大阪教育大学 国語教育講座
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大阪教育大学 国語学特論2
受講生による 小説習作集

詩織

2008年度号
『そら』 ichi
『Lapis-lazuri』 62110
 62110
『手紙』 62104
62102 あんばさ
『Good bye days…』 062109
名探偵 大木勇人の事件簿@
 『始めの第一歩』
 ☆りんご
『神様からの手紙』 apricotto
『ヒューマンストライク』 62106
 

「そら」 ichi

 青い空。白い雲。緑の濃い山々に、元気いっぱいの蝉の声。
 ここからは見えないけど、家の裏の細い小道を下っていけばきれいな川も流れている。この川は大きな川につながっていて、実は結構、有名な川だったりする。そして、もう少しこの山を登っていけば、これも結構有名なスキー場がある。最近になってできた温泉だってある。普通に考えると、もう少しにぎわっていてもよさそうなのに。こんなに素敵なところなのに。いつ来てもそう思う。でも実際は顔見知りのおじいちゃんやおばあちゃん、それからその息子、娘、孫たちが住んでいるだけの小さな村がそこにある。わたしが来るのはいつも夏休みだから、これでも人は多いらしい。普段はほんとにおじいちゃん、おばあちゃんが静かに暮らしている村だ。観光に訪れる人と顔を合わせることはまずない。観光客は下のほうに走る、大きな国道を使ったほうが便利なのだろう。この村に用はないとばかりに車を走らせているのが見える。まるでミニカーが競争しているみたいだ。
 ここはわたしの田舎だ。お父さんが生まれ、育った村だ。大自然といえば聞こえはいいけど、まあいわば過疎の村ということになる。一番近いお店まで車で四十分は掛かる、日常生活にはあまり適さない場所。お父さんが子供の頃はもう少しにぎやかだったそうだが、それももう昔話になってしまった。ここでの生活は自給自足とまでは行かないにしても、いわゆる一般的な社会の生活というものとはかけ離れている。出かけるのに鍵はかけないし、いきなりお隣さんが入ってくることもしょっちゅう。何かできごと、たとえば誰さんちの孫が大学に受かったとか、どこの姉さんが風邪引いたとかの情報も瞬く間に広がる。まるで連絡網でもあるみたいに。プライバシーとかいうものはあまりここにはないと思ってまず間違いないだろう。
 それでもわたしはこの村が好きだ。空と木の色、風や山の音、澄み切った空気…………。すべてが開放感にあふれていて、心が躍る。毎年、夏休みが待ち遠しいのはこの村に行けると思うからだ。今年は何をして遊ぼうか。川で泳いで、魚を採って。カブトムシやクワガタも探さなきゃ。タロー、元気かな。やりたいことがありすぎて計画はまとまらない。いっそ、行ってから気の向くままに遊んでみるのもいいかも。いろんな考えが浮かんでは消えていく。今年もいつもの八月がやってくる。
 七月二十二日、終業式も終わって今日から夏休み。とりあえず、通知表を持って帰って怒られよう。一学期はちょっと手を抜きすぎたみたいだ。担任の先生も二年目はそんなに甘くはみてくれないか。でもきっと、お父さんは怒らない。子どもは遊ぶのが仕事とかなんとか言って笑い飛ばす気がする。毎年、そんなことを言ってはわたしと一緒にお母さんと怒られるのだ。お母さんはきっとお父さんの分までわたしの勉強の心配をしている。だから怒るといっても成績が悪いからというより、もっとがんばれたところがあったはずだと通知表を見ながら一学期の反省点を振り返る。ここでわたしは毎年、夏休みの宿題はきちんとやることと、二学期はもう少し、算数をがんばると約束させられる。今年もきっと同じだろう。
 今年、わたしは七月中に夏休みの宿題をやってしまうと心に決めていた。それもこれも、すべては思いっきりお父さんの村で遊ぶためだ。あの村で宿題をするのは至難のわざだと思う。太陽が、山が、川が、みんなで遊ぼうと誘惑しているように思えてならない。去年はみんなが遊んでいるのに一人、宿題をやっていた。あんな思いはもうしたくない。
 一週間、わたしはがんばった。お母さんもびっくりするくらい宿題をやっていた。まるで学校に行っているみたいに朝から宿題に没頭した。わたしの計画は成功だ。明日は七月三十一日。このままいけば絶対に終わる。なんだかどんどん終わっていくことが楽しくなってきて、ペースは上がるばかりだ。
 こればかりは片付けられない、毎日の絵日記を残して、わたしに本当の夏休みがやってきた。今日は荷造りをして、明日の朝、村に向けて出発するらしい。わたしは今日にでも行きたかったけど、お母さんがそう言うから仕方ない。わたしがどんなにがんばっても車は運転できないし、大人の都合とやらも変えられない。どんどん膨らむ期待に胸を躍らせながら明日を待つしかない。もう少し、早く起きてお父さんについていけばよかった。お父さんは一足先に村に行ってしまった。おばあちゃん一人では、わたしたちが遊びに行ったときの準備ができないから。そのお手伝いだそうだ。そのことを思い出すとちょっと腹が立つ。明日、会ったら一番に文句を言ってやるんだ。
 虫取り網、虫かご、水着、着替えにおやつ。忘れ物はないかな。わくわくして眠れない。明日の朝は早いのに。明日からいっぱい遊ぶのに。そんなことを考えているうちにいつの間にか眠っていたらしい。気づけばお母さんの声が聞こえる。さあ、起きなくちゃ。
 寝起きがいいのは昔から。わたしの特技の一つは早起きだ。今日は一段とすがすがしい朝。ごはんは何かなと思いながら階段を下りる。
 「おはよう。」
 声をかければお母さんが振り返る。いつもより楽しい朝のはずなのに。何かがおかしい。お母さんの目が腫れている。お母さんも眠れなかったのかな?どうしたんだろう。
 いろいろ考えながらごはんを食べて、出かける準備をしようとするわたしに、そのときが訪れる。
 「よく聞いてね。お父さんが…………。」

◇◇◇

 大人になった今も、時々夢に見る。繰り返される同じ光景。同じ言葉。どうやって田舎まで行ったのか、そのあとの夏休みをどんな風に過ごしたのか。あの夏の記憶はところどころ欠落している。思い出そうと必死になってみたりもしたけど、無駄だった。子どもだったわたしはきっと、記憶に残すことを拒否したのだろう。覚えているのは空高くのぼっていく白いけむりと、誰かが優しく言った言葉。
 「お父さんは、お星様になったの。いつでも必ずあなたのこと、家族のこと、見ててくれるの。だから寂しくなんかないのよ。」

◇◇◇

 照りつける太陽。生暖かい風。流れる汗。命かれるまで鳴く蝉。
 今年も夏がやってきた。あれから十年以上のときが流れた。昔は大好きだった夏。でも大人になったわたしにとっては、単なる暑い毎日。夏が持つ、特別な色なんてとっくに忘れてしまった。今年はお父さんの十三回忌の年だ。あれから足を踏み入れることのなかったあの村に、今年は行くことができるだろうか。これまで大人の事情とやらで法事には行くことも、もちろん、遊びにいくこともなかった。輝かんばかりだった夏の思い出たちは、すでに色あせてしまった。
 もう一度、あの場所に立って体中で夏を感じることができたなら、夏を好きになれるだろうか。大好きだったあの夏の景色を今なら、落ち着いて眺めることが出来そうな気がする。遠い遠い、記憶の夏に今年こそ。
 もう、わたしは大人になった。もう、大人の都合に振り回される年齢ではない。車の免許も持っているから、一人でも行こうと思えば行けるのだ。何もできなかった昔とは違う。夏休みは長い。あれから会うことのできなかったおばあちゃんとしばらく生活してみてもいい。おばあちゃんにはきっと、色々と話したほうがいいことがたくさんある。今までの時間を取り戻すことはできないかもしれないけれど、少しゆっくり話がしてみたい。
 大学の長期休暇はいつのまにか始まる。小学校や中学校みたいな終業式なんてない。自分が取っている授業のテストやレポートさえ終わってしまえば自動的にお休みだ。友達はみんなバイトや部活に忙しかったり、実家に帰ったりしている。わたしもバイトとかサークルとか遊びとか。そんな生活を取ってもよかったのかもしれない。遊びの誘いが軽快なたった一小節のメロディと一緒にやってくる。そのたびにごめんねと返信するわたし。メールが来るたび、ちょっと残念な気もするけど、今年は帰る。そう決めたのは他でもないわたしだ。後期が始まったら、また、思いっきり遊べばいい。
 今日は大きな花火大会があるらしい。色とりどりの浴衣姿が溢れている。そんな中、大きな荷物を持って、わたしは実家に帰る。駅まではお母さんが迎えに来てくれる。なんだかんだと忙しくて、お正月ぶりになってしまった。また会ったとたんから文句を言われるのだろう。大学生なんて半分遊びなんだから、暇を見つけて帰ってきなさい。こっちは心配事が尽きないの。最近はやりの友達のような母親だが、口癖はこんな感じだ。それでも口うるさいと感じさせないお母さんの人柄をわたしは尊敬している。あれから一人でわたしを育てたお母さん。その苦労が今なら少しは分かる。このご時世、ライフスタイルが多様になったとはいえ、シングルマザーがあまり恵まれているとは言えない。
 昔から、いや、お父さんが亡くなってからわたしは大人の目を気にするようになった。ふとした時に聞こえる蔑みの声。何かあるとお母さんのことを悪く言う人がいる。世間は冷たい。同情したような顔をして、好き勝手に噂する。子ども心にそんなことに気付いてからわたしは無意識に、少しでも「いい子」を目指してきた。成績も、部活も、普段のご近所づきあいも。普通より少し上、とりあえず文句をつけられることのないレベルでいよう。そうしておけば何かと無駄に傷つかなくてすむのだ。わたしなりの、自分を守る術だった。そして、お母さんを傷付けないようにしたかった。今思えば、くだらない努力だ。けれど、当時は大真面目だった。そうしなければならないと、自分の中に規則を作っていた。今はもうそんなことは意識していない。一人での生活は気軽に、好き放題やっている。それでも人間の習慣はすごいものだ。地元に帰ると無意識にでも「いい子」の仮面が顔を出す。もはや身体の一部になっているみたいだ。
 久しぶりの実家は何だか緊張してしまう。それも一瞬で溶けていくけれど、実家の温かさがくすぐったい。わたしはここに居場所を持っている。当たり前のようで意外と見つからない感覚だと思う。くつろげる場所は貴重品だ。そう簡単に見つかるものではない。お母さんの料理は手抜きのわりにおいしい。久しぶりに食事らしい食事を味わいながら、家族団らんというには、少し寂しい気もする二人で囲むテーブル。少しずつ、わたしの日常を話す。もちろん、都合の悪いところは若干の編集を加えながらだけど。お母さんの日常も聞く。最近、デコメを覚えたのは子どもが教えてくれたからだそう。初めてお母さんからデコメが送られてきたときには何事かと思った。お母さんの仕事は子どもに音楽を教えることだ。そのせいか歳のわりに若く見える。うらやましい限りだ。お母さんの学びはいつも子どもからだった。昔はその子どもたちと自分の年齢が近すぎて、何故か嫌になったこともあった。きっとお母さんをとられたみたいで、寂しかったのだろう。でも今はもう何も感じない。むしろ子どもと同じようにはしゃぐお母さんが恥ずかしい。わたしは子どもを相手にする仕事なんて考えられない。常識の通用しない相手と会話するとイライラしてだめだ。わたしは普通に事務職にでも就ければいい。
 明日はお父さんの命日。そのために今日、帰ってきた。朝早くに出発しないと法事には間に合わない。運転はわたしがするよ。それだけ伝えて自分の部屋に戻った。果たして、明日お母さんは一緒に来るだろうか。わたしが行くことに反対はしなかったけれど、いい顔をしたわけでもない。
 自分の部屋の窓を開ける。やっぱり田舎だ。夏の大三角以外にも星がたくさん出ている。星を見るとわたしはお父さんに話かける。ねぇ、明日お母さんも一緒に行けるかな。行ってもいいよね。

 翌朝、お母さんは行かないと言った。でもしっかりお供えだけは用意していた。お花は途中で買いなさいとお金も渡された。そこまで気にしているなら一緒に来ればいいのに。わたしのそんな独り言はふわっと宙に浮いてすぐに消えた。わたしと同じ、黒い服を来たお母さんを置いて、わたしは車を走らせる。車に乗るときは少し古い曲をかける。昔、わたしが生まれる前にはやった、お父さんとお母さんの思い出の曲。これを聞きながら走ると落ち着くのだ。何かに包まれているようなあったかい感覚になれる。
 昔は遠くて、途中に知らない町がいくつもあった。だけど自分が運転するようになると案外近いと感じる。山道に少し、怯みもしたが何とか無事に辿り着いた。相変わらずの、お父さんの故郷。思い出よりも少し寂しい感じがするだろうか。青い空。白い雲。緑の濃い山々に、元気いっぱいの蝉の声。そして。随分小さくなったおばあちゃんがそこにいた。
 毎年、年賀状と暑中見舞いは送っていた。ときには電話をすることもあった。だけど会うのはあの時以来、初めてだ。緊張しながら声をかけようとしたその瞬間、元気だったかい。まぁ、大きくなったねぇ。昔のように目を細くして抱き寄せてくれた。あぁ、おばあちゃんだ。今まで会いに来られなくてごめんね。そんな思いが目頭を熱くする。でも、もうすぐ法事が始まる。おばあちゃんだけじゃ、大変だから。準備を手伝わないといけない。そのために早めに来たのだ。まだ感傷に浸るには早い。
 お父さんの遺影はわたしの覚えているお父さんよりすまし顔だった。仏壇に手を合わせるのも、お墓参りも、法事も初めてだった。自分の親だというのに、親不幸な娘だな。そんな思いが浮かんでは消えていく。バタバタと、あっという間に一日が過ぎていく。
 夕方、おばあちゃんに少しだけ居させてもらえるように頼んでみた。でも、おばあちゃんには首を横に振られてしまった。あなたの居場所はここじゃないところにあるだろう。泊まるのは今日だけにしときなさい。それでまた、気が向いた時にお父さんのお墓参りにでも来ればいい。おばあちゃんは笑顔のままそう言って、夕食の支度に戻っていく。家主にそう言われてはそれに従うしかない。わたしは明日、帰ることになった。

 夜、おばあちゃんも寝てしまってからわたしは外に出た。空は星を撒きすぎたみたいだ。きらきらしすぎてどの星が有名な星かも分からない。お父さんはきっと、ここの空にいるのだろう。そんなことを思った。昔の誰かの言葉。そんなことがありえないことは、大人になる途中で知らなきゃいけなかった。サンタさんがいないことと同じように。それでも、わたしは今でも空を見上げる。嬉しいときも、悲しいときも。お父さんに話を聞いてもらえるような気がするから。
 わたしは空に話かける。お父さん、今まで会いに来られなくてごめんなさい。大人になったから、もう子どもじゃなくなったからやっと来ることができたよ。今日は来られてよかった。お母さんが一緒じゃないのは残念だけど。ここの村の人は相変わらず優しいね。子どもの頃と何も変わってない。よく笑って、よく騒ぐおじいちゃんやおばあちゃん。本当にみんな元気でよかった。大学は楽しいところだったよ。面倒な授業もあるけど、友だちはたくさん出来たし。それから、お父さん譲りでお酒も結構、飲める体質みたい。……一度でいいからお父さんと。お酒飲んでみたかった。色んなこと話ながら。酒癖はよくなかったらしいお父さんだけど、お酒を飲んでいるときの機嫌のよさは今でも、記憶の中にある。つぎつぎと言葉が出てくる。話したいことがたくさんある。

 ねえ、どうして死んじゃったの。

 涙が溢れて止まらない。こんなに泣くのはどれくらいぶりだろう。夜空に広がる星は静かに瞬いている。わたしの声は届いているのだろうか。聞こえているのなら、見えているのなら。そんな考えを未だにすてられないわたしは、やはりまだ子どもなのだろうか。

 翌朝、わたしはおばあちゃんに来年もきっと来ると約束して山を下りた。大きな川に沿って車を走らせる。こんなに早く帰ったら、お母さんが驚くかもしれない。そんなことを考えているうちに見慣れた風景に変わっていく。ああ、帰ってきた。わたしは、自分の生活に、自分の居場所に帰ってきたんだ。そんな感覚がわたしを包む。

◇◇◇

 あっという間に夏が過ぎ、さすがに半そでを着ている人を見なくなった。わたしはまた悠々自適な一人暮らしの生活に戻った。毎日、何かに追われるような忙しさが心地いい。毎日のように友達とくだらないことについて、ものすごく真剣に話している時間がある。授業中、暇でしょうがないときに好きな小説を読んでいる。バイトにいそしんでいると時間を忘れる。すべては自分の生活で、そして何より、どんなに忙しくてもわたしは自由に使うことのできる時間と空間を持っている。寂しがり屋のくせに、一人の時間がないと生きていけない、我ながら面倒な性格だと思う。最近、いろんなことを考える。充実していると、心からそう思うことができるようになった。わたしの中で何かが変わった。決して大きなことではない。いや、大きなことなのかもしれない。夏がわたしを変えてくれたのだと思う。今年の夏は、わたしにとってかけがえのない時間だった。きっと生涯、忘れることがないなんて、そんな大げさなものではないけれど、心の中を整理できた。それはわたしにとって大きなできごとだったのだろう。これからの時間のためには。もう、過去ばかりを見て生きることはない。過去にとらわれることからは解放されないけれど、前を見る余裕を、あの村でもらった気がする。

◇◇◇

 ふと考える。人が死ぬことって、どういうことなのだろう。この世から存在が消えてしまうわけじゃない。お父さんがわたしの中でずっと存在するように、色々な形で存在感がある。形はなくなってしまっても、目に見えないものは残る。死後の世界なんてものはあるのだろうか。生まれ変わるまで、少し休憩する時間のような、空白の時間が用意されているのだろうか。そんな世界があるのなら、少し覗いてみたい。どんな世界であったとしても、会いたい人に会えるなら死ぬのも悪くはないかもしれない。例え、残されたものは悲しみを感じていたとしても。今ならそう思うこともできる。
 わたしはどんな風に消えていくのだろうと考えてみる。わたしも誰かの記憶に何かを残していくのだろうか。ならば、わたしがいなくなったとき影響がなければいい。大きな痕跡を残さずに、すっと、消えていければいい。わたしのことを想ってくれる人がもし、いるのなら。いつもの生活をいつものように続けていてほしい。特別なことなど何もいらない。自分の生活を一番大切に、生きていてほしいと、そう思う。わたしのようにいつまでも思い続けることのないように、人はいつか居なくなるもの、別れは避けられないものだと分かっているはずなのだから。

 こんなことを考えれば、わたしもそろそろ思い続けることを止めるときなのだろう。忘れてしまうわけじゃない。心の底に、日常とは少し離れたところにそっとしまっておこう。
 今こそ、本当にさよならを。心から言うことができる。
 きらきらと暖かな日が降りそそぐ。何もかもが金色に輝いて美しい。
 雲のすき間から、天使のはしごがおりている。いつかわたしがあの階段をのぼる日まで、さよなら、大好きだった人。いつかまた、どこかでお会いする日までお元気で……。

目次へ
 

『Lapis-lazuri』 62110

〜大阪教育大学吹奏楽部 第40回定期演奏会
Entertainment Stageより〜
 【序章】
 
 「お呼びでしょうか──神様。」
 純白の扉を押し開けば、その均整のとれた室内に据えられた、一つの革椅子。キィと僅かな軋みを見せて此方へ振り向くその先には、万人へ向ける穏やかな笑みが映ろう。そう。全ての頂点に立つ存在――神。
 「ああ…よく来たね、アンジェラ。こっちへ。」
 「失礼します。」
 …なに?神なんか居るもんか?全く、なんという罰当たりな。…ああ悪かった悪かった、そう怒らないでくれたまえよ。そうだね、信じない人も居るだろうね。だが今、この目の前に、こうして椅子に腰を埋める男。肘掛けにその手を添えるこの男の事実を──そう、今だけは踏まえて頂こう。そうでなければ始まらないのだ、この話は。さあ心積もりは宜しいだろうか。
 「神様、今日は…その、何用で?」
 「ああ…うん、君の──その、卒業試験の…事なんだがね?」
 「試験方法が…決まったのでしょうか!?」
 「ああ、しっかり頑張ってくれたまえ。君が生まれ変われるかどうかの、大切な試験なのだからね──。」
 ──え?その前に私は誰なんだって?まあまあ、そんなことはいいじゃないか。詮索好きは嫌われるよ。ほら、お話のはじまりはじまり、だ。
 
 
 【12月22日】
 
 「いらっしゃーい!どう?ねぇちょっと見てってよ!美味しそうでしょっ?」
 赤・青・黄色。街はパラダイス。人も浮足立つ冬、そう間もなく聖なる夜がやってくるのだ。色とりどりの電飾が街を飾り、人々は楽しさに包まれた、そんな夜。サンタに化けた店員や、道端のツリーではしゃぐ子ども達。煌びやかに飾りたてパーティに向かう女性もいれば、彼女の荷物で前も見えない彼氏さんも居たもんだ。そう、間もなくクリスマス。皆が幸せなクリスマス。
 「ほら、ケーキはいかが?クリスマスだよ?ケーキ食べなきゃ始まらないじゃない!」
 ケーキ屋の店主にだって、同じくクリスマスは訪れる。道行く人々の中には、家族の為にホールケーキを大切そうに持ち帰る男の姿さえそう珍しくない。ケーキ業界にとってはこの時期は一種…戦争のようなものとも言えるのだろうが。そんなことも知りはしない人々は、ただ、楽しげに。家路を急ぐ。
 「あ、ねぇ!どう?ケーキ!お嬢さんたち、美人だからオマケしちゃうよっ?」
 「えー、どうするー?」
 「あ、でもー、ケーキなら向こうの店の方が美味しそうじゃない?」
 「あ、言えてるー!あっち見に行こー!」
 そしてまた一人、ふられたケーキ屋がここに一つ。その名、『ラピスラズリ』悪くない名前ではあるが――さて、売れないものかな。一人励むその男――渡辺隼一。23歳。彼女居ない歴は…ええと、何年だったっけ?素通りする人々を眺めるその瞳は、どうやら些かの苛立ちを含んでいるようだ。ああ、そんな顔じゃあ近寄る客もいやしない。
 「…ったく!今日何日か分かってるーっ?12月の23日!クリスマスのイブイブだぜ?ケーキやの掻き入れ時でしょうがよー…。」
 乱雑に捲る日捲りカレンダーは23の文字を確かに覗かせて。もう一枚も捲ればイベント真っ盛りとなることは明らか。それでも売れない。ケーキはほら、積み上がり鎮座したまま。――と…?
 「…−キ…」
 「あ?」
 皺がれた、声。次いで、テーブルに乗った一つの、手。
 「ケーキ…余ってるなら、、ほら、一つくらい…」
 視界にとらえたその姿。みすぼらしい姿にぼさぼさの髪。ああ、こんな裕福な町でもその影は濃いようだ。一人の老婆が目をつけたのは、どうやら人も少ないこのちっぽけな店。
 「ね?いいでしょう…ほら、お腹、ペコペコで死にそうなんです…どうか…」
 「あーあー!うるさいうるさい!お前みたいな奴に食わせるようなケーキ、ウチには置いてねぇんだよ!ほら帰った帰った!」
 「そんな、一口で良いんです…この哀れな婆にお慈悲を…」
 「邪魔だって言ってんのが分かんねぇのかよ。うわ、商売の邪魔だ邪魔!シッシッ、どっかいけよ!」
 「あぁ!」
 足蹴りにされた老婆は支える腕も立たず地面へと。砂のついたテーブルクロスを煩わしげに払えば、今一度その老婆をも追い払いゆくか。店から離れてゆくその薄汚れた後ろ姿を一瞥すれば、男はおもむろに天を仰いでまた、たわいもない愚痴に興じるらしい。
 「あーあ、まともな客は来ないもんかねぇ。クリスマス時くらい、売れたってバチ当たんねぇでしょうがよー。全く…何で俺、ケーキ屋なんか継いじまったのかなぁ…。」
 親はもう居ない。皆交通事故で世を去ってしまったのだ。己の信念をも揺らがせて、いや、最早見失っているのかもしれないが。男は自棄にカレンダーをべりべりと捲った。数字は25。クリスマス真っ盛りである。そんなことをして解決するわけもないのだが。
 「あーもう!神様でも何でもいいや!俺を幸せにして下さいよー!ってなぁ。」
 赤・青・黄色。街はパラダイス。そこに混ざる、一点の黒。先ほどの老婆は一つの角を曲がり、暗闇に身を混ぜた。おもむろに伸ばす腰。振り返る瞳は鋭い視線で何かを捉えた。先ほどの店。ケーキ屋、『ラピスラズリ』。
 「――なんて醜い…人間…心の捻じ曲がった下等生物…。」
 ゆらり、フードがその頭をすべり肩へと落ちた。覗くは艶やかな栗色の波。
 「悪い子には、そう…お仕置きが、必要ね――。」
 零れる声は、最早老いては居なかった。
 
