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大阪教育大学 国語学特論2
受講生による 小説習作集

詩織

2009年度号
「秋」の思い出 052108
はるかの日常 072101
Oh My ガーター☆ 072109
菜の花 072108
スイカ 072102
ひとり 072104

「秋」の思い出
 052108


 
 小さな薄い雲がかかった空。今は晴れているが夕立がくるらしい。それが信じられないくらい雲の上の空はきれいに澄んでいる。
「空が高い」
 この言葉を聞く度、僕は高くない空があるのかと思う。しかし、この季節、よく空を見上げる僕は今こう思う。
「空が高い。」
 実家の縁側で空を見上げ大きく深呼吸をして立ち上がる。しばらく座っていたからか、腰の筋肉が固まっている。無精ひげを触りながら腰を伸ばす。「よしっ」と決意を固めて歩き出す。
「おかん。一回帰るわー。」
 台所の母に向かってそう言い、玄関へ向かう。
「なんやもう帰んの?ちょっと待ち!」
 母の声と母がバタバタとせわしなく動く音がする。
「何かあんの?ちょっとよらなあかんとこあるから急いでんねん。」
 くつをはきながらできる限り大きい声で言う。
「せわしない子やなー!ちょっと待ち!」
「はよしてやー」
 せわしなさは遺伝するものか、と思いながら荷物を持つ。台所から母が走ってきて
「はい!これ持って帰り!あんた食べてもいいし、近所に配ってもいいし。」
 何か入ったビニール袋を手渡される。
「何これ?」
「秋茄子は嫁に食わすな。今年のはすごいおいしいからいうてお父さん仕入れすぎたんよ。こんなに売れへんし置いといても腐ってまうから食べて。あんた次は誰かええ人連れてきなさいよ。うちは嫁も茄子食べてもいいからね。」
「はいはい。ありがとう。」
 袋のいっぱいの茄子を見て、こんなにあったらむしろ食わせないといけないだろうと思う。
 家を出て店にいる父に「帰るわ」と一言声をかける。数ある野菜のなかでも明らかに茄子の量が多い。「今年の茄子は最高!」と手書きで書いたダンボールがその山盛りの茄子の前にある。当てが外れて不機嫌なのか、父は店の中でタバコを吸いながら夕刊を読んでいた。この時間に客がいなくて大丈夫なのかと思うが、それでも僕が生まれる前からこの店はあるそうで、別に茄子が売れなくても、なんとかなるのだろう。
 そんなことを考えながら車に乗り、鍵を差し込みエンジンをかける。携帯を手に取り時間を見る。携帯には茄子の形をしたボロボロのストラップがついている。それを少し見つめ、アクセルを踏む。バックミラーに手を振る母が映る。
 
 
 暗い。真っ暗だが周りの様子はなんとなく分かった。誰だか分からない女性が僕の両肩をゆすり何かを伝えようとしていた。それが何かは分からなかった。その女性が消え、遠くで誰かが騒いでいる声がうっすら聞こえる。声がだんだん近くなってきた。
「・・・・んー。」
「あっ目覚めたみたい!あんた先生呼んできて!ハルオ!分かる?お母さんやで!」
 目の前におばさんの顔が近づいてきた。なんとなくチカチカしてはっきり見えない。次第に目の前の顔がはっきりしてきて
「しわ増えたな。おかん。」
 とボソッと言った。
「あんた何いうてんの!頭打って目おかしなったんちゃうか。そんなことよりここどこかわかる?病院やで。ほんまびっくりしたわ、頭打って救急車で運ばれたって聞いてお父さんと飛んできたんよ!せやけどよかったなー・・・・」
 目の前のおばさんはよくしゃべった。声が頭に響いて不快だったが、おかげで大体状況は分かった。頭を打って救急車で運ばれて今、目を覚ました。今日は部活でバスケをしていたはず。バスケで頭を打ったのか?少しずつ記憶が戻ってくる気がした。覚えている部分からその前、その後を思い出し、7並べのように思い出そうとするが、8を置いた時点でもう手持ちのカードがなくなってしまった。まああとでゆっくり思い出そう。ふと部屋の時計を見ると20時を回っていた。そんなことを考えている間も目の前で話していた母が、足音に振り返り、
「あっ先生!目覚めましたわ!私の顔見たとたん、しわ増えたな言うて、目おかしなったかもしれませんわ。」
 と笑いながら白衣を着たおじさんにいった。
「よかったですね。では念のため少し検査しますので、もうしばらくお待ちください。」
 医者らしき人がそう言って近づいてきた。医者の後ろには医者より一回り年上の冴えないおじさんが立っていた。店では偉そうだが家では弱そうな父だった。
「ほら母さん病院でそない大きい声でしゃべるな。廊下まで聞こえてきてるで。ほら、外で待ってよ。」
「なんやのえらそうに。ほなまたあとでね。先生よろしくお願いします。」
 大げさに挨拶をして母は父に連れられ部屋を出た。そこから検査が始まり、僕は医者の言われるがままに動いた。その間、僕はいろいろ考えた。バスケ中のどこで頭うったのか、みんな心配していないか、先生は今いないのか、いやバスケで打ったんじゃないのかもしれない。今日は何曜日だ。明日は学校があるのか。・・・あー思い出せない。後頭部が痛い。ここを打ったのか。痛いところを触ろうとすると
「あっまだ触っちゃだめだよ。・・・では一応検査で異常は見られなかったのでもう帰っていいです。今日はお風呂は入らないでね。あと次ここ来るまでは激しい運動も禁止。何か気になることある?」
 医者は優しく僕に言った。
「・・・色々思い出せないことがあるんですが大丈夫でしょうか?」
「おー。たとえば何がおもいだせない?」
「頭いつどんなふうに打ったのかとか、今日が何曜日だとか。」
「お母さんの名前いえる?」
「静香です。うるさいのに静香。」
「はっはっは!うん大丈夫!一時的な軽い記憶障害だと思うから、しばらくしたら思い出すでしょう。今日は帰ってゆっくり休んで。またどこか違和感があったりしたらきてください。」
「わかりました。ありがとうございます。」
「はい。ではお大事に。」
 
 
 僕は両親に連れられ病院を出た。まだなんだか頭がボーっとする気がしていた。何か大事なことを忘れているような。そんなモヤモヤが頭の中で広がっていた。車の中で母の声だけが大きくひびき、その度頭が痛くなりとても不快な気分になった。
 家に着き、とりあえず自分の部屋にいくことにした。自分の部屋……自分の部屋がどこにあるかわからなかった。そもそも自分の部屋があるのかさえ疑わしかった。誰かに聞こうかとも思ったがまた病院に連れて行かれる気がしてその場で家の部屋を一つ一つ思い返した。前に見えてるのがリビングでその手前左のドアがトイレ、その向かいが父の部屋、その手前に階段があって階段を上がって目の前のドアが両親の寝室。その右が自分の部屋で左がトイレだ。意外と簡単に思い出せた。何か忘れている時は最初からたどって一つ一つ思い出していけば大丈夫だと分かった。階段を上がって右のドアをあけるとそこはトイレだった。唖然として少し戻り試しに左のドアをあけるとそこは見慣れた自分の部屋だった。はずかしくて自分の頬が赤くなるのが分かった。荷物を置いてベットに寝転んだ。一階から母の声が聞こえる。
「ご飯食べるー?」
「いいわー」
 空腹は感じていたが、それよりも眠気が勝っていた。
 
 夢
 女の人が離れていく。寂しい気持ちがあふれ涙がでてくる。待って!と僕は叫ぶ。女は振り返るがまた向こうに歩いていく。学校の階段で泣き崩れる自分に気がつく。周りには友達がいるが、泣いている自分には気がついていない様子だ。泣きやんで立ち上がり、ふと振り返ると離れていった女が立っている。見たことはあるが名前が思い出せない。話しかけようとすると女は手をのばし僕を押す。僕は階段から転げ落ちる・・・。
 あっ。っという声とともに僕は床に手をついた。幸いベットはそれほど高くなく右半身はベットに乗ったままだった。寝てたのか、と時計をみると時計が4時44分34秒になっていた。なんとなく10秒そのまま見続け、わざわざ4が並ぶのを見て、不吉だなと思った。同時に変な時間に寝て変な時間に起きてしまったと後悔の気持ちが湧いてきた。まだ外は暗く、静かだった。起き上がると頭が痛かった。頭を打ったのだということを再確認させられた。集中して時計を見たせいか目が覚めてしまって、もう一度寝られそうにもなかった。時間をつぶそうと椅子に座り、机の上にある漫画に手を出した。読み始めて何度も読んだ巻だと気がついたが、絵や1コマ1コマの構成、ストーリーに感心しながら、パラパラとページをめくり、読み終えた。その漫画を本棚に戻し、他の巻に手を伸ばした。そこではっと机の引き出しの中の雑誌を思い出した。両親が寝静まっている今、あのコンビニで買った雑誌をゆっくり見るチャンスだと思った。引き出しを上から順番にあけていった。2番目の引き出しをあけた時、なにやら可愛らしい包み紙に包まれたものを見つけた。ごちゃごちゃとした引き出しの中でその可愛らしいものだけが、かなり異質で目立って見えた。手のひらに収まる、その平べったい包み紙を手にとって眺めた。これは何だろう。中には金属の何かが入っているようだが、全く思い出せる気配もなく、順番に思い出すにもスタート地点が見当たらなかった。包み紙を元の場所に戻し、一番下の引き出しまで開いた。しかし、例の雑誌はなく、ついこのあいだ遊びに来た友達が嬉しそうに持って帰ったことを思い出した。なんともやりきれない気持ちでもう一度本棚の漫画に手を伸ばした。最初はいつもの事ながら色々な作者の工夫に感心しながら読み進めた。何度も読んだ内容だったがいつの間にか物語に引きずり込まれ、主人公と仲間の別れの場面で、いつものように感動の涙を流した。
 
 
 一人で泣いて感慨にふけっていると、部屋のドアが開いた。
 びくっとして振り返るとそこにはまだはっきりめを覚ましていないであろう母が立っていた。
「びっくりした!ノックしてや」
「まだ寝てると思ってた。大丈夫?何かおかしいとこない?今日学校行く?」
 絵に描いたようなねぼけた様子であくびをしながら母は聞いてきた。
「うん。大丈夫。降りるわー。」寝ていると思ったとはいえ、年頃の息子の部屋に突然入るのは危険だろうと思った。読んでいたのが漫画で良かった。母と二階から降り、リビングに入ると机の上にはもう朝食があった。
「おはよう。二人とも早いな。朝ご飯できてるで。」
 父は朝早いのか夜遅いのかわからない時間に起きて散歩に行き、朝ご飯を作っていた。メニューは必ずサンドイッチなので、正確には朝ご飯ではなく朝食と言った方が良いと思っていたが、言ったことはない。「今日もまたようさんやなー朝ご飯」母はいやな顔で食卓につく。朝食だよという発言を飲み込む。当時、本当に母はいやがっていると思っていたが、今になって、そんなにいやではなく、いやそうな顔をしたかっただけだと思う。それが夫婦なのだと。「朝ご飯」を食べ、お腹を満たすと少し眠けがやってきた。朝練に行くには少し早いが、眠けと仲良くできる時間はなかった。準備をすまし、といっても包帯のおかげで髪のセットがなく、顔を洗い、着替え、荷物をまとめるだけだった。いつもより20分ほど早く家を出て、駅まで自転車を走らせた。「朝練行くの?運動したあかん言われたやろ?」
「見学でもいかなあかんねん」
 行かなあかんわけではないがこんな時こそ朝練に行く意味がある。その時は理由もなく本気でそう思っていた。
 
 
 いつも乗っている電車より2本も前の電車に乗り学校に向かった。電車はいつもより一層空いていて、立っている人は同じ車両にいなかった。しかし空いているのは優先座席のみで、他の席はサラリーマン達が微妙な感覚で座っていた。優先座席に座るのはもちろん、眠そうなサラリーマンに移動してもらうのは、若者のプライドからは許されない行為だった。一方で頭に包帯を巻いてる自分は優先座席に座ってもいいのではないかという考えも現れ、ああでもないこうでもないとドアにもたれながら考えている内に電車は学校の最寄り駅についた。学校に一直線に続く道を寒さに肩をすぼめて歩いていると、学校と駅の真ん中あたりで後ろから高い声が聞こえてきた。振り返るとテニスラケットを持った女子生徒が3人歩いていた。すぐ前を向いて歩いたがとても後ろが気になった。何が聞こえたわけでもないが、同じく朝連に向かうテニス部女子3人が、自分の包帯に巻かれた頭についての話をしている気がして仕方がなかった。包帯をとってしまおうかとも思ったが、取ったらとったで、取るならはじめからつけなければいいのにといわれる気がして、どうもしようがなかった。早足で校門をくぐり一直線に体育館に向かう。体育館に着くとまだ誰もいなかった。怪我で練習ができないときに限って誰よりも早く来てしまったことが今さら恥ずかしく思え、みんなが来るまで校舎のトイレにいた。ころあいを見て練習が始まる直前に体育館に行った。みんなは口々に「大丈夫?」といった。僕はそれを言われる度に「大丈夫。たいしたことないよ。」と答えた。仲間の中には名前がでてこない者もいたが、またすぐ思い出すだろうと思い、誰にも言わなかった。練習が始まると、いつもやらない雑用を必要以上に積極的に取り組んだ。朝連が終わり、教室に向かった。自分を見た人は必ず、ものめずらしそうな目をした。教室に入ると女子からの小さな悲鳴が聞こえ、みんなが「大丈夫?」と騒いだ。もうここまでくると少し得意な気分になったが先ほどと同じように「大丈夫。たいしたことないよ。」と答えた。自分の席に向かっていたつもりだったがどの席かわからない自分に気がついた。しばらくその場にたちすくんだ。するとクラスのお調子者の遠藤が
「どうしたん?大丈夫なん?まあすわりーな」
 と目の前の席を指した。そういえば遠藤の指している席が自分の席だったような気がしておとなしく座った。いつもは少しうっとうしく感じていた遠藤だったがその時はありがたく、そして頼もしく見えた。遠藤に聞かれるがまま包帯を巻いている理由を話すと遠藤はそそくさと席を離れ、先ほど小さな悲鳴をあげていた女子にその話をしにいった。やっぱり遠藤は遠藤だなと思い、荷物を片付けていると、チャイムがなった。みんなしぶしぶ席につき始める。隣には朝後ろを歩いていたテニス部の女子の1人が座った。
 となりに座った、その女子は僕に全く遠慮のない様子で
「頭大丈夫?っていうか朝なんで無視したんよ?」
 と言った。その時、僕の頭の中にある記憶が飛び込んできた。
 
 新学期、クラス替えがあり僕は不満だった。クラスの名簿が配布され目を通すと二年の時に仲の良かった友人やバスケ部の連中が誰ひとりいなかった。2年になって、また一から人間関係を構築するのは一苦労だと思った。半ばあきらめた気持ちで新しい教室に入り、席についた。すると突然後ろの席の生徒に肩を叩かれた。振り返るとその生徒は全く遠慮のない様子でこう言った。
「近藤ハルオやんな?自分このクラス友達おらんやろ?私仲良い子らばっかりやから色々教えたるわー」
 こちらが何も返事をしていないのにその女子は続ける。
「あれが遠藤っていうて普段はいきってるだけやけど、いざとなったら頼りになるんよ。んであれが……」
 話にそれほど興味はなかったが、なんとなく聞いていたい気持ちになり一通り新しいクラスメイトの紹介をうけた。
 そこから2年生の生活が始まった。あのころから半年以上経ったがクラス内の僕の人間関係にほとんど変化はなかった。唯一大きな変化といえば、根も葉もない情報を僕に与えた遠慮のない女子と交際が始まっていたくらいだ。いざという時にも口だけの遠藤を筆頭にクラスメイトの話はことごとくはずれていた。そのせいで、いやそのせいにしたいだけなのだが、僕は新たな人間関係の構築に失敗していた。かといって特別いじめられているわけでもなく、たぶん心を開けば友達はいくらでもできたはずだった。しかし僕はそのころおかしな自尊心にとりつかれていたので、周りみんなと話を合わせて、仲良くしようとはなかなか思えなかった。
 朝自分を笑っているように感じた目の前の女子が、そのいい加減な遠慮の無い交際相手だと認識し、僕は答えた。
「いや別に・・・急いどったし。」
「あんな早くに着いてて何を急いでたん。頭恥ずかしかったんやろ?よしよし。」
 交際相手はそう言って頭の上を撫でるように手を差し伸べる。僕はやめろやと手をはらい前を向く。その時僕の頭の中はその交際相手の名前を思い出すことでいっぱいだった。授業が始まり、当たり前のようにうでを枕にして寝ていると横から椅子をけられた。彼女は怒った顔で紙を渡してきた。その紙を前の女子に渡そうとすると腕をつかまれた。彼女は首を振って僕を指さした。ああと思って紙を開くと「もう寝んっていうたやろ!あほ!明日10時いつもの駅な!」と書いてある。寝ないといった覚えはなかったが、言ったのだろう。明日約束していた覚えもなかったが約束していたのだろう。「了解」と書いて紙を返すとちょうど教科書の段落読みの順番が回ってきていた。
「どこですか?」
「頭打ったからってボーっとしとったらあかんぞ。」
 禿げた国語の先生がそう言うと、教室にくすくすと笑いが起こった。横を見ると彼女が教科書で顔を隠し笑っていた。
 
