大阪教育大学 国語学特論2
受講生による 小説習作集
小説のクライマックスを書く練習 | 71204 | |
セットポジション | 82101 | |
あの日の思ひ出 | 82104 | |
虫葉 〜夢を叶える蝶〜 | 82105 | |
迦陵頻 | 82109 | |
駅の小部屋 | nonami |
走り続けたことで大きく乱れた呼吸もようやく収まってきた。
それもそのはず、子どもを抱えて走るなんて事は経験が無い。
そんな思いはつかの間で、また機動隊が追いかけてきているのではと背筋がぞくっとした。
「ヘックシュン!」
ふと目を下に向けると男児が鼻水をたらしてこっちを見ている
「あらら、しょうがねぇな」
俺はトイレットペーパーをカラカラ鳴らして鼻水をふき取ってやった。
「おじさん、ありがとう」
「だから、俺はまだ23歳だって」
「ぼくから見たらおじさんだよー」
まぁそうかと思ってしまった自分に後悔を覚えてグッと目を閉じた
そのとき
「ダンダンダン!」と誰かがトイレのドアをたたいている。
「もうおしまいだ、逃げられない」と思ったのもつかの間
「ちょっと、長くないかい。早く出てほしいんだが」と紳士の声で早期の退出を促された。
紳士の声がかすかに震えていたのは、もう我慢の限界だったのか、怒っていたのか・・・
俺は「きっと前者だろう」と勝手に納得して
「すいません、ちょっとお腹がゆるくって」とだけ伝えた。
しばらくすると別の個室からトイレットペーパーの巻き取る音が聞こえ、水の流れる音が響いた。
先ほどの紳士と思われる人物は入れ替わりで、微香が残っているだろうと思われる個室に入り、ゴジラのうなり声のような音で放屁をした。
いくら声が紳士でも中身は人間くさいのである。
「クククッ」
声を殺して笑う俺に男児は「ねぇおじさん」と問いかけてきた。
「ねぇ、これからどうするの? ここにいたらもう逃げられないよ」
こんな状況で笑ってしまった自分につくづく情けなくなる。
そうだ、笑っている場合ではないのだ。
機動隊の足音、声、雰囲気を五感で感じようと俺は耳を某キャラクター「ダンボ」のように広げた。
古臭い洋楽の店内音楽が耳に抜け、この後の行動をどうしようかという家族連れの会話が聞こえてくる。微かにだがこちらに近づく足音もあるだろうか。
おっと、紳士と思われる男もようやく個室から出たようだ。
しん・・・とトイレに静寂が訪れ、確実に俺と男子だけの空間となった。
「ほっ」と息をついたその時
太陽を直接見たのではないかと勘違いするほどの閃光がトイレ内を襲った
「うおぉぉぉっつ、まぶしい」
「おじさーん、どこー」
1.
汗がにじむ。息が上がる。さっきまであんなにも聞こえていた応援席の喧騒が今はこんなにも遠い。
バッターボックスの誰かが構えた。でもそいつが誰かもわからない。
心臓はいまにも破裂しそうで、指先は感覚を失っている。ただ照りつける日差しが肌を焦がしていくのだけが感じられていた。
早く投げよう。あいつを打ちとれば終われるんだ。約束を果たし、俺たちは甲子園へ行く。そして…。
俺は投球モーションへ入った。
「―――――――!!」
どこかから大きな声が上がる。うるさい。あと少しなんだ、静かにしていてくれ、と心の中で舌打ちする。
そのときだった。視界の端でランナーがホームに向かって走っていくのが見えた。
――しまったスクイズだ!俺はとっさに前に出ようとした。
だが、ランナーは遅い。片手を振り上げて悠々とホームへと向かっている。これなら刺せる。俺はそう確信し、安堵した。油断したな。
だがその瞬間、なぜかキャッチャーが立ちあがった。さらにはバッターまでボックスを外し、ベンチへ何かを叫んでいる。しかもその顔は、泣いているように見えた。
なんだ。いったいなにがおこってるんだ。
俺はわけもわからず立ち尽くした。目の前では相手校の選手たちが抱き合っている。困惑したままゆっくりと振り返ると、今度は仲間たちがうつむいたままこちらへ戻ってこようとしていた。
待ってくれ。まだ試合は終わってないんだ。早く自分のポジションへもどってくれ!
その言葉は声にならなかった。汗が目に入る。俺は慌てて袖で目をぬぐった。
後ろから肩を抱かれ、頭を押しつぶされた。「お前はよくやった」そう言葉をかけられた。
何を言っているんだ。まだ、試合は終わってないのに。どうして泣いているんだ。まだ試合は終わって――。
俺は肩を抱かれたままマウンドから降ろされた。ただ、マウンドから離れるその瞬間、俺は、足元に転がる白球を見た。
2.
7月末。日差しは強く、夏の到来をつげるような蒸し暑い日。大学の講義室ではけたたましい音をたてて冷房が稼働していた。だがそれを意に介す様子もなく、学生たちからは健やかな寝息が聞こえている。
講義の終了を告げるベルが鳴り響く。顔を伏せていた学生たちは体を起こし、次々と立ち上がり部屋をでていく。教授もそれを目にするとため息交じりにそれ以上語るのをやめた。
「今日はここまで」
ペンをしまい、カバンを手に取って立ち上がる。廊下に出ると、多くの学生が談笑していた。
それらを横目にしながら、俺は食堂へとむかった。この時間帯ならまだそう並ぶ必要もないだろう。これがもう少しして昼時ともなると、昼食にありつくだけで何十分時間をとられることになるかわからない。そんな事態をさけるため、俺はまだ比較的早い朝のうちに昼食をすましてしまうことにしていた。
そうして食堂にたどりつくと案の定まだ人は少なく、席も充分にあいていた。俺は窓際の中庭が見える席にカバンを置く。日差しで少々暑いかもしれないが、そのぶん、よほど混み合わない限りは他の人間が近くに座ることはない。ゆったりと食事をとることができるだろう。
カバンから財布をとりだし、入口近くの注文カウンターへと歩いた。いつものメニューがあることを確認すると、口早に注文をすまし、料金を払う。ライスとラーメンで350円。一人暮らしの苦学生らしい質素な昼食だ。そう思いながら最後にセルフサービスの冷茶を汲み、再び窓際の席へと向かった。
しかし、そこには誰かが座っていた。
眉をひそめる。この季節にわざわざあんな席に座る物好きが俺の他にもいたなんて。それにしてもなぜわざわざカバンが置いてある席の隣に座るのだ。席が確保してあるということは見ればすぐにわかるだろう。見渡すと窓際だけでもまだ充分席には余裕があるようだった。
まあいい、自分が移動すればいいだけの話だ。そう思い、俺は少し離れた平机の並べてある場所に昼食を置き、カバンを取りに窓際へと近づいた。
その途中で気付いたことだが、どうやら俺のカバンの隣に座っているのは女学生らしい。かろうじて耳が隠れている程度の短髪だったので最初は男かとも思ったが、体つきは細く、椅子に腰かけるだけでも地に足がついてないところをみると、かなり小柄な女のようだった。
俺はカバンの前までくると、隣の女とは目が合わないようにしながら、できるだけ自然な風を装ってカバンに手をかけた。
だがその瞬間、カバンを手にした俺の腕が掴まれた。慌てて横を向くと俺の腕を掴んだ女はにっこりと微笑んでおり、
「ちょっと待って。キミに話があるんだ、上原くん」
と、そう言った。俺は再び眉をひそめた。
3.
8月になり、暑さはよりいっそう激しいものとなっていた。無駄なエネルギーの消費を避けてか道行く人々はみな口をつぐんでおり、かわりに街は蝉の鳴き声と排気ガスをまき散らす大型トラックの轟音で埋め尽くされていた。
そんななか俺は駅前にある、よく待ち合わせに利用されることで有名な公園にいた。少しでも日差しを避けようと、公園の隅にある大きな樹に体を預けて立っているのだが、額には汗がにじんでしまっている。
そもそもサークルにも所属しておらず、アルバイトも冷房のきいた飲食店勤務である俺が、こんな真夏の昼日中に外で佇んでいる必要がいったいどこにあるというのか。いつもなら大学の図書館で涼みながら勉強半分、読書半分といったところでのんびりと夏休みを過ごしているはずだった。
…帰りたい。
そんなことをぶつぶつと不満げに考えていたとき、
「ごめんごめん!待った?」
と、いう声とともに女が手を振りながら歩いてきた。赤のキャップにTシャツ、ジーパンというこれまた声を聞かなければ男か女かわからないような出で立ちだった。
「待った。俺は日が昇り切る前の時間を指定したつもりだったんだが。なのになぜかいま太陽は俺の真上にある気がするんだが」
暑いなか待たされたことに若干の苛立ちを感じていた俺は皮肉交じりにそうかえした。しかし、
「悪いね。ちょっと準備に手間取っちゃって」
と、軽く流されてしまった。その格好のどこに時間がかかるんだ、とも言いそうになったがやめておいた。そんな嫌味を言って相手の不評を買うこともないだろう。むしろさっさと用をすませて早く帰りたいというのが本心だ。
「で、なんの話があるって?」
俺は女に尋ねた。あのとき食堂で腕をつかまれ言われた「話」の内容を俺はまだ聞いていなかった。今日はそのためにここへ呼び出されたのだ。
「うーん。ここで立ち話って言うのもなんだし。どこか喫茶店でも入らない?」
女は微笑みながらそう言った。
俺は了承したが、内心、これは長くなりそうだ、と思い嘆息した。
4.
時間はすっかり昼をすぎてしまっているが、お互い昼食がまだだったこともあり、結局喫茶店ではなく公園近くのファミレスに入ることにした。4人がけのテーブルで、俺はキャップを脱いだ短髪の女と向かい合って座っている。
「すごいな…」
俺は素直な感想を口にした。目の前には2〜3人前はあるんじゃなかろうかという料理が並べられている。いや、並べられていた、と言う方が正確だ。いまやそのほとんどは食べきられ、あまつさえ女はメニューを片手にデザートを注文しようとしていた。ちなみにその間俺はというと、メニューのなかで最も安いハンバーグをなんとか胃袋に収めたところだった。
「さて、じゃあ本題なんだけど…」
目の前の料理を全てたいらげ、苺となんとかのタルトとやらをデザートに頼んだあと、ようやく女は「話」を始めようとした。だが、
「ちょっと待て。その前に俺はお前の名前も知らない。なのにどうしてお前は俺の名前を知ってたんだ?」
俺は尋ねた。そう俺はまだこの女のことを何一つ知らない。それなのに自分だけ名前がわれてるというのも気分がいい話じゃない。すると女はこう語った。
「そんなに不思議な話じゃないよ。キミは有名人だからね、上原久志くん。プロからのスカウトさえあったのにそれを蹴り、野球では無名の大学に進学したかと思えば、そこでは野球部にさえ入らなかった。名門、深奥高校の元エース。やっぱり…原因はあの決勝戦?」
女はそう言うと、こちらの反応をうかがっているようだった。
なるほど。どうやらこの女は全部ご存知のうえで話しかけてきたらしい。
冷房の利いたファミレスで、ドリンクの氷が溶けて転がる音がした。
5.