 
 【side A】
 
 「もし?」
 店へ響く女の声に店主、渡辺はその拗ねた仏頂面を振り向かせた。そしてそこに佇む美人に目を見張ることになるだろう。きっちり結い上げられた栗色の髪は白い項を惜しげもなく晒し。その細みの体のラインをなぞるかのような服装には、つい独り者の視線は奪われてしまう。赤縁の眼鏡がなんともミステリアスで…ヒールの高さも申し分ない。ううん、良い女…あ、いや、これは一般論であって決して私の趣味などでは。
 「ねぇ、ちょっと?聞いてる?ケーキ、買いたいのだけれど。」
 強気なところもまたそそられるのである。あ、いや。
 「あ、は、はい!どのケーキが宜しいですかっ?」
 「んん、ショコラとー。」
 「はいショコラお一つ。」
 「ミルフィーユとー。」
 「はいミルフィーユお一つ。」
 「あと全部。」
 「はい全部お一つですねお買い上げ誠に有難う御座いま――…は?」
 箱にいそいそと商品を詰めていた渡辺も、流石に耳を疑えば顔をあげた。女は至って平素顔である。聞き間違えただろうか。
 「ええ……全部、とは?」
 「だから、全部よ。全部。この店の商品、全部お買い上げよ。」
 「ぜ、全部ですかっ?…お、お客様、気は確かで?それに、お金…幾らになるか――。」
 「あら、これで足りないのかしら。ならほら、これでは?これなら?」
 おもむろに鞄に手を突っ込んだかと思えば、女はあろうことか札束をショーケースに積みあげていって。どんどんとその高くなる頂上に、男は思わず箱を取りこぼした。
 「すげぇや…まるでアンタ魔法使いだ。」
 最早思考も追いつかない凡人は次々と積み上げられる札束に、現実を見失った。
 
 
 【side B】
 
 「あーっはっははははは!見た?あの態度!さっきとは大違い!あはははは!」
 高笑いが響くは先ほどの街の曲がり角。ひっそりと静まり返るその一角では恍惚に笑いあげる女は一風妙にも映るかもしれない。しかしどうやら笑いは止まらない。その足元にはみすぼらしい老婆の服が踏みつけられていた。
 「全く!所詮人間なんて金でどうにでもなる生き物なのよ!愚かね、良いザマだわ!あっははははは!」
 ジリ、ヒールに捻じ伏せられるその布――そう、先ほどまで間違いなく彼女が身に纏っていたそれ――最早見る影もないが。あの皺がれた声も、薄汚れた皮膚も今やどこにもない。――と、そんな彼女の元へ、一人の少女が。キョロキョロと街を見渡し、どうやら迷子でも捜しているかのように。そしてその視線がこの高飛車女の元へと留まるに、そう時間はかからなくて。
 「あー!アンジェラ!やっと見つけた!!もう、勝手に先々行かないで下さいよ!」
 駆け寄るその少女。年の頃は17といったところだろうか。黒髪が可愛らしい、未だどこか幼さを持つその容貌。頬を膨らませやってきては、アンジェラと呼ぶその女の元へと。うん、些か不満げである。
 「トロトロしてるアンタが悪いんでしょ?ルリ。」
 「って…ちょっと、もしかしてまた何かしたんですか!?」
 ふと、騒がしい方向へ目をやれば何やら作業員が集まる一角。どうやら店じまいの作業に忙しいらしい。このクリスマス目前という日に。
 「またって、人聞きが悪いわね。――ちょっとしたショーよ。馬鹿な男が身を滅ぼす、ちんけなショーの始まり始まり。偽の大金で三日間だけ、馬鹿な夢に浸ればいいんだわ。」
 売却処分、と、看板が今まさに畳まれるその店――『ラピスラズリ』の文字が屋根から降ろされていく様が全く哀れである。女の思惑に流され、さながらその身を堕とした馬鹿な男のようである。少女の顔から些か、血の気が引いた。
 「――っ、なんてこと…!もう、アンジェラ。何度言ったらわかるんですか。私たちは試験の為に特別にここへ来ているんですよ?天使でもない私たちは、人間達に手出しすることも、影響を与えることもしてはならない――出現罪に掛るって、人間学概論aで習ったでしょ?」
 そう。皆さま、覚えておいでだろうか。アンジェラ・メラ・ルシカ。彼女はある卒業試験の為に来ているのである。勿論人間ではない。まあ、もうお分かりだとも思うが。
 「ああハイハイ、それくらい分かってるわよ、ルリ。――それより、あなたこそ自分の立場分かってるのかしら?あなた、一体死んでから何年目だと思ってるの」
 「…14年ですけれど…」
 「そう、たったの14年。で?私は?そう、136年目。貴女はまだ習っていないでしょうけれど、人間学特論bでは死んでから100年以上の者には人間達への多少の関わりは許されてる、の!でもまぁ、その前に貴方の場合は先輩に対する接し方ってもんを、ちゃんと習ってきた方がよさそうだ、けど」
 「そんなこと言って、だったらもっとちゃんと先輩らしくやって下さい。私たち、遊びに来てるんじゃないんですよ?二日後の25日までに"良い人間"を一人、探しださないといけない、って、それが…」
 「それが今回の試験の内容だっていうんでしょ?分かってるわよ、"他人を大切に思える人間を一人見つけ出し、その人の望みを一つかなえてくること"。」
 「分かっているのならもっと…」
 「あーはいはい、もう!うるさいわね。全く、神様も何を考えていらっしゃるんだか…こんな子を試験に同行させろだなんて…やってらんない…」
 夜を閉ざせば日が明ける。時は容赦なく。
 
 
 【12月24日】
 
 「いえ〜い!!いいじゃんいいじゃ〜ん!ほらほら、ネーチャンたち、今度はこっちきて俺の相手しろってばー!」
 「もーぉ、お客さん飲みすぎですってぇー。」
 「こーんなに飲んで、お金、大丈夫なんですかぁ?」
 「まっかせなさいって!俺今チョー金持ちだから。」
 「ほんとー?じゃあもう一本、飲みたいなぁ〜」
 「おーおー、いっくらでも頼んじゃって!ドンペリ?ピンク?何でもいれちゃって〜!」
 場所も変われば、ここは街外れ。ショーパブ『ダイエッツ』。クリスマスイブには幾分混み合いを見せる繁華街であるものの、そんな中、店の女性陣を独り占めすらしてソファに反り返るこの男。趣味の悪い金のネックレスなどじゃらじゃらとつけて、センスの無さが丸分かりである。全く、情けない。
 「渡辺さん、なんでそんなにお金持ちなんですかあ〜?」
 「いやー、実はさ?やってた店の商品を高額で全ー部買い占めたいって奇特な奴がいてね?おかげで当分遊んで暮らせちゃう〜ってなモンよ」
 「きゃー!すご〜い!」
 そう。しがない男も一夜でこうも変わるのである。昨日までケーキを作っていたような男が、今や一国城主の風貌である。酒がほどほど回っているらしい。両側にキャバ嬢を侍らせては、気分良く腕など回して。
 「12月24日。イブをこーんなキレーなネーチャンたちと過ごせるなんて、最高っ!どんどんいれちゃって!」
 幸せを噛み締めるかのように一人浸る渡辺。周りの女たちも高い酒の捌けの良さにご機嫌のようだ。
 「いやー、マイ、あんたよかったじゃない。最後の仕事の日がこんな良い日で。」
 「最後?」
 「あ、この娘、実は今日でお店辞めるんですよ。」
 「え…まさか何かヘマでもおかしてクビに…?」
 「違いますよー、実は私〜、結婚することになったんですっ!」
 「結婚!?ほー、そりゃめでてぇや!おい、酒だ酒!マイちゃんの結婚を祝して〜カンパーイ!」
 
 
 【side B】
 
 そんな渡辺たちを横目に、一方、新たな来店客を知らせる扉のベルが。こんな店に珍しい女二人連れ。そう、あの二人である。
 「アンジェラ、どうですか?お眼鏡にかないそうな人間は…。」
 「ダーメよダメ。どいつもこいつも自分のことしか考えない馬鹿人間ばっかり!ホント、もっとまともな人間っていないのかしら。」
 「まぁまぁ、そう怒らずに。まだあと1日ありますから、あ、ほら、座って座って。あっちの方とかも行ってみません?楽しそうですし気も紛れますよ!」
 視線の先にはひときわ大勢のキャバ嬢を侍らせる一人の男が。その存在を捉えたとたん、表情を曇らせては眉すら寄せるだろう。泥酔したその姿。少女もいささか、苦笑いである。
 「あっち…?…げ。アイツあの時の馬鹿人間じゃない?全く、予想通りの行動ばかりで吐き気が出るわ。却下却下、あんなのと関わってる時間が勿体ないわ。」
 「うわ…もう、あんなに酔っちゃって…っ、ホント、いつまでたっても…」
 「ほら、ルリ!店出るわよ!」
 「え!?あ、いや、でも、折角入ったんですし、もうちょっと…」
 「ルリ!」
 「う、え、、…は、はぃい〜…」
 後ろ髪を引かれるような少女を無理やりに店を出ようとする女。少しざわつく店内に、流石の渡辺も気づいたようだ。見覚えのある美人、と見知らぬ少女。やはり金持ちは遊び方が違うなあ。そんな呑気な思考しか今は回らないらしい。さて、賑わう夜はそんなことお構いなし。女たちの世間話は終わらないようで。
 「でもホント、ドラマみたいですよねー。幼馴染と交わした昔の約束が実現して結婚!なんてー。」
 「そんな昔からの?」
 「はいー、このペンダントの石、何て宝石か知ってます?ふふ、これ、ラピスラズリっていうんです。あたしにプロポーズするんだーって、このペンダントくれて、大きくなったら絶対お嫁さんになってよね、って!」
 「ずーっとそんなペンダント大事にしてさぁ、絶対相手、忘れてるって言ってたのに。」
 賑やかな照明に照らされた宝石。どこかで聞いた名前だ。いや、忘れるほうがおかしいだろうが。
 「ひどいしー、ちゃんと約束しちゅーき大丈夫やがー!だからミキには彼氏が出来てもすぐフられるがよー」
 「はぁーっ、馬鹿にしちゅうきねー!」
 口喧嘩を始めるキャバ嬢二人。周りの様子からして、どうやらいつものことのようだ。落ち着いたままにグラスを渡してくる別のキャバ嬢が隣へ代わりに座った。
 「…ラピス、ラズリ、、、へぇ、俺の店と同じ名前か。」
 「あら、何かお店、していらっしゃるんですか?」
 「ん?あぁ、昨日潰しちまったけどな、しがないケーキ屋よ。」
 「わぁ、ケーキ。私ケーキ大好きなんです。尊敬しちゃうな。」
 「だーめだめ、ケーキ屋なんかやってても何も楽しいことなんてないぜ?大体、ラピスラズリ、だなんて名前がだっせぇんだよなぁ。」
 「ラピスラズリ、えぇと…日本名では『瑠璃石』、でしたっけ?まぁ、日本語よりは良かったんじゃないですか?」
 「ま、そう思って親父もラピスラズリにしたんだろうが。」
 「あら、受け継いだお店でしたの?それ、大事だったんじゃないですか?」
 「あーいいのいいの。…だいたい俺、何でケーキ屋なんかやってたかも分かんねぇし…。」
 「ふぅん…渡辺さん以外に、継ぐ人、いなかったんですか?御兄弟とか…親戚とか。」
 「兄弟とか?………いや…ええと…。」
 ふと、口ごもる。呼び起こす記憶に靄がかかる。何故―――?
 「ちょっと!渡辺さんはどっちの味方なんですか!?」
 「へ?」
 知らず下がっていた顔を上げれば、立ちはだかるは先ほど喧嘩していた二人。
 「約束は絶対ですよね!?信じてれば叶いますよね!」
 「約束…?」
 「そんな形もないもの、意味ないですよねぇ?」
 「…やく、そく…?」
 ふと、記憶が揺れる。響く声。幼い、その声。
 《お兄ちゃんのね、いちばんのお客さんになるの。約束ね――》
 覚えのない言葉。知らないはずの言葉。何故頭に浮かぶのか。約束、そんなものは…。
 「……そうだな――約束なんて曖昧なもんはねぇよ。特に口約束なんてのは一番いい加減だ。するだけ無・駄!」
 「ひどーい!渡辺さん!貴方にだってひとつくらい、特別な約束、あるでしょう?大切な誰かとの、約束っ!」
 「約束…大切、な…約束?…?」
 《いちばん好きな――の、ケーキで――》
 頭が痛む。知らない声。知らないはずの声。知らないはずの幼子。これは、誰――。
 「あー!もうやめだやめ!俺にはそんなもん無い!今が楽しけりゃいいじゃないの!…まったく、折角の酒がまずくなっちまったぜ。…大切な相手…そんなの、、…俺にいるはず……。」
 
 
 【――】
 
 ――…は本当にケーキが好きだなぁ
 うん、だあいすき!チョコのがいちばん好きよ
 そっかぁ。じゃあボクがケーキ屋さんなったら、チョコのケーキ作るよ
 ほんと?じゃあわたしがお兄ちゃんのいちばんのお客さんになるー
 よおし、なら…の為に世界一おいしいケーキ、作ってあげるね――
 
 
 【12月25日】
 
 0時を越え、店を出ればすっかり夜の帳が街を包んでいて。25日。クリスマスのスタート。光に包まれるのは幸せ浮かべるカップルや家族連ればかりか。家路を辿る男はどこかその背中虚しく。振り切れない嫌な感覚に頭を抱えれば、くしゃくしゃと髪を掻き毟って。
 「…大切な…約束?…くそ、、つまんねぇこと言いやがって…。…昔からの…ずっと昔の……ずっと…いつか…?…?」
 裏道に向かう足。人通りもない道であるが、この細道を過ぎればすぐ大通りに出る。その方が早道なのだ。暗く、足元は覚束ないが、今は取りあえずは早く帰りたい。思考は酔いと共に、消えない靄に包まれていて。耳に木霊する声。幼い、少女の。
 「…いつか、…絶対…絶対世界、一………っ?…っ、誰だ…っ!」
 ふと、顔を上げれば見知らぬ少女が。誰もいなかったはずでは、そんな記憶すら曖昧になれば、その少女に向ける視線は幾分怪訝なものになって。
 「キミは…あの飲み屋で見かけた…?」
 思い出した。先ほどの店で騒いでいたあの美人の傍ら、そこに立っていたのがこの娘ではなかったか。艶やかな黒髪が風に揺れては、まっすぐにこちらを捉える視線が幾分くすぐったい。
 「……来ちゃダメ。」
 「は?」
 「こっち行ったら危ないよ?」
 少女の思惑が分からない。何があるというのか。通りなれた道。その右も左もよく知っているつもりである。理解しがたい。
 「…何言ってんだよ。こっちが俺の帰り道なの。」
 無理やり横をすり抜けよう。しかしその腕も少女におもむろに掴み取られてしまう。
 「ね!私と遊ばない?いいお店知ってるしっ!」
 「はぁ?」
 「ほ、ほら、まだ遊び足りないでしょ?大好きなハンバーグのおいしいお店も紹介するわっ?」
 ハンバーグ、は確かに好物だ。いや、違う。もう今はあれこれ聞きたくないのだ。既に頭は混乱に期しているというのに。いつもなら可愛い女の子のお誘い。そう無下にする筈もないのだが――だが状況が悪かった。
 「うるさいなっ、お前誰だよっ、もうほっといてくれ!」
 「だめぇっ!!」
 強く振り払う腕。そのまま大通りへ抜けてしまおう。踏み出した一歩。しかし瞬間、視界が真っ白になる。何かの、強い光。少女の叫びが耳に聞こえたような気がした。
 
 
 【side [ ] 】
 
 「どこ見てんだっ!!轢かれてぇか!」
 耳を劈くようなクラクションとともに、激しいエンジン音は目の前をすごい勢いで走りぬけて行った。トラックの運転手。こんな時期に珍しいこともあるものだ。渡辺はというと、上にかぶさる柔らかな感触にようやく瞳を上げた。膝と頭に感じる僅かな鈍痛。どうやら地面とハグをしている様相。これはどうしたことか。
 「……っ、あ…大、丈夫…?頭、打った?」
 「…っん、、痛…いや、、大したことは……」
 上から掛かる声に、ようやく今の体勢を理解する。どうやらあの瞬間、彼女に強く抱え倒されたらしい。そうでなければ運転手の言葉通り、今やこの世にも居ないことだろう。そう、あのまま普通に歩いていたならば。
 「…もう…この体は大事な体でしょ?世界一、美味しいケーキ、作らないといけないんじゃなかった?」
 「……え?」
 少女が不意に、その言葉に焦りを見せる。まるで、言ってはいけなかった事かのように。だが、既に遅い。男の頭の中で、その言葉が脈うった。
 「……!あ、、いや、、っ、な、なんでもない、…じゃぁ…私はこれで!」
 「待って!」
 「さようなら!」
 「待って!今なんて…っ!?」
 まだ靄が晴れない。あの言葉。どこかで聞いた言葉。聞いたはずはないのに。覚えているはずがないのに。
 「何って?な、何もっ?」
 「ケーキって、世界一、世界一美味しいケーキって…っ!!」
 「何も言ってないわ!聞き間違い!離してっ!!」
 「言った!」
 「言ってない!!」
 「ウソだ!」
 「言ってないわ!!」
 「言ったんだ!!!」
 「…っ?」
 声を荒げてしまった。違うのだ。訴えている。彼女がではない。自分が。記憶の中の自分が、そう――昔。
 「言ったんだ…世界一…世界一、美味しいケーキを作るって…。…昔……」
 「昔…」
 「4つ下の、…まだたった5歳だった妹に…」
 呟く言葉に少女の目が見開かれる。まるで何かに脅えているかのように。
 「…覚えてるわけないわ…もう14年も前のことよ…」
 「ケーキが大好きだって、、毎日親父の厨房覗いてはしゃいで…」
 「ケーキはケーキでも、私が好きなのは…」
 「チョコのケーキが何より好きで。つまみ食いしては怒られてて…」
 「さ、3歳だったんだから仕方ないでしょ…っ!子どものころの話よ…」
 言ってから口を覆う。しかしもう止まらないようで。幼い二人の兄と妹が、語らう、昔の。
 「…ケーキ食べた時が何より嬉しそうで…その笑顔が幸せそうで…」
 「……ケーキが出来上がっていくのが…魔法みたいで見とれてて…」
 「…だから俺も、大きくなったらケーキ作るって、もっと笑顔が見たいって…」
 「…私が最初のお客さんになるって…チョコの…一番好きなチョコのケーキで…」
 「……14年も経つと、結構いい女になるもんだな、…瑠璃。」
 「…お兄ちゃん…」
 気付けないのも無理はない。渡辺の記憶の中で、瑠璃はあの幼いままで閉じ込められてしまった。そう望んで。記憶を押し込めるかのように、その姿さえ、約束さえ。
 「――あれからさ、頑張ったんだぜ?親父に怒られつつ叩かれつつ。こんな仕事辞めてやるー!って何度思ったか」
 「……」
 「そりゃそうだよな…お前がいなけりゃ何のために頑張るのか…バカみてぇ…」
 自嘲気味の声が漏れる。視線が足元を辿れば、急合わせの高級革靴の照りが目に入る。最早虚しいばかりのその存在。
 「……『口約束なんて、一番いい加減…するだけ無駄』…。ごめん、ね、約束守れなくて…」
 「違…そんなの、今からだって幾らでも食わせてやる!ほら、一緒にいこう?兄ちゃん、チョコ以外だってたくさんの作れるようになったんだぜ?レアチーズに、タルトに、ティラミス…」
 「……っ」
 努めて明るく振る舞うのは、彼女の気分を奮わせる為だけではないだろう。先ほどとは一転変わり、今度は妹の手を掴めばそのまま引きゆこうとして。しかし、その手に受けるは拒否の抵抗。
 「……どうした?瑠璃…ほら、行こう?…あぁ、そっか、店、潰しちゃったんだっけ。ははっ、心配すんなよ、ケーキくらい知り合いの厨房でも借りてどこでも作れんだから、ほら、兄ちゃんのチョコケーキうまいぞー?ケーキばっか作ってたからエクレアとか相変わらず苦手なんだけど、でもほら、瑠璃が毎日味見してくれんなら兄ちゃんまた頑張っちゃおうかなーなんて…」
 「お兄ちゃん…っ!」
 声が遮られて。振り向けば顔を伏せた妹の姿。嫌な、予感が絶えない。信じたくはないのに。
 「……瑠璃?」
 「ダメなの…私、もう行かなきゃ…」
 「行く…?」
 「私、、私ね、やっちゃいけないことしちゃった。人の決められた生を曲げることは神のみにしか許されないこと。それを…禁忌を犯した者は二度と生まれ変わることは…」
 「瑠、璃…?何言って…」
 「――っいけないことしたら、罰を受けるのは仕方ないことでしょ?ほら、お兄ちゃんだってよく悪戯してお母さんに怒られてたじゃない」
 「……」
 声色が落ちてゆく。周りの音も耳には聞こえなくて。まるで二人だけ取り残されたかのようで。
 「もう、お別れ。私のことは忘れて?またいつか生まれ変わって、お兄ちゃんに会いたかったんだけど、、、ダメみたい。」
 「瑠璃…そんな…」
 心なしか、彼女の色が薄まっていく。指先が透けて、足元が闇に混ざる。
 「忘れて。今までみたいに。全て。…お兄ちゃんはお兄ちゃんの人生を生きて?…ケーキ屋さん、嫌だったらやめたらいいの。だから…忘れて?」
 「瑠璃っ…待って、瑠璃!」
 膝が消える。スカートが侵されて、長く美しい髪が闇に食われてゆく。
 「ごめんね。」
 「瑠璃!?瑠璃、駄目だ!行くな!」
 「…無理よっ。」
 向こうの壁が透けて見える。詰め寄っても縮まらない距離。段々と消えてゆく、掠れた声。
 「いやだ!行くな!行かないでよ瑠「お兄ちゃん!!」
 どこか泣きそうだった。相変わらず気丈な性格は3歳から変わらない。最後に上げた顔はどこか微笑んでいた。
 「……ばいばい――。」
 「――瑠璃ぃ――っ!!」
 駆け寄ろうとも指先に触れるのは無機質に冷たいコンクリートの壁のみ。最早暗闇でしかないその場所には、微かなぬくもりすら残ってはいなくて。爪を立てようとも最早その手には何も掴むことはなく。
 「…っ忘れられる訳ないっ、お前が死んだ、14年前からずっと…。お前がいない現実を信じたくなくて、ずっと自分を誤魔化して、約束のことだって忘れようとして…っ、、、。…一番美味しい、ケーキ…ちゃんと…ちゃんと覚えてるっ!すぐ作ってやる!今すぐ!瑠璃、なぁ帰って来いよ!瑠璃…っ!!!」
 男の声はただ虚しく闇夜に消えてゆくばかりである。無慈悲にもそれを聞く相手はもう居ない。25日の陽は無情にも、未だ地上に登ることはないらしい。そして、ふと細道から現れる、一人の女。見覚えのある、赤眼鏡の美人。
 「……バカな娘、、、こんな人間の為に…。」
 その声も今やぼんやりとしか男の耳には届いていないだろう。向ける視線も未だ定まらないままであるものの、その姿が月に照らされたなら様々な記憶が繋がって。
 「……アンタ、、アンタあの時の!…ハ…おかしいと思ってたんだ…俺のケーキが、あんな高額で買い占められるわけない…、なぁ、アンタなら、瑠璃を生き返らせることできるんじゃないのか?ほら、あの不思議な力でさぁ!なぁ頼むよ!なんでもいいからさぁ!なぁ!」
 「む、無理よっ、私だってただの見習いで…神の領域になんか私…っ」
 「瑠璃…瑠璃……」
 力の入らない足で縋りつくかのように女に掴みかかれば、しかしその指先も震えてはすぐ地に落ちていくだろう。ただ呼ぶのは二度も失ってしまった最愛の妹の名。いつも自分の、自分の身勝手な行動のせいで。地についた両手も身体を支えることもない。地面に泣き崩れては最早光は失った。残されるは女――アンジェラ。彼女とて、その男の姿に困惑を隠すことは出来ない。
 「…どうしてよ、、あんな、あんなヒドイ人間のくせに…」
 「彼は酷いかね」
 ふと、すぐ左からの声。誰も居ない路地で、声?
 「!?神様!?」
 両手を後ろ手に組み、コツリ、コツリと道をゆくその姿は見間違うはずもない。我が全ての親。世界の頂点に立つ存在。その神が、今、ここに。
 
 「ふぅむ…試験の内容はなんだったかな。アンジェラ」
 「…試験、ですか?」
 「そう、今回の卒業試験だよ。」
 「…人を想える人間を見つけ、その願いを叶えること、です」
 「ふ…む――では…人を想うとはどういうことなんだろう。」
 意図の読めないその言葉は、悠々と紡がれる。神は男のそばに佇み、ふと屈んだ。人間の時間は止まっている。渡辺は泣き崩れたまま動くことはない。
 「悩む者には…理解を与え、困窮には…慈悲の心を。…痩せた心に愛を注ぐことをもって、人を――」
 「人を、想うんだね?」
 「…えぇ。」
 神の瞳がアンジェラを見上げる。その穏やかな瞳に、まるで何かを見透かされているかのようで。
 「では――アンジェロ。君はその心に従い、困窮に喘ぐこの男に富を与え、"救済"したわけだ。…そうだね?」
 「…っ、え、えぇっ!そうですとも!神の元に従う者として…当然のことをしたまでですわ…っ!当然の…っ、神の…っ。」
 「そうだね、アンジェラ。ではこれが、君の"幸せ"の姿なわけだ。」
 「――っこれ、は…!」
 言葉は続くことはない。地に伏せ、一人の死を想い泣くその男の姿を、誰が幸せの姿と呼ぼうか。
 「――勘違いしてはいけないよ?アンジェラ。君は神でもなければ天使でもない。間違いは必ずあるのだから。」
 静かに男の頭を撫でるその手は、ゆっくりと離されてポケットへ収まるだろう。天を仰ぐ神の姿は、闇の中でも見失うことはなく。
 「……彼は――今何を想っているのだろうね…?」
 「――っ……?」
 「君があれを――そう、幸福の姿だと言うのなら、そうするがいい。…最終決定権は君にある。心に忠実に。好きにしなさい、アンジェラ・メラ・ルシカ。」
 街並みに一線の、朝の光が零れた。
 