 
 その日授業中も休み時間もずっとクラスメイトの名前を思い出していた。前から順に・・・・思い出せない者も何人かいたがそんなときはあのいい加減な紹介を思いだした。そのいい加減な情報と実際の所のギャップが激しく、インパクトが強かったせいか、おかげで名前がさらさらと出てきた。しかしクラスメイトでどうしても名前の思い出せない人がいた。隣の席で気持ちよさそうに寝ている彼女だ。昼ごはん後だとはいえ人を起こしておいて・・・とは思うが許せてしまう。そんな顔で彼女は寝ていた。先生がやってきて彼女を起こした。彼女は怒った顔でこちらを見た。なんで俺がと僕が笑うと彼女も笑った。
 結局名前はでてこないまま終礼を迎えた。国語係の生徒が昨日出された宿題を集めると言った。プリントはもってなかった。覚えていたのだが覚えていなかったことにして前の席の人に伝えた。隣の彼女がプリントを机の上に出していた。はっと思い彼女のプリントを覗きこんだ。
「何よ!見んといてよ。あんた忘れたん?あーあ今日国語の授業中ボーっとしてたし怒られるわー。」
 彼女はそう言い、プリントを前の人に渡した。プリントの名前の欄には苗字だけ「栗林」と書いてあったようにみえた。栗林?・・・全くピンとこない自分に驚いた。全くとは言いすぎかもしれないが、苗字さえ分かれば下の名前も愛称も自分がなんと呼んでいたのかも思い出せる自信があったものだから、そういわれてみればそんな雰囲気の名前だったなとしか思えなかった。栗林栗林栗林・・・何回頭の中で言っても連想されるものはなかった。ためしにカバンに教科書を詰め込んでいる栗林に向かって「栗林」と呼びかけてみた。すると彼女は「何?ていうか何突然その呼び方。気持ち悪い。」といった。「いやまあええやん。あのさっきの国語のプリント返されたら見せて。」と、しどろもどろに僕は言った。「え、いやや。なんで感想文あんたに見せなあかんの。」という彼女に僕はしまったと思い「そやなー。ほな先行くわー」と意味の分からない返事をし、席をたった。「うん。ほなまたね。」という彼女を背に、やっぱり普段僕は彼女を栗林とは呼んでいなかった。よりによって彼女の名前を思い出せないのはまずいな。そう思ったが、その時はまだ、まあ今日苗字だけでも思い出せてよかった、またすぐ思い出すだろう、と思い、急いで部活に向かった。
 
 部活ではまた雑用だけをした。先生にも早く治せと言われただけで、朝あんなに話しかけてきていた部活仲間も、もう怪我の話はしてこなかった。そんな周りの様子に焦りを感じつつも、肩で息をして辛そうな仲間をみて、この練習に参加できないで良かったと思っているところも少しだけあった。部活後、みんなと帰ろうとすると仲間の一人が「今日は彼女と帰らんの?」と言った。部活後の自分の行動に違和感を感じていた僕は、いつも彼女と帰っていたことを思い出し、「あっそやった!ほなバイバイ!」と言い残し、冷やかす仲間を背にいつも待ち合わせしていた裏門へ急いだ。裏門には例の栗林が待っていた。
「遅い!」
 そう言う栗林に
「ごめん」
 と謝り、二人で歩きだした。校門を出るとぽつぽつと雨が降ってきた。その時また一つの記憶が僕の頭の中に飛び込んできた。
 
 
 夏の雨だった。総体が終わり、新チームになって夏休み毎日拷問のような練習があった。その年の夏は雨が多く、野球部やサッカー部は休みが多かった。それが心底うらやましくて、降るなら警報がでるくらい降ってくれとみんな言っていた。
 夏休み3日しかない休みの3日目、外は雨で、僕は家で寝ていた。1日目と2日目はとにかく寝た。テレビをみて漫画を読んで寝た。そんなことをしていると2日間はあっという間に過ぎ、休み2日目の夜、僕は後悔で泣きながら寝た。
 3日目の昼、目を覚まし、携帯をみるとメールが3通来ていた。送り主は夏休みに入るすこし前から交際を始めた人だった。
 交際していることが知られると友達からどっちから告白したのかという質問を必ずされるのだが、答えはややこしくて簡単にいうと両方だ。新学期になんとなくアドレスを交換してなんとなくメールをしていた。学校でもたまに話をし(クラスで浮いている僕はほとんど彼女としか話さなかったが)いつの間にか好きになっていた。ある日話の流れで二人で遊びにいくことになった。その帰り、別れ際に同時にお互い何か言おうとして、譲り合いになった。どちらも後攻を譲らず結局紙に書いて交換して同時に見ようということになった。僕が書いたのは「好き。付き合おう」で、交換した紙にも同じことが書いてあった。
 夏休みに入り、お互い部活が忙しく、メールもあまり交換しなくなっていた。その彼女からメールが来ていて1通目が今日会わないかというメールだった。元々テニス部はその日休みではなかったので雨で休みになったのだろう。しかし、突然彼女がそんなことを言い出すとは、部活が休みになってよほど浮かれているんだ、と思い2通目を開いた。2通目は、返事がないがいつもの待ち合わせ場所で待ってるという内容で、3通目が一言「返事くらいしろっ!」だった。3通目が届いた時間は1時間前だった。僕は、突然のことで炉惑いながらも、あわてて顔を洗い、服を着替えて、何事かと驚く母を尻目に家を飛び出した。外は大雨だった。もう一度家に入り「ちょっといってきます!」と声をかけ、傘をもって駅まで走った。電車に乗って、とりあえず連絡をしなければとポケットに手をいれるが、携帯を家に忘れてきたことにその時気がついた。いつもの駅で降りるとホームの端に彼女が立っていた。彼女は腕を組み、半分泣いた顔でこう言った。
「遅い!」
 僕が
「ごめん、寝てた」
 というと彼女は僕にしがみつき思い切り泣き出した。僕はわけが分からず、それを受け止めもう一度
「ごめん」
 といった。
 後で落ち着いて話を聞くと、前の日彼女の親が離婚を決め、お父さんが家を出て行ったそうで、そのことについてお母さんともめ、家を飛び出してきたといっていた。全くそんな話を聞いていなかった僕は初めて目の前にいる彼女の強さと弱さを知った。そういえば彼女はその時から「栗林」だった。
 
 
「さっきまで晴れてたのに」と僕が言うと彼女は「この季節の天気は女心と一緒で変りやすいんよ」と言い、かばんの中から折り畳み傘を取り出した。「入る?」彼女がそう聞いてきたが、僕は首を振った。折りたたみ傘は小さく、二人を雨から守るには荷が重いだろうと思った。幸い雨は強くなくぽつぽつ降り続いただけだったがいつ強くなるか僕は内心びくびくしながら歩いていた。
 駅までの道のり、僕と彼女は明日どこに行くか話をしていた。「映画はこないだ行ったしなー」とか、「カラオケもいったところやしね」と彼女が言う度に頭の中でその記憶を探した。見つかる記憶もあれば見つからない記憶もあったが、会話に支障はでなかった。その時、なんとなく僕は彼女に、頭を打ってから少し記憶が飛んでいるということを笑いながら告げた。彼女は驚きながらも笑い
「今言うてた私との思い出は忘れてへんよな」
 と冗談ぽく脅すように言った。
「それは覚えてるよ。」
 僕は平然と嘘をつき
「でも今日教室入ったとき名前出てこんやつ何人かおった。」
 と続けた。そして彼女は自分が忘れられているとは露にも思っていない様子で言った。
「へー怖いなーそれ。忘れられた子かわいそー。んで全員思い出せたん?」「うんまあすぐ思い出せたよ。・・・そんなことより明日どうしようか。」
 あまりこの話をしてはいけないと悟った僕は明日の行き先について話しをもどしたが、結局行き先が決まらないまま駅に着き、ホームでの椅子に座り電車を待った。次の日は土曜日でお互い部活も学校も休みの日は珍しく、特に彼女は久しぶりの休みということだったので、少し彼女の家族に罪悪感を抱き
「最近お母さんとは上手いこといってんの?」
 と聞いた。彼女はあっけらかんと
「うん、仲良くしてるよ。お父さんには会えんけど。」
 といった。しかしそれ以上そのことを話そうとはせず、次の日の行き先の話に戻った。僕もそのことについて深く聞こうとはせず彼女に従って次の日の話をした。電車が僕の降りる駅に着く直前、彼女は突然
「そうだ京都に行こう」
 と言った。彼女の視線の先を見ると、その聞いたことのあるフレーズが大きく載った広告があった。
「京都って紅葉綺麗なんじゃない?・・・決定!」
 と彼女は言った。電車は駅に到着し僕は考える暇もなくそれに賛成し電車を降りた。電車を降りると雨は本降りになっており、僕は母に電話して父に車で迎えに来てもらった。家に着くまで僕は朝感じた何か忘れているのではないかという不安にまた襲われた。それが何か悶々と考えているうちに家に着き、不安を感じたまま、晩御飯を食べ、風呂に入り、包帯を巻きなおして自分の部屋で漫画を読んだ。
 読み終わった巻机の上にポンと置いた。机の上には漫画が山積みで、本棚より多い本が積まれていた。これはいかんと思い立って片付けることにした。片付けだすと整然と並ぶ漫画に満足感が生まれ、全ての漫画を順番通り本棚に戻した。順番にならべている時、抜けている巻が少しあったが整理しているうちに見つかるだろうと思い、机の上の漫画を並べ続けた。最後の一冊をねじ込んで、全巻あるか確認していると、3巻ほど抜けているところがあるのに気がついた。周りを見てもその巻はなく、確かに買った記憶もある。自分が置きそうな所でどこを探しても見当たらないので、ないとは思いながらも机の引き出しを開けていった。上から2段目の引き出しを開けると、朝にも見つけたかわいらしい包み紙があった。それが気になり、包み紙を机の上に出した。そして張ってあるピンクの花柄のシールを丁寧に剥がし、包み紙を開けた。中には茄子のストラップが2つ入っていた。僕は思わず「あっ!」といってその場に立ち上がった。
 僕はその時全てを思い出した気になった。明日はあの彼女の誕生日だった。そして目の前にあるこのストラップは誕生日プレゼント・・・ではなく小遣いをごまかして多くもらい、なんとか買ったネックレスを渡す前に渡すフェイクの誕生日プレゼントだった。
 僕は部屋の押入れを開けた。左の下に漫画収納用の長い箱が4段積み重なっており、上から2番目の箱を引き抜いた。その箱には先ほど探していた3巻が隣の漫画と比べ少し浮いて入っていた。その3巻を取り出し、その下にある、長細く厳かに包まれた箱と、綺麗に折りたたまれた紙を取り出した。僕は押入れを閉め、3巻の漫画を本棚に入れ、椅子に座った。
 長細い箱を茄子のストラップの横に置き、綺麗に折りたたんである紙を開いた。その紙にはなんとも恥ずかしい祝福のメッセージが書かれてあった。しかしその手紙は未完成のようで、紙の6割程度しか文字は埋まっていなかった。僕は空白部分をこれまた恥ずかしい祝福のメッセージと愛の確認のメッセージで埋め。最後に自分の名前を書いた。普通手紙というものは「〜へ」から始まり、「〜より」で終わっているものだが、この手紙はその最初の部分が書かれていないことに気がつく。そして同時に今の僕にはその「〜へ」というところは書けないという重大なことに気がついた。ここに「栗林へ」と書いたらまずいことになるのは明らかだった。一度栗林と呼んでしまった上に頭を打って記憶が少し飛んでしまったことを帰り道で話してしまった。更にここに「栗林へ」はまずい。落ち着いて考えれば、名前を書かないだとか、なんとでも仕様はあったが高校生の僕の頭には彼女をどう呼んでいたかを必死で思い出すことしかできなかった。
 しかし全く思い出せないまま夜は更け、眠気と、朝起きれるのかという不安とが襲ってきて、とりあえず今は寝ておけば明日になったら思い出しているだろう、と根拠のない逃げ道に僕は逃げ込んだ。手紙とネックレスは元の場所に戻し、目覚まし時計の設定を確認して、眠りについた。
 
 
 布団に入って目をつぶった瞬間、目覚まし時計のデジタル音が甲高く鳴り、僕は何かの間違いではないかと時計を手にとった。「8:55」時計はそう表示している。貴重な睡眠時間が一瞬で過ぎてしまったことに愕然とし、そのまま枕に顔をうずめた。また目覚ましが鳴る。次は9:00だった。二度寝をあらかじめ予想していた自分に助けられたと思い、起き上がった。
 一階に降り、父の作った「朝食」を食べ、顔を洗い、着替え、プレゼント2つと名前を書いていない手紙を持って、玄関に向かった。母が「どっか行くの?」と聞くので、「友達と遊びに行く」と言いながら靴を履いた。「ふーん遅くならんようにね!」と母の声がリビングからきこえてきた。
 家を出て、もう一枚上着を着てくれば良かったと後悔した。太陽を浴びていてちょうどいい気温で、日陰に入ると鳥肌がたつほど寒かった。幸い雲も少なく晴れていたので、家に上着を取りに帰ることはなかった。駅に着き電車に乗り、待ち合わせの駅へ向かった。その間僕は彼女の名前を思い出そうと必死だった。頭を軽くたたいたり、彼女との思い出を振り返ったり、なぜか右脳を働かそうと左手を動かしてみたり。しかし何をしても無駄だった。
 くだらないことで喧嘩して彼女にひっぱたかれたことや、ジェットコースターに無理矢理乗せられ楽しそうな彼女の横で放心状態になったこと、彼女がバッティングセンターで130キロの球を横腹に受けて泣き出したこと、そして泣きながらその球をボコボコ打つ彼女に笑ってしまったこと、そんな日常は思い出せるが、その思い出の中の僕は彼女の名前を呼ばなかった。
 電車から降りた僕はホームの隅で携帯をいじくる彼女を見つけ、声をかけた。
「おはよう」
「あっ今メール送ったのに。今日はギリギリ遅刻せんかったね。よかった。」
「いやー遅刻なんかしたことないやん。」
「へー頭打って都合の悪いことは忘れてもたみたいやな。」
 僕がめったに言わない冗談を彼女はグサッと笑いながら跳ね返してきた。いや都合の悪いことは覚えていて、忘れたら都合が悪くなることを忘れているんだよ、と変な汗をかきながら思ったが、口にはしなかった。
 二人で自然に手をつなぎ京都に向かう電車に乗った。彼女の手はタコだらけで女性らしくなかったが、彼女はいつもその手で僕を楽しそうに引っ張っていった。
 電車では彼女が部活の顧問の先生の話をしていた。最近セクハラがひどくなってきているという。さすがに腹が立ち、卒業するときに殴ってやろうと思うが、頭の半分は彼女の名前の候補をたくさん挙げていた。
 候補は増えるばかりでまったく定まらないまま京都に着き、昼ごはんを食べ、清水寺を観光した。紅葉が綺麗な時期でもあったので観光客は多く、もみくちゃにされながら参拝をした。
 清水の舞台から飛び降りようとするジェスチャーで写真を撮っている観光客を見て、思い切って名前を忘れたから教えてくださいと言うことも考えたが、彼女に与えるショックや、ひっぱたかれるであろう頬のことを思うと、この思い切りは清水の舞台ではなく、もっと高いビルの屋上から飛び降りるようなものだと思い、そうはしなかった。
 そのあとも紅葉が綺麗なスポットをいくつか回ろうということになり、夕日と紅葉が綺麗に見えると言われる場所に向かった。
 向かっている途中、彼女はふと空を見上げこう言った。
「空高いねー」
 彼女と同じように空を見上げると、少し空の青がくすんできてはいたが、小さな薄い雲が遠くに見え、確かに空が高く見えた。
「そやなー。」
 僕が立ち止まって返事をすると彼女は空を見上げながら体をこちらに向け僕に言った。
「なあ知ってる?この季節の空が高く感じるのは、変りやすい天気を心配して空を見上げる機会が多くなるからやねんて。」
「へー確かに言われて見ればそうかもなー。」
 僕はそう言い、空を見上げる彼女を見た。
「私は天気心配してないけど、この季節の空が好きやから、見上げる機会多いなー。」
 空を見上げてそう言う彼女に見とれている自分に気がつき、あわててもう一度顔を上げ、恥ずかしさを紛らわそうと、
「あーやっぱり秋が一番好きやわ。」
 とボソッと言った。言ったとたん何か胸の中からこみ上げるものがあった。真っ赤な顔をした彼女に
「何いうてんのよ。」
 と言われ。僕は赤面した。
 夕日と紅葉を見た後、晩御飯を食べ、帰ろうと駅に着いた時、僕は彼女をホームに待たせ、トイレに行き、空白を埋め、彼女にプレゼントを渡した。まずはストラップから。
「・・・アキ誕生日おめでとう。」
 そう言って渡すと彼女はとても喜んでかわいい包み紙をあけた。そしてストラップを見て笑ってこういった。
「私茄子嫌いやねん。」
 
 
 そんな秋が過ぎ、1年経って3年生の冬の終わり、僕たちは高校を卒業した。卒業式の日、僕はテニス部の顧問を殴り、突然彼女に別れを告げた。春には僕は東京で、漫画の専門学校に通い始めた。
 
 
 太陽がストンと落ち、あっという間に夜になった。僕は車を走らせた。行き先は決まっているが行ったことがほとんどないので迷った。何度もユーターンを繰り返した。その度におかしいなと無精ひげをこすった。バックミラーで自分の顔を確認し、ひげ剃ってきたほうが良かったかな、と思った。
 やっとのことで目的地に着き、車を止め、降りると、辺りは晩御飯のにおいで包まれていた。
 ある家の前で足を止め、手に持つビニール袋を持ち替え、インターフォンのボタンを人差し指の先で押そうとするが、ボタンに触れる直前で体が動かなくなる。大きく息を吸い白い息と同時に不安を吐き出して、勢い良くボタンを押す。ピンポンという音と足音が微かに聞こえる。インターフォンから懐かしい声が飛び出す。僕は名前を言う。彼女は驚き、玄関から飛び出してくる。
「突然・・・何よ今さら」
「ごめん」
「ごめんって理由も言わんと『待ってて』って言うて東京行って連絡も全然ないし何よ。」
「家継ぐためにこっち戻ってきてん。」
「・・・で何よ。」
「これお土産やねんけど・・・これもらうか、俺と結婚するかやったら、どっちがいい?」
 僕はビニール袋を差し出し、あっけにとられている彼女はその中をみる。彼女は泣き、笑いながら
「・・・・私茄子嫌い。」
 とビニール袋をつき返してくる。その彼女の手には携帯があり、そこからあのストラップが垂れている。
「もー・・・遅い!」
 彼女は僕にしがみつき泣き出す。僕はそれを受け止める。
「ごめん」
 