つまり、この短髪の女―リンの「話」とはこうだった。
彼女の父親は商店街で古本屋を営んでいて、それは先々代から受け継がれてきた歴史ある店であるらしい。また、その父親は商店街の人たちで構成された草野球チーム「恵比寿ハンジョーズ」の投手兼監督でもあり、これまた先々代から受け継がれてきた名誉職なのだそうだ。しかし最近は不況の煽りを受けてか参加者も減り、チームには昔からの古株しか残っていない、そんな衰退した状態となってしまっていた。
そんなとき、商店街の一部を含めた場所に大型のショッピングモールを建設しようとする計画が突如浮上してきた。
彼女の父親たち商店街に店を構える人たちはもちろんこぞって反対したが、土地を譲り渡すよう迫る地上げ屋たちショッピングモール建設側も一歩も譲らず、話は堂々巡りとなってしまった。
そんなある日、ついに地上げ屋たち建設側は強行策に打って出ようとし、彼女の父親はそれを止めにでようとした際に、事故(あくまで事故と加害者側は主張しているらしい)により全治一カ月の怪我を負ってしまった。
幸いにして怪我は命を左右するような大きなものではなかったのだが、すると地上げ屋達は突如態度を一変し、平和的に野球で決着をつけよう、などと言ってきたらしい。それはもちろん勝利を確信しての発言だったのだろう。ただでさえ高齢化の進むハンジョーズで、しかも長年投手をつとめてきた彼女の父親が負傷しているとなれば、もうまともな試合は行えないだろうと踏んでのことだった。
商店街の人たちはこれに大きな怒りと悔しさを覚えたそうだ。自分たちの祖父の代から続いてきた商店街を壊す算段をしている奴らに、同じく祖父の代から続けてきた野球チームまでをも馬鹿にされ、踏みにじられたのだ。そのときの彼らの気持ちはわからなくもない。
しかし、現実に彼らに戦力がないのも事実だった。戦えば、負ける。負ければ商店街を奪われてしまう。彼らは唇をかみしめ、地上げ屋たちに赦しを請おうとした――。
「だから、ぼくが代わりに言ってやったんだよ。『2週間だ。2週間後に私たちは勝負をうけてたつ』ってね」
彼女は得意げにフォークをくるんと回しながら言った。口の周りに生クリームがついたままだが。
「…なるほど。話はだいたいわかった。お気の毒だったな」
そう言って俺は立ち上がろうとした。すると、
「そこでだ、上原くん!話はここからだよ!」
と、呼びとめられてしまった。嫌な予感がするから早々にこの場から立ち去りたかったのだが。
「ウチのチームにはいまボクの父親をぬくとメンバーが8人しかいない。これはボクを入れての数なんだ。と、いうことはもう1人、メンバーを補充する必要があるよね?」
…想像通りの展開だ。やはりこんな「話」に耳を傾けるんじゃなかった。と、いうか親切にもわざわざこんなところまで出向くんじゃなかった。ああ、それを言うならあのとき窓際で食事なんてしようとするんじゃなかった…!
俺がいまさらどうしようもない後悔をしている間も彼女は「この助っ人については向こうも了承している」だとか「うちの大学には野球部も含めて君以上に力のある選手はいない」だとかをフォークをぶんぶん振り回しながらなぜか得意そうに話していた。
冷房の利いたファミレスではあるが、俺の顔は冷や汗でいっぱいだったし、ドリンクの氷はとっくに溶けきってなくなってしまっていた。もうひそめる眉もなかった。
6.
自分でも律儀な人間だと思う。炎天下の中再び駅前の公園に立ち尽くしながら俺は思った。
あのあと俺はもう3年近くまともにボールを投げていないということを告げ、それを理由に断ろうとしたのだが、彼女は、せめて一度練習を見に来てほしい、もしそれでも駄目なら指導をしてくれるだけでもいい、と食い下がり、結局俺はその言葉に押し切られるかたちとなってしまった。で、仕方なく待ち合わせの公園に来てみれば、時間になっても彼女の姿はあらわれず、こうしてまた待ちぼうけをくわされているというわけである。いったい何をやっているんだ、俺は…。
見渡すと夏休みの公園は子どもたちであふれかえっていた。みな楽しそうに駆け回り、はしゃぎ合っていたが、それを見ながら不機嫌そうな顔をしている俺は、子どもたちの母親から見れば不審者以外の何者でもなかっただろう。
そんないたたまれない状況が俺を苦しめていたとき、公園の前に大型のビッグスクーターが1台とまった。大きな音をたてて現れたそのバイクは公園中の注目を一気に集めることとなり、一瞬俺への冷たい視線は失われたかに見えた。だが、その持ち主が俺の姿を確認するなり、ヘルメットもとらずにこっちに向かってブンブンと手を振ってきたので、それを見た母親たちはこちらをすぐさま振り返り、よりいっそう厳しく冷たい視線によって俺は見つめられることとなった。
「ごめんごめん!待った?」
俺がバイクに近づくと、彼女は昨日とまったく変わらないセリフを吐いた。ちなみに彼女はすでに白のユニフォームを着ており、準備万端といった感じであった。
「いや。準備に手間取ったんだろ?かまわないさ」
そう俺が嘆息まじりに言うと彼女はフルフェイスのメットから顔をのぞかせて、「そうなんだよ」と言った。
「さあ、それじゃあいこうか」
彼女はそう言うと、俺にメットを手渡し、後ろに乗るよう勧めてきた。俺がためらいながらもバイクにまたがると、すぐに彼女はエンジンをかけ発進したので、手を腰にまわしてよいものか思案していた俺は危うく振り落とされるところだった。結局手は肩に乗せるということで落ち着いた。
10分ほど国道をまっすぐ走っていると、河原が見えた。どうやらそこが目的地らしい。
さらにしばらく川沿いの並木道を進んでいくと、そこにはグラウンドがあった。バックフェンスと照明がいくつかある程度の簡素なものだったが、野球をするには充分な広さの場所だった。
駐輪場にバイクを停めると、彼女はフェンスの裏へと俺を連れていった。グラウンドではシートノックが行われていた。
外野にフライを打ち上げているのだが、各ポジションに1人ずつしかいないため後逸すると自分でボールを拾いにいかなくてはならず、みている限りではそっちのほうがノックよりよほどハードワークであるように感じた。
だが、全体のレベルは思っていたよりも高いようでもあった。草野球のレベルがどれほどのものなのか俺にはわからないところがあったが、それでもグラブさばきやノッカーの腕を見ていると、高校野球ともそれほど変わらないレベルで練習が行われているようだった。一球処理するごとに疲れ切った顔で息をきらしているのは、まあ、仕方ないだろう。
しばらくだまって練習をみていると、リンが声をかけてきた。
「どうだい?」
「思っていたよりしっかり練習しているんだな。体さばきもなかなかだ。これなら同程度の年齢層のチームと試合しても、そう負けることはないんじゃないか?」
そう言うと彼女は嬉しそうにニッコリと微笑み「まあね」と言った。
「うちも昔はこのあたりじゃそこそこの『名門』だったんだよ。もちろん、君の出身校ほどじゃないけどね」
そう言って目を合わせて来た彼女を一瞥し、すぐに目をそらして俺は言った。
「…あと一人、誰でもいいんじゃないか?ストライクさえとれるピッチャーならなんとかなるだろ」
すると、今度は苦々しい表情をして彼女は言った。
「それがそうもいかないんだよ。向こうはあちこちから野球経験者を招集してるみたいでね。なかには君のようにドラフト候補だった選手もいるらしいんだ。年齢も若いしね」
俺は驚いた。勝手に同程度の年齢層のチーム同士で試合をするものだと思い込んでいた。しかもドラフト候補ともなると生半可なチーム編成じゃない。
「汚いな」
「もちろん抗議はしたんだけどね。でも駄目だった。最初にしっかりと決まりを設けなかったボクのせいだ」
なるほど。それでこいつは責任を感じて、自分がなんとかしようと9人目の選手をさがしてたのか。
「でも試合を申し込んだことは後悔してないよ。あのままだとどうせ商店街はむりやり潰されてたんだ。なら一番ぼくらが誇りを持っている野球で、全力でぶつかって勝利をもぎとってやる」
彼女は胸の前で拳に力を込めた。その目は強く前を見つめていた。
「だからキミに力になってほしいんだ、上原くん。あれからいろいろ考えてたんだけど、たしかに3年近くも野球から離れてるきみに、協力したところでなんのメリットもないこんな頼みをむりやり聞いてもらうことはできない。だけど、ぼくらも商店街をまもりたい。まもりたいんだ。だからお願いだ、上原くん。キミに投げてくれとは言わない。せめて、ボクにピッチングを教えてくれないか!?」
彼女はそう言うとじっと俺をみつめた。俺は驚きながらも、
「…ピッチングの経験はあるのか?」
と、聞いた。すると、
「小学校の時にリトルリーグで少し…」
いったい何年前の話だ。それからまったくやったことがないのならそれは経験がないのと同じじゃないのか。しかも期間は1週間と少し。1週間ちょっとでドラフト候補にもなったことがあるような選手を抑えて勝つ。それは…
「無理だ」
「無理じゃない」
彼女は即答した。そんなことは初めからわかっているといった強い語調だった。無理だったではすまされないのだろう。彼女の目は本気だった。
「どうしてもか」
「どうしても」
「他の人間に頼むことはできないのか」
「もうアテもほとんどない。それにまだもう一人欠員を補充しなくちゃならない。とてもそんな強打者を抑えられるピッチャーを探して、お願いをとりつけているような時間はないんだ」
それならいっそ自分が投げる、か。こんなに小柄じゃスピードも限られるだろう。それに彼女がピッチャーになることで今度は彼女のポジションを守る代理人を探さなくちゃいけない。たしかにあまりに時間はなさすぎた。
「…わかった」
俺が答えると彼女の顔がぱっと明るくなった。「ありがとう!それじゃあさっそく!」そう言って彼女はすぐにグラウンドの隅にある練習用ブルペンにむかおうしたが、そんな彼女の手を俺はつかまえた。驚き怪訝そうな顔をむけてくる彼女にむかって、大きく息を吐いた後、覚悟を決めて俺は言った。
「俺が投げる」
声は少し震えていたかもしれない。
7.
それからは時間との勝負だった。3年間でなまりになまったこの体を、まずはときほぐす必要があった。まずは軽いストレッチやランニングから練習メニューを構築し、徐々にかつてのメニューへともどしていくことにした。そしてその間に並行して、チームの戦力を把握し、勝つために必要な練習メニューをリンとともに作り上げていった。リンは流石にチーム事情をよく理解しており、また練習を見ていても女性とは思えない身のこなしでチームを牽引していたので、今度の試合、監督は満場一致でリンが代行することとなった。
一方、商店街のおじさんたちも凄まじい頑張りを見せてくれた。決して楽ではない練習メニューだったが、毎日夕方まで仕事をこなした後、日が暮れてから白球を追いかけ続けた。ミーティングも含めると帰宅が日付変更後になることが毎日だったが、弱音ひとつ吐くことはなかった。また、その家族の人たちも毎晩食事を届けてくれるなどして、試合にむけて万全のサポートをしてくれた。戦う準備は万端といったところだった。
だが、試合の前々日、問題は起こった。その日は風のない、蒸し暑い日だった。
実践経験をつむため、俺たちは練習試合を組むことにした。相手はうちの大学の野球部と有志たちで構成された即席のチームである(アポイントメントはリンがとってくれた)。仮想敵としてはややものたりなくはあったが、サインや、作戦、フォーメーションの確認するためには実践がどうしても必要だった。
初回、ハンジョーズは先頭のリンの2ベースを皮切りに怒涛の攻撃をみせた。打者一巡の猛攻、一挙5得点。準備していた作戦はことごとく成功し、抜け目ない緻密なプレーを全員が行った結果であった。
誰もがこの1週間余りの練習の結果に手ごたえを感じていた。リンも監督として険しい目をしながらも口元はどこかほころんでいるように見えた。
そしてその裏、俺はマウンドへとあがった。
3年ぶりの実戦のマウンド。足の裏の土の状態を確かめる。足場をならしたあと、ロージンを手にする。そしてグローブを見つめ、ボールの縫い目を確認する。何も変わらない、いつもと同じ一連の動作。最後にセットポジションに入り、キャッチャーを見つめた。そのときだった。
「―――――――――!?」
世界が揺れた。
俺は激しい痛みを感じて胸を抑えた。
動悸がする。目まいがする。息が切れる。
自分が立っているのか倒れているのかさえもわからない。
そうしているうちに、俺の意識はブツンとテレビの電源を切るように音をたてて、闇の中へと消えていった。
8.
