象とが対比されていることは、叙述からも言えることである。その対比は、主観的な評価性をもった単語によるものである。『或る朝』でもみられたように、「主観的な評価性をもった単語」とは、形容詞、形容動詞、副詞、連体詞などの品詞をはじめとした、「叙述者」の主観による評価が付加された単語のことであった。
 「女の人」と、「男の子」「赤児」などその他の作中人物の対比されている、特徴的な主観的な評価性をもった単語をみていくことにする。

【場面T】

 6鈴が鳴つて、改札口が開かれた。7人々は一度にどよめき立つた。8(a)鋏の音が繁く聞え出す。9改札口の手摺へつかへた手荷物を口を歪めて引つぱる人や、本流から食み出して無理に復、還らうとする人や、それを入れまいとする人や、(b)いつもの通りの混雑である。10巡査が厭な眼つきで改札人の背後から客の一人々々を見て居る。11(a)此処を辛うじて出た人々はプラットフォームを小走りに急いで、駅夫等の(b)「先が空いています、先が空いています」(c)と叫ぶのも聞かずに、吾れ先きと手短な客車に入りたがる。12(a)自分は一番先の客車に乗るつもりで(b)急いだ。

(下線引用者。以下同じ)

 場面T、「上野」駅で他の乗客を尻目に、「自分」だけが混雑を見越して一番前の車両に乗り込もうとする箇所である。
 下線部が、主観的な評価性をもった単語である。9文「無理に」、10文「厭な眼つきで」、11文「入りたがる」といった叙述が、「自分は一番先の客車に乗るつもり」であることと、対比されている。この7文からの箇所全体が、あらかじめ混雑を見越して「一番先の客車」に乗り込もうとしている「自分」と、その他の「吾れ先きと手短な客車に入りたがる」という乗客とが対比されている。だが、これらの主観的な評価性をもった単語によって、より色濃くその対比がとらえられるように叙述されていることが特徴的である。
 この場面Tでは、「女の人」はまだ現れていないため、「女の人」についての描写と対比されている箇所ではない。しかし、「自分」がどういう人物であるか、という設定として重要な箇所である。他の乗客とは違う、という意識をもった「自分」像は、不幸であろう「女の人」に同情を抱く者として、場面Tで既に設定されているのである。

【場面U】

 「25(a)母さん、どいとくれよ」(b)と七つ許りの男の子が眉の間にしわを寄せていふ。
 「26(a)ここは暑つござんすよ」(b)と母は背の赤児を下ろしながら静かに云つた。
 「27暑くたっていいよ」
 「28日のあたる所へ居ると、又おつむ・・・が痛みますよ」
 「29(a)いいつたら」(b)と子供は恐ろしい顔をして母をにらんだ。
 「30(a)滝さん」(b)と静かに顔を寄せて、「(c)これからね、遠い所まで行くんですからね。31若し途中で、お前さんのおつむ・・・でも痛み出すと、母さんは本統に泣きたい位困るんですからね。32ね、いい児だから母さんの云ふ事を肯いて頂戴。33それにね、いまに日のあたらない方の窓があくから、さうしたら直ぐいらつしやいね。34解りまして?」
 「35(a)頭なんて痛くなりや仕ないつたら」(b)と子供は尚ケン/\しく云ひ張つた。36母は悲しさうな顔をした。
 「37困るのねえ」

 場面U、二人の子どもをつれてきた「女の人」は日の当たる場所に座る。そして「男の子」と会話を交わしている、その様子を「自分」は見ているという箇所である。
 この箇所は、「自分」がはじめて母子のやりとりを見るところである。初対面である「女の人」と「男の子」とが既に対比されている。25文「眉の間にしわを寄せていふ」「男の子」に対して、「女の人」は「静かに」言う(26文)。だが、「男の子」は、29文「恐ろしい顔」で母親をにらむ。それでも母親は29文「静かに」、そして「これからね、遠い所まで行くんですからね。……」と幼い子どもに丁寧に説明している(30〜34文)。だが、それでも35文「尚ケン/\しく」言い張る。その頑なな態度に「女の人」は36文「悲しさうな」表情をする。初対面であるにもかかわらず、既に両者の印象は対比的に描かれている。特に「男の子」は、露骨とも言えるほど「恐ろしい」、「尚ケン/\しく」と印象悪く描かれている。各叙述は「自分」の「対象表現」ではないが、「自分」の主観的な評価をもって叙述されているのである。
 以下に、場面Uにおける、これらの特徴的な主観的な評価性をもった単語を含む叙述を一覧にしてみると、次のようになる。

表: 『網走まで』における主観的な評価性をもった単語を含む叙述(場面U)
文番号 評価される
対象
評価性を
もった単語
叙述
26 「女の人」 「静かに」 「ここは暑つござんすよ」と母は背の赤児を下ろしながら静かに云つた。
29 「男の子」 「恐ろしい顔」 「いいつたら」と子供は恐ろしい顔をして母をにらんだ。
30 「女の人」 「静かに」 「滝さん」と静かに顔を寄せて、「これからね、遠い所まで行くんですからね。……
35 「男の子」 「尚ケン/\しく」 「頭なんて痛くなりや仕ないつたら」と子供は尚ケン/\しく云ひ張つた。
36 「女の人」 「悲しさうな」 母は悲しさうな顔をした。
39 「男の子」 「厭な眼で」 男の子は厭な眼で自分を見た。
40 「男の子」 「妙な子」 顔色の悪い、頭の鉢の開いた、妙な子だと思つた。
41 「男の子」 「いやな気持」 自分はいやな気持がした。
44 「女の人」 「悲しい顔に」  女の人は悲しい顔に笑を浮かべて、「滝さん、御礼を云つて、あそこを拝借なさい」と子の背に手をやつて此方へ押すやうにする。
47 「男の子」 「妙な眼つきで」 男の子は妙な眼つきで時々自分の顔を見て居たが、小時して漸く外の景色に見入つた。
57 「女の人」 「あやすやうに」  母は、
「よし/\」と膝の上でゆすりながら、「チチカ、チチカ」とあやすやうに云ふが、赤児は踏反りかへつて益々泣く。
「赤児」 「益々」
60 「男の子」 「さも不平らしい」  わきからは、
「母さん、あたいには」とさも不平らしい顔をして云ふ。
71 「男の子」 「不承々々」 男の子は不承々々うなづく。
86 「男の子」 「いや/\」  「いやだなア――母ァさんは」と男の子はいや/\起つ。
89 「女の人」 「寂しく」 女の人は寂しく笑つた。
99 「女の人」 「気の毒さうに」 女の人は気の毒さうに詫を云つた。

 表の左端から、「文番号」、「評価される対象」、「評価性をもった単語」、「叙述」とした。「文番号」とは、主観的な評価性をもった叙述の単語がみられる文の文番号である。「評価される対象」とは、主観的な評価性をもった単語によって、評価される対象を指す。「評価性をもった単語」とは、主観的な評価性をもった単語を抜き出して挙げた。「叙述」とは、その主観的な評価性をもった単語がみられる叙述の一文を抜き出している。対比しやすいように「女の人」に対するもののみ網掛けをした。
 このように、場面Uにおいては、「女の人」に対する評価よりも、「男の子」「赤児」に対する否定的な評価性をもった単語が多いと言える。女の人」に対しては、評価ではなく「悲しさうな」「悲しい」、「寂しい」、「気の毒さうに」などといった、感情を推し量ったものが多い。一方、「男の子」・「赤児」は、「恐ろしい」、「厭な」、「妙な」といった評価を下すような単語が多い。これらの評価性の質の違いも、単に印象の好悪ではなく、同情を寄せる相手としての「女の人」と、その「女の人」を追い詰める者としての「男の子」・「赤児」という差異があらわれている。
 また、場面Uにおける「自分」の「心理描写」は、以下の三文のみである。

40文 顔色の悪い、頭の鉢の開いた、妙な子だと思つた。
41文 自分はいやな気持がした。
129文 其時自分は、後へ倚りかかつて、下目使ひをして本を見て居る男の子の眼と、矢張り同じ伏目をして端書書いて居る母の眼とがそつくりだといふ事に心附いた。

場面Uでは、「自分」の「心理描写」を含む叙述は、一〇七文中、三文しかないのである。であるにもかかわらず、これらの特徴的な評価性をもった叙述は、多いと言えるだろう。しかも、その三つの「心理描写」のうち、二つの「心理描写」が、「男の子」に対しての印象が、主観的な評価性をもった単語を含んでいる。「男の子」の嫌な印象が、「心理描写」によって明確に示されるのである。
 「自分」の「心理描写」はほとんどみられない代わりに、この主観的な評価性をもった単語を含んだ叙述によって、「女の人」と「男の子」・「赤児」とを対比的に描かれている。そのため、「女の人」への関心の高さと、それ以上に、厭な気持にさせる「男の子」の印象の悪さという「自分」にとっての、両者の印象の違いが明確となるのである。「女の人」と、「男の子」・「赤児」との「自分」にとっての印象の違いをとらえるためには、これらの主観的な評価性をもった単語が重要なのである。
 続いて、場面U以降において、これら主観的な評価性をもった単語を含む叙述がどのように変化するのか、あるいはしないのかをみていく。
 場面Vは「自分」による父親の想像の場面であるため、母子を対比するような描写は見られない。場面Wにおける特徴的な叙述を考察する。

【場面W】

180(a)自分も後から下りて、
 「(b)ぢやあ、私は此処で下りますから」(c)といつた。181(a)女の人は驚いたやうに、
 「(b)まあ、さうで御座いますか……」(c)と云つた。182(a)そして、
 「(b)色々、ありがたう御座いました」(c)と女の人は叮嚀にお辞儀をした。
 183(a)人ごみの中を並んで歩き出した時、
 「(b)恐れいりますが、どうか此端書を」184(a)かういつて懐から出さうとするが、(b)博多の帯が胸で十字になつて居るので、(c)却々出せない。185女の人は一寸立ち止つた。
 「186(a)母ァさん、何してんの」(b)と男の子が振りかへつて叱言らしく云つた。

 場面W、「自分」の目的地である「宇都宮」に汽車が到着する。「女の人」は、小便をしたいという「男の子」のために一時下車することになり、母子三人とともに、「自分」も下車するという箇所である。
 「自分」に対する礼を言う「女の人」の「行動描写」の中に、182文「叮嚀に」という「女の人」に対する主観的な評価性をもった単語が含まれている。汽車で書いていた「端書」を出そうとして出せないでいる「女の人」に向かって、小便を我慢している「男の子」は186文「叱言らしく」話しかける。この「叱言らしく」という叙述が、主観的な評価性をもった単語である。やはり場面Wでも、場面Uと同じように、両者を対比的に描くために、これらの主観的な評価性をもった単語を含んだ「行動描写」がみられる。だが、場面Wにおける、主観的な評価性をもった単語は、この二つのみである。よって、場面Uほど両者を対比されてはいない。しかし、場面Wで注目すべきことは、主観的な評価性をもった単語を含んだ叙述が減ったということだけではなく、場面Wでは「女の人」の「心理描写」がみられるということとの関連においてである。
 場面Uでは、「女の人」について「心理描写」はなかった。しかし、場面Wになると、「女の人」の「心理描写」がみられるのである。

 156(a)女の人が二枚端書を書き終つた時、(b)男の子が、
 「(c)母ァさん、しつこ・・・」(d)と云ひ出した。157此客車には便所が附いてゐない。
 「158もう少し我慢出来ませんか?」159(a)母は(b)当惑して(c)訊いた。160男の子は眉根を寄せてうなづく。
 161(a)女の人は、男の子を抱くやうにして、あたりを見廻したが(b)別に考もない
 「162(a)もう少し、待つてネ?」(b)と切りになだめるが、(c)男の子は身体をゆすつて、もらしさうだといふ。
 「177(a)君ちやん、柔順しくしてるんですよ」(b)と其処を離れようとする背後から、(c)手を延べて赤児は火のついたやうに泣き出した。
「178困るわねえ」179(a)母は(b)一寸ためらつたが、(c)包から、スル/\と細い、博多の子供帯を出すと、赤児の両の腋の下を通して、直ぐ背負はうとしたが、袂から木綿のハンケチを出して自身の襟首へかけ、手早く結ひつけおんぶにして、プラットフォームへ下り立つた。

 「女の人」の内面が「心理描写」されているのは、159文「当惑して」、161文「別に考もない」、179文「一寸ためらつたが」という三つである。第4項の考察でも触れたように、これらの「心理描写」は、「女の人」の内面に視点が置かれているためのものではない。これらの「女の人」についての「心理描写」は、「自分」が「女の人」に対して心的な距離を縮めていることを示している。
 場面Wで急に「女の人」の「心理描写」がされるようになることと、主観的な評価性をもった単語が場面Wでは極端に少なくなっていることとは、関連性がある。第4項でも指摘したように、「女の人」が「心理描写」で内面まで描写されるのは、「自分」にとって、心的な距離が縮まったことを示している。それに加えて、主観的な評価性をもった単語が少なくなっているということも、同様に「女の人」との心的な距離が縮まっているということである。
 場面Uでは、相手を観察していた「自分」にとって、「女の人」の境遇を場面Vで具体的に想像することによって、それらの想像は事実・・として成立してしまっているのである。そのため、観察者として、相手(「男の子」・「赤児」・「女の人」)を主観的な評価を下すというような「印象」としてとらえることはない。既に、「自分」にとっては、「女の人」はやがて夫か二人の子どもかのどちらかに、殺されるだろうという人物であり、「男の子」・「赤児」はその母親を追い詰める者として位置づけられているからである。場面Vの父親(夫)を想像するということが、「自分」が母子三人に対してどのように振舞うか、という態度をも変化させていることが、「女の人」の「心理描写」の有無と、主観的な評価性をもった単語の多寡によっても裏付けられているのである。その態度の変化は、観察者であった「自分」が、「女の人」に関心と同情を抱いていくという主題に密接に関わるものである。
 以上のように、『網走まで』の主題を考えようとするとき、「自分」の「心理描写」だけをとらえようとしても、「自分」の内面をとらえきることはできない。主観的な評価性をもった単語を含んだ叙述を考察することで、「自分」の「女の人」への変化をとらえるてがかりとなるのである。
 第6項では、これまでの『網走まで』の分析・考察をまとめることとする。

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第6項 『網走まで』における視点の配賦と叙述法

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 第2章第2節では、前節に続いて、『網走まで』における視点の配賦と叙述法をてがかりとして、『網走まで』の分析・考察をすすめてきた。これまでの考察結果を踏まえて、『網走まで』をまとめると以下のようになるだろう。
 「上野」から「宇都宮」まで行くつもりで「自分」は、いつも通り騒然としている他の乗客を避けて、汽車に乗り込む。同じ一間に乗り込んできた「女の人」は、二人の幼子を連れていた。「男の子」の態度に困った表情を見せる「女の人」を見かね、「自分」は自身の席を「男の子」に譲ってやる。聞けばその母子は「網走」まで向かうという。余りにも印象の違う「女の人」と「男の子」の目元がそっくりであることに気づいて、その場で不在である父親を想像する。やがて、母子は、「男の子」が小便をしたいと言い出し、「宇都宮」で下車することになる。二人の子どもに困惑する様子をみた「自分」は、「女の人」の死までも想像する。「宇都宮」に降りた「女の人」は、「自分」に「端書」を投函するように頼むが、胸元で引っかかり「端書」を取り出せない。衣服の乱れに気づいた「自分」は、黙って「女の人」の肩へ触れる。「端書」を受け取った「自分」は、別れた後、迷いながらも内容を見ずに投函してしまう。
 『網走まで』の主題は、「自分」の日常で見かけた、薄幸な身の上の「女の人」に対して関心・同情を抱く、といったところであろう。死さえ想像しながらも、「女の人」に対して積極的な行動を起こさないのは、「自分」にとってそれが「宇都宮」まで行くという日常であるからである。「端書」を見ないのも、そのためであろう。
 次に、『網走まで』の視点の配賦と叙述法の特徴について、まとめておく。

視点の配賦

 『網走まで』は、「自分」という一人称による一人称小説である。「自分」の見聞きし、体験した内容が、「上野」駅から「宇都宮」までの汽車中の話を中心として描かれている。置かれる視点も、「自分」一人である。他の作中人物にも「心理描写」がみられるが、それらは全て、一人称「自分」が相手の内面を推し量ったものであり、視点は「自分」に置かれる。
 「自分」がいかに「女の人」に対して関心・同情を抱くか、という物語であるにもかかわらず、直接的に「心理描写」はされずに、観察する対象――「女の人」、「男の子」、「赤児」、その他の乗客――を見つめることで、自身の内面を描き出そうとする。作品冒頭部にあたる場面Tで、「いつも通りの混雑」と評価することから、「自分」は汽車に乗って移動することに非日常性を感じるような人物ではなく、日常的に汽車を移動手段として利用している人物として浮かび上がらせる。
 ただ観察者としてのみ、「女の人」と、「男の子」・「赤児」との印象の違いを叙述するだけであった「自分」の態度が、「女の人」への強い関心・深い同情と変わるのは、父親を想像するという場面Vになってからである。場面Vでは、「自分」の過去の級友を思い出すことで、「女の人」のこれまでの生い立ちと、その夫について具体的に「創造」される。一人称小説であり、「自分」一人に視点が置かれることもあり、この想像は「自分」にとって事実となっていく。
 場面Wでは、父親の想像で「女の人」の境遇が補完されることによって、「自分」は母子に積極的に関与し始める。それまでの主観的な評価性をもった単語を含んだ叙述によって「評価」されていた「女の人」に対して、その内面を「心理描写」されるほどに、心的な距離を近づけていく。それは「吾々」という一括りの呼称まで接近する。だが、「自分」にとって日常である汽車に乗り合わせた「女の人」には、「端書」の内容を見るほど関与しないのである。「女の人」にのみその観察の目が向けられるのは、日常にいる「自分」にとって、「女の人」・「男の子」・「赤児」という母子三人が観察すべきほど非日常であったが故であろう。母子三人以外の乗客は、「自分」にとって単なる日常に過ぎなかったのである。
 以上のように、『網走まで』においては、「自分」の内面や、「女の人」の描き方が変わることで、「女の人」への「自分」の関心・同情を描き出すという視点の配賦の特徴がみられる。一人称小説で、視点が置かれる作中人物が「自分」だけであることを考えれば、『網走まで』における視点の配賦は単純なものといえよう。しかし、『網走まで』という作品には、その主題を作品として成立させるために、「自分」の内面のどの部分を描くか、あるいはどのように描くか、という複雑な視点の配賦によって下支えされているのである。

叙述法

 『網走まで』における叙述法の特徴は、「自分」の内面の描かれ方である。「女の人」への、「自分」の心的な距離の接近を、「心理描写」だけではなく、「女の人」・「男の子」・「赤児」などの作中人物に対する印象の差異によっても描かれる。全ての描写は、視点が置かれている「自分」によるものである以上、何らかの内面が反映された叙述であることは、小説一般にもある特徴であろう。しかし、『網走まで』においては、主題や構成を考えるうえで、とくに重要な叙述として着目されるのである。その叙述とは、主観的な評価性をもった単語をふくむ叙述である。この叙述によって、「自分」の内面が描かれた「心理描写」が少ないにもかかわらず、「女の人」への関心・同情が強く深くなっていく過程が描出されるのである。
 また、「女の人」への関心・同情を示すものとして、「女の人」の「心理描写」がされるという変化も、「自分」の内面の変化によるものであった。相手の心の内までも、とられられるほど、「自分」にとっての「女の人」との心的な距離が近づくのである。このように『網走まで』においての叙述法の特徴は、内面を直接的に描いた「心理描写」だけではなく、何をどのように見るか、という「自分」の見る対象のとらえかたをも「自分」の内面を考えるうえでの重要なてがかりとなるというものである。
 以上のように『網走まで』における視点の配賦と叙述法をてがかりにして、『網走まで』について考察をおこなってきた。第3節では、『剃刀』についての分析・考察をおこなうことにする。

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第3節 『剃刀』における視点の配賦と叙述法

第1項 『剃刀』の先行研究

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 前節の作品分析と同様に、まず第1項では『剃刀』についての先行研究を整理する。次項以降で、本項で整理した先行研究を踏まえて、具体的な分析・考察をおこなうことにする。
 紅野謙介(1989)「志賀直哉『剃刀』をめぐる演習――文学への解放/文学からの解放――」(『学叢』第46号1989年3月)では、まず作品の中心的な作中人物である「芳三郎」について、以下のようにとらえなおしを試みている。

この人物形象を「職人気質」とか「神経質」といった、そこで思考が停止してしまうような気質的な評価でくくってはならない。完全を期して仕事に向かい、一点の非の打ち所のないその完璧な成就に自己の同一性を確認し、喜びを覚える人物像としてとらえてみよう。

(下線は引用者。以下同じ。
紅野謙介(1989)「志賀直哉『剃刀』をめぐる演習
――文学への解放/文学からの解放――」『学叢』第46号)

このように、「芳三郎」の「癇の強い」性格を、単に「職人気質」といった性格ではなく、仕事をこなすことに「自己の同一性を確認し、喜びを覚える人物像」として、二面性のある人物であることを確認する。その上で『剃刀』本文の、

 昼に近づくにつれ・・て客がたて・・込んで来た。けたたましい硝子戸の開け閉てや、錦公の引きずる歯のゆるんだ足駄の乾いたやうな響が鋭くなつた神経にはピリ/\触る。

 (『剃刀』本文の引用は『志賀直哉全集第1巻』(岩波書店1998年12月)によった。
 以下同じ。)

という箇所を引用し、次のように指摘する。

ここに見られる身体感覚の拡大は、本来一つであるはずの精神/身体が疎隔状態にあることを意味する。意識は遠心的な感性空間を広げ、異様に研ぎ澄まされ、身体は管理支配のままならぬ異物として疎外されていく。身体から遊離した意識がとらえる感覚はかえって日常の体験よりも生々しく身体性を反映し、そこに統合力を失った意識の錯乱状態を現出するのだ。

(紅野謙介(1989))

このように説明し、「精神」と「身体」とが「疎隔状態」に陥っていく「芳三郎」の内面をとらえている。そしてこの「疎隔状態」が極限まで達したとき、「芳三郎」は「若者」の生命を奪ってしまうのだという。そして、『剃刀』という作品の主題について次のようにまとめる。

(略)この小説が精神/身体としての自己意識の葛藤を主題的に構成したことがわかってくる。すなわち精神/身体の抑制的統一の上に成り立っていた自己同一性の危機とその果てに起きた身体そのものの究極的疎外という物語。溶接の終りにある〈総ての運動は停止した〉という語り手による一文も、これが現実の外的世界をとらえたのではなく、芳三郎の意識に即した現象世界をとられたものであることを示していると納得されよう。

(紅野謙介(1989))

 さらに、『剃刀』の人称と、視点がどこに置かれるのかといった問題については、次のように言及する。

 小説の表現に注意してみるなら、冒頭と末尾の語り手による説明的叙述をのぞくほとんど芳三郎の心理、感覚、想像に即した形で視点が設定されていることがわかる。しかも〈芳三郎〉という三人称をはずして一人称の〈私〉に変えたとしても、文法上、不自然に見えるのは数箇所に過ぎない。まさに読者は芳三郎の心的体験をたどり直すような迫力を感じていく。苛立ちの昂ぶる過程が自然に納得されるゆえんである。〈私〉の理論、すなわちこの小説テクストを統合する作者の感性の理論にしたがって叙述されたことになる。

(紅野謙介(1989))

このように、『剃刀』全体が、「芳三郎」の物語であり、それは「作者の感性の理論」に従って叙述された物語であるとする。さらに、この人称と視点がどこに置かれるのか、という問題は、『剃刀』の最後の箇所に密接に関わるものとして、次のように説明する。

 小説の最後、芳三郎の視点を離れて再び語り手が登場し、〈只独り鏡だけが三方から冷ややかに此光景を眺めて居た〉と結ぶ。この〈鏡〉を通しての視線こそ、真実を見つめるまなざしというフィクションを物語る。その客観性の身振りの下でひそかに強調されるのは、外界と接触した感覚の生々しい動きであり、身体性を深く関わらせた感性の論理なのだ。身振りは身振りのままであり、芳三郎の形象も、殺人という論理的なモチーフもそこでは問題にならない。にもかかわらず最終的に提示されるのは、あらゆる論理を宙吊りにして、殺人にまでいたるこうした心身の感覚を、人間には往々にしてこうした不合理な事態が起こるといってまとめてしまう〈客観性〉なのである。そこにあるのは普遍性の顔をした絶対化された主観に他ならない。

(紅野謙介(1989))

作品を締めくくる最後の一文、「只独り鏡だけが三方から冷やかに此光景を眺めて居た。」という叙述が、それまで「芳三郎」の内面に置かれた視点が、「芳三郎」から離れ、「客観性」をもった「鏡」に置かれる。このことによって、「主観」であるはずの「感性の論理」が「客観性」をもっていることを「絶対化」しているというのである。
 荒井均(2002)「志賀直哉「剃刀」論」(『文芸と批評』第9巻6号 2002年11月)では、「芳三郎」について次のようにとらえている。