 
 【12月 日】
 
 赤・青・黄色。街はパラダイス。人も浮足立つ冬、そう間もなく聖なる夜がやってくるのだ。色とりどりの電飾が街を飾り、人々は楽しさに包まれた、そんな夜。サンタに化けた店員や、道端のツリーではしゃぐ子ども達。煌びやかに飾りたてパーティに向かう女性もいれば、彼女の荷物で前も見えない彼氏さんも居たもんだ。そう、間もなくクリスマス。皆が幸せなクリスマス。
 「……んっ…、ここ、は…?」
 道端で、おもむろに起き上がる一人の男。服は薄汚れ、髪はぼさぼさ。
 「やだー、酔っ払いかしら、寝そべっちゃってー。」
 着飾った人々が行き交う。見覚えのある街並み。いつも見ていた街並み。そう、いつも見ていた、店の窓から…。
 「…ラピス、ラズリ…?俺の店…?」
 見上げた先に一番に飛び込むその文字。忘れるはずもない、毎日見上げたていた看板。理解できないままに店へ駆け入れば、変わりないその様相。チョコばかりに偏るその品揃え。奥の厨房、傍らの日捲りカレンダー。そして、23の文字。
 「…っ、23、日?…そんな、どういう…」
 「――ケーキ、下さいな。」
 「え…?」
 カレンダーを手に、未だ困惑に頭を悩ませる男の元へ、一つの声。フードを深く被り、ぼんぼりのついたリボンを揺らした少女。キョトンと固まったままの店主に向かい、痺れを切らしたように少女がまた口を開く。
 「だからケーキ。ひとつ。」
 「え……、――と、あ、はい!い、いらっしゃいませ!どのケーキが、よろしいですか?」
 反射神経とは恐ろしいものである。自然と動く体はいやでも長年続けていた身についたもの。あせあせと箱を取り出せば、ショーケースを開きオーダーを待とう。
 「――チョコの。チョコたっぷりのケーキ。おいくら?」
 「はい、390円になりま……あ…いえ、今日はプレゼント致します。なんたって…クリスマスイブのイブですから。当店からのクリスマスプレゼント、はい、どうぞ?」
 「え、ダメよっ。ちゃんとお金で買うんだから。結構です。じゃないとちゃんと"お客さん"にならないでしょう?」
 「…え?」
 ――と、不意に店の外から高飛車な声。
 「ちょっと、早くして頂戴よ。さっさと上に報告に行かなきゃいけないって言ってるでしょ?」
 「あん、待って下さいアンジェラっ、すぐ行きますってば!」
 箱を受け取ればくるりと背を向ける少女。揺れる、黒髪。
 「…君、もしかして…」
 「ケーキありがと。――ホント、ちゃんとエクレアも練習しないと、かな。…じゃあね、お兄ちゃん…」
 「……!!」
 カラン、と、可愛い音を立てて閉まる店の扉の向こうには、遠く駆けていく少女の後ろ姿。雑踏に消えては、人々はお祭り模様。街はパラダイス。こじんまりしたケーキ屋は、イブのイブを同じく過ごしゆくだろう。
 「…明日は、クリスマス、か…しゃーないっ、シュー生地の練習でもする、かなぁ。なんたって、世界一のケーキ屋なんだから、な――。」
 カレンダーを小突いては、小さく笑みを零して。意気込んで肩を回しながら厨房へと向かう一人の男。ああ、全く。本当に困った子ども達。親に似たかな。いや、私はもう少しエクレアは上手だったはずだぞ。――さあ、一度神様の元へ戻るかな。瑠璃のこと、目を瞑ってくれたお礼を言わないと。兄にばかりいい顔されちゃたまらないね、たまには父親のことも思い出してもらわないと。
 さあ、お話はおしまいだ。私もそろそろ試験の頃かな。生まれ変わって、逆にあいつの息子役だなんて勿論、ゴメンだがね。
 
 
 
 ――――終幕
目次へ
 

diamante  62110

【序章】
ダルシャン 「あぁん、もう。最近は鍵の形もすぐ変わるから困っちゃう。…ねぇ!」
マティアス 「分かってる、ちょっと待てよ。今このマティアス君3号で華麗に…」
ルチャーノ 「余計なお喋りは良いからさっさと開けなさい。気付かれますよ?」
 「んー、やっぱり宝石って最高!ね、似合う?」
 「はいはい、そういうことは帰ってからにしろよ。」
 「ちぇ、ちょっとは褒めてくれたって良いじゃない。どうせ全部寄付しちゃうんだから。このネックレス・ディアマンテも…」
 「…おい、ルチャーノは?」
 「…ルチャーノ?あぁ、そういえばさっき向こうの部屋に回ってたわよ?」
 「向こう?そりゃおかしいぜ。今日の計画には無かっただろ。だって向こうは……」
 「ルチャーノ?」
 「あぁ、やっと来ましたか。もうこの男で終わりですから」
 「おい、ルチャーノ、これは」
 「お、お前ら何者だ」
アルト 「―――おとーさま?」
ル・ダ・マ 「!?」
 「く、来るんじゃない!アルテシア!!」
 「これはこれは、可愛らしいお嬢さんだこと」
 「に、逃げなさい!アルテシ
「パキューン」
【第一幕】
 「ったく、もう少し興味持ってくれても良いんじゃねぇのか?発明と聞けば胡散臭いと決め付けやがって」
 「やっぱコレだけで生計立てるって、厳しいのかねぇ、、いやいや、へこたれるな俺――っ痛」
 「おい、どこ見て歩いてん、だ…って、、おい!?大丈夫か!?おい!?」
 「う、う〜ん・・・」
 「ちっ、気ぃ失ってやがる。誰か、…いねぇかーくそ…、、ん・・・?こ…いつ、どこか、で…?」
 「お、…お水、、、」
 「まさか、いや、そんなはず…」
【第二幕】
 「目ぇ覚めたか」
 「…こ、ここは――?」
 「気が付いたんならさっさと帰ってくれ。全く、勝手に倒れるだなんて迷惑も良いところだ。発明の売り上げもからっきしだってのに…」
 「お、お願いしますっ!!俺を、俺をここに置いてください!!」
 「はぁ!?」
 「俺、働いてた工場がつぶれて、それで路頭に迷って、、、お願いします!!俺、もう行くところが無いんです!!」
 「冗談じゃない!なんだってお前なんかを…!」
 「料理でも洗濯でも、何でもします!工場で働いてたから、機械修理でも何でも!!」
 「…き、機械?――あ、いやしかし…」
 「お願いします!!そ、そこの道で俺のたれ死んでてもいいって言うんですか!?」
 「―――あぁもう!!わかったよ!俺が帰ってくるまでに家中完璧に片付けとけよ!?」
 「は、はい!!」
 「まったく…俺も丸くなったもんだ、、だが、…坊主、名前は」
 「はい!アルト、です」
 「アルト…やっぱり気のせいか――?」
 「いってらっしゃいませっ!!…ハッ。疑いもしないで、馬鹿な奴。マティアス。残虐非道な強盗。決して許すものか…っ」
【第三幕】
 「あ、マティアスさん。今から買い物行くんですけど、今晩は何がいいですか?」
 「んー…肉じゃが」
 「肉じゃが!?」
 「あぁ、いや、そうだな、ピザが食べたい気分だ」
 「まーたピザ。そんなに偏った食事じゃ駄目ですよぉ、マティアスさん」
 「うるさい、好きなもんは好きなんだよ。お前作るの上手いし。おい、それより、行くなら早く行ってこいっ、もうすぐに暗くなるぞ?暗くなったら道も危ないし、下手すりゃおかしなヤツらがそこら彷徨いて…っ」
 「そ、そんな、大げさだよ、夜道ぐらい…」
 「何が大げさだ!とりあえず、早く行ってきなさいっ、遅くなりそうなら買い物なんていいから、分かったか?」
 「…ははっ、もう、心―配症なんだからっ。行ってきまーす」
 「――心配、、なんか、するわけ無いじゃないか。そうさ、そんなわけないよ。ブツブツ…」
カラス 「さーさー!!みんな寄ってって持ってってー?来月の日曜は祭りだ祭り〜、遊びに来るなり、店を出すなり、自由なフェスティバルさー!!ほら、お坊ちゃんも、一枚どうぞ?彼女でも誘って行っちゃいなよ」
 「か、彼女って!そんなの居ないよ…っ!!」
 「じゃあお店でも出しちゃえば?フリーマーケットも沢山出るよ?」
 「店ったって、売るようなもの…あ、発明品?」
 「発明?」
 「そうだよ…、マティアスさんのあの発明品でお店出せば良いんじゃないか、マティアスさんの発明ってすっごいんだよ? 時間を設定して音がなる時計とか、自動で朝のスクランブルエッグが出来ちゃう機械とか!」
 「ほー、そりゃ凄い。よっぽど坊ちゃん、そのマティアスさんとやらがお気に入りのようだ」
 「え!?…い、いや、そんなわけ無いだろっそんなっ…」
 「あぁ!そこのお嬢さんっ、お祭りだよお祭りっ。お友達誘っていらっしゃ〜い―――」
 「ちょ、ちょっと!俺は別にっ!!……っ」
【第四幕】
 「お祭りお祭りフェッスティバ〜ル。坊ちゃん嬢ちゃん寄っといで〜…っと。只今戻りました〜、ルチャーノさん!是全部配り終えましたよー!」
 「カラス、アジトに戻った時ぐらい静かに出来ないんですか?」
 「あぁ、済みませんルチャーノさん、でもこれで祭り当日は町の家々は空っぽ間違いなしですよ?」
 「当然です。チャンスは自分で作るもの。仕事のしやすい状況を待っているだけなんてバカのすることです。」
 「俺、もうあのスリル感が堪んなくて!次はどこに盗みに入るんですっ!?」
 「カラス、言ったでしょう?二度も言わせないでください。」
 「あ、…済みません。でもこのでっち上げの祭り自体もかなり盛り上がりそうですよ? さっきだって店だそうかなー、なんて言ってくれる子もいて。発明の店ですよ?ちょっと面白そうじゃありません?」
 「発明?」
 「はいっ。なんてったっけな、マザラス?マティロス?」
 
 「…マティアス」
 「…何をしているんです?また新しい発明ですか?」
 「ん?おぉ……、よし、、そうだな、アルト、お前ちょっとどっか隠れてみろ。」
 「隠れる?どこでもいいんですか?」
 「おー、どこでもどんとこいだ。」
 「??」
 
 「マティアス、そう、マティアスですか…」
 「あぁ、そうですそうです。え?ルチャーノさんご存じで?」
 「あの裏切り者。私の唯一の汚点…まだこの町にいたとは、、、その男はどんな奴で?」
 「あ、いえ。会ったのは坊主でして。息子か…あ、いやそれなら名前で呼ぶわけないか?えぇと…」
 
 「これが、こうだから…なるほど?――――ほら、みぃつけた。アルト」
 「えぇ!?どうして?まさか見てたんですか?」
 「ははっ、秘密だ、秘密。俺はかくれんぼの天才だからな。見つけられない奴はいないの」
 「嘘だぁ、ねぇ、教えてよ。それ、何か関係あるんでしょっ?」
 「秘密秘密、ほら、それより祭りの準備だ準備。運ぶもんはもう揃えてあるのか?」
 「あぁ、うん。もう向こうに。ねぇ、やっぱり駄目?ちょっと見せてくれるだけでも?」
 「ダメだダメ。ほら、ならさっさと運ぶぞ?」
 「けちー」
 
 「カラス。」
 「はい!?」
 「もう一度走ってきなさい。そして届けるのです。その子の元へと。」
 「何をです?」
 「昔の、借りを返させて貰うだけですよ。あの宝石…ディアマンテの、ね」
【第六幕】
 「いらっしゃいませー、びっくり発明のマティアス屋だよー。あ、ほら、ちょっと見て行ってよ!あ、ねぇってば!」
 「ちぇー、何だよ。ちょっとぐらい見てってくれてもいいのにさ。」
 「お前のその呼び込みにも問題があるんじゃないのか?…まぁいい、アルト、休憩にしよう。」
 「え?じゃあどこか見て回ってきても良い?」
 「あぁ、その前に馴染みの店に寄るからついてこいよ。」
 「馴染みの店?」
 
 「やーん!マッティアス〜。ご無沙汰じゃなーい??」
 「ダルシャン、相変わらず繁盛してるみたいだな。」
 「あったり前でしょ?このダルシャンママの店よ?がっぽりがっぽり〜…って、あら、何?このカワイコちゃん」
 「あぁ、訳あってしばらく一緒に暮らしてる坊主だ。ほら、名前」
 「あ…、アルトです。えーっと、、」
 「あぁ、この子が噂の、ね。可愛い〜、食べちゃいたい。」
 「噂?」
 「んふっ。情報屋のダルシャンが知らないことは無くてよ?ついでに言うと、マティアスとは…」
 「昔からの腐れ縁だ。…ダル、いつものと、こいつにはジュースを」
 「…あら。オーケィ。じゃ、まぁウチの可愛い子ちゃんでも見ながら待ってて。さぁ、イッツ、ショータイムよ!」
 
 「はい、おまたせ。あら、マティアスは?」
 「あ、ちょっとトイレ…らしいです。…。」
 「あら、何か私の顔についてるかしら?」
 「いえっ、その、情報屋ってどういう…」
 「こういう店をやってるとね?色々入ってくるのよ。町の事とか、事件の事とか、そうね…男の振りしてマティアスに近づいてる子ども、の事、とか。」
 「!!?」
 「気づいてないようだけれど、あなたたちの事、調べてる輩がいるわよ?ま、安心なさいよ。別にマティアスにしゃべったりしてないから。でも、一体どういうつもりかしら?」
 「……マティアスさ…あいつは、、私の両親を…っ!!」
 「号外号外―!!! ウィンド団が盗みの予告をしたってんだー!! 狙いはあのネックレス・ディアマンテ! さぁさぁ大変だよー!!」
 「っ!!ディアマンテ―――!!」
 「何だ?何事だおい」
 「あれは、あれはもとは俺の…俺のなのに!!」
 「アルト?」
 「お母さまの形見だったんだ。家がつぶれて、工場に働かせてくれって。でもただじゃ引き取ってくれなかった。だから、あとで後で取り返すつもりだったのに!それなのに…っ」
 「アルト…」
 「ディアマンテ…?これはあの時の、、自分のだって―――やっぱり、お前…。」
【第七幕】
 「ねぇ本当にやるつもりなの?もう現役退いて5年よ?」
 「わかってるさ。だが…あの宝石だけは、どうしてもあいつに返してやんなきゃいけないんだ」
 「アルト…アルテシア、だったかしら。まさかあの時の子だったなんて」
 「とりあえず、行ってくる。」
 
 「へへっ、まんまと盗みに向かいましたよ、計画通りですね」
 「さぁ、では私達も動きますよ?」
 
 「マティアスさん、、一体どこに行ってるんだか…―っ!?」
 「暴れないことですよ、お嬢さん。貴女の大好きな、マティアス君の為にも、ね。」
 
 「はぁはぁ…盗んだとたんに、何なんだよこの追っての数は…くそ、アルト、、、」
 「!?」
 「くそっ、やられた…っ」
 「フフ…いいざまですね、マティアス。この醜い裏切り者」
 「ルチャーノ…っ」
 「裏切り者〜♪」
 「あ、アルト!?」
 「そういうことです。さぁ、マティアス、それを渡しなさい。貴方が5年前に奪った、ネックレス・ディアマンテを」
 「…っ、だ、だがこれは―これはアルトの…」
 「カラス」
 「――やめろっ!!…渡す、渡すからその子は…」
 「んふっ、随分と面白みの無くなったこと。―――カラス。」
 「大丈夫だったか…?けがは?どこか傷めたりしたところはな――い……が、、っ!?」
 「あ…ある、と…?」
 「危うく、忘れてしまうところだった。私の本当の目的を」
 「…?」
 「とぼけるなよ、、父さまと、母さまを―――!!」
 「よく出来ました、そうですとも。あの男こそ貴女の憎い仇……」
 「ようやく、念願の思いが果たせたんだ……」
 「えぇえぇ。ご覧なさい、あの表情。裏切られ騙されなんと惨めな、、…貴女もね、アルテシア」
 「!?」
 「アッハハハハハハ!馬鹿とはさみは使いよう、とはよく言ったもの。こうも簡単に騙されてくれるとは、、」
 「…何、だと!?」
 「貴女、もう少し疑うということを覚えた方が良いですねぇ。吹き込まれたブラフにこうも流されるなんて」
 「…ブラ、フ?」
 「ルチャーノ、、お前――っ」
 「計画通り。素晴らしい茶番でしたよ、アルテシア・メラ・フィオーレ。最後まで父親はあなたの名を呼んでいましたっけね」
 「まさか…まさかお前がっ!?マティアスが仇だと、、そういったのはーー!?」
 「んふ。もう用済みですよ。あとは仲良くお縄にちょうだいするといいですね…」
 「そんな、、そんなはず」
 「ハハッ、牢の中で悔いるがいいネ。馬鹿マティアス」
 「ぐはっ。」
 「!?…まてぃあ…っ!!――――。」
 「ふっ、行きますよ。カラス」(ルチャーノ・カラスはける前/スポットOFF)
 「そんな…嘘だっ、ずっと、ずっとアンタだって…この五年間、ずっと…」
 「…。」
 「…っ、ねぇ!何とか言ったらどうなの!?ねぇ、ねぇってばぁ!」
 「…う…」
 「違う…違うっ!そんな…っ!!」
ア・マ 「!?」
包島 「ここですよ!通報があった場所は!」
刑事 「お前かっ!窃盗容疑で逮捕する!」
 「…!!マ、マティ、、」
 「ん?誰だ。お前も仲間か?」
 「…こんなガキ、知るか。っ警察さんよ、連れて行くならさっさとしてくんねぇか?」
 「偉そうに、立場を弁えなさい、この悪党が。いくわよ、包島」
 「はい」
 「………っ!!」
【第八幕】
 「………。」
 「あら?アルトちゃん?いらっしゃ〜い、よく来たわネ、、って……一人?もうっマティアスったら、こんな子どもに一人歩きさせるなんて危なっかしいったらないわ。後でうんと怒って……」
 「…っダルシャンさん!」
 「……どうしたの?……まさかマティアスに何か、、」
酔っぱらいA 「ねぇ聞いたぁ?あの盗賊のマティアスが捕まったんだってぇー!」
酔っぱらいB 「ははぁっ、彼も地に落ちたもんねぇ。最近はとーんと活躍を耳にしなかったってのに」
 「そのまま大人しく引退決めこんどきゃ良かったのに、ねぇ」
 「ホーント、欲ってコワイわぁ〜ハハハハ」
 「……アルト、、ちゃん」
 「もう、、何が本当なのか…っ貴女は知っているんでしょう?彼は、マティアスさんは…!!」
 「…ついにヤキが回ったかしらね、、マティアスとはね。昔一緒に働いていたの。盗賊よ。とは言っても義賊。機械いじりのマティアスに情報収集の私、そして頭脳派のルチャーノ。結構息の合ったチームだったんだから……」
 「マティアスさんと…この人達が仲間…?それじゃ、あの時、私の家に押し入った強盗って…っ!」
 
 「お、お前ら何者だ!」
 「おや、これは残念。ご存じ無いとは。申し遅れました。○○団、以後お見知りおきを。あぁ、でも。もう今日で最後ですが。」
 「ウィンド団?…ウィンド団は義賊のはず、殺しはしないはずでは…っ!」
 「少々、スリルが足りなくて。ほら、常に改革者は求められているんですよ。んふ、まあ喜んで下さい。貴方達が記念すべき、第一号ですから。」
 「ルチャーノ?」
 「あぁ、やっと来ましたか。もうこの男で終わりですから」
 「おい、ルチャーノ、これは」
 「お、お前ら…「パキィーン」
 「ルチャーノ!?」
 「…あぁ、済みません。驚かせてしまいましたか?」
 「な…アンタまさか…?銃なんて持って来てるハズ…」
 「ダリア、少し静かにしてくれません?まだ終わってないんですよ」
 「何言ってんだよ、お前どうかしてるぞ!?」
 「そうよ、…っ、こんなモノっ!!」
 「このっ、離しなさいダリア」
 「やれやれ…マティアス。貴方まで邪魔するおつもりですか?邪魔するなら貴方も一緒に…」
 「…お父様?誰か…いらっしゃるの?」
 「これはこれは、可愛らしいお人形さんだ」
 「逃げなさい!アルテシア!!」
 「お…とおさま?」
 「貴方、、貴方……だ、誰…っ!!!?」
 「ち、違っ!!」
 「良い子ですね、ほら。お嬢ちゃん、大人しくこっちへおいで?」
 「…っ!やめろルチャーノ!まだ…まだ子どもだぞっ!!」
 「……っ、、済まない…、何故こんなことに…っ。…これ…これは、君がもっておかなければ…、、」
【第九幕】
裁判官 「…よって盗賊、マティアス・アルバーノを首つりの荊に処す」
 「次の面会者」
 「ん?キミ、どっかで会わなかったかな?」
 「さ、さぁ?人違いじゃありませんこと?」
 「おっかしいなー」
 「……アル、ト、、どうして」
 「貴方が私の憎む相手じゃないと、違うとどうしてそう言ってくれなかったんですか」
 「あいつから聞いたか」
 「全部あの男がやったことなんでしょ?昔のことも、今回の罠も。マティアスさんが捕まるのは筋違いだ!」
 「アルト…」
 「俺、あいつ、ルチャーノを見つけ出してマティアスさんが出れるように警察に頼んでみる」
 「アル…」
 「攫われた時に連れていかれた、アジトみたいなトコ俺ちゃんと覚えてんだ!そこにいったらきっと…」
 「アルト!」
 「……な、何」
 「もう俺に関わるな。」
 「…え?」
 「俺は罪人だぞ?こんなヤツの為にそんな危ないことをするんじゃない。もう俺と離れて、一人で生きろ」
 「一…人で?何で…何でそんなこと言うの?俺はっ」
 「俺といれば、またいつこんなことになるか分かったモンじゃない。お前の為だアルト」
 「い、嫌だよ!なんで?なんでそんなコトいうの?」
 「お前には…お前にはもっとまともな暮らしをして貰いたいんだよ、アルト。俺が潰してしまった、あの先にあったような温かい未来を」
 「貴方と過ごした毎日だって、俺にとっては大事な…」
 「アルト。」
 「嫌だ!嫌だ嫌だよ!ようやく洗濯がマトモにできるようになったんだ!ベッドメイクだって覚えたし、この前買い込んだピザの材料だって棚に入れたままだ!マティアスさんが食べたいっていうから、わざわざ買いにいったのに!」
 「……」
 「…一人にしないでよ。もう、誰にも見向きもされずに眠る夜は嫌なんだ。捨てないで、俺を除け者にしないでっ」
 「アルト……。女の子が俺なんていうもんじゃない。ちゃんと大人のレディになって、素敵な人を見つけて。俺ばかりが人間じゃないさ。アルテシア」
 「マ…」
 「さぁ、面会の時間は終了だ。」
 「!?も、もう少しだけ!」
 「駄目だ。ほら帰ってくれ」
 「ま、まって!マティアスさん!マティアスさん!」
 「……。」
 「嫌だよ!二度も…二度も私を一人にしないでっ!!」
 「…っ」
 「さぁ、聞き分けのないお嬢ちゃんだ。てぇい」
 「きゃぁ」
 「見張りさんよぉ」
 「…何だ?」
 「かくれんぼに、100%勝つ方法って、知ってるかい?」
 「100%?そんなもの、有るわけないじゃないか。ほら、出た出た」
 「かくれんぼ?…かくれ、、、!!そうか!」
【第十幕】
 「確か、コレを…えーと、どうしてたっけなーくそっ!!」
 「!!…光った!……この方角は、、!!あっちだ!」
 「大人しくしろ!ルチャーノ!」
 「っくそっ、何故ばれたんですっ!!部下にも教えていない場所だったのに」
 「マティアスさんの発明、馬鹿に出来ないんだよ?」
 「…っ、まさかっ!!」
 「マティアスめっ、いつのまに…っ!」
 「観念なさい!もう貴方は囲まれているのよ!」
 「…っ、私としたことが、、っ!!」
 「ル…チャーノ、、全部、全部お前の、、」
 「刺しますか?ははっ、それも良いでしょう。さぁ、刺してごらんなさい。貴方の両親を殺した私のように、さぁ、早く!」
 「……っ!!」
 「出来ませんか?意気地なしですね。私が憎くないのですか。さぁ、さぁ!」
 「…私には出来ない…っ。薄汚れたアンタと一緒にしないで。私が手を汚すことを、きっとあの人は望まない…。そんな、、あの人の思いを裏切るようなこと…っ」
 「……。」
 「ずっと憎かった…絶対に殺してやるんだって思ってた、でもっーーー」
 「出来ない…。寂しかったんだ、、誰かに側に居て欲しかった。母様も、父様も…。」
 「知ってる?いやになるほど心配症なんだ、あの人。もう困っちゃう。私が居ないと洗濯物だって崩れそうだし、ご飯だってバランスなんか全然考えてないし。それにたまの贅沢だってお酒呑んだ日にはーー」
 「っ聞いてませんよ、そんなこと。…そんななれ合いの生活、ハッ、見苦しい。寂しい者同士が慰めあって、無様だこと…。」
 「…………アンタだって、、そういうアンタだって寂しかったんじゃないの?ルチャーノっ。」
 「ふざけるなっ、…何を馬鹿なことをっ」
 「今になって、五年もたったっていうのに、それでもマティアスさんにつっかかって…っ、意地を張っても何の解決にもならないことぐらい、アンタなら分かるだろうに!!なのに…!」
 「……。興ざめですね、、何の楽しみもない。」
 「…っ、ルチャーノっ」
 「……これも、必要ない。」
 「さぁ、何をのろのろとしているんです。さっさと連れていきなさい。こんなガキの顔見ているだけで尺に触る」
 「……ル、チャーノ?」
 「…ずっと、ずっと追い求めても。私は一人。マティアスも、ダルシャンも、遠のけてしまった。」
 「あの二人に会うならお伝えなさい。私は貴方達が大嫌いだと…この世で、一番。…誰よりも、、」
 「ルチャーノ…っ」
【第十一幕】
 「こーら、そんなウロウロしたって帰ってくる時間は変わらないわよ。二時釈放って言ってたでしょ?」
 「わ、わかってますよ!誰もウロウロだなんて…っ」
 「…素敵な宝石ね。」
 「これ、ですか?」
 「えぇ、とても綺麗」
 「これ、、何て名前か知ってます?」
 「有名だもの。情報屋を舐めてもらっちゃ困るわ」
 「ふふ、そうでしたね。…ネックレス・ディアマンテ。なら、その意味もご存じですか?」
 「意味?いいえ、それは初耳。参ったわね、かたなしだわ」
 「やった。なら特別です。ディアマンテ、宝石言葉は…永遠の…」
 「アルトー!!!」
 「……っっ!!!」
 「一時間も早いじゃないの。キザったらないわ。…あらあら、あんなにしがみついて。…永遠の絆。素敵な宝石だわね。」
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『手紙』  62104