気がつけばそこは布団の上だった。目の前には丸型の電球がぶら下がっている。どうやら和室のような場所に寝かされているらしい。外からはミンミンと蝉の声だけが聞こえていた。
「よかった。気がついたみたいだね」
障子をあけてリンが入ってきた。手には水の入った桶とタオルを持っている。
「キミ、マウンドで倒れたんだよ。覚えてる?」
リンは俺の額の上にあるぬるくなったタオルと新しくひんやりとしたタオルとを取り替えながらそう言った。
「あぁ…覚えてるよ」
「熱中症かなにかかと思ったんだけど、病院には行かず、とりあえず近くのぼくの家で寝かすことにしたんだ」
と、いうことはここはリンの家らしい。さっきからただよう懐かしいような匂いはきっと古本の匂いなのだろう。
「そうか…迷惑かけたな」
俺はそう言い、立ち上がろうとした。
「あ、駄目だよ。また気分が悪くなるといけないから寝てないと」
リンは俺の肩をつかみ布団に戻そうとする。
「いや、大丈夫だ。あれは熱中症じゃない」
「え?」
リンがいぶかしげな顔をする。俺は体を起こし、自分の掌を見つめた。
わかっていたんだ。こうなるだろうということは。
けどこの1週間の練習のなかで、もしかしたら克服できたかもしれないと、そんな期待もしていた。だがやっぱり俺は――
「俺は…マウンドが怖いんだ」
見つめていた掌を強く握ると、じわりと汗がにじんできた。
9.
俺と浩二は小さいころから仲がよく、いつも一緒に遊んでいた。野球を始めたのも、ある日浩二がリトルリーグに入ることを決め、俺を誘ってきたからだった。俺たちは同じリトルリーグに入ると友達でありながら一番のライバルとなった。そして中学、高校も同じ野球部に所属し、特に名門だった深奥高校に入ってからは深奥の二枚看板として一躍有名にもなった。
俺が速球でグイグイ押していくのに対して、浩二はキレのある変化球で打者をきりきり舞いにした。俺が5回まで投げ、目が慣れてきたところで残りの4イニングは浩二が完璧にシャットアウトする。これがうちの高校の必勝パターンとなっていた。そして俺たちも二人でチームを勝利に導いていくことができることをとても嬉しく、誇りに感じていた。
そんなある日、浩二は自分の強い甲子園への思いを俺に語った。浩二の父親が亡くなってしばらくした高校二年の春のことだった。
「久志。俺の親父も野球人だったんだ。でも甲子園には行けず、プロにもなれなかった。俺が産まれてからこそ工場で大人しく働いてたけど、夢が断たれてしばらくは悔しくて仕方がなかったらしい。そんな話を酒を飲みながらされたことがあったよ」
俺は黙って聞いていた。春になっても夕方の河川敷は少し肌寒かった。
「そんな親父が死んじまった。…ほら。俺、弟や妹が3人もいるだろ?まだちいさいし、とてもじゃないけど母さんの働きだけじゃ食っていけねえよ。だから、俺がただ野球だけやってられるのは、この高校までだ」
浩二はそう言うと草を引きちぎって風に流した。それを目で追いながら、小さな声で噛みしめるように浩二は続けた。
「けど…甲子園に行けば。甲子園で活躍することができれば、俺もプロになれるかもしれない。プロにさえなれば…、俺は野球をやめないでもみんなを食わせていくことができるんだ」
飛んでいく草を目で追う浩二がどんな顔をしていたかはよくわからなかった。だがその声は決意に満ちているようだった。
「それに…もしプロになれなくても甲子園の舞台に立てたら。そしたら俺が野球をやってきたのは意味があったんだって、なんだかそう思えるような気がするんだよ。だから久志。行こう。絶対行こうな、甲子園」
浩二は俺を振り返り、そう言い、そして少し笑った。だから俺は。
「ああ、絶対行こう。甲子園」
そう、確かに約束した。
その次の夏、俺たちは甲子園まであと一つのところまで勝ち進んだ。俺のパフォーマンスは3年間で最高の位置にあったし、浩二も家族の面倒を見ながらもその疲労を感じさせない結果を残していた。俺は甲子園への扉が開くのを、そのときたしかに感じていた。
だがその扉は突如音を立てて閉じられることとなった。浩二が負傷したのだ。
事故は浩二が弟たちの面倒をみていたときに起こった。洗濯物の取り込みを手伝おうとした弟が熱湯の入ったポットを倒し、それが小さな妹にかかろうとしたのだ。浩二は妹をかばいその腕に熱湯を浴びた。しかもそれは聞き腕である左手だった。
幸い大火傷には至らなかったものの、精密な変化球がウリの浩二には大きな痛手となった。監督の判断は決勝の欠場。養生するようにと言い渡されてしまった。
その判断は間違っていなかったと思う。だが、自分の手で甲子園への切符を掴みたかっただろう浩二の悔しさは痛いほど伝わってきた。それでもあいつは俺にこう言った。
「すまない、こんなことになって。次の試合はお前に9回を投げ切ってもらわなくちゃいけなくなった。本当にすまない。…でもその次、甲子園までには必ず治してみせる。だからこの決勝だけ、この決勝戦だけ頑張ってくれ。…そして一緒に甲子園にいって、歴史に残るくらいの大暴れをしてやろうぜ!」
そして浩二はきれいな右手を俺に差し出した。俺はその手をがっちりつかみ「ああ」とうなずいた。このとき俺はもう一度、閉じた甲子園への扉をこの手でこじ開けてやろうと思ったのだ。
決勝戦は満員だった。鳴り響く応援の音。アルプススタンドから聞こえる声は、自分が浩二だけではない、多くのものを背負ってこのマウンドに立っているんだということをあらためて感じさせた。
相手校は何度も対戦した強豪校であり、特にエースはプロ注目の逸材といわれている剛腕で、打線の大量援護は望めない相手だった。
だが、この日の俺の立ち上がりはそんな超高校級エースにひけをとらないほど完璧なものだった。4回まで無安打7奪三振。強豪相手に獅子奮迅のピッチングを披露した。ベンチに帰るたびに浩二が親指をたてて迎えてくるのが、恥ずかしくもあったがなにより嬉しかった。
懸念されていたのは6回以降の投球だった。普段も決して6回以上投げたことがないわけではなかったが、浩二という抜群の安定感を誇るリリーフがいないこの試合では俺にかかるプレッシャーはケタ違いだった。また、相手も普段のように投手を交代しないことをいぶかしみ、浩二が負傷したことが悟られるかもしれなかった。
しかし、この日の俺のピッチングは本当に神がかったもので、結局8回までヒットわずか4本、四球1というほぼパーフェクトなピッチングだった。自分でもあまりの出来の良さに驚いていた。ただ、相手エースも貫録の投球をみせたのでスコアボードには0だけが並べられていくこととなった。
そして9回、運命の時が訪れた。
10.
「そのとき俺の疲労はかなりピークに達していた。点を与えられない展開が続き、飛ばし続けたことももちろんだが、なにより普段5〜6回しか投げていなかったことによるスタミナ不足、それが大きな原因だったように思う」
俺は浩二とのこと、そしてあの決勝戦の日のことをリンに語っていた。リンは何も言わず、じっと俺の話を聞いていた。
「9回表、深奥高校は連打と併殺崩れで1点をもぎとった。それはつまり9回裏を俺が抑えれば甲子園出場が決まるということだった。だけど俺の球威は明らかに落ちていて、1アウトをとったあと、連打と送りバントで2アウト2・3塁とされてしまった。いま思えばこのとき相手はもう、何らかの事情で浩二が出てこれないことがわかっていたんだろうと思う。だからこんな手堅い策をとってきた。俺を崩せばあとはもういないんだからな」
「そう、そこでキミは…」
リンが話を始めてから初めて口を開いた。俺が先を話しづらいと気をつかってくれたのかもしれない。俺は彼女を一瞬見て少し微笑んだあと続けた。
「ああ。暴投だった。指にボールが引っかかったかと思うとベースから大きく離れたところに叩きつけてしまった。慌ててキャッチャーは取りにいったが、3塁ランナーは帰り、2塁ランナーは3塁へ進んでしまった。これで同点だ」
「…ぼく、きみのことを調べたときに知ったんだ。その…決勝戦がどうなったのかを。だから…!」
もういいんだ。そんなふうに止めようとするリンをさえぎって俺は続けた。
「そのとき俺はパニックに陥っていた。疲労も限界を突破していた。指先の感覚はなく、いまにも倒れそうだったが、とにかくただ投げることだけを考えた。ただ甲子園に行くことだけを考えたんだ。そう、浩二との約束の甲子園に…。」
だけどその夢はかなうことはなかった。その夢は…
俺は一瞬言葉を詰まらせた。喉が熱く、焼けるようだった。
「だけどその夢は…ボールと一緒に、俺の手から滑り落ちていってしまったんだよ…」
こうして俺は全てを語り終えた。目には涙がじわりとにじんでいたが無視することにした。少し恥ずかしいかとも思ったが、リンのほほにも涙がつたっていたのでお互い様だろうと思った。
「…だからきみはマウンドに立つのがこわいんだね」
しばらくして落ち着いたころ、目元をぬぐいながらリンが言った。
「ああ…引退してからも何度かマウンドで投げようと試みたことはあったんだが、そのたびにさっきのようなザマだった」
だから俺は野球を捨て、誰も俺を野球選手だと知らないとこに行こうと決意した。
「浩二くんは…どうなったのかな」
「左腕はすぐに治ったようだった。だけどドラフトであいつの名前は呼ばれなかった。…マウンドに立てない俺が呼ばれて、完治したあいつが呼ばれないなんて皮肉な話だろ?結局それからあいつとは卒業するまで一度も会話しなかった。たぶん、いまごろは父親の勤めてた工場で働いているんじゃないかな。…恨んでるだろうな、自分から野球を奪った俺を」
俺がそう言うとリンは何か言いたそうに口をパクパクと開いていたが、それを言葉にはせず、うつむいてしまった。
「悪いな、嫌な話を聞かせて。ただ今日いまだに俺がマウンドにたてないことがはっきりしちまった。この1週間、練習の間は平気だったから、もしかしたらいけるかと少し期待もしてたんだが…」
俺が自嘲するように少し笑いながらそう言うと、リンはぐっと歯を噛みしめて、突然立ち上がった。
「試合は明後日だよ。まだ猶予がある。きみはみんなの練習を見てて」
そう言い残すとリンはあわただしく部屋をでていった。一人部屋に残された俺はキョトンとしたあと、しばらくただぼうっと窓の外を眺めていた。蝉の声だけがうるさく部屋にこだましていた。
11.