はるかの日常
072101


 プロローグ
 時は2XXX年。
 地球という星は「科学」が神にも等しきものとしてあがめたてまつられ、世界を支配していた。
 その中で、人類はその恩恵にあずかって生きていた。またその他の生物たちは「科学」の力によってまさしく生かされていた。そして、世界は平和だった。驚くほど、平和だった。人々は平和であることになんの疑問も持っていなかった。自らのしたいことをし、したくないことはすべて「科学」が代わりに行っていた。そんな世の中に起こったお話。
 
 私は元気がとりえ、同じクラスの佐藤まなぶ君に恋する中学2年生、間宮はるか。一応学校へは行ってるし、勉強もしてるけど、私の人生において今、一番大事なことは、一週間後に迫ってるまなぶ君の誕生日。まなぶ君は私と同じクラスの子なんだけど、とってもカッコイイの!勉強はできるし、スポーツも抜群!だから、見てるだけでいいってずっと思ってたの!でも、この前国語の授業のときに、えーっとソウモンカ?とかいうのを作った時、偶然ペアになっちゃって。ソウモンカってのは、男女が恋文をやりとりするやつなんだけど、書く時、超緊張しちゃった!
 …うれしいな わたしの気持ち 届いたよ 明日もほしいな あなたの笑顔…
 そしたら、
 …ひとつだけ 口では言えず ごめんなさい めっちゃ好きやで あなたの笑顔…
 だって。
 思わず顔赤くなっちゃって、どうしようって思ってたら、まなぶ君も顔真っ赤だったの!で、「照れるけど、間宮さんの歌めっちゃいい。惚れそう。」って言ってくれて。その授業のあとから本格的に意識しだしたのかな。たぶん。それからは毎日、ずっとまなぶ君のこと、よく見てたら分かってきたんだけど、まなぶ君ってちょっとドジというかおっちょこちょいというか、意外とかわいいところがあるんだなって気づいたの。それを知ってからは毎日まなぶ君のかわいいとこ探ししてるんだ。
 今日もまなぶ君のかわいいとこいっぱい見ちゃった。また国語の授業中なんだけど、キスするっていう文章を読まされて、キスって言えなくて、めっちゃ照れてたの。本当にかわいかったな。みんなにめっちゃ笑われてたけど(私も笑ったけど)照れてるまなぶ君本当にかわいかった〜。
 その日私は、気分良く学校から帰り、ご飯をおかわりして、鼻歌交じりでお風呂に入った…までは良かったんだけど、明日提出の宿題のノートを学校に忘れてきたことに寝る前に気づいたの。数学のカマキリはうるさいしなぁ〜「科学」がなんとかしてくれないかなぁ〜しかたがない。ちょっと走っていってくるか。
 はるかは、夜の学校へと急いだ。当然、靴は履くだけで目的地まで連れて行ってくれるものだ。
 夜の学校ってくらい〜。えっ…あれ、なに?
 はるかは、校庭の木の陰から、衝撃をみた。
 リン!リン!!リン!!!リン!!!!俺たちはスズムシ。リンリンリンリンリン!!!!!リンリンリンリン!!!!
 はるかは、驚き立ち尽くした。学校の校庭の地下には、「科学」の力で巨大化したスズムシたちが要塞を作っていたのだった。
「やっぱ外の空気はいいっすよね〜。」
「せやな〜地下要塞は空気が淀みまくりやしな〜。」
「ずっとオープンにしてたらどうっすかね〜。」
「アホか!人間どもに見つかったら、あためんどくさいやんけ!」
「でも、気持ちいいっすよ〜やっぱ、外っすね〜地下要塞は窮屈っすよ〜」
「つべこべゆうんやない!しゃあないやんけ!」
 はるかは、逃げるようにしてその場を離れた。とにかく猛スピードで、家へと帰り着いた。
 はぁ?さっきのなにあれ??やばいよ〜。やばい、やばい、やばい。学校の地下にあんな要塞があっただなんて!やばい、やばい、やばい。とりあえず、おかあさーん!おかあさーん!
「学校の地下にスズムシが巨大化して要塞を作っている?ばかねー。はるかは。そんな妄想してないで早く宿題やって寝なさい。」
 お母さん、信じてくれなかった…どうしよう…スズムシたちがあんなにリンリンリンリンしているのに…
 はるかは、とにかく寝ないと。という一心でベットにもぐりこんだ。しかし、はるかは目を閉じるたびに、スズムシたちのリンリンリンリンという羽音と、懸命に震える大きな羽目の動きがよみがえってくるのであった。
 あんまり寝れなかった…。スズムシのリンリンリンリンって音が耳から離れないよ…。とにかく学校へ行こう。リンリンリンリン…
 はるかは寝ぼけ眼のまま、学校へ向かった。校庭には、昨晩のスズムシの要塞など、なかったかのように何もなかった。あの羽音も、羽の震える動きも幻のようであった。
 やっぱり、なんともない。地下要塞なんてほんとにあったのかな?幻?あっ!まなぶ君だ!!今日もかっこいー!今日のまなぶ君はジーンズにシャツかぁ〜。やっぱ、シャツが似合う男の子っていいな〜。
「まなぶ君!そのシャツ似合ってるね。」
「…ありがとう。間宮さんもスカートかわいいよ。」
 きゃー。かわいいって言われちゃった!うれしい!
「まなぶ!今日一緒に帰りましょ!」
「みなか。いいよ。」
 くっ、現れたわねー。今、私のまなぶ君に話かけてる鼻もちならない女が、来栖みな。まなぶ君の幼馴染だかなんだか知らないけど、こうやってたまに会いに来ては一緒に帰ろうだの、パフェが食べたいだの、買い物に付き合えだのと迫る。まなぶ君はやさしいから、拒否しないけど、絶対絶対めんどくさいって思ってると思う。確かに私より頭いいし、絵もうまいし、運動神経も上だけどさ。しかも!こんなうわさがあるんだよね。「中学入ってすぐ、二人は付き合いだして、その時の思い出の場所の写メを二人とも携帯の待ち受けにしてる」って。時間が合わなくなって、別れたらしいけど、写メはそのままで、ずっと待ち受けになってるらしい。確認したことはないんだけど、まなぶ君はあんまりみんなの前で携帯を使ってるとこ見せないから、わたしも分かんない。とにかく、そんなうわさのある二人。気にならないわけないでしょ?でも、わたしは「惚れた」って言われたんだから。………わたしの歌にだけどさ。
「はるかー!一緒に帰ろー!」
「うん!」
「…で?愛しのまなぶ君への誕生日プレゼント決まったの?次の土曜日でしょ?」
「ううん…何がいいかなってずっと考えてはいるんだけど、いいのが思い浮かばなくて…るみは何がいいと思う?」
「そうねぇ。佐藤君、スポーツするからスポーツタオルとかは?で、イニシャルを刺繍してあげるとかは?」
「それいい!まなぶ君、緑が似合うから緑色のタオルにしよ!ありがとう、るみ!」
「どういたしまして。うまくいくといいね。」
 るみに言われてさっそくまなぶ君のたにタオル買ってきちゃった!…そういえば、またあそこの要塞、開いてるのかな?今日も行ってみようかな…
 はるかは、昨晩のリンリンリンリンという羽音が耳にこびりついて離れなくなっていた。その音に誘われるかのように、はるかは、もう一度、校庭へやってきた。
「ねぇ先輩!俺らって、何のために生まれてきたんっすかね?」
「なんや、お前、えらいでかいこと考えとんねんなぁ!よっしゃ、ほな教えたろ!わてらスズムシはな。人間の「科学」の乱用で生まれたんや。そもそもは。で、地下要塞を作って、仲間を増やしとる。でや、わてらの目的はなんやと思う。わてらはな「科学」の乱用で生まれたごみみたいなもや。羽を震わすしか脳がない。やけどな、そのうち、地球上をわてらスズムシが闊歩する日がくるんや。人間どもに目に物見せてくれるわ!人間どもが嫌う、わてらのこの羽音を美しく大きな音で鳴らせるように日々努力を惜しまんと練習するんや!ええな!」
「はい!先輩!俺も先輩みたいなきれいな音が出せるように練習しまっす!俺、感動しました。絶対にスズムシ帝国を作ってやりましょう!」
 スズムシたちの会話を聞いて、はるかは、茫然と立ち尽くしていた。昨晩の衝撃も大きかったが、スズムシたちの陰謀を知って、ただただ立ち尽くしていた。はるかは、とぼとぼと部屋に帰ってきた。スズムシたちはみな、一生懸命に羽音を美しく大きくするための練習をしていた。リンリンリンリン、リンリンリンリン…はるかは、その音を聞きながらふと思った。「科学」が進歩してからわたしは果たしてあんなに一生懸命に努力しただろうか?「科学」の進歩とともに世界は全てが変化していた。受験などというものはなくなり、みんなが行きたい進路をとれるようになった。したい仕事をしてよくなり、誰もしたがらない仕事は「科学」の進歩によるロボットたちが全てをこなしていた。社会は「科学」が支配し、人間は自己実現のためだけに生き、他人との距離をうまく図れなくなっていた。それでも、何事もなく社会は機能していた。
「おはよ!はるか、目赤いよ?この眼薬さしなよ。一発で治るから!」
「…るみ…それも、「科学」薬品だよね…」
「はぁ?何言ってんの?「科学」使ってない薬なんていまどきないじゃない?大丈夫?あっ!ほら!佐藤君来たよ。」
「うん…」
 あぁ…だめだ…全然集中できないよ…昨日のあのスズムシたち…今もこの学校の地下で練習しているのかな。わたしは……刺繍…
 はるかは、誕生日プレゼントの刺繍を『糸通し不要!スーパー裁縫セット』に頼もうと思っていた。針と糸すら持ったことがなかった。はるかは思えば、生まれてから一度も練習とか努力とかいったものをしたことがなかった。それでも人生楽しかったし、これからもこのままでいられると思っていた。その日、はるかは、ぼうっとしたまま一日を過ごした。先生の話す声も、友達の声も、耳には入ってこなかった。ただ、耳について離れないあの音…リンリンリンリン…リンリンリンリン…リンリンリンリン…
 ダメだ…あの音が耳について離れないよぉ…わたし、刺繍とかしたことないんだよね。いっつも「科学」に頼って…わたし、頑張ってみようかな…スズムシたちも頑張ってるんだし、わたし人間なんだから!!
 はるかは、その夜、スズムシたちにも会いに行かずに、ひたすら刺繍を頑張っていた。生まれて初めて針に糸を通し、自らの手を傷つけながらも一生懸命に頑張っていた。はるかは、初めて頑張るということがどういうことかを実感していた。なんてすがすがしいんだろう…リンリンリンリンという音が聞こえたような気がした。
「はるか!愛しのまなぶ君へのタオルはできたの?今日、刺繍マシーンに作ってもらうの?」
「るみ!おはよ。ううん。わたし昨日の夜頑張ったんだ!自分で刺繍したんだよ!」
「バカじゃないの?自分でやるだなんて!」
「バカでもいいの。わたしなりに頑張ったんだから!」
 はるかは、自分でも愚かだと思った。自らが縫った刺繍はとても、あげられたものではなかった。しかし、はるかは、満ち足りた気持ちになっていた。明日は決戦の日だ。その前に、今日の夜、はるかは自分にやらなければならないことがあることを感じていた。自分にしかできないことだという自覚もあった。わたししか、世界を救えないのだという気持ちがはるかを支配していた。
「さぁ!今日も練習すんでー!ほら、うまいこと羽震わせろやー!」
「せっ、先輩!しんどいっす!」
「弱音を吐くんやないで。これも、わてらスズムシが世界を支配するためや!命の限り、リンリンリンリン、リンリンリンリン、言わすんやー!」
「はいぃぃぃ!!!」
 はるかはそっと物陰からスズムシたちの練習する姿を見ていた。
 わたしが戦わなきゃだめなんだ!絶対に!絶対に負けないんだから!確かにスズムシたちはみんな頑張っているんだ!それはわかってる。わたしたち人間より頑張ってる。生きるために…でも、でも、わたしは、わたしは…!!わたしは、あいつらを倒さないといけない!人類のために!
 覚悟を決め、はるかは、立ち上がった。はるかの手には「科学」の進歩によって生まれた強力殺虫剤「シューシュー」があった。
 はるかは、学校から帰った後、スズムシたちと対峙するためには、どうすればよいかということを必死で考えていた。「科学」を使えば、虫たちは一発で吹き飛んでいくだろう。しかし、「科学」の乱用により巨大化したスズムシを「科学」を使って退治しては、何の意味もなさないのではないかという思いがあった。しかし、スズムシたちに対抗するには、この方法しかないという気持ちで、強力殺虫剤「シューシュー」を手にした。
 校庭では、なおも、スズムシたちが練習が続いていた。弱音をはくものも、周りに支えられながり、一生懸命に練習していた。リンリンリンリン…リンリンリンリン…
「スズムシたち!人類のために、退治するわよ〜!」
「だっ、誰だお前!」
「わたしは、世界のヒロイン間宮はるかよ!」
「なんや、お前、われらの邪魔する奴は誰でもゆるさへんでぇ!われらがお前ら人間になにしたっちゅうねん。お前らが、わてらをこんな巨大化させたんやろが!「科学」なんてもんないらんねん!わてらはな!こうやって、リンリンリンリンして、きれいな音を立てられればそれでええねん。わてらの楽しみを奪ったんはお前ら、人間と「科学」やろうが!」
「…そっ、それは、そうかもしれない…でも、わたし、あなたたちのリンリンリンリンって音を聞いてて、気づいたの。努力すること、練習することが大切だって…わたし、昨日初めて努力したの。とても気持ちよかったよ。わたしたち人類は、今は「科学」に頼りきりだけど、きっといつか気づく日が来ると思うの。スズムシさんたちのように、一生懸命になることの大切さに。だから、ごめんなさい。スズムシさん。行け、シューシュー!!!」
 シューシューは効果を発揮した。スズムシ、リンリンリンリンに2300ポイントのダメージ。
 スズムシ、リンリンリンリンは弱体化した。シューシューの効果はまだ続いている。すずむし、リンリンリンリンは小さくなっていく。シューシューの効果が切れた。
 校庭には、弱体化し、通常の大きさに戻ったスズムシ、リンリンリンリンたちがいた。はるかは、シューシューの威力に驚いていた。やはり「科学」は素晴らしかった。こうして、スズムシたちを弱体化させることに成功した。戦いは終わった。はるかの勝利であった。はるかは世界を救った。はるかは、日常に戻るため、部屋に帰り、ベットに入った。はるかとスズムシの戦いは終わった。
「わたしは、これでよかったんだよね。」
 耳もとで小さな音でリンリンとスズムシの鳴く音がした…
「おはよ!今日はとうとう、愛しのまなぶ君の誕生日だね!」
「るみ!うん!今日、放課後に会おうと思うの!」
「はるか、元気になったね!最近元気なかったからさぁ」
「心配してくれて、ありがとう。でも、わたし、この何日かで大切なことを学んだんだ!」
「大事なことって?」
「ふふ…ひみつ。でも、スズムシさんが教えてくれたんだよ!」
「はぁ?スズムシ?」
「ふふ…」
 放課後はるかは予定通りに、まなぶを呼び出した。
「まなぶ君、ごめんな、急に呼び出したりして。」
「いや、どうしたの?」
「あのね…」
「まなぶー!今日一緒に帰ろうって言ってたのに!教室に行ってもいないから、探しちゃったじゃない!」
「あぁ…みな。俺、間宮さんと話があるから、先に行ってて。」
「ふぅん。話ねぇ…」
 はるかは、みなの鋭い視線に気づいていた。
「じゃあ、教室で待ってるね!早く、来てね!」
「…ごめんね。みな。いいやつなんだけど、ちょっと空気読めないやつで。」
 まなぶ君…そんな風に来栖さんのことかばうんだ…
「で、話ってなんなの?」
「えっ…ううん。まなぶ君、明日誕生日でしょ?だからプレゼント!」
「うわぁ、うれしいなぁ。本当にうれしいよ。間宮さんにもらえるなんて。」
「自分で刺繍したの。全然うまくないんだけど…」
「とっても素敵だよ!大事にするね。」
「あの…まなぶ君!来栖さんと…ううん。なんでもない。そう言ってもらえてうれしい!よかった!来栖さん、待ってるんじゃない?早く行ってあげないと…」
「そうだね。ほんとににぎやかな奴だからなぁ…」
 まなぶ君にプレゼントできたことは本当にうれしかった。なのに…やっぱり、ふたりは付き合ってるのかな…わたしの出る幕なんてないのかな?わたしのほうが、まなぶ君のこと好きなのに!
「るみ〜!」
「どうしたの?急に電話なんかしてきて!」
「あのね…今日、プレゼント渡そうとしたら、来栖さんが乱入してきて…」
「そっか…でも、佐藤君喜んでくれたんでしょ?」
「うん。間宮さんにもらえてうれしいって言ってたよ?」
「そう…まぁ、そんな暗い声出さないで!あした、気晴らしに買い物にでも行きましょうよ!」
「うん…そうだね。ありがとう、るみ。」
 はるかは、複雑な気持ちでベットに入った。まなぶとみなの関係、切っても切れない糸で結ばれているように感じていた…
「おはよう!」
「おはよ、るみ!」
「まず、どこから行く?」
「わたし、靴がほしいの!」
「了解!」
 やっぱりるみと買い物しているときが楽しいよ〜。昨日は、まなぶ君のこと考えちゃってあんまりねむれなかった…でも、今日はめいっぱい楽しもっと!
「…ねぇ、はるか…あれ、来栖みなじゃない?」
「えっ…」
「隣にいる人、絶対年上だよね?」
「確かに…」
 はるかたちの目にとび込んできたのは、みなと手を組んで歩く、大人の男性の姿だった。
「なんか、来栖さん、楽しそうに笑ってるね。」
「うん…でも、まなぶ君は?」
「佐藤君と付き合ってるわけじゃなかったのね。」
「うん。」
 明日、学校で聞いてみよう!まなぶ君に本当のことを。来栖さんとつきあってるわけじゃないのか。
「間宮さん、おはよう」
「まなぶ君、おはよう。あのね…」
「まなぶー!聞いて、昨日ね。私、彼に告白されちゃったー!」
「えっ」
 はるかは混乱した頭で必死に考えていた。急に飛び込んできたみなの口からは予想外の言葉が発せられていた。
「だから、あんたも頑張んなさいよ!彼、年上だからって、私に言うの躊躇してたんだって!」
「みな、よかったじゃないか。俺も頑張るよ。」
「あの…どういうこと?来栖さんは、まなぶ君と付き合ってたんじゃないの?」
「あぁ…、間宮さんは、誤解してるよ。付き合ってたのは、昔の話、みなのやつ、年上のやつが好きになって、俺のことふったんだ。で、ずっと相談にのってたんだ。で、昨日、やっとくっついたってわけ。俺は、ずっと間宮さんのことが好きだったんだ。」
「そうだったの…わたしもまなぶ君ことが好き。ずっと好きだったの。」
「はるか、おはよ!って、あんた、顔真っ赤よ!なにかあったわね?」
「るみ…わたし、まなぶ君と付き合うことになったの!」
「本当!?佐藤君、こんな子でいいの?」
「ちょ…どういうこと?」
「いいんだ。間宮さん、いや、はるかは、俺にとって、最高の女の子だから…」
 はるかは、そのまなぶの言葉を聞いて、ますます、赤くなった。言っているまなぶを顔を赤らめている。
 るみは、この子たちなら、うまくやっていけそうという確かな予感がした。
 