 あ――。
 教室の一番前の窓際の席からこちらを見た新園の目が、トモを捉えていた。窓から煌々とした光をうけ、ほのかに赤い髪の奥の真っ黒な瞳から、トモは目を離せなかった。
 トモは新園のことをもう気にしないようにしていた。最後の席替えは終わり、小学校生活もあと一ヶ月。残り僅かな時間を楽しく過ごしたいと思っていた。トモは新園を忘れた。
 卒業間近の教室はどこか浮つき、誰も授業に集中できなくなっている。寂しさが、浅黒く染み付いているようだった。トモも、先生の声をぼんやりと聞いていた。
 こちらを見ている――ふと、そんな気がして、見てしまった。新園の目は、トモを射抜いていた。視線が重ねリ、なお外そうとしなかった。新園も、自分を避けていたはずなのに。不思議なことに、トモはその目を新鮮だと感じた。違う顔に見えた。たったの数ヶ月で。
 数ヶ月。そうだったかなと、トモは思う。新園はどんな目をしていたんだろう。鼻はどんな形だったろう。手は、指は――。
 まるで赤ん坊の頃の記憶のように、おぼろげだった。
 ちゃんと新園を見ていたのかなと、トモは思った。先生の声が遠い。手の平が熱く湿り、唇は乾いていく中、頭だけは冷たく巡っていた。

*

 トモと新園が初めて同じクラスになったのは、まだ小学4年のときだった。トモは、それまで新園の顔も名前も知らなかったし、同じクラスになってからもまた、そこまで気にかけていなかった。同姓の友達を作ることと、勉強や習い事に日々を費やしていた。
 6月半ばのことだった。梅雨のいやらしい雨が降りつづけ、風通しの悪い学校は湿りきって澱んでいる。トモは一人、放課後の音楽室で、珍しくピアノを弾いていた。週に一度のピアノ教室はあまり好きではなく、どちらかといえば、体を動かす方が得意だった。だが、幾日も外で遊べない鬱結を、ピアノの乾いた音は晴らしてくれる。音は、いつもより澄んで高く、鉛色の空間を鮮やかに彩っていく。普段思うように動かない指が、今日は流れる気がした。他には誰もいない広く湿った音楽室が、乾いていく。トモは目を閉じ、耳に触れる音と鍵盤の冷たさを感じていた。
 がらりと、不意に鈍い音が割り込んできた。びっくりして、トモは思わず手を止めた。音のした方へ目を向けると、小柄な体を戸から半分見せ、興味深そうにこちらを眺めていた。同じクラスの、新園だった。
 戸を後ろ手に閉めて、トモの方へ近づきながら、
「続けてよ」
 と、言った。明るく、よく通る声である。
 なんだろう。トモは戸惑ったが、なぜか促されるままに、再び鍵盤を叩き始めた。
 新園はそのまま歩き、ピアノ横の席に腰掛けた。じっと、こちらを観ていることがわかる。トモはちりちりとそちらが気になったが、ピアノに集中しようとした。指がべとついてぎこちない。先ほどまでは気づかなかったが、切り忘れていた爪が鍵盤に当たって違和を覚える。ひどい湿気にむっとして、額の汗がむず痒く、足で踏むペダルの軋みが耳につく。一度色を失った音は、ただ調子っぱずれに響くだけだっ た。
 黒鍵に指がかかり、トモは演奏を止めた。大きく息を吐いて、鍵盤蓋を閉じる。新園は二、三度瞬いた。そして短く茶色い髪を指でつまみながら、可笑しそうに笑う。
「あんまうまくないなぁ」
 新園は、白い歯を見せて、そう言った。
 嫌なやつ。トモは、まずそう思った。そして次に、ピアノを弾いてみせたことを悔やんだ。顔を曇らせたトモをよそに、新園は微笑んだまま椅子を引いて立ちあがり、ピアノの大屋根の縁を、指先で触れるようになぞった。
「望やアヤたちが体育館でバスケするんだって。一緒にやらない?」
「いい」
 トモは、鍵盤蓋をじっと見たまま、はっきりとそう言った。
「体育得意だったろ?一人でピアノ弾いてるより、ずっと楽しいよ」
 トモは、確かに運動が好きだったし、球技も好きだった。だけど、決して目立つほどではない。新園がなぜそれを知ってるのか、トモには分からなかった。
「ずっと雨だとイライラするだろ。ピアノ弾いてるのも、それが理由じゃないの?」
 トモは、できれば思いきり体を動かしたいと思っていた。新園の言うとおり、ピアノを弾きに来たのも、モヤモヤした気分のためだった。同じクラスの望やアヤとは仲よくなっていたから、みんなと遊びたいという気持ちはあった。でもまだ、なんとなく納得がいかない。黙ったままのトモを見た新園は、ピアノを撫でながら、椅子に座るトモへと近づく。視線を落としたトモの顔を覗き込むようにかがんだ。
「一緒に遊ぼう?」
 トモの背中を軽く叩いて、新園はトモを真っ直ぐ見つめ笑った。その時初めて、トモは鼻が触れる距離で新園の目を見た。白く光る細かな睫毛と、丸くて、人懐っこい瞳。整ったきれいな顔。
「……体育館って、使っていいの?」
 トモは、新園の目を見つめたまま、こう言った。新園は目を細め、片方の口角を上げた。
「ばれなきゃ、いいんじゃないかな」
 トモは瞬きを繰り返し、そして笑った。

 体育館へ入ると、すでに望やアヤたちは、バスケをしていた。みんなトモと同じクラスである。
「あ、新園」
 望が、新園とトモに気づいた。プレーを止めて、集まってくる。
「びっくりした。せんせーかと思った」
 アヤが息を弾ませ、そう言った。
「クマさんに知れたら、怒られそうだね」
 トモが言った。クマさんとは、トモたちのクラスの担任である。顔の厳めしさと太った体から、そう呼ばれている。
「新園、今日は来ないって言ってたじゃん」
「やっぱ、バスケしたくなったんだよ」
 望の質問に、新園はそう応える。変だな、とトモは思った。新園はバスケしないつもりだったのか。
「よし、じゃ、チーム組みなおそうぜ」
 新園の言葉に、みんなが勢いよく「おー」と言った。

 トモは、新園と同じチームになった。望が小声で「負ける」と言うのを聞き、トモは不思議に思ったが、すぐにそれを理解した。
 新園は全身バネのようだった。止まったと思えば、すごいスピードでディフェンスをかわしている。ドリブルに行くと見せかけ、するどいパスを出す。ディフェンスと間合いが少しあれば、シュートする。ボールが生き物のように手にくっつき、くるくるとよく動いた。敵方の望やアヤは翻弄され、すぐにバテた。
 トモもバスケは得意だったが、新園のプレーには舌を巻いた。トモは、何度もフリーにしてもらい、何度もパスを回してもらった。新園は、自分だけでなく、チームの二人をしっかり生かしてくれる。そして、プレーしている最中ずっと溌剌とし、笑顔だった。バスケをするのが、本当に楽しいのだろう。
 トモは内心、かっこいいなと思った。
 
 それから、トモと新園は仲良くなった。望やアヤも含めて、四人でよく遊ぶようになった。
 新園はとにかく運動神経抜群だった。サッカーやバスケなどの球技だけでなく、短距離走や鉄棒など、なにをさせてもすごかった。小柄だったが、大きい子にも負けなかった。緩やかに、そして時には激しく、水のように動いた。そして、いつも笑顔だった。仲良くなるまでトモは全く気づいていなかったが、新園は人気者だった。
 トモは、習字やピアノ、スイミングなど、色々な習い事をしていて忙しかったが、それでも毎日のように、新園と望、アヤと遊んだ。それまでトモは、習い事がある日は遊びに行かなかった。習い事が終わってから遊ぶと、時間が遅くなってしまうし、家にいてTVを見るのも好きだったからだ。でも、新園たちと遊ぶようになってからは、家にいる時間の方が少なくなった。トモの父親はいいことだと笑っていたが、母親は心配してるようだった。だからトモは、門限の七時だけは超えないようにした。
 夏には、学校の近くにある山を昇ったり、港の近くにある大きなショッピングモールに涼みにいく。寒くなってくると、誰かの家でゲームしたり、マンガを読んだりした。学校や習い事が終わってすぐに遊びにいき、そして遅くに帰る。
 そんな風にして、毎日を過ごし、トモたちは5年になった。トモと新園と望は、同じクラスだったが、アヤだけは別のクラスになった。4人で残念がったが、遊ぶのは毎日変わりなかった。トモは学校に行くのが楽しかった。

*

 その日も、放課後の学校で、遅くまで遊んでいた。そしていつもと同じように、門限の時刻が近づき、みんなで一緒に帰る。夏が近づくにつれて、徐々に日は長くなり、この時間になってまだ空は赤く、トモたちの顔を照らしていた。四人はたわいない話をしながら、ゆっくりと歩いていた。
 学校からの大きな長い坂を下りて、最初の交差路で望と別れた。次に、アヤの家の前で、彼女と別れる。トモと新園の二人は、家までまだ少し距離がある。
 民家の建ち並ぶ、細く曲がった路を、トモと新園は、好きな映画の話をしながら、のんびりと歩いた。路は薄暗く静かで、どこからかおいしそうな匂いがしてくる。
 トモと新園の分かれるところまで来た。ここを右に曲がれば、すぐにトモの家は見えてくる。
「それじゃ、また明日」
 トモは、いつものように笑って手を上げた。すると、新園が立ち止まった。トモは、不思議に思った。
「どうしたの?」
「あ、うん」
 太陽は、もう見えなくなっており、空が赤から紫に変わっていた。道は、ますます暗くなってくる。トモは、新園の表情がよく見えず、近づいた。
「大丈夫?」
 新園は俯きかげんで、ズボンのポケットに手を入れていた。なんだか、そわそわしているようにも見える。しかし、前髪の影に隠れて、やはり表情が見えなかった。トモは、もう一歩近づく。二人の顔の間は、わずか数センチしかない。
「なにかあった?」
「あ、あのさ!」
 慌てたように、ポケットから手を出し、二人の顔の間に差し出す。
「これ、読んで!」
 わけも分からず、トモが差し出されたものを受け取ると、新園は「また明日」と、走って行ってしまった。手渡されたものを確かめると、それは小さく折りたたまれた紙だった。
 
 トモは、家に帰ると、すぐに二階の自室に入って戸を閉めた。夕食ができていることを知らせる母親の声がしたが、聞こえてないふりをする。トモは、はやる気持ちを抑えて、慎重に新園から手渡された紙を開く。
 
 好きです。付き合ってください。

 そう、一行書かれてあった。
 トモは、戸惑った。確かに、新園とは仲が良い。けど、そんなそぶりは見せなかった。新園は運動できるし、顔も整ってるし、人気者だ。他にもたくさん好きな子がいるだろう。自分とは、なんだか釣り合わないような気がしてくる。新園の、きれいな文字を指でなぞる。トモは悩んだ。
 次の日、トモは新園と目を合わせることができなかった。すこしでも目が合うと、逸らしてしまう。新園も、話しかけてこようとしなかった。望とアヤは、「ケンカでもしたの?」と心配そうだった。トモは、断ったら、もう新園と遊べなくなってしまうのかな、と思った。
 二日悩んだ後、トモは決心して筆を取った。



 トモたち四人は、その後も一緒によく遊んだ。新園と付き合うことになっても、そんな経験したことのないトモは、どうすればいいのか分からなかった。何か特別にするわけではなく、いつもどおりに遊ぶだけだった。ただ一つ、変わったことといえば、帰る際の新園との二人きりの時間が、気まずくなった事だけだった。四人でいるときは、普通に話したりできるのだが、二人になってしまうと、なんだか気恥ずかしくてダメだった。新園も、普段は明るく、よく話すのだが、やはり口数は少なくなっていた。
 ある日、トモと新園は、「恥ずかしいなぁ」と言ってお互い笑った。そして、どうするかと話しあい、手紙を書き合うことにした。手紙は、トモのクラスで女子を中心に流行っていた。トモと新園も、その日あったことや、思ったこと、伝えたいことを、二人だけの手紙でやり取りをすることにした。
 手紙のやり取りは楽しかった。内容は、見たドラマの話や、面白い先生の話など、普段から話しているような事ばかりだったが、自分の手紙を書いて、相手から返事が来るまで待つ時間はワクワクし、他の子にばれないように手紙を相手の机にいれる時には、ドキドキした。トモは、自分の大好きなキャラクターの便箋をたくさん買った。そして、好きな青い色のペンも買った。
 そのようにして、日は過ぎていった。始めのうちは、手紙の交換だけで満足していたが、そのうちなんだか物足りない気がしてくる。何せ、普段はただ四人で遊ぶだけで、また二人の時にはうまく話せなかったりする。付き合っている気が、あまりしなかった。
 トモは、どうしたらいいのか分からなくなって、アヤに相談してみることにした。
 トモと新園のことを知って、アヤは、とても驚いたようだった。そして、
「どうして言ってくれなかったのよ」
 と、ちょっとだけ怒った。
 アヤは、少し考えてこう言った。
  「うーん。二人だけで遊びにいったりしてないでしょ?きっと、それが足りないんじゃないかな」
「どうすればいいのかな」
 だって、二人でいると気恥ずかしいよ、とトモは思った。
「デートしたらいいんだよ、デート」
 アヤは笑った。
「気まずさだって、ずっと一緒にいたら無くなるよ。多分だけど。水族館でも行ってみたら?」
 簡単に言ってくれるなぁ、とトモは思った。同時に、水族館はいいかもしれない、とも思った。
「今度どうだったか、教えてよね。」
 アヤは楽しそうに言った。トモはうなずき、相談してよかった、と思った。
 その夜、トモは、新園に手紙を書いた。

 トモと新園は、水族館に来た。始めのうちは気まずかったが、水族館の魚を見て話すうちに、徐々にそれもなくなってきた。暗くて静かな水族館の中は、少しひんやりして、二人の距離も、自然に縮まってくる。新園にもようやく、笑顔が戻ってきた。
 一番大きな水槽の前に来て、トモは訊いてみた。
「新園の好きな魚ってなに?」
 新園はにやりと笑ってこう応えた。
「さんま」
「食べるほうじゃなくて」
 トモも笑った。トモ自身も楽しかったし、また新園が楽しそうにするのも嬉しかった。
「好きな魚か。なんだろうなぁ」
 少し考えてから、新園はこう言った。
「海で泳いでる魚……かな」
 トモは新園の言葉の意味をはかりかねた。海で泳いでる魚って、どういうことだろう。戸惑うトモを横目に見て、新園は微笑む。
「トモ、水族館の水槽の魚って、どんなことを考えてるんだろう。自分たちみたく、外で遊ぶこともできなくて、ずっとおんなじところを、ぐるぐると回っているだけ」
 新園の顔は、水槽の光に照らされて、青白く浮いて見えた。トモは、新園の横顔を、じっと見つめた。
「きっと楽しくないだろうね」
 そう言って、新園は水槽に手を当てた。ぼんやりと、泳ぐ魚を眺める。大きい魚に小さい魚がくっついて、緩やかにぐるぐる回っている。きれいな模様で、ヒラヒラしたドレスみたいなものを纏っている魚は、草の陰に隠れて口をパクパクさせている。
 トモは、何て言ったらいいのか分からなくて、ただ魚を眺めていた。

*

 トモたちが六年生にあがる時、アヤが転校することになった。何でも、親が転勤するそうだ。引越しの日、アヤは少し泣いた。手紙を書くよと、トモと新園と望は言った。
 それからというもの、遊ぶ頻度がかなり減った。アヤがいなくなり、自分達の間で何かが欠けたような感覚を、三人は抱いていた。それに加えて、六年生では、望がクラスを離れてしまった。新しくなったクラスで、それぞれ仲のよい友達ができ、彼らと遊ぶようになっていた。
 新園との手紙のやり取りも頻繁に行われなくなった。手紙を書いてから、返事が来るまでの時間も徐々に長くなっていた。
 トモは、新園たちと遊ぶ時間が減ってしまったのを残念に思っていた。が、どうすることもできなかった。六年生になってから、トモは塾に行くことになって、より忙しくなっていた。トモは私学を受験するつもりだった。
 梅雨の季節に入って、連日雨が激しく降りつづけていた。六時間目のチャイムが鳴り終わり、トモは担任に私学受験のことを相談に行った。トモの担任は四年生の時と同じくクマさんだった。クマさんは丁寧に説明してくれ、たくさんの資料をくれた。
「トモは賢いから、私学も色んなとこが選べるな」
 クマさんは、二年前より、ますます大きくなっていたお腹をさすりながら言った。
 一時間ほど雑談した後、トモは置きっぱなしだった荷物を取りに教室へ戻ってきた。教室は静かで、外の雨の音がはっきり聞こえるほどだった。嫌な雨だな、とトモは思った。窓から外を眺めると、運動場が水浸しになっている。雨が上がったとしても、しばらくは使えないだろう。教室の床の木は、湿気を吸ったのか、妙にやわらかく感じた。
 教室を出ようとした時、ふと甲高い音が聞こえた。
「……ピアノだ」
 誰もいなくなったはず校舎に、ピアノの音がかすかに響いている。トモは、引き寄せられるように音楽室へと足を向けた。
 
 音楽室の前に立って、しばらくトモはピアノに聞き惚れた。ドビュッシーの「月の光」だ。大好きな曲だったが、トモ自身はあまりうまく弾けたことはない。中から聞こえてくる曲は、本当に上手かった。トモが理想とするピアノだった。
 音楽室の戸を、そっと開ける。が、きしんだ引戸は思ったより大きな音を上げ、トモは自分でびくっとした。同時に、ピアノの音も止まる。
「誰?」
 中から静かな声がする。その声にトモは驚いた。
「新園?」
 ピアノの椅子には、新園が一人、座っていた。
「トモか」
 ふっと、新園は笑ってみせた。
「新園、ピアノ弾けたんだ」
 トモは驚いた。そんなこと、今まで全然知らなかった。習い事なんて全然してないと思っていたのに。だが、新園が弾いた「月の光」は、明らかに研鑚を積んだ者のそれだった。
「まぁね」
 はにかんで、新園はまた、ピアノを弾き始めた。トモは、いつか新園が座った席に座り、目を閉じた。ピアノの清らかな音に、「月の光」の静謐さはぴったりだと、トモは思った。神秘的な音の芸術に、教室は満たされていく。外界から切り離され、清浄な一つの空間が作られる。新園の音は、深い青のイメージがした。トモは、涙が出てきた。
 今まで、一度たりともこんな風に弾けたことはない。こんな風に、一つの世界を弾きだせたことなどなかった。
 新園は突然演奏を止めた。トモは、いつのまにか突っ伏していた顔を上げる。
 新園は、じっと一点を見つめていた。
「なんか、違うなぁ」
 と、新園は呟いた。
「どうして?そんなに上手いのに」
 トモは、少し声を大きくした。自分が理想とする音だったからだ。
 新園は、黙ったままだった。
「……新園は、どうしてピアノを弾いてみせてくれなかったの?」
 トモは、少し悔しかった。四年の頃から知り合っていて、そして、今は付き合っている。なのに、ピアノを弾くことも教えてくれなかったのが残念だった。
 音楽室は、窓を打つ雨の音だけが響いていた。
「ピアノは、好きなんだけど、自分の音は、あんまり好きじゃないんだ」
 新園は、静かにそう応えた。そっと鍵盤を撫でる。ガラス細工に触れるように。
「ピアノは、昔から弾いてたんだ。母親がピアノの先生だから、厳しく教えられてきた」
 新園は、小さくため息をついた。
「一度も誉められたことがないんだ。これじゃまだまだダメだって」
「そんなことないよ。きっと、みんな誉めてくれるよ。みんなの前で、一回弾いてみればいいんだよ」
 新園は、トモを見て少し笑った。今まで見たことないような、疲れた笑いだった。
「そうかもなぁ」
 新園は、大きく伸びをして、鍵盤蓋を閉じた。

 「新園が短距離走で負けた」
 そんな話を聞いて、トモは耳を疑った。今まで、新園が負けたことなどなかった。学年でずっと一番だったのだ。何かあったのだろうかと、トモは思ったが、本人に確かめることはできなかった。トモは、本当に習い事が忙しかったのである。
 それからしばらくして、新園からの手紙が、止まった。トモは、何度も何度も、返事のない手紙を書いた。昨日塾に行った、今日はピアノ教室があった、明日は、こんなことをするつもりだ。トモは書きつづけた。新園とのつながりは、今はそれだけだった。
 ついに、トモは手紙を書けなくなった。便箋に描かれたキャラクターと、ずっとにらめっこし、そして、ペンを投げた。青いペンを。
 トモは、泣いた。そして、返事を待つことを止めた。



 新園が、自分を見つめている。それが、不思議でならなかった。新園は、自分からトモを避けたはずだった。トモは、思いを馳せ、色々な感情が沸き起こりながら、それでも目を離すことは出来なかった。
 新園が、笑う。
 トモは目を瞠った。新園が、こちらを向いて笑っている。その笑顔を何ヶ月ぶりに見ただろうか。
 ずっと続くかと思えた時間は終わり、新園は再び前を向いた。
 トモは、ほっとため息をついたが、胸に生まれた僅かな澱みは、取れなかった。

 再びトモは悩んだ。私学受験も終わり、最近は穏やかな気持ちだった。それが、またモヤモヤとした思いに駆られていた。だが、どうすればいいのか分からなかった。あと一ヶ月で学校も終わってしまうし、新園とは話も出来ない。どうしようもなかった。
 そんな時、机に一通の手紙が入っていた。トモは慌ててトイレに駆け込み、それを開いた。そこには、こう書かれてあった。

 ずっとトモのことが好きでした。付き合ってくれませんか。  ノゾミ

 トモは、あわてた。まさか、望が自分のことを好きだとは思わなかった。新園と別れた後、時折望に相談していた。新園のことを相談できるのは、望だけだったからである。その望が自分を好きだと言う。
 トモも、望は好きだった。でも、それは友達としてじゃないかと思う。トモは、ますます混乱した。

 卒業式まで、あと十日に迫った夜、トモは、ついに自分の気持ちを確かめようと思った。机の引出しから、大好きなキャラクターの便箋を取り出し、ペン立てから、青い色のペンを選ぶ。
 なぜこっちを見たのか。どうして笑ったのか。トモは、それだけを書いて、便箋を小さく折りたたんだ。いつか、新園がくれた手紙と同じ折り方で。

 返事はすぐに来た。トモは、すぐにその場で見たいと思ったが、なんとか我慢した。新園は、以前と同じように、トモを知らないふりをしていた。あの時以来、トモを見ようとしない。
 夜、トモはベッドに入り、新園からの手紙を眺めていた。裏返し、また表を見る。ふらふらと振ってみる。
 トモは覚悟した。慎重に、小さく折りたたまれた手紙を開いていく。
 トモは、そこに書かれていた文字を見た。小さく呟きながら、繰り返し読む。
「なんだそれ」
 書かれていたのはごく短い文言だった。


  トモへ
  卒業する前に、もう一度トモの顔を見ときたくて。
  そしたら、トモもこっち見てたから、おかしくて。

  あ、ピアノは、お母さんじゃない、違う先生から習うことにしました。
  トモも、ピアノ頑張ってね。トモの音、私は大好きだよ。
新園由芽

 おかしなやつだなと思った。でも、バカにはできない。ようやく、新園が少しだけ分かった気がした。自分は待っていたのかもしれない。こちらをふりむいてくれることを。再び、笑いかけてくれることを。
 きっと、新園も、僕のことが分からなかったんだろう。
 ふと、香りがした。新園の優しい匂いだ。
 トモはもう一度、水族館に誘おうと思った。
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62102 あんばさ