彼にとっての価値とは、いかに仕事を完璧にこなすか――であったろう遊びもせず、ぜいたくもせず、ただ職人としての腕に、全プライドをかけていたと思われる。そのような彼にとって、使用人の錦公は、反価値を持った男として、芳三郎にとって不快の対象であった。仕事を怠け、女遊びに耽り、店の金まで掠める。つまり、芳三郎にとって受け入れることのできぬ、怠惰、放恣、犯罪といった、反価値を、ことごとく持っていたのが使用人の源公だったのだ。

(下線は引用者。以下同じ。
荒井均(2002)「志賀直哉「剃刀」論」『文芸と批評』第9巻6号)

紅野(1989)と同じように、「芳三郎」はただ「癇の強い」性格であるだけでなく、「彼にとっての価値とは、いかに仕事を完璧にこなすか」であったとする。それに対し店を追い出される直前の「源公」の行動は、「芳三郎にとって受け入れることのできぬ、怠惰、放恣、犯罪といった、反価値を、ことごとく持っていた」人物であるため、「芳三郎」は「源公」を追い出したのであると説明する。さらに、「芳三郎」について、次のようにも指摘する。

――単なる犯罪だけではない。芳三郎には、漠然とではあるが、自己の価値観とは合わないものに対する反感があったと思われる。彼には、自己自身に対する厳しい価値意識があり、それにはずれたものは認められない。そこに職人としての狭さも頑固さもあるのであるが、また、そこには、他の人にはない一徹さもあるのだ。

(荒井均(2002))

このように「芳三郎」を、「他の人にはない一徹さ」や「自己自身に対する厳しい価値意識」をもちながら、「自己の価値観とは合わないものに対する反感」という「職人としての狭さも頑固さ」をもっている人物として説明する。

 芳三郎と、作者志賀直哉とに共通するものは、両者の行動規範が、「気分」に大きくよっているところにあるといえるだろう。この「気分」の快、不快は、芳三郎にとってもそうであった。そして、この「気分」は、世界と対する時に、鋭い洞察をもっていたといわなければならない。

(荒井均(2002))

 「芳三郎」と作者である「志賀直哉」との共通性を「気分」による「行動規範」にあると指摘し、次のように『剃刀』の主題を説明する。

 しかし、この作品において志賀は、その「気分」が最もしてはならないこと――さらには死なせてしまうこと――に至ってしまう過程を描いた。いわば「気分」に自由にまかせて判断に誤ることのなかった主人公が、ついには、「気分」を自己自身が統御できず、それにひきずられて殺人まで至ってしまう、「気分」の敗北を描いたのだ
 社会からの逸脱を、最も嫌った主人公が、「気分」によって社会から、最大の逸脱をしてしまう、その過程を描いた。好悪の判断が善悪の判断となり得ない、しかも自己で制御できない、その敗北を描いた。

(荒井均(2002))

このように、『剃刀』を、「志賀直哉」と共通性をもつ「芳三郎」が、「気分」によって社会から殺人という「最大の逸脱」をしてしまう過程を描いた作品であるとする。そして、その逸脱とは、「常に人を逸脱させんとして誘惑の口をあけて待ち受けている」ものであり、「ほんのちょっとした逸脱が、決定的なマイナスを人に与える」こともある、として、この『剃刀』が日常に起こりうる「逸脱」であると次のように、分析している。

 芳三郎の場合は、殺人という形で、(あるいは、業務上過失致死という形で)社会から大きく逸脱してしまったが、世の中は、常に人を逸脱させんとして誘惑の口をあけて待ち受けている、といっても過言ではない。ほんのちょっとした逸脱が、決定的なマイナスを人に与えるということがある。この芳三郎の場合も、熱があるのに、剃刀を持とうとしたこと――初めは、客ののどをえぐろうとなどとは意図してはいなかった――という、わずかな逸脱が、決定的な結果に至ってしまったのだ

(荒井均(2002))

 最後に、亀井千明(2003)「志賀直哉「剃刀」論――〈アンチ・犯罪小説〉――」(『甲南女子大学大学院論集 文学文化研究編』創刊号2003年3月)では、

確かに「剃刀」に対して芳三郎を中心に描かれており、特に癇癪を起こしイライラしているところや、最後の客を殺してしまうシーンは読み手に深い印象を与えるものである。そのことから「剃刀」には〈犯罪小説〉との呼称が附されることになり、志賀文学において「剃刀」にはじまる〈犯罪小説〉の系譜なるものも見出されることは、〈犯罪〉に着目することに拍車をかけることになったといえる。

(亀井千明(2003)「志賀直哉「剃刀」論――〈アンチ・犯罪小説〉――」
『甲南女子大学大学院論集 文学文化研究編』創刊号)

と従来の『剃刀』論に対して問題提起する。さらに、『剃刀』では作中人物に置かれる視点が変わることを次のように指摘する。

語り手の視点はその殆んどが芳三郎に置き換えることが出来るものの、お梅や田舎出の客に重なっていることもある。この統一されていない語り方を否定的に捉えるのではなく、そういった語り方が示すのはむしろ芳三郎だけに作品が焦点化されることのないものといえないだろうか

(下線は引用者。以下同じ。
亀井千明(2003))

 そしてこのように、「犯罪小説」とされる『剃刀』について、「芳三郎」の殺人への過程だけに偏りがちな論に疑問を提出し、独自の論を展開する。亀井(2003)では、「芳三郎」の「癇の強さ」と周りを取り囲む人々との関係について次のように指摘する。

芳三郎は常に癇癪で周囲に当り散らしているわけではなく、使用人に対してより、お梅に対しては妻であるという近しさから癇癪を起こしはするが、それも単純に癇癪と言ってしまえるものではなく、その中には甘えの態度も見られるのである。また、客に対してはいらつきながらも、商売上から口には出せないでいる。よってこのような関係性は、他の登場人物らとの関係に齟齬を起こす芳三郎を一口に言い得てしまえるものではない。むしろ、芳三郎は他者との関係性の中で存在している人物といえるのである

(亀井千明(2003))

「芳三郎」について、「お梅」に対しては「甘えの態度」を見せているが、それが商売の「客」に対する際は、たとえ苛立ったとしても「商売上から口には出せないでいる」という点に注目している。そして、「他者との関係性の中で存在している人物」であるとして、たとえ「癇の強い」性格の「芳三郎」であったとしても、人との関わりをもたない人物ではないと説明する。そして、『剃刀』の最後の「只独り鏡だけが三方から冷やかに此光景を眺めて居た。」という叙述について、次のように言及する。

しかし、芳三郎が作品内において他者との関係性の中で存在するということを踏まえる時、この感情を伴い、擬人化された鏡を、芳三郎にとっての他者と考えることが出来ないだろうか
 そのような鏡の存在を示す他者を示すのが語り手である。作品におちえ語りはほぼ芳三郎に視点をあてており、遇に他の登場人物の視点にも寄り添うことは先に述べた。しかし最終的には鏡の芳三郎の行為を眺める視線を打ち明けるのである。つまり語り手は、どちらかといえば芳三郎寄りの見方を示しつつも、最後には他者に眼差される存在として芳三郎の姿を打ち出しているのである。この自在とも言える語り手こそが、他者の中の芳三郎の姿を浮かび上がらせ、現実的空間と非日常という変質的な作品空間を繋いでいる。

(亀井千明(2003))

「鏡」に視点が置かれることを以上のように説明する。「芳三郎」に置かれていた視点が、「鏡」に置かれることによって、物体である「鏡」を「芳三郎」を見つめる「他者」であるというのである。そして亀井(2003)では、次のように『剃刀』を位置づける。

 しかし、最後に語りが示してくれた非日常的な世界に突然の如く現れた鏡は、単なる他者と呼べないのではないかとも考える。もちろん「冷やか」な感情を伴いつつ、他者として芳三郎の殺人行為を眺めるものの、行為の是非を問うてはいるわけではない。となると、芳三郎の殺人は犯罪として成立するものであろうか。犯罪の本来の字義としては、犯した罪であり、違法行為というようなものである。「剃刀」は現実世界に通ずるような設定をされながらも、最終的にはその現実を離れた作品世界となっていることはこれまで繰り返し触れてきた。つまりそのような非現実的世界内で、社会的に問われることがない放免化された殺人は犯罪とはいえないもので、むしろ殺人が犯した罪として成立することのない〈アンチ・犯罪小説〉としての「剃刀」の姿が見えてくるのである

(亀井千明(2003))

山崎正純(1998)「志賀直哉論(二)―― “犯罪小説”をめぐって――」(『大坂女子大学国文篇』第49号1998年3月)で「犯罪小説」として位置づけられてきた『剃刀』を、殺人という「犯罪」が成立されることのない「アンチ・犯罪小説」としてとらえなおしている。
 以上のように、先行研究をみてきた。紅野謙介(1989)では、中心的な作中人物である「芳三郎」について、「完全を期して仕事に向かい、一点の非の打ち所のないその完璧な成就に自己の同一性を確認し、喜びを覚える人物像」という二面性のある性格を確認し、その「芳三郎」の「精神/身体の抑制的統一の上に成り立っていた自己同一性の危機とその果てに起きた身体そのものの究極的疎外という物語」という主題を導き出す。『剃刀』の最後で、置かれる視点が物である「鏡」に変わることに着目し、「あらゆる論理を宙吊りにして、殺人にまでいたるこうした心身の感覚を、人間には往々にしてこうした不合理な事態が起こるといってまとめてしまう〈客観性〉」を見出していた。
 また、荒井均(2002)は、「芳三郎」について、「彼にとっての価値とは、いかに仕事を完璧にこなすか」だったとして、その「反価値」に位置するのが一ヶ月前に追い出してしまった「源公」であったとする。志賀直哉自身と、この「芳三郎」が「気分」による「行動規範」をもつとする。そして、その「気分」を「自己自身が統御できず、それにひきずられて殺人まで至ってしまう、「気分」の敗北を描いたのだ」と『剃刀』の主題を説明していた。その「「気分」の敗北」というものは、「ほんのちょっとした逸脱」を原因とするとも説明する。
 亀井千明(2003)では『剃刀』を、従来までの「犯罪小説」という位置付けではなく、「アンチ・犯罪小説」としてのとらえなおしを試みたものであった。それまで「他者との関係性の中で存在している人物」であった「芳三郎」が、殺人を犯してしまう。その光景を写しだす最後の「鏡」について、「芳三郎」にとっての「他者」と位置づける。「芳三郎」の心理の過程を追うことが先行研究の対象であったのに対し、そうではなく、この「鏡」に視点が変わることに着目する。そして、この「物」である「鏡」への視点の変化は、「殺人が犯した罪として成立することのない〈アンチ・犯罪小説〉」としての『剃刀』の主題を見出す。
 このように、先行研究では、「芳三郎」が「若者」を殺してしまうに至る心理の過程を追いながら、一方では作品の最後の「鏡」へ視点が変わることが、作品の主題を明らかにするてがかりとしてとりあげられている。
 これらの指摘を踏まえて次の第2項では、叙述の分類項目を考える前段階として、『剃刀』の梗概と、場面構成について整理することにする。

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第2項 『剃刀』における場面構成

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 この第2項では、前節までと同様に、分類分析の項目を考えるために、まず『剃刀』の大まかな流れと、その場面構成を考える。第1項の先行研究を踏まえたうえで、『剃刀』の梗概をまとめると次のようになろう。
 癇の強い職人気質の「芳三郎」は一ヶ月前に二人の職人を追い出してしまったため、店には頼りない二人の職人だけになってしまっていた。忙しい盛りの時期に、「芳三郎」は風邪で寝込んでしまう。苛々しながら「芳三郎」は寝床で横になっている(場面T)
 「芳三郎」が寝床にいる間に店は次第に忙しくなってくる。剃刀を砥いでくれと、急ぎの仕事が入る。寝床からそれを聞いていた「芳三郎」は、体調が戻らないが受けてしまう。店のたわいのない話を聞いているうちに、気分が落ち着いてきた「芳三郎」は、仕事のために起き上がろうとするが、体調はまだ戻っておらず突っ伏してしまう。それを見た妻の「お梅」は、仕事をすると言う夫に驚く。「お梅」は、仕事道具をもってこいと言う「芳三郎」の言うとおりにしてやるが、「芳三郎」はすぐに再び寝入ってしまう。「芳三郎」が寝ている間に、依頼した客が剃刀を受け取って帰る。(場面U)
 眼を覚ました「芳三郎」は、「錦公」にさっき砥いだ剃刀が、「あまり切れない」ということで戻ってきたことを告げられる。依然体調が優れない「芳三郎」だったが、再び同じ剃刀を寝床で砥ぎ始める。砥石で砥いだ後、皮砥で砥ごうとすると、皮砥を止めていた釘が抜けてしまう。そこで「芳三郎」は、「お梅」がとめるのも聞かずに、仕事場に降りていく。降りると客は誰もおらず、「お梅」は店じまいをしようと言うが、「芳三郎」は「まだ早い」と反対する。そうして、再び「芳三郎」は剃刀を砥ぎ続ける。(場面V)
 「芳三郎」が剃刀を砥いでいると、閉店間際の店へ一人の「若者」が髭を剃ってくれとやってくる。「芳三郎」は、「お梅」が止めるのも聞かずに、昼間は肉体労働に従事しているふうの「若者」の髭を剃り始める。しかし、体調が悪い事に加えて、あまり剃れない剃刀であるため思うように剃ることができない。苛々を募らせる「芳三郎」に構わず、「若者」と「錦公」は寝入ってしまう。「お梅」も赤子をあやしに仕事場をはなれる。静寂が包む仕事場で「芳三郎」に我慢の限界が訪れる。生まれて初めて客の顔を傷つけてしまった「芳三郎」は、「若者」を剃刀で斬りつけ殺してしまう。殺人を犯してしまった「芳三郎」は、死人のように椅子に座りこむ、という光景を「鏡」がうつしだすという描写で終わる。(場面W)
 概括すれば、『剃刀』はこのようにまとめることができよう。次の表は、その場面T〜Wまでの場面構成表である。文番号は、本稿の巻末に添付している資料の『剃刀』本文(作成は高田)と対応している。

表: 『剃刀』の場面構成表
場面番号 文番号 場面 場面の梗概
場面T 1〜22 「事件」以前  風邪を引いた「芳三郎」が寝ている。職人を追い出してしまったことなど、それまでの店の状況。
場面U 23〜78 剃刀を砥ぐ@  「芳三郎」は、気分が良くなり客の剃刀を砥ぐ。しかし、すぐに疲労を感じ、眠ってしまう。砥いだ途中の剃刀を客が持って帰る。8時に一度食事と薬のために起こされる。
場面V 79〜143 剃刀を研ぐA  「芳三郎」は薬のため再び10時過ぎに起こされる。客から返ってきた剃刀を砥ぐが、再び研げずに、仕事場のある土間に降り、気分が楽になったため砥ぎはじめる。
場面W 144〜235 若者の髭剃りと殺人  「若者」が店に訪れる。体調の悪い「芳三郎」は、思うように剃れずに「若者」の咽を傷つけてしまい、「若者」を剃刀で殺してしまう。

 先行研究でも指摘されていたように、この『剃刀』では、職人気質の「芳三郎」が、「若者」を殺してしまうという過程が、主題と密接に関わっている。その過程とは、「芳三郎」がどのように苛々を募らせていくか、という過程である。
 それは、様々なもの・ことと「芳三郎」が調和しきれずに「齟齬」を起こしていく過程でもある。そこで、本稿では、「芳三郎」の意思に反し、苛々を募らせていく状況を「齟齬」と括弧書きで呼ぶことにする。「芳三郎」は、体調が悪いにもかかわらず、剃刀を砥いだり、髭を剃ったりしなければならないことによって、苛々を募らせていく。また、周りの人々との意思疎通が完全でないため、さらに気分が苛立っていく。本稿では、様々なもの・ことと、「芳三郎」と矛盾していくこうした状態を一括して、「齟齬」と呼ぶことにする。その「齟齬」を起こしていく過程をたどることによって、「芳三郎」が殺人へ駆り立てられていく心理の過程を追う。
 また、この『剃刀』という作品に登場する剃刀は、「竜土の山田」という客が砥いでほしいと持ち込んだ「剃刀」一本だけである(以下、この「竜土の山田」の剃刀は括弧書きで“「剃刀」”と他の作中人物と同じように固有名詞的に表記する。それ以外の一般的な剃刀を指す場合は、括弧なしの“剃刀”と表記することにする)。砥ごうとして満足に砥げないのも、「若者」の髭を剃ろうとするのも、「竜土の山田」の「剃刀」なのである。それまで剃刀を扱うことにかけては名人だったはずの「芳三郎」が、一本の「剃刀」を制御できなくなり、「芳三郎」の意思とは無関係に「齟齬」をうみだしていくのである。この「剃刀」の制御不可能に陥っていく過程も、殺人への過程をたどるうえで、重要なてがかりとなろう。一方では、殺人へと向かう「芳三郎」の内面の過程が、どこに(誰に)視点が置かれ叙述されていくのか、という点にも着目する必要がある。
 その意味で、最終的に「祖母」と和解を果たす『或る朝』とは、まったく違う結末をもちながら、その内面に着目しなければならないと言う点で、共通点もある。『或る朝』・『網走まで』で考えてきた分析項目を踏まえながら、次の第3項でその具体的な分析項目を決定することにする。

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第3項 『剃刀』における叙述の分析項目の決定

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 『剃刀』についての先行研究と場面構成を踏まえ、分析項目を決定する。土部弘(1986)や、第1節2節の『或る朝』、『網走まで』でこころみた分析項目を踏まえ、次のように分類項目を決定する。なお、『或る朝』・『網走まで』と同様に、項目は再考を繰り返して、作品に即するようにして帰納的な手順によって得られたものである。
 全ての叙述は、「叙述者表現」と「対象表現」に二分される。
 「叙述者表現」は、より客観的で補足説明の叙述「説明」と、「叙述者」の主観的な説明の解釈と、主観的な判断が加わった評価を一括した「解釈・評価」とに区分する。これは、『網走まで』と同様に、「叙述者表現」が量的に多く、「説明」と「解釈・評釈」という叙述の質の違いを明らかにするためである。
 「対象表現」は、「事物描写」と「人物描写」とに二分する。『剃刀』では、「場面設定」の叙述としてではなく、「事物描写」や「叙述者表現」「説明」に分類される叙述によって場面を設定されているからである。
 「事物描写」は、「動態描写」と「静態描写」とに二分する。「動態描写」は、事物の動態的な変化や動き、動作といった叙述である。「静態描写」は、事物の静態的な様子、状態、特徴などといった叙述である。
 「人物描写」は、作品の中心的な作中人物である「芳三郎」を別個にとりあえげ、「その他の作中人物」と対比させる。それぞれの「人物描写」は、「談話描写」・「行動描写」・「状態描写」・「心理描写」という四つの下位項目を設ける。「芳三郎」のみ、「心理描写」に『或る朝』の「信太郎」と同様に、「感覚」・「心情」・「思考」という下位項目を設ける。『剃刀』においても、「芳三郎」の内面がどのように叙述されているか、という問題が、主題と密接にかかわっていると考えられるためである。「感覚」とは、「芳三郎」の五感を中心とした身体感覚による認知されたことが示される叙述である。「心情」とは、「芳三郎」の抽象的で、非言語的な心理を描写した叙述である。「気分」に関する描写はすべて「心情」で一括した。これは、体調の悪さによる気分の悪さが描写されたものであるのか、仕事をうまくこなせないことからくる気分の悪さが描写されたものなのか、区別するのが難しいためである。また、この二つの気分の悪さは、「芳三郎」にとって別々のものとしてではなく、一体となったものである。これを無理に区別してしまうと、両者にかかわる気分の悪さをとらえることが難しくなる。よって、「心情」として一括することにした。「思考」とは、「芳三郎」の具体的、言語的な考えが描写された叙述である。
 以上の分析項目を箇条書きにまとめると次のようになる。(例)としたものは、『剃刀』本文における、その項目の叙述の具体例である。文番号、部分番号は添付した資料の本文と同様のものである(作成は田)。下線部があるものは、その下線部のみがその叙述である(下線は田)。ルビは外して、傍点は原文のままである。

「叙述者表現」… 「叙述者」に即した主観的な表現。
「説明」………… 「叙述者」によるより客観的な補足説明の「説明」の叙述。
(例)4芳三郎は其以前、年こそ一つ二つ以上だつたが、源公や治太公と共に此処の小僧であつたのを、前の主が其剃刀の腕前に惚れ込んで一人娘に配し、自分は直ぐ隠居して店を引き渡したのである。
「解釈・評価」… 「叙述者」によるより主観的で評価が加わった「解釈」、「評価」の叙述。
(例)7剃刀を使ふ事にかけては芳三郎は実に名人だつた。
   
「対象表現」…… 叙述されることがらに即した、より客観的な表現。
「談話描写」…… 直接話法によって抜き出された各作中人物の会話の描写。
(例)「27竜土の山田ですが、旦那様が明日の晩から御旅行を遊ばすんですから、夕方までこれを砥いで置いて下さい。28私が取りに来ます」
「行動描写」…… 人物の動態的な動作、動きの描写。
(例)57お梅はいたはるやうにして背後に廻つた。
「状態描写」…… 人物の静態的な様子、容姿の描写。
(例)83店の方も静まりかへつてゐる。
「心理描写」…… 「その他の人物」についての内面の描写。「芳三郎」の「心理描写」は、すべて以下の三つに下位区分にする。
(例)75(a)それの冷えぬ内に食べさせたいと思つたが疲れ切つて眠つてゐるものを起して又不機嫌にするのもと考へ、(b)控えて居た。
「感覚」…… 「芳三郎」の「心理描写」。「芳三郎」の五感をはじめとした身体感覚によって認知されたことを描写した叙述。認知された内容そのもの・・・・・・ではない。
(例)40然し熱に疲れたからだ・・・は据ゑられた置物のやうに重かつた。
「心情」…… 「芳三郎」の「心理描写」。「芳三郎」の非言語的で、抽象的な感情を描写した叙述。
(例)45こんな話を聞いて居る内に、いくらかいい気分になつて来た。
「思考」…… 「芳三郎」の「心理描写」。「芳三郎」の言語的で具体的な理知を描写した叙述。
(例)169芳三郎には、男か女か分らないやうな声を出してゐる小女郎屋のきたない女が直ぐ眼に浮かんだ。
「動態描写」…… 事物についての動的な描写。事物の動きや、動作といった時間的な変化を描写した叙述。
(例)113十時がゆるく鳴る。
「静態描写」…… 事物についての静的な描写。事物の様子や、状態といった空間的な描写を描写した叙述。
(例)42犬張子に蠅が沢山とまつて居た。

 これらの項目を、縦軸(列)におき、文を横軸(行)においた。分析図表のタイトル行は次のようになる。

表: 『剃刀』分析図表 分類項目
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考

 項目の配置順は、『或る朝』『網走まで』に準じている。再び繰り返すと、左端に文番号をおき、「対象表現」「叙述者表現」とならべた。「対象表現」は左から「人物描写」「事物描写」として、以下「芳三郎」と「その他の作中人物」の「人物描写」とを対比させられるようならべた。「人物描写」の下位項目は、左側にいくほど外的な描写、右側にいくほど人物の内面にかかわる描写になるよう配置している。
 分類分析は一文をそのまま一つの項目に分類するのではなく、叙述が部分的に分けられる場合は、分けている。文番号以外にも、部分番号が必要なのはそのためである。それらは『或る朝』、『網走まで』と同様の方法である。
 分析は場面ごとにおこなった。場面Tは、「芳三郎」のそれまでの半生を記述的に説明した箇所であるため、「芳三郎」の「心理描写」に下位区分を設ける必要はないと判断し、「心理描写」としてそれらを一括した。分析結果は、図表として資料として添付するとともに、第4項以降の考察でも、言及している部分の分析図表を抜き出した。なお、本稿に抜き出した図表は、簡略化するため「談話描写」、「行動描写」……を、それぞれ「談話」、「行動」……と略記している。
 表記については、次のようにした。添付した分析図表の資料は、場面ごとにおこなったものである。図表に書き込むのは、原則として、文番号(1、2、3…)と部分番号((a)、(b)、(c)…)のみである。この文番号は、資料に添付した『或る朝』の本文と対応している。
 以上のように、叙述を分析した結果を元に、第4項で具体的に『剃刀』について考察をおこなっていくことにする。