 
 時は2XXX年。
 地球という星は「科学」が神にも等しきものとしてあがめたてまつられ、世界を支配していた。
 その中で、人類はその恩恵にあずかって生きていた。またその他の生物たちは「科学」の力によってまさしく生かされていた。そして、世界は平和だった。驚くほど平和だった。人々は平和であることになんの疑問も持っていなかった。自らのしたいことをし、したくないことはすべて「科学」が代わりに行っていた。
 いつの時代でも、若者たちは変わらない。恋をし、時に、自分たちが生きるという人生の命題にぶつかり、不器用ながら、戦い、生きていく…
 間宮はるかは、そんな女の子だった、スズムシリンリンリンリンと戦っても、佐藤まなぶに恋をしても、そんな平凡な女の子だった。変わりゆくものの多い、この世界で、変わらないものがあるとするならば、それは、きっと…こんな物語ではないだろうか…
 

Oh My ガーター☆
072109

 ゴロゴロゴロ…ガタンッ
 ボールは溝に吸い込まれた。
「またか…」
 もう何度目だろう…いや18度目だ。上を見ればわかる。そこには18個のGが並んでいる。Gの数が増えるごとに僕の気持ちは沈んでいく。
 僕がさえない顔で席に戻ると周りの奴らは僕の気持ちなんか気にせずに声をかけてくる。そりゃみんなは楽しいだろう。あんなにピンを倒せたら気持ちいいだろうな。
 ゴロゴロゴロ…パカンッ
 先頭のピンに当たると同時に全てのピンが勢いよく弾けとんだ。
 特別かっこつけるわけでもなく、弘志は意気揚々と席に戻ってくる。僕以外の周りの奴らははしゃいでいて、弘志は一人ずつとハイタッチを交わしている。僕はおもしろくないと思いつつも弘志とハイタッチを交わした。弘志の笑顔が気にくわない。沈んでいた気持ちは怒りにも似た感情に変化したみたいだ。僕だって初めてじゃなかったらもっとできていただろう。
 恥ずかしながら僕は大学生にもなって初めてボーリングをした。さらに恥ずかしながらボーリングという存在を初めて知った。そのことは誰にも言ってない。
 ボーリングに行くことになったのはひょんなことからだった。弘志に誘われた合コンの二次会で行くことになったのだ。ボーリングに行こうと言い出したのも弘志だった。お酒も入って気分が乗ったのか、女の子たちはその案にノリノリだった。僕は行ったことがないとも言えず、ただ話を合わせてついていくことしかできなかった。弘志はボーリングが得意らしく、女の子にキャーキャー言われたいがためにボーリングに行こうと言い出したのだろう。どうせそうだ。そうに決まっている。そんなことにも気付かずにキャーキャー言ってる女も女だ。こんな玉転がしが出来たくらいでなんだと言うのだ。
「つぎは文雄の番だよ」
 千穂が声をかけてきた。千穂は今日合コンで知り合った女の子だが、ハキハキしていて世話好きなようでいい感じの子なのだろうが、はっきり言って僕のタイプではない。合コンもボーリングも収穫ゼロだ。酔っているのだろうか。周りの全てにイライラしてしまう。
 早く投げて終わろうと思って重い腰を上げる。見上げると千穂のスコアには「G」のマークはない。女でもGはとらないのか。そう思っていると千穂が声をかけてきた。
「文雄君はどこ狙って投げてる?レーンにある三角を見て投げたらガーターにはならないよ。」
 大きなお世話だ、人ことを気にする暇があったら自分のことに気をかけたらいいのにと思いながら、笑顔で「ありがとう」を言う。
 ボールを持ってレーンを見てみると確かに三角がある。試しに「真ん中を狙って投げてみるか」と軽い気持ちで投げてみた。ボールはどんどんピンに吸い込まれていく。最後にボールは少し左にそれて真ん中のピン以外を倒すことができた。
「倒せたじゃん」
 後ろから千穂の声が聞こえるが僕は上の空である。初めてスコアに9の文字がついた。ちょっと嬉しく思ったが、あと一回投げたら終わりだと思うとむなしくなった。
 あれを倒して気持ちよく終わろうと思った。ふりかぶりながら、さっきは左にそれたから今度は一つ右の三角を狙おうと考えた。足を踏み出し、ボールを投じた。またしてもボールはピンに吸い込まれていき、ピンとボールは乾いた音を奏でた。
「よし」と僕は澄ました顔でガッツポーズを心の中でかました。
 少し満足げな顔をして席まで戻り座ろうとするとまた千穂が声をかけてきた。
「10フレームはスペアを取ったらもう一回投げれるんだよ。知らないの〜。」
 千穂は笑っている。自分がアドバイスをしたから倒せたと思っているんじゃないか。これだから女は困る。これは僕の実力だ。
 でもまた投げられるのか。気分の高まりを抑えきれない。あのピンを全部倒したい。全部倒して誇らしげに席に帰っていき女の子たち(千穂以外)とハイタッチがしたい。
 ボールが戻ってきてすぐに手にとり、ふりかぶった。さっきと同じように真ん中より一つ右の三角を狙ってボールを投げた。狙い通りに三角の上をボールが通った。よしっいける。僕はピンの行方を見守った。
 ゴロゴロゴロ…パカンッ
 乾いた音と共に勢いよくピンは弾けとんだ。しかし一本だけちょこんと申し訳なさそうに残っているやつがいる。僕の気持ちは一気に突き落とされてしまった。ガッツポーズもすることなく無言で席に戻る。
「惜しかったね」千穂が明るく励ましてくれる。しかし今の僕には少々耳障りだ。
「ありがと」僕は聞こえるか聞こえないかの小さな声で答えた。
 弘志はほっとした表情をしてまた女の子と話始めた。
 これが僕のほろ苦いボーリングのデビュー戦だった。
 僕の心は悶々としている。あの日からもう三日がたった。ボーリングがしたくてしたくてたまらない。そんな思いが心の中を渦巻いている。そんなに行きたければ行けばいいのだが実際問題そうはいかない。まず、一人で行くのは恥ずかしいということがある。しかしそんなことは今の僕には気にならない。簡単に言うとお金がないのだ。もっと詳しく言うと一昨日に僕の全財産が尽きてしまったのである。合コンの次の日、僕は「ゴロゴロゴロ…パカンッ」というボーリングの夢で目覚めた。決していい目覚め方ではない。その日から僕のモヤモヤは晴れることなく続いている。ボーリングがしたいという思いを止めることはできず、僕はスポーツ用品店に向かった。そこでボーリングの玉・手袋・ウェアに至るまで、ボーリング用品を一式そろえることに成功した。僕は形から入るタイプの人間なのだ。そして意気込んでボーリング場に向かおうとした。しかし、大事なことに気付いた。お金がない。
 それからというものボーリングはできていない。さらにボーリングを思い続けるがあまり他のことも手に付かない。こんなことは大学に入って初めてだった。普通の大学に入って、普通の大学生活を営んでいた。部活やサークルはやらなかった。特別やりたいことがなかったということもあるが、熱くなれるものを心の中で求めていたからなのかもしれない。今はじめてそういう熱い気持ちになれることができたと考えると少しわくわくしてきた。
「今しかない」と思うようになった。やりたいことがあれば突っ走ってしまう性格だから、僕は寝起きの格好のまま家を出て学校に向かった。「ボーリング部に入ろう」
 やっぱり失敗だった。この格好で大学にきたおかげでかなり目立ってしまい、ほかの学生にじろじろ見られてしまう。肩身が狭く、ずっと下を向いたまま事務局に向かう。周りの目が気になって仕方ない。
「ボーリング部に入りたいんですけど」僕はとりあえず事務局の職員に聞いてみた。職員たちは一瞬あっけにとられた後、ざわざわし始めた。しかしなかなか僕のところへ来て応対してくれない。もう一度同じことを職員にくけていった。今度は一番端の人にも聞こえるような声だった。しぶしぶ一人の職員が席を立った。早く来てくれよと思いながら待っていると、こちらに来ることもなくただ「ボーリング部なんてないよ」という言葉を僕に浴びせかけただけだった。その職員はそう言うと、すぐさま席に座ってパソコンに向かい、自分の世界へと戻った。
 僕は事務局を出た。また途方に迷って悶々としている。これからどうしたらいいかわからない。どうしようどうしようと考えながら大学の構内を歩く。もう人の目は気にならない。というよりは他の人のことを意識する余裕がない。どうすればいいのか考えながら歩いていると、気付いたら大学の掲示板まで来ていた。そこで一つの掲示物を見つけた。「男子ラクロス部部員募集中」この言葉を見て僕はひらめいた。ひらめくと同時に僕は駈け出した。
 普段ろくな運動もしない僕は汗だくになり、息を切らしてまた事務局へと戻ってきた。なかなか話しだせない僕を見かねてか、またさっきの人が席を立ち、「ボーリング部なんてないよ」とぶっきらぼうに言った。他の職員の何人かはくすくす笑っている。他の職員は僕になんか全く興味を示さない。僕は息を整えて、思いっきり息を吸い込んで、自分の気持ちの高ぶりを声に乗せて吐き出した。「ボーリング部を作りたいんですけど。」職員たちは一斉にこちらを見た。僕を見てまた唖然としている。もう一度同じように言おうと思った時、さっきの職員がこちらに来て、一枚の紙を持ってきた。
「ここに名前とか連絡先とか必要事項を記入してください。」職員は淡々と説明する。しかし僕には気にならなかった。そんなことより「ボーリングができる」という思いでいっぱいだった。黙って必要事項を記入する。早く書けという職員の思いがひしひしと伝わってくる。それにも負けず必要事項を書き終えた。職員は書類を受け取ったあと、最後に嫌味ったらしくこう付け加えた。「部活を発足させるには部員三名と顧問の方が必要ですので、人数がそろいましたらもう一度ここへ来てください。」そういうと職員はまたパソコンへと向かうべく席に戻って行った。
 僕はまた事務局を出た。今度は複雑な気持ちである。むしろ希望の光が見えてきた。今すぐボーリングができると決まったわけではないが、人数を集めればボーリングができると決まったわけだから話は早い。僕はもうボーリングができるという気持ちで楽しくなってきた。僕は授業のことなんかすっかり忘れて、帰路に就いた。帰り道はずっとにやにやしていたみたいだった。帰り道に見た空はとても澄んで見えた。
 それからというもの僕はボーリング部発足に向けて走り出した。まず部員を勧誘するために、ビラ配りやポスターなどを行った。もちろんビラやポスターはすべて僕が作ったものだ。貴重な睡眠時間を削って作った大作だ。しかしまだ連絡は一件も来ていない。しかし一つ前進したことがある。それは顧問の先生を決めることに成功したのである。顧問を決めるにあたって僕には「あて」があった。僕の学科の先生に橋本先生という人がいる。学生からは「お水」と呼ばれている。なぜ「お水」なのかというと、この先生は水のことに関して日本でも有数の権威だからである。この学校で水のことでこの先生の右に出る者はいない。そんなすごい先生であるにもかかわらず、学生からの評価はどうもそんなに高くはないみたいである。それは「お水」の性格に問題がある。悪い人ではないのだが、学生からの頼みごとを断れないのである。どうも押しに弱い性格らしく、粘り強く頼み続けると最終的には「お水」のほうが折れてしまうというのである。そのうわさを聞いていたので、僕は迷わず顧問は「お水」で決まりと考えていた。しかし僕が思っていた以上に「お水」との交渉合戦は長引いてしまった。「お水」の粘り強さに僕のほうが先に折れてしまいそうだった。しかし僕は負けるわけにはいかなかった。ボーリングをしたいという気持ちを前面に出し続けた。その結果二時間がたとうとしたころにようやく「お水」の決まり文句を聞くことができた。「わかりました。今回だけですからね。」
 顧問の先生は「お水」に決まった。あとは部員だけだ。しかしいくら声をかけても、いくら連絡を待っても、「ボーリング部に入りたい」という人が現れることはなかった。せっかくボーリング部を発足させようと思っても、肝心の部員が僕だけではどうにもならない。また悶々とした日々を過ごさなくてはならないのか。そう考えていると、一つの思いが頭をよぎった。「ボーリングはボーリング場でやるものだと誰が決めたんだ?」
 こうして僕のMYボーリング場探しは始まった。学生には金がないんだ。金がないんだったら金がかからないことをすればいい。幸か不幸かボールやウェアは持っている。後は投げるためのレーンがあればボーリングができるではないか。そんなことを考えながら、僕はボーリングのピンになるペットボトルを探してゴミ箱をあさった。幸いにも十本のピンはすぐに見つかった。それはそうだ。僕がピンとしてみているこのペットボトルは、一般の人からすればただのゴミにしか見えていない。そんなことには目もくれずボーリングをするための物資はそろった。あとは場所だけだ。
 一つ目はすぐに見つかった。それは「家の廊下」である。僕は小さな学生マンションに住んでいるので、部屋の前の渡り廊下を利用することにした。床の滑らかさといい横幅といいボーリング場のレーンと遜色ない。傘立てや自転車など余計なものも多少あるがそんなことは気にしない。とりあえずピンをセットして試しに一球投げてみた。見事全てのピンを倒すことができた。「なんて気持ちがいいんだ。」あまりの快感に僕は震えた。全てのピンを倒したという達成感と同時に、倒れた時の音の反響がたまらなかった。さすがは廊下である。もう一度子の快感を味わおうと思い、ピンをセットしているとマンションの管理人が全速力で走ってきた。「なにしとんじゃー」あっけなく僕は管理人に捕まった。そこから管理人の怒涛の説教をくらうことになった。一時間にも及ぶ説教の中、僕は「はい。」と「すいません。」しか言うことしかできなかった。説教が終わりピンを持って他の場所を探しに行った。マンションを出るとき一つ思ったことがある。「このボーリング場は深夜から早朝しか使えないな。」
 太陽が僕をあざ笑うかのように照りつける。僕には大した行き場所はなかった。あてもなくさまよっていても収穫はなく汗が出るだけなので大学に行くことにした。大学につくとまたほかの学生の目が気になる。今回は十本のペットボトルに大きなボールを持っている。この姿を見てどう思うのだろうか。これも勧誘活動の一つだと思うと気が楽になった。大学構内をふらふら歩いていると、また廊下に来てしまった。さすがに大学の廊下はまずいだろうと思った。ここも大学で合宿をするときの朝連の場所にしようと考えながら廊下を歩いているときにふとある場所を思いついた。
 青い空がとてもさわやかだ。雲ひとつないとは言えないが壮大な景色が広がっている。僕の通っている大学は校舎の造りは近代的でモダンな造りになっているのだが、山を切り開いたところに建てられているため、山の上に大学がある形になっており、校舎の一帯以外は自然がたくましく息づいている。自然と建物の調和がとれていないようにも見えるが、見ようによれば味があるとも言えなくもない。不便な点も数多くあるが、この景色を見ると何とも言えない感動を起こさせる。こんなところでボーリングができたらとても気持ちがいいし、何より邪魔する人が誰もいない。僕は校舎の屋上という最高の場所を手に入れた。さっそくピンを並べて構えてみる。やはりいい眺めだ。十本のピンを見据えると、その背景には空と山のパノラマが広がる。この大学に来てよかったなと、この時ほど思ったことはない。その眺めに見入ってしまった。何分も何十分もその景色とそこに立っている自分に酔っていた。その時ふいに不吉なものを僕は感知した。空を見上げると、ついさっきまで青い空が広がっていたのが嘘のように、どす黒い雲が空を覆ってしまった。これは危ないなと思ったと同時に大粒の雨が僕を打ちつけた。不吉な予感は的中した。雨の心配などまったく想定に入れていなかった。「山の天気は変わりやすい」僕はそう呟きながら、そそくさと屋上を後にした。
 やっと雨から逃れることができた。重たいボール・かさばるピンを持って走るのは容易なことではなかった。こんな急に雨が降るのか、さっきまであんなにいい天気だったのに。この大学に入ったことを強烈に後悔した。雨にぬれた服を乾かしながら僕は文句をぶつぶつと吐き出していた。すると室内から大きな声がするのが聞こえる。僕はどこかの運動部が部活をしているのだろう。服を乾かすついでに見ていこうと思い、僕はおもむろに体育館の中へとはいっていた。
 体育館の中では活気のある声と選手たちの熱気に包まれていた。女子ハンドボール部が活動していた。やっぱり部活っていいなと、羨望の目でみんなを見てしまう。いつか僕もこんな風にボーリングという青春を謳歌したいなと心から思った。自然と周りのみんなが憎たらしく見えてくる。じろじろと部活を見ていると、あることに気付いた。体育館の端っこに使っていないスペースがあるではないか。そのスペースだけが光って見える。正式な活動場所はあそこしかない。僕はどうにかあそこを使いたいと思って、いてもたってもいられなくなった。そして何の作戦を立てることもなく女子ハンドボール部の監督と思われる人に声をかけた。ただ「あそこのスペースを使わせてください」ということだけを伝えて頭を深々と下げた。僕の必死のお願いは、自分でも意外なほど簡単に通ってしまった。その監督らしき人は体育会系の部活のなかでもエライさんらしく、そういったグランドや体育施設の利用を決める権力を持つ人だった。僕の必死の願いが通じたのか、話を早く切り上げたかったのかはわからないが、他の部活の邪魔をしないという条件で、その小さなスペースを使ってもよいという許可を得た。僕は実感を得ることができず、放心状態の中「ありがとうございます」と告げ、体育館を後にした。そこからどのように帰ったのかほとんど覚えていない。ただ家に帰るまでずっと「ボーリングができる」という言葉だけが頭を渦巻いていたことだけは鮮明に覚えている。
 それからというもの僕は練習を欠かしたことはない。基本的には大学の体育館のわずかなスペースを利用し、たまには屋上で、さらに注意深く廊下でも投げ込んできた。ピンが飛び跳ねないように水を詰めるという工夫も行っている。そのため少しピンが倒れにくいという難点もあるが、倒れにくいピンのおかげでボールの力が強くなった気がする。
 今日は待ちに待った給料日である。やっと実践練習ができる。学校でなげこみをしてきたものの学校ではやはり臨場感に欠ける。この日のためにいつもは苦痛なバイトにも精を出してきたのだった。いつも以上に張り切ってボーリング場に向かった。自然と笑みがこぼれてしまう。ニヤニヤしているとやはり周りから変な目で見られるが、もうこの目には慣れてしまった。ちなみに今向かっているボーリング場は合コンのときに行ったボーリング場である。僕はボーリング初心者なので、ボーリング場というとそこしか知らない。
 ボーリング場は懐かしい雰囲気だった。ボールとピンのぶつかる乾いた音が心地よい。さっそく投げたいと思って、すばやく受付を済ませた。体がうずうずしているのを感じた。レーンに行き、準備を済ませ、さあ投げようと思った時、いやな予感がした。横を見ると見たことのある人物が立っていた。千穂である。
「ああ久しぶり〜。奇遇だね。せっかくだから一緒にボーリングしよっか。」明るい声で千穂は言う。せっかくのボーリングを一人で堪能したかった。なんでよりによって千穂なんだ。そんなことを思ってはみるが断ることはできない。結局二人でボーリングをすることとなった。
 ボーリングをしている間はほとんど会話することはなかった。それぞれがボーリングを楽しむという形をとっていた。ボーリングをやりだしてわかったことだが、案外千穂はうまい気がした。ボーリングを始めたばかりの僕にでもわかる。フォームが安定していてコントロールもよい。負けてられないと思って気合が入った。しかしその気合は空回りとなった。ゴロゴロゴロ…ガタン
 1ゲームが終わって、僕は休憩をとっていた。ジュースでも買おうかと思っていたときに、僕より少し早くゲームを終えた千穂がジュースを買って戻ってきた。ジュースを二本持っており、そのうちの一本を僕に渡してきた。やっぱり気がきく。
 僕がお礼を言うとその返事として千穂は口を開いた。「文雄くん困ってるんでしょ。うわさは弘志くんから聞いたよ。早く言ってよ〜。うちが力になってあげるのに。うちと弘志くんがボーリング部に入るから、ボーリング部は正式な部として認められるね。さあ練習練習。」
 おせっかいにもほどがある。千穂?弘志?僕の知らないところで二人が動いていたなんて…。あっけなくボーリング部の部員がそろってしまった。僕はもっとさわやかな部活を想像していたのに、これではキャプテンの地位も危うい。急に僕は焦りを感じ、すぐさま次のゲームに取り掛かった。こうして僕が作ったボーリング部はやっと走り出すことができた。
 ゴロゴロゴロ…パカンッ