その翌日、いつもの練習開始よりかなり早い時刻にリンから電話があり、俺はまたしても駅前の公園に呼び出された。そしてまたしても待ちぼうけをくっていた。
「どうしてこう時間にルーズなんだ、あいつは…」
せめてもの救いは今日が平日で親子連れが休日よりは少ないことである。また、時間も早いため日差しもそれほど強くない。おかげでゆったりと空いているベンチを使って朝食をとることができた。すると、
「ごめんごめん!待った?」
と、お決まりのセリフで遅刻魔がやってきた。俺は「あー」と気の抜けた返事をするだけにとどめておいた。
「よし、じゃあいこうか!」
そう言われても何も聞かされていない俺にはわけがわからず、とりあえず眉をひそめた。そういえばこいつ今日はユニフォームじゃないな。あとなぜか荷物がリュックサックだ。
「あー、今日はどこに行くんだ?」
「今日はぼくとおでかけだよ!みんなには言ってあるから!さあ電車に乗るよ!」
なぜこんなにもハイテンションなのか。結局どこに行くのか。何も聞かされないまま俺は切符を購入させられた。通勤ラッシュの終わった平日のコンコースは空いていて、電車ではゆったり座れそうだなと思い、それでこの強引な展開を納得し受け入れることにした。我ながら少し情けないと思う。
「確認だが、これはデートではないよな?」
「!!?」
山ばかりで景色の変わらない電車に揺られて30分ほどたったとき、ふと思いたったので尋ねてみると、思った以上の反応がかえってきた。面白い。俺は少し復讐できたような気がした。
一方リンはというと、顔を赤くし、口をパクパクさせながらしばらくいろんな表情をしたあと、突然、
ガッ!!
と、すねを蹴とばしてきた。生半可じゃない痛さだったので、並々ならぬ力で蹴ったのだろう。さっきまでの優越感はあっという間に失われ、俺は痛みに悶絶することとなった。
そして、それからは会話が途絶えてしまった。
そこからさらに2回の乗り換えを行い、1時間ほど経ったとき
「ついたよ、降りて」
リンが立ち上がり言った。俺は言われるがままに電車から降り、改札をぬけた。
着いた場所はあたり一面山に囲まれており、空気は澄んでいてとてもおいしかった。鳥の声と踏切の音以外は耳に届くものもなく、またとんだ田舎に連れてこられたものだな、と俺は思った。
そこからはまたリンに連れられてしばらく歩くこととなった。だが、それはあっという間で、いまだに店をあけている駄菓子屋に感動したり、風鈴売りの屋台をみて物珍しさでひとつ購入したりしているうちに、いつの間にか俺はリンの目的の場所へとついたようだった。
「ここだよ」
リンが目の前の建物を指でさした。そこは何かの製造所のようだった。「少し待ってて」といいながら中に入っていくリンの背中を見ながら、明日は大切な試合だというのにこんなことをしていていいんだろうかと今更ながら少し不安になった。もし俺が明日もマウンドに立てなかったらリンはどうするのだろうか。やはり自分がピッチャーをするつもりなのだろうか。俺は他のポジションでなら試合ができるのだろうか。
そう考えていると、なんだかやっておくことが山積みに感じられ、一刻も早く戻って練習をしなければならないと思った。
すると、リンがでてきたので、
「おい、やっぱり早くかえ―――」
そう言いかけた時、リンの後ろにもう一人誰かいることに気付いた。作業着姿の男だった。リンと並んでいるため大きく見えるが、実際はそれほどでもなくどちらかというと細身で繊細そうな体つきだった。
二人が近付いてくるにつれ、徐々に顔も体格もはっきりしてきたが、そいつの顔なんてまるで見えなくても歩き方やちょっとした仕草だけでそれが誰かはすぐにわかってしまった。その体、筋肉の付き方なども、きっと世界で誰より俺が一番詳しく知っているはずなのだ。
リンが今日、なぜここに俺を連れて来たのかがやっとわかった。
そこにいたのは、俺のよく知る、幼いころからの一番の親友だった。
12.
空は快晴、今日も東西南北日本の空は美しい。風はわずかにそよぐ程度で、肌は冷やされることなくジリジリと強い日差しに焦がされていた。
13時のプレイボールを控え、恵比寿ハンジョーズの面々は1時間前には集合と準備を終え、練習に入っていた。リンの指示で一同はグラウンドに散り、これよりノックへと移るところであった。
すると、ひときわ大きなクラクションを鳴らして、川上より一台の大型バスがやってきた。
俺はそれが今日の対戦相手であることを、バスを降り、先頭を歩いてきた男を見るみんなの目つきから知ることができた。
「おー、本条さんとこの娘さんじゃないですかあ。お父さんはお元気ですか?」
「おかげさまで」
リンが言葉少なに返すと、男はにやりと笑い「今日はお手柔らかに」と言ってバスにもどっていった。男を見送りながらハンジョーズの面々は各々呪いの言葉を吐き捨てていた。リンでさえその目にはっきりと怒りをみてとることができるほどであった。
そのあとバスから続々と選手が降りてきたのだが、その面々は確かに若く生気に満ちていた。なかには高校生や大学生であろうと思われる奴らも何人もおり、しかもそのうち一人は俺と同じ年の甲子園経験者だった。
「…リン、たぶん今日の相手のエースがわかったぞ。いまベンチに座ったオールバックの男だ」
俺はリンに耳打ちした。
「安藤大輔。俺と同じ年で、甲子園で1勝してる。たしか当時は140キロ前後の速球と、落差のあるフォークが武器だったはずだ。大学野球に進んだはずだから、おそらくいまでも現役バリバリの男だ」
それを聞くと、リンは小さくうなずき全員を集合させた。いまの情報をみんなに共有させるのだ。
だが他のやつらはわからない。高校生か大学生か、ひとり異様にガタイがいいのがいるから4番はあいつかもしれない。いや、よく見ると年はそこそこのようだが、外国人も2人ほど混ざっているようなのであのどっちかが4番なのかもしれない。まあそれは始まってみなければわからないことだ。それよりまず要注意はあの安藤だ。あいつからどうやって点をもぎ取り、いかにこっちは点を取らせないようにするか。多くの援護点がのぞめないエース級を相手にするときは、こっちだって1点でも多くとられるわけにはいかないのだ。
さて、甲子園経験者とあのデカブツたち相手にどこまでやれるか…。そう考えていると俺はなんだか胸が熱くなるのを感じていた。
いま、何かが再び動き出す音が聞こえた気がした。
13.
9回コールドなし、先攻はハンジョーズでゲームが始まった。
全員が円陣を組む。リンの掛け声にみんなが呼応する。
「ボクたちが、勝つ!!」
「勝つ!!!!」
「いくぞー!!!」
「ウオォー!!!!」
気合が入る。俺も含めみんなにも緊張は見られない。ただ、「勝つ」という強い思いだけがそこにあった。
しかし、それを打ち砕くように安藤が投球練習を開始した。俺から見ても文句のないすばらしいピッチングだった。
「速いね…。コントロールもいい」
リンが言った。みんなもただ息をのむばかりだった。
「でも、勝つんだろう?」
俺がリンに問いかける。するとリンはいつもの笑みを浮かべて、
「もちろん!」
と、そう答えてVサインをし、バッターボックスへと向かっていった。
だが、本当に安藤の投球はすさまじいものだった。このチームで力負けせずにあれをまともに外野まで運べるのは俺か酒屋の吉村さんぐらいのものだろう。小柄なリンではいかにセンスに優れていたとしてもどうしても球に負けてしまう。
そう思い、1アウトを諦めていた時、リンが初級から勝負に出た。――セーフティバント。
見事3塁線に転がったボールは1塁へ投げられることさえされなかった。あっという間のノーアウト1塁だった。
「すごいな」
俺は1塁上でこっちに手を振るリンを見ながら笑った。あんなに小さな体をしているのに、前向きで、どんな相手にも手を抜かず真剣に心からぶつかっていく。そんなリンの想いが、熱が、みんなの光となっているんだというのが、この2週間でよくわかった。
なら、どんなことがあっても、あいつの熱を消させちゃいけない。あの光は俺が守る。なぜなら俺も間違いなくあいつに導かれた1人なんだから。
この回は俺も含め後続を見事におさえられたため、結局得点はならなかった。
そしていよいよ、俺はマウンドへとむかう。すれちがいざまリンが「ありがとう」と言ったのが聞こえたが、まだ早いだろうと思い、少し笑っただけで、言葉はかえさなかった。
マウンドはいつも通りの安っぽさだった。まず足の裏の土の状態を確かめる。次に足場をならしたあと、ロージンを手にする。そしてグローブを見つめ、ボールの縫い目を確認する。
何も変わらない、いつもと同じ一連の動作。最後にセットポジションに入り、キャッチャーを見つめた。そして――。
「ズバンッ!!!」
小気味いい音がキャッチャーミットから響く。寸分の狂いなくミットに収まった白球に、対戦チームの全員が言葉を失っているのがわかった。キャッチャーが「ナイスボール」と言って返したボールを手にすると、すぐさま俺は2球目へと入った。
両手を大きく振りかぶる。今日も日差しは強いが、吹き抜ける風が心地いい。
体は軽く、全身の隅々まで神経が行き渡っているのが感じられた。
さあ、ここからだ。俺はそう思った。ここからもう一度始めるんだ。
あのとき、あの場所に置いてきてしまったものをとりもどすために。俺をここまでもう一度連れてきてくれたあの光を守るために。
俺は大きく振りかぶった体をゆっくりと動かし、その躍動する筋肉のひとつひとつ全てを感じながら、しっかりと大地を踏みしめて、指先からボールを放った。
これが俺の、上原久志の全力全開の投球だと、その全てで告げるように――。
14.
俺たちが浩二に案内されたのは製造所に入ってすぐの休憩所と思われる場所だった。テーブルが2つ、ベンチが3台あるだけの簡素な場所で、表にあった自動販売機で缶コーヒーを買った俺たちはそれを手にそこで向かい合っていた。
浩二は前もって俺がやってくることをリンから聞いていたのか、俺を見てもまったく驚いた様子はなかった。恐らく仕事の昼休憩中なのだろう。作業着のまま、律が話すこの事態についての説明を、うなずきながら聞いていた。一方、俺だけが頭の整理もつかず、突然の浩二との出会いにうろたえながら、ただじっと缶コーヒーのラベルに目をやり続けていた。
浩二とはあれから一度も話していなかったため、俺は目の前にいる浩二の顔を見ることができなかった。言わなければいけないことはいくつもあるのに、そのどれもが言葉にすることができず、ただ胸の中でぐるぐると渦巻き、俺の体をズタズタに切り裂いていくようだった。
浩二はやはり俺のことを恨んでいるだろうか――?