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第4項 『剃刀』の叙述の分類分析による考察

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 第4項では、前節までと同じように、『剃刀』の叙述の分類分析による考察をすすめていく。ここで着目する点は、もともと癇の強い男であった「芳三郎」が、周りの他の作中人物や、自身の体調、そして自分が店に立たなければならない状況、制御が困難になっていく「剃刀」などという様々な「齟齬」をうみだし、「若者」を殺してしまうという殺人への過程である。その過程は、それらの「齟齬」によってうまれた苛々しい気分が、どこ(誰)に向けられて解消されようとしているのか、という過程でもある。
 それらの殺人への過程がどのような叙述で示されるのか、細かく考察していく。また、この『剃刀』では、『或る朝』・『網走まで』ではみられなかった視点の変化がみられる。内面に視点が置かれる人物がどのように変化していくのか、その変化は作品を考える場合どのような意味をもちうるのか、という点もあわせて考察する。
 本項で引用する『剃刀』本文の傍点は、原文による。文番号、部分番号は引用者による。

【場面T】

 1麻布六本木の辰床の芳三郎は風邪のため珍しく床へ就いた。2それが丁度秋季皇霊祭の前にかかつてゐたから兵隊の仕事に忙しい盛りだつた。3彼は寝ながら一 ト月前に追ひ出した源公と治太公が居たらと考へた。
図表: 『剃刀』場面T 叙述の分類分析図表(1〜3文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
1   1                        
2                         2  
3           3                

 これは、『剃刀』の冒頭である。第1文「麻布六本木の辰床の芳三郎は風邪のため珍しく床へ就いた」、第2文「それが丁度秋季皇霊祭の前にかかつてゐたから兵隊の仕事に忙しい盛りだつた」とあり、具体的な場所と時間が示される。この冒頭の二文で、「風邪のため珍しく床へ就いた」にもかかわらず、「兵隊の仕事に忙しい盛り」であり、「芳三郎」は体調が悪いにもかかわらず、店が忙しい時期であるという対立することがらが示され、冒頭から既に「齟齬」がうまれている。
 そして、第3文「彼は寝ながら一 ト月前に追ひ出した源公と治太公が居たらと考へた」と「心理描写」され、続く4文以降の叙述が、「芳三郎」が「考へた」内容として示されることになる。
 この第3文が「心理描写」されることによって、「芳三郎」の内面に視点が置かれて叙述されることになる。

 4芳三郎は其以前、年こそ一つ二つ以上だつたが、源公や治太公と共に此処の小僧であつたのを、前の主が其剃刀の腕前に惚れ込んで一人娘に配し、自分は直ぐ隠居して店を引き渡したのである。
 5内々娘に気のあつた源公は間もなく暇を取つたが、気のいい治太公は今までの「芳さん」を「親方」と呼び改めて前通りよく働いて居た。6隠居した親父はそれから半年程して、母親は又半年程して死んでしまつた。
図表: 『剃刀』場面T 叙述の分類分析図表(4〜6文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
4                         4  
5                         5  
6                         6  

 続く4文からは、「芳三郎」の店を任せられるようになるまでの経緯が示される。
 第3文「一 ト月前に追ひ出した源公と治太公が居たらと考へた」とあることから、これ以降の叙述は、「芳三郎」が思い出している内容であるが、叙述としては、〈叙述者〉による記述的な「叙述者表現」「説明」である。この引用部で、「芳三郎」は他の二人の職人と同じ「小僧」であったのを、「前の主が」「剃刀の腕前に惚れ込んで」店を任せられることになった人物であることが示される。「芳三郎」は、店を任せられるほど、非常に腕の立つ職人である。

 7剃刀を使ふ事にかけては芳三郎は実に名人だつた。8加之、癇の強い男で、撫でて見て少しでもざらつけば毛を一本々々押し出すやうにして剃らねば気が済まなかつた。9それで膚を荒らすやうな事は決してない。10客は芳三郎にあたつて貰ふと一日延びが、ちがふと云つた。11そして彼は十年間、間違ひにも客の顔に傷をつけた事がないといふのを自慢にしてゐた。
図表: 『剃刀』場面T 叙述の分類分析図表(6〜11文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
7                           7
8                         8  
9                         9  
10                         10  
11                         11  

これは、「芳三郎」の腕の良さと、「癇の強い」性格が示される箇所である。
 ここもやはり「叙述者表現」の叙述である。「芳三郎」の「心理描写」としてではなく、「叙述者表現」の「説明」と、「解釈・評価」の叙述である。つまり、「芳三郎」自身の自負としてではなく、事実として「芳三郎は実に名人だつた」として〈叙述者〉に「評価」されうる腕の持主であったということである。これまでの「芳三郎」は、自他共に認められるほど、剃刀の扱いになれた人物なのである。
 ここでは、「芳三郎」がこれまで一度も客の顔を傷つけたことのないという腕の良さと、癇の強い職人気質で、納得いく仕事をしなければ気がすまないということが示される。「自慢にしてゐた」とあることから、「癇の強い男」であるとともに、実際に非常に腕が立ち、自らも自身の腕に誇りをもっていることも示される。直接「芳三郎」と「齟齬」をうみだすことがらは示されないが、すべての原因がこの癇の強さにあることは、確認されるべきであろう。

 12出て行つた源公は其後二年許りしてぶらりと還つて来た。13芳三郎は以前朋輩だつた好諠からも詫を云つて居る源公を又使はないわけに行かなかつた。14然し源公は其二年間にかなり悪くなつてゐた。15仕事は兎角怠ける。16そして治太公を誘ひ出して、霞町あたりの兵隊相手の怪し気な女に狂ひ廻る。17仕舞には人のいい治太公を唆かして店の金まで掠めさす様な事をした。18芳三郎は治太公を可哀想に思つて度々意見もして見た。19然し店の金を持ち出す様になつては、どうする事も出来なかつた。20で、彼は一 ト月程前、遂に二人を追い出して了つたのである。
図表: 『剃刀』場面T 叙述の分類分析図表(12〜20文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
12                         12  
13                         13  
14                           14
15                         15  
16                         16  
17                         17  
18                         18  
19                         19  
20                         20  

 同年代の「源公」と「治太公」とを店から追い出さざるを得なかった事情が示される。
 ここでも、すべての叙述が「叙述者表現」となっている。職人気質である「芳三郎」が同年代であった二人の職人をどうしても店においておけなくなった経緯が具体的に示されている。こうした一連の出来事から、「芳三郎」は「以前朋輩だつた好諠」を重んじる人物でありながら、それでも店を守るためには追い出してしまうという厳しさをもった人物として示される。この事件が、3文の「一 ト月前に追ひ出した源公と治太公が居たら」という「芳三郎」考える理由となっているのである。

 21今ゐるのは兼次郎といふ二十歳になる至つて気力のない青白い顔の男と、錦公といふ十二三の、これは又頭が後前にヤケ・・に長い子供とである。22祭日前の稼ぎ時に此二人ではさつぱり埒があかぬ。23彼は熱で苦しい身を横へながら床の中で一人苛々して居た。
図表: 『剃刀』場面T 叙述の分類分析図表(21〜23文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
21                            21
22                           22
23         23                  

 ここは、現在「芳三郎」の店にいる二人の職人について示される箇所である。冒頭の3文で「芳三郎」が辞めさせてしまった職人がいれば、と考えるのは、今いる職人が店を任せられる人物ではないためである。さらに、「芳三郎」は職人気質の男であるため、体調が悪いからといって店に任せられる者のいない状態では寝ていられず、苛々を募らせていく。店を任せられる職人がいないため、「芳三郎」の体調が悪いにもかかわらず、店に出なくてはいけないという「齟齬」を生んでいる。
 ここでの叙述もやはり「叙述者表現」の「説明」である。その状況に苛々を募らせている「芳三郎」の内面は、「心理描写」の「心情」の叙述で示される。
 店を任せられる者がいないにもかかわらず、二人の職人を追い出してしまったということは、それだけ「芳三郎」が曲がったことの許せない人物であるということでもある。自分の腕を自負するとともに、先代から受け継いだ店を守ろうとする「芳三郎」の仕事に対する考えがあらわれた事件とも言えよう。
 この場面Tは、そのほとんどの叙述が「芳三郎」が任せられる職人がいなくなってしまった経緯が、「叙述者表現」で示されていることに注目される。「芳三郎」が殺人に至る実際の経緯は、場面U以降で展開されていくことになることもあり、「芳三郎」の性格とその日の体調の悪さ、彼を取り巻く状況という「齟齬」が、主として「叙述者表現」の「説明」で示される。「芳三郎」は、自分の仕事を完遂することに誇りをもち、腕の良さで店までも任せられるようになった人物であることが示される。しかし、その腕の良さと誇りは、癇の強い男でもあり、納得する仕事をしなければ気がすまないという性格という二面性を兼ね備えてもいる。
 このように、この場面Tでは、癇の強い性格の「芳三郎」を苛々させる原因は、働かなければいけない状況なのに、風邪のため働けない、という「齟齬」によるものである。

【場面U】

 24昼に近づくにつれ・・て客がたて・・込んで来た。25(a)けたたましい硝子戸の開け閉てや、錦公の引きずる歯のゆるんだ足駄の乾いたやうな響(b)が鋭くなつた神経にはピリ/\触る。
図表: 『剃刀』場面U 叙述の分類分析図表(24、25文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
24                     24      
25       25(b)             25(a)      

 場面Uになり、いよいよ客が立て込んでくる。
 「芳三郎」は、床に入りながらも店の騒がしい様子に苛々を募らせていく。寝ている「芳三郎」は、その店の様子を寝床から聴覚によって知る。25文が、「けたたましい硝子戸の開け閉てや、錦公の引きずる歯のゆるんだ足駄の乾いたやうな響」という単に「事物描写」ではなく、それが「鋭くなつた神経にはピリ/\触る」と「心理描写」の「感覚」で示される。これは、「芳三郎」の体調が悪いことと、体調が悪いにもかかわらず忙しい店を手伝うことができないことによって、苛々して「鋭くなつた」ためである。24文は「事物描写」の「動態描写」であるのに対し、25文が「心理描写」であるため、その苛立ちが同時に示されているのである。
 この「心理描写」の「感覚」は、「芳三郎」の内面に視点が置かれて叙述されている。

 26又硝子戸が開いた。
 「27竜土の山田ですが、旦那様が明日の晩から御旅行を遊ばすんですから、夕方までこれを砥いで置いて下さい。28私が取りに来ます」29女の声だ。
 「30(a)今日はちつとたて・・込んで居るんですが、明日の朝のうちぢやあいけませんか?」(b)と兼次郎の声がする。
 31(a)女は一寸渋つた様子だつたが、
 「(b)ぢやあ間違ひなくね」32(a)かういつて硝子戸を閉めたが、又直ぐ開けて、
 「(b)御面倒でも親方に御願ひしますよ」
 「33あの、親方は……」34兼次郎がいふ。35(a)それを遮つて、
 「(b)兼、やるぜ!」(c)と芳三郎は寝床から怒鳴つた。36鋭かつたが嗄れて居た。37(a)それには答へず、
 「(b)よろしう御座います」(c)と兼次郎の云ふ(d)のが聞える。38女は硝子戸を閉め去つた様子だ。
図表: 『剃刀』場面U 叙述の分類分析図表(26〜38文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
26                     26      
27             27              
28             28              
29           29                
30             30(a) 30(b)            
31             31(a)   31(b)          
32             32(b) 32(a)            
33             33              
34               34            
35 35(b) 35(a)
(c)
                       
36     36                      
37       37(d)     37(b) 37(a)
(c)
           
38               38            

 昼に近づき、忙しくなり始めた「辰床」に、「剃刀」を砥いでほしいという仕事が入る。
 この「竜土の山田」からの仕事の依頼の様子も、「芳三郎」の寝床からの認知による叙述である。29文「女の声だ」という聴覚による判断をはじめ、30文(b)「兼次郎の声がする」、37文(d)「のが聞える」という叙述から、「芳三郎」の内面に視点が置かれていることが確認できる。
 体調が悪く満足に店に立つこともできない「芳三郎」だが、仕事を請けてしまう。癇の強い性格のため、体調が悪いことでかえって「芳三郎」は仕事を請けてしまうのである。体調が悪いにもかかわらず、「剃刀」を砥がなければならないという「齟齬」がうまれている。

 「39(a)畜生」(b)と芳三郎は小声に独言して夜着裏の紺で青く薄よごれた腕を出して、暫く凝つと見詰めて居た。40然し熱に疲れたからだ・・・は据ゑられた置物のやうに重かつた。41彼はうつとりした眼で天井のすすけた犬張子を眺めて居た。42犬張子に蠅が沢山とまつて居た。
 43彼は聞くともなく店の話に耳を傾けた。44(a)兵隊が二三人、近所の小料理屋の品評から軍隊の飯の如何に不味いかなどを話し合つて、然しかう涼しくなると、それも幾らかは食べられて来たなど云つて居る(b)のが聞える。45こんな話を聞いて居る内に、いくらかいい気分になつて来た。46暫くして彼は大儀さうに寝返りをした。
図表: 『剃刀』場面U 叙述の分類分析図表(39〜46文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
39 39(a) 39(b)                        
40       40                    
41   41                        
42                       42    
43   43                        
44       44(b)             44(a)      
45         45                  
46   46                        

 体調が悪いにもかかわらず、仕事を請けてしまった「芳三郎」は、起き上がろうとする。しかし「芳三郎」の身体は、依然として40文「熱に疲れたからだは据ゑられた置物のやうに重」い。仕事をしなければならないと意識すると、体調の悪さも意識されるのである。体調と仕事をしなければならないことが、「芳三郎」の内面で、「齟齬」をうみだしている。
 逆に、43文44文のように「聞くともなく店の話に耳を傾け」ると、45文「こんな話を聞いて居る内に、いくらかいい気分になつて」くる。剃刀を砥ぐことを意識しなくなると、「芳三郎」の気分は落ち着くのである。
 この箇所も、やはり「芳三郎」の「心理描写」「感覚」「心情」が中心であり、その内面に視点が置かれている。

 47三畳の向うの勝手口を射し込む白つぽい曇つた夕方の光の中に女房のお梅が赤ん坊を半纏おんぶにして夕餉の支度をして居る。48(a)彼は(b)軽くなつた気分を味ひながら(c)それを見てゐた。
 「49今の内にやつて置かう」50(a)彼はかう思つて(b)重いからだで蒲団の上へ起き直つたが、眩暈がして暫くは枕の上へ突伏して居た。
図表: 『剃刀』場面U 叙述の分類分析図表(47〜50文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
47               47            
48   48(a)
(c)
    48(b)                  
49           49                
50   50(b)       50(a)                

 「芳三郎」は、寝床に就きながらも気分が良くなってきたため、請け負った「剃刀」を砥ごうと考える(49文、50(a))。しかし、体調はまだ悪く枕の上に突っ伏してしまう(50文(b))。ここでも、芳三郎の仕事をしようという意思とは逆に、体調が戻らず、「齟齬」をうみだしている。47文で「お梅」の姿を見ていると、48文気分は「軽くな」るが、やはり仕事に取り組もうとすると、体調の悪さを意識するのである。
 この箇所も、「お梅」の様子が「芳三郎」の内面に視点が置かれて叙述されている。

 「51(a)はばかり?」(b)と優しく云つて、お梅は濡手をだらりと前へ下げたまま入つて来た。
 52(a)芳三郎は否と云つたつもりだつたが、(b)声がまるで・・・響かなかつた。
 53(a)お梅が夜着をはいだり、枕元の痰吐や薬瓶を片寄せたりするので、(b)芳三郎は又、
 「(c)さうぢやない」(d)と云つた。54が、声がかすれて・・・・お梅には聞きとれなかつた。55折角直りかけた気分が又苛々して来た。
 「56後から抱いてあげようか」57お梅はいたはるやうにして背後に廻つた。
 「58皮砥と山田さんからの剃刀を持つて来な」59芳三郎はぶつけるやうに云ひ放つた。60(a)お梅は一寸黙つてゐたが、
 「(b)お前さん砥げるの?」
 「61いいから持つて来な」
 「62……起きてるならかいまき・・・・でも掛けて居なくつちや仕様がないねえ」
 「63いいから持つて来いと云ふものを早く持つて来ねえか」64割に低い声では云つてゐるが、癇でピリ/\して居る。65お梅は知らん顔をして、かいまき・・・・を出し、床の上に胡坐をかいてゐるのに後ろから羽織つてやつた。66芳三郎は片手を担ぐやうにしてかいまき・・・・の襟を?むとぐいと剥いで了つた。
図表: 『剃刀』場面U 叙述の分類分析図表(51〜66文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
51             51(a) 51(b)            
52     52(b)     52(a)                
53 53(c) 53(b)
(d)
          53(a)            
54                   54        
55         55                  
56             56              
57               57            
58 58                          
59   59                        
60             60(b) 60(a)            
61 61                          
62             62              
63 63                          
64   64(a)     64(b)                  
65               65            
66   66                        

 仕事を進めようと起き上がろうとした「芳三郎」をみて、「お梅」は夫が吐き気をもよおしたのかと勘違いする。それに対して、「芳三郎」は、声にならない声を上げて仕事道具を持ってくるように言うと、「お梅」が掻巻を着るように促し「芳三郎」に掻巻を着せるが、それもすぐ脱いでしまう。
 ここでは、「芳三郎」と妻の「お梅」との意思が噛み合っていない。仕事をしようとする「芳三郎」に対し、「お梅」は体調が悪いのに仕事をするはずがないと考えているため、夫の意思が読みとれなかったのである。それでも仕事をしようとする「芳三郎」に対し、「お梅」はせめて掻巻を着てほしいと思うが、それさえ「芳三郎」は脱いでしまう。ここではじめて、体調が悪いにもかかわらず、仕事をしなければならないという「齟齬」以外の、芳三郎の気分が苛々する原因が生まれる。それは「お梅」との意思の齟齬である。この新たな「齟齬」によって、「芳三郎」は「折角直りかけた気分が又苛々して」くることになる。
 この齟齬をより明瞭にするため、「芳三郎」以外の人物の内面に視点が置かれて叙述される。これまで「芳三郎」にのみ「心理描写」がみられたが、「お梅」の内面にも視点が置かれ「心理描写」される(54文)。54文は心理ではないが、明らかに「お梅」の聴覚を通した感覚の描写である。このように、視点が置かれる対象が変わるのは、「芳三郎」「お梅」両者の意思の違いを浮き彫りにするためであると言える。
 この引用部は、「芳三郎」と「お梅」との意思の違いが対比的に叙述されている箇所である。それと同時に、「芳三郎」が「お梅」に対して怒りをぶつけている箇所でもある。「芳三郎」は自分言ったことを聞き取れなかった「お梅」に対して、「ぶつけるやうに云ひ放」ち(59文)、「いいから持つて来いと云ふものを早く持つて来ねえか」と言うで、苛々しい気分を、多少なりとも解消させている。「お梅」の言動は、「芳三郎」の苛々の原因であると同時に、「芳三郎」は身内である妻になら直接それをぶつけることもできるのである。

 67お梅は黙つて半間の障子を開けると土間へ降りて革砥と剃刀を取つて来た。68そして皮砥をかける所がなかつたので枕元の柱に折釘をうつてやつた。
 69(a)芳三郎はふだん・・・でさへ気分の悪い時は旨く砥げないと云つて居るのに、(b)熱で手が震へて居たから、どうしても思ふやうに砥げなかつた。70(a)其苛々してゐる様子を見兼ねて、(b)お梅は、
 「(c)兼さんにさせればいいのに」(d)と何遍も勧めて見たが、(e)返事もしない。71けれども遂に我慢が出来なくなつた。72十五分程して気も根も尽きはてたといふ様子で再び床へ横はると、直ぐうと/\して、いつか眠入って了つた。
図表: 『剃刀』場面U 叙述の分類分析図表(67〜72文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
67               67            
68               68            
69   69(b)                     69(a)  
70   70(e)         70(c) 70(b)
(d)
  70(a)        
71         71                  
72   72                        

 「お梅」は仕事道具を取り、枕元で「剃刀」を砥げるように釘を打ってやる。しかし、どうしても思うように砥げない「芳三郎」は再び寝入ってしまう。
 ここでも「芳三郎」と「お梅」の内面が視点を変えながら叙述されている。69文は「熱で手が震へて居たから、どうしても思ふやうに砥げなかつた」とあることから「芳三郎」の内面に視点が置かれている。次の70文(a)では「其苛々してゐる様子を見兼ねて」とあり、「お梅」の内面に視点が置かれる。そして再び71文「けれども遂に我慢が出来なくなつた」とあり「芳三郎」の内面に視点が変わり叙述される。
 ここでも、二人はその考えの「齟齬」を示している。「兼さんにさせればいいのに」と考える「お梅」に対して、「芳三郎」は、「思ふやうに砥げな」いにもかかわらず、どうしても自分で砥ごうとする。そしてやがて「我慢出来なくなつ」てしまうのである。この頑なな態度は、体調が悪いにもかかわらず仕事を請けようとした態度と同様である。即ち、「お梅」に「兼次郎」に任せるように言われるとかえって、自分の手で仕事をやり遂げようとするのである。この矛盾した態度は、癇の強い職人気質であるためである。
 また、69文「芳三郎はふだん・・・でさへ気分の悪い時は旨く砥げないと云つて居るのに、熱で手が震へて居たから、どうしても思ふやうに砥げなかつた」とあり、それまで剃刀の扱いが名人であった「芳三郎」も、体調のためにうまく扱えないことが示される。だが、それは「芳三郎」の意思と「齟齬」を起こすような大きなものではなく、「熱で手が震へて居たから」とその原因が明示されている。この「剃刀」を「芳三郎」が制御できなくなり、「齟齬」となるのは、これ以降である。

 73剃刀は火とぼし頃、使の帰途寄つて見たといふ山田の女中が持つて往つた。
 74お梅は粥を煮て置いた。75(a)それの冷えぬ内に食べさせたいと思つたが疲れ切つて眠つてゐるものを起して又不機嫌にするのもと考へ、(b)控えて居た。76八時頃になつた。77(a)余り遅れると薬までが順遅れになるから(b)と無理にゆり起した。78(a)芳三郎も(b)それ程不機嫌でなく(c)起き直つて食事をした。79さうして横になると直ぐ眠入つて了つた。
図表: 『剃刀』場面U 叙述の分類分析図表(73〜79文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
73               73            
74               74            
75               75(b)   75(a)        
76                         76  
77               77(b)   77(a)        
78   78(a)
(c)
    78(b)                  
79   79                        

  しばらく「剃刀」を砥いだ「芳三郎」は、体調の悪さのため眠りについてしまい、「芳三郎」が寝ている間の「お梅」を描いた箇所である。「お梅」は、夫の体調と気分をうかがいながら、思案した上で薬のために「芳三郎」を起こす。対する芳三郎は、無理に起こされたが、不機嫌ではなく食事をして再び眠りにつく。両者の間に対立は生まれていない。仕事をしなければならないという「芳三郎」の意識に、生理的な欲求が勝っているということもあるためか、「芳三郎」は不機嫌ではない。一時的にではあるものの、「芳三郎」は体調の悪さと、「剃刀」を砥ぐという仕事との「齟齬」から解放され、気分は安定しているといえる。
 ここでは、「お梅」の、夫の体調を第一に考えようとする真摯な態度を、「お梅」の内面に視点が置かれた叙述により示している(75文(a)、77文(a))。「芳三郎」の内面にも、視点が置かれた叙述(78文(b))があるが、両者の意思の間に「齟齬」がうまれていない。夫婦の意思の「齟齬」ではなく、「お梅」の夫への気持が表わされている。
 この場面Uでは、次第に「芳三郎」の苛々が、「お梅」をはじめとする周りの人々との意思疎通ができないことでも大きくなっていく。店の話に耳を傾けたり、眠ったりして仕事をしなければならないということを意識せずにいれば、「芳三郎」の気分は安定する。だが、いったん仕事をし始めると、体調の悪さが意識され、さらに周りとの意思の「齟齬」がうまれてしまう。
 場面Uになって、この「お梅」との意思の「齟齬」が示されるが、それと同時に彼女に直接反発することでその苛々した気分は、ある程度安定していると言うこともできる。

【場面V】

 80十時少し前、芳三郎は薬で又起こされた。81(a)今は何を考へるともなく(b)ウト/\としてゐる。82熱気を持つた鼻息が眼の下まで被つてゐる夜着の襟に当つて気持悪く顔にかかる。83店の方も静まりかへつてゐる。84彼は力のない眼差しであたりを見廻した。85柱には真黒な皮砥が静かに下がつて居る。86薄暗いランプの光はイヤに赤黄色く濁つて、部屋の隅で赤児に添乳をしてゐるお梅の背中を照らして居た。87彼は部屋中が熱で苦しんで居るやうに感じた。
図表: 『剃刀』場面V 叙述の分類分析図表(80〜87文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
80   80                        
81       81(b)   81(a)                
82   82                        
83                       83    
84     84                      
85                       85    
86                       86    
87       87                    

 再び「芳三郎」は薬のために起こされる。辺りを見回す「芳三郎」は「部屋中が熱で苦しんで居るやうに感じ」る。
 起こされた「芳三郎」は、薬のためか、眠気と倦怠を感じる。この箇所は、81文の「心理描写」をはじめとして、すべて「芳三郎」の内面に置かれた視点によって叙述されている。苛々しい気分は落ち着いているものの、熱によって「部屋中が熱で苦しんで居るやうに感じた」とあり、体調は依然戻っていない。