菜の花
72108

 菜の花が土手のあちこちに咲き始める。無数の新しい草の香りが立ち上がって混じり、濃い草の香りがあたり一帯に漂う。この香りに包まれながら、胸とひざをくっつけて座り、川面を眺める。草がちくちくするのなんて構わない。あたたかい陽に照らされてきらきらと光る水面を見ていると、穏やかな気持ちになるから。わたしは毎週日曜日はこの土手に来て、過ごすことにしている。本を持ってここに来ることもある。ここはわたしのひみつの場所だ。立ち上がり、スカートについた土をはらう。周りに溶け込んでしまいそうな小花柄を布にとどめる。汚れているところはないかしっかり確認したらかばんを持って、土手のゆるやかな斜面を上り、堤防の道に出る。そして、ぺたんこの靴で家へと歩き出す。白線を踏みはずさないように気をつけながら。
 堤防をしばらく歩くと、河川敷にあるグラウンドが見えてくる。手前にはテニスコート、その奥には多目的競技場、もうひとつ奥には野球場。いつもすべての競技場に人がいるというわけではないのだが、日曜日は中学生のテニスの練習や、社会人の草野球をしていることが多く、なかなか盛り上がりを見せている。今日は小学生のサッカーの試合が行われているみたいだ。グラウンドの前にテントが張られ、あちこちに保護者と思われる人のかたまりが見える。それぞれの視線の先には、ボールを必死に追いかけるわが子の姿があるのだろう。わたしは、かすかに見えるサッカーボールの行方に夢中になった。すると、すぐ横を何かが通り過ぎる気配がした。振り返って見てみると、大きな犬とその飼い主だった。この堤防は犬の散歩をする人も多い。犬の尻尾ってあんなに大きかったっけ。ぼんやりと考えながら再びサッカーボールに視線を移そうと前を向くと、道と土手の境に4歳くらいの女の子がひとり座っている。周りには保護者らしき人はいない。サッカーの試合に夢中になった保護者が目を離したのだろうか。
 「ねえ、お父さんか、お母さんは?」
 そっと近づき、しゃがみこんで聞いてみる。くりっとした目の女の子だ。わたしの顔を不思議そうに見た後、小さな声で「あれ。」とテントのほうを指差した。やっぱり。
 「ひとりでここまで来たの?」
 ゆっくりと頷いた。2つにくくっている髪が揺れる。
 「ここに座ってもいい?」
 女の子はまた、頷く。わたしは女の子のすぐ隣に座った。名前を聞くと「あやか」という答えが返ってきた。ふとみると、手には、十数本の花がしっかり握られている。
 「きれいな花束だね。自分で集めたの?」
 女の子はにっこり笑って、一つ一つの花がどこに生えていたのか、丁寧に教えてくれた。わたしは知っているだけの花の名前を教えてあげた。あやかちゃんは繰り返し花の名前を唱え、すべて覚えてしまった後で、「これをね、オオカミさんにあげるの。」と楽しそうに笑った。
 「オオカミ?」
 「3びきのこぶたにでてくるオオカミさん。このまえはね、あやかが桃太郎のお供をして、鬼ヶ島に行ったの。そのときにきじの背中に乗せてもらって、空から『ていさつ』したの。でも、風が気持ちよかったから、そのまま空を案内してもらったの。」
 あやかちゃんは得意そうに言った。話を聞いていると、お父さんは寝る前にあやかちゃんが登場する物語を作って、聞かせてくれるらしい。シンデレラと一緒に掃除をした話や、夜に魔法のじゅうたんに乗った話、人魚姫と海でかくれんぼした話をしてくれた。
 わたしが小さいころはひとりで寝ていた。そのことを思い出し、少しうらやましく思う。
 「その花束、なんでオオカミにあげるの?」さっきから不思議に思っていたことを聞いてみる。
 「ぶたさんと仲良くなってもらうためだよ。わらのおうちは壊されちゃうでしょ。木のおうちも壊されちゃうでしょ。れんがのおうちに3びきぶたさんがいるところに、えんとつからオオカミさんが1人で入ってきて熱いなべに入れられるのはかわいそう。だからね、あやかがレンガのおうちに行って『さくせんかいぎ』するの。ぶたさん、オオカミさんとそろそろ仲良くなりませんか、って。仲良くなりたいって言ってくれたら、3びきで協力して、オオカミさんに手紙を書くの。その手紙に書くことは、一緒に考えるつもり。それが書けたら、おうちの前に置いておくの。でもね、手紙だけじゃなくて、このお花も一緒に置いたら、ぜったいに仲良くなれると思うの。」
  小さいけれどカラフルな花束が、背筋を伸ばしている。
 いつの間にかサッカーの試合が終わっていた。グラウンドには人影が少なく、駐車場へと歩き始める人もちらほら見える。テントはまだたたまれず、形を残している。
 「じゃあそのお花、お父さんに見せに行こっか。」
 あやかちゃんは元気よく返事をして、ぴょん、と立ち上がった。やわらかそうな前髪が揺れる。わたしも急いで立ち上がり、あやかちゃんと手をつないで河川敷へと駆け下りた。
 今晩、あの子のお父さんが、あやかちゃんが話してくれたようなお話をしてくれるように。あるいはお話の中に、あやかちゃんが考えるよりももっと素敵な世界が広がっているように。再び白線上をひとりで歩きながら、小さな左手に握られていたナズナを思った。
*
  雨、降るのかな。バイトの帰り、堤防を通ってみる。雲が軽々とわたしを追い抜いていく。夜には雨が降り出すでしょう、と天気予報で言っていた気がする。
 5日前から、猫のいわしが帰ってこない。
 気ままなところがあるけれど、今までは夕方になると必ず帰ってきたのに。
 いわしは、1年前にうちに来た。雑種の猫で、親戚から引き取ったのだが、その時からいわしという名前だった。子猫のときから家族の誰にもまとわりつくようなことはしなかったが、家の中にいるだけでみんなの表情が明るくなるような気がした。そして、夜になるとわたしの部屋にするりと忍び込み、足元で丸くなって眠った。
 自転車を降りて、あたりを見渡してみた。前にこのあたりの河原で猫の親子が暮らしているのを見たことがあるからだ。ここに迷い込んだのかもしれない。そう思って堤防まで来たものの、目の前に広がる草むらの中から1匹の猫を見つけるなんて不可能だ。そもそも、他の場所を歩きまわっているのかもしれない。ざわざわと菜の花が揺れる。気がつくと座り込んでいた。土手の下にある砂利道の奥には川に行き着くまで、延々と草が生い茂っている。いわし、今日は家に帰ってくるのかな。芽吹き始めた木をぼんやり眺める。すると、背中に温かいぬくもりを感じた。
 「すみません!」
 大きな声と奇妙なぬくもりに驚き、体を半分ねじるようにして振り返ると、頬にひんやりとしたものが当たった。ラブラドール・レトリバーの鼻だ。片足をついているわたしのひざに、すごい勢いで足をかけようとしている。背後に広がる斜面が頭をよぎる。目の前には犬の顔とばたばたする前足しか見えず、そこらじゅうに荒い息がかかる。「待って待って!」と言いながら、しばらくの間犬のあごと背中を撫でていると、徐々に落ち着きはじめ、つぶらな褐色の目がとろんとしてきた。
 「ほんとにすみませんでした!」
 見上げると、背の高い女の人に、本当に申し訳なさそうに謝られた。胸元に大きなロゴが入ったネイビーのパーカーにデニムというラフな格好がよく似合っている。帽子をかぶっているから顔ははっきりと見えないが、わたしより少し年上だろうか。
 「いいですよ、ちょっとびっくりしたけど、かわいいラブラドール・レトリバーですね。」
  犬はすっかり落ち着いている。
 「知らない人を見ると、うれしいみたいで。男の子なんですけど、特に女の人にかまってほしいみたいなんですよ。ねぇ。」
 そう言って、女の人はいたずらっぽく犬の頭を撫でる。白っぽい犬の毛が、きらきらと光ってきれいだ。水玉模様のリードが映える。
 「人懐っこいんですね。もう落ち着いてるし、いい子。」
 「ちょっと力が強くて、散歩するのも一苦労なんですけどね、気はやさしいんです。この前は、自分より大きい犬に吠えたのはいいんですけど、わんわん言いながら後ずさりしてて。」
  吠えながら腰が引けている姿を想像すると、なんだかかわいく思えてきた。3分前まではすごく怖かったのだけど。
 「かわいいですね。まだ大きくなるんですか?」
 「うん、もう少し大きくなるみたい。ただ、この子アレルギーがあって・・・食べ物には気をつけなくちゃだめなんですよ。すぐかゆくなるみたい。」
 「そうなんですか・・・大変ですね。」
 犬がわたしの耳元で、くぅんと鳴く。寂しそうな声だ。犬のアレルギーが治ることはあるのだろうか。わたしの友だちは卵アレルギーが治ったと言っていたけど。犬にとっておいしいもの、何かはわからないけど、それを食べずに一生過ごすのだろうか。わたしがすきなオムライスを想像してみる。もしわたしが卵アレルギーだったら、ずっとあの味を知らないままなのだろうか。でも卵を避けながら食事をしているうちに、わたしがきらいな魚のおいしさを発見することができていたのかもしれない。人はそれぞれの幸せを見出すことができる。悲観的になるなよ、ラブラドール・レトリバーくん。
 「あ、もうこんな時間!この子がほんとにすみませんでした!・・・よし、帰って晩ごはんにするよ!」
 女の人は帽子の影からさわやかな笑顔を見せ、犬をひっぱった。犬は名残惜しそうに腰をあげ、最後にわたしをじっと見ながらもう一度くぅんと鳴き、顔をぺろりとなめた。
 「すみません!懐いてしまったみたい!あ、今日は雨が降るみたいだし、帰り道気をつけてくださいね!」
 小さく手を振って、女の人は堤防をまっすぐと歩き出した。犬はその左前で力強くリードをひっぱっている。女の人の、「今日は、きみのだいすきないわしのつみれを作ってあげよう!」という明るい声が聞こえた気がした。
 その夜、何事もなかったかのように、いわしは帰ってきた。みゃあとも鳴かず、誰かの足元に擦り寄って、まとわりつくような目つきもせず、いつものようにつんとしている。どこに行っていたのかはわからないが、毛は少し汚れていた。久しぶりにシャンプーをしてあげようと、お風呂場で体を濡らしたが、おとなしい。普段はすごく嫌がって、暴れまわるのに。結局いつもの半分の時間でシャンプーを終えることができた。いわしが帰ってきたのも、おとなしくシャンプーできたのも、今日出会った女の人とラブラドール・レトリバーのおかげだろうか。
*
   桜の木が見えないのに、花びらが降る。春のふしぎ。そんな夜に、彼と出会った。
 なんだかすこし春の風に吹かれていたいような夜だったから、堤防をゆっくりと歩いた。夜の川は真っ暗だ。でも、月の光がやわらかいからぼんやりと近くの景色が浮かび上がる。星と星は均衡を保っていて、月は輪郭をあいまいにしている。空を見上げながら花びらのふしぎについて考えていると、わたしの前にも空を見ながら歩いている人がいるのに気がついた。
 「あ、」と言葉が出てしまって、その瞬間、前を歩く男の人がこっちを向いたから、どうしようかあたふたしてしまったけど、
 「あ、」と言って笑う人だったから、なんとなく一緒に歩くことにした。
  ナイロンのリュックを背負っていて、片手には缶ジュースを持っていた。明るい灰色のパーカーが、月に照らされてぼんやりと浮かぶ。ときどき重なる2人の足音が心地よい。こんな時間にひとりで歩いてるのはなぜとか、名前とか、年齢とか、仕事は何をしているのかとか、そんな話はしなかった。ただ2人で並んで歩いているのが自然だった。
 「ここ、よく通る?」
  月明かりのなか、低い声が響く。
 「うん。・・・よく通るの?」
  わたしの声も、今日はよく響くような気がする。
 「来たいときに来る。」
 「それってどんなとき?」
 「今日みたいな春の日。」
 テニスコートの前を通ったときに、好きな映画の話をした。わたしは『ジョゼと虎と魚たち』がすきだと言ったら、男の人がはまりやすい映画じゃないの、と言われた。じゃあなにがすきなの、と聞くと、『チャーリーとチョコレート工場』と答えた。チョコレートがすきだから、らしい。本当だろうか。
 野球場の前の土手に2人で腰を下ろした。満月に雲がかかって、たてがみのようになびいている。その男の子はよく見る夢の話をしてくれた。
 「いつも、1人で森の中に立っているところから始まる。たぶん昼なんだけど、木が鬱蒼と生い茂っていて薄暗いんだ。この森を出なきゃいけないっていう気持ちになって、前に進んでいくと、光が直接差し込んでくる場所が見えてくる。足元に転がっている石や木の枝に注意しながらようやくその場所にたどり着いて上を見ると、木々の隙間から見える空には、ほの白いドレープが揺れている。その瞬間、決まって不思議な感覚に襲われるんだ。ふと両手を見ると、手が溶け始めている。指の先から徐々にとろっとした液体状のものになり、元の形がなくなっていく。その液体はぼくの足元へと垂れて、小さな水たまりをつくり始める。だんだんと手のひらが消える。足の裏から伝わるのはひんやりとした感覚だけ。ぼくの手のひらだったはずの温度。じっと見守ることしかできない。そうしているうちに両肘まで溶けていくんだ。このまま自分はなくなってしまうって思う。全身がつめたくなってきて、だんだん、このまま消えてしまってもいいという感覚になっていく。ふと見ると、一匹の蝶がぼくの肘のあたりに止まっている。気のせいかもしれないけれど、さっきよりも手が溶けるスピードが遅くなっているんだ。そいつは羽の模様を見せつけるように2、3度ゆっくりと羽ばたきをする。黒地に青緑色や紫に輝く鱗粉をちりばめていて、シックな美しさを持っている。見とれてしまうくらいきれいなんだ。でも、この蝶には触角がない。そのことに気付いた瞬間、蝶はぼくの肘を離れ、鱗紛を振りまきながら白いドレープの中へと飛び立ってしまう。そして、残されたぼくはそのまま溶けて、大きな水たまりになって、枝の隙間から見える太陽を待ち続ける。こんな夢を小さいころからよくみる。」
  ひんやりとした空気と森の静寂が、彼を孤独にしていく姿が目に浮かぶ。
 「こわくない?」
  わたしは不安になって彼の横顔をみる。月の光に照らされた顔には複雑な表情が浮かんでいる。
 「ずっとみてるから、わからない。」
 長いまつげがゆれる。
 わたしはなんだか彼が消えてしまいそうな気がして、彼の手を確かめる。
 「よかった。あったかい。」
 「夢の話だよ。」
 「うん。」
 「・・・・・・あったかい?」
 「うん。」
 「よかった。」
 手をつないだまま、さくらの花びらが降るのを見ていた。
  堤防ではだんだんと春のにおいが弱くなって、土手にはシロツメクサが咲き始める。
 今日は『午後の紅茶』とお気に入りの歌集を持ってきた。ゆっくりしたい日だから、グラウンドの方ではなく、いつもの静かな場所に座る。
 あの日から彼を見ていない。彼はいま元気かな。消えてはいないかな。短歌が読めない。時計を見ると、3時を指している。ごろんと寝転がると、むんと鼻をつく土のにおい。陽のぬくもりが体中に伝わってじんわりとあたたかい。かたまって生えているシロツメクサを見つめながら、そういえば最近かすみ草を見ていないなあと思う。小さいころからかすみ草がすきだった。ブーケによく入っている、あまり目立たない白い小さな花だ。小さいころ、かすみ草農家をしている親戚の家によく遊びに行ったのだけれど、そのときは必ずビニールハウスの中に入れてもらった。わたしの前でおじさんが扉を開け、ビニールでできた幕をふわりと押し上げる。わたしはおじさんに続いて入る瞬間、ひっそりと息を止めた。そのまま入ると、密度の濃いにおいのせいにむせかえるからだ。少しずつ息を吐いて、少しずつ息を吸う。濃いにおいにちょっとずつ適応していけるような気がした。目の前には一面、かすみ草が広がっている。わたしの身長と同じかそれより高いところに花がついていた。雪が点々と積もっているようで、そこにいる間は季節の感覚がまひしてしまう。不思議な世界に迷い込んだような感覚になる。こっちにはこういうのがあってね、と笑顔で案内してくれるおじさんの後を、わたしは置いていかれないように必死でついていった。はぐれてしまうと、おじさんに見つけてもらえなくなって、ビニールハウスの中から出られないと思っていたから。わたしが少し遅れると、いつもおじさんは笑顔で立ち止まっていてくれた。
 おじさんが、わたしを置いていってしまったのは、今年に入ってすぐだった。交通事故で亡くなった。あまりにも突然のことだった。ここに来て、思いっきり泣いた。そのときにもう心の整理はしたつもりだったけど、改めて思う。だいすきなひとが遠くに行ってしまうのは、悲しい。同じ世界を共有したひとが離れていってしまうのも、悲しい。ひこうき雲がゆっくりと消える瞬間を見た。
 そのまま30分くらい、眠ってしまったらしい。頬には涙が伝っていた。急いで涙を拭い、起き上がって辺りを見まわす。周りの様子は何も変わっていない。遠くから小学生や中学生の声が聞こえるだけだ。その声を聞きながら、今日はかすみ草を買って帰ろうと思う。小さいころに見た世界が家の中に広がる様子を想像する。わるくない。だけどもう少しだけ川を眺めていよう。
*
  薄いピンク色の爪をした女の子が気になって、堤防に来た。さくらの花びらが降る夜に出会った、不思議な女の子。あの花びらは、女の子の後についてきたんじゃないかと思う。ふうっと深呼吸してみる。まだ少し春のにおいがする。まぶたの裏に陽のきいろがにじむ。昼間、ここに来るのは初めてかも。
 「ありがとうございました」という元気のいい声が遠くから聞こえてきた。河川敷では、小学生がサッカーの練習を終えたみたいだ。それぞれの親の元へと戻っていく。合流した家族はそれぞれの家へと歩き始める。そういえば小学生のころ、すごくサッカーのうまい友だちがいたっけ。地元の有名なクラブに入ってて、体育の時間はいつもヒーローだった。そいつもこうやって練習して、家族と一緒に帰ったりしたんだろうか。
 仲のよさそうな家族が土手に作られたコンクリートの階段を上ってくる。父親と、サッカーのユニフォームを着た男の子の間には、髪をふたつにくくった小さな女の子が少し危なげに階段をのぼっている。のぼり終えたのを見て、深く息をついていた。そこではじめて息を止めていたことに気付いた。
 女の子はというと、両側に歩く二人と手をつないでいて、一生懸命何かを話している。
 すごく楽しそう。
*
  お魚好きのラブラドール・レトリバー!また会えたね、って、撫でながら心の中で思う。今回もわたしが座っている背後からいきなりタックルを仕掛けられた。足をばたばたして顔をなめようとする。相変わらずお姉さんはきれいで、申し訳なさそうにしている。また会えると思っていなかったから、ほんとにうれしい。
 よしよし、って言いながらラブラドール・レトリバーを撫でていると、今日はすぐに落ち着いた。今回は、くぅんとは鳴かない。この前より賢くて元気になっている気がする。いわし効果かな?
*
 前に、女の人が犬の散歩をしているのが見える。連れているのは大型犬か。女の人の少し前を、すました顔をして歩いてくる。すれ違うときに、水玉のリードがちらりと見えた。そのずっと奥、草むらの向こうでは川がきらきらと光っている。
 「あ、」
*
 「あ、」
  声がした方を向くと、彼がいた。なんて言ったらいいのかわからない。あたふたしていると、「隣に座ってもいい?」そう言って笑う人だから、うん、と笑顔で答えられる。
 あ、そうだ。
 「はい、あげる。」
 小さな金色の袋を一つ差し出す。
 「わたしもチョコレートすきだから。」