 11月も床に就く仕草を見せた頃のことであった。
「年が明けてねぇ、少ししたら壊そうと思うのよ。」
そう、母さんの友達で早くに夫を亡くした自称魅惑の未亡人、音無涼子は言った。先に言っておくがパクリではない。俺にとってこれは紛れも無いリアルなんだ。
「やっぱり、建て直すんですか。」
 見た目はどちらかというとイチノセさんである。話の分からないチビッコは、パパかママ、もしくはその辺の大人に聞いてみてくれ。管理人さんと貧乏学生の恋の話を。先に言っておくが俺は貧乏学生であっても、その展開には至っていない。残念ながら、環境の所為だ。
「それなんだけどねぇ。…三人には悪いんだけど、壊した後は駐車場にしようと思うのよ。」
 
 さて、そろそろ俺としても君達にこの会話のバッググラウンド的な知識を説明しておいた方が良いと思う。本当なら徐々に明らかになっていって、的な期待を抱かせる展開がしたいのだが、何しろ8000字しかないんだ。簡潔にまとめるしかないだろう。…いや、悪かった、今のは言い訳だ。今、聞いて欲しいんだ。俺は今、無性に愚痴りたい衝動に駆られている。
 俺は教育大の3回生で、この魅惑の未亡人音無涼子(自称)の管理する平屋に下宿している。平屋は3つが繋がっていて、向かい合わせに2セット。つまり、6つの家がある。広さは10畳半の1k。家賃は2万。この辺の学生マンションが軽く5万ほどであることを考えれば破格の家賃である。にも関わらず、只今の入居者は俺含め3人。理由はこの家を見てもらえれば言葉も要らないだろうが、仕方ない、説明しよう。まず、その1。風呂がねぇ。便所もねぇ。便所はあるにはあるが外だ。言わずもがな共有である。6つの家に対してせめて個室2つというのは、魅惑の未亡人音無r(ryの優しさだろうか。そして、その2。キッチンの床が沈む。つまりシロアリにやられているんだ、済まない。魅惑のみb(ryに訴え続けること2年と半。戦況は悪化している。IHにするくらいなら、先に床をどうにかすべきだろう。極めつけ、その3。漏る。しかもその穴たちは日々進化を遂げている。増えるんだ、数も量も。飲み会でへべれけになって帰ってみると、テレビの上に滴る雫。暴れそうになった。しかしそこは堪える。暴れたりしたら本当に壊れるんだ、この家。本当は、何処からともなく臭ってくる腐敗臭のことだとか、この家何かの法律に違反してるんじゃないかとか、もっと言いたいことがあるんだが、如何せん言い出したらキリが無い。とりあえずこの辺にしておく。ありがとう、少し気が晴れたよ。ちなみに今は、一ヶ月の長きに渡る教育実習を終え、懐かしき下宿に舞い戻って来た、まさにその時である。デカイ鞄を肩に掛け寒さと重さが相俟って血脈の止まった俺の左腕が、悲鳴を上げている。俺の斜め前に住む武藤という女から家賃を取り立てに来ていた魅惑n(ryに、ただいまの代わりにキッチンの低反発作用について訴えてみたら、この会話だ。それにしても。
「俺達はどうなるんですか。」
「そうねぇ、他に家を借りてもらうことになりそうだわ。」
 聞いたか諸君。俺はあと1ヶ月と少しで家なき男だ。
「まぁ、あと1ヶ月あるから、何とかなると思うのよ。ああそうだ、ブレイカーは自分で上げてね。じゃあ、おやすみ。」
 1月という時期に、簡単に家が見つかると思ってるのか、魅w(ry。砂利の軋む音をフェードアウトさせながら、m(ryは暗闇に消えた。
 1ヶ月か。無理じゃないか、はっきり言って。とは言っても、家はこの有様、いつかはこんな時も来るだろうと、住み始めたあの日から心の隅で思っていた。他の入居者はどうするんだろうか。ちょっと聞いてみよう、…とできないのがこの下宿。入居者同士の交流はほぼ皆無。会えば会釈はするものの、(ryの話から知った井戸端会議的情報と名前以外、二人のひととなりは未知である。仕方ない。最悪、誰かの家に転がり込むとして新居を探すしかあるまい。ブレイカーを上げるパチンという音が、便所に響いた。
 
 
 
 12月が重い腰を上げた、その日だった。唯一1限のある月曜日。しかもフルコマ。その後部活。1週間、最高の幕開けである。
 昔ながらのガラス張りの扉を開ければ、ガラガラと派手な音がする。冷たい空気がのっそりと家に入ってくる。肩を上げて首をジャケットに埋めた。白んだ空気が風景を水墨画のように滲ませている。と、それに染まらない2つの陰があった。音無さんと、女。
「あら、早いのねぇ。お早う。」
 俺は歯の間から擦れた空気を出し、軽く会釈した。女も振り返りこちらを見ている。2人は俺の家の正面の家を見て何事か話をしていたようだ。
「ああ、折角だから紹介しておくわね。彼女、今日から貴方の正面に住むのよ。」
 視線を女に流す。目が合うと、女はゆっくりと笑んだ。長い髪がコートに擦れて、砂嵐のような音を立てる。吸い込まれそうな黒い瞳。ぐるぐると視界が回った。音無さんが何か続けたが、右から左だった。
「…だから、困ったことがあったら、この人に頼めば良いのよ。」
 はっと我に帰る。瞬きをして音無さんを見れば、どうも会話は一区切りついた様子だった。いつのまにか、女の瞳も音無さんの方に向いていた。女は小さく頷いて、
「よろしく。」
 と、再び俺に向いた。俺はまた、その瞳を見つめながらゆっくりと、顎を引いた。
「今日は1時間目からあるの?こんな時間に貴方が起きてくるなんて、珍しいのねぇ。」
 前期は1限を取っていなかったからな、その印象も仕方あるまい。
「はい、1限から。…じゃ、行ってきます。」
 俺は2人に背を向けた。最後に捉えた女の瞳は1度、瞬きした。駐輪所に向かいながら、携帯を開いてみた。8時45分。俺は15分もあの場に居たのか。何と言う事だ。全く音n(ryのマシンガントークには頭が下がる。
 …遅刻だ。
…いや、待てよ。家を取り壊すってのに、今から住むのか?あの女。
 
 
 
それから日常は何事も無く過ぎて行き。師走だと言うのに欠伸がちの今月は、冷たい風だけが取り柄だった。諸々の事情で部活が休みになった水曜日。シーズンだというのに、それで良いのか部長よ。…しかし、だからと言って俺は自主練などする奴ではなく。早々、家路に着いた。
ふわ、わあ。
片足が砂利道に掛かった辺りでのこと、透きとおる七色が視界に入った。
 ――シャボン玉?
 止まった足が引き寄せられるように動いた。沢山のシャボン玉とすれ違いながら出所を辿っていく。すると、6つの平屋が向かい合う小道、その左側の真ん中の家の前(つまり俺の家の向かい)、二人の女が玄関先に座り込んでいた。この前の女が蛍光緑のストローに唇を付け、ふうと頬を膨らませる。突き出された唇から、妖精のラッパを吹きぬけるようにストローを通り、光の玉が生み出されていく。シャボン玉は、向かいに腰を下ろした武藤の頬を撫でて、それから、勢いを失って静かに漂い始めた。
「…こんにちはー。」
ソイツはいつの間にか振り向いて、こちらを見ていた。武藤は初めから俺が視界に入っていたらしく、一瞥を送っただけで視線を落とした。落とした視線の先は手にしている缶ビール。昼間っから何だ、オッサンくさい。
 俺は、以前そうしたように、また、会釈だけを返した。
「お兄サン、大学生なんでしょう?おばちゃんに聞きましたぁ。」
「…ええ、まぁ。」
 話しかけられるとは予想外だった。思わず足を止めてしまった。二人の視線が俺を照らす。武藤は上目遣いに不敵な笑みを含ませて。ソイツは顎を軽く出して白い歯を出している。何だ、何なんだ。
「たった1ヵ月で破局とはネ。よほど生活態度が悪いとしか思えナイ。」
 はぁ?
「だぁめだよ、ムチョーさん。まだ心の傷は癒えてないと思うよぉ。」
 二人してクスクス笑い始めた。…俺には関係の無いことか?俺はゆっくりと足を一歩踏み出した。
「ア、 逃げた、逃げた。そんなだから彼女にも愛想尽かされるンダヨ。」
「…何のことッスか。」
 一度背を向けた二人に、再び向きなおる。眉間に皺が寄っているのが、自分でもよく分かる。何だ、何の話だ。
「おばちゃんに聞きましたよぅ。ここ1ヵ月家に帰ってなかったんですってぇ?」
「…ええ、まぁ。」
「ムチョーさんという証人もここに居ますしねぇ。」
 二人は目配せして、また、クスクス笑った。
「…はぁ。それがどうかしたんですか。」
 溜息を吐いてやった。イライラが3積もった。
「開き直るネェ、そんなんじゃ新しい彼女できないゾ。」
「まぁまぁ、ムチョーさん。同棲って良くも悪くも相手の全部が見えちゃうもんだもんね。自暴自棄になってないだけ、君は偉いと思うよ、うん。」
 ああ、なるほど。そういうことか。
「…教育実習行ってたんスけど。」
 やっぱりな。どうやらこの二人、俺が女と同棲していて1ヵ月も家を空けたと思っていたらしい。俺の一言でポカーンだ。…原因は。
「音無さんスか。」
 ソイツはコックリ、頷いた。言ったぞ、俺は。
 
―「あ、音無さん。明日から1ヵ月ほど家を空けます。教育実習で。」
―「あら、そうなの。頑張ってね。」
 
 たしか、音無さんと俺の間には、こういう会話があったはずだ。
「何だ、面白くないナ。」
 そう吐き棄てて武藤は缶ビールをぐいと飲んだ。正真正銘のオッサンだ。
「…そういうアンタも、とんでもないこと言われてるぞ。」
 重い荷物をドンと地面に置いた。腕組みして武藤を見下ろす。大体な、俺が本当に同棲していて出戻りしていたらどうする。お前達の一言で、俺は虫の息だぞ。大切なかけがえのない命が虫の息だぞ。武藤は訝しげに俺を見て、先を促した。
「…お前、風俗嬢らしいぞ。」
 ブーと吹き出す音がした。そしてソイツはケラケラと笑い出した。
「おばちゃん、ヒィ、想像力が豊かすぎるぅ…! 」
 腹を抱えて笑い始めた。
「ムチョーさん、DJなのにぃ! 」
 ああ、どうりで。それなら夜に家を空けているのも頷ける。全くあのオバハンは。想像力が豊かというよりも、スキャンダラスに誇張してや居ないか。決めた。スキャンダラスハンター音無涼子と呼ぼう。女は楽しげに武藤の背をバンバン叩いた。ソイツが本当におかしそうにするものだから、それにつられて、思わず笑ってしまった。すると、武藤も笑い始める。武藤は酒のせいか何なのか、ひどく引き笑いだった。
 それから俺達は長い時間軒先に座り込んで、某管理人のいい加減情報について語り合った。全く知らなかったのだが、俺はマザコンなのか。…気をつけよう。
 武藤とは、この日初めて会話をした。お互い田舎から出てきて、とにかく金が無い。そんな共通点。どうして今まで言葉を交わしたことも無かったのか、分からないくらいに弾んだ。女は俺達の会話を聞きながら、再びシャボンを吐き出し始めた。それは時折、俺の頬に当たって、パチンと、消えた。
 
 
 
 師走の脚質は差しであったらしい。脚色は…、上々だ。何気なく一週間を過ごしてみたら、何てことは無い、レポートの期限が次の月曜に迫っていただけさ。にも関わらず今日は大事な試合で、勝てば正月を名古屋で過ごせるという三重苦の商品付き一位決定戦。結果?俺のテンションを見れば分かるだろう。俺は今、先輩に居酒屋を連れ回された帰りだ。鼻唄なんか歌っちゃって、どうにもこうにも機嫌が良い。そんな、サタディナイト。嗚呼、今年の年末年始は実家に帰れそうもない。本当、嫌になるよ。
「おかえりー。」
 暗闇から声がする。ちなみに平屋の玄関灯は尽く切れていて、一番奥の李くんという留学生の住む家だけが、辛うじて点滅しているような状況だ。酔っ払いにこの状況はキツイ。李くんの玄関灯の点滅で、何となく見える。目をこする。…誰だ。音無さんか?
「何かお酒臭いですよぅ。」
 この喋り方。オマエか。
「先輩と飲んで来たんスよ。…そういう貴女はこんな暗がりで何を企んでるんですか?」
 ―ブ。
この音はアレだな、オマエは可愛げがあると思って頬を膨らませてみたんだろうが、唇から空気が漏れて屁みたいな音、鳴ってるぞ。
「企んでませんー。コレ、見て。押入れの中から出てきたんです。」
「見えません。」
 何となく、ビニールっぽい材質に反射したフラッシュは時折見えるが。
「どんだけ目悪いんですか。ほらぁ! 」
―ガサッ。オマエなぁ…、近づけ過ぎ。それは逆に見えない。赤やら青やらがトルネードして先にハタキのようなものがくっ付いた紐のようなものが、幾つも束ねられているように見える。
「花火ですよぉ! せ・ん・こ・う・は・な・び! 」
「ああ、前の住人が忘れていったんスよ。多分。」
「そんなの分かってますぅ。多分邪魔だから捨てて行ったんですよぉ。…だから、折角だし、やっちゃおうかなって思ったんですけど…。」
「やればいいじゃないッスか。」
 そういうことで。お休みなさい。俺は爽やかに片手を上げてその場を去ろうとした。しかし左腕がガッチリと掴まれている。
「火種が無いんですぅ。」
「…あー、それは残念。俺もライターの類は持ってないんですよ。煙草吸わないんで。」
 事実。再びビニールのすれる音がして、視界が開けた。暗闇。
「そうですかぁ…。」
 オマエ、落ち込みすぎ。不規則に点滅する視界に、つむじが見える。ちょっとプリンになってるな、なんて、ぼんやり思う。何故だか、可哀相になってきた。
 だからと言って、解決策はあるわけも無く。平屋はどれも真っ暗で、誰の気配も無く。あるのは暗闇と、不発花火。
 と、その時。
「◎▲×□☆! 」
 何だ何だ。喧嘩か?漸く暗順応した目で、隣を見る。目をパチクリながら、声のするほうを見ている。
「▽○●★≦◇! 」
 日本語じゃないな、これは。さっきよりもボリュームが大きくなっている。ついでに足音も聞こえ始めた。近付いて来ているらしい。声は、ひとつだった。
「?寄送,??! 」
 砂利道に大きな声が響く。俺は過去何度か、この声を聞いたことがある。奥の平屋に住んでいる留学生の李くんだ。電話をするときはいつもこの調子で、家の中に居てもよく聞こえてくる。相手ははた、と俺達を見て立ち止まる。それから少し声を小さくして、何事か呟いたあと、電話を切った。彼の左手には煙草。再び光速のスピードで彼が歩き始めようとした時、また、大きな声が響いた。
「あー! 」
 オマエ、失礼だろう。初対面の中国人を指差すんじゃない。
「ヒッ! ヒッ! 」
 李くんは怯えている。しかし、もっともだと俺は思う。見知らぬ女がいきなり奇声を上げながら駆け寄ってきて、しかも跪いて自分に縋っている。あ、目が合った。
「ちょっと、なに! こ、この人、なに! 」
 オマエ、根性あるな。李くんの右足にしがみ付いたまま離れない。李くんは得体のしれない生き物を引き離そうとして、一生懸命右足をバタつかせている。そして必死の形相で俺を見ながら。
「だから、なに! この人! これ人! ?」
「…あー、つまり。ちょっとライターを貸して欲しいって言ってます。」
「ハァ!? か、貸すから! どいて、どいて! 」
 その言葉でやっとこさ立ち上がる。そして、人間らしいひとこと。
「ありがとうございますぅ。」
 器にした両の掌にぽとりと100円ライターが落とされる。ウルウルさせた瞳が、この暗がりで李くんに見えたかどうかは分からんが。
「あ、あの。これから花火をしようって話になってるんですけど、一緒にいかがですかぁ?」
「…え、あー…。あ! これから、サッカー見る。だから、ダメ。」
 そういえば、今日は日本対中国だったな。李くんはどうしてか嬉しそうに、胸の前で罰を作って見せた。
「それなら、ダイジョブ、ダイジョブですぅ。ちょっと待ってて下さい! 」
 何がだ。俺に線香花火の袋を押し付けて、平屋に走りこんだ。残された野郎二人。互いに目配せ。
―何、あいつ。―
―知らん。―
「お待たせしましたぁ。」
 テレビを抱えて出てきた。どうしようってんだ、オマエ。明らかに地デジ非対応のそれを玄関先にドンと置き、延長コードを駆使してキッチン脇のコンセントから電力を供給。ブチンという音を立てて画面が点いた。スピーカーからは騒がしい応援の声。赤と青の対立。ちょうどキックオフのホイッスルが鳴った。
「ここで、こうやって、見ながら、応援しながら、すれば良いんですよぉ。」
 また二人、顔を見合わせる。
―なぜ?―
―知らん。しかし、ここで帰ったら、かなり可哀相だぞ、アイツ。―
 カチ。ライターを点ける音が響いた。
テレビの角度からして真正面、ベストポジションをキープしながら全く画面を見ずに座り込む女。手元の線香花火からは小さな火の粉が、テレビの光に負けずに溢れている。俺は重い荷物をドンと地面に落として、女の隣に腰を下ろした。李くんも気は進まない、という感じではあるが、女の逆隣に座った。
それから結局、大した会話もない三人であった。互いのゴールが危うくなると声を上げる場面はあったが、画面に釘付けで、互いの表情など知る由も無い。女はというと、試合なぞ興味の欠片もないらしく、ひたすら一人で線香花火を消費していった。
試合の終わるころ、ふと女のほうを見た。橙の火花に照らされて、ふっくらとした頬が美味しそうに焼けていた。真剣なようで、実のところ何も見ていないような瞳が、橙を反射して輝いていた。そして、その橙は大きさを増しながら落ちて、ポトと、消えた。
 
 
 
 12月最後の火曜日。クリスマスの苛つくイルミネーションも大方はしまわれて、低い金の音が似合うような空気が漂い始めた。人々はゆっくりとした足取りで、俺達を育んだこの1年を振り返っている。思えば、この1年は辛かった。何がって、教育実習がだ。俺の学科は教員免許取得が卒業資格要件のひとつであるからして、教育実習は避けて通れぬ茨の道なのだ。そして運の良い俺は、地獄の実習校と名高い附属に配属された。ここで俺が体験したことは、…何も言うまい。睡眠時間が2,3時間であったことやら、一日一食であったことなどは言うまい。とにかく、辛かった。死んでもおかしくないと本気で思った。しかしぶっ倒れたらぶっ倒れたで、卒業できない訳で。来年再び行かなくてはならない訳で。単位を取って死ぬか、卒業できなくて死ぬかの二択を迫られたら、君達ならどちらを選ぶか。無論、俺は前者だ。前者の方が、勇者だろう。勇者になった俺は、数々の試練を乗り越えて、大学生活のメインイベントを終えたわけだ。傷は深いけどな。未だ、夢に見る。…とは言っても、あの学校に行って良かったと思ってる。熱い学校だったなー。教師も生徒も。笑い話も両手に余るほどある。この体験は一生忘れないだろう、本当に。
 可笑しいな、実習は12分の1。この1年は他にも出来事があったはずなのにな。思い出すのはこっちを見つめる生徒達の視線と、教科担当の大きな溜息ばかりだ。
 急に凍てつくような空気が恋しくなって、外に出る。サンダルを履いただけの素足が何か得体の知れない生き物の指先で強く摘まれているような感覚。しかしその指先は、細くて、冷たくて、女みたいだとか思った。
「お出迎えご苦労サマ~。」
 背後から声がして振り返る。覚束ない足取りの武藤が居た。ニヤニヤ顔からして、また酒か。
「お前中心に世界は回ってないぞ。」
 武藤はフフンと鼻を鳴らして、口元をマフラーに埋めた。
「部屋見つかっタ?」
「…まあな。」
 この平屋よりも大学に近く、快適なマンションの一室。見に行って、その日のうちに契約した。ここよりも明るく、高い家賃。
「武藤さんは?」
「まぁネ。」
 そう言って武藤は奥の平屋に目を向けた。ガラガラとうるさい音がして、中から李くんが出てきた。かなり大きな荷物を持っている。
「おはようございます。」
 こちらを見て、荷物を置き、一礼。礼儀正しい。
「李、だっケ?アンタは部屋見つかったノ?」
 武藤は片足に体重をかけて、怠慢な立ち姿になった。軽く人差し指を向けている。
「あ、まぁ、はい。一応。」
「実家ですか?」
 武藤に応えながら腕時計を気にする彼に、問いかけてみた。当たり障りの無い、ささやかな会話を繋ぐ。でも、3人にとっては大きな進歩。今まで交わす言葉も無かったのだから。
「そうです。帰ります。それで引越しの前に一度帰ってきます。」
 ひどく早口だった。中国語の名残だろうか、それとも、本当に急いでいるのか。大きな荷物を抱えて、彼は歩き始めた。
「飛行機、遅れます。タクシー来てます。行きます。また。」
 やはり慌てているようだ。日本語が滑稽だ。小走りの背中に武藤が手を振った。
「ハァ。私も帰って寝るカネ。…添い寝するカ?」
「…冗談。」
 武藤は口の端をクイと吊り上げて、笑った。そしてヒラヒラを掌を舞わせて、俺に背を向けた。
 俺も家に入ろうかと一歩踏み出す。ふと、武藤の平屋と李くんの平屋に挟まれた、真ん中の玄関を見る。シンとして、薄墨色に浮かび上がった。
 不思議な感覚に陥る。土踏まずに、また女の指が絡む。突然寒さが身にしみて、図らずも身震いする。気が付いたら足は家へと向かって。獲物は他に探してくれ、雪女よ。多分、李くんのほうが美味いぞ?彼はな、座り込むとズボンに腹が乗るんだ。飲み込んだくしゃみが耳の中で弾ける。冗談じゃない、正月に風邪なんか。
end
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Good bye days…  062109

 高校2年生。女。バスケ部。だけどサボり気味。成績は中の上。好きなことは友達と遊ぶこと。彼氏はいません。
 
 さようなら、いままでのわたし。
 
 高校卒業後の進路。まさか3年生になる前にここまで焦らされるとは思ってなかった。3年生になってからだよねーと思っていたらこの時期からもうやるなんて。周りは進路相談とかいろいろして志望校や希望職種を探している。わたしは、何もしていない。というわけではないが。特別力を入れているわけでもない。
 今までは親に言われるがままに進んできた。いわゆるレールの上をってやつ。習い事はこれをしよう。高校はここにして、すべり止めはここを受けなさい。正直レールの上をって言われるのは嫌だったが、その方が楽だったから流されてしまった。進路の話題がでるようになって思う。「わたしはいったい何がしたいんだろう。」もしくは何ができるんだろうでもいい。今まで17年間生きてきて、何かあるだろうと考えてみる。小さい頃の夢や、好きだったことはすぐに思い出せる。でも、今の夢、好きなことはなんだろう。
 分からない。何がしたい。友達と他愛も無い会話を楽しみたい。彼氏を作ってデートとか行きたい。何ができる。人並みに勉強と運動。小さい頃にちょっと習っていたピアノ。これでいったいどんな大学を選べばいいんだろうか。友達はどうやって決めているんだろうか。大学の偏差値?企業の待遇?親には大学までは出ておけと言われた。言われなくてもそのつもりだ。でもなんで"言われなくても"そのつもりだったんだろう。
 小さい頃はパン屋さんになりたかった。あの香ばしい、何とも言えない匂いが好きだった。今は。パン屋に入って、あの匂いに刺激されても食欲がそそられるだけだ。今は。別に全ての分野に興味が無いってわけじゃない。雑誌編集にも興味あるし、福祉関係もいい。はたまた芸能界とか。ただこれ!と思えるものが無い。それぞれにそれなりに興味はあるものの、それが将来にまで関わってくると考えると、どうしても決心しきれなくなる。さすがに気分で選ぶわけにもいかない。
 ただなんとなく大学に行くのが当たり前だと思っていた。でも大学に行くにもなにか目的を持ってないと意味がないんじゃないか。親には福祉関係に進めばと言われている。でもなぜか今回は言われたからで割りきれなかった。多分大学に行く意味を探そうとしたからだと思う。人に決められたくなかった。でも、それでも全然決められない。
 自分のことも決められないようなわたしとは、もうさようならだ。
 