 「88親方――親方――」89土間からの上り口で錦公のオヅ/\した声がする。
 「90ええ」91芳三郎は夜着の襟に口を埋めたまま答へた。92(a)其籠つたやうな嗄声が聞えぬかして、
 「(b)親方――」(c)と又云つた。
 「93何だよ」94今度ははつきりと鋭かつた。
 「95山田さんから剃刀が又来ました」
 「96別のかい?」
 「97先刻ンです。98直ぐ使つて見たが、余まり切れないが、明日の昼迄でいいから親方が一度使つて見て寄越して下さいつて」
 「99お使ひが居なさるのかい?」
 「100先刻です」
 「101(a)どう」(b)と芳三郎は夜着の上に手を延ばして、錦公が四這いになつて出す剃刀をケイスのまま受け取つた。
図表: 『剃刀』場面V 叙述の分類分析図表(88〜101文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
88             88              
89               89            
90 90                          
91   91                        
92             92(b) 92(a)
(c)
           
93 93                          
94                           94
95               95            
96 96                          
97               97            
98               98            
99 99                          
100             100              
101 101(a) 101(b)                        

 寝ていた「芳三郎」に、再び「竜土の山田」から同じ「剃刀」が戻ってきたことを「錦公」が告げる。「芳三郎」は、その「剃刀」を受け取る。何の因果か、「芳三郎」は再び同じ「剃刀」を砥ぐことになってしまう。そして、「若者」を殺してしまう「剃刀」も、この何度も砥ごうと試みたこの「切れない」「剃刀」なのである。
 88文で「親方――親方――」と呼びかける「錦公」に対して、「芳三郎」は90文「ええ」と返事をするが、「錦公」には聞えない。両者の意思疎通が満足にできていないことが示されている。「芳三郎」は、「錦公」に返事をしようとしても、満足に声を出すこともできない状態であり、体調と「芳三郎」の意思とがかみ合わず、「齟齬」をうみだしている。
 ここでは、「お梅」とのやりとり(51文〜66文、70文)とは違い、「錦公」の内面を描写した叙述はない。先の「お梅」とのやりとりでは、「芳三郎」と「お梅」との考えの違いが浮き彫りになるように叙述されていた。一方この「錦公」との食い違いは、会話が成立できなかったという程度のものであり、「芳三郎」と「齟齬」をうみだし、苛立たせるものではない。そのため、視点が変わることはないのである。しかし、続く94文「はつきりと鋭かつた」とあるのは、声の鋭さだけではなく、神経過敏になっている「芳三郎」の内面をうかがわせる叙述となっている。

 「102熱で手が震へるんだから、いつそ・・・霞町の良川さんに頼む方がよかないの?」
 103かう云つてお梅ははだかつ・・・た胸を合わせながら起きて来た。104芳三郎は黙つて手を延ばしてランプの芯を上げ、ケイスから抜き出して刃を打ちかへし/\見た。105お梅は枕元に坐つて、そつと芳三郎の頬に手を当てて見た。106芳三郎は五月蠅さうに空いた手でそれを払ひ退けた。
 「107錦公!」
 「108エイ」109直ぐ夜着の裾の所で返事をした。
 「110砥石を此処へ持つて来い」
 「111エイ」
 112砥石の支度が出来た所で、芳三郎は起き上つて、片膝を立てて砥ぎ始めた。113十時がゆるく鳴る。
図表: 『剃刀』場面V 叙述の分類分析図表(102〜113文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
102             102              
103               103            
104   104                        
105               105            
106   106                        
107 107                          
108             108              
109               109            
110 110                          
111             111              
112   112                        
113                     113      

 起き上がった「芳三郎」は、依然として体調が悪いにもかかわらず、自分で研ごうとする。「芳三郎」は、自分で砥いだ「剃刀」であるためか、他の店に頼んではという妻の申し出に取り合わない。一方、「お梅」は、夫の体調を心配して、額に手を当てようとする。しかし、「芳三郎」は、それを「五月蠅さうに」払いのける。ここで、再び両者の意思は食い違いが明らかとなる。夫の体調を最優先に考える「お梅」と、任せられた仕事を完遂することを第一に考える「芳三郎」とは、「齟齬」がみられるのである。
 「心理描写」によって直接苛々した気分が示されるわけではないが、「五月蠅さうに」という叙述から(106文)、「芳三郎」は苛々を募らせていることが示される。
 ここでも、「心理描写」はないが、「お梅」の105文の「行動描写」は、「お梅」の内面へ視点が置かれて叙述されている。やはり、両者の意思が「齟齬」をうみだしていることを明示するための、置かれる視点が変わることによる対比的な叙述である。

 114(a)お梅は(b)何を云つてもどうせ無駄と思つたから(c)静かに坐つて見てゐた。
 115暫く砥石で砥いだ後、今度は皮砥へかけた。116室内のよどんだ空気が其のキュン/\いふ音で幾らか動き出したやうな気がした。117芳三郎は震へる手を堪へ、調子をつけて砥いでゐるが、どうしても気持よく行かぬ。118其内先刻お梅の仮に打つた折釘が不意に抜けた。119皮砥が飛んでクル/\と剃刀に巻きついた。
 「120(a)あぶない!」(b)と叫んでお梅は(c)恐る/\(d)芳三郎の顔を見た。121芳三郎の眉がぴりりと震へた。
 122芳三郎は皮砥をほぐして其処を投げ出すと、剃刀を持つて立ち上がり、寝衣一つで土間へ行かうとした。
 「123お前さんそりやいけない・・・・……」
 124(a)お梅は泣声を出して止めたが、(b)諾かない。125芳三郎は黙つて土間へ下りて了つた。126お梅もついて下りた。
図表: 『剃刀』場面V 叙述の分類分析図表(114〜126文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
114               114(a)
(c)
  114(b)        
115   115                        
116       116                    
117   117                        
118                     118      
119                     119      
120             120(a) 120(b)
(d)
  120(c)        
121   121                        
122   122                        
123             123              
124   124(b)           124(a)            
125   125                        
126               126            

 妻に反対されながらも「芳三郎」は、剃刀を砥ぎ始める。しかし、やはり体調がすぐれないため、「気持よく」砥げない。
 ここでは、「芳三郎」の「剃刀」を砥ごうとする意思と、体調がやはり「齟齬」をうみだしている。体調が悪く仕事がうまくいかないことを、これまでと同じように、「芳三郎」の内面に視点が置かれ「心理描写」される(116文「感覚」)。
 「お梅」との考えの違いが再び示されている。夫が心配で仕事をさせたくないと思っている「お梅」だが、114文「何を云つてもどうせ無駄と思つた」ために、見守ることにする。突然皮砥の釘が外れてしまい、寝衣だけで仕事場の土間に向かおうとする「芳三郎」を124文「泣声を出して止め」ようとする。しかし、「芳三郎」はそのような妻の心配を気にかけることはなく、124文(b)「諾か」ずに降りてしまうのである。ここでも、視点が114文は「お梅」、116文、117文は「芳三郎」の内面に置かれている。置かれ視点が変わることによって、両者の考えの食い違いが示されている。
 また、この引用部はその二つの「齟齬」だけではなく、砥いでいた「剃刀」との「齟齬」もうまれている。「竜土の山田」の「剃刀」を砥いでいると、皮砥を止めている釘が外れてしまう(118文)。そして、119文「皮砥が飛んでクル/\と剃刀に巻」くのである。これは、「お梅の仮に打つた折釘」であったため釘の打ち込みあまかったという物理的な要因によって、起こったものである。しかし、普段から剃刀の扱いに慣れていた「芳三郎」にとっては、「剃刀」を普段のように自分の思い通りに扱うことができなくなってきている現われでもある。「剃刀」と、「芳三郎」とが「齟齬」を起こしはじめているのである。

 127客は一人もなかつた。128錦公が一人ボンヤリ鏡の前に腰かけて居た。
 「129(a)兼さんは?」(b)とお梅が訊いた。
 「130時子を張りに行きました」131錦公は真面目な顔をしてかう答へた。
 「132(a)まあそんな事を云つて出て行つたの?」(b)とお梅は笑ひ出した。133然し芳三郎は依然嶮しい顔をして居る。
 134時子と云ふのは此処から五六軒先の軍隊用雑貨といふ看板を出した家の妙な女である。135女学生上がりだとか云ふ、其店には始終、兵隊か書生か近所の若者が一人や二人腰掛けて居ない事はない。
図表: 『剃刀』場面V 叙述の分類分析図表(127〜135文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
127                       127    
128               128            
129               129(a) 129(b)          
130               130            
131                 131          
132               132(a) 132(b)          
133     133                      
134                         134  
135                         135  

 「芳三郎」らが仕事場に降りていき、「お梅」と「錦公」とが話す箇所である。
 「お梅」が「兼次郎」の行く先を聞くと、「錦公」は「時子」に会いにいったという。それを聞いて思わず笑い出した「お梅」だったが、「芳三郎」は「依然嶮しい顔をして居る」。ここでも、「芳三郎」と「お梅」、あるいは「錦公」や「兼次郎」を含めた三人との意思の相違が、浮き彫りとなる。「お梅」にとって笑える話も、体調が悪く満足に仕事をこなせない「芳三郎」には笑えない、あるいは笑う余裕はない。また、「親方」である「芳三郎」が体調を崩していて店が大変な状況であるにもかかわらず、「時子」の元へ行く「兼次郎」や、それを見過ごした「錦公」も、同様に「芳三郎」が考えている状況とは温度差がある。
 ここでは、どの作中人物にも「心理描写」はみられない。これまでのように、作中人物の内面を対比的に描いているのではなく、「芳三郎」とその他の作中人物との外面のみを対比させているのである。

 「136もうお店を仕舞ふんだからお帰りつて」
 「137まだ早いよ」138(a)芳三郎は(b)無意味に(c)反対した。139お梅は黙つて了つた。
 140芳三郎は砥ぎ始めた。141坐って居た時からは余程工合がいい。
 142お梅は綿入れの半纏を取つて来て、子供でもだますやうに云つて、漸く手を通させ、やつと安心したといふやうに上り框に腰をかけて、一生懸命に砥いでゐる芳三郎の顔を見て居た。143錦公は窓の傍の客の腰掛で腰を抱くやうにして毛もない脛を剃り上げたり剃り下したりして居た。
図表: 『剃刀』場面V 叙述の分類分析図表(136〜143文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
136             136              
137 136                          
138   138(a)
(c)
    138(b)                  
139               139            
140   140                        
141       141                    
142               142            
143               143            

 閉店時刻が迫っているため、「お梅」は「兼次郎」を呼びに行くように「錦公」に言う。しかし、「芳三郎」は、「無意味に反対」する。
 138文(b)の「無意味に」は、「芳三郎」の内面に視点が置かれている。店をもう閉めてもいい時間帯であることは「芳三郎」自身も了解しているにもかかわらず、それを提案した「お梅」に対して「無意味に」反発している。体調の悪さに加えて、周りの人物たちとの齟齬が、彼を「無意味に反対」させたのであろう。
 これに加えて、ここでも「無意味に反対」することで、苛々しい気分をいくらかでも晴らそうとしている。こうして、体調が戻りはじめていることもあり、「芳三郎」は「工合が」よくなる。周りとの意思の疎通は十分でないものの、その苛々しさを身内にぶつけることで「芳三郎」は次第に苛々しい気分を解消していると言える。
 これらの周りの人物たちとの「齟齬」は、「芳三郎」と「齟齬」をうみだしているものであっても、直接反発することで、ある程度すぐに解消しているということである。
 また、普段と同じように仕事場で立ち上がって「剃刀」を砥ぐことで、「剃刀」を再び「芳三郎」の制御下に置くことができるようになっている。完全にすべての「齟齬」が取り除かれたわけではないが、「芳三郎」の気分は安定を取り戻しつつある。
 場面Vでは、いったん気分が戻りはじめた場面Uから、「芳三郎」はまた苛々が募りはじめている。それはやはり体調が悪いにもかかわらず、満足に「剃刀」を砥ぐことができないことを発端として、「芳三郎」と、彼をとりまく人物たちとの意思の食い違いも、彼の苛々しい気分の原因となっている。「剃刀」が制御不可能に陥ってしまうことでも、「齟齬」がうまれ、苛々しい気分を募らせる。しかし、場面Vでは、それらの「齟齬」が少し取り除かれることによって、「芳三郎」の気分は安定を取り戻しつつある。

【場面W】

144(a)此時景気よく硝子戸を開けて(b)せいの低い二十二三の(c)若者が入つ来た。145新しい二 タ子の袷に三尺を前で結び、前鼻緒のヤケにつまつた駒下駄を突掛けてゐる。
 「146ザットでよござんずが、一つ大急ぎであたつて・・・・おくんなさい」147かう云ひながらいきなり鏡の前に立つと下唇を噛んで頤を突出し、揃へた指先で頻りに其辺を撫でた。148若者はイキがつた口のききやうだが調子は田舎者であつた。149節くれ立つた指や、黒い凸凹の多い顔から、昼は荒い労働についてゐる者だといふ事が知られた。
図表: 『剃刀』場面W 叙述の分類分析図表(144〜149文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
144               144(a)
(c)
144(b)          
145                 145          
146             146              
147               147            
148                         148  
149                         149  

 閉めるか閉めまいかという時間の「芳三郎」の店に、「若者」が現れる。
 ここでは、「叙述者表現」の「説明」の叙述によって、「若者」の特徴が示される。後の叙述を踏まえて考えるなら、「芳三郎」の近い位置に視点が置かれた「叙述者表現」とも考えられる。しかしここでは、叙述から考えれば、特定の誰かからの特徴ではなく、誰にでも「田舎者」の「昼は荒い労働についてゐる者」であるという特徴を兼ね備えた「若者」であるという人物として、「叙述者表現」されているのである。
 その特徴が「芳三郎」にとって我慢ならいようになるのは、これ以降である。149文の「若者」の特徴は、直接「芳三郎」と「齟齬」を起こす存在ではない。それは「芳三郎」が優れた職人であることでも裏付けらる。店を任せられるほどの人物である「芳三郎」は、普段であれば、客の顔によって激しく気分が害されることで手元が狂ったり、不機嫌になったりするような職人であるとは考えがたい。

 「150(a)兼さんに早く」(b)とお梅は眼も一緒に働かして命じた。
 「151おいら・・・がやるよ」
 「152お前さんは今日は手が震えるから……」
 「153(a)やるよ」(b)と芳三郎は鋭くさへぎつた。
 「154(a)どうかしてるよ」(b)とお梅は小声で云つた。
 「155仕事着だ」
 「156どうせ、あたる・・・だけなら毛にもならないから其儘でおしなさい」157お梅は半纏を脱がしたくなかつた。
図表: 『剃刀』場面W 叙述の分類分析図表(150〜157文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
150             150(a) 150(b)            
151 151                          
152             152              
153 153(a) 153(b)                        
154             154(a) 154(c)            
155 155                          
156             156              
157                   157        

 「お梅」が止める前に、「芳三郎」が「若者」の髭を剃ると言い出す箇所である。
 満足に剃刀も砥げない「芳三郎」に、「お梅」は髭を剃らせたくなかったため「兼次郎」を呼びに行くように言う。しかし、「芳三郎」はそれを遮り、仕事着を持ってくるように言う。「芳三郎」にとって、「田舎者」の「若者」を剃るくらい体調が悪くともこなせると考える。一方、「お梅」は、癇の強い夫の性格と体調とを考え、せめて半纏を着せたまま仕事をするように言う。
 ここでも、あくまで仕事をしようとする「芳三郎」と、それをなんとか止めようとする「青梅」とが対立している。また叙述も、「一緒に働かして」「お梅は半纏を脱がしたくなかつた」と「お梅」の内面に視点が置かれて、「芳三郎」との意思が対比するように描かれている。「お梅」と「芳三郎」との考えが「齟齬」をうみだしている。

 158(a)妙な顔をして二人を見較べてゐた若者は、
 「(b)親方、病気ですか」(c)と云つて小さい凹んだ眼を媚びるやうにショボ/\さした。
 「159ええ、少し風邪をひいちやつて……」
 「160悪い風邪が流行るつて云ひますから、用心しないといけませんぜ」
 「161ありがたう」162芳三郎は口だけの礼を云つた。
 163(a)芳三郎が白い布を首へ掛けた時、(b)若者は又「(c)ザットでいいんですよ」(d)といつた。164(a)そして「(b)少し急ぎますからネ」(c)と附け加へて薄笑ひをした。165芳三郎は黙って腕の腹で、今砥いだ刃を和らげて居た。
 「166十時半と、十一時半には行けるな」167又こんな事を云ふ。168何とか云つて貰ひたい。
 169芳三郎には、男か女か分らないやうな声を出してゐる小女郎屋のきたない女が直ぐ眼に浮かんだ。170で、此下司張つた小男が是から其処へ行くのだと思ふと、胸のむかつくやうなシーンが後から/\彼の衰弱した頭に浮かんで来る。171彼は冷め切つた湯でシャボンをつけ、やけにゴシ/\頤から頬のあたりを擦つた。172其間も若者は鏡にちらへする自分の顔を見ようとする。173芳三郎は思ひ切つた毒舌でもあびせかけてやりたかつた。
図表: 『剃刀』場面W 叙述の分類分析図表(158〜173文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
158             158(b) 158(a)
(c)
           
159 159                          
160             160              
161 161                          
162   162                        
163 163(a)           163(b) 163(c)            
164             164(b) 164(a)
(c)
           
165   165                        
166             166              
167               167            
168           168                
169           169                
170           170                
171   171                        
172               172            
173         173                  

 体調の悪い「芳三郎」は、軽い調子で話しかけてくる「若者」に対して、苛立ちを募らせていく。
 体調が悪くとも、仕事に対して手を抜けない「芳三郎」に対して、「若者」は軽い調子で話しかけてくる。そのため、「若者」の160文の「悪い風邪が流行るつて云ひますから、用心しないといけませんぜ」という言葉にも、「芳三郎は口だけの礼」を言うだけで精一杯なのである(162文)。さらに、「若者」にとって髭剃りという仕事が軽いものと考えているため、163文(c)「ザットでいいんですよ」、164文(b)「少し急ぎますからネ」と軽く話しかけ、「薄笑ひ」さえ見せる。しかし、「芳三郎」にとって自慢であり、仕事に対して妥協を許すことができない髭剃りという仕事を、「ザット」済ましたり、急いで剃ってしまうことなどできない。髭剃りという仕事に対する、「若者」の態度が「芳三郎」の職人気質の性格を逆なですることになる。
 さらに、このような「若者」の軽い特徴をもとに、「芳三郎」が想像しますます苛々しい気分になっていく。体調が悪いのにもかかわらず丁寧に仕事をしようとしている「芳三郎」と、「小女郎屋」に遊びに行くように想像できる「若者」とが、「齟齬」となっていく。あくまで「芳三郎」にとっての「若者」像であるが、苛々しい気分にさせる「齟齬」をうみだすものであることに変わりはない。
 だが、この「若者」は客であるため、これまでと同じように直接相手に向かって悪態をつくことができない。173文のように「思ひ切つた毒舌でもあびせかけてやりたかつた」と思ったとしても、それは「やりたかつた」であり、実際に毒舌を浴びせかけることはできない。これまで、身内に文句を言い放つことで、いくらか解消できていた苛々しい気分も、客である「若者」にはそれもできずに、蓄積されていくのである。
 168文は、「何とか云つて貰ひたい。」という「心理描写」である。しかし、ただ「何とか云つて貰ひたい。」と叙述されているのみで、誰の「心理描写」であるか、明確に示されてはいない。この場にいるのは、「錦公」「お梅」「若者」そして、「芳三郎」である。前後の文脈から言えば、「錦公」と「お梅」が「何とか云つて貰ひたい」と思うのは不自然である。即ち、この「心理描写」は「若者」か「芳三郎」の内面を描写したものということになろう。
 もし、「若者」の「心理描写」と考えるならば、次のようになろう。しきりに話しかける「若者」が、黙っている「芳三郎」に何か返答してほしい、という意味で「何とか云つて貰ひたい。」と思うのである。「田舎者」で、しかもこの「芳三郎」の店に来たのが初めてであると考えられる「若者」にとって、「芳三郎」のただならぬ厳しい雰囲気を和らげたいと考えた、と解釈できるのである。
 一方、「芳三郎」が「何とか云つて貰ひたい。」と考えたとすれば、どのように説明できるだろうか。この場合、あまりに軽い口調で話しかけてくる「若者」に対し、「芳三郎」が「もう少しまともなことを言ってもらいたい」と思ったと解釈できる。あるいは、この場にいる「お梅」か「錦公」かに、この軽い調子で話しかけてくる「若者」に対して、文句の一つでも言ってほしい、と思ったという解釈も成り立つ。
 この168文の「心理描写」について、亀井千明(2003)では、

語り手の視点はその殆んどが芳三郎に置き換えることが出来るものの、お梅や田舎出の客に重なっていることもある。この統一されていない語り方を否定的に捉えるのではなく、そういった語り方が示すのはむしろ芳三郎だけに作品が焦点化されることのないものといえないだろうか。

(下線引用者。
亀井千明(2003)「志賀直哉「剃刀」論――〈アンチ・犯罪小説〉――」
『甲南女子大学大学院論集 文学文化研究編』創刊号)

と、置かれる視点について指摘している箇所で、下線部の註釈として、以下のように言及している。

具体的には、お梅の「それの冷えぬ内に食べさせたいと思つたが疲れ切つて眠つてゐるものを起して又不機嫌にするのもと考へ、控えて居た。」や、客の「何とか云つて貰ひたい。」などの箇所である。

(亀井千明(2003))

つまり、「何とか云つて貰ひたい。」は、亀井は「客」の心理、すなわち「若者」の「心理描写」であると考えている。
 だが、「若者」の「心理描写」と考えられるものは、これ以外の叙述にはない。この「何とか云つて貰ひたい。」という叙述だけが「若者」の内面に置かれた視点から、「心理描写」されたものとは考えにくい。しかも、「何とか云つて貰ひたい、と若者は思った」といった描写ではなく、「何とか云つて貰ひたい。」という心理の内容だけが描写されているという叙述である。その前後は「芳三郎」の内面に置かれたはずの視点が、いきなり168文の「何とか云つて貰ひたい。」という叙述だけが「若者」の内面に変わるというのは、不自然であろう。あるいは、この「何とか云つて貰ひたい。」という叙述が、一つの叙述で「若者」「芳三郎」両者の内面が示されたものと考えるのも無理がある。
 この叙述はやはり「芳三郎」の「心理描写」と考えたほうが妥当ではないだろうか。「芳三郎」がいくら「何とか云つて貰ひたい。」と考えても、やはり客の「若者」に対して直接「何とか云」うことはできないのである。この箇所では、「若者」に苛々しい気分を募らせていく「芳三郎」の内面に視点が置かれ、「心理描写」されるのである(168〜170文、173文)。

 174芳三郎は剃刀をもう一度キュン/\やつて先づ喉から剃り始めたが、どうも思ふやふに切れぬ。175手も震へる。176それに寝てゐてはそれ程でもなかつたが、起きてかう俯向くと直ぐ水洟が垂れて来る。177時々剃る手を止めて拭くけれど直ぐ又鼻の先がムズ/\して来ては滴りさうに溜る。
図表: 『剃刀』場面W 叙述の分類分析図表(174〜177文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
174   174                        
175   175                        
176   176                        
177   177                        

 それでも職人気質の「芳三郎」は、「若者」の髭を剃ろうとする。しかし、体調がすぐれない「芳三郎」は、客の顔をのぞきこむ体勢をとったことで、さらに悪化させる。ここでも、「芳三郎」の内面に置かれた視点からの叙述によって、仕事をしなければならない状況でありながら、体調が悪く満足にこなせないという「齟齬」が再びうまれる。
 体調が悪くとも、仕事に妥協を許さない「芳三郎」の思いとは逆に、「剃刀」と「齟齬」を起こし始める。この叙述では、174文「どうも思ふやふに切れぬ」、175文「手も震へる」と制御不能になった「剃刀」とその手元を叙述したあと、176文「それに」「直ぐ水洟が垂れて来る」と、体調の悪さがそれに添加される形の叙述になっていることである。体調が悪いために「手も震へる」のではなく、「どうも思ふやうに切れぬ」、「手も震へる」上に、「それに」体調も悪い、という順序なのである。
 ここでの叙述の順序性の逆転は、重要視されるべきであろう。場面Uの69文では「熱で手が震へて居たから、どうしても思ふやうに砥げなかつた」と砥げない理由が「熱で手が震へる」こととして示されていたが、ここでは逆になっているのである。これは、「芳三郎」をとりまく「齟齬」が、体調が悪いにもかかわらず、仕事をこなさなければならないという「齟齬」だけではなくなってきていることを示している。「剃刀」を扱う腕をはじめとする身体感覚と「芳三郎」の意思とが「齟齬」を起こしはじめているために、「剃刀」を制御することができなくなってきているということに他ならない。