スイカ
72102

 2009年初夏

 目覚ましが鳴る。お気に入りの音楽。手を伸ばし、切る。寝起きとは思えない早さで立ち上がる。本当は寝起きじゃない。寝られなかった。昨日の、決められないね、といつもの調子で言う彼女の声が何度も繰り返される。本当は、僕の一言が大事だったことくらいわかっている。
 スヌーズ機能で、また音楽が鳴る。すぐに切り、着信履歴の一番上を押す。数回鳴って、留守番電話。
 顔を雑に洗い、椅子に無造作にかけてあったシャツに腕を通す。ジーンズを履き、ポケットに財布を突っ込み、よろけながら靴下を履く。と、同時に玄関へ向かう。スニーカーの紐を縛る。
 ガチャっと扉を開いた。勢い良く出発しようとした時、危うくこけそうになった。
「え?」
 ――スイカ。
 足元にはひとつのスイカ。
 くっと息を止める。
 スイカを抱えて出発した。

 マンションの階段を下る。外に出ると、かすかに蝉の声が聞こえた。空は晴れていて、飛行機雲が見えた。足早に進む。駅に辿り着き、線路図を見る。切符を買い、改札に突っ込み、ちょうどホームに入ってきた各駅停車に乗り込む。
 妙な安堵感と混乱で、少しうとうとした。進んで、停車して、進んで、停車して…何駅停まったのだろうか。ふっと、目を開けるとちょうど電車が停車するところだった。
 どこの駅だろう。少し、きょろきょろする。心臓が跳ね上がった。
 彼女が改札の外にいるのが見えた。慌てて椅子から立ち上がる。スイカが、ごっ、という音をたてて、電車の床に落ちた。
 あっ、と思った時には、スイカは電車の床を転がり始めていた。
 ダメなんだ。あのスイカは、ただのスイカじゃないから、一緒に食べなきゃいけないから。追いかけようとすると、まもなく発車します、のアナウンスがかかった。けたたましい発車のベルが鳴り、機械の動く気配を感じた。
 体をひねり、踵に思い切り力を入れて、閉まりかける扉から飛び出した。

 

 ジャカッジャカジャカ、ジャカッジャカジャカ
 もれる音と
 せわしく動く指と
 ぽんやりと外を眺める幼児。

 お昼の1時、陽が足元に差し込んできている。椅子の上に乗っかって、こちらに背を向けている幼児をちらと見て、私も窓の外に目をやった。窓の外には山が連なっていて、青い空が広がっている。模型みたいな飛行機が浮かんでいる。気のせいかと思って、強めの瞬きを数回する。やはりそれはある。
 ― ― ―電線。
 たるんで張られた電線がちりちりと目に焼きつく。このままどっか違うところに行くのかな。例えば、不思議の国とか、天国とか、とにかく違うところ。今日はそんな気がする。
 ほら ふわり 電車がレールからはずれた。

 そんな夢に誘われた時、足元に何かがぶつかった。
「スイカ?」
 思わず大きめな声を出したせいで、幼児がこちらに顔を向けた。恥ずかしくなって、ちょうど開いた扉から飛び出した。あ、手にはスイカ。どうしようか。ずっしりとした重みが両腕に伝わる。夏の始まりを告げる誰かからの贈り物ですか。
 そんなことをこっそり呟くと同時に、膝のあたりで揺れるスカートに小さな力が加わった。目が合った。
「えっ。」
 さっき、こちらに顔を向けた幼児が今度は真下から顔をどうもと言わんばかりにこちらに向けていた。

「どうしよう…降りてきちゃったの?」
 少し薄い髪。陽が当たって透明感のある茶色につやめいている。ほっぺたがぷっくりしていて、口はおちょぼ口だ。短パンにチェックのシャツをはおって、中には白いTシャツ。くつ下には最近よくCMで見かけるロボットのプリント。男の子だろうな。可愛い。
 そう思った。そう思えた。

「お母さんと一緒だったよね?ここにいたらお母さん戻ってくるよ。それとも一緒に駅員さんのところへ行った方がいいかな。」
 と、ちらと改札の方へ目をやった。と、視界の中にあの幼児の走る姿が飛びこんできた。
「ちょっと待って。」
 改札の方へ走り抜けていく幼児を、慌てて追いかけた。幼児がかがみこんで改札をすり抜ける。私はポケットから切符を出すのに手間どう。
 あ、距離が離れちゃう。
 左手にスイカを抱え、右手で切符を改札に突っ込む。小走りで追いかけるとすぐに幼児に追いついた。おちょぼ口のまんま走っている幼児の額には汗の粒が数個あった。
 初夏といえども、もう半袖でも過ごせそうな気温だ。日差しもきついな、と空を見上げるとたるんだ電線があった。その奥には飛行機。
 あの模型、さっきから動いてる?

「ねえ、駅に戻ろ?これじゃ私、誘拐犯みたいじゃない。」
 一生懸命走っているが、確実にペースダウンしている。私の歩くスピードと変わらない。疲れたのかな。可愛い。
「ねえ、何歳?名前は?」
 安定感がなく、どたどたと足を上下させ、腕をぶんぶん振っている。まだうるさくはない蝉の声が応援歌に聞こえる。私の性格のせいなのか、幼児のつやめく茶髪とつやめく木々の葉の色にうっとりしてしまったためなのか、なんだか楽しい気持ちになってきていた。
 はっはっはっ、と息を切らして幼児はもう歩いていた。
 すかさず手をつなぐ。幼児は特に気にもせず、はっはっはっ、と息をする。
 抱っこして駅に強制送還すればいいのだけれど、スイカが重たい。どちらも抱っこは無理だった。
「駅に帰ろう?お母さん心配するよ。」
 そう言ったところで、お母さんいたかな、と思った。女性がいた気がするけれど、確かにいたかな。いたとしても、お母さんだったのかな。
「とにかく駅に行こう。」
 少しだけ力を入れて後ろ側に幼児の手を引いた。体ごと後ろにふらついた幼児は、体勢を持ちなおし、今度は力を入れてこちらの手を前に引いてきた。
「進もうってこと?」
 私の問いかけには答えてくれず、前に進み出した。私も何も抵抗せずに進み出してしまった。
 ずっと歩いていると、腕がしびれた。数分に一度、左手にスイカを持ったり、右手にスイカを持ったり、その度に幼児を右にやったり、左にやったり。
 20分ほど歩いただろうか。私まで汗ばんでいた。
「あ…」
 木々の間から少し離れたところに高校の校舎が見えた。
「懐かしい。ここ私の母校なの。一駅も歩いてきちゃったんだね。」
 どうもと言わんばかりの顔がまた真下から向けられた。
「入ってみる?」
 こくりと頷く。初めて私の言葉に返してくれた。

 3年B組の教室に入る。前から3番目。左右から4列目。教室のちょうど真ん中らへん。私の席。座ってみる。国語が好きだったな。数学は訳がわかんなくってよく空想してた。電車が空を飛んだり、てんとう虫の背中に乗ったり、ポストで手紙と一緒に送られちゃったり…。目の前には黒板がある。緑は目に良いっていうから、書いてある文字じゃなくて緑の部分をよく見ていた。

「すごい真剣に授業受けてるよね。」
 まだ私のことを何も知らない彼は右隣からそう話しかけてきた気がする。その席には今はスイカが置いてある。

 にゅっと左斜め下から小さな手が伸びてきた。
「わっ。」
 不器用に握られた黒いペンが机の上を走った。
「ダメだよっ。落書きしちゃ。」
 あわてて止めた。でも机の上には、黒い線でいびつな形が描かれていた。その線を見て、ふとインスピレーションを感じ、首を少し傾けてみる。丸が描かれてその下にフックのような線が描かれ、そこから線が長く伸びている。たるんだ電線を思い出す。さらにその周りを私が止めるのに抵抗したぐにゃぐにゃの線が飾っていた。お腹の中で丸まる赤ん坊のような形に見えた。
 落書きをそっと左手でなぞって、そのまま手のひらを上げて、人差し指と中指で机のふちを歩く。その落書きから逃げるように。
 机のふちを一周しかけた時、右隣りが視界に入った。

 机に両手をついて、勢いよく立ちあがる。
 周りを見渡す。
 スイカがない。幼児もいない。

 廊下に飛び出す。
「あんな小さい子が、あんなスイカ持って遠くまで行けない。」
 廊下を走って、階段のところまで来た。上かな、下かな。
 上。
 屋上に向かって、階段を上る。どくんどくんと心臓の音。屋上の扉が少しだけ開いている。急いで扉を開く。少しだけ夕方に近づいた陽が、目に刺さる。眩しい。どこ?
 目を細めながら、視点を右、左とせわしく動かす。心拍数が上がる。小さい影が見えた。
 ぞっとした。
 私の母校の屋上は変わった作りになっていて、もちろん周りは柵で囲われているのだが、その柵の一部は門のようになっていた。そこからさらに屋根が突き出したようなところへ出られるが、そこから先は柵がない。クーラーの機械が置いてある、業者が出入りするような場所であり、普通はそこの鍵は空いていなかった。

 なんで空いてるの?
 間に合って。

 幼児は自分の半分くらいあるようなスイカを抱えながら、門を体で押して開けていた。
 重さのため、ふらふらしていた。

「…!!」
 呼びたいのに、呼べない。名前がわからない。

 間に合って。

 思い切り息を吸い込んで幼児に向かって走る。生ぬるい空気が肺の中に入った。電車に乗っていた時とは全然違う。重たくてもったりした空気。幼児は柵のない端っこへと近づいて行く。私は想像力が豊かだから、その後の光景が鮮明に見えた気がした。だめ。どうして。お願い。薄い髪が茶色につやめく。スイカを必死で抱える顔は相変わらずのおちょぼ口。

 幼児は端っこまでたどり着いた。少しある段差にもたれかかるようにして下を覗き込もうとする。スローモーションに見えた。幼児を捉える私の視界の右上にはたるんだ電線がちらつく。
 あの模型は動いたのかな?