この期に及んで自分のことばかりか、と思うと情けなくもなったが、様々なことを考えたあといつも最後に考えるのはこのことだった。
わかっていた。浩二の立場からしてみれば自分の夢が俺の不甲斐なさのせいで潰えてしまったのだ。赦せるはずもない。わかっている。だけど、それでも俺は――。
「と、いうことなんだ。その練習試合というのが昨日の話でね」
気がつくとリンが説明を終えたとこのようだった。すると浩二はコーヒーを少し口に含み、
「…なるほど。それで俺とこいつの関係を知った君は昨日連絡をとってきてくれたわけだね」
と、そう言い、リンが頷くのを見ると、今度は俺の方に目をむけてきた。だが俺はうつむき、顔を上げることさえできなかった。
「…まだお前はそんな馬鹿をやってるのか」
浩二が小さな声で言った。その声は少し震えているようでもあった。
「俺はあれからお前がボールを投げていないのを知ってた。部活にも顔は出さないし、部室にはお前のグローブが置かれたままだったからな。だけどみんなしばらくすれば立ち直って顔をだすようになるだろうと言ってたんだ。…まあ俺だけはおまえが俺に会いたくないから来ないんじゃないかとも思っていたけどな」
そう言われて俺は胸が痛んだ。たしかにそういう気持ちも俺にはあったからだ。俺は浩二から目をそらし、逃げ続けていた。まさに――いまこの瞬間もそうだった。
「けれどあの日、あのドラフト会議の日、プロ志望届を出していたお前の名前が呼ばれた。なのにお前はプロに入団しなかった。俺は驚いたよ。そしてそのときからだったか、お前がボールを投げられなくなったっていう噂が流れ始めたんだ」
浩二はそこで少し言葉を切った。目をつむり、当時を思い出しているようだった。そしてしばらくして、浩二は再び話を続けた。
「…だけど俺は何もしなかった。お前に声をかけることさえしなかった。もちろん自分がプロになれず悔しかったってこともあったし、お前が俺を避けてると気付いていたからっていうのもあった。でもお前のその問題は、本当の問題は俺じゃないと思ったんだ」
そこまで言うと浩二は立ち上がり、ゆっくり俺の前へと歩いてきた。俺は自分のうつむいた視線が浩二の足をとらえたとき、恐る恐る顔を上げ、浩二の顔を見ようとした。すると。
「バチンッ!!!」
額に熱い痛みがはしった。
「――――――――!?」
俺はとっさに額を抑えて慌てて浩二の方を見た。浩二は全力でデコピンを放った指をしばらく見つめてから、俺の方にキッと目をやった。そして、
「逃げるな」
と、そう言った。
「お前が俺との約束を果たそうとあの日、懸命だったことを俺は知ってる。それが叶えられずとても苦しんだことも俺は知ってる。俺にあわす顔がなくて、それ以降の毎日が辛くて、しかもマウンドに立てなくなったことがわかったときはもっと苦しくて…。そんなこと、俺は全部知ってるんだ。わかってるんだ!何年一緒にいたと思ってるんだ!」
浩二は声を荒げながら俺の両肩に手を置いた。その手は昔よりささくれ、硬くなったように感じた。
「だからいいんだ!俺のことはいいんだよ!お前はきっと、たとえ投げられたとしても、俺がドラフトに選ばれなかったら自分も辞退してたろう?お前はそういう奴だ。昔からそういう奴だ!…でもいいんだよ!そんなことで…そりゃ悔しいけどさ!でもそれで俺がお前を恨んだりするはずないだろう!?」
浩二はほとんど泣いていた。泣きながら俺にこう言った。
「なめんなよ!?友達だぞ!!」
その言葉を聞きながら、俺もいつの間にか泣いていた。
「でも違うんだ。本当のお前の問題はそうじゃないんだ」
浩二が目元をぬぐいながらそう言った。
「たしかに俺との約束はあったよ。お前はそれを守ろうと懸命に頑張ってくれたよ。でもそれだけじゃない。それだけじゃないだろう?甲子園は…プロはお前の夢でもあったんじゃないのか?」
俺はハッとした。そんなことはいつの間にか思いもよらない頭の彼方に追いやられてしまっていたことだった。
「俺も一緒に甲子園に行って、一緒にプロになりたかった。お前もそう思ってくれてたんだよな?けど、俺がプロになれなかったのはお前のせいじゃない。俺の力が足りなかったからだ。同じようにあの日、打たれたのはお前だ。負けたのはお前なんだ。甲子園に行けず、悔しかったのは、辛かったのは俺じゃない、久志、お前なんだよ」
浩二の目はじっと俺を見つめていた。そう、それはずっと長い間、俺を見つめ続けてきてくれたまなざしだった。
「…なあ久志。お前本当は怖かっただけなんじゃないのか?プロになって、あの日みたいな緊張感の中で投げて負けるのが。背中にたくさんの思いを背負ってマウンドの上に立ち、負けてそれを失うのが怖くなっただけなんじゃないのか?」
俺は言葉を返せなかった。いま、マウンドに立つと感じるあの胸をかきむしりたくなるような不安感、あれが<恐怖>なのだと、俺はこのとき初めて知った。
「久志。俺じゃない、お前なんだよ。いつも戦うのは。だから逃げるな、久志。お前はすごいピッチャーだから。誰よりそばで見てきた俺が保証してやる。お前はすごいピッチャーだ、久志。だから、さあ、もう一度立ち向かってこいよ。戦って、勝って、夢の続きをみてこい。…それが、高く跳べるやつのさだめってもんだろう?」
浩二はそう言うと少し笑い、俺の飲みかけの缶コーヒーを差し出してきた。俺はそれを手に取ると「ありがとう」と言った。あの日以来、初めて浩二に話した言葉だった。
俺とリンは再び電車に乗っていた。電車の揺れは激しく、景色はあっという間に過ぎ去っていった。時刻はまだ14時を少し回ったところだった。
「…このあと、ボクはみんなと練習をしに行くけどきみはどうする?」
鼻をすすりながらリンが言った。さっきは気がつくと誰より大粒の涙をリンが流しており、俺と浩二は慌てふためくこととなった。どうやらまだその余韻が残っているらしい。
「俺も行くよ。もう試合は明日だ。時間はないからな」
そう俺が返すとリンは微笑み、「わかった」と言った。その顔を見たあと俺は電車の窓から外を眺め、
「勝とうな」
と、言った。リンは少し驚いたような顔をしたが「うん」と頷いた。リンに対しても言い表せないほどの多くの気持ちが俺にはあったが、その全てを「勝とう」という言葉にこめることとした。
試合は明日。俺の右手はかたく握りしめられていた。
15.
「ットライク!バッターアウトッ!」
審判の声が上がる。同時に後ろを守る仲間たちや、応援に来てくれた商店街の人達から歓声がわきあがった。
「っし!2アウトー!!」
ショートから律の声が響いた。皆がそれに呼応し、俺はキャッチャーからボールをうけとった。
試合は7回裏。1−1の同点となっていた。
俺は5回まで被安打1の好投を続けていたのだが、6回、少し球が浮いたところを先頭打者の筋骨隆々の外国人に2ベースとされてしまい、そのあと内野ゴロ2つの間に1点を奪われてしまった。しかし次の7回表、すぐさまハンジョーズは四球と俺のヒットでノーアウト1・3塁とし、吉村さんがきっちりと犠牲フライを打ってくれたため1点を取りかえすことができた。後続が倒れたため1点どまりだったが、安藤から最初の得点をもぎとることができたことはチームの士気を大いに高めた。また、そのことで安藤にいらつきが見えていたため、攻めるならここが大きなチャンスとなるかもしれないと俺は感じていた。
だが、そのためにはまずその裏をきっちりと俺が抑えて流れを作らなければならない。そうして俺は最初のバッターを内野ゴロ、次のバッターを三振に仕留め、2アウト、ランナーなしとしていた。少し肩に疲労が見え始めてもいたが、流れの上で大切なこのイニングはセーブなしの全力投球を行っていた。
「ットライク!バッターアウトッ!」
次のバッターもストレートで三振に切ってとり、俺は7回を無失点とした。ここまで7回を被安打2、1失点。球数も80球を少し超えた程度のところであり、先発投手としてはかなりの好投といっていいのではないかと思う。ただし今日は9回を投げ切ることが前提条件なので、この後も無駄な球数を増やさないようアウトの取り方も慎重に行っていかなければならない。
だが、ここまでの好投が功を奏しているようで、むこうには焦りが見えてきていた。簡単に御せると思っていた相手の予想外の反抗に戸惑い、なんとかしようと躍起になっているため、その流れを外せばそうそう打たれることもないだろう。やはり問題は俺の体力と、安藤をもう一度打てるかどうかということだった。
「大丈夫?まだいけそう?」
リンが話しかけてきた。リンは1イニング投げ終えるたびに俺のもとへとやってきてこうして声をかけてくれていた。疲労から気をそらそうとしてくれているのか、もしかしたらまだ巻き込んだことを悪く感じているのかもしれない。
「楽勝、だな」
俺はわざと余裕たっぷりに笑いながらかえした。
「そっか。なら良かった。じゃあまずはなんとかあいつからもう1点とることを考えないとね」
リンも一瞬笑い、すぐに真剣な顔になってマウンドをにらみつけた。
「ああ、だけど安藤も苛立ってる。さっきの1点が効いてるんだろう。まさかとられると思ってなかっただろうしな」
「じゃあ攻めるならここだね」
そう言うとリンは陽動のサインをだした。バントの構えをしたり、狙い球をあえて見逃させたりと細かい指示を出している。結果、
「フォアボール!」
安藤から四球をもぎとった。
「お前は本当にすごいな」
俺は笑った。実際すごいと感じたし、サインのためにバタバタと動いているリンが不謹慎ながら少し面白くもあったからだ。
「いや…お前は本当にすごいな」
俺は改めて言うこととなった。あのあと送りバントを2つ指示し2アウト3塁。バッターは1番にかえりリンの打順となった。自分の前にランナーを3塁まで進めさせたのだ。自分で決めるつもりだ。
「大丈夫か、あいつ…」
安藤は目に見えて苛立っていた。指示どおりにこの状況をつくらせ、自分と勝負しろと相手が言ってきたのだ。しかもそれが唯一の女だと言うのだからその苛立ちたるや相当なものだろう。俺はわざと死球を狙ってくるんじゃないかと内心ヒヤヒヤしていた。
「ストライクッ!」
だが、初球は綺麗なストライクだった。リンが小柄な女性と言うこともあってかさすがに安藤もビーンボールは行ってこなかった。
「ストライクッ!」
あっという間の2ストライク。安藤も打ってみろと言わんばかりの渾身のストレートをど真ん中に投げ込んでいた。あれはバントするのも容易くはないだろう。
「3球勝負か…どうする?」
リンはいつも通りの表情だった。足幅のせまい小さなスタンス。それに向かって大きく安藤が振りかぶる。そのとき少しキャッチャーが腰を浮かせた。…3球勝負じゃない!釣り球だ!
俺は思わず立ち上がった。高めのボールになる球がミットに向かって走る。それをリンは、
「せえいッ!!」
と、いう掛け声とともにバットを上から振り下ろした。――大根切りだ。
「走れ走れぇ!!」
高く叩きつけられた打球は跳ね上がり、下がるピッチャーと前進するショートの間に落ちた。その間に3塁ランナーは生還し、リンは1塁に頭から滑りこんでいた。
「勝ち越しだァ!!!」
チームが湧く。リンは初回と同じように笑みを浮かべ、1塁ベース上から手を振っていた。
俺はそれを見て、言葉もなかった。なんて女だよと思いながら、ベンチにもたれかかるとタオルで顔を隠して笑った。
だがその一方で、いまの攻撃のように全て自分でなんとかしようとしてしまうその姿に不安も感じた。
駄目だ。あれじゃいつかあいつは潰れてしまうかもしれない。
まわりがもっとあいつを支えてやらないといけない。あいつがもっと安心してまわりにゆだねられるように、助けとなってやれるやつがあいつのそばにいてやらないといけない。
俺は再びグローブを手に取り、ボールを持つ手を強くした。
「まずはこの試合、絶対に勝つ」
16.