 178奥で赤児の啼く声がしたので、お梅は入つて行つた。
 179切れない剃刀で剃られながらも若者は平気な顔をして居る。180痛くも痒くもないと云ふ風である。181其無神経さが芳三郎には無闇と癪に触つた。182(a)使ひつけの切れる剃刀がないではなかつたが(b)彼はそれと更へやうとはしなかつた。183どうせ何でもかまふものかという気である。184それでも彼は不知又丁寧になつた。185少しでもざらつけば、どうしても其処にこだはらずにはゐられない。186こだはればこだはる程癇癪が起つて来る。187からだも段々疲れて来た。188熱も大分出て来たやうである。
図表: 『剃刀』場面W 叙述の分類分析図表(178〜188文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
178               178            
179               179            
180                 180          
181         181                  
182   182(b)                     182(a)  
183           183                
184   184                        
185         185                  
186         186                  
187       187                    
188       188                    

 体調が悪く、満足に剃刀が扱えない状態であっても「芳三郎」は、「若者」の髭を剃ることをやめない。満足に剃れていないにもかかわらず、それには気づかずに179文「若者は平気な顔をして」、180文「痛くも痒くもないと云ふ」態度が、さらに181文「芳三郎には無闇と癪に触」ることになる。「芳三郎」の苦しみを知るはずのない「若者」の態度は、「芳三郎」の仕事に手を抜かない考え方と「齟齬」を起こすのである。
 だが、「芳三郎」は、切れない「剃刀」を手放そうとしない。砥ごうとしても気持よく砥げなかった「竜土の山田」の「剃刀」を使い続けるのである。その心理は「どうせ何でもかまふものかという気である」。「芳三郎」は、職人としての冷静な判断力を失い、仕事に対してぞんざいな意識になっていく。だが、それでも「こだはらずにはゐられない」「芳三郎」は、ますます癇癪を起こしていくことになる。剃れない「剃刀」をかえようとしないのは、「芳三郎」自身の判断でありながら、剃れないことにこだわり続け、癇癪を起こしていくという悪循環を、自らによって引き起こしていくのである。
 ここでも、187文「からだも段々疲れて来た」、188文「熱も大分出て来たやうである」と体調の悪さが、髭が満足に剃れないという叙述の後に、示されている。
 これらの苛々しい気分や、「若者」の癪に触る態度は、すべて「芳三郎」の内面に置かれた視点から叙述されている。

 189(a)最初何の彼の話しかけた若者は(b)芳三郎の不機嫌に恐れて(c)黙つて了つた。190そして額を剃る時分には昼の烈しい労働から来る疲労でうつら/\仕始めた。191錦公も窓に倚つて居眠つて居る。192奥も赤児をだます声が止んで、ひつそりとなつた。193夜は内も外も全く静まり返つた。194剃刀の音だけが聞える。
図表: 『剃刀』場面W 叙述の分類分析図表(189〜194文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
189               189(a)
(c)
  189(b)        
190               190            
191               191            
192                       192    
193                       193    
194                       194    

 「若者」のひげを剃り始めてしばらくすると、「芳三郎」と「若者」以外の存在を示す音が消えて、あたりは静寂に包まれていく。こうなることで、「芳三郎」は「剃刀の音だけ」を聞くことになる。「芳三郎」の意識は、「若者」の髭を剃ることだけに集中していくのである。
 あたりが静まりかえることで、「芳三郎」に意識される(あるいは「芳三郎」が意識できる)音は、「剃刀の音だけ」になっていく。「芳三郎」の意識には、「剃刀」が自分の意思に反して剃れないという感覚だけになっていくということである。あたりが静寂に包まれることによって、満足に髭を剃れない、しかしその部分にこだわらずにはいられない、という悪循環の中に、「芳三郎」は閉じ込められてしまう。そして、「剃刀」の剃れない音以外に、他に意識する対象がなくなってしまうのである。

 195(a)苛々して怒りたかつた気分は泣きたいやうな気分に変つて(b)今は身も気も全く疲れて来た。196眼の中は熱で溶けさうにうるんでゐる。
 197咽から頬、頤、額などを剃つた後、咽の柔かい部分がどうしてもうまく行かぬ。198こだはり尽くした彼は其部分を皮ごと削ぎ取りたいやうな気がした。199(a)肌理の荒い一つ/\の毛穴に油が溜つて居るやうな顔を見て居ると(b)彼は真ンからそんな気がしたのである。200若者はいつか眠入つて了つた。201がくりと後へ首をもたせてたわいもない口を開けて居る。202不揃ひな、よごれた歯が見える。
 203疲れ切つた芳三郎は居ても起っても居られなかった。204総ての関節に毒でも注されたやうな心持がしてゐる。205何も彼も投げ出して其まま其処へ転げたいやうな気分になつた。206もうよさう! 207かう彼は何遍思つたか知れない。208然し惰性的に依然こだはつて居た。
図表: 『剃刀』場面W 叙述の分類分析図表(195〜208文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
195       195(b) 195(a)                   
196       196                    
197   197                        
198         198                  
199       199(a) 199(b)                  
200               200            
201                 201          
202       202                    
203         203                  
204       204                    
205         205                  
206           206                
207           207                
208   208                        

 「芳三郎」は体調の悪さに加えて、「若者」の髭をうまく剃ることができないことで、苛々しい気分から、「泣きたいやうな気分に」なる。そして、「こだはり尽くした彼は其部分を皮ごと削ぎ取りたいやうな気」までもしてくる。
 「剃刀」を持つ手の感覚だけではなく、196文「眼の中は熱で溶けさうにうるんで」くるように、視覚までもが奪われていく。だが、それでも剃るのをやめようとはせずに、198文「皮ごと削ぎ取りたい」という想像までするようになる。一方、依然として「若者」はその「芳三郎」の切迫した状況を知らずに、201文「たわいもない口を開けて」寝ているのである。その無神経な態度を見ても、「芳三郎」は客である「若者」に対して、その「泣きたいやうな気分」を直接何か言うことはできないのである。
 やがて、「芳三郎」は「剃刀」を制御できなくなるばかりではなく、204文「総ての関節に毒でも注されたやうな心持がして」、全身の身体感覚を失っていく。

 209……刃がチョッとひつかかる。210若者の咽がピクッと動いた。211彼は頭の先から足の爪先まで何か早いものに抜けられたやうに感じた。212で、其早いものは彼から総て倦怠と疲労とを取つて行つて了つた。
 213傷は五厘程もない。214彼は只それを見詰めて立つた。215薄く削がれた跡は最初乳白色をして居たが、ヂッと淡い紅がにじむと、見る/\血が盛り上つて来た。216彼は見詰めてゐた。217血が黒ずんで球形に盛り上がつて来た。218それが頂点に達した時に球は崩れてスイと一ト筋に流れた。219此時彼には一種の荒々しい感情が起つた。
 220嘗て客の顔を傷つけた事のなかつた芳三郎には、此感情が非常な強さで迫つて来た。222呼吸は段々忙しなくなる。221彼の全身全心は全く傷に吸ひ込まれたやうに見えた。223今はどうにもそれに打ち克つ事が出来なくなつた。224……彼は剃刀を逆手に持ちかへるといきなりぐいと咽をやつた。225刃がすつかり隠れる程に。226若者は身悶えも仕なかつた。
 227一寸間を置いて血が迸しる。228若者の顔は見る/\土色に変つた。
222
図表: 『剃刀』場面W 叙述の分類分析図表(209〜228文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
209                     209      
210               210            
211       211                    
212       212                    
213                 213          
214   214                        
215               215            
216   216                        
217               217            
218               218            
219         219                  
220         220                  
221   221                        
222       222                    
223         223                  
224   224                        
225   225                        
226               226            
227               227            
228               228            

 「芳三郎」はついに傷をつけてしまう。しかし、ここでの叙述は特徴的である。209文「……刃がチョッとひつかかる」とあり、「ひつかけた」「ひつかける」ではなく、「ひつかかる」とあり、「剃刀」を手に持っているはずの「芳三郎」の意思とは無関係に傷をつけたかのように叙述される。あたかも「刃」や「剃刀」が独自の意志を有しているかのように「ひつかかる」のである。また、「抜けられたやうに感じた」あり、ここでも「芳三郎」の意思とは無関係に起こった変化のように叙述されている。
 219文「一種の荒々しい感情が起つた」、220文「此感情が非常な強さで迫つて来た」、221文「全く傷に吸ひ込まれたやうに見えた」、223文「どうにもそれに打ち克つ事が出来なくなつた」と、あたかも「芳三郎」とは全く関係のない力の作用により殺人に導かれていくかのように、叙述されている。そして、持っていた「剃刀」で「若者」を殺してしまうのである。
 このように、「剃刀」を扱うことにかけて名人だった「芳三郎」は、「剃刀」を制御しきれなくなり、自らの意志と「齟齬」を起こした結果、「若者」を殺してしまう。一本の「剃刀」が、身体感覚を失った「芳三郎」の意思に反して、殺人に導かれていくのである。「芳三郎」が自ら悪循環をうみだしたことは確かであるが、その「芳三郎」の意思とは無関係に「若者」を殺してしまうのである。その叙述は、「芳三郎」を加害者としてではなく、殺人に仕向けられ・・・・・巻き込まれた・・・・・・被害者のような叙述で示されるのである。
 「若者」を殺してしまう直接のきっかけとなったのは、はじめて客を傷つけてしまったということである。しかし、殺人へ導かれていく原因は、「芳三郎」の苛々を募らせることになった様々な「齟齬」のくり返しである。

 229芳三郎は殆ど失神して倒れるやうに傍の椅子に腰を落した。230総ての緊張は一時に緩み、同時に極度の疲労が還つて来た。231眼をねむつてぐつたりとして居る彼は死人の様に見えた。232夜も死人の様に静まりかへつた。233総ての運動は停止した。234総ての物は深い眠りに陥つた。235只独り鏡だけが三方から冷やかに此光景を眺めて居た。
図表: 『剃刀』場面W 叙述の分類分析図表(229〜235文)
文番号 対 象 表 現 叙述者表現
人 物 描 写 事物描写 説明 解釈

評価
「芳三郎」 その他の人物 動態描写 静態描写
談話描写 行動描写 状態描写 心理描写 談話描写 行動描写 状態描写 心理描写
感覚 心情 思考
229   229                         
230       230                    
231     231                      
232                     232      
233                     233      
234                     234      
235                       235    

 「若者」を殺してしまった「芳三郎」は、倒れるように座り込むというところで『剃刀』は終わる。
 「若者」を殺した「芳三郎」は、奪われた疲労が一気に「還つて来」る。231文「眼をねむつてぐつたりとして居る彼は死人の様に見えた」とあり、視点は「芳三郎」の内面から離れ、特定の作中人物ではない「叙述者」に戻る。再び、232文「夜も死人の様に静まりかへつた」、233文「総ての運動は停止した」、234文「総ての物は深い眠りに陥つた」と静寂が「事物描写」「動態描写」される。そして、235文では「只独り鏡だけが三方から冷やかに此光景を眺めて居た」と、視点が人物ではなく物体である「鏡」に置かれ、叙述される。それまで「芳三郎」か「お梅」かという作中人物に置かれていた視点が、ここでは人格さえもっていない「鏡」に変わっているのである。
 この「鏡」に置かれた視点について、紅野謙介(1989)「志賀直哉『剃刀』をめぐる演習――文学への解放/文学からの解放――」(『学叢』第46号1989年3月)では、次のように指摘されていた。
 

その客観性の身振りの下でひそかに強調されるのは、外界と接触した感覚の生々しい動きであり、身体性を深く関わらせた感性の論理なのだ。身振りは身振りのままであり、芳三郎の形象も、殺人という論理的なモチーフもそこでは問題にならない。にもかかわらず最終的に提示されるのは、あらゆる論理を宙吊りにして、殺人にまでいたるこうした心身の感覚を、人間には往々にしてこうした不合理な事態が起こるといってまとめてしまう〈客観性〉なのである。そこにあるのは普遍性の顔をした絶対化された主観に他ならない。

(下線は引用者。以下同じ。
紅野謙介(1989)「志賀直哉『剃刀』をめぐる演習
――文学への解放/文学からの解放――」『学叢』第46号)

「芳三郎」の主観的な「身体性を深く関わらせた感性の論理」による殺人を、「鏡」という物体に視点が置かれることで、「人間には往々にしてこうした不合理な事態が起こるといってまとめてしまう」という「客観性」を指摘する。しかし、それは「客観」的でありながら、実際には「絶対化された主観」であるというのである。
 しかし、この「鏡」に視点が置かれることは、「客観」「主観」という二項対立でとらえられるものであろうか。「鏡」は単に物体であり、対峙する出来事をそのまま映し出すものでしかない。「芳三郎」にとって「客観」か、「芳三郎」の「主観」かという対立では、『剃刀』という作品はとらえられないのではないだろうか。では、最後の235文で視点が「鏡」に置かれる意味はどこにあるのだろうか。これは第5項で、特徴的な叙述とともに、考察を深める。
 このように、『剃刀』では、「芳三郎」が、様々な「齟齬」によって殺人へと導かれていく心理の過程を描いた作品である。その「齟齬」によってうまれた苛々しい気分が、悪循環の中で増幅され、殺人という結末に至るのである。
 その「齟齬」をうみだす「芳三郎」が描出されていく叙述の特徴と、置かれる視点の変化について、次項で考察を深めることとする。

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第5項 『剃刀』における特徴的な叙述についての考察

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 本項では第4項までに得られた『剃刀』の考察結果に加えて、さらに特徴的な叙述についての考察をおこなう。また、『剃刀』では、置かれる視点が変化することも、特徴の一つである。視点の配賦にかかわる、このような置かれる視点の変化についても、あわせて考察する。その考察結果により『剃刀』の主題を明らかにする。

比喩表現

 『剃刀』では、これまでみてきた『或る朝』、『網走まで』にみられなかった叙述の特徴の一つとして、直喩表現がある。直喩表現は、『剃刀』において、重要な表現を含んだ叙述は『剃刀』という作品の主題を考えるうえで重要な特徴である。以下に具体的に直喩表現が用いられている箇所を引用し、その重要性を考えることにする。

 「56後から抱いてあげようか」57お梅はいたはるやうにして背後に廻つた。
 「58皮砥と山田さんからの剃刀を持つて来な」59芳三郎はぶつけるやうに云ひ放つた。60(a)お梅は一寸黙つてゐたが、
 「(b)お前さん砥げるの?」
 「61いいから持つて来な」
 「62……起きてるならかいまきでも掛けて居なくつちや仕様がないねえ」

(下線引用者。以下同じ。)

 上の引用は場面U、起き上がった「芳三郎」が「お梅」に対して仕事道具を持ってくるように言いつける箇所である。ここで下線部59文、「ぶつけるやうに」と直喩表現で叙述されている。「芳三郎」の談話がその苛立ちのために、言葉をぶつけるように「お梅」に浴びせられる。単に「云ひ放つた」とするだけではなく、敢えて直喩表現にしているところが注目される。
 夫を心配している「お梅」に対して、「芳三郎」は、忙しい時期であるにもかかわらず仕事ではなく自分の体調を心配しようとしていることに苛立っている。直喩表現で叙述されることで、その苛々しさが示されることとなる。「芳三郎」の意思と「齟齬」を起こしているところである。だが、その苛々は、「ぶつけるやうに云ひ放」つことによって、解消しようとしているという説明もできよう。

 80十時少し前、芳三郎は薬で又起こされた。81(a)今は何を考へるともなく(b)ウト/\としてゐる。82熱気を持つた鼻息が眼の下まで被つてゐる夜着の襟に当つて気持悪く顔にかかる。83店の方も静まりかへつてゐる。84彼は力のない眼差しであたりを見廻した。85柱には真黒な皮砥が静かに下がつて居る。86薄暗いランプの光はイヤに赤黄色く濁つて、部屋の隅で赤児に添乳をしてゐるお梅の背中を照らして居た。87彼は部屋中が熱で苦しんで居るやうに感じた。

 これは場面Vである。眠っていた「芳三郎」は、十時前に薬のために起こされ、寝床から部屋を眺めるという箇所である。
 「芳三郎」は寝て居る部屋を見渡し、「部屋中が熱で苦しんで居るやうに感じ」る。下線部87文で、「芳三郎」自身だけが熱のために苦しんでいるのではなく、彼が見ているはずの対象である部屋までが「熱で苦しんで居る」ように感じたことが、直喩表現で示される。この87文は、気分の悪さを叙述した「心理描写」であるため、直喩表現の喩詞と被喩詞――喩えるものと喩えられるもの――という関係はない。そのため厳密に言えばいわゆる「直喩表現」ではないが、ここでは直喩表現として扱うことにする。直喩表現を用いることで、「芳三郎」の体調の悪さを描いている。「芳三郎」の体調は、身体感覚を失いつつあるのである。

 115暫く砥石で砥いだ後、今度は皮砥へかけた。116室内のよどんだ空気が其のキュン/\いふ音で幾らか動き出したやうな気がした。117芳三郎は震へる手を堪へ、調子をつけて砥いでゐるが、どうしても気持よく行かぬ。118其内先刻お梅の仮に打つた折釘が不意に抜けた。119皮砥が飛んでクル/\と剃刀に巻きついた。

 場面V。切れないために返ってきた「剃刀」を、「芳三郎」が寝床で砥ぎ始める箇所である。
 「芳三郎」は、仕事をし始めることで、体調が悪くとも、横たわっていた時より身体の感覚が戻りつつある。「芳三郎」は、87文で「部屋中が熱で苦しんで居るやうに感じ」ていたが、砥ぎ始めることで「室内のよどんだ空気が其のキュン/\いふ音で幾らか動き出したやうな気が」する。身体を動かすことで体調の悪さを意識しなくなり、「芳三郎」は滞っていた空気が動き出したように感じるのである。ここでも、「芳三郎」の内面が直喩表現で示される。仕事を出来ずに寝床で苛々するのではなく、普段どおりに仕事をして体を動かすことによって、これまでの身体感覚を取り戻しつつあるのである。

 142お梅は綿入れの半纏を取つて来て、子供でもだますやうに云つて、漸く手を通させ、やつと安心したといふやうに上り框に腰をかけて、一生懸命に砥いでゐる芳三郎の顔を見て居た。143錦公は窓の傍の客の腰掛で腰を抱くやうにして毛もない脛を剃り上げたり剃り下したりして居た。

 場面V。仕事をし続ける「芳三郎」に対して、「お梅」は半纏を着るように促す。
 その口調がまるで「子供でもだますやうに云つて」と直喩表現で示される(142文下線部)。ここでは「芳三郎」の行動、内面ではないが、「お梅」の「芳三郎」への態度が「芳三郎」を逆に照射する。身内である「お梅」に反発したり、鋭く言い放ったりすることで、「芳三郎」は、自身の苛々を解消しようとしていた。その態度が、まるで「子供」のようなのである。「お梅」は、そうした「芳三郎」の理不尽ともいえる苛々をぶつけようとする態度に対して、寛容であり、「芳三郎」の性格をよく理解していると言える。この引用部の前にあたる114文で(b)「何を云つてもどうせ無駄と思つたから」という叙述も、「芳三郎」の性格を理解している「お梅」が示された部分であろう。

 195(a)苛々して怒りたかつた気分は泣きたいやうな気分に変つて(b)今は身も気も全く疲れて来た。196眼の中は熱で溶けさうにうるんでゐる

 場面W。「芳三郎」は「田舎者」である「若者」の髭を剃りながら、疲れ果ててしまう。
 下線196文「眼の中は熱で溶けさうにうるんでゐる」と直喩表現で「芳三郎」の体調を示している。体調が悪いにもかかわらず、神経を遣う客の髭剃りをしているため、「芳三郎」はますます体調を崩していく。「眼の中は熱で溶けさう」とあるのは、髭を剃るだけではなく「見る」こともままならない状況であることであろう。「芳三郎」はもはや通常の仕事をできる状況にはないのである。

 203疲れ切つた芳三郎は居ても起っても居られなかった。204総ての関節に毒でも注されたやうな心持がしてゐる。205何も彼も投げ出して其まま其処へ転げたいやうな気分になつた。206もうよさう! 207かう彼は何遍思つたか知れない。208然し惰性的に依然こだはつて居た。

 場面W。「芳三郎」が「若者」の咽に傷をつける直前の部分である。
 下線204文「総ての関節に毒でも注されたやうな心持」ともはや視覚だけではなく、全身が、体調不良と「若者」への苛立ちとによって、自由を失いつつある様子が直喩表現で示される。「毒」という自分の意思とは無関係にはたらくものが喩詞としてもちいられていることからも、「芳三郎」の心身が極限の状態にあることが示されている。
 場面Uの終わりから場面Vにかけて、薬を飲むという箇所があった(76〜80文)。この髭剃りをする前に、「芳三郎」は薬を飲んでいるにもかかわらず、全身を「毒でも注されたやうな心持」がするのである。「芳三郎」は、すべてのものと「齟齬」を起こし、悪循環の中にいるのである。

 229芳三郎は殆ど失神して倒れるやうに傍の椅子に腰を落した。230総ての緊張は一時に緩み、同時に極度の疲労が還つて来た。231眼をねむつてぐつたりとして居る彼は死人の様に見えた。232夜も死人の様に静まりかへつた。233総ての運動は停止した。234総ての物は深い眠りに陥つた。235只独り鏡だけが三方から冷やかに此光景を眺めて居た。

『剃刀』の最後の部分である。「若者」を殺してしまった「芳三郎」は、229文「殆ど失神して倒れるやうに」椅子に座り込み、そして、その姿は、231文「死人の様」であると直喩表現で叙述される。「死人の様に」なることで、「芳三郎」は「生き物」あるいは「人間」としての人格そのものが失われてしまうのである。232文も「夜も死人の様に静まりかへつた」と立て続けに直喩表現で叙述されている。この場にいる全ての者が、「死人の様に」、「物」と化してしまう。この箇所では、それまで「芳三郎」の内面に置かれていた視点による、人間的な判断や、人格といったもの全てが否定されて叙述されるのである。そして、「鏡」という物体に視点が置かれ叙述される最後の235文につながる。直喩表現が多用されていることからも、この「鏡」という物体に置かれるという視点の変化は、作品の主題や、視点の配賦とかかわる重要なものであろう。その変化の意味については、次の「置かれる視点の特徴」で結論を見出すことにする。
 これらの直喩表現は、そのほとんどが「芳三郎」の内面、あるいは「芳三郎」の内面を反映した内容についてのものである。「芳三郎」が苛々している様子を直接的に表現するとともに、直喩表現を用いてその内面を示している。また、「芳三郎」の苛々した気分のたかぶりにより、頻度が高くなっていることにも注目される。「芳三郎」の内面をとらえるうえで無視できない表現であり、特徴的な表現になっている。これらの直喩表現だけでは、「芳三郎」の内面をとらえきることはできない。しかし、「心理描写」とあわせてとらえることで、殺人へ導かれていく「芳三郎」の内面の過程をより明瞭に追うことができる特徴的な叙述であるといえよう。
 続いて、もう一つの特徴である、置かれる視点の変化について考察する。

置かれる視点の特徴

 第4項の分析・考察によって、『剃刀』において、どこに視点が置かれるか、という置かれる視点が変化することが、特徴的であることが確認された。しかし、作品の結末部で物体である「鏡」に視点が置かれることについては、考察を保留としてきた。そこで、『剃刀』におけるこれらの視点の変化は、主題を考えるうえでどのような視点の配賦であるのか、考察することにする。視点が「鏡」に置かれる箇所だけではなく、作品全体の置かれる視点の変化について、もう一度考えながら、考察していく。
 『剃刀』において、置かれる視点はおおむね「芳三郎」にあると言うことができる。例えば、それは冒頭部の次のような「心理描写」の叙述で確認される。

 1麻布六本木の辰床の芳三郎は風邪のため珍しく床へ就いた。2それが丁度秋季皇霊祭の前にかかつてゐたから兵隊の仕事に忙しい盛りだつた。3彼は寝ながら一 ト月前に追ひ出した源公と治太公が居たらと考へた

この3文「考へた。」という「心理描写」は、単に「芳三郎」の内面を描いたものではなく、「芳三郎」の内面に置かれた視点から叙述されている(下線部)。それは、「考へた」内容として「源公」・「治太公」と、「芳三郎」とのいきさつが次に続くからである。「叙述者表現」の「説明」・「解釈・評価」よって、記述的に叙述されるが、「芳三郎」の思考内容である。場面Uの冒頭でも、

 24昼に近づくにつれ・・て客がたて・・込んで来た。25(a)けたたましい硝子戸の開け閉てや、錦公の引きずる歯のゆるんだ足駄の乾いたやうな響(b)が鋭くなつた神経にはピリ/\触る