 西にあるオレンジ色の太陽が、わたしに降りそそぐ。
 
 最近別れた彼氏。なんかもう互いに冷めていたから悲しいとかは全然思わなかった。入学して少ししてあるホームデーから付き合い始めた。学級行事でそうなったせいで最初から周りにばればれで、はやし立ててくる奴がいたり、友達にいろいろ聞かれたりした。ただ最初は特別に好きというわけでもなくて、でも嫌いというわけでもなかった。とりあえず付き合ってみる、そんな感じで。それなのにここまでよく続いたと思う。学校一緒に帰ったり、休みの日にはデートしたり。一緒に遊ぶのは楽しかった。最初はそんなだったけど、やっぱりOKして良かったと思った。
 だけどやっぱり誰にでも倦怠期は来るもので。わたしたちはそこが乗りきれなかった。お互いに。一緒にいることよりも他のことをしていることが楽しく感じてしまった。友達といることとか、それまでもやってたことだし彼氏といることのほうが上だったはずなのに、いつの間にか順番が逆転していた。そうなると一緒にいる事に意味を感じなくなっていった。一緒に遊べばそれなりに楽しいんだけど、なんかイマヒトツって思っていた。
 それで、1ヶ月…まだ経ってないか。それぐらい前にどちらともなく別れ話を切り出して、淡々と話が進んでいった。お別れ終了。その時はもう学校でも一緒にいることは多くなかったから、別れたからといって全く変わらない。ただ放課後一緒に帰るのが、休みの日に遊びに行くのが友達になっただけ。楽しいことに変わりはない。むしろもっと楽しくなってるかもしれない。その友達には別れたってことで騒がれたり心配されたりしたけど、ご心配なく。
 もう普通に話せるし、本当に単なる友達の中の一人になっただけ。多分もともと仲のいい友達くらいの関係だったんだと思う。彼氏じゃなく。いや好きになってたのかもしれないけど。まあ最終的にはそこだったから、ここまですんなりと別れられたんだと思う。人との付き合い方はさめた感じだし、よく友達からもそう言われる。多分友達相手だからこの付き合い方でいいんだろうと思うけど。彼氏って言ってんだったらもうちょっとやり方あるだろってことかも。違う。好きだった。倦怠期が来るまでは確実に好きで、のろけまでしてた。なのに倦怠期に入ったから、もうそれまでの気持ちなんか忘れて別れたんだ。
 人に対してちょっと無関心なわたしとも、もうさようなら。
 
 強い風が頬を打つ。
 
 部活はバスケ部。マネージャーじゃなくて、選手。女バス。部活見学に行った時に、ボールの、パスの時には速くてシュートの時にはゆっくりと弧を描いて入るまでの感じに鳥肌が立った。かっこいい。中学校では運動部にすら入ってなかったのに、決めた。入る。と思っていた。ソッコーで入部届け書いて次の日から部活に出たりしてた。あと1週間くらい部活見学期間あったけど、そんなの関係なかった。あ、自分で決めてんじゃんね。
 最初はきつかった。全くの初心者。ルールも何となくしか知らないし、ドリブルも精一杯。体育館を使う部活は他にもあったから、初心者はあまりコートには入れなかった。でまあ1年生の時は基礎練みっちりやって、3年生が引退してからコートに入ったり試合出たりするようになった。そうするうちに、少しずつ鳥肌が立ったあのプレーに近づいていった気がした。調子がいいとパスが驚くくらいきれいに決まったり、シュートがばんばん入ったりして。鳥肌が立ったプレーと同じことができている自分が嬉しかったし、楽しかった。
 ただもう慣れっていうのか、コートでの練習のほうが楽しいから基礎練のときはサボったりするようになった。調子が良かったからそこまでできたのに、そのときのプレーが自分の実力の全てだとでも思っていたんだと思う。キャプテンとかエース背負ってる人はちゃんと行ってたのに、それ以外の人は行ったり行かなかったり。それがこの女バスの伝統?だったらしい。その伝統に忠実に、わたしも行ったり行かなかったりした。別に行かないからといって勉強するでもなく、他のサボった人たちと遊びに行って、部活が終わる時間を避けて家に帰ってただけ。さすがにサボった日はチームメイトには会いたくなかった。
 今はもう上の代も引退して、2年生だけどチームを引っ張っていく存在。引っ張っていかなければ行けない存在。3年生になったら自分の引退を掛けて試合をこなしていくことになる。今になってもっとちゃんと練習しておけば良かったと思う。引退を掛けて試合を勝ち抜いていくには明らかに力不足。楽しい練習しかしてないんだから当たり前だけど。1個下と実力はたいして変わらない。このままではマジメに練習してた人たちの足を引っ張るだけ。部活見学で鳥肌が立ったあの感じ、わたしは後輩に伝えられているだろうか。伝える資格すらないかもしれない。
 入りたての気持ちを忘れてしまったわたしとも、もうさようなら。
 
 本当に人なんてちっぽけ。
 
 いつも一緒にいる友達。グループなんて中学生、いや小学生の高学年くらいからあった。最初は、小学生の時に男女で別れて遊びだした。なんか男子って子どもだったから一緒に遊ばなくなったんだと思う。ここまでは納得してた。でも、女子の間でもグループができていった。遊ぶ相手が減るだけなのに、なんでグループになるのか。そう思いながらも一つのグループの一員になっていた。
 同じ小学校・中学校で作られるグループ。同じ部活で作られるグループ。同じクラスだった人で作られるグループ。特定の人が好き・嫌いで作られるグループ。いろんなグループがあった。でもいくつも入っていると嫌な目で見られる。いくつも入るということは、八方美人。わたしたちのグループが一番じゃない。と思うらしい。まあそれでも中学校が終わるまでは、そのグループも気が合う人と集まってると思えば、そんなに変な感じもしなかったし、楽しかった。嫌な人とは全く付き合わなくていいから、それもよかった。
 ただ高校に入って、わたしは部活がバスケ部になった。そうするとバスケ部のグループにいる事が多くなった。中学校の時のグループにはいられなくなった。どっちのほうが良いなんていうのはない。どっちも良くて、どっちも大事にしたかったのに、どちらか選ぶしかなかった。結局3年間続いていくバスケ部のグループになった。中学校の友達とも気が合って、居心地が良かった。それを捨てなければならなかった。意味が分からなかった。どうしてそんなに一番にこだわるのか。グループの中でも誰と一番仲がいいとか。みんな仲がいいじゃどうしてだめなのか。
 ここからグループに違和感を持った。はずだった。最初はなんでと思っていたのに、今のグループで過ごしだして時間が経つと、それが当たり前になった。中学校の友達とは、もうあいさつをするくらいしかしない。あんなに仲が良かったはずなのに。今のグループを選んでしまった罪悪感と、それに対して彼女達は良く思っていないと思う気持ちがあって、どんどんと距離が離れていった。友達だったはずなのに、いつの間に友達じゃなくなったのか。わたしがそうしてしまったのだと思う。
 仲が良かった友達と、自ら関係をきってしまったわたしとも、もうさようなら。
 
 ちょっと浮いたような、重圧から解放された感じ。
 
 間近に迫った定期テスト。無難に4か5の評定が取れるような点数を狙って勉強する。100点でも90点でも、成績表につく数字は同じ5だ。3はなんか「あなたは普通です」と言われてるみたいでちょっと嫌だったから、4以上を取れるように勉強していた。まあ3が付く教科もあったけど。理科と社会と美術がよく3になった。理科は実験は好きだけど、覚えることが多くて苦手。社会も覚えることが多いし、歴史とか無理。美術はセンスがない。
 進路についていろいろ考えなければならなくなって、親が言ってた「将来が決まっていないなら、何にでもなれるように勉強しておきなさい。」という言葉の意味がよく分かる。わたしの学力ではまず法学部なんて無理。だから弁護士とか法律関係の仕事は消える。まあこれは大多数がそうだと思うけど。司法試験とかやばいらしいし。もちろん医学部も無理で、医者にはなれない。ほんとなんか、決める前から選択肢にNGの文字が出てくるのって萎える。まあ選択肢にあっても弁護士とか医者を選んだかって言われたら分からないけど。ほんと、もっと勉強して大学の選択肢もいっぱいあって、その中から選ぶってしてみたかった。今じゃ探すにしても成績と見比べてって作業がいるし。指定校推薦にしたって、他の人と学内で争わないといけない。何よりまだ生きたい学部すら決められていないわたしには、選考を受ける以前の問題だ。
 でも一つ思うのは、勉強して何にでもなれるようにって言っても、なりたいものが定まってないと大学なんて決められないってこと。有名大学を卒業して、就職にはかなりつぶしがきく学部を選ぶ以外は。法学部とか医学部を除けばけっこうどの大学にも学部なんていっぱいあるし、あんまり成績良くなくても、探せば行きたい学部があって、成績的にも大丈夫なとこは見つけられる。そのために必要なのはやっぱり何になりたいかっていう将来のこと。勉強だけできても駄目なんだよ。なによりもまず将来どうなりたいか、未来図が描けていて、それに向かって勉強しないと大学なんて決められない。そう両親に言ってあげたい。今までさんざん親の敷いたレールの上を走ってきていまさらなんだけど。
 親が敷いたレールの上を走ってきたくせに文句を言うわたしとも、もうさようなら。
 
 わたしの目線の先、一点を除いて全てが駆け抜けていく。
 
 いろんなことがあるけど、良いことのわりに辛いことや悪いことが多すぎる。人はしゃがまないと高く跳べない。たしかにそうかもしれない。辛いことや悪いことがあるからこそ、良いことを良いことと感じられる。それもそうかもしれない。でも、わたしには辛いことが多かった。良いことも、次に起こる辛いことが一層辛くなるための助走でしかなかった。別に特別に辛い出来事がきて、ガーンと落ち込んだりしたわけじゃない。それなりに辛いことが数多く重なっていった。一つ一つは、時間が経てば解消されると思えるようなものだった。
 辛いことが重なる時期も悪かった。ちょうどなんか気分がのらない時期が続いてて、そこに重なった。気分転換をするために出掛ける気も起きなかった。ただどんどんとフラストレーションが溜まっていくだけだった。普段から特別明るいわけでもなかったし、この状態になっても周りが気付くような、態度とかの変化はなかった。だからこそ、誰に言うでもなく一人で溜め込んでいった。
 辛くなってどうしようもなくなった時に、死にたいと言う人がよくいるけど、わたしはいまどうだろうか。死にたいと思っているわけじゃない。でも…。楽しみが、見つけられなくなった。違う。楽しいと感じられなくなった。次から次へと辛い、悲しい、悪いことばかりが浮かんでくる。良いこと、楽しいこと、嬉しいことも全てそれにかき消されてしまう。死にたいと思っているわけじゃない。でも…。
 こんな時期は誰にでもある。そう思いたかった。誰もが辛さの中に、悲しみの中に浸って、楽しいこと、嬉しいことが分からなくなって、それを探そうとする。その足掻きの一つが就職活動だったり、進路決定につながる部分もあるんだと思う。でもそれにすら意味があるんだろうか。高校を卒業するから、先のことを決めなければならない。そういう思いで決めてないんだろうか。知名度とか偏差値で選んでる人は多分そうだと思う。
 こんなわたしを見て、お父さんとお母さんはどう思うだろう。いままでずっと言うとおりにしてきたし、まさかこんなこと考えてるなんて思ってもないと思う。普通に福祉系の大学か専門学校に行って、卒業する。就職は実家から通える範囲。一人暮らしは就職してから2年後くらい。それで26歳くらいで良い人見つけてきて結婚。多分28歳でも結婚してないとかだったら、お見合い相手とか探してくると思う。子どもは2人くらいで、男の子と女の子。平凡だけど幸せ、みたいな暮らし。両親ともにこういうことを思い描いているのが手に取るように分かる。
 それも悪くない。悪くはないけど、わたしの人生ではない。わたし固有の人生とは言えない。言えないとは言っても、なにをすればわたしが活きるのか、どうすればわたしらしいのかが分からない。もっと別な道に行きたいのに、どうすればそうできるのかが分からない。もどかしい。わたしらしく生きられないことに、何の意味があるの。
 
 お父さんお母さん、今までありがとう。そしてごめんなさい。わたしはずっと楽をしてきた。自分に甘えて楽をしてきたのに、いまになってそれが取り返しのつかない事だと気付いた。いろいろしてくれたことには感謝してます。ただわたしが大人じゃなかった、それだけです。
 一緒のグループの友達、ありがとう。辛いことがあっても、みんなとバカして騒いでいい思い出ができました。でもその思い出だけじゃ、わたしの積み重なった辛いことを打ち消すことができなかった。逆に無性にむなしくなったりして。全部わたしが悪いほうに考えてしまっていただけ、それだけです。
 二年までもうちょっとだった元彼氏、ありがとう。結局別れることになったけど、一緒に帰ったりデートするのは楽しかった。ただ倦怠期に抗うことなく受け入れてしまって、目の前の他の楽しさに気を取られたせいで別れてしまっただけ。わたしが…お互いにまだまだ甘かっただけ、それだけです。
 同じ部活のチームメイト、ありがとう。入ったばっかりで夢中で練習してた頃が一番充実してたと思う。今となってはほんとに、まじめに練習しておけば良かった、そう思う。それも全部、わたしの意志が弱くて、楽なほうに楽なほうに逃げてしまっただけ、それだけです。
 結局、進路については散々悩んだ挙句に決められなかった。決めることから逃げた結果がこれなのかもしれない。決めようとはしたんだけど。やっぱり人は急には変われなかったみたい。もう全て、目の前のことから逃げた結果。それがこれでいい。もうあまり考えたくない。
 
 さようなら、いままでのわたし。
 もう二度と会うこともないでしょう。
 
 西にあるオレンジ色の太陽が、わたしに降りそそぐ。
 屋上からはオレンジ色に染まった景色が見える。
 
 強い風が頬を打つ。
 木枯らしだろうか、周りには他に高い建物はなく、風が強く感じる。
 
 本当に人なんてちっぽけ。
 ここから下を見てみると、人も車も、あんなに小さい。
 
 ちょっと浮いたような、重圧から解放された感じ。
 前に一歩踏み出してみる。その後は風がもっと強く頬を打つ。でもなんか浮いてるようなそんな感じ。
 
 わたしの目線の先、一点を除いて全てが駆け抜けていく。
 目線の先…歩道のタイル。それ以外はすごく早く通り過ぎていく。タイルの色、なんかいつもと違う。そうか、夕日のオレンジがちょっと混ざってるんだ。
 