 腕を伸ばす。チェックのシャツに指先が引っかかる。
 お願い。
 手を握り締めると同時に、思い切り引き寄せた。

 ――スイカが落ちる。

 バシャン。

 うわぁぁぁぁぁん。

 初めて幼児の声を聞いた。膝をついた体勢で、幼児を抱き締めた。頭をなでる。汗をかいている。
「ごめんね。怖かったよね。ごめんね。良かった。大丈夫。ごめんね。」
 安堵したのか、私も汗が一気に出た。泣きやまない幼児の声を聞きながら、これは蝉よりも威勢がいいな、と落ち着きを取り戻してきていた。

 まだしゃくり上げる幼児が、そっと私の体から離れた。私も自然と腕の力を抜く。小さい手をこちらに伸ばしてくる。なでなでなで。私のお腹をなでる。
「わかるの?」
 まだ見た目でなんてわからない。幼児は私のお腹をなでながら、こちらを見上げた。わっと抱きついてくる。お腹に耳を当てたり、またなでてみたり、私の顔を見て笑ったり。可愛い。あんまり可愛いから泣けてきた。

 もうすっかり夕方になって、風も涼しくなっていた。蝉の声も聞こえない。手を繋いで歩く。空には模型みたいな飛行機はもうなくて、巣へと帰る鳥が大群となって羽ばたいていた。
「スイカ、食べそびれちゃったね。重かったのになあ。」
 もとの駅に戻ってきた。高校の最寄駅でも良かったけれど、少し歩きたかったのだ。
「駅員さんのところに行こう。きっとお母さんすごく心配してる。私捕まったりしないかなあ。」
 その時、幼児はぱっと私の手を離して、改札に向かって走り出した。
「えっ待って!」
 またするりとかがんで改札を抜けてしまった。私も急いで切符を買う。改札に切符を突っ込んで、ホームに出た。ちょうど電車が出発した。ホームの両側を見渡してもあの子はいない。
 少しずつスピードが上がる電車が私の前髪を揺らす。目の前を通り過ぎる車両の窓からあの子がこちらを見ていた。ぷっくりしたほっぺをもっとぷっくりさせて笑っていた。
「また、椅子の上に乗って…。」
 私は思いっきり手を振った。

 
 2005年初夏

 寝つけない午前4時。階段を下りて、一番下の段に体育座りをする。玄関が見える。ドアをじっと見ても、開かない。帰ってこない。断片的な映像がちらちらと頭の中で流れる。たくさん人がいて、たくさん礼をして、たくさん泣いた。
「幽霊でもいいんだけどなあ。現われてくれないかなあ。」
 実感がわくとか、忘れないことが大切だとか、よくわからない。
 実感なんかいつまでたってもわかないし、忘れることだってないのだと思う。

 靴をぬいで 素足になって 冷たい水 足をつけて 空を見上げ 光る太陽
 なんて即興のうたを、5限が始まるチャイムを伴奏にして口ずさみながら誰もいないプールに足を踏み入れる。太陽は南に昇り、肌は焼けつくように熱い。私は靴をぬぎ、学校指定の白いハイソックスをぬぎ、つま先で歩きながらプールへと近づいた。
 スカートが濡れるのも気にしないでプールサイドに腰をかけ、ゆらめく水の中へと足を入れる。少しぬるいけれど気持ちがいい。足を上下させ水しぶきをつくる。水がきらきらと輝いて、黒板を見ているよりも目に良いんじゃないかなと思った。アメンボが足もとをすーっとよこぎっていく。
 そのアメンボを見つめうつむくと、次の瞬間、水が弾ける大きな音と共に水しぶきがと
 んできた。心臓がはねあがり顔を上げると、きれいな波紋が水面に広がっている。
「…スイカ?」
 水中から水面に向かってスイカが浮かび上がってきていた。

 スイカって浮くんだ。そっか。じゃなくて、スイカ?なんで?屋上から落ちてきたのかな。私が通っている高校はプールが1階にあって、グラウンドと隣同士になっていた。
 今は夏休み直前の期末テスト期間中で、午前で全校生徒は帰宅しなければならなかった。
 だから、プールにも、グラウンドにも誰もいない。と、思っていた。
「何してんの?帰って勉強しないの?」
 かしゃんとフェンスが揺れる音がする。どきっとして振り返ると目が合った。
「あ…スイカが。」
「スイカ?」
「スイカがね、落ちてきて。」
 水面に完全に浮いたスイカを指差す。
「食べよ。」
「まだ、ぬるいよ。」
「じゃあ、明日もこの時間にここに集合しよ。冷やしてきてよ。」
 そう言って、走って行ってしまった。彼は陸上部で、見慣れていない私にはちょっと恥ずかしいくらい短いユニフォームから伸びる足は、とてもしなやかで綺麗だった。
 テスト期間中、部活は活動禁止なのに彼は当たり前のように走っていた。
 プールから足を取り出して、プールサイドに転がっていたモップを掴む。スイカをつついたり引き寄せたりしながら、どうにかプールの端っこまでスイカを持ってくることができた。両手でスイカをすくいあげる。思った以上に重い。
「女の子にこれを持って帰って、また持って来いなんて。」
 そう文句を呟いたけれど、別に嫌なわけではなかった。
 濡れたまんま靴下をはいて、靴に足をつっこみ、鞄は少しダサいけれど肩掛けできるようにベルトを伸ばした。そして両手でスイカを抱きかかえて、帰宅する。今日は天気が良い。蝉も元気に鳴いている。髪がおでこに張りつくのが難点だけれど、夏本番がやってくるぞという雰囲気は好きだった。
 電車に乗って、膝の上にスイカを置く。お昼の2時すぎという中途半端な時間帯だから、人は少なかった。それでも数人はいるわけで、スイカと共に電車に乗っている女子高生は少し注目を集めた。ぼうっと窓から外を眺めると、たるんだ電線と模型みたいな飛行機が空に浮かんでいた。遠近法。あの飛行機、電線にひっかかりそう。心配してみる。

 電車を降りて、家の前についた。スイカを一度置いて、家の鍵を鞄から取り出そうとした。ら、ドアが開いた。お父さんが立っていた。スイカを落としかけた。
「おかえり。」
「…ただいま。」

 いつもの定位置に座っている。テレビが一番見やすい場所。座椅子にどっかり座っている。その父を横目で見ながら、スイカを冷蔵庫に入れる。だいぶ場所を取るな。その時、はっと気付いて、台所のふたつ隣、つまり父がいる部屋の隣につながる引き戸を急いで閉めに行った。父が私の顔をちらと見た。どきりとする。
 あなたのお仏壇が隣にあるのです。ショックを受けたら嫌だから。知らないのならそのままで。

「わかってるよ。」
 父が平然と言った。
「…そうなの?」

 父はもともと寡黙な人だった。私の前では。母とはなんだか色々話しているみたいだった。政治がどうとか、芸人がどうとか。子どもと話すのが照れくさいのよ、と母は言っていた。たぶんそうなのだろう。話さないからって、父のことは嫌いじゃなかった。むしろ好きだった。母のことを好きなんだなあということが私から見てもわかったし、私に対する愛情も感じ取ることができた。例えば、ホワイトデーには毎年私の好きなお菓子を買ってきてくれるあたり。あとは、空気が似ているあたり。父も私みたいに想像力が豊かな人だと思う。なんとなく父の近くにいると落ち着いた。
 そんな父が急に亡くなったのには心が追いつかなかった。がんが手遅れとか、そう聞いた。葬儀は流れるように行われて、たくさんの人が来てくれて、その人たちにたくさん礼をして、たくさん泣いたけれど、これはドラマの撮影なのかなと感じるほど現実味はなくて、私は終始ふわふわしたままだった。

 父が目の前にいる。とりあえず、二人で冷たいお茶を飲んだ。
 ――沈黙。
「…何日限定?」
 おそるおそる聞いてみた。映画とか小説とかで見たことがある。死者が蘇ってくるのは、たいてい限られた期間内であった。その期間が終わると、また去っていってしまう。その期間内に、思い残したことをしたりして感動的な別れのクライマックスへと向かうのだ。
 父はすぐに察してくれたらしく、すぐに答えてくれた。
「1日。」
「…え。…短くない?」
 私が知っている設定はたいていもうちょっと長かった。
「1日なんだから、仕方がないだろう。」

 しばらくテレビを見ていた。特に何も話さなかった。幽霊でもいいから会いたいと思っていたのに、こんなに普通に目の前にいられたら、なんだかわざわざあなたがいなくなってどれだけ心臓が痛いとか、寂しいとか言えなかった。

「すまんな。お前が大学受験の時にこんなことになって。」
 話し出したかと思うと、すごく申し訳なさそうにそんなことを言うので、吹き出してしまった。
「そんなこと気にしなくていいのに。お母さん、夕方には帰ってくると思うよ。お兄ちゃんと、お姉ちゃんにも電話しようか。」
「…いや、いいんだ。出かけよう。」
「え?」
 すくっと立ち上がると、おもむろに冷蔵庫に向かい、スイカを取り出した。それ、私が食べるのなんだけどな、と彼との約束をちらっと思い出しながら、テレビを消して、電気を消して、父の後に続いた。

 父がゆったりと歩く。私もゆったりと歩く。家族の中で、足が遅いのは父と私だけだった。だから、ちょうどいいペースだ。古い一軒家が立ち並ぶ道を歩く。たまに角から自転車が飛び出してくるが、歩き慣れた道ではどこで歩くペースをゆるめ、どこで左右確認を行えば良いか体に染みついていた。
「お母さんに会わなくていいの?…会ってよ。」
 父が亡くなって、家族がばらばらになる、なんてことは全然なかった。もともと明るい家庭だったし、1ヶ月経った今は父のことを話しながら、そういえばお父さんあれが好きだったよね、とか言って笑い合えていた。それでも、母が一人で泣いているのは知っていたし、これから先、夫がいない一人の状態で生きていくことに不安を感じていることも知っていた。だから、私よりも母に会って欲しかった。
「いいんだ。」
「…。」

 父がそう言うんならしょうがない。少し気まずくなって、ゆったりじゃなく、てくてく歩いた。ところでスイカはどうするのお父さん。

 郵便局の前についた。父はそのまま中に入っていく。私も後に続く。
「郵送して下さい。」
 受付の人は目を丸くしていた。生身のスイカを持ってくる人はあまりいないだろう。それでも、受付の人は愛想よくスイカを箱に入れて手際よく順序を踏んでくれた。住所を書き込む父。私はソファに座って待っていた。それ、私が食べるのなんだけどな、と彼との約束をまたちらっと思い出した。受付の人に無愛想に礼を言い、郵便局を出る。私も後に続く。また、しばらく歩くとラーメン屋に着いた。父は味噌ラーメン、私は塩ラーメン。暑いのにラーメン。
「良かった。郵便局が閉まる前に間に合って。」
 ずずーっとラーメンをすする。
「誰に送ったの?あのスイカ。」
 ずずーっと私もラーメンをすする。
「未来のお前充てだ。」
 吹き出した。塩ラーメンの汁が飛び散る。
「ありがと。楽しみにしとく。」
 にやにやしながら言った。父がこんなおちゃめなこと言うだなんて、初めて知った。母はこういうところも全部知ってたんだろうな。

 外に出るともう薄暗くなってきていた。鳥の大群が巣に戻るために羽ばたいている。私はまた父の後に続いて歩いていた。
「お父さん。」
 父がちょっと振り返った。
「お父さん、私ね。」
「んん、ああ。」
「私が大学に受かるのとか、社会人になっちゃうのとか、誰かのお嫁さんになって結婚式挙げちゃうのとか、子ども産んじゃうとか、そういうの当たり前にお父さんに見せてあげられると思ってたの。」
 父が亡くなって、当たり前が当たり前じゃないことを知って、当たり前がいつ当たり前じゃなくなるのかと怯えるようになった。
「大学受験も、仕事するのも、結婚するのも、子どもができるのも、なかなか全部大変だ。」
「うん…。」
「当たり前とかそうあまり考えるな。ひとつひとつが特別なんだ。かと言って、特別だとかも考えなくていい。起こる出来事、そのひとつひとつを大切にしていければいい。」

 吹き出してしまった。
 父がこんなロマンチックなこと言うだなんて、初めて知った。

 歩道橋を渡る。歩道橋の上で父が立ち止まる。
「じゃあ、そろそろ。」
「えっ、まだ1日経ってないよ。」
 焦燥感に駆られた。歩道橋の下を走る車の多さとスピードがより私をせかすようだった。
「お前に会った時にはもう半日過ぎてたんだよ。」
 じゃあ、私と会う前の半日は何してたの、と聞くのはやめておいた。
 ラーメン屋でお金を出す時、父のポケットから紙が落ちた。父は気づかず、私はそっと拾い上げて二つ折りになっているその紙を開いた。母の勤め先の住所のメモ書きであった。母に会いに行っていたのだ。もしくは、母を見に行っていたのだ。もしかしたら、兄や姉のところにも行ったのかもしれない。最後に、父が亡くなった後、なんとなくぼうっとして、プールに入り込む末っ子の私を心配してこうして来てくれたんだろう。
「ありがとうお父さん。」
「んん、ああ。」
 父は私に向かい合うと一回だけ頭をなでた。なでたというよりも、手を頭に押し付けてきたという感じだった。父が歩道橋を下る。少しだけ振り返り、手を振った。泣きそうになってしまったから、私も思いっきり手を振った。

「はい。」
 学校の中の生協の、ビニール袋を突きだす。彼は中を見て、怪訝そうに聞いてきた。
「なんで、アイス?しかもちょっと溶けてるし。」

 今日は、二人ともプールに足をつけていた。彼はユニフォームではなく、制服のズボンを膝の上までめくり上げていた。今日もきらきらと水面が輝いている。溶けかけのアイスを、制服の上に落とさないように気を配った。空にはたるんだ電線が。水には小さいアメンボが。足を上下させ、水しぶきをつくると、アメンボは大きな津波に襲われていた。私は、スイカが食べれなくなった経緯を彼に話した。いや、私は父のことを彼に話した。
「信じなくていいんだけれど、本当のこと。」
 アイスを食べ終わった彼がプールサイドに寝転ぶ。私も寝転んでみる。あ、背中まで濡れた。まあ、いいか。
「スイカ。どのへんの未来に送ったんだろうな。」
 思わず、顔を彼に向ける。と、彼もこっちを見てきた。近い。恥ずかしい。
「信じるの?」
 私と彼の顔の間を蟻が通る。割り込まないで下さい。
「スイカ。一緒に食べれたらいいなあと思って。」

 
 2009年初夏

 スイカ。でもっ。閉まりかけた扉から、ホームに飛び出した。振り返り、乗っていた車両を覗き込むとスイカの姿は見えなかった。どこまで転がっていったんだ?彼女は誰かに向かって大きく手を振っていた。誰?
 手を振り終えた彼女がゆっくり振り返る。長い髪が顔を少し隠す。髪を耳にかけながら、顔を上げた。目を丸くしている。
「なんで…?」
「スイカがっ届いたんだ。だから、一緒に食べようと思って…。あ、でもスイカは電車の中で…。」
 格好悪い。彼女がふふと笑った。
「スイカ。私のところまでちゃんと届いたから大丈夫。」
「え?」
 夕方の涼しい風がホームに吹く。葉っぱが揺れる。さわさわと優しい音だった。電車が発車したばかりということもあり、ホームには他に人影はなかった。
「私ね…。」
 彼女が俯きぎみに話しだした。
「産んでほしい!」
 遮って大声を出した。
「大学生だとか、結婚してないだとか、順番や時期はぐちゃぐちゃで、普通じゃないかもしれない。でも…!!」
 必死すぎて格好悪い。それでも、この先もずっと一緒にいられるかどうかのチャンスは今しかないと思ったから。

 彼女が吹き出した。
「普通じゃないとか、そういうのあんまり考えないでおこう。起こる出来事ひとつひとつが特別。『そのひとひとつを大切にしていければいい。』」
「え?」
「あのね、名前をつけてあげたいの。呼びたくても呼べないから。」
 彼女がお腹を指差した。

 反対側のホームに向かう。電車に乗り、横並びに座る。夕日が足元に差し込む。窓の外には山が連なっていて、赤と薄い水色が混ざりあった空が広がっている。巣へと向かう鳥の大群。あの鳥、電線に引っかからないかな、と彼女が言った。彼女の顔を覗き込むように見た。遠近法、と彼女が笑った。
 帰りにスイカを買って帰った。

ひとり
072104

牧田早苗、本名渡良瀬早苗は2009年6月9日、享年47歳でこの世を去りました。なお、葬儀は遺族の意向により近親者のみで執り行うこととします。ご了承ください。

 1――――渡良瀬啓三(51) 俳優

 出会ったのは、私が24歳、早苗が20歳の頃だったと記憶している。私は駆け出しの役者で、小劇場のアングラ芝居をやっていたのが、少しずつテレビドラマの端役をもらいだした頃だった。深夜帯のドラマの主役に決まったと聞いたときには、私もこれでようやく俳優の仕事で食べていけるかもしれないと、誇らしい気持ちでいっぱいだったものだ。そのとき、相手役に配役されたのが早苗だった。早苗はテレビドラマはおろか演技をするのも初めてだと言い、セリフのたびにどもったり、とちったりしては監督に叱責され、涙目になることもしょっちゅうだった。私は、そんな早苗を好ましく思い、何かと励ましたり優しい言葉をかけたりせずにはいられなかった。早苗はすらりと手足が長く色白で、完璧な美人、という顔ではなかったが、口元には何とも言えない愛嬌をたたえていた。ブラウン管の中でいたずらに微笑み、不器用な涙を流す彼女は初々しい魅力に満ちており、ドラマは高視聴率を獲得した。その成功によって私と早苗は互いにテレビ俳優への道を歩みだしたのである。特に早苗は女優として、男たちの憧れの的となったが、すでに私と早苗は交際を始めていた。撮影に追われる濃密なスケジュールの中で、ふたりが演じているドラマの中の役どころと同じように恋に落ちることは、もはや必然だったのである。
 ああ、青空の下で、私と早苗はどんなにか笑いあったことだろう!そこには何の曇りも翳りもありはしなかった。私は早苗を生涯でただ一人の女性であると信じ、早苗も又そうであったのだろう。ドラマが最終回を迎えて半年がたつ頃、ふたりの関係は世間の知るところとなった。意外にもドラマから抜け出てきたカップルだとしてマスコミには好意的に報道され、祝福の雰囲気のなか、私は早苗に結婚を申し込んだ。
 それからの結婚生活は順風満帆であったと、私は断言できる。確かに、芸能生活を続けながら娘の美矢、息子の裕也と二人の子どもを生み育てることは並大抵の苦労ではなかっただろう。私自身も美矢が中学生になり、反抗期を迎えたときにはかなり手を焼いた。役者夫婦に生まれた子とあっては、周囲に注目されることが多く、思春期という多感な時期にストレスを感じていたのであろう。落ち着いた今では、美矢との関係は回復し、会話も増えた。かねてから学校に通いながら続けていたティーンモデルの仕事を、本格的に女優に転向しようかと考えていると聞くにつけ、嬉しいような反対してみたいような、複雑な思いに捉われるのである。弟の裕也は姉に比べればおっとりとしていて、特に強く反抗するということもなく、放課後に友達とつるんでいるのが一番楽しいようだ。私と早苗と二人の子ども、これは早苗と二人で作り上げた暖かい家庭である。私も時には、仕事の疲れを家庭に持ち込んでしまい、口論になることもあったが、それは早苗との愛の上に成り立つ甘えのようなものだったと思っている。私と早苗は、確かに愛し合っていたのだから。
 今回の件で、私の女性関係が原因であるとか、家庭は荒れていて崩壊寸前であったなんて報道が飛び交っているらしいが、本当に怒りを禁じえない。どこの誰が、何を知っているというのだろう。勝手な憶測でものを言う人間たちがなんとこの世には多いものか。
 第一、早苗は事故死なのだ。あの山道はカーブが急なことで有名だし、早苗は車好きで
 はあったけれど、運転が得意なわけでは決してなかった。ドラマの撮影帰りで、疲れていたのだ。ちょっとした判断ミスであったのだとすれば、運命はなんと残酷に全てを奪い去っていくのだろう。
 ああ、早苗。早苗――――。
 私はまだ、お前がこの世にいないという事実を受け止めきれていないんだよ。