と忙しくなりはじめた店の様子が「芳三郎」の「心理描写」「感覚」によってとらえられている。体調の悪さに加え、店が忙しいにもかかわらず、店に立つことができないため「芳三郎」は、店の騒がしい様子が神経に「ピリ/\触る」のである。
 「芳三郎」に置かれた視点が、妻である「お梅」に置かれるのは、次の箇所である(二重下線部が「お梅」)。

 「51(a)はばかり?」(b)と優しく云つて、お梅は濡手をだらりと前へ下げたまま入つて来た。
 52(a)芳三郎は否と云つたつもりだつたが、(b)声がまるで・・・響かなかつた。
 53(a)お梅が夜着をはいだり、枕元の痰吐や薬瓶を片寄せたりするので、(b)芳三郎は又、
 「(c)さうぢやない」(d)と云つた。54が、声がかすれてお梅には聞きとれなかつた。55折角直りかけた気分が又苛々して来た
 「56後から抱いてあげようか」57お梅はいたはるやうにして背後に廻つた。
 「58皮砥と山田さんからの剃刀を持つて来な」59芳三郎はぶつけるやうに云ひ放つた。60(a)お梅は一寸黙つてゐたが、
 「(b)お前さん砥げるの?」
 「61いいから持つて来な」

第4項での考察でも指摘したように、54文「お梅には聞きとれなかつた」という「お梅」の「心理描写」によって、「芳三郎」の内面に置かれていた視点が、「お梅」の内面へと変化する。ここは、「お梅」と「芳三郎」との意思疎通がうまくいかずに、「芳三郎」が苛々を募らせる箇所である(場面U)。「お梅」と「芳三郎」の意思がかみ合っていない様子が、視点が置かれる作中人物を変えることによって、より明瞭に示される。内面に視点が置かれる人物が変わるのは、その「齟齬」をより明瞭に示すためであると言えよう。

 112砥石の支度が出来た所で、芳三郎は起き上つて、片膝を立てて砥ぎ始めた。113十時がゆるく鳴る。
 114(a)お梅は(b)何を云つてもどうせ無駄と思つたから(c)静かに坐つて見てゐた。
 115暫く砥石で砥いだ後、今度は皮砥へかけた。116室内のよどんだ空気が其のキュン/\いふ音で幾らか動き出したやうな気がした。117芳三郎は震へる手を堪へ、調子をつけて砥いでゐるが、どうしても気持よく行かぬ。118其内先刻お梅の仮に打つた折釘が不意に抜けた。119皮砥が飛んでクル/\と剃刀に巻きついた。
 「120(a)あぶない!」(b)と叫んでお梅は(c)恐る/\(d)芳三郎の顔を見た。121芳三郎の眉がぴりりと震へた。

 場面V。切れないからと戻ってきた「剃刀」を、「芳三郎」が寝床で砥ぎはじめる箇所である。ここも、仕事などせずに休んでいてほしいと思う「お梅」と、任された仕事をなんとかこなそうという「芳三郎」の意思がかみ合わず「齟齬」を起こす箇所である。114文(b)「何を云つてもどうせ無駄と思つた」とあり、「お梅」の内面に視点が置かれている。116文の「室内のよどんだ空気が其のキュン/\いふ音で幾らか動き出したやうな気がした。」という叙述は「芳三郎」の「心理描写」であり、再び「芳三郎」の内面に視点が置かれる。さらに120文(c)「恐る/\」とあり、次の121文が「お梅」が見たであろう「芳三郎の眉がぴりりと震へた」という描写であることから、「お梅」の内面に視点が置かれて叙述されている。
 この両者の対比も、「芳三郎」の意思と、「お梅」の気遣う気持ちとが「齟齬」を起こしていることを、より明瞭にするために置かれる視点が変化するのである。

 「150(a)兼さんに早く」(b)とお梅は眼も一緒に働かして命じた
 「151おいら・・・がやるよ」
 「152お前さんは今日は手が震えるから……」
 「153(a)やるよ」(b)と芳三郎は鋭くさへぎつた。
 「154(a)どうかしてるよ」(b)とお梅は小声で云つた。
 「155仕事着だ」
 「156どうせ、あたる・・・だけなら毛にもならないから其儘でおしなさい」157お梅は半纏を脱がしたくなかつた

 場面Wの、「若者」が店に髭を剃ってほしいと訪れる箇所である。
この引用部も、「お梅」の内面に視点が置かれて叙述されている。150文(b)「眼も一緒に動かして」とあり、「お梅」の内面に視点が置かれて「行動描写」されている。これは「行動描写」として分類されるが、どこに視点が置かれているか、という問題を含んだ叙述である。そして、157文「お梅は半纏を脱がしたくなかつた」という「心理描写」も、「お梅」に視点が置かれて叙述されている。この箇所について言えば、「芳三郎」の「心理描写」はなく、「お梅」の夫を心配する内面だけが描写されている。だが、ここでも「お梅」の意に反する行動をとろうとする(体調の悪さにかまわず仕事を請けようとする)「芳三郎」との意思の対比、すなわち「齟齬」が示されるための視点の変化であるといえよう。
 このように視点の変化は、「お梅」と「芳三郎」との意思の「齟齬」を浮き彫りにする、より明瞭にするためのものであるといえよう。
 だが、このような視点の変化による両者の「齟齬」を浮き彫りにする以外にも、両者の「齟齬」をより明瞭にする叙述もある。それは、主観的な評価性をもった単語によるものである。視点の変化ではないが、「芳三郎」、「お梅」両者の考えの「齟齬」を浮き彫りにする叙述として、ここで確認しておく。
 主観的な評価性をもった単語によって、「芳三郎」と「お梅」との「齟齬」を明瞭にされるのは、主に両者の口調の対比である。以下に挙げるのがその箇所である。

表: 『剃刀』における主観的な評価性をもった単語を含む叙述
文番号 評価される対象 評価性をもった単語 叙述
36 「芳三郎」 「鋭かつた」 それを遮つて、
「兼、やるぜ!」と芳三郎は寝床から怒鳴つた。鋭かつたが嗄れて居た。
51 「お梅」 「優しく」  「はばかり?」と優しく云つて、お梅は濡手をだらりと前へ下げたまま入つて来た。
57 「お梅」 「いたはるやうにして」  「後から抱いてあげようか」お梅はいたはるやうにして背後に廻つた。
64 「芳三郎」 「割に低い声」
「ピリ/\して居る」
 「いいから持つて来いと云ふものを早く持つて来ねえか」割に低い声では云つてゐるが、癇でピリ/\して居る。
92 「芳三郎」 「其籠つたやうな嗄声」 「ええ」芳三郎は夜着の襟に口を埋めたまま答へた。其籠つたやうな嗄声が聞えぬかして、
 「親方――」と又云つた。
94 「芳三郎」 「今度ははつきりと鋭かつた」  「何だよ」今度ははつきりと鋭かつた
105 「お梅」 「そつと」  お梅は枕元に坐つて、そつと芳三郎の頬に手を当てて見た。
106 「芳三郎」 「五月蠅さうに」  芳三郎は五月蠅さうに空いた手でそれを払ひ退けた。
138 「芳三郎」 「無意味に」  「まだ早いよ」芳三郎は無意味に反対した。
153 「芳三郎」 「鋭く」 「やるよ」と芳三郎は鋭くさへぎつた。

上の表は、第2節『網走まで』で考察した表と同様に、主観的な評価性のある単語と、それを含んだ叙述を抜き出したものである。『網走まで』のものと同様に、表の左端から、「文番号」、「評価される対象」、「評価性をもった単語」、「叙述」としている。「叙述」には、その主観的な評価性をもった単語がみられる叙述の一文を抜き出した。評価性をもった語が、「談話描写」の口調にかかわるものである場合は、その「談話描写」の叙述も抜き出している。対比しやすいように「お梅」に対するもののみ網掛けをした。
 これらの全てが「お梅」と「芳三郎」の対比が描き出されるものではない。『網走まで』のような「男の子」と「女の人」との関係と、「芳三郎」と「お梅」との関係とは違うからである。『剃刀』では、「芳三郎」が「お梅」の考えや態度とどのように「齟齬」を起こし、殺人へ導かれていくか、という過程をより明瞭にするために、上のような主観的な評価性をもった単語を含んだ叙述によって示されるのである。
 このように、「芳三郎」と「お梅」との意志の「齟齬」をより明瞭に浮き彫りにするため、視点の変化とともに、主観的な評価性をもった単語を含んだ叙述も、注目されるのである。
 では、論を置かれる視点の変化に戻すことにする。次の引用は、作品最後の「鏡」に置かれる視点が変わる箇所である。

 229芳三郎は殆ど失神して倒れるやうに傍の椅子に腰を落した。230総ての緊張は一時に緩み、同時に極度の疲労が還つて来た。231眼をねむつてぐつたりとして居る彼は死人の様に見えた。232夜も死人の様に静まりかへつた。233総ての運動は停止した。234総ての物は深い眠りに陥つた。235只独り鏡だけが三方から冷やかに此光景を眺めて居た。

 ここで、それまで「芳三郎」か「お梅」かの作中人物の内面に置かれていた視点が、「鏡」という物体へと変化する。「鏡」に視点が置かれることによって、「芳三郎」の姿が、「芳三郎」の内面とは無関係に描かれることになる。231文「死人の様に見えた」とあるのは、「芳三郎」の外面が、「鏡」に置かれた視点によって描かれている叙述にほかならない。235文は、単に物体である「鏡」に視点が置かれたことが示されている叙述ではない。「只独り鏡だけが」という叙述に着目される。「只」「独り」「だけが」と三重に「鏡」のみがこの光景を映し出していることが強調されているのである。よって、235文は、単なる視点の変化ではなく、『剃刀』の主題にもかかわる問題である。
 この視点の変化による一連の描写は、物体として、ただ事実を事実として映し出す「鏡」として、描写することが示された「叙述者」の視点を反映させた叙述ではないだろうか。物体である「鏡」は、目の前にある光景を、そのままを映し出すものである。そこには、法的な基準もなければ、社会的な規則もなければ、倫理的な判断もない。ただ目の前の光景を、光景として映し出す。作品の最後で三重に強調された「鏡」への視点の変化は、「鏡」としての「叙述者」が描き出されることになる。
 「芳三郎」が「若者」を殺す過程を、さまざまな「齟齬」とその悪循環によって、描かれていた。だが、最後で「鏡」に視点が置かれることで、それまで「芳三郎」の物語であった『剃刀』という作品が、「芳三郎」の判断や、「芳三郎」の心理でもない普遍性のある物語へと変化するのである。「芳三郎」の「個」の物語としての『剃刀』が、「鏡」としての「叙述者」が描き出されることで、誰にでも起こりうる物語として描かれることになる。その変化は、「芳三郎」の「主観」か「客観」か、という二項対立ではない。表現そのものが「主観」である限り、「客観」はあり得ない。人から物体へという置かれる視点の変化は、「個」から「普遍性」へという変化なのである。
 癇の強い性格である「芳三郎」だから起こった出来事でありながら、「芳三郎」の内面に視点が置かれないことが最後に明かされることで、誰にでも起こりうる出来事となる。個人の判断によって殺人へ向かっていったのではなく、不可避的に殺人へ導かれていく過程として描かれるのである。
 よって、『剃刀』の主題は、「芳三郎」が「若者」を殺すという内面の過程を描くとともに、一方ではそれが誰にでも起こりうる不可避的で普遍的な過程としての内面の変化である。
 次項第6項では、これらの考察によって明らかとなった『剃刀』における視点の配賦と叙述法をまとめることにする。

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第6項 『剃刀』における視点の配賦と叙述法

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 本節第2章第3節では、『剃刀』における視点の配賦と叙述法をてがかりとして、『剃刀』について分析・考察をすすめてきた。本項では、その分析・考察結果をまとめることにする。再び『剃刀』をまとめるとすれば以下のようになろう。
 剃刀を扱うことに誇りと自信をもっていた癇の強い性格の「芳三郎」は、風邪で寝込んでしまう。店は忙しい時期であり、主人である「芳三郎」が店を休んでも任せられる職人はいない。店が忙しくなり始めると、一人の客が「剃刀」を砥いでほしいとやってくる。特に主人に砥いでもらいたいと聞いた「芳三郎」は、妻「お梅」が止めるのも聞かずに、重い身体で起き上がり砥ごうとするが、納得するようには砥げない。やがて疲れ果てて眠ってしまう。薬で起こされた「芳三郎」は、砥いだ「剃刀」が切れないと店に戻ってきたことを告げられる。体調は依然として優れないにもかかわらず、「芳三郎」は砥ぎ始める。店には客が誰もおらず店じまいしようという「お梅」に対して、「芳三郎」は反対する。そこへ、田舎者風の「若者」が髭を剃ってくれと訪れる。他の職人に任せようと言う「お梅」を遮り自分が剃ると「芳三郎」が仕事を請ける。軽い調子の「若者」の態度に、「芳三郎」は苛々しながらも、髭をそり始める。しかし、「剃刀」をうまく扱うことができず、体調もますます悪化する。やがて、「剃刀」の刃が「若者」の咽に引っかかり、血が流れる。はじめて客を傷つけた「芳三郎」は、何かに強いられるように「剃刀」で「若者」を殺してしまう。死人のようになった「芳三郎」を映し出すのは、鏡だけであった。
 『剃刀』の主題は、こうした「芳三郎」の内面の過程そのものである。身体感覚を失い、満足に剃刀を握れなくなり、それでも納得するように仕事を完遂しなければならないという「芳三郎」が、いかにして「若者」を殺してしまうか、という過程そのものである。その一方で、「鏡」としての「叙述者」が示されることで、その過程が「芳三郎」個人に起こった出来事ではなく、人間一般にも通ずる不可避的で普遍的な過程として描かれるのである。不可避的で普遍的な殺人への過程、これが『剃刀』の主題であった。

 視点の配賦

 『剃刀』は、「芳三郎」を中心とする三人称小説である。その内面が、「芳三郎」の内面に置かれた視点によって描かれている。また、「芳三郎」一人だけではなく、他者との対比によって、その食い違いが浮き彫りにされる。「芳三郎」の微妙で複雑な内面の殺人への過程が、「芳三郎」の「心理描写」と、その妻「お梅」の「心理描写」とともに示されるのである。
 作品は、「芳三郎」が、いかに自身の体調、店の状況、周りの人々の意思などと「齟齬」を起こしていくかが描かれることによって、「若者」の殺人へと導かれていく。場面Tでは、「芳三郎」の職人としての腕の良さ、癇の強い性格、店に任せられる者がいなくなってしまったという状況が設定される。
 その「芳三郎」の元に客から「剃刀を砥いでほしい」と注文が入ることによって、「芳三郎」は仕事をすることになる。体調が悪いのにもかかわらず、仕事をするはずがないと思っている妻の「お梅」は、当然夫の行動の意図を理解できない。その食い違いが新たな「齟齬」として、「お梅」の内面に置かれた視点により「心理描写」される。仕事をしなければならないのに、体調が悪く満足に仕事ができない、それに加えて周りと意思疎通がうまくいかないことによる「齟齬」で、ますます苛々した気分を募らせていく。
 場面Wで、「若者」の髭を剃ることで、その苛々が最高潮に達する。それまで身内に苛々した気分をぶつけることである程度解消させていた「芳三郎」には、客である「若者」に対してはそれができない。ますます悪くなる体調、軽い調子の「若者」への怒り、仕事がこなせないことへの苛々によって、「芳三郎」は「剃刀」で「若者」の咽を傷つけてしまう。それを見た「芳三郎」は、意思とは無関係に「若者」を「剃刀」で殺してしまう。殺してしまった「芳三郎」と、彼を取り囲む全てのものが停止し、物体である「鏡」に置かれた視点によって、その光景が叙述される。
 『剃刀』全体を通して視点が置かれるのは、「芳三郎」の内面である。その内面は、どのように感じるか、どのように思うか、どのように考えるかといった質の異なる「心理描写」に加え、対象を「どのようにとらえるか」といった「人物描写」「事物描写」にも反映されて叙述される。しかし『剃刀』において、もう一つの視点の配賦の特徴は、「芳三郎」の内面に置かれた視点とともに、その視点が変化することである。「芳三郎」と「お梅」との考えが食い違っていることが、置かれる視点が変わることによって示される。そして作品の最後に物体である「鏡」に視点が置かれることによって、「鏡」としての「叙述者」が示される。これによって、癇の強い性格の「芳三郎」の個人としての殺人が、誰にでも起こりうる可能性があり、誰であってもそれを避けることは難しいという、普遍性と不可避性とをもった内面の過程として示される。置かれる視点の変化が、作品の主題とかかわる重要な視点の配賦の特徴となっているのである。

 叙述法

 『剃刀』における叙述法の特徴の一つは、「芳三郎」の内面を描き出す「心理描写」にある。「芳三郎」の体調の悪さと、それによって身体感覚を失い、名人であったはずの剃刀が扱えなくなり、苛々を募らせていく。癇の強い性格である「芳三郎」は、仕事ができなければできないほど、かえって無理にでも仕事をしようとする。そして出来ない自分にさらに腹を立て苛々するという悪循環を生み出す。その心理の過程を、「感覚」「心情」「思考」といった質の異なる「心理描写」によって、描き出す。「お梅」との「心理描写」の対比によって、「芳三郎」の考えとの「齟齬」がより明瞭となり、さらに苛々を募らせていくことになる。
 そして、もう一つの特徴は、比喩表現と主観的な評価性をもった単語である。比喩表現によって、「芳三郎」の苛々しい内面が強調される。また、「芳三郎」が見る対象、感じた身体感覚が直喩表現されることで示される。質の異なる多様な「心理描写」とともに、直喩表現で内面が間接的に、直接的に示されることで、より立体的で微妙な体調と気分の起伏が示されるのである。 また、「芳三郎」と「お梅」との「心理描写」の対比のほかに、「芳三郎」と「お梅」との態度が主観的な評価性をもった単語によっても、より明瞭に対比されることになる。
 「芳三郎」の口調に対して、「鋭かつた」、「鋭く」といった主観的な評価が下される。これに加えて、「ぶつけるやうに」、「毒でも注されたやうな」といった直喩表現を含んだ叙述によって、殺人へというイメージが増幅されていくことになる。表題が『剃刀』であり、既に凶器としての隠喩が含まれている。「鋭く」なっていく「芳三郎」の口調と、苛々しい気分が主観的な評価性をもった単語を含んだ叙述と、さらに殺人をイメージさせる「ぶつけるやうに」「毒」といった直喩表現の叙述は、「芳三郎」の殺人へという内面だけではなく、叙述の中にあることばそのものがもつイメージによっても、人を殺すという狂気に導かれていくことになる。その意味でも、直喩表現や主観的な評価性をもった叙述は、作品の主題を考えるうえで重要な叙述法の一つであるといえよう。
 以上のように、第2章では、初期作品の分析・考察をおこなってきた。第3章では、第2章でおこなった分析・考察をもとに、志賀直哉の初期作品における視点の配賦と叙述法の共通点と差異点を考えることにする。

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第3章 三つの初期作品の比較考察

第1節 三つの初期作品における視点の配賦の比較

第1項 三つの初期作品における視点の配賦の差異点

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 第3章では、第2章で分析・考察した『或る朝』、『網走まで』、『剃刀』の視点の配賦と叙述法の特徴について、比較考察をおこなう。第1節では、第1項で視点の配賦の特徴の差異点を考えたのち、第2項で三つの初期作品における共通点について考えることにする。
 まず『或る朝』における、ほかの二作品にはみられなかった視点の配賦の特徴について、みていくことにする。

 『或る朝』における視点の配賦の特徴

 『或る朝』は、「信太郎」が、「祖父」の法事の朝に起こった、「祖母」との反発と和解を経験することにより、他者に向かう自分という意識を獲得する作品であった。『或る朝』は三人称小説であり、視点は作品の中心人物である「信太郎」に終始置かれていた。『或る朝』において、他の作品に見られないもっとも特徴的な視点の配賦は、複合性のある叙述にみられる「叙述者」と「信太郎」との重なりである。

 20又、祖母の声で眼が覚めた。
 「21直ぐ起きます」22(a)彼は(b)気安めに、(c)唸りながら夜着から二の腕まで出して、(d)のびをして見せた
 「23此お写真にもお供へするのだから直ぐ起きてお呉れ」
 24お写真と云ふのは其部屋の床の間に掛けてある擦筆画の肖像で、信太郎が中学の頃習った画学の教師に祖父の亡くなつた時、描いて貰つたものである。
 25(a)黙つている彼を(b)「さあ、直ぐ」(c)と祖母は促した。
 「26大丈夫、直ぐ起きます。27――彼方へ行つててください。28直ぐ起きるから」29(a)さう云つて彼は(b)今にも起きさうな様子をして見せた
 30祖母は再び出て行つた。31彼は又眠りに沈んで行つた。

(下線引用者。以下同じ)

この引用は、『或る朝』の場面Uで、「祖母」が二度目に「信太郎」を起こしに部屋に入ってくるという箇所である。一度起こしに来た「祖母」が、なかなか起きようとしない「信太郎」を見かねて起こしに来る。しかし、「信太郎」は、前日深夜まで小説を読んでいたため眠りたいという欲求に勝てない。二度目に起こしにくることで、「信太郎」は、「祖母」を納得させるために、すぐにでも起きそうな素振りをする。
 「信太郎」は、まだ完全に覚醒してはいない。よって、具体的な戦略として、「祖母」を追い返すための「心理描写」はされない。しかし、22文(d)「のびをして見せた」、29文(b)「今にも起きさうな様子をして見せた」という「行動描写」によって、その内面が描かれる。これは、「信太郎」の外面の動態的な動作を描写した「行動描写」でありながら、「信太郎」の「祖母をなんとか追い返そう」という「心理描写」をも含んだ複合性のある叙述となっている。こうした複合性のある叙述がされるとき、「叙述者」は、「信太郎」の外面か内面かという二項対立的な位置には視点を置いていない。「信太郎」の内面を見通すかたちで、「行動描写」という「信太郎」の外面を描写しているのである。こうした複合性のある叙述を可能にする視点の配賦は、他の二作品にはみられない『或る朝』の特徴である。次の引用部では、その視点の配賦が、『或る朝』の主題を浮かび上がらせるものとなっている。

 123彼は部屋を出た。124上の妹と二番目の妹の芳子とが隣の部屋の炬燵にあたつて居た。125信三だけ炬燵櫓の上に突つ立つて居た。126(a)信三は彼を見ると急に首根を堅くして天井の一方を見上げて、
 「(b)銅像だ」(c)と力んで見せた。127(a)上の妹が、
 「(b)さう云へば信三は頭が大きいから本当に西郷さんのやうだわ」(c)と云つた。128(a)信三は得意になつて、
 「(b)偉いな」(c)と声を張つて髭をひねる真似をした。129(a)和いだ、然し少し淋しい笑顔をして立つて居た信太郎が、
 「(b)西郷隆盛に髭はないよ」(c)と云つた。130(a)妹二人が、(b)「わーい」(c)とはやした。131(a)信三は、
 「(b)しまつた!」と(b)いやにませた・・・(c)をきいて、櫓を飛び下りると、いきなり一つでんぐり返しをして、(d)おどけた顔を(e)故意と(f)皆の方へ向けて見せた。

 「祖母」との和解を果たした「信太郎」は、ようやく自分の寝床がある部屋を出る。そこで「信太郎」は、弟妹たちと会話を交わすことで、『或る朝』が終わる。
 下線部131文(b)の「いやにませた口」という叙述が、複合性のある叙述になっている。131文(b)は、「信太郎」の弟である「信三」の口調を叙述した「行動描写」の一部である。この叙述も、「信三」の「行動描写」に、それをみる「信太郎」の「心理描写」が含まれている。それまで部屋に閉じこもっていた「信太郎」にとって、早くから起きていた「信三」の姿は、「いやにませ」ているように、大人びて感じられるのである。この「信三」の口調は、単なる「行動描写」ではなく、「信太郎」の内面を反映させた、複合性のある叙述なのである。131文の複合性のある叙述をとらえることで、「祖母」とのやりとりによる129文の「信太郎」の意識の変化を浮かび上がらせることになる。
 場面Vでは、自分の部屋から外を眺める(耳を傾ける)だけであった「信太郎」が、「祖母」とのやりとりによって、自分が「信三」たちにどのような表情をしているのか、という他者に向かう「和いだ、然し少し淋しい笑顔をして」いるという自分の表情をとらえることができるようになったのである。『或る朝』における、複合性のある叙述は、どこに視点が置かれるのか、といった問題とともに、作品の主題をとらえるための重要な視点の配賦の特徴である。

 『網走まで』における視点の配賦の特徴

 『網走まで』は、日常から汽車に乗ることに慣れた「自分」が、北海道の「網走」まで行くという、二人の子どもを連れた「女の人」に対して、関心・同情を抱くという作品であった。『網走まで』は、本研究で分析対象とした作品で唯一の一人称小説である。視点も、終始一人称の「自分」の内面に置かれて叙述される。『網走まで』において、特徴的な視点の配賦は、「自分」の内面の描かれ方が変化することによって、対象(「女の人」)に対する「自分」の関心・同情が大きく深くなることが描かれるということである。その特徴とは、どこから(誰から)描くのか、という問題ではなく、どのように描くのかという問題にかかわる視点の配賦である。