8回裏を3人で抑えた俺は、9回表の自分の打席へと向かった。
日ざしは弱まり、プレー開始時と比べるとかなり楽な気温にはなっていたが、奪われた体力はもとにはもどらない。どちらのチームももう疲労困憊といった表情だった。
特にピッチャー、安藤も俺と同じくここまで一人で投げているだけに、その疲れもひとしおだろうと思い、その顔色を窺おうとした。
そのとき、安藤と目があった。その顔は笑っているように見えた。
バッターボックスに入った俺にベンチからのサインはなかった。勝ち越していることもあり余計な体力はつかわせないようにという配慮だろう。
だが、点差は1点でも多い方がいい。俺は絶対に打つつもりで力をこめてかまえた。すると――。
「ガッ!!!」
ボールが脇腹に突き刺さった。
双方のベンチから全員が飛び出してきた。故意かどうかでもめているが、安藤は指が滑ったことを審判にアピールしていた。
「大丈夫?立てる?」
リンが体を支えながら聞いてきた。くそ、俺が支えられてどうする。
「ああ、ちょっと痛みはあるけどプレーに支障がでるほどじゃない。やれる」
俺は立ち上がってそう言った。そして安藤をにらみつけた。安藤は不敵にニヤリと笑っていた。
結局、このあとは打てず、追加点はならなかった。ランナーとなった俺には執拗に牽制球がなげられ、そのたびに脇腹とその上のあばらが痛んだ。
そしていよいよ9回裏、最後の守りがやってきた。
17.
攻撃が終わりベンチに戻ったときにボールの当たった患部をみてみると、あまり直視したくない腫れ方となっていたので、誰にも見せないように冷やして、マウンドへとあがることとした。
9回裏、打順は2番から。サヨナラにはもってこいの好打順だったが、もちろんそんなことをゆるすつもりはなかった。ましてやこんな汚い手を打ってくるような奴らには絶対負けるつもりはなかった。
3人で終わらす。
そう思いながら、1人目のバッターに対して大きくふりかぶったとき、
「――――――!!」
強い痛みが脇腹にはしった。だが、できるだけフォームを崩さないように、歯を食いしばりながら投げた。
「ボール!」
外れた。痛みから最後の踏み込みが浅くなってしまう。
「ボール!」
微妙な球だったが、また外れた。外そうとして外しているのではなく外れてしまっているのが問題だった。
「ストライク!」
「ボール!」
「ストライク!」
まったく手を出してこない。待球の指示がでているのだろう。なるほど、最初からそういう作戦だったわけか。
むこうはこちらの自滅を待っている――。
だが、いまそれに気付いたところで脇腹の痛みは変わらない。結局このバッターには四球を与えてしまい、次のバッターにも2−2までいったあとにバントまがいの内野ゴロを打たれてしまった。これで1アウト2塁。
次のバッターを迎えたとき、ネクストサークルに安藤が入るのが見えた。そしてその横にいる監督役の男となにかをニヤニヤと笑いながら話している。作戦か、それとも。
どちらにせよいまやることは変わらない。負けない。勝つ。目の前の男を三振にとる。ただそれだけだ。俺は痛みを無視して全力で投げ込んだ。
ストレート、ストレート、ストレート、ストレート。
1球ファールをはさんで2ストライク2ボール。もう変化球はコントロールが効かない。ストレートのみの真っ向勝負だ。そして、
「ストライクッ!バッターアウト!!」
空振りの三振に切ってとった。チームメイトと応援席から歓声が上がる。これで2アウト。残るはあと1人。そしてバッターボックスに安藤が入った。
「さっきは悪かったな」
安藤が言った。顔にはあい変わらず笑みが浮かんでいる。
「おっと、報復のデッドボールなんてやめてくれよ?こっちはお前と違ってまだ将来有望なんだからよ?お前もあんなことがなけりゃあなあ。覚えてるか?あの決勝戦。お前あのとき暴投とボークで自滅したんだぜ?」
それを聞いてリンが「おまえ!」と前に出てこようとした。俺はそれを目で制した。
「…そうだな。あのときはたしかにそうだった。パニックになり何もわからないまま投げた結果があれだ。だけど今日はどうやら大丈夫そうだ。おかげでお前がしっかり見えてるよ、安藤君」
そう言うと安藤はチッと舌打ちをしてバットをかまえた。俺は投球モーションに入った。そのとき、
「走った!」
リンの声が聞こえた。それに一瞬意識を奪われ、踏み込みが浅くなった。結果、ボールはワンバウンドとなり、ランナーは3塁へと進んでしまった。
「ハハハハハハッ!!おまえいまの暴投寸前じゃねえか!危うくまた同点だよ!良かったなァ!!」
安藤の笑い声が響いた。クソっと悪態をつき、俺は奥歯を噛みしめた。たしかにこれじゃあいつの言うとおりだ。いままた俺は同じ過ちを犯そうとしてしまった。
もう駄目だ。二度とあんな思いはしたくない。この試合は絶対に勝たなくちゃいけないんだ。
負けられない。絶対に勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。勝つ。
グラリと。地面が揺れ始めた気がした。そのとき。
「久志くん!!」
リンが俺を呼ぶ声が聞こえた。俺は目が覚めたようにハッとした。
振り返るとリンは笑っていた。笑って、
「大丈夫だよ。久志くんなら大丈夫。浩二くんもそう言ってたじゃないか」
そう言った。俺は――。
「フウッ」
大きくひとつ息をついた。体が少し軽くなった気がした。
「ああ?」
安藤が訝しげに見ていた。俺はそれを見つめ返し、
「待たせたな。さあ勝負だ」
と、言い、セットポジションに入った。今度は、確かにそこに立っていた。
「ストライク!」
「ボール!」
「ストライク!」
「ファール!」
カウントは2−2。安藤の息は荒くなっていた。
「…なんだお前。急に息を吹き返しやがって!忘れたのか!?思い出せ!お前は最後にそこでボールを落として!ボークになって!サヨナラ負けをして・・・!」
「うるさいよ」
俺は安藤の言葉を遮った。
セットポジションに入る。自分がなぜここに立っているのか、何を背負って立っているのかが思い出される。だが、その重圧がいまは苦に感じられない。ここにいること、ここで野球をしていることがいまはこんなにも心地いい。
俺は振りかぶった。ランナーもいまは関係ない。
ひとつひとつ、ゆっくりと動作を行い、体の隅々にまで神経を行きとどける。
指先が熱い。今度は、間違えない。
ぎゅっと強く握られたボールは極限までしなった腕、掌、指から順に力を与えられ、放たれる。
ボールがキャッチャーミットへとわき目も振らずに向かっていく。
何にも邪魔されることなく、空気を駆けあがるように回転を続け、そして――。
「ズバンッ!!!」
最高の音をたててミットに突き刺さった。
「ットライクッ!バッターアウッ!!ゲームセット!!!」
審判の手が上がる。声があがる。直後、後ろから、応援席から歓声が上がり、みんながマウンドへと駆け集まってくる。
もみくちゃにされながら、ふと目をやると、リンがまだショートのポジションに立ちつくしていた。俺は輪から抜け出し、リンのところへと駆けよった。
「終わったよ。ありがとう」
そう言うと、リンの目からはまたボロボロと大粒の涙がこぼれだし、
「ありがとうって…先に言うなよ〜!!!」
と、叫ぶとその場にかがみこんでしまった。
俺は隣にかがみこみ、肩に手を置きながら空を見た。
――今度は大事な約束を守れたのかな。
きっともう大丈夫だ。俺は自分の居場所、自分のやるべきことを取り戻したよ、浩二。
爽やかな風が吹く。空はわずかに赤みがかってきていた。
いつか閉じてしまったままの扉を、もう一度開けてみようと思った。
「悠斗、早くいらっしゃい。」
「ママ、パパ、待って。」
春の暖かい陽だまりの中、5歳になる息子が息を切らして走ってくる。
「パパずるい。僕がママと手つなぐの。」
「わかった、わかった。」
「僕、ママと結婚する。」
「ママはパパと結婚してるのー。」
「はいはい、もう喧嘩はやめなさい。」
「ちぇっ、パパのバカー。ママ、何でパパと結婚したの?」
急な質問に二人で顔を見合わせてしまった。蓮がそっと微笑む。あの時は本当にいろんなことがあった。もう一生恋なんてできない、そう思ったこともあった。こうやって蓮と幸せな生活を送れているなんて夢みたい。
「それはね…」
第一章
1
「あーあ。嫌だなあ。」
「芽衣なら大丈夫やって。すぐ馴染める。」
「だと良いんやけど…。」
大学1年の冬、アルバイトしていたカラオケ店が潰れ、同じ系列の違う店舗に異動することになった。慣れ親しんでいた所から全く知らない所へ。正直、気が重かった。
「まぁ合わなきゃ辞めたら良いし。」
「せやで、どうせアルバイトなんやし。」
「あっ、そろそろ時間。行ってくるね。」
今度の店は梅田の中心地。店の前まで行くのも一苦労。やっと着いたのは良いもののなかなか入りづらい雰囲気だ。ひとまず気合を入れ、思い切って店に入った。
「いらっしゃいませ。」
「あ、あの…今日からここで働かせていただきます、桐谷芽衣です。」
「あー、桐谷さんね。お待ちしておりました。僕はアルバイトの神谷蓮です。よろしくね。」
「はい。よろしくお願いします。」
「じゃぁ、とりあえず着替えてきて。」
「わかりました。」
更衣室に案内してもらい、着替えて下に降りるとスタッフがみんなで待っていてくれた。
「今日からここで働かせていただきます、桐谷芽衣です。よろしくお願いします。」
「こちらこそ。店潰れちゃって大変やったね。」
「芽衣ちゃんって可愛い名前。」
「あ…ありがとうございます。」
みんな良い感じの人ばっかりだし、ここだったら大丈夫かも。そう思いながら仕事を終え、家に帰った。
2
「それでね、神谷さんと砂川さんがめっちゃ変やねん。テンション高いし、やることがほんまアホ。」
「芽衣、最近本当に楽しそうやな。最初は嫌がってたくせに。」
「だってみんな良い人なんやもん。」
「たまには俺とも遊んでや?」
「ほとんど毎日一緒にいるやん。」
「それもそうやな。」
矢上純平とは友達の紹介で知り合い、もう付き合って1年になる。私は大学生だけど純平は浪人生。しかも二浪が決まっている。それが今の私の悩みの種でもある。
「それより勉強はしてるの?」
「してるよ。」
「ほんと?またゲームばっかりしてるんやろ。」
「あはは、バレてる。芽衣には何でもお見通しやな。」
「笑いごとやないの!もう、はよするで。」
「わかった、わかった。」
ふいに唇が重ねられた。
「もう、勉強する気ないやろ。」
「うん。」
こうなることはわかっていた。ここで止めることができれば良いのだが、私だって勉強はしたくない。結局毎回ほとんど勉強せずに遊んでしまっていた。
私がいるから受験失敗したんじゃないかと心配し、純平に言ったこともあったが、純平は自分が勉強しなかったからだって言っていた。そう言われても心のどこかでは自分のせいだと思っている私がいる。純平のことは本当に好きだし、一緒にいたい。でも一緒にいれば迷惑をかけてしまうのではないか。不安ばかりを感じ、最近では一緒にいても楽しめなくなってしまっていた。