 2――――坂田えり子(34) 付き人
 ええ、もう、ひどくショックで…。早苗さんがひとりで帰ることになったのはわたしのせいなんです。本当ならわたしがその車を運転して早苗さんを送り届けるはずだったんですから。あの日、早苗さんは一日中スタジオにこもりっきりの撮影で本当に疲れていて…。でも、わたしがあの方を車に乗せて出発しようとしたら「あなたはここに残ってらっしゃい。私はひとりで帰るから」とおっしゃるんです。「今日の仕事はこれで終わりだし、羽柴さん、待ってるんでしょ?」と。あの、羽柴さんて、朝売テレビのディレクターの方なんですけれど、あの、わたし、…四ヶ月前からその方と結婚を前提にお付き合いをしていて…マネージャーとして失格ですわね。でも早苗さんは我が事のように喜んで下さって、とても後押しして頂いて…ええ、本当にお優しい…。その日も羽柴さんと約束があって、つい早苗さんの言葉に甘えてしまったんです。「今日は疲れたし、ちょっと一人で車を飛ばしてスカッとしたいの」ともおっしゃって。車がお好きで、わたしが送っていくときでも早苗さんが運転するということがよくあったんです。まさか、あんなことになるとは思ってもみなくて…。
 でも、あの日、少しいやな予感がしたのも事実なんです。ホラ、雨が降ってましたでしょ?その日は朝からどんよりと雲が立ち込めていて、いかにもいやなお天気でした。それが夜に入ってからざぁざぁと降り出してきて。6月に入ってるのに、変に底冷えのする日だったと思います。
 事故ではないという疑いのことですか?ええ、知っています。わたしには何も言えませんけれど…早苗さんの様子がその日特におかしかったということもないですし。ええ、いたっていつもの早苗さんでした。あの方が自分でハンドルを切っただなんて、考えたくありませんわ。あんなに美しくて、お若くていらっしゃるのに…仕事の方も順調でしたし。このドラマが終わったら、次は来夏公開の映画の仕事も決まっていたんですよ。江田監督に、次の映画も早苗さんが出るのでなくては、とおっしゃっていただいて。
 …家庭面、ですか。いえ、わたしがあずかり知れる部分はほんのわずかで…。旦那さまと娘の美矢さんと高校生の裕也さんと、ごくごく幸せそうな家庭を築いていらっしゃるように見えましたけれど。でも、あの…これはここだけの話にしていただきたいんです。よろしいでしょうか。わたしはけっして、渡良瀬家を陥れたいとか、そんなことを考えているわけではありませんから。
 早苗さんはもう、ご主人を愛してはおられないようでした。時には、「最初から、愛していたわけではない」とおっしゃることもありました。ご主人の全てに我慢がならないとこぼしておいででしたし…。わたしが考えるに、早苗さんはすでに別の方を愛しておられたのではないでしょうか。時折、わたしにはわからないところに電話をかけてらしたり、普段時間はきっちり守るタイプの早苗さんが、最近ごくたまにですけれど、遅れていらっしゃることがあったりしたもので…。もちろん、撮影には支障がない範囲でしたけれど。そして、近頃の早苗さんは、格段と美しくなられたように思います。肌なんかも本当に、照り輝くようで。もっとも、これはわたしの推測でしかありませんけれど。でも、同じ女として、わかるんです、なんだか。だったとしても、こんなことになってしまった後では、なにもわからなくなってしまいましたわね。わたしも、この先どうすればいいのか…



 3――――渡良瀬美矢(18) 大学生、モデル
 ママが死んだあの日から、あたしはずっと考え続けている。あの夜のママの言葉と、その時あたしが見たものはなんだったのかということを。
 うちはたいがいの場合において、申し分のない家族だったと今でも思う。トレンディ俳優として名を馳せて、今ではいいお父さん役としてブラウン管に現れるパパ、おんなじように女優で、化粧品のCMにも出演しているいつまでも若くてきれいなママ、たまに小憎ったらしいけど、まあまあ仲のいい弟の裕也。芸能人同士の結婚だったから色々とやかく言われがちだったと思うけれど、ママは子育ての忙しいときには仕事をセーブして、あたしたちとの時間を作ってくれた。休みの日には、ママは真っ白なエプロン姿でお得意のチェリーパイを焼き、パパは裕也とあたしを交代ばんこに肩車して、近所の公園まで出かけたものだった。小さい頃、とにかくあたしはすらっとしたパパと、ふんわりいい匂いのするきれいなママが誇らしくてならなかったし、大きくなったらきっと二人のようにテレビに出るんだと信じていた。それでもやっぱり、中学に入る頃にはあたしもそういう時期にさしかかり、この家に産まれたことを呪い出した。中学で出来た新しい友達はみんな、あたし以外の何かを目当てに近づいてきたように感じた。さしたる理由もないのに先輩から「調子に乗っている」と言われていじめられたり、「娘はそこまで美人じゃないね」なんて陰口をたたかれたりもした。この家の娘じゃなければよかったのに、と唇を噛んだ回数は数え切れないほど。家でのことはすべて偽善めいた家族ごっこのお芝居にしか思えなくなった。ママの心配も、パパの叱咤も何もかも鬱陶しくて家にはあまり帰らず、たまに帰れば大声で口喧嘩。パパの焦燥した顔は、今も脳裏に焼きついている。
 そんな日々にも終わりは来る。ふらふら歩いていた原宿でスカウトされて始めた、ティーン雑誌のモデルの仕事が忙しくなり始めたころから、あたしの苛立ちも次第におさまってきた。編集部の人たちは、あたしが渡良瀬啓三と牧田早苗の娘だということを後から知って仰天したらしい。可愛い服を着てカメラに向かって微笑むのに悪い気分はしなかったし、モデル仲間とお茶したり買い物に行ったりするのは楽しかった。そこにいたのは「俳優と女優の娘」であるあたしじゃなくて、「モデルの渡良瀬美矢」だったからかもしれない。家のことも、「まあいっか」って気持ちがうまれたのは確か。段々ママと話をするようになって、一切口をきかなかったパパとも世間話ができるようになった。裕也ももうそれくらいの年になっているはずなんだけど…あたしと違ってびっくりするほどおっとりとしている。前に「しんどくなんないの?あんた」って聞いてみたら、「何が?」って返された。毎日友達と遊んでばかりいるけど、いまいち何を考えているのか、それとも何も考えていないのか、あたしにはよくわからない存在。
 ママが死んでしまうなんて、思ってもみなかった。いつも通りに撮影に出かけていって、そのまま帰ってこなかったママ。あたしはいまだに、ママはどこかにちょっと出かけてるだけで、ふいとまた玄関に帰ってくるんじゃないかという気がしている。それくらい、ママの死は唐突で、パパもあたしも裕也もぽかんとしていた。一時が過ぎてパパはいきなり悲しみが襲ってきたようで、泣いたり喚いたりしているけれど、あたしはどこかそれをぼんやりと眺めているようなところがある。

 それよりも気になって仕方がないのは事故の一週間前、二階の寝室へと続く廊下で見たママの姿だ。
 あたしはお風呂に入った後なぜか眠れなくて、雑誌をぱらぱらとめくっていた。これはもう眠れそうにないなと諦めて、キッチンでココアを入れて飲もうと立ち上がり、薄暗い廊下に出たとき、前に白いものがぼんやりと浮き上がってぎょっとした。けれど、それがママの白いバスローブだとわかりあたしは安堵して、声をかけようとした。ママも眠れないの、ココア入れるから一緒に飲まない…言いかけた言葉を呑み込んだのは、ママが電話中だったからだ。そして、呑み込んだだけではなくあたしはそのまま柱の影に隠れてしまった。薄闇に慣れた目に映ったママの形相は、あたしの知っているものではなかったのだ。
 ママは明らかに焦燥していた。携帯電話を握る手はわなわなと震え、いつも丁寧に梳かしつけられている髪の毛はくしゃくしゃだった。眉間には深くしわが寄り、それでいて声はつとめて冷静を装っていた。

「それじゃ、いくら必要なの」
「それだけ揃えれば、・・・・できるのね」
「信じて欲しいの、あたしは・・・のこと絶対裏切らないって」

 断片的に聞こえてくる会話は、全部あたしには意味のとれないことだった。それよりも、あたしはママのあんなに低く、くぐもった声を初めて聞いたということに驚いていた。いつものママの声は朗々として、鈴を転がしたような音だったからだ。いぶかしんでいる間に白いバスローブはゆらりと動いて、パタンと閉まるドアの音と共に消えていた。
 その後あたしは寝てしまい、朝になると、いつもと変わらない日常がまた始まっていた。ママは相変わらずきれいに結わえたポニーテール姿で朝食のいり卵を炒めていて、あたしに気づくと微笑んで「おはよう、美矢。今日は早いのね」と言った。あたしはそれきり、その出来事をきれいさっぱり忘れてしまっていた。一週間後にママが仕事帰り、急カーブの山道でハンドルを誤って崖から転落するまでは。
 かなり切り立った崖で、ガードレールを突き破って落ちた車はぺしゃんこ、ママは即死だったらしい。それからのお通夜やお葬式のことはぼんやりとしか覚えていない。マスコミには何故か大きく取り上げられて、いろんな報道が飛び交ったらしいけれど、目の前でなにかがめまぐるしく通り過ぎていく感じがするだけだった。ただひとつだけ、忘れていたあの夜のママの姿だけが気にかかったまま。
 ママは、何を考えていたのだろうか。あたしたちの前では、朗らかで落ち着いていたママ。たまにおっちょこちょいで、感動屋さんで、料理の上手なママ。本当は、あたしたちはママのことなんかなにひとつ知らないのかもしれない。

 今日も仏壇のママの写真にあたしは問いかける。何を考えていたの、ママ―――



 4――――羽柴隆臣(34) テレビ局ディレクター
 彼女は、いつも言っていた。
「えり子さんが知ったら、どう思うかしらね。」
 俺はその度彼女を抱き寄せて、耳元でささやいた。「そんなの関係ない」
 すると彼女は薄く笑い、「わるい子ね」とつぶやくのだ。

 彼女、いや、早苗と頻繁に会うようになったのは、ちょうど早苗の付き人である坂田えり子と付き合いだしたのと同時期だった。テレビ局でときおり顔を合わせる程度の知り合いだったえり子はある日、スタジオを出た俺のあとを追いかけてきて顔を紅潮させながらあの、こんど、お食事でも、とつっかえつっかえ喋ったのだ。すがるように見つめてくる顔は緊張のあまりによじれて、前で合わせた両手はぶるぶると震えていた。「えーっと・・・」口ごもるとますますえり子の顔はよじれた。その顔を見ていると胸の中になにか、残虐なものが生まれるのを感じた。俺は笑みを作り、「いいですね。いつにしましょうか」と答え、その後、俺とえり子は交際を始めた。

 えり子を不満に思ったことはない。一緒にいるときには俺の気分を害すまいと、貧弱な子犬のように怯えるえり子。そのくせ変なふてぶてしさも持ち合わせていて、媚びたような眼差しをこちらに向けてくるえり子。二人でいる時間は気が詰まったが、不思議と別れを切り出す気にはならなかった。早苗との関係は、そんな気詰まりとは無縁だった。何の責任もない、気ままな時間。13も年が違うということはさほど気にならなかった。それも彼女の気遣いからだったわけだが、そんな彼女がときたま見せる子どもじみた表情は愛らしいと思った。何より、少年の頃からテレビで見ていた美しい女―20年以上たった今でも、それは衰えていない―が、目の前にいて俺を見ている。そのことは俺の自尊心を満たすのに十分な事実だった。早苗と会う頻度はますます増え、えり子は気付いているのかいないのか、早苗と会った直後のデートでもびくついた笑みを浮かべていた。

 夫である渡良瀬啓三への、呪詛のような言葉を早苗がつぶやくようになったのはそれから二カ月経ったぐらいだ。何も知らなかったわたしを、とか、馬鹿にしているのが許せないだとか、低い声で放たれるそれらの言葉を、俺は意図的に聞き流した。最近、対等だったはずの二人の関係が、大きく傾き始めるのを感じていたからだ。帰る準備をしてえり子の元へ向かう俺をすがったような眼でひきとめ、大声でなじる。着信履歴は分刻みに更新され、彼女からのメールは俺の返事を待たず送りつけられる。初期の高揚は、いつの間にかどこかに消え失せていた。そもそもが気軽な関係から始まっただけに、俺には彼女のいっさいをそのまま受けとめる余地など全く無かったのだ。どうやってこの関係を解消しようか。そのころの俺はそればかりを考えていた。

 そんな気持ちを早苗は察したのか、俺を手放すまいと躍起になった。以前、何かのときに将来金を貯めたらここを辞めて、番組制作会社を立ち上げるつもりだという話をしたことがあった。早苗はその設立金をわたしが出してあげる、と言いだした。俺は正直うんざりしていた。金銭を与えられて今の早苗の一緒にいようとも思わない。早苗は俺と会うたびにこの話をするようになった。いくら必要ないといっても、彼女は俺の話など聞いていなかった。ただ繰り返した。いくらでも出せるの、あなたのためなら、と、何度も何度も。

 ある明け方のマンションエントランスに、早苗の声はぐわんぐわんと響いた。彼女は家庭に嫌気がさした、夫と別れて家をでることにする、何も不自由させることはないから、わたしと暮らして欲しいと早口でまくしたてた。それはえり子と別れろということか、と切り返すと早苗は眉間にしわを寄せた。
「えり子さんは、今月中に辞めてもらうよう言います。今まで付いてもらっていて平気だったことが不思議でならないわ。あなたもあんな野暮ったい子といつまで一緒にいるつもりなの。」
「青山に土地を買ったの。わたしとあなたの住む家よ。でも、その前にタヒチに静養に行きましょうね。わたし、なんだか疲れちゃったわ。青い海を眺めながら毎日過ごすのよ。見たこともないような花がいっぱい咲いているの。小さな可愛い鳥が鳴いて…ああ、なんて綺麗なの!」
 夢を見るように喋りつづける早苗の顔は、テレビで見ているだけだった頃と少しも変わらず美しかった。白い陶器のような肌、完璧なカーブでふちどられた瞳、めくれ上がってふくらんだ唇。しかし、今まで俺を魅了してきた美しさが、なにか恐ろしいものを伴って、俺に迫ってきたのは初めてだった。何か異界のものと対峙するように、それはできない、と俺は言った。一言ずつ、震える声を押し出すようにして。
 早苗は話すのをやめ、どうして、と驚くほど澄んだ目で聞いた。なぜだかわからない、だがそれはできない、ずっと考えてたんだ、今日でなにもかも終わりにしよう。

 長い沈黙だった。俺が何も言えずに黙っていると、早苗は何も表情の読み取れない顔のままふいと視線を俺からそらし、まっすぐマンションエントランスを出て行った。俺はその後ろ姿を見つめていた。一瞬後を追いたいという気持ちが生まれたが、足はそこから一歩も動かなかった。俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。そしてその日の深夜、早苗は死んだ。

 今でも考えることがある。早苗は本当に俺のことを愛していたのかということを。俺を見つめるその目は、ほんとうは俺を通り過ぎた先にある別の何かを見つめていたのではないかということを。一連の報道は散々わめいた後、結局は事故死だったという結果に落ち着いた。葬儀には出なかった。追悼番組でブラウン管に現れる彼女は、時には清冽な乙女であり、時には秘密を抱えた稀代の悪女だった。口元にはいつも、曖昧な笑みが漂っていた。彼女が映るテレビの、その台に手をついて、一臣は立ち上がる。重い頭でよろめいて倒れそうになりかろうじて腕で支え、俺の方を振り返ってきゃらきゃらと笑った。
 早苗の死から一ヵ月後、えり子は妊娠を俺に告げた。それから二ヵ月後に結婚式を挙げた。その数ヵ月後に生まれた赤ん坊は男で、産院のえり子は汗に濡れた頬を赤ん坊の血だらけの顔に押しつけて笑った。俺は郊外に小さな家を買い、会社を立ち上げるのをあきらめた。





 今日未明、女優の牧田早苗(本名渡良瀬早苗)さん(47)が三原山ドライブウェイにおける急カーブでハンドル運転を誤り、転落し死亡した。死因は転落による衝撃とされ、仕事からの帰宅中であったという。牧田さんはドラマや映画を中心に活躍し、「セカンドサマー」「富士の高嶺に」など日本を代表する女優であった。

―完―
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