 156(a)女の人が二枚端書を書き終つた時、(b)男の子が、
 「(c)母ァさん、しつこ・・・」(d)と云ひ出した。157此客車には便所が附いてゐない。
 「158もう少し我慢出来ませんか?」159(a)母は(b)当惑して(c)訊いた。160男の子は眉根を寄せてうなづく。
 161(a)女の人は、男の子を抱くやうにして、あたりを見廻したが(b)別に考もない。
 「162(a)もう少し、待つてネ?」(b)と切りになだめるが、(c)男の子は身体をゆすつて、もらしさうだといふ。

引用は場面W、「自分」が二人の子どもの父親を想像していると、「女の人」に「男の子」が小便をしたいと言い出す箇所である。
 「男の子」・「赤児」の二人の子どもと「女の人」とのやりとりを観察していた場面Uは、「女の人」についての「心理描写」がないだけではなく、視点が置かれているはずの「自分」についての「心理描写」も、三文しかなかった。しかし、場面Vで父親を想像し、「女の人」の境遇を想像すると、「女の人」について「心理描写」されるようになる。
 159文(b)「当惑して」、161文(b)「別に考もない」は、「女の人」についての「心理描写」である。しかし、この内面は「女の人」の内面に置かれた視点から描かれた叙述ではない。視点は依然として「自分」に置かれている。この「女の人」の「心理描写」によって、「自分」が「女の人」に対する同情・関心が大きくなったことが示されているのである。「自分」にとっての「女の人」との心的な距離が近づいたため、相手の内面まで読み取ることが可能になっているのである。
 この「女の人」についての「心理描写」は、便所のついていない車両で子どもに小便をしたいといわれれば、当然「当惑」することになり、そしてたとえその車両を見回したとしても、特に「考え」もあるはずはない・・・・・・・、と「女の人」をとらえる「自分」の内面なのである。そして、次のように、場面Uでは三文しかなかった「自分」の「心理描写」もされるようになる。

 170(a)未だ停らぬ内から、
 「(b)早くさ/\」(c)と男の子は前こごみに下腹をおさへるやうにしていふ。
 「171さあ、行きませう」172(a)母は膝の赤児を腰掛けに下し、顔を寄せて、「(b)柔順しく待つてて頂戴よ」(c)といひ、更に自分に、「(d)恐れ入ります、一寸見てて頂きます」
 「173(a)よう御座います」(b)と自分は(c)快く(d)云つた。

 場面W「宇都宮」駅に汽車が着くと、「女の人」は「自分」に赤ん坊の様子を見ておいてほしいと頼まれる。引用は、下車するはずの「自分」が、その頼みを快諾するという箇所である。
 場面Uでは「男の子」の印象についての「心理描写」が二文と、「女の人」と「男の子」の目元が似ていることに気づいたという「心理描写」のみが「自分」の「心理描写」であった。しかし、二人の子どもの父親についての想像を終え、それが「自分」にとっての母子の事実となった場面Wでは、「女の人」への協力が「快」いと「心理描写」されるようになる。この「心理描写」も、「自分」の、「女の人」への心的な距離の縮まりが示されている。これまでは、母子のやりとりを観察する者であった「自分」が、自ら積極的に母子に関わろうとする者に、その態度を変化させたあらわれなのである。この変化は、場面Vの父親(夫)の想像が作品中重要な意味をもつとともに、それを境にした「自分」の「女の人」への関心・同情の大きさ・深さの変化でもあるのである。
 以上のように『網走まで』における視点の配賦の特徴は、一人称であることだけではない。「自分」の内面が直接「心理描写」されるか否か、という変化が、作品の主題やそれにつながる内面の過程を考えるうえで、『網走まで』における固有の視点の配賦のありかたなのである。

 『剃刀』における視点の配賦の特徴

 『剃刀』は、優れた職人であった「芳三郎」が「若者」を殺してしまうという内面の過程が、普遍性と不可避性をもって描かれた作品であった。『剃刀』は、『或る朝』と同様に、癇の強い性格の「芳三郎」を中心とした三人称小説である。しかし、『剃刀』における、他の二作品にみられない視点の配賦の特徴は、置かれる視点が変化するということである。置かれる視点が変化することによって、「芳三郎」と「お梅」の考えの食い違いが示されることになる。そして、それは殺人へと導かれていく原因である、「芳三郎」との「齟齬」の要因の一つとなっている。

 「49今の内にやつて置かう」50(a)彼はかう思つて(b)重いからだ・・・で蒲団の上へ起き直つたが、眩暈がして暫くは枕の上へ突伏して居た。
 「51(a)はばかり?」(b)と優しく云つて、お梅は濡手をだらりと前へ下げたまま入つて来た。
 52(a)芳三郎は否と云つたつもりだつたが、(b)声がまるで・・・響かなかつた。
 53(a)お梅が夜着をはいだり、枕元の痰吐や薬瓶を片寄せたりするので、(b)芳三郎は又、
 「(c)さうぢやない」(d)と云つた。54が、声がかすれて・・・・お梅には聞きとれなかつた。55折角直りかけた気分が又苛々して来た
 「56後から抱いてあげようか」57お梅はいたはるやうにして背後に廻つた。
「58皮砥と山田さんからの剃刀を持つて来な」59芳三郎はぶつけるやうに云ひ放つた。

(下線はすべて引用者。以下同じ。)

上の引用は、『剃刀』の場面U、気分が戻り始めた「芳三郎」が「剃刀」を砥ごうとしようすることと、それを見ていた妻の「お梅」が夫の意図が理解できなかった様子が、置かれる視点を変えながら、叙述される箇所である。下線部が「芳三郎」の内面に置かれた視点からの叙述、二重下線部が「お梅」の内面に置かれた視点からの叙述である。
 体調が悪くとも、店に任せられる職人がいない以上、自分でやるしかないと「芳三郎」は考えている。しかし、普段でさえ気分が悪ければ仕事をしないという「芳三郎」が体調が悪く寝込んでいる日に剃刀を砥ごうとするとは思っていない「お梅」は、「芳三郎」の意図をすぐに理解できないのである。それに加え、風邪で声が出ない「芳三郎」のことばは、「お梅」に聞えない。そのため両者の考えは食い違い「齟齬」をうみだすことになる。
 その「芳三郎」、「お梅」両者の食い違いをより明瞭にするために、置かれる視点が「芳三郎」(50文、52文)、「お梅」(54文)、「芳三郎」(55文)の内面と変化して叙述されることで示される。

 220嘗て客の顔を傷つけた事のなかつた芳三郎には、此感情が非常な強さで迫つて来た。222呼吸は段々忙しなくなる。221彼の全身全心は全く傷に吸ひ込まれたやうに見えた。223今はどうにもそれに打ち克つ事が出来なくなつた。224……彼は剃刀を逆手に持ちかへるといきなりぐいと咽をやつた。225刃がすつかり隠れる程に。226若者は身悶えも仕なかつた。
 227一寸間を置いて血が迸しる。228若者の顔は見る/\土色に変つた。
 229芳三郎は殆ど失神して倒れるやうに傍の椅子に腰を落した。230総ての緊張は一時に緩み、同時に極度の疲労が還つて来た。231眼をねむつてぐつたりとして居る彼は死人の様に見えた。232夜も死人の様に静まりかへつた。233総ての運動は停止した。234総ての物は深い眠りに陥つた。235只独り鏡だけが三方から冷やかに此光景を眺めて居た

この引用は、「若者」を殺してしまったあとの「芳三郎」の様子が示される箇所である。何かに導かれるように客を殺してしまった「芳三郎」は、死人のように倒れるように、椅子に座り込んでしまう。
 ここも、視点の変化がみられる箇所である。「芳三郎」が「若者」を殺す様子が叙述された部分(220文〜228文)と、その様子を「鏡」が見ていたと描写される部分(229文〜235文)とは、置かれる視点が人間である「芳三郎」から、物体である「鏡」へと視点が変化する。下線部が「芳三郎」の内面に置かれた視点からの叙述、太線の下線部が「鏡」に置かれた視点からの叙述である。
 それまでおおむね「芳三郎」の内面に置かれた視点によって叙述されていたにもかかわらず、作品の最後で物体である「鏡」に視点が置かれることによって、「芳三郎」としての
「叙述者」ではなく、「鏡」としての「叙述者」が示されることになる。この変化によって、「芳三郎」の個の殺人への過程が描かれた作品ではなく、誰もが陥る可能性のある普遍的で、「芳三郎」ではなくとも誰もが逃れることができない不可避の過程となるのである。
 以上のように『剃刀』においては、叙述される際どこに視点が置かれるのか、という視点が置かれる位置の変化が、作品の主題にかかわる特徴的な視点の配賦のありかたであるといえる。それは、三人称小説『或る朝』にも、一人称小説『網走まで』にもない『剃刀』固有の特徴である。
 以上のように、それぞれの作品における視点の配賦の差異点を比較してきた。続く第2項では、『或る朝』『網走まで』『剃刀』における共通点について考察する。

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第2項 三つの初期作品における視点の配賦の共通点

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 『或る朝』、『網走まで』、『剃刀』という志賀直哉の三つの初期作品に共通する視点の配賦の特徴とはなんであろうか。
 三つの作品の主題を比較すれば、いずれも一人の作中人物の心理の過程をたどったものという共通点を見出すことができよう。『或る朝』は、「祖母」と反発し和解するという心理の過程であり、『網走まで』は「自分」が「女の人」へ心的な距離を縮めていくという心理の過程が描かれる。『剃刀』は、「若者」を殺してしまうという「芳三郎」の心理の過程が作品の主題そのものであった。作品の結末、収束点は、和解、同情、殺人という質の異なるものであっても、その心理の過程が重要であることは共通しているのである。視点の配賦の共通点も、この主題とのかかわりに見出せるといえよう。
 すなわち、三つの作品とも、一人称、三人称という人称の違いはあるとはいえ、おおむね一人の作中人物の内面に視点が置かれるのである。『剃刀』では、「お梅」にも視点が置かれることがわかった。しかし、これはすべて「芳三郎」との考えの食い違いをより明瞭とするものであり、中心は、『或る朝』の「信太郎」や、『網走まで』の「自分」と同じように、「芳三郎」一人の内面に視点が置かれて叙述される。一人の心理の過程を描く場合、二人以上の人物の心理の重なりや、複数の人物の主体性の関わりといった視点の配賦ではなく、その中心となる人物一人に置かれた視点によって、叙述されていく。
 また、重要なことは、視点が置かれる一人を中心とする視点の配賦は、作品を構成する全ての叙述に影響している点である。この点については、具体的に作品ごとに例を挙げてみていくことにする。

 1(a)祖父の三回忌の法事のある前の晩、(b)信太郎は寝床で小説を読んで居ると、(c)並んで寝て居る祖母が、
 「(d)明日坊さんのおいでなさるのは八時半ですぞ」(e)と云つた。
 2暫くした。3(a)すると(b)眠つてゐると思つた(c)祖母が又同じ事を云つた。4彼は今度は返事をしなかつた。
 「5それ迄にすつかり支度をして置くのだから、今晩はもうねたらいいでせう」
 「6わかつてます」
 7(a)間もなく(b)祖母は眠つて了つた。
 8(a)どれだけか(b)経つた。9信太郎も眠くなつた。10時計を見た。11一時が過ぎて居た。12彼はランプを消して、寝返りをして、そして夜着の襟に顔を埋めた。

以上の引用は『或る朝』の冒頭部である。翌日の「祖父」の法事に備えて早く寝るようにうながす「祖母」に対して、「信太郎」は構わず小説を読み続ける。やがて眠くなった「信太郎」も、一時過ぎに眠りに着く。
 冒頭から「信太郎」に視点が置かれていることは、既に第2章の考察でみた。具体的には3文(b)の「眠つてゐると思つた」という「心理描写」や、7文(a)「間もなく」、8文(a)「どれだけか」という「心理描写」を含んだ複合性のある叙述によって、「信太郎」に視点が置かれていると考えることができよう。
 だが、ここで指摘したいのは、この一連の叙述は、すべて「信太郎」の内面に即して叙述されているということである。単に視点が「信太郎」に置かれているということだけではなく、「信太郎」の認知や感覚に即した叙述である。10文「時計を見た。」と叙述され、11文「一時が過ぎて居た。」とその見た内容(時計の針が指す時刻)が叙述される。これは、「心理描写」の有無といった置かれる視点の問題だけではなく、「信太郎」のその時の認知や感覚に即して叙述されるということである。場面Vではさらにそれが顕著である。

 50いつも彼に負けない寝坊の信三が、今日は早起きをして、隣の部屋で妹の芳子と騒いで居る。
 「51(a)お手玉。南京玉、大玉、小玉」(b)とそんな事を一緒に叫んで居る。52(a)そして一段声を張り上げて、
 「(b)其内大きいのは芳子ちやんの眼玉」(c)と一人が云ふと、一人が(d)「信三さんのあたま」(e)と怒鳴つた。53二人は何遍も同じ事を繰り返して居た。

これは、『或る朝』の場面Vで、寝床がある部屋にいる「信太郎」が、隣の部屋の様子を聴覚によって描写される箇所である。
 「祖母」が起こしに来ることで起き上がることができなくなった「信太郎」は、蒲団に包まりながら、隣の様子を伺う。目は覚めているが、部屋に閉じこもったままであるため、隣の様子は、聞えてくる話し声でしか伺い知ることができない。
 この一連の描写も、「信太郎」に置かれた視点によって叙述される。「信太郎」の内面そのものを「心理描写」のかたちで直接叙述されることはなく、「信太郎」の聴覚をもとにした認知による情報のみが叙述される。やはり、「信太郎」のその時の認知や感覚に即して叙述されているのである。中心とする一人の人物の内面に視点が置かれるという視点の配賦の特徴とともに、その人物の認知や感覚にまで即して叙述されるのである。
 『網走まで』も同様に、「自分」の認知や感覚に即して叙述される。

 125男の子は黙つて首肯いた。126母は包の中から四五冊の絵本を出してやつた。127中に古いバックなどが有つた。128男の子は柔順しく、それらの絵本を一つ/\見始めた。129其時自分は、後へ倚りかかつて、下目使ひをして本を見て居る男の子の眼と、矢張り同じ伏目をして端書書いて居る母の眼とがそつくりだといふ事に心附いた。
 130自分は母親に伴はれた子を――例へば電車で向ひ合つた場合などに見る時、よくもこれらの何の類似もない男と女との外面に顕れた個性が小さな一人の顔なり、身体つきなりの内に、しつとりと調和され、一つになつて居るものだと云ふ事に驚かされる。131最初、母と子とを見較べて、よく似て居ると思ふ。132次に父と子とを見較べて矢張り似て居ると思ふ。133さうして、最後に父と母とを見較べて全く類似のないのを何となく不思議に思ふ事がある。
 134今、此事を思ひ出して、自分は此母に生れた此子から、その父を想像せずに居られなかつた。135さうして其人の今の運命までも想像せずに居られない。

これは、場面U終わりから場面Vのはじめにかけての箇所である。あまりに印象の違う「女の人」、「男の子」両者の目元が似ていることを発端として、「自分」は二人の子どもの父親――「女の人」の夫――を想像し始める。
 この『網走まで』の一場面においても、「自分」のその時の認知や感覚に基づいて叙述されている。単に「自分」に視点が置かれているということだけではなく、「自分」の注視している(注視していた)箇所を、その時の認知に即して叙述されることで、134文や135文のような内面が直接描かれた「心理描写」へと想像を膨らませていくことになるのである。
 『網走まで』においても、視点の配賦は、単に「自分」に視点が置かれるというだけではなく、その時の人物の認知や感覚に基づき、叙述されている。それは、『網走まで』において、一人称小説でありながら、「叙述者」としての超時的な「叙述者表現」が非常に少ないということからも説明できよう。「叙述者」としての現在の時点ではなく、汽車に乗る「自分」の時点での認知や感覚に基づいて叙述される。
 確かに、130文から133文は、超時的な「叙述者」にとっての現在から叙述されている。しかし、134文「今、此事を思ひ出して」とすぐにまた汽車に乗っている「自分」の時点に戻されるのである。このようにして、『網走まで』は、作品全体でみれば終始、汽車に乗って「女の人」と向かい合う「自分」の時間に即して、叙述されることになるのである。

 「166十時半と、十一時半には行けるな」167又こんな事を云ふ。168何とか云つて貰ひたい。
 169芳三郎には、男か女か分らないやうな声を出してゐる小女郎屋のきたない女が直ぐ眼に浮かんだ。170で、此下司張つた小男が是から其処へ行くのだと思ふと、胸のむかつくやうなシーンが後から/\彼の衰弱した頭に浮かんで来る。171彼は冷め切つた湯でシャボンをつけ、やけにゴシ/\頤から頬のあたりを擦つた。172其間も若者は鏡にちら/\する自分の顔を見ようとする。173芳三郎は思ひ切つた毒舌でもあびせかけてやりたかつた。

上の引用は、『剃刀』の場面W、「若者」の軽い調子に、体調の悪い「芳三郎」が苛々を募らせる箇所である。
 体調が悪くとも仕事に手を抜けない「芳三郎」は、苛々を抑えながらも、髭剃りに向かう。それに対して、「芳三郎」にとっての髭剃りという仕事の重みを知らない「若者」は、軽い調子で話しかける。しかし、客である「若者」には直接「毒舌」を浴びせることはできない。その苛々しい気分を「芳三郎」の内面に視点が置かれ叙述される。
 だが、この一連の叙述も「芳三郎」のその時の認知や感覚に即して叙述されている。166文の「若者」の「談話描写」「十一時半には行けるな」ということばを受けて、「芳三郎」はこれから「若者」が向かうであろう「小女郎屋」に行くのだろうと想像を膨らませる。169文は「芳三郎」の「心理描写」の「思考」である。しかし、これは単に「芳三郎」の内面を描写したのではなく、前の「若者」のことばを受けての「心理描写」であり、認知や感覚まで即してのものである。
 『剃刀』では、先にみたように「芳三郎」だけではなく、「お梅」や物体である「鏡」に置かれた視点によって叙述される箇所がある。それは主題をとらえるうえでも重要な特徴であった。しかし、その特徴は、「芳三郎」におおむね視点が置かれ、そして「芳三郎」のその時の認知や感覚に即して叙述されることが前提になっている特徴である。作品のほとんどが、「芳三郎」の、その時の認知や感覚に即して叙述されるからこそ、「お梅」の内面に視点が置かれたときは「芳三郎」との「齟齬」が浮き彫りとなるのである。物体である「鏡」に視点が置かれることで、主題が普遍的で不可避的な心理の過程であることが浮かびあがるのも、同様である。よって、他の二つの作品と同様に、『剃刀』もまた、「芳三郎」のその時の認知や感覚に即して叙述されることを中心とした視点の配賦の特徴をもった作品なのである。
 以上のように、『或る朝』、『網走まで』、『剃刀』という三つの初期作品に共通した視点の配賦は、人称を異にしたとしても、一人の人物の心理が描かれた作品であり、そして、その人物の内面を、認知や感覚までも反映して叙述されるという視点の配賦の特徴を、共通点として持っているといえる。これは、叙述法の特徴ではなく、どのように叙述するのか、という視点の配賦の特徴なのである。だが、次に考える叙述法との関連は深いものと言える。
 こうした視点の配賦の特徴を踏まえ、第2節では、『或る朝』、『網走まで』、『剃刀』の三つの初期作品における叙述法の差異点と共通点について考察することにする。

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第2節 三つの初期作品における叙述法の比較

第1項 三つの初期作品における叙述法の差異点

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 視点の配賦につづいて、三つの初期作品における叙述法についての差異点、共通点を考察する。第1節と同様に、まずそれぞれの叙述法の固有の特徴について考察する。

 『或る朝』における叙述法の特徴

 『或る朝』においての叙述法の特徴は、「信太郎」の心理の描かれ方の多様性である。「信太郎」が起きて、「祖母」に腹を立て、やがて和解に至るという一連の心理の過程は、質の異なった「心理描写」によって、立体的に描かれるのである。最も顕著なのは、次のような箇所であろう。

 85彼は毎朝のやうに自身の寝床をたたみ出した。86(a)大夜着から中の夜着、それから小夜着をたたまうとする時、彼は不意に(b)「ええ」と思つて、(c)今祖母が其処にはふつたように自分の其小夜着をはふつた。
 87彼は枕元に揃えてあつた着物に着がえた。
 88あしたから一つ旅行をしてやらうかしら。89諏訪へ氷滑りに行つてやらうかしら。90諏訪なら、此間三人の学生が落ちて死んだ。91祖母は新聞で聴いてゐる筈だから、自分が行つてゐる間少くとも心配するだらう。

場面W、「信太郎」の「祖母」をいかにして心配させようかと思案する箇所である。「祖母」を泣かせて追い出した「信太郎」は、なおもその怒りを抑えることが出来ない。起き上がった「信太郎」は着がえながら、「祖母」に対してスケートに行くことで心配させてやろうと作戦を練るのである。
 ここでは、「信太郎」は悪意に満ちていると思えるほど、具体的に「祖母」を心配させてやろうかと考える。89文「諏訪へ氷滑りに行つてやらう」、そうすれば91文「自分が行つてゐる間少くとも心配する」に違いない、と考えるのである。これは「心理描写」の中でも、「思考」と呼べるほどの具体性と論理性がある。しかし、次の箇所では、同じく「信太郎」の内面の「心理描写」であるが、そうした具体性も、意識的な意図もない。

 112信太郎は急に可笑しくなつた。113旅行もやめ・・だと思つた。114彼は笑いながら、其処に苦茶々々にしてあつた小夜着を取り上げてたたんだ。115敷布団も。116(a)それから祖母のもたたんでいると(b)彼には可笑しい中に何だか泣きたいやうな気持が起つて来た。117涙が自然に出て来た。118物が見えなくなつた。119それがポロ/\頬へ落ちて来た。120(a)彼は(b)見えない儘に(c)押入れを開けて祖母のも自分のも無闇に押し込んだ。121間もなく涙は止つた。122彼は胸のすが/\しさを感じた。

 場面W、「祖母」との会話によって「信太郎」は心のわだかまりや、怒りを全て解消させてしまう。それまで反発していた「信太郎」が、ここで和解に至ることで、部屋を出ることになる。
 「祖母」とのやりとりの後、「信太郎」は一人になると、不意に涙を流し、すがすがしい気分になる。この変化が、上のように「心理描写」される。しかし、ここで注目すべきは、この一連の心理の変化が、「信太郎」本人のまったく意図しない変化である。それは、内容だけではなく、「祖母」を心配させようとしていたときの「心理描写」との描写の質の違いによっても示されている。
 116文(b)「彼には可笑しい中に何だか泣きたいやうな気持が起つて来た。」、117文「涙が自然に出て来た。」、118文「物が見えなくなつた。」、119文「それがポロ/\頬へ落ちて来た。」、121文「間もなく涙は止つた。」、122文、「彼は胸のすが/\しさを感じた。」と、その変化が「信太郎」の意志とは無関係な「行動描写」や「心理描写」の「感覚」、「心情」の叙述で示される。先に引用した85文からの箇所では、「信太郎」の「心理描写」「思考」で具体的に、「祖母」を心配させ困らせようという目的をもって示されていたのに対し、その心理の変化は、質的に異なった叙述であると言えよう。
 このように『或る朝』の叙述法の特徴の一つに、質的に多様な「心理描写」が挙げられる。これは『剃刀』でも同様の叙述が認められる。しかし、一人称小説である『網走まで』には認められない特徴的な叙述法である。
 「心理描写」の多様性とともに、視点の配賦でもとりあげた複合性のある叙述も、『或る朝』における固有の特徴的な叙述法である。「場面設定」の叙述あるいは、「行動描写」に含まれた「信太郎」の「心理描写」でも、「信太郎」の内面が示されることになる。このような多様な叙述によって、「信太郎」の「祖母」との反発から和解へという、微妙で複雑な心理の過程が、立体的に示されることになるのである。『或る朝』における主題が、この心理の過程そのものにあることを含めて考えると、こうした叙述法の特徴は重要であろう。

 『網走まで』における叙述法の特徴

 他の二つの作品には見られない、『網走まで』における叙述法の特徴は、主観的な評価性をもった単語によって「自分」の心理が描かれるというものである。第1節の視点の配賦の特徴でもみたように、『網走まで』の場面Uには「自分」の「心理描写」が、わずか三文しかない。しかし、その内面がまったくわからないのではなく、次のような主観的な評価性をもった単語によって、鮮明に示されている。