「そろそろバイト行ってくるね。」
「頑張って。」
今日も結局ほとんど勉強せずに寝てしまっていた。本当に大丈夫なのかなぁ。
「桐谷さんって他にもバイトしてるんだっけ?」
ぼーっとしていたから急に声をかけられてびっくりして振り返ると神谷さんがいた。
「あれ、どっか行ってたんじゃなかったんですか?」
「さっき帰ってきたやん。」
「気付かんかった…バイトしてますよ。塾の先生。」
「へぇー。じゃあ頭良いんや。」
「そんなことないです。」
「高校どこやっけ?」
「M高校ですけど…。」
「M高校ってトップ校やん。まじで?信じられへん。」
「それどういう意味ですか?」
「えっ、そういう風には見えへんってことや。」
「ひどっ。まぁその方が嬉しいですけど。」
「何で?」
「頭良いって見られるの嫌なんです。」
「変わってるな。ええことやと思うけどなぁ。まぁとりあえず今日からあだ名先生な。」
「えっ?」
「だって先生してるんやろ?」
「まぁしてますけど…。」
「そや、先生、今度ドライブ行こうや。」
「早速…って、えっ?ドライブですか?別に良いですけど。」
「ほな来週の火曜、バイト終わってからな。」
「夜ですか?別に良いですよ。誰が行くんですか?」
「二人で。嫌?」
「いや、別に良いですけど。」
純平には悪いと思ったけれど、この時少しドキドキしてしまっている私がいた。純平と付き合ってかあら、純平以外の男の人に遊びに誘われたのは初めてだった。これが、後に大きな事件を引き起こすきっかけになるとはこの時は思いもしていなかった。
3
火曜日の夜、バイト先の近くのコンビニで神谷さんと夜中の12時に待ち合わせをした。少し早めに着いたので中で雑誌を立ち読みしながら待っていると、10分後に神谷さんからメールが届いた。
『もうすぐ着く。外で待ってて。』
外に出て少しすると、シルバーのフィットが目の前で止まった。すると、ゆっくりと窓が開けられ、中から神谷さんが顔を覗かせた。
「お待たせ。乗って。」
「あっ、はい。」
今までに同い年の男の子としか付き合ったことのなかった私は、ドライブに行くのが初めてだった。そのせいだけではなかったかもしれないが、私の胸は高鳴っていた。
「どこ行くんですか?」
「着いてからのお楽しみ。」
「えーっ、気になるじゃないですか。まぁ楽しみにしてます。」
目的地に着くまで、いろいろな話をした。最初はバイトの話だったが、好きな人のタイプだとか、今までどんな恋愛をしてきたかだとか、あまり今まで話したことのない話もたくさんした。
「俺、実は1回就職して辞めてるんだよね。」
「何か理由があったんですか?」
「居酒屋で社員として働いてたんだけど、どうしても諦められない夢があって。」
「夢って何なんですか?」
「映画に関係する仕事をしたいんだ。仕事辞めてそのために学校にも通ってたんだ。もう少しお金を貯めて、もう1回就職活動しようと思ってる。」
こう話した神谷さんの目は本当に輝いていた。自分の夢を語る時、人はこんなに活き活きとした表情をするものなんだなと感じた。正直、自分の夢を真剣に語っている神谷さんがすごくかっこ良く見えた。
「着いたよ。」
山の中を走り出して約30分。降りて歩いて行くと道が光っていた。上を見上げると満天の星空。いつもなら見えないような小さな星までくっきり見えた。
「すごい!めちゃくちゃ綺麗ですね。」
「まだまだ、こんなものじゃないよ。」
もう少し歩くと、無数の光が広がっていた。高速道路を走る車のライト、ビルやマンションの明かり。思わず息を呑んだ。
「えっ…これ…綺麗すぎません?」
「凄いなぁ。実は俺も初めて来たんだよね。」
少しの間、その景色に無言で2人とも見とれていた。沈黙を破ったのは神谷さんだった。
「寒くない?」
「少し。」
「これ貸してあげる。」
そう言ってマフラーを私の首に巻いてくれた。そんなこと今まで男の人にされたことがなかったからすごく恥ずかしかった。でもそれを知られたくなくて、そっけなくお礼を言った。また、無言で景色を見ていると急に後ろから抱きしめられた。私の胸は大きく高鳴った。
「どうしたんですか?急に。」
平静を取り繕うのに必死だった。聞いてしまったらだめだと自分でわかっていたのに、どこかでその答えを聞きたい私がいた。
「俺、芽衣ちゃんのことが好きになっちゃった。彼氏がいるのはもちろん知ってる。でも本当に好きなんだ。俺じゃだめかな?」
わかっていたはずなのに、ハッキリと言われてしまうと返す言葉が見つからなかった。口を開こうとしたその瞬間、またしても塞がれてしまった。拒むことはできたはずなのに、体が動かない。頭の中で天使と悪魔が言い争っていた。だめだとわかっていてもどこかで喜んでいる自分がいた。
何の返事もしないままその日は帰路に着いた。
4
あの日から一週間が経った。毎日純平には会うが、後ろめたさを感じいつものように接することができない。バイトに行けば神谷さんにも会う。以前にも増してよく話しかけてくるようになった。
正直、私の心は大きく揺れていた。自分の気持ちがわからない。あんなに純平のことが好きだったのに、今では気付くと神谷さんのことを考えている。
今まで付き合った人は、どちらかと言えばおとなしい人ばかり。自分からリードしたり引っ張って行ったりしてくれる人はいなかった。それなのに、強引にキスされてしまったのだ。気になっても仕方がない。そう自分に言い聞かせ、好きだという思いを打ち消そうとした。
しかし、日を追うごとに募るのは神谷さんへの気持ちだった。
ある日、振られる決心をし、全て純平に打ち明けることにした。黙っていても相手を傷つけるだけ。もちろん言えば、傷つけることになるのだが、秘密にしておくことが嫌いな私は耐えることができなかった。
その日は私の20歳の誕生日でもあった。
「そういうことになっちゃったんだ。本当にごめんなさい。」
「…」
「謝っても許してもらえることじゃないよね。こんな女最低だよね。」
「…」
何を話しても純平は無言だった。実際は2、3分だったかもしれない。しかし、その時の私には何時間にも及ぶ長い時間のように思えた。
「別れよう。…そう言ったら満足?」
「えっ…?」
「俺はどんなことがあっても芽衣のことが好きなんだ。芽衣はどうなんだよ。」
「私は…」
言葉に詰まってしまった。本当は完全に神谷さんに気持ちが傾いてしまっているのにそのことを正直に言うことができなかった。本当に私はずるい女だ。自分のことしか考えていない。好かれていたい。その気持ちが本当の気持ちを表に出さないようにさせていた。
「わからない…。自分の気持ちがわからない。でもこんな気持ちで純平と付き合ってるのが本当に申し訳なくて…。こんな最低な女じゃなくてもっと良い人見つけて幸せになってほしい。」
「俺は芽衣じゃなきゃ嫌なんだって。」
「でも…。」
「そんなにそいつが気になるんだったら、ちょっとの間付き合って来れば?その代わり絶対に俺の元に帰ってくるっていう約束で。」
思いがけない提案に頭は混乱していた。しかし、心は弾んでいた。そんな願ったり叶ったりな提案をされるとは思ってもみなかったからだ。できるだけ平静を取り繕った。
「ほんとに言ってるの?それで良いの?」
「良いよ。その代わり、絶対に俺の元に戻ってくる。約束できるな?後、メールも今まで通り毎日返すこと。」
「わかった。」
次の日、純平とはキッパリ別れたことにし、神谷さんと付き合い始めた。
第二章
1
あの日から2か月。遅めの梅雨が雨を降り続かせていた。蓮の態度は付き合ってから急に冷たくなった。ちょっとでも機嫌が悪くなれば置いて帰られるし、常に合わせていなくてはならない。別れれば良いのだが、バイトが一緒と言うこともあり、何となく別れを切り出しにくい。普段は冷たいが、ふと見せる優しさが嬉しくて別れようという決心にブレーキをかけていた。
純平とも毎日メールは続けている。というか続けなければならない状態が続いていると言った方が正しいかもしれない。メールを少しの時間でも返さなければ、たちまち電話の嵐。これでは付き合っている時よりも連絡を取るようになっている。
一応別れたことになっているはずなのに、1か月に1〜2回は必ず会わなければならない。それもだんだん負担となってきていた。
蓮と一緒にいる時も連絡を取り続けなければならない。もちろんできるだけ少なくしているつもりである。誰だって2人でいる時に携帯ばかり見ていられれば不愉快になるものだ。また、見られると必ず何かを言われると思ったので、着信履歴やメールは全て削除していた。
そんなある日、たまたまメールをしていた時に蓮が相手を聞いてきた。咄嗟に友達と嘘を付いてその場は逃れた。
その後、一緒に携帯で撮った写真を送ってほしいと蓮に言われ、送ろうとすると、自分で送ると携帯を取られてしまった。メールなどは全て削除していたので、別にそれにはかまわなかったのだが、1つ見落としていたことがあった。
蓮は送信履歴からメールを送ったのだ。私の携帯は送信したメール自体は消せるが、送信履歴は消せないようになっている。普段送信履歴からメールを作ることがないので、それに気付かなかったのだ。
「さっき誰とメールしてたって?」
「友達やって。」
「純平って元カレじゃないん?」
「連絡とってないし。」
「じゃぁこれは何?」
それを見た瞬間完全に言葉を失ってしまった。周りの音がどんどん遠のいていく。必死で言い訳を考えようとしたが、何も思い浮かばなかった。
「ごめんなさい。」
「別に謝ってほしくなんかない。」
「メールしてるの知ったら嫌がるかと思ったから。」
「別に嫌がったりせえへんわ。別に元カレやねんから関係ないやん。それより、俺は嘘を付かれたことの方がショックやわ。」
蓮に隠していることへの後ろめたさがどんどん募るばかりであった。
2
それからまた2か月が経ち、蓮への気持ちは前以上に膨らむばかりであった。相変わらず態度が冷たいことは多いが、それでも以前よりは優しくなった気がする。
しかし、純平とは未だに曖昧な関係が続いている。メールや電話だけでは良いが、会うとなるとただ会うだけでは済まされない。了承しなければ、即刻蓮と別れろと脅しをかけられる。
そんな状態に持ち込んだのは私自身だが、どうしても純平と完全に別れたかった。しかし、別れ話を切り出そうとすると、
「芽衣と別れたら俺死ぬわ。だって他に友達もおらへんし、生きてても楽しくないやん。」
と言われてしまう。普通の人なら冗談にも取れるが、純平の場合は冗談には取れない。性格的に殻に籠ってしまうことが多く、一度取り乱すと何をしかねるかわからないからだ。
蓮への気持ちが膨らむ度に、罪悪感も膨れ上がる。もう限界に近づいていた。
ある日、中学の仲良し5人組で飲み会を開くことになった。どんなことでも話せる5人組だが、さすがにこのことは言い出しにくく、誰にも話してはいなかった。女5人で話していれば、必ず話題に上がるのが恋愛だ。そこで私は全てを打ち明けることにした。話をするうちに自然に涙が溢れてくる。私が人前で泣くようなことは滅多にない。他の4人はその様子を見て完全にうろたえているようだった。