 さようなら、いままでのわたし。
 歩道のタイルが目の前に迫る。
 意識が飛ぶ。
 さようなら、わたし。もう会うことはありません。

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名探偵 大木勇人の事件簿@
 始めの第一歩  ☆りんご

 ミーンミンミンミンミーン……
 公園から、これでもかというくらいに元気なセミの声が響き渡る。目の前のアスファルトからは、ぼんやりと湯気のようなものがたちのぼっている。
 「…暑い……。」
 思わず1人でつぶやいてしまう。じんわりと額に浮かんだ汗をハンドタオルでぬぐう。
 ようやくテストも終わり、レポートもほぼ提出し終わった。心は晴れ晴れ。そして、
 (天気も晴れ晴れかぁ……。)
 思わずためいきをつく。公園が遠ざかるにつれ、セミの声は少しずつボリュームダウンしていった。いつもなら広い公園の周りにあるマラソンコースをショートカットコースとして使い、向こう側の道に出るのだが、今日は少し遠周りしてでも隣の商店街を抜けていこうと決心したのだ。
 商店街の上にはアーケードがついていて太陽からの攻撃を防いでくれる。アーケードの中に入ると、少しひんやりとして気持ちがいい。小さい頃からよくお世話になっているこの宝商店街。何といっても両親が商店街の中でパン屋をしているのだから。おいしそうなパンの焼けるにおいが店の方から漂ってくる。店の中をのぞくと、お母さんが常連のお客さんと世間話をしている。しかし、今日はお店に寄っている時間がない。私はおなかがなったのを気のせいだと思い込み、歩き出す。少し行ったところで、商店街のお店の中でも私が1番お世話になっている古本屋のおじさんがちょうど顔を出し、私が声をかける前に話しかけてくれた。
 「悠ちゃん。今帰りかい??今なら、悠ちゃんが気にいる本がたくさんあるかもしれないよ。さっき大量の推理小説を売っていった人がいてね。寄って行きなよ。」
 優しいおじさんだ。昔から……といっても私の記憶がある限りの話だが、夫婦で仲良く古本屋を営んでいる。私は推理小説が大好きだ。でも小さい頃はおこづかいが足りなくて、なかなか買うことができなかった。そんな時、店の奥にあるせまい台所でこっそり本を読ませてくれた。店がひまな時に作ってくれるおばさんのホットケーキも大好きだった。
 「おじさん、ごめんっっ!!!今日はこれからアルバイトなんだ。また今度、絶対に来るから。おばさんにもよろしく伝えといてっ!!!じゃあね。」
 涙をのんでその場を立ち去ろうと前を向いた瞬間、ひんやりとした、冷気を感じた。
 "宝商店街に涼しい夏を!!!みんな宝商店街でゆっくりお買いもの(*^_^*)"
 と書かれた横断幕が頭上に掲げられている。そしてその下に、大きな氷の彫刻があった。この暑い中で、よく溶けないなと私は感心した。この氷がそれだけ大きいということだろう。周りに置かれていたと思われる小さな氷はすでに溶けてしまい、その場所だけが濡れて商店街のタイルの色が濃くなっていた。大きな氷は東京タワーをかたどったものだった。
 「それ、すごいだろう。」
 古本屋のおじさんが、私が立ち止まったのを見て説明してくれる。
 「昨日ここに置かれたんだよ。何でも、ほら、酒屋の1人娘……沙紀ちゃん。小海沙紀ちゃん、あの子がこういう仕事をしてるらしい。そういえば、最近変な男にひっかかったらしいって酒屋のだんながぼやいてたな。」
 「へぇ〜。そうなんだ?それにしてもすごいね。何日くらいもつんだろう?」
 年が離れているせいか、顔は知っているけれど、あまり話したことはない。このまま世間話をするのも何なので、話題を変える。
 「さぁ。それは分からないけど、昨日よりは間違いなく1回り小さな東京タワーになったよ。ほら、上のとがった部分が丸くなってる。」
 といっておじさんは上を指さす。確かにとがっていたと思われる部分が丸くなっている。
 「ほんとだ。……あ、バイト!!!ごめん、バイト行ってきます!!!」
 思い出して走り出す。後ろからおじさんの声。
 「気を付けていってらっしゃい。」
 「はーい。」
 そう、私が今日こんなにも急いでいるのは久しぶりのバイトだから。久しぶりのバイト……ということは、何か難解な事件が舞い込んでいる可能性がある!!!
 私、沢野 悠は探偵事務所の助手……という肩書のアルバイトをしているのだ。昔から推理小説が大好きだった私にとって、商店街の一角で『探偵事務所開設。助手1人募集します。』と書かれた貼り紙を見つけたとき天にものぼる気分だった。例えその貼り紙がたった1枚しかなくて、それも手書きのすご〜く汚い字だったとしてもだ。そして、その探偵事務所の場所が商店街を抜けて少し公園側に歩いたところにある、小さなアパートの1室だったとしてもだ。
 事務所に舞い込んできているであろう難解な事件のことを考えながら歩いていると、目の前にそのアパートがあった。そして気付くと、さっき遠のいたはずのセミの声と蒸し暑さが私の周りに戻ってきていた。うんざりしながらアパートの横手にある階段を3階までのぼっていく。その間もセミの声が耳について離れない。『大木(おおぎ)探偵(たんてい)事務所(じむしょ)』とご丁寧にふりがなまで振られた手書きの看板がかかったドアの前に立つ。
 (大木さん…いるかな。)
 ドアノブに手をかける。ガチャ……
 「……あれだけ言ったのに!!!カギはかけた方がいいですよ。大木さんっっ!!!」
 玄関に靴があることを確かめて、部屋の奥に向かって大声を出す。
 「わ、何かこの部屋暗い。暑い。くさい!!!」
 続けて大声を出してしまう。返事がないので、短くせまい廊下を通り部屋へと入る。その瞬間、暗くて暑くてくさい理由が判明した。この事務所の主、大木 勇人はこの蒸し暑い中クーラーもつけずにカップラーメンを食べていた。そして、部屋の電球が気持ち悪いくなりそうな感じでついたり消えたりを繰り返していた。窓が開けられているらしく、カーテンがかすかな風に揺れ、同時にセミの声を招き入れていた。部屋に入った瞬間、汗がにじみでる。
 「あ、沢野さん。お久しぶりです。テストはどうでした??」
 私が入ってきたことに気付いた大木探偵がこっちを見る。大木 勇人、27歳独身。27歳という年齢が若いのか、そうでもないのか私には判断をつけることができないけど、大木さんの顔は27歳には到底見えない。20歳で大学生の私とあんまり変わらないんじゃないかってよく思う。でも、事件を解決することに関しては私も一目置いている。といっても普段から、そんなに多くの事件が持ち込まれるわけではない。1年の半分以上はメタボリックな中年男性の浮気調査に費やされる。しかし、夫の靴についたほんの少しの泥から浮気相手が住んでいる場所を特定したり、奥さんの方の服についたたばこのにおいから、たばこの銘柄を当てて同じ会社の浮気相手をぴたりと当てたこともあった。
 (ほんとはすごい人のはずなのに……その能力を存分に発揮できるような事件の依頼がないんだよね……。だからこんなことになっちゃうんだよ。)
 その探偵はにこにこしてこっちを見ている。
 (……考えないでおこう!!!)
 私は決心する。
 「本当、久しぶりですね。テストはね……。」
 「……あ。悪いんですけど、電球買ってきてもらっていいですか??ほら、こんなに暗い所で女の子に仕事させるのは申し訳ないですし。」
 話を振ったのは自分なのに、私の話をきれいに無視して話し始める。本当にすごい人なんだと思う。私は大木さんの頼みごとをきれいに無視し、カーテンをものすごい勢いで開けた。
 「ほらっ。こうすれば明るいですよ。この気持ち悪い電気は消しちゃいましょう。それから、窓を開けるなんていう原始的な方法じゃなくてクーラーつけましょう。」
 そう言ってこの部屋を過ごしやすい環境に整えていく。その間に大木さんは食べ終えたカップラーメンを私が用意したゴミ袋に捨て、テレビをつける。なぜ貼り紙で家政婦募集と書かなかったのだろう。
 「沢野さんもテスト明けでおつかれでしょう。ゆっくり座ってテレビでも見たらどうですか??世の中の動きに敏感になることは、探偵にとって必要なことですよ。」
 大木さんはそう言って1番クーラーがよく当たる涼しい場所に陣取ってテレビを見る。いつ手伝わされるか、どきどきしているに違いない。仕方なく私も隣に腰を下ろす。
 『昨夜21時ごろ、東京都墨田区の自宅アパートで1人暮らしの男性が殺害されているのが発見されました。男性はその部屋に住む、無職"武井 守"さん(35)とみられています。何者かによって刺された跡があり凶器はいまだ発見されていない模様です。現在、警察は犯人の行方を追っています。……次はお天気です。』
 「結構近くですね。最近、こういう事件多いですし、よく考えたら大木さんは1人暮らしなんですから、気をつけてくださいね。」
 「ぼく、一応、探偵なんだけどね。」
 よく分からない返答をする。
 「そういえば、何か新しい依頼とかってありました??」
 「えぇ、いくつかありましたよ。浮気してるかもしれないってだんなさんの素行調査が2件と……解決しましたけど。あと、行方不明になった子猫を探してくださいって依頼と……その子猫なんですけど、3日前くらいからうちに住み着いてたんですよね。でも、さすがにそうとは言い出せなくて。必死に探して見つけ出したフリするの、本当に大変だったんですから〜。あと……ぼくはこれから少しでかけるので、その間に素行調査の報告書を仕上げといてもらえませんか?」
 明らかに、何かを隠した。私の直感だ。何か、他に依頼があったけどなぜか私には隠したいらしい。そうはいかない。
 「あと……何ですか??」
 これ以上ないってくらいの笑顔を向ける。
 「他には何もありません。あなたの仕事は……」
 ガチャ
 大木さんのことばをさえぎって誰かが玄関を開ける音がする。
 「……カギはかけといた方がいいって……誰が言いました?」
 「すみません。」
 誰かが廊下を歩いてこちらに近づいてくる。思わず身構える私に対し、大木さんはゆっくりと腰をあげる。
 ガチャリ
 ゆっくりとドアノブが回され、ドアが開く。
 「大木、家のカギはかけといた方がいいと言ってるだろう。」
 そういって入ってきたのはすごく大柄でスーツを着た男の人。大木さんの……知り合い?
 「桜田!!!久しぶりだね。ようこそ、我が仕事場へ。ゆっくりお茶でも、といきたいところだけど……そうもいかないんだろうね?」
 笑顔で出迎える大木さん。この人のことだから、きっと足音で知り合いだと気付いたんだろう。スーツを着た男の人は低くてよく通る声で話し始めた。
 「そうだな。これだけ暑いと冷たいお茶の1杯でもほしくなるけど、おまえの家の冷蔵庫にそれを期待するのは…………え。誰??」
 やっと私に気付いてくれたようだ。
 「あの……。」
 自己紹介をしようと思い立ち上がる。
 「いいからいいから。沢野さん、あとはよろしく頼みました。報告書を書いたら今日はあがってくれていいですよ。カギはいつものとこに入れといてください。ちゃんと戸締まりして、気を付けて帰るんですよ。はい、桜田、行くよ。急いでるんだろ。」
 大木さんの声はこの人ほど低くはないけれど、優しくて人を落ち着かせる効果をもった良い声だと私は思っている。そんな声で指示されると大人しく引き下がってしまいそうになるが、今日は騙されない。
 「私、この探偵事務……」
 「……報告書??何だ、彼女じゃないのか。」
 私の話をまともに聞いてくれる人なんていやしない。
 「私は、この探偵事務所で助手をしています。沢野悠です。よろしくお願いします。」
 私は少し声を張り上げて自己紹介し、ぺこりと頭を下げる。
 「あ、どうも。大木の大学時代からの友人で今は警視庁で働いています、桜田雅喜と言います。今日は大木に事件解決の依頼をしようと思ってね。悪いけど、ちょっと借りていくね。」
 さすがの刑事さん、というところだろうか。人を安心させる笑顔で答えてくれる。
 「さっ行こう。というわけだから、沢野さん、お願いしますね〜。」
 「はい、がんばって大木さんの助手を務めたいと思います。さぁ行きましょう。大木さん、桜田さん!!!」
 これ以上ないってくらいの笑顔を2人に向ける。私だけ除け者にしようったってそうはいかない。大木さんはきっと、危ないことに私を巻き込みたくないんだろう。そういう優しい人だって知ってる。だけど裏を返せば、それだけ大きな事件だってことじゃない!!!唖然とする大木さんを無視し、玄関へと向かう。桜田さんはにやにやしながら大木さんの顔を見て、私のあとについてくる。あわてて大木さんもついてくる。
 「沢野さん、あなたのやる気は分かりました。それに、あなたがいかに優秀な探偵助手かってことも知っています。だけど今回は犯人が捕まっていません。はっきり言います。殺人事件ですよ。何かあったらあなたの親御さんに何て言ったらいいのか……。」
 そう言いながら私の顔を伺ってくる。確かに大木さんの言い分もわかる。
 「分かりました。」
 「沢野さん……っ。」
 すごくうれしそうな大木さん。
 「今日だけにします。次からこの事件の調査に出る時は大人しくしてます。だから、今日だけお願いします!!!」
 「いいんじゃないのか。今日はとりあえず第一発見者と、被害者である武井守さんの彼女って女の人に話を聞くくらいだ。あとは現場を見ておきたいだろ。」
 桜田さんが助け船を出してくれる。こういうハプニングを楽しむことのできる性格なんだろう。大木さんも観念したような顔をする。
 「じゃあ今日だけって約束ですよ。」
 「はいっっ!!!」
 遊びじゃないことはよく分かってるし、殺人事件が起きてるって思うと少し怖いような気もするけど……すごくどきどきする。小説の中に入ったような気分だ。
 「じゃあ行きますか。下に車を用意してるから、現場まで直行しますよ。」
 桜田さんが言う。
 アパートの下にとまっていた車に乗り込み、現場まで向かう。その途中で事件のことについて簡単に説明してもらう。被害者の名前に聞き覚えがあると思ったら、さっき大木さんの部屋でテレビを見てた時にニュースになっていた事件だった。背中を刺されていたそうだ。凶器はまだ見つかっていないが、先のとがったようなもので刺したあとがあるらしい。発見されたとき、部屋の暖房がついていたらしく異常なほど暑かったそうだ。おそらく犯人は死亡推定時刻を遅らせようとしてやったのだろう、と警察ではみている、と桜田さんは言った。自分で刺すことは不可能な位置であることと、凶器がないことで自殺ではないと判断されている。また、ひと突きで殺していることから力の弱い女性に犯行は難しいのではないか、という話だった。発見されたとき、部屋にはカギがかかっていた。窓は1つ開いていたけど人が出入りできるような窓ではない。そして最も警察を悩ませているのは傷が背中にあるにも関わらず、被害者は仰向けの恰好で発見されたらしい。
 「今のところ俺から説明できるのはこれくらいかな。後は自分たちの耳で聞いてくれ。あの奥にいるのが第一発見者の南さん。このアパートの家主さんだ。被害者の武井って男は無職で、ここの家賃にも困っていたらしい。滞納している家賃の支払いを請求しにここんとこ毎日通っていたって話だ。」
 昨日の今日ということで、現場はまだ騒然としている感じだった。部屋の入り口付近で他の刑事さんっぽい人と話している人が南さんらしい。人の良さそうなおじさん、という感じ。刑事さんが去ったの見て、
 「じゃあ話でも聞きに行きますか。」
 大木さんがそう言って歩き始める。他の警察の人も大木さんの話は聞いているらしく、軽く会釈してくる。そしてその後に続く私の顔をみて不思議そうな顔をする。忙しそうにしていて声をかけられないことは幸いだった。近づく私たちに南さんが気付いて頭を下げる。
 「こんにちは。南さん、何回もすみません。こちら今回の事件解決に協力してもらうことになった探偵の大木さん。助手の沢野さんです。」
 そう言って私たちを紹介してくれる。大木さんに従って軽く頭を下げる。桜田さんが続ける。
 「それで、事件を発見した時のことをもう1度話してもらってもいいですか。わたしに話してくれたことと同じで構わないんです。」
 そう言うと南さんは少し安心したように話し始めた。
 「武井さんのことニュースなんかでご覧になったかもしれないですけど、働いてなかったんですよ。毎日お昼ごろから夜遅くまでパチンコなんかに行ってたみたいです。お隣さんが近所のパチンコで見かけた、と言っていましたから。それで、家賃を滞納していたのでそれを回収するためにほとんど毎日、夜になると武井さんの家に出かけてました。昨日も夜の11時、あの人がいつも帰ってくる時間なんですけどね、に出かけて行きました。」
 ここまでは桜田さんの話にもあった。大木さんはすごく真剣に話を聞いている。
 「だけど部屋は暗かったので、まだ帰ってないのかと思って帰ろうとしたんです。その時なんですけど、この廊下に面した窓が少し開いてることに気付いたんです。その窓に手をかけて少し開けてみたんです。そしたら、ものすごい熱気です。部屋の暖房がつけられていて、30度に設定されていたみたいなんですけど。チャイムを鳴らしましたけど誰も出ませんし、気になってスペアキーを私の部屋から取ってきて入ってみることにしたんです。そうしたら……。」
 私なんかは推理小説の読み過ぎで、第一発見者はまず疑うべき存在だと思っている。だけど、今の話には何の矛盾点もない。大木さんなら、今の話を聞いて何か分かったことがあるんだろうか。大木さんが口を開く。
 「南さんの部屋とこの部屋を往復しようと思ったらどれくらいかかるんですか?」
 「ここは2階でわたしの部屋は1階の入り口横ですから……5分もかかりませんよ。」
 「そうですか。じゃあ南さん以外にこの部屋のスペアキーを持っている人は?」
 「それなら武井さんとお付き合いしていらっしゃった女の方が1人持ってますよ。彼女に渡したいからスペアを1つ作ってもいいかと頼まれたことがありますから。あ、彼女ですよ。」
 そう言って南さんが指さした方向にいた女の人を見てびっくりした。
 「沙紀さんっっ!?!?」
 え、という顔をしてこちらを見た女の人は間違いなく宝商店街の酒屋の1人娘で、商店街にあった氷の彫刻をつくった人だった。
 「え……あ、悠ちゃん……だっけ?ごめんね、大きくなってて気付かなかったな。」
 そういって笑う沙紀さんはすごくきれいな人だった。私とはちょうど10歳違いの30歳のはずだけど、化粧とかをちゃんとしたらもっと若くみえるだろうと思った。だけど、今は顔色が随分悪く、あんまり寝ていないように見えた。
 (古本屋のおじさんが言ってた変な男にひっかかったって話は本当だったんだ。)
 「沢野さん、お知り合いだったんですか?」
 大木さんが驚いたように聞いてくる。
 「はい。私の親が働いてるお店がある、宝商店街の酒屋さんの娘さんで、小海沙紀さんです。あ、沙紀さん。私、こちらの大木探偵の助手として今日ここに来たんです。」
 簡単に紹介する。
 「それなら小海さんも話しやすいんじゃないですか?わたしみたいな大柄の男ばっかりに囲まれて話すよりもね。とりあえず、南さんもご一緒にどうぞ。中に入ってください。話を聞きながら現場を見たいだろう、大木。」
 桜田さんが中入っていく。少し緊張しながら後に続く。
 「ここで仰向けになって倒れていたんだ。」
 そう言って桜田さんは私たちに説明してくれる。テレビなんかでよくあるビニルテープを人のかたちにして貼っている。そして、その足がある方に1脚のイスが置かれていた。
 「このイスは何ですか?南さんが発見した時からあったものですか?」
 大木さんも気になったらしく質問する。
 「あぁ、すまん言い忘れてた。このイスの真上にある、この電球が緩んでたんだ。だから電球でも取り換えようとしてイスに上っているところを後ろから、ということらしい。電球からは被害者の指紋が出ている。ちなみにこの家の中からは、被害者の指紋と……お風呂場とトイレから小海さんの指紋が出ただけだ。」
 桜田さんが答えてくれる。大木さんは無表情でそれを聞いている。沙紀さんの顔色がいっそう悪くなったような気がした。そんな沙紀さんを気遣ってか、大木さんは1人で暖房を確認したり、冷蔵庫を開けてみたり、トイレやお風呂場まで確認しに行った。
 「ありがとうございました。おもしろいものをいくつか発見しました。少し小海さんにお話をお聞きしたいんですが、大丈夫ですか?外に出ましょうか。」
 「そうですね。そうしましょう。」
 私は顔色の悪い沙紀さんを支えて外に出る。
 「大変な時にすいませんが、いくつか質問させてもらっても構いませんか?」
 「はい……。」
 沙紀さんはそう答えるけど、本当に答えられるんだろうかと思ってしまうほど顔色は悪い。
 「ではまず1つ目。武井さんはお仕事をされていなかったとお聞きしたのですが、どこでいつお知り合いに?」
 「あの人はお酒が大好きだったんです。それに仕事はしていなかったんじゃなくてくびになったんです。人件費削減のためです。仕事帰りにいつもうちの酒屋でワンカップのお酒を買っていくのがあの人の日課でした。そのうちよく話すようになって、働いてた頃はすごく明るくて真面目な人だったんです……。」
 ということは、仕事をくびになってからは真面目じゃなくなったと解釈できる。
 「あなたはおうちの酒屋さんで働いているんですね。」
 「出会ったころはそうです。」
 「ということは、今は何か別のお仕事を?」
 大木さんがものすごく探偵に見えてしょうがない。こうやって全く関係のないところから徐々に解決の糸口を探していくんだろう。
 「はい。仕事といえるかどうか分かりませんが、芸術家として彫刻をしています。商店街からもこの間依頼されて、今飾られています。悠ちゃんなら知ってるかな。」
 そう言って沙紀さんは私の方を見る。もちろん知っている。今日見たばっかりだ。
 「もちろん!!!あの氷の彫刻、すごくきれいでした。東京タワーの形なんですよ。こんな暑い中でも意外と氷って溶けないんですよ。」
 そう言って大木さんに説明する。桜田さんもこれは初耳らしく、耳を傾けていた。
 「ある程度の大きさや硬さがあれば数日は大丈夫なんです。」
 沙紀さんも少し元気が出てきたみたいで説明してくれる。
 「彫刻ですか。それじゃあ、その手の傷は彫刻刀か何かでですか。」
 「いいえ。これはさっきの商店街のオブジェを作ったときに氷で切れたんです。いくら氷とは言っても硬いですから、先のとがった部分だと……。」
 そう言いかけて沙紀さんは口をつぐむ。きっと事件のことを思い出したんだ。
 「そうですか。それでは話題を変えましょう。武井さんのパチンコ代というのはあなたが出していたということですか?」
 「……ほんの少し、ですけど。でも私はそのことを恨んでなんかいません!!!刑事さんたちにも何回も説明したんですけど、本当なんです。」
 その時初めて、沙紀さんは警察に疑われていたんだということを知った。なんてかわいそうなことをするんだろうとか考えてしまう私は、きっと刑事には向いてないと思った。
 「大丈夫ですよ、小海さん。女性であるあなたの力で被害者を殺害することは不可能です。きっと犯人を見つけますから。」
 桜田さんが沙紀さんを励ますようにそう言う。
 「なるほど……。」
 大木さんがつぶやく。
 「それじゃあ最後の質問です。小海さんはよくこの家には来ていたんですか?」
 「はい、よく遊びに来ていました。」
 「分かりました。ありがとうございます。……つらかったんですね。」
 「……え?」
 沙紀さんが不思議そうな声を出す。もちろん沙紀さんはつらいに違いない。
 「だけど、どうして誰かに相談しなかったんですか。……こうなる前に。」
 大木さんは1人で続ける。なんとなく言いたいことが分かったけど、私にはどうしてそうなるのか理解できない。
 「大木、どういうことか説明してくれ。おまえが言おうとしていることは分かった。だけど、さっきも言ったように小海さんは女性だ。確かに犯行時刻のアリバイはないが、部屋に指紋もないし、凶器だって見つからない。」
 桜田さんもこの結果にうなずく訳がない。
 「そうですよ、大木さん。話聞いてなかったんですか?それに、沙紀さんはごくごく普通の人です。私みたいな推理小説おたくならともかく、室内の温度を上げて死亡推定時刻を遅くさせるなんてそんなこと思いつくわけないです!!!」
 私はこの話を聞いた時から、そんなことを思いつく人はよっぽど推理小説を読んでいる人だと推理していた。普通ならそんなこと思いつかない。沙紀さんは気付くと、目を見開いて大木さんを見つめている。さっきよりも顔色が悪い。
 「2人ともすごいね。沢野さん、いい着眼点だね。さすがぼくの助手だよ。今からぼくの推理を聞いてくれますか。小海さん。」
 沙紀さんははっとして下を向く。返事はしない。私はだんだん不安になってきた。大木さんの推理力はすごい。今まではずしたことがない。私はそれを知っている。
 (沙紀さん……。)
 「それじゃあ、まず桜田がしてくれた部屋に指紋がないこと。」
 そう言って指を1本立てる。探偵の基本だ。どうやら推理しながらうろうろ歩きまわる、といったことはしないらしい。
 「指紋がないから逆にあやしいんです。あなたはよく部屋に遊びに行く、とおっしゃいました。しかし、あなたは自分の指紋が見つかることを恐れて指紋をふき取りすぎてしまった。部屋を見て回っている時に桜田から聞いたんですけど、冷蔵庫のとってにも指紋がなかったそうです。あなたはもちろん、被害者の分の指紋もなかったんです。おかしいと思いませんか。中には少しですけど食料も入っていましたしね。」
 確かにおかしい。犯人は冷蔵庫から何かを取り出して、指紋をふき取ったんだろうか。どっちにしろ、まだ沙紀さんが犯人だと決める理由にはならない。
 「このことから、犯人は冷蔵庫もしくは冷凍庫から何かを取り出した。そして指紋をふき取ったと考えられます。そして2つ目に凶器がみつからないという話でしたが、おそらく凶器はもう消えてなくなっています。」
 2本の指を立てる。だけど、一体どういうことなのだろうか。凶器がなくなっている??
 「なくなった……ってどういうことだよ。」
 桜田さんが聞く。
 「溶けてなくなった……というべきかな。いや、むしろ溶かされたといってもいいかも知れませんね、小海さん。」
 足りなかったパズルのピースが今ようやく見つかった感じがした。部屋の温度が上げられていた理由は、死亡推定時刻を撹乱させるためではない。凶器である氷を早く溶かしてしまうためだったんだ。
 「だけど、何度も言うが女性の力で刺すのは無理だ。」
 そうだ、まだそれがあった。だけど、大木さんがミスするわけがない。それを知っている私は悲しい。
 「つまり、刺してないってことだよ。ありえない事実は排除するしかない。おそらく被害者はイスの上に立って電球を取り換えていた。そこまでは間違いない。そして冷蔵庫に背中を向けている間に冷凍庫から、硬くてある程度の大きさがある氷を取り出して床に置いた。そして被害者の正面に回り、体を押してイスから落ちるようにすればいいだけです。上を向いている。それに突然のことだったでしょうから、背中から思いきり後ろに倒れるでしょう。そこには凶器となるとがった氷の先端が上を向いて待っているんです。」
 「……。」
 声も出せなかった。本当にそうなんだろうか。信じたくない気持ちでいっぱいだ。沙紀さんの方を見る。
 「……刑事さん。私……本当に、……すいませんでした。」
 それだけ言うと沙紀さんは立ち上がって桜田さんを見た。桜田さんは静かにうなずいて2人は車の方に歩きだした。
 「君は大丈夫かい?」
 2人の後姿をじっと見つめていた私ははっと我に返った。
 「……大丈夫です。驚きましたけど……さすが大木さんですね。一瞬でしたね。」
 笑顔で答える。ちゃんと笑えてたかどうかは分からないけど。
 「彼女が犯人だという核心はなかったんだ。他にも女性がいて、氷を使うトリックを思いつく人がいたかもしれない。だけど、彼女の様子を観察してたら本当に苦しそうだったからね。きれいな人なのに、服装や髪をみてみると全くといっていいほどお金をかけてないことがわかる。稼いだお金はほとんど持っていかれてたんだろうね。詳しい動機はわからないけど……。」
 気づけばもう夕日がさしこんでいてあたり一面がオレンジ色になっていた。行きと同じ警察の人に大木さんのアパートまで送ってもらう。1日がすごく長かったように感じる。
 「ん〜!!!」
 思いっきりのびをしてみる。すっきりはしないけれど気持がいい。ぽん、と私の頭の上に手が乗せられる。
 「……アルバイト、続ける?やめたくなりました?」
 少しさみしそうな顔で大木さんが聞いてくる。もちろん返事は決まっている。
 「もちろん、続けるに決まってるじゃないですか!!! さぁ、とりあえず報告書を書くところから始めましょうか!!!」
 大木さんは少し驚いたような顔をしたけど、すぐにいつもの笑顔に戻った。
 「そうですね。世の中に困っている人がいる限りお手伝いしなくちゃですね。」
 「はい!!!」
 思えばこのとき、私は探偵になるための1歩を踏み出したような気がする。これが私と大木さんが出会って初めての夏、そして初めて出会った大きな事件だった。これからの私たちの活躍にこうご期待☆
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『神様からの手紙』 apricotto

 これは、ある一人の男性に起こった出来事です。

 その男の名は岡崎透。二十九歳の会社員。といっても地方の零細企業で、中小企業の下請け会社だ。透は毎日自家用車で、となり町にあるその会社に出勤する。会社では日がな一日自分のデスクに座って、伝票の計算や部品の発注をする。小さい会社なので、ここ数年新入社員は取っていない。透が一番年下だ。それゆえ何かと気を遣い、一日が終わるとなんとなく体が重く感じられるのだった。
 この会社で働いていて良かったことといえば、帰りがそう遅くならないことだった。多少の残業はするが、いつも八時ごろになると家に帰られた。小さな会社で、節約できるものといえば電気代くらいしか無かったのか、とにかく会社に残っていると、みな部長に追い出されてしまうのだ。「早く帰れお前ら。家で奥さんが待ってんだろ。」というのが部長の言い分で、他の社員はやや表情を和ませ帰っていくが、生憎僕に妻はいない。大きなお世話だ。会社には女性社員は事務の吉田さんひとりで、しかし四十歳を少し過ぎた彼女を「紅一点」と呼べるかは疑問だった。
 今日も透は、街灯もやや途切れ途切れな道に愛車を走らせてアパートに帰る。愛車は、大学を出た一年目にローンで買った。少し古い型だが、気に入っている。アパートに着くとエンジンを切り、ギアとサイドブレーキを確かめ、バックミラーを直して車を出る。いちいち几帳面なその動作は透の習慣になっていた。階段の下の郵便受けから二通の封筒を取り出す。と、ふと感じた違和感に、透は封筒しげしげと見つめた。一通はガスだか電話代だかの請求書だった。もう一通の封書が違和感の原因だった。
足早に階段を昇ると部屋に入り、玄関のドアに丁寧に鍵を掛ける。もう一度手に握られた封書を見下ろす。それは、真っ白い封筒だった。表には「岡崎透様」と書かれ、裏には赤くて丸い、光沢のあるシールで封がしてあった。それだけだった。そのほかのもの、家の住所や切手もしくは料金受取人払郵便のマークは一切ついていなかった。差出人の名前すら書かれていないのはどういうことだ。透は憤慨するような気持ちで封筒を眺めた。そして、あることに気づいた。最初見たときは気づかなかったが、封筒の裏にデザインのように刻まれた文字。KAMISA…
「かみさま?」
 なんてふざけた手紙だ!という気持ちと同時に、一つの恐ろしい考えが浮かんだ。すなわち、「自分のことを神様なんて名乗るやつにろくなやつはいない。」ネットの書き込みや犯行声明のハンドルネーム、はたまた封筒に入っていたウイルスへの感染で死者が出た事件のことなどが、一気に透の頭の中を巡った。
これは本当に神様からの手紙なのだろうか。(だが、「神様」って何だ?そんなモノがいるとは到底見当もつかない。)それとも何かの罠か。しかし、透にはそんな悪質な罠を仕掛けられるような覚えはなかったし、第一自分が何か分からない大きな流れの様なものに絡め取られそうになっているなんてことは、それも見当もつかないのだった。
 散々ためらったあげく、透はこの怪しい封筒の封を切ることにした。彼はその封を開けた。中から出てきたのは、一枚の手紙だった。

拝啓 岡崎透様

  おめでとうございます。あなたを天国へご招待いたします。
  来週の水曜日、お越しください。
敬具
神様より
 実に簡潔な文面だった。文字は黒いインクで書いてあり、たどたどしいと形容していいのか、形の良いと形容すべきか際どい面長の字が並んでいた。透はますます訳が分からなくなった。一体何者が何の意図を持って自分にこんな手紙を送ってくるのか?大体何がおめでたくて、なぜ自分が招待されるのか、招待しておいて「お越しください」の一言しか書かれていない説明、「神様」の正体……。何もかもが謎だった。
 透は軽い頭痛を覚え、リビングのソファーに横になった。しばらくすると、だんだん馬鹿らしく思えてきた。自分がこんな訳の分からない手紙に振り回されているなんて。よく考えなくとも、招待されたとはいえ行き方が分からないのではどうしようもない。透はこの手紙に対して無視を決め込むことにした。それが最善の策のように思われた。来週の水曜日まではあと六日もある。その日が来て何がどうなるか、見てやろうじゃないか。

 その「来週の水曜日」も、透にとっては平凡な日常だった。もっといえば、透はもう手紙のことなど忘れていた。いつも通り出勤し、デスクに着き、仕事を始め、お昼前にふと卓上カレンダーを見るともなく眺めているとき、急に思い出した。今日がその手紙の言うところの「来週の水曜日」であるという事実に。思い出して焦った。自分が天国とやらに行くチャンスはまだ通り過ぎていないだろうか。奇妙な感覚にとらわれ、その日一日は神経質になって過ごしてしまった。朝一番に気づかなかったことが悔やまれた。興味が無いとはいえ、自分の身に得体の知れないことが起ころうとしているかもしれないのだ。その瞬間を自分は見逃してしまったかもしれない……。半ば恐怖にも似た感覚で家路に着き、食事をし、風呂に入り、着替えをすませたが、何も起こる様子はなかった。なんだ、やはりでたらめだったのかと心の中で呟くと、透はベッドに入った。しかしその夜はなかなか寝付けず、結局次の日は寝不足で出社することになってしまった。

 次の日、会社から帰っていつものように車を降り、ポストを開けると、そこには存在感を示しながら横たわっていたのは見覚えのある白い封筒だった。とっさに周囲を確認すると、一気に階段を駆け上がった。自分の鼓動が耳にまで響いてくる。なぜ?なぜなぜ……。透は再び絶望のどん底に突き落とされたような心持ちで呆然と封筒を見つめた。裏面には透かしが入ったようなKAMISAMAの文字。大体、何故住所も切ってもない封書がこのポストに届くのか。もしこのふざけた名を名乗る差出人の手で直接届けられているのだとしたら……。背筋に一瞬寒気を感じ、透はその恐ろしい考えを振り払うかのように強く頭を振った。そして気になるのが、約束の日を過ぎて再び送られてきたこの手紙の存在だ。今さら一体何の用があるというのだ。まさか、あの曖昧な「来週の水曜日」とは差出人の勘違いで、実はその日はまだ来てはいないのか?そして、僕がきちんと差出人のいうところの「天国」へ辿り着けるように、更に詳細な情報を送ってきたのか?
いくら考えても、謎は深まるばかりだった。とにかく透はその手紙の中を確かめてみることにした。現れたのは、見覚えのある筆跡の書き付けられた、以前と同じ簡素な一枚の紙だった。

拝啓 岡崎透様

  先日の招待状を受け取られましたか?
  水曜日には、お待ちしていましたがいらっしゃいませんでしたね。
非常に残念に感じています。
次回は是非お越しください。火曜日にお待ちしています。 
敬具
神様より
 奇妙な手紙であった。依然として透がどう行動すればいいのか、その指針になるようなことは一切書かれていない。しかも、自分の行動は謎の人物に把握されているのだ。その上、相手はまだしつこく自分を誘ってきている。次の火曜日、自分が行動を起こさなければどうなるのだろうか。考えただけでも透は目眩がするようだった。とにかく、次の期日まではあと五日ある。その間に何とか対策を考えなければ……。透は手紙を丁寧に封筒に戻し、リビングのテーブルの隅に置くと、軽い戦慄を覚えながらも寝室にひきあげていった。

 手紙に記された「神様」と「天国」の意味。一体どう動けば自分は差出人の期待に沿えるのか。そしてこの奇妙な手紙の呪縛から解かれるのか。今日透はそんなことばかり考えている。一度は招待を受けようと決意した透だったが、正体不明の相手の思惑通りに行動するというのも癪だった。それに、初めに感じた「危ない相手」という印象は未だ払拭されずに残っている。何とかしなくてはと焦れば焦るほど、目の前が闇に閉ざされるような感覚に苛まれるのであった。と同時に、透は周囲の視線を以前より敏感に感じるようになっていた。そんなだから、会社でももちろん仕事に集中できない。まあ以前からそれほど忙しい仕事ではなかったから、そんな透の変化に気づくものは社内に一人としていなかったのだが。透は全身を使って、自分に注目している人物を察知しようと懸命に努力した。どうやら会社の者は自分に興味は無いらしかった。しかし、そう分かってもなお透は気を抜くことができなかった。自宅から会社への道のりや、車の乗り降りにも細心の注意を払った。しかしそんな透の努力も、一向に効果を見せないのだった。休日は更に酷かった。極力人の目を避けたかったので、一日中何をするでもなく家で過ごした。一人でいるとふいに頭の中に青白い二つの眼が浮かび、自分に覆いかぶさってくる様を想像したりした。透はいい加減うんざりしてきた。自分がこんなに振り回されていることが馬鹿らしかった。しかし、そうせずにはおれなかった。透は、自分が広い海原で波に揉まれる哀れな硝子ビンにでもなったように感じた。