 「25(a)母さん、どいとくれよ」(b)と七つ許りの男の子が眉の間にしわを寄せていふ。
 「26(a)ここは暑つござんすよ」(b)と母は背の赤児を下ろしながら静かに云つた。
 「27暑くたっていいよ」
 「28日のあたる所へ居ると、又おつむ・・・が痛みますよ」
 「29(a)いいつたら」(b)と子供は恐ろしい顔をして母をにらんだ。
 「30(a)滝さん」(b)と静かに顔を寄せて、「(c)これからね、遠い所まで行くんですからね。31若し途中で、お前さんのおつむ・・・でも痛み出すと、母さんは本統に泣きたい位困るんですからね。32ね、いい児だから母さんの云ふ事を肯いて頂戴。33それにね、いまに日のあたらない方の窓があくから、さうしたら直ぐいらつしやいね。34解りまして?」
 「35(a)頭なんて痛くなりや仕ないつたら」(b)と子供は尚ケン/\しく云ひ張つた。36母は悲しさうな顔をした。
 「37困るのねえ」

 場面Uのはじめ、「自分」が「女の人」とその子ども「男の子」とのやりとりを見ている箇所である。日当たりのいい場所しか席が空いておらず、「女の人」は「男の子」の体調を考えて座らないほうがいいと言う。しかし、「男の子」はどうしても座りたがり母親を困らせる、という場面である。この後、「自分」は「女の人」の困った様子を見かね、「男の子」に日が当たらない自分の席を譲ってやることになる。そのきっかけの箇所である。
 この箇所では、見ている「自分」に対する「心理描写」はおろか、「自分」に対するそのほかの描写は一切ない。ここにあるのは、「女の人」と「男の子」とのやりとりのみが示された「談話描写」、「行動描写」しかない。しかし、それと同時にここには、そのやりとりを見つめる「自分」の母子に対する印象の違いが色濃く反映されていると言わなければならない。
 「男の子」は、29文(b)「恐ろしい顔をして」、35文(b)「尚ケン/\しく云ひ張つた」と、聞き分けのない我儘な子どもとして、印象悪く叙述される。一方、その母親である「女の人」は、終始穏やかに26(b)「静かに」、30文(b)「静かに」と丁寧に話しかける。それでも納得しない「男の子」に対して、「悲しさうな顔をした」と叙述される。この両者は、母親を困らせる嫌な印象の「男の子」、息子を心配しているにもかかわらず困らされるかわいそうな「女の人」という対比がある。この時点では「女の人」に対して深い同情を抱いてはいないが、その萌芽はこの時点で既にある。ここで、その両者の印象の対照性が、直接的に「自分」の「心理描写」によって、示されることはない。しかし、その心理は母子二人をとらえた叙述の中にあるのである。
 『或る朝』や『剃刀』には、多様な「心理描写」が見られた。一方の『網走まで』では、敢えてその「心理描写」がないことで、「自分」のもつ母子の印象の違いが示されながらも、それが未だ深い同情には達していない、という「自分」の内面を示している。そして「女の人」への関心が大きくなり、同情が深まった場面Wでは、「自分」と「女の人」について直接「心理描写」されることによって、その心理の変化が示されるようになる。
 こうした叙述法は、三つの作品の中で『網走まで』にのみ見られる特徴である。

『剃刀』における叙述法の特徴

 『剃刀』における叙述法の特徴は、直喩表現の多用と、殺人に導かれていく「芳三郎」と対応するかのような叙述のイメージの連鎖である。『剃刀』では、「若者」を殺してしまうという、分析対象とした三つの作品の中でも、特殊な結末をもった作品である。「芳三郎」の殺人への過程を考えるうえで、直喩表現と、叙述のイメージの連鎖は重要な叙述法の特徴となっている。

 26又硝子戸が開いた。
 「27竜土の山田ですが、旦那様が明日の晩から御旅行を遊ばすんですから、夕方までこれを砥いで置いて下さい。28私が取りに来ます」29女の声だ。
 「30(a)今日はちつとたて・・込んで居るんですが、明日の朝のうちぢやあいけませんか?」(b)と兼次郎の声がする。
 31(a)女は一寸渋つた様子だつたが、
 「(b)ぢやあ間違ひなくね」32(a)かういつて硝子戸を閉めたが、又直ぐ開けて、
 「(b)御面倒でも親方に御願ひしますよ」
 「33あの、親方は……」34兼次郎がいふ。35(a)それを遮つて、
 「(b)兼、やるぜ!」(c)と芳三郎は寝床から怒鳴つた。36鋭かつたが嗄れて居た。37(a)それには答へず、
 「(b)よろしう御座います」(c)と兼次郎の云ふ(d)のが聞える。38女は硝子戸を閉め去つた様子だ。

『剃刀』の場面U、立て込んできた店に、「剃刀」を砥いでほしいという仕事の依頼が入る。それを寝床にいる「芳三郎」が聞いているという箇所である。ここで「芳三郎」は仕事を請けると言ったことから、一本の「剃刀」を砥いだり、これで髭を剃ったりすることで、「若者」を殺してしまうようになるのである。
 寝床にいる「芳三郎」は、仕事場とは別室にいるため、聴覚によって、客と店の職人の「兼次郎」との会話を認知する。特に「親方」に砥いでほしいと聞えた「芳三郎」は、自分が砥ぐと、寝床から返事をする。しかし、その声は36文「鋭かつたが嗄れて居」る。この鋭さは、寝床から返事をしているため声を張り上げたことによる「鋭さ」である。しかし、それと同時に神経の鋭さである。引用部の前にあたる箇所で、熱で浮かされることで神経が鋭くなっている様子が示される。
 さらに、この叙述は、やがて「若者」殺しへと至る殺人への過程を考えるとき、「剃刀」と「芳三郎」の心理が鋭くなっていくという、叙述のことばのイメージをもつ「鋭さ」でもある。何度かその「鋭さ」が叙述のなかに含まれることで、作品の表題「剃刀」のイメージと重なり、叙述としても殺人へ導かれていくのである。

 195(a)苛々して怒りたかつた気分は泣きたいやうな気分に変つて(b)今は身も気も全く疲れて来た。196眼の中は熱で溶けさうにうるんでゐる
 197咽から頬、頤、額などを剃つた後、咽の柔かい部分がどうしてもうまく行かぬ。198こだはり尽くした彼は其部分を皮ごと削ぎ取りたいやうな気がした。199(a)肌理の荒い一つ/\の毛穴に油が溜つて居るやうな顔を見て居ると(b)彼は真ンからそんな気がしたのである。200若者はいつか眠入つて了つた。201がくりと後へ首をもたせてたわいもない口を開けて居る。202不揃ひな、よごれた歯が見える。
 203疲れ切つた芳三郎は居ても起っても居られなかった。204総ての関節に毒でも注されたやうな心持がしてゐる。205何も彼も投げ出して其まま其処へ転げたいやうな気分になつた。206もうよさう! 207かう彼は何遍思つたか知れない。208然し惰性的に依然こだはつて居た。

 『剃刀』場面W、いよいよ差し迫った「信太郎」が「若者」の咽に傷つける直前の箇所である。「剃刀」を持つ手に身体感覚が失われ、疲れきっていく「芳三郎」の心理が示される。
 196文「眼の中は熱で溶けさうにうるんでゐる」、204文「総ての関節に毒でも注されたやうな心持がしてゐる」と、熱が「芳三郎」の視覚まで冒していく様子と、手元だけではなく全身の身体感覚が奪われていく様子が直喩表現で示される。
 次第に追い込まれていく「芳三郎」の心理をとらえるためには、これらの特徴的な直喩表現を無視することはできない。また、この直喩表現にもちいられている「毒」という喩詞も、殺人へというイメージを、叙述上のことばによって増幅されているとも言えよう。その前に「薬」を飲んでいるはずの「芳三郎」は、全身が麻痺し、「毒」を盛られたように感じられるのは、殺人へのイメージの連鎖である。
 第1章で波多野完治(1965)では、谷崎潤一郎の文章と比して、志賀直哉の文章においては、半分ほどの直喩表現しかないことを指摘していた。そしてそれは「社会性」と「事物」という両者の文章の差異を示すものであるとしていた。確かに『或る朝』や『網走まで』における直喩表現は、特筆するほど多くはない。またそれと同時に、『剃刀』における直喩表現のような、主題とかかわるものではない。『剃刀』のこうした叙述法の特徴は、固有のものであるといえよう。
 以上、三つの作品の叙述法における差異を考察してきた。『或る朝』においては、多様な「心理描写」と複合性のある叙述、『網走まで』においては、その内面を直接「心理描写」されるか否かによって、内面の変化が示されるという特徴があった。『剃刀』では、直喩表現と、叙述中に含まれたことばがもつイメージの連鎖とによって、殺人への過程が示されていた。
 続いて、『或る朝』、『網走まで』、『剃刀』という三つの初期作品における叙述法の共通点を、第2節で考えることにする。

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第2項 三つの初期作品における叙述法の共通点

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 それでは、『或る朝』、『網走まで』、『剃刀』に共通した叙述法の特徴は、どこにあると言えるだろうか。
 視点の配賦の共通性は、作品の中心人物の、その時の認知や感覚に基づいて叙述されているというものであった。叙述法における共通性は、主観的な評価性のある単語を含んだ叙述が、その中心人物の心理をつかむ上で重要な叙述になっているということである。そして、それは共通した叙述法の特徴であるとともに、それぞれの主題をとらえるためには不可欠なものである。
 『或る朝』では、具体的には次のような叙述である。

 「38本当に早くしてお呉れ。39もうお膳も皆出てますぞ」
 「40わきへ来てそうぐづ/\云ふから、尚起きられなくなるんだ」
 「41あまのじやく!」42(a)祖母は(b)怒つて(c)出て行つた。43信太郎ももう眠くはなくなつた。44起きてもいいのだが、余り起きろ/\と云はれたので実際起きにくくなつて居た。45(a)彼はボンヤリと床の間の肖像を見ながら、(b)それでももう起しに来るか/\という不安を感じて居た。46起きてやろうかなと思ふ。47然しもう少しと思ふ。48もう少しこうして居て起しに来なかつたら、それに免じて起きてやらう、さう思つている。49彼は大きな眼を開いて未だ横になつて居た。

『或る朝』の場面U、三度「祖母」に起こされることで「信太郎」は、完全に眼が覚めてしまう。しかし、「祖母」に何度も起こされることで、逆に目が覚めても起き上がりづらくなる。そこで、「う少しこうして居て起しに来なかつたら、それに免じて起きてやらう」と、寝床にしばらくいつづけることにする。以後、「祖母」を怒らせ、泣かせるまで「信太郎」は起き上がろうとしない。
 49文「大きな眼」をしたまま「信太郎」は寝床で横たわる。この「大きな」という主観的な評価性をもった叙述が、完全に眼が覚めてしまった「信太郎」の内面をあらわしている。既に眼が覚め、起きるか起きまいか悩んだ挙句、「祖母」が起こしに来なければ起きようと決める。そこには、「祖母」に対してのはっきりとした意識がある。そのため「大きな」という主観的な評価性を含んだ単語によって、強調されることになる。
 叙述として「信太郎」の内面を含んだような、複合性のある叙述ではない。しかし、「信太郎」の内面――覚醒の状態と、「祖母」に対する起きまいとする意識――をとらえるためには、重要な叙述となっている。

 38(a)自分は突然、
 「(b)此処へおいでなさい」(c)と窓の所を一尺許りあけて、「(d)此処なら日が当りませんよ」(e)と云つた。
 39男の子は厭な眼で自分を見た。40顔色の悪い、頭の鉢の開いた、妙な子だと思つた。41自分はいやな気持がした。42子供は耳と鼻とに綿をつめて居た。
 「43まあ、どうも恐れ入ります」44(a)女の人は悲しい顔に笑を浮かべて、「(b)滝さん、御礼を云つて、あそこを拝借なさい」(c)と子の背に手をやつて此方へ押すやうにする。
 「45いらつしやい」46自分は男の子の手を取つて自分の傍に坐らせた。47男の子は妙な眼つきで時々自分の顔を見て居たが、小時して漸く外の景色に見入つた。

 『網走まで』の場面U、困った様子の「女の人」を助けようと、「男の子」に「自分」が座っていた席を譲ってやるという箇所である。ここで「男の子」に席を譲ったことから、「自分」は母子に関わっていくことになる、そのきっかけとなる箇所である。
 『網走まで』において、特徴的な固有の叙述法の特徴として、直接「心理描写」されるのではなく、「女の人」と「男の子」との描きわけによって、「自分」にとっての二人の印象の違いが間接的に示されることを確認した。その特徴に関連して、そうした叙述の多くは、主観的な評価性をもった単語を含んだ叙述となっているのである。39文「厭な眼」、40文「妙な子」、41文「いやな気持」、44(a)「悲しい顔」、47文「妙な眼つき」という叙述に、主観的な評価性をもった単語がみられる。これらはすべて「自分」にとっての、「男の子」の印象の悪さと、「女の人」の印象の良さとが対比されている描写の中の一部である。
 このように、『網走まで』の叙述法の特徴であった、こうした対照的な描写のなかに、主観的な評価性をもった単語が含まれているのである。そして、この特徴は『剃刀』にもあてはまる三つの初期作品に共通したものである。

 189(a)最初何の彼の話しかけた若者は(b)芳三郎の不機嫌に恐れて(c)黙つて了つた。190そして額を剃る時分には昼の烈しい労働から来る疲労でうつら/\仕始めた。191錦公も窓に倚つて居眠つて居る。192奥も赤児をだます声が止んで、ひつそりとなつた。193夜は内も外も全く静まり返つた。194剃刀の音だけが聞える。

『剃刀』の場面W、「芳三郎」が「若者」の髭を剃っていると、周りから音が消えていき、辺りが静寂に包まれていくという箇所である。静寂が「芳三郎」に意識されることで、「芳三郎」は髭を剃ることに集中させられ、さらに苛々を募らせていくことになる。
 「若者」は眠ってしまい、「錦公」も眠り「お梅」の声も聞えなくなる。そして、193文「内も外も全く」、194文「剃刀の音だけが」と、静寂が主観的な評価性をもった単語によって、強調されて示されている。強調されることで、静寂がより一層深まり、「芳三郎」を髭剃りへと追い込む・・・・・・・・・ことになる。「芳三郎」の殺人への過程という主題を考えるためには、重要な箇所であり、それが強調されていることは重要である。
 また『剃刀』の特徴的な叙述法に、直喩表現が挙げられた。広く言えば、直喩表現も、主観的な評価性をもった表現であるといえる。何を、どのように見るか、聞えるかといった「とらえかた」の問題である、直喩表現は、主観的な評価性をもった表現である。その意味でも、『剃刀』において主観的な評価性をもった単語、あるいは表現を含む叙述を考えることは、主題を考えるうえで不可欠なのである。
 このように志賀直哉の初期作品における共通した叙述法の特徴は、主観的な評価性をもった単語であり、それが作品の主題と密接なかかわりをもっている。ここで、第1章でみた先行研究をもう一度みておきたい。
 波多野完治氏は、谷崎潤一郎の文章と比較して、志賀直哉の文章を「即物的性格」の文章であり、「「物」に向かう」文章であると指摘していた。さらに、谷崎潤一郎の文章よりも、名詞が多く、形容詞・直喩表現が少ないとされていた。そして、この分析・考察は、基本的に、一定量の文章における品詞や表現の量的な多寡によるものであった。
 しかし、主題と関連させて考えると、むしろ、逆なのではないだろうか。つまり、波多野完治(1965)で指摘されていた少ない品詞や表現が、主題をとらえる上で重要な単語、表現であり、不可欠な叙述なのである。だが、それは、小林英夫氏や波多野完治氏のいう「物のリズム」、「即物的性格」の文章であるからこそ、主題と密接に関わる叙述であるという説明もできよう。文章全体で、大半である「物に向かう」叙述の中で、主観的な評価性をもった単語や表現を含んだ叙述によって、主題――作中人物の心理に関わるもの――が浮かび上がるように仕組まれているのである。

 多くは自己の実生活に密着した作者の「眼」の捉えた世界は、細部に於て強く生き生きした視覚の充実を示すが、それらの描写は対象の単なる写真的再現ではなく主観の働いた生きた写実である。この志賀直哉にとっては、「見る」という視覚的動作は即「考える」という思考的動作につながる。つまりいかによく「見」た事象を覚えているか、その確実さはその時の心的内容の確かさであり、見たものとその時の心の状態とが不可分なものとして存在するわけである。

(傍点原文。
谷口節子(1977)「「或る朝」にみえる志賀文学の原型」
『武庫川国文』第11号)

 上の引用は、第1章でもみた谷口節子(1977)「「或る朝」にみえる志賀文学の原型」(『武庫川国文』第11号 1977年3月)の、志賀直哉の文章についての指摘である。志賀直哉の文章について、「「見る」という視覚的動作は即「考える」という思考的動作につながる」という鋭い「主観の働いた生きた写実」によるものであると指摘している。しかし第1章で、この指摘は、表現一般、小説一般に共通するものであることを確認した。表現主体によって、表現意図を達成するためにしくまれた創作的な「作品」である小説は、どんな描写(記述)でも、どんな説明(評釈)でも、表現主体の「考えるという思考的動作」につながらないものはない。では、この指摘が意味するところはどこにあるのだろうか。
 それは、志賀直哉の初期の三作品に共通してみられた叙述法の特徴にあるのではないだろうか。三つの初期作品に共通した叙述法の特徴は、主観的な評価性をもった単語が、作中人物の心理をとらえるうえで欠かせないものであった。そして、それは主題や構成とも関連する重要な叙述法の特徴であった。「「見る」という視覚的動作は即「考える」という思考的動作につながる」という谷口節子(1977)での指摘が、表現一般・小説一般に対する言及ではなく、志賀直哉の文章の特徴に対するそれであるならば、その意味はその叙述法の特徴を指しているのではないだろうか。
 だが、ここで重要なのは、志賀直哉、あるいは中心となる作中人物にとっての「主観」か「客観」かという二項対立で考えてはならないということである。見たもの、すなわち描写や記述が、即考えたこと、すなわちその内面や心理そのものであるという指摘は、表現一般につながる普遍的な特徴となってしまう。しかし、それが主題をとらえるうえで重要になる、ととらえると、志賀直哉の文章作品における特徴の一つと言えるのではないか。
 すなわち、志賀直哉の初期作品において、主題は、一人称であれ三人称であれ、中心人物の心理の起伏や過程がそのまま主題に直結している。換言すれば、主題をとらえるためには微妙で複雑な人物の心理をとらえることが不可欠である。その心理の過程をとらえるには、単に「心理描写」だけを追っていてもとらえきることはできない。『或る朝』では、複合性のある叙述、『網走まで』ではどのように母子が描き分けられているか、『剃刀』では、直喩表現が、その心理をとらえるために不可欠な叙述法の特徴であった。それに加えて、これら三つの初期作品には、主観的な評価性をもった単語を含んだ叙述が、それぞれの心理をとらえるうえで不可欠な叙述であった。志賀直哉の初期作品において、作中事物の心理の過程そのものが主題(あるいは主題と密接にかかわるもの)となりうる場合、主観的な評価性をもった単語を含んだ叙述が、作品の主題をとらえるうえで、てがかりとなる。
 「「見る」という視覚的動作は即「考える」という思考的動作につながる」という谷口氏の指摘が重要になるのは、このためである。内面が表わされた見た視覚的な対象は、なにをどのように描かれるかということが、感じた、考えたという心理や思考的な内面に強く結びついている。「事物描写」や「人物描写」が、どのような主観的な評価性をもった単語を含んでいるか、ということが、作中人物の内面に関わり、それが主題をとらえるうえで重要な叙述になっている。だからこそ、「「見る」という視覚的動作は即「考える」という思考的動作につながる」という指摘が、志賀直哉の文章の特徴となるのである。
 この叙述法の共通点は、視点の配賦の共通点と密接なかかわりがある。中心となる作中人物のその時の認知や感覚に基づいて叙述されるからこそ、主観的な評価性をもった単語を含んだ叙述法が、その心理をとらえるうえで重要となるのである。

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終章 結論

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本稿では、志賀直哉の初期作品、とくに『或る朝』、『網走まで』、『剃刀』という三つの作品について、視点の配賦と叙述法に着目しながら、考察をおこなってきた。再びまとめるとすれば、本稿の結論は次のようになろう。
 『或る朝』は、「祖父」の法事の朝、「信太郎」が「祖母」に起こされるということを発端として、「信太郎」が「祖母」に反発し和解に至るという心理の過程が描かれた作品であった。最終的に和解に至ることで、「信太郎」は他者に向き合う自分に対しての意識を獲得する物語であった。その心理の過程が、質の異なった「心理描写」や、「信太郎」の「心理描写」を含んだ叙述という複合性のある叙述によって、立体的に描かれているという特徴があった。そこには、人物の内か外か、という二項対立的な視点の配賦ではなく、内面を見通した外面の描写を可能にする視点の配賦があった。
 『網走まで』は、たまたま同じ車両の一間に乗り合わせた「女の人」に対して、「自分」が関心と同情を抱き、心的な距離を縮めていくという作品であった。それは同時に、あくまで他人として「女の人」と接するため、深い同情を示しながらも、託された「端書」を見ないという「自分」と「女の人」とが明確に線引きされたところでの関心・同情であった。関心・同情を抱いていくその過程が、「女の人」と、その母を困らせる二人の子どもとが「人物描写」によって印象が描き分けられる。そして子どもの父親を想像することによって、心的な距離を縮め、「女の人」に対する「心理描写」までされるほどにその距離は近づく。そうした叙述の変化は、そのまま視点の配賦の特徴であり、叙述法の特徴であった。
 『剃刀』においては、癇の強い職人であった「芳三郎」が、様々な「齟齬」を起こすことで、「若者」を殺してしまうという心理の過程を描いた作品であった。しかも、その心理の過程は、普遍的で不可避的な過程であるように、「鏡」から映し出されたものとして描かれていた。「芳三郎」が様々なもの・ことと「齟齬」を起こしていく過程を、質の多様な「心理描写」と、置かれる視点が変わることによって、示されていた。そして、作品の最後で「鏡」に視点が置かれることで、人間としての判断を下さない「叙述者」が浮かび上がる。こうした置かれる視点の変化が『剃刀』の主題を考えるうえでも、重要な視点の配賦であった。
 以上の三つの作品を分析・考察した結果見出された共通点は次のようになろう。
 三つの作品における、視点の配賦の共通点は、各作品の中で中心となる作中人物の、その時の認知や感覚に即して叙述されるというものであった。これは作中人物の心理の過程がそのまま、主題そのものであることとも関係している特徴であった。
 一方、三つの作品における叙述法の共通点は、そうした視点の配賦との関連で、書く描写にみられる主観的な評価性をもった単語に含んだ叙述が、主題――作中人物の心理の過程そのもの――を考えるうえで重要な叙述であるということである。
 このような考察の結果は、単に文章表現論や志賀直哉研究にとどまるものではない。本稿で対象とした三つの作品や、そのほかの初期作品を教材としてもちいるばあいの基礎的な研究として有効であると考える。

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おわりに

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 本稿は、志賀直哉の初期作品について、分析対象を三つの作品に絞り、考察してきた。本研究としての結論については、終章の通りである。さらに研究を進めていくにあたっての今後の課題としては、次のようなことが挙げられよう。
 まず、さらに多くの初期作品を分析対象とする必要がある。叙述ひとつひとつについて分類分析をおこなった結果、明らかになったことは志賀直哉の初期作品を考えるうえでその一端になることは確かであろう。しかし初期作品は、志賀直哉の作品の中でも、多種多様で実験的な作品が数多くある。それらの作品を考えるには、より多くの作品を分析・考察する必要があろう。
 その上で、中期・後期とどのような関係性があるのか、という通時的な変化、変容といった分析・考察が考えられる。志賀直哉という作家にとって、その表現から考えるばあい、どのような変化があるのか、あるいはないのかを明らかにするためには、他の時期との対照・比較が不可欠であろう。中期・後期との関連で考えてはじめて、真の意味での、初期作品の文章表現特性が明らかになる。
 以上のような課題を考える限り、本研究でおこなってきた終章までの考察は、志賀直哉の初期作品における文章表現特性を考えるための一段階に過ぎないのである。

*   *   *


 最後に、この修士論文の完成にあたって数多くの人のご指導・ご鞭撻ならびにご助言を賜った。指導教員である野浪正隆先生、直接指導してくださった早川勝廣先生をはじめとして、大阪教育大学の国語講座の先生方には、多くのことを教わった。謝意を表したい。また、他大学でありながら、学会・研究会等で顔をあわせるたびに、ご指導やご助言を下さった帝塚山大学の中島一裕先生には、大変感謝している。
 先輩、後輩、そして同級の大学院生にも、時に叱られ、時に批判しあい、時に刺激を受けながら二年間学ぶことができた。中でも、一年上の先輩で、同じ四天王寺国際仏教大学出身の尾崎恵美さんがいなければ、大学院入学も修士論文を書きあげることもできなかっただろう。ありがとうございました。

<了>

平成17年1月14日

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参考文献

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志賀直哉・作品に関する参考文献
視点論・文章表現論に関する参考文献

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このページについて

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 このページは修士論文(平成16年度)完成・提出にあたり、執筆者(田)自ら作成したものです。
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