 月曜の夜、憔悴しきった透はもうどうにでもなれと思いながらベッドに身を横たえ、瞼を閉じた。少し頭痛がしていた。寝苦しい夜だった。うつらうつらとしたかと思うと夢を見た。熟睡できず何度も目を覚まし、目を覚ます度にじっとりと汗をかいていた。一晩中ぼやぼやっとした夢を見続けた。しかし、覚醒すると同時にその曖昧な記憶は潮が引くように消え去ってしまうのであった。朝方、どこか遠くで教会の鐘の音が鳴るのを聴いた。鐘かどうか聞き分けるのも曖昧な音だ。その印象的な音色は、透に今夜幾度目かの覚醒を迫った。目覚めの曖昧な記憶の中で、透は暖かい光を見たような気がした。それはカーテンから洩れる朝日だったかもしれない。透はここ数日忘れていたような安らかさに、一時包まれた。
目覚めると、昨夜の寝苦しい一夜が祟ってか、やはり身体には疲労が残っていた。とうとう今日が、あの手紙に書かれていた火曜日だ。透は自分を律して気を引き締めなおさねばならなかった。しかし、この期に及んで透は自分が今日どのように行動すべきかについて、とうとう結論を出せなかったのである。自分ではどうしようもないが、じわじわと追い詰められているような感じは、非常に気味が悪かった。しかし、耐えねばならなかった。もはや、透に求められているのは忍耐だけだった。
そうして透はなんとかこの「火曜日」をやりすごした。「天国へ行く」ということについて、自分ではどうしようもなかったのでどうもしなかった。やはり不安だけが影のようにつきまとった。それも無視してやりすごした。

次の日のこと、会社からの帰り、透は緊張していた。ハンドルを握る手にも力がこもった。結局昨日も一日何も起こらなかった。そのことが不気味だった。そして前回、指定されていた翌日に届いた二通目の手紙。今日もまた、あの手紙がポストに届いているのではなかろうか。
車を止め、注意深く周囲を一瞥した後、ゆっくりとした動作で車を降りた。果たして手紙は届いているのか。ポストをあけた。そこに手紙があった。例の封筒に入った、まぎれもない三通目の手紙が。
透はもうためらわなかった。ゆっくりと階段を昇りゆっくりと鍵を開け、部屋に入ると丁寧に鍵をかけた。そして封筒を開いた。読んだ瞬間に、卒倒しそうな感覚に襲われた。

親愛なる 岡崎透様

  あなたが二度の招待に応じなかったのはなぜでしょう。
  わたしはもう我慢がならない。
  これ以上の猶予は無いと思ってください。

神様より
 もはや脅迫状だ。透は身の危険を感じ、とっさに家中の証明を落としてベッドサイドの白熱灯のみをつけると、その場で全身の力が抜けたようにうずくまってしまった。ひどく空腹を感じたが、食事を摂る気にはなれなかった。一、二分か、十分か、しばらくの間、透はそうしてじっとしていた。ふと、お祈りでもしてみようかと思った。「神様」のおかげでこんな思いをしているというのに、神頼みをするなどなんと滑稽なことか、と自嘲せずにはいられなかった。だが、お祈りというほど大層ものでもない。ただ手を合わせるようにして自分の心中をひとりごちてみるだけだ。そう思い直すと、少し楽になれる気がした。透はお祈りの方法など知らない。普段から信心深い方ではないのだ。多くの日本人がそうであるように、せいぜい正月にイベント気分で神社に参るだけだ。透は、ふと白いイブニング・ドレスを着た、敬虔なキリスト教徒の子どもをイメージした。そして両手を組むようにすると、軽い気持ちで呟いた。
「神様。こんな窮屈な生活はもう沢山だ……。天国へでもどこへでも、連れてくなら早く連れ出してくれ……」
 一瞬、ぐらりと地面が揺れたような気がした。いや、いつもの頭痛だろう。最近いつもそうだ。そんなことをあてもなくつらつらと考えていると、ふと、違和感としかいいようのない感覚に包まれた。ん?と思い、立ち上がろうと足に力を入れる。しかし、透の意思とは裏腹に足はふらふらとして力が入りそうも無い。ああ、立ち眩みか。そう思った瞬間、なにかぐにゃっとしたものが透の足に触れた。
「!」
 驚くのも無理はない。ここは透の家の寝室なのだ。気味の悪い感触に戸惑いながらも、透は多少の冷静さを取り戻しつつあった。足に「触れた」のではなかった。全くわけが分からないが、ともかく、寝室の地面がぐにゃっとしたものに変貌しつつあるのだ。透はその「ぐにゃぐにゃ」を確かめるように、慎重に数歩踏み出してみた。すると、更に不思議なことには、地面のぐにゃぐにゃがまるで意思を持ったかのように動き出したのだった。
 透はなす術もなく地面が動くのに身を任せた。部屋にあったはずの小さなベッドサイドの明かりも、倒れてしまったのか今はわずかにぼんやりした光を漏らしているだけで、周囲の様子を伺うのに何の役にも立ちそうになかった。
 一体なんだってこんな奇妙奇天烈な現象が自分の身に起こっているのか。それすらも考える猶予を与えられないまま、透の身体は謎のぐにゃぐにゃの中に、ぱっくりと取り込まれてしまった。

 静かに、目の前がひらけた。眩しく、暖かい光に満ちていた。足元からは、ふわふわとした感覚が伝わってくる。しかし地面は確実に質量を持っており、踏みしめるとその分僕の体重を支えてくれるのだった。
そして、目の前には一人の男性が佇んでいた。
それは、確かに神様だった。
 今まで僕の手元に届いていたのは、まぎれもなく神様からの手紙だったのだ。透は瞬間的に理解した。
 それが分かってしまうと、急に全身から力が抜けていった。
 目の前の神様に尋ねたいことは、山ほどあった。
 なぜ自分をここへ呼んだのか。あの手紙は一体何だったのか。そもそも僕はどうやってここへ来たのか。この空間はどこなのか……。
しかし、透は魂が抜けた様に、ただ、ぽかんとしていた。そして、ただ一つの思考が、透の頭に蘇ってきた。
それは、もう恐怖に苛まれる日常には終止符が打たれたということだった。
 その考えが実感となってむくむくと膨れていくとともに、透の身体にも徐々に力が戻ってきた。
そしてやっと透が口をきこうとしたとき、その重い口を先に動かしたのは、神様の方だった。
「やっと、来てくれましたね。」
 透は、一つ小さく頷いた。
「わたしが、あなたを呼んだのです。既に気づいておられるとは思いますが。」
「なぜ、呼んだんですか」
 それは、透が何よりも気になっていた質問だった。得体の知れない何かと、ただ耐えることでしか闘えなかった日々。たった二、三週間前の手紙が届く以前の生活は、透にとってはもう遠いもののように思われた。
しかし、神様はそれには答えずに、少し表情を曇らせるとふぃと横を向いてしまった。透は焦った。ここで神様に機嫌を損なわれてはまずい。確実に、まずい。
そんな透の葛藤をよそに、神様は涼しい顔で次の言葉をつないだ。
「よく聞かれる質問ですが、『かみさまはほんとうになんでもできるのか。』あなた、どう思いますか」
 透は、あまりにもいきなりな質問の意図がつかめず、あっけにとられたような表情で神様を見つめることしかできなかった。
「答えは、否です。わたしにもできないことがある。それは、何でしょう」
 神様はそう自分で聞いておいて、僕が答える間も無く次の言葉をつないだ。
「それは、一度滅びたものを、再び蘇えらせるということです」
……。
 沈黙の時が流れた。
 僕は、いきなり何を言い出すのかと半ばあきれながら、その言葉を反芻していた。なにか、小さい魚の小骨がのどに刺さった様な、違和感とも不快感ともつかぬ予感めいたものを、感じないでも無かった。
神様は、穏やかな微笑をその顔面に浮かべながら、じっと僕のことを見つめ返してくる。
 さっと、不穏な陰りが僕の思考をかすめた。
 今、何かが分かりかけている。
 ここはどこだ?ここは天国だ。そう、天国。ではここにいる僕は?
 嫌な予感を決定づけるように、神様の一言が響いた。
「そう、あなたは、もうここから帰ることはできません」
 不意に、唐突に、僕は会社の同僚のことを思い浮かべた。それから実家の母のこと、一人暮らしの妹のこと。
 僕が、あちらの世界に帰らなければ、彼らはどう思うだろうか。
 そして僕は、一体「どうなったということになっている」のだろうか。過労による突然死?そんなありふれた言葉で、僕のこの珍妙な体験は片づけられてしまうのだろうか。
 透は急に、自分ひとりが置いてけぼりを食らったように感じた。
 今だって、ここで僕がこんなことを考えながら、しかしどうにもできないで途方に暮れていることすら、彼らは知らないのだ。
 例えようの無い喪失感を僕と共有してくれるのは、胡散臭い微笑を称えた、この強引で利己的な神様、ただ一人なのであった。
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『ヒューマンストライク』 62106

●20××年5月14日
ガタンゴトン。ガタンゴトン。ガタンゴトン……
相変わらず、いや、相変わるはずもなく、長い。2度目の乗り換えを終えたのが、今から10分ほど前のことだから、到着まであと5分くらいといったところだろう。最初の駅ではまだ、夕闇の中にほのかな明るさが残っていたが、今はもう人工の眩い光が、光の帯を作りながら窓ガラスの向こうを駆け抜けている。ガラスに映し出された自分の姿を見て、伸太(しんた)は大きなため息をついた。
「……はぁ。相変わらずや。」
ただでさえ、どれだけ背伸びをしても中の上までしか届かないその冴えない顔は、通学の疲れによって、そのわずかな冴えを見事なまでに失っていた。
「こう、二度見したらその度に少しずつ改善されていったりせえへんのかな。これ。」
そんなことなどありはしない。というより、あった方が怖い。○○えもんでもいたら話は別だろうが、それもありはしないことは、伸太も重々承知の上である。それでも考えずにはいられないのが、伸太の辛い現状なのである。
そんな儚い妄想に伸太が身をゆだねているうちに、一日の1/8以上を占める退屈な時間は、今日も無事終わりを迎えようとしていた。
 
「マモナク、高井田、高井田デス。」

 少し硬く味のない、電子音声のアナウンスが車内に響く。2年前の電子制御システムの導入で、車内に響くのは決まってこの声となったが、どうもこの声はあまり評判が良くないらしい。伸太自身もこれには多少不満を感じていたが、その理由はなぜもう少し可愛い女の子の声にできなかったのかという一点のみであり、他とは幾分方向性が違っている。
駅に入り、しだいにその速度が落ちていくと、伸太は少し重い荷物を大儀そうに肩にかけ、ドアの方へと歩みよる。しかし頭の中は、どうすれば自分の机の引き出しからネコ型ロボットが現れるかについての妄想の真最中である。こういう点においては、伸太は実に器用だった。
やがてごく静かに、ごく滑らかに車両はホームに停車した。時間ぴったり、寸分の狂いもない。この正確さと騒音の無さ、そして安定性が、電子制御システムの一番の売りらしい。そうした努力を車内の娯楽性にどうして向けられないのかと、伸太は時折思うこともあるが、今は1日の疲れと佳境に入った妄想でそれどころではなかった。伸太は少しうわの空になりながら、ホームを足早に歩いていった。



●20××年5月15日
 薄暗い部屋のなかで、パソコンの明かりだけが煌々と伸太の顔を照らし、キーボードを叩く音とマウスのクリック音だけが、静まり返った部屋に小さくこだましている。机に備え付けられている少しレトロなデジタル時計を見ると、いつのまにか日付が変わっていた。
「あぁ、またやってもうた。」
伸太は心底ガッカリした。明日もまた朝早くから大学の講義がある。にもかかわらず、どうしてこうも時間を無駄に浪費して、疲れを溜め込んでしまうのかと、毎夜自分を情けなく感じるのが、伸太の日課であった。そして、そうやって自分を卑下しながらも、そこからさらに2時間はパソコンと向かい合うのも、伸太の日課なのであった。
「このゲームもそろそろ飽きてきたし、ちょっと辺りをぶらついてみるか。」
適当な理由をつけて、一度も会ったことのない"友人"達に別れを告げると、伸太は適当にリンクをたどって、フラフラとネットサーフィンを始めた。他人の日記に取りとめのないコメントを残したり、新しいゲームの情報を入手したり、買いもしない家電の最安値を調べたりと、見事なまでに生産性の無い行動をただ続ける。まさにネット徘徊である。そうしてウロウロしながら一通り見るものを見終え、次はなにをしようかと思案している最中、伸太の目は、たまたま通りかかったサイトのあるバナー広告で止まった。

"これで人間は、新たな一歩を踏み出すことができます。"
「え……ホンマに?」
 伸太はそのバナー広告にしばし、目を奪われた。無理もない。今まで伸太の不毛な妄想の中に幾度として現れていたものが今、目前の広告で宣伝されているのである。興奮するなという方に無理がある。がしかし、しばらくすると伸太の視線は徐々に熱を失っていった。
「そんな訳ないやん。いや、だってあり得へんし。ムリムリ、絶対詐欺やコレ。」
この手のバナー広告は、突拍子のないものから卑猥極まりないものまで、星の数ほども存在するが、その大半が嘘や過大広告などを用いた詐欺まがいの商品であることを伸太はその経験から知っていた。そして、これも確実にそうであると、伸太は確信したのだ。そして同時に、伸太はまたしても、自分に心底ガッカリした。
「こんな広告に一瞬でも惹かれるとは……オレももう終わったな。」
伸太の心の底は、一体どれだけ浅いのか。日課にはない2度目の心底を体験した伸太は、時計の表示が就寝限界時刻を示していることを確認し、そっとパソコンの液晶を閉じた。



●20××年5月19日
 今日も、伸太は情報世界を徘徊している。そしてもうすぐ、日課の時間が迫っている。しかし今日、日課はまだにも関わらず、伸太はすでに心の底にいた。それは昼間の出来事に端を発して、自分の無力さにどんよりと澱んでしまっているのが原因であった。
 ここ数日、伸太はどうしてもあることが頭の隅から離れないでいた。そう、例のバナー広告である。実はあの日、伸太はパソコンを閉じる前に、例のバナー広告が置かれているサイトをお気に入りに登録していた。伸太の視線に残ったほんのわずかな熱が、伸太の衝動的な行動に駆り立てたのである。それから毎晩、伸太には新しい日課が一つ増えた。徘徊するたびに、どうしても最後はそのページにアクセスし、その広告を見ずにはいられなくなってしまったのである。
「もしかしたら……いや、そんなはずは……。」
毎夜それを見るたびに、伸太は広告をクリックするか否かで葛藤していた。しかしそれを決心するために必要な勇気は、伸太一人のものでは到底足りず、それ故に日々、ただ悩み続けていた。
 そこで今日、伸太は思い切ってある行動に出てみることにした。大学の友人に、その広告の話をしてみようと考えたのである。伸太はあまり友人が多いほうではなかったが、それなりの人脈は持ち合わせているつもりであった。そしてその中から、最も相談相手としてふさわしいと考えたのは、同回生の猛(たける)だった。猛は大学に入ってから出来た友達であるが、伸太の中では最も信頼できる友達の中の一人に数えられるほどの人物である。性格は明るく、とても爽やかな好青年で、その面では伸太は彼に憧れてもいた。そんな彼ならば、多少馬鹿げたの話であろうと、真剣に聞いてくれると考えたのである。

"聞いてほしいことあるんやけど、ちょっと813学習室来てくれへん?"

昼休み、昼食を済ませた伸太は、メールで猛を個別学習室に呼び出した。幸い二人とも、この次は空きコマになっていて、しばらく時間に余裕があった。10分ほどして、猛は個別学習室に姿を現した。
「おぅ。」
「お疲れ。」
いつものように軽いあいさつを交わすと、猛は伸太の前の椅子に腰掛けた。個別学習室は、その名の通りの1人用の学生用学習室であり、横長の小さな部屋に、パソコン内蔵型の机と椅子が1セットだけ置いてある。そのため、伸太はあらかじめ椅子をもう一脚、隣の部屋から拝借しておいたのであるが、それにしても、大学生が二人向かい合って座ると、傍から見ればどう考えても不審な二人組に見えることであろう。互いにその危険性をすばやく察知して、すぐに話は本題に入った。
「で、話ってなに?」
伸太は、どういうべきか少し悩んだ。正直に相談するのは、やはり恥ずかしい。しかし、ここまで来たからにはもう後戻りは出来ないと腹を括った。そして一部オブラートを被せ、省略・修正すべきところはうまく補正した上ですべてを話した。
 猛は、少し間を開けて答えた。
「ふーん。気になるんやったらクリックしてみたらええやん。どうせ伸太のパソコンのことやから、ウイルス対策とか万全やろ?」
「いや、でもなぁ。」
「いやなんやったらやめといたらええやん。もうきれいさっぱり忘れーや。どっちにしろ、伸太がズバッと決めなしゃあないって。」
伸太は忘れていた。猛は見た目通りのすっきり、はっきり、きっぱりした男だった。そして、猛の出した答えは至極明快でかつ、的を射たものだった。
「これで万事解決やな。じゃあオレはこれで。」
爽やかだった。今日の猛は、いつも通り、爽やかだった。そして、一閃にして核心を貫くすばらしい回答であった。伸太は、猛のこういうところにこそ憧れていた。そして、恐らく一生こうはなれないであろう自分に心底失望したのだった。



●20××年5月20日
 伸太はめずらしく、部屋の窓を開けた。長い間開けられることがなかったからか、なかなか開かずに手間取ったが、なんとか少しだけ開けることができた。外からすこし冷たい柔らかな風が、すうっとカーテンを揺らし、伸太の顔に当たる。そして伸太はパソコンの前に座った。日課の時間はもうとっくに過ぎ、日付は翌日に変わっていた。しかし今日の伸太はそんなことを、気にも留めていなかった。伸太の視界には、キラキラと色を変えて点滅する24の文字と1つの記号からなる文字列とそれに伴う小さな挿絵、それらに照準を合わせる白色の小さな記号だけしか映っていない。先ほどから伸太は頭の中で、猛の言葉を何度もリピート再生していた。そうするうちに、伸太は心の底から這い上がり、ようやく、勇気を溜めることができたのである。そして伸太は、大きくひとつ深呼吸をして、右手の指先に力をこめた。

カチッ。

 伸太は、その後どのような画面がそこに現れるか、これまでの経験から幾通りかの予想をしていた。しかし、その予想はどれもはずれていた。画面はちゃんと表示された。しかし、それは伸太の経験上見たこともないタイプのものであった。たしかに、商品は紹介されている。しかし、こういった広告を用いるタイプのものは通常、様々な装飾や大々的な宣伝文句などが並んでいる画面が現れるものであるというのが、伸太の経験則であった。しかし、今回のものはそれとは大きく異なっている。真っ白な背景に、簡素で少量の説明文と、小さな挿絵が一つ。それに、価格表示と購入へのリンクが貼ってあるだけ。しかも、すべてが黒字で、装飾などどこにも見られない。
 これは、ひょっとすればひょっとするかもしれない。もし本物だったなら、夢のような話である。伸太の目が微かな熱を帯びはじめた。しかし、伸太の目はまた冷たい何かを捉えてしまった。価格表示である。
「一、十、百、千、万……は、八万五千円……。」
伸太は三度、ゼロの数を数えた。そして、すこし力んでパソコンの液晶を閉じた。



●20××年 5月22日
 今夜も伸太は液晶画面と向き合っていた。あの夜と、ほとんど同じ光景である。大きく異なっているのは、白い記号が、購入へのリンクにその標準を合わせていることである。
 あれから二日間の間に、伸太はずいぶんと思案した。八万五千円。伸太のネットバンクの残高に、今プリペイドカードに入っている今の手持ちをすべて加え、部屋中探してやっと見つけた、幼い頃のブタ型貯金箱に入っている現金を足して、八万六千三百八十二円であった。恐らく送料も含めて、八万六千円くらいになるだろうから、残りは三百八十二円……。と、ここまでの計算をすぐに行い、残りの時間はすべて2択のどちらを取るかで悩んでいた。伸太は今年の初めにアルバイトを辞めた。理由は些細なことであったが、しばらくはもうアルバイトはしたくなかった。残りのお金でいけるところまでいこうと考えていた。しかし、もし今そのほとんどを使い果たし、残りが三百八十二円となってしまったとしたなら。大学生が全財産三百八十二円だけで、どうやって生きていけというのか。まずもって無理だ。そんなことは不可能である。それに、親に頼るのも無理だ。理由を聞いて、納得するはずもない。よって購入は限りなく不可能に近い。というのが伸太の最初の見解だった。
 しかし、2日の間に、すこしずつ考えは変わっていった。そして今では、購入は限りなく可能に近いという結論に至っていた。少しの間くらいなら、三百八十二円でなんとかなるかもしれない。アルバイトだってまた始めよう。そうすれば、お金はいずれまた貯まる。今、伸太の目は熱く輝いている。そして、伸太はついに、マウスの左クリックに手をかけた。
 大きく開いた部屋の窓からは、涼しげな風がなめらかに吹き込んでいた。



●20××年5月23日
 伸太は今朝、本当に久しぶりに、とても朝早くに目覚めることができていた。普段よりも1時間以上も早く、目を覚ましたのである。目覚めてすぐに洋服ダンスをあさり、適当な服を手当たり次第に着るや否や洗面所へ駆け込むというのが伸太の日課であったが、今日はそんな必要はない。窓から入り込む朝日を浴びながら、大きな背伸びをし、伸太はゆっくりと洗面所へ向かった。
 洗面所での用事を済ますと、伸太は部屋に戻り、服を選びながら昨日の夜のことを考えていた。昨日の夜、伸太はついに大きな決断をした。その結果として、今日から伸太は貧しい学生である。しかし、伸太は辛く落ち込んだ気持ちにはなっていなかった。もし、あれが詐欺だったとしても、今の自分ならきっぱり諦めることができると、伸太にはなぜかそう思えていた。
 身支度を整えた伸太は、次に朝食を食べることにした。しかも、テレビを見ながら。こんな時間にこんなことをするのはもう1年振りくらいだろうか。ならば次はまた一年後だろうかと、伸太はやや感慨にふけりながら、朝食を準備した。
 そして、テレビのチャンネルを朝のニュースに合わせ、ゆっくりと朝食を始めてから5分ほどたったころだろうか。ニュースに臨時速報が入った。それを見た伸太はテレビ画面に釘付けになった。
 そのニュースは、羽田で、飛行機の墜落事故が起きたというものであった。飛行機の墜落事故は多数の死者が出る大惨事の可能性もあり、確かに注目すべきニュースだ。だが、伸太が釘付けになったのは事故自体にではなく、その事故の原因であった。どうやら飛行機は離陸してからそんなに時間が経たないうちにエンジンのトラブルがあり、無事空港に着陸することはできたが、乗客の一部に怪我人が出たという程度の、行機事故というよりも故障に近いものであった。しかし、その原因が驚くべきものだったのである。
 飛行機のエンジントラブルの一つに"バードストライク"というものがある。これは、鳥がジェット機のエンジンのタービンに吸い込まれ、それによってエンジンが故障するというものであり、今回の事故もそれに近いものであった。問題は、吸い込んだのが人間であったという点である。つまり、"バードストライク"ならぬ"ヒューマンストライク"が起きたというのである。しかし、離陸した後の飛行機のエンジンに、人間が吸い込まれるなどあり得はしない。しかも、最新科学による検証では、機体のエンジンで現在発見されているのは、成人男性の遺体の一部と、黄色い未知の金属片、そして見たこともない電子部品の破片らしきもののみだったということであり、パラシュートやグライダーなどを吸い込んだ形跡は見られないとのことであった。
 伸太はあまりの驚きに、しばらくは声も出なかった。これはもう、アレしか考えられない。アレならば、すべての説明がつく。黄色い金属片、電子部品、空を飛ぶ人間。
「……そうや、あの広告!」
伸太は急いであのバナー広告を確認するため、パソコンを起動した。慌てていて上手く操作ができず、気持ちだけがますます焦ってしまう。そして、やっとのことで表示されたサイトからはもう、あのバナー広告は消えていた。履歴をたどってみても、もうそのサイト自体が消され、存在していない様子だった。
 それからしばらくして、ようやく落ち着きを取り戻した伸太は、パソコンに一通のメールが届いていることに気付いた。
野火 伸太様

当社の製品を御注文いただき、誠にありがとうございます。
ですが今回、弊社の身勝手な都合により、誠に申し訳ありませんが、商品をお送りすることが出来なくなってしまいました。
代金に関しましては、全額返還させていただきますので、どうか御容赦くださいますよう、お願い申し上げます。
 
どうか、良い未来をお過ごしくださいますように。

from Traveling Heart Corporation
 メールを読み終えると、伸太はパソコンを閉じ、一つ大きく息を吐いた。結果として、伸太の手元に代金は戻ることとなり、すべては元の通りである。友人の猛も、きっと伸太の相談のことはもう覚えてはいないだろう。そして今日もまた大学への長い道のりを進む。以前となんら変わりのない日常の始まりである。伸太は荷物をすっと肩にかけ、朝の明るい日差しの中を、駅へと歩いていった。



●20××年5月24日
今朝も爽やかな朝を迎えることができた。朝の日差しはやはり体を元気にしてくれる。さて、昨日送ったメールは無事についただろうか。なにしろ少し距離があったから、上手く届いてくれたか心配だ。いや、そうか。大丈夫、きっと届いている。そうでなくては、今のわたしはここにはいないのだから。  <終>
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