「うちはどっちとも切った方が良いと思う。どっちと一緒におっても芽衣が幸せになれへん気するから。」
「でも蓮のことはほんまに好きやねんで。」
「でも隠したまま付き合うのはしんどいし、純平とは切られへんのやろ?」
「あんな風に言われたらどうしたらいいんかわからんくなるねん。」
「それやったら別れる覚悟で全部蓮さんに話してみたら?それで許してくれるなら何があっても芽衣のこと守ってくれるって。」
その言葉を聞いて私の心は揺れた。蓮が許してくれればいいが、許してくれなかった場合どうしたら良いんだろうか。しかし、最初から別れるつもりで始めた付き合い。この状態にしてしまったのは自分自身なんだから、どんな結果になろうとも受け止めなければならない。
「…そうしてみる。」
その夜、覚悟を決めて蓮に電話をした。
「今日、夜勤だよね?終わった後、ちょっとで良いから時間取れないかな?どうしても話したい大事な話があるの。」
「わかった。じゃあ7時に店の近くに来て。」
不安だらけで結局その夜は一睡もできなかった。
3
次の日の朝、蓮と待ち合わせて24時間営業の居酒屋に行った。朝ということもあり、客はほとんどいない。最初は今日のバイトについて話していたが、蓮が急に話題を変えた。
「んで、話って何なん?」
「…実は…純平と完全に別れられてないねん。」
そこから全てを打ち明けた。蓮は何も言わずにただ聞いているだけだった。全ての話を終えた後、蓮がずっと閉ざしていた口を開いた。
「それで、芽衣はどうしたいん?」
「どうしたいって…許してくれるなら蓮と一緒にいたい。蓮のことが好きだから。」
「純平とは?」
「きっぱり別れる。」
「今までできなかったのに?」
「何があっても別れる。どんな風に言われてももう動じない。」
「わかった。もう嘘は付かないな?」
「付かない。嘘を付いても辛いだけだから。」
すると、一通の手紙が差し出された。
「読んで良い?」
「良いよ。」
『芽衣へ
出会ってから7か月、もうすぐ付き合って5か月になるね。
いつも仕事ばかりでかまってあげられなくてごめんね。後、冷たい態度ばっかりとってごめん。
俺、好きな人には冷たく当たってしまうみたい。
これからは気を付けるようにします。仕事ばっかりじゃなくてもっと一緒にいられるようにもするからね。
寂しい思いばかりさせてごめん。
これからも大好きな芽衣と一緒にいられますように。 蓮』
涙が溢れだして止まらなかった。こんなにひどいことをしていたのに、蓮は私を想っていてくれた。そして、こんな私を許してくれた。
「ありがとう。ほんとにありがとう。」
「もう泣くなよ。もう怒ってないから。」
涙は流れ続けた。
4
数日後、純平と連絡を取り、会うことにした。別れの切り出し方も考えた。普通に別れたいと言っても許してはもらえない。そこで純平とも蓮とも別れて、夢に向かって真剣に頑張りたいこと言うことにした。嘘を付くことにはなるが、そうでもしなければ今までと同じことを繰り返すだけだ。
2人で行きつけのカフェに入り、いつものように話をした後、別れを切り出した。
「純平、あのね…別れてくれないかな。」
「今も別れてることになってるやん。」
「そうじゃなくて…」
「…何で?蓮って奴とくっつくため?」
「そうじゃない。蓮さんとは別れたの。」
「どういうこと?」
「真剣に夢に向かって頑張りたいんだ。今までみたいに中途半端にやってたんじゃ叶う気がしないから。」
「…」
「勝手なことだってわかってる。約束も破ることになる。ほんと最低だよね。ごめん。」
「最低なのは芽衣があいつと遊びに行ったときからわかってたこと。良いよ。俺には芽衣の夢まで奪ってしまう資格はない。」
「純平…ほんとにごめん。ありがとう。」
「良いよ。頑張ってな。俺も受験頑張るから。また気軽に遊べる仲でいような。」
「うん…。」
「どうした?何か変なこと言った?」
「いや、何もない。」
意外とあっさり受け入れてくれた。嘘を付いたことに多少心は痛んだが、信じてくれたようだ。あんなに悩んでいたものが無くなって、ふっと力が抜けた。
純平と別れた後、蓮にメールをした。
『ちゃんと別れたから。ほんとに今までごめんなさい。』
第三章
1
純平と別れてから半年近く経とうとしていた。季節は巡り、例年よりも寒い冬を迎えようとしていた。蓮は急に優しくなり、一緒にいることも多くなった。本当に楽しい日々の連続だった。
蓮はバイトから責任者になり、仕事も一層忙しくなったようだ。そんな中でも、休みの日は必ず会うようにしてくれていた。
ある日、蓮が急に北海道に行こうと言い出したので、2泊3日で行くことにした。
その日の朝、空港で待ち合わせをしたが、搭乗時間が近づいてきても蓮は来なかった。バス乗り場がわからなくて迷っていたらしい。ギリギリにかけこんで何とか飛行機には乗ることができた。
しかし、飛行機でも現地に着いてからも、蓮の態度は冷たかった。最初は朝早くて眠いから機嫌が悪いだけだと思っていたが、昼になってもずっとそんな態度を取られているので私も我慢できなくなってしまった。
「何かあるなら言えば?」
「別に。」
「もう良い。」
いろいろな所をまわることにしていたが、結局ホテルで休むことにした。蓮は一人でどこかに行ってしまい、私は部屋で一人休んでいた。ぼーっとしていると、急に涙が溢れてきた。
「何で北海道に来てまで喧嘩しなきゃいけないんだよ…。」
しばらくすると、蓮がお酒とお菓子をたくさん買って戻ってきた。
「ごめんな。ずっと冷たい態度取って。…俺、芽衣に嫌われたかったんだ。」
「どういうこと?」
「別れてくれないかな。」
頭の中が真っ白になった。蓮と別れることなんて考えたこともなかったし、まず理由がわからなかった。
「…どうして?」
「俺、責任者って仕事もっと頑張りたいんだ。そのためにはバイトみんなを平等に見なければならない。でも芽衣がいたら、やっぱり平等には見れないだろ?」
「じゃあ、私がバイト辞めれば良い話やん。」
「それは許さない。」
「何で?」
「そんなんで辞めるとか言う奴と付き合った覚えはない。」
「意味わかんない。…何でそんなこと急に言い出すんよ。」
「ずっと悩んでたんだ。芽衣のことはほんとに好きだよ。でも今はどうしても仕事を頑張りたいんだ。」
そんな風に言われて、返す言葉が見つからなかった。本当は別れるなんてしたくなかったけれど、仕事を頑張りたいと言っている蓮を引き留めることはできなかった。
「わかった。でも旅行終わるまでは良いよね?」
「もちろん。」
そこからの2日間、私たちは最高に楽しい思い出を作った。
2
北海道から帰って来て、普通の生活に戻った。しかし、私の心にはぽっかり穴が開いてしまったようだ。何を見ても、何を聞いても感情が湧きあがらない。蓮を失ってしまった悲しさだけが心に残っていた。
バイトに行けば顔を合わす。前にも増して蓮は頑張っているように見える。連絡も付き合っていた頃とほとんどかわらず取り合っていたが、気持ち的なものが違うので寂しさは募るばかりだった。
一週間ほど経った頃に、蓮から『今日会えない?』とメールが来た。嬉しくてしょうがなかった。すぐにOKの返事をした。
その日の夜、車で迎えに来てくれ、近くの駐車場で話をした。
「急にどうしたん?」
「ちゃんと芽衣に話したいことがあって。」
「ん?」
「実はな、俺気になってる人いるねん。」
「えっ…?」
「その人とな、実は付き合ってるねん。」
「…いつから?」
「芽衣と旅行行くちょっと前から。」
「じゃあそのために別れたんや。」
「…ごめんな。こんな気持ち初めてやねん。芽衣のことも本気で好きでその子のことも好きで…どうしたら良いかわからんかった。」
「でも結局はその子を選らんだんでしょ?」
「今は…その子と一緒にいたい。どうなるかはわからんけど。」
「じゃあ、私と付き合う可能性は…?」
「わからない。」
「そんなん言われたら待つよ?」
「それはだめ。芽衣にはもっと良い人とちゃんと付き合ってほしい。」
「…」
私も以前は蓮と同じ状況に置かれていただけに何も言えなかった。蓮の気持ちが痛いほどわかった。
「わかった。でも今までみたいに仲良くはしてね。」
「もちろん。芽衣が良いなら遊びに行ったりもしよう。」
「うん。」
帰路に着いた後、その時は堪えていた涙が溢れだして止まらなかった。
3
それからも月日はどんどん流れて行った。蓮への気持ちは捨てきれないまま、他の男の人とも何人か付き合った。しかし、本気で好きになれる人は一人も出てこなかった。そんな自分に嫌気がさし、自然と付き合うことにも臆病になっていく自分がいた。
あの時から2年が経ち、私は岡山のテレビ局に入社した。小さい頃からの夢を果たしたのだ。そのことを久しぶりに蓮と連絡を取り、告げた。ほんとに自分のことのように蓮は喜んでくれた。
またそれから3年の月日が流れた。仕事の忙しさから蓮のことを想う気持ちは日に日に薄れていっていた。遅めの夏休みをもらい、久しぶりに大阪に帰ることにした。
帰って梅田をぶらぶら散策していると、見覚えのある顔を見つけた。蓮だ。
「蓮!久しぶり。」
「…芽衣か?久しぶりだな。岡山に行ったんじゃなかったのか?」
「うん。夏休みをもらってちょっとの間戻ってきてるんだ。」
「そうか。じゃあ久しぶりに飲みにでも行こうよ。」
「良いよ。基本予定はないから。」
「じゃあ明日の夜は?」
「わかった。」
久しぶりに会った蓮は何も変わっていなかった。ずっと抑えていたはずの気持ちがまた溢れだしそうになっていた。
次の日、よく2人で行っていた居酒屋に飲みに行った。何年もの積もった話を2人は永遠と話し続けた。
「芽衣、今彼氏は?」
「いないよ。蓮は?」
「いない。」
「えっ…?」
不意に胸が高鳴るのを覚えた。
「前言ってた子とは別れたんだ。4年ぐらい一緒にいたんだけど…。ほら、俺わがままだろ?とうとう愛想つかされちゃったみたい。」
「そうだったんだ。」
それからも何気ない会話をしていたが、どこかで期待してしまっている自分がいるのを感じた。
何事もなくその日は別れたが、岡山に戻ってからも、蓮とまた以前のように連絡を取るようになっていた。岡山にも何度か遊びに来るようになり、自然とまた私たちは付き合うようになった。
そして、1年後私たちは結婚した。
エピローグ
「じゃあママはずっとパパのことが好きだったんだ。」
「そうだね。ずっと好きだった。」
蓮をじっと見つめると、少し照れたような顔をしていた。
「ごめんな。」
「良いの。今がこーんなに幸せだから。」
3人で手をつないでまた歩き出す。少しひんやりする心地よい春風が吹きぬけて行った。
〜1〜
「――ちゃん、おはよ。」
真っ暗な世界に、朧げに響く声。聞こえてきたその声で目が覚めた。
「朝だよきぃちゃん。今日は晴れてるよ。」
目を開けると、目の前には声の主の笑顔。毎朝こうやって起こして、天気まで教えてくれる。出来た女だ。
空模様を告げてから、女は部屋を出て、30分ほどかけて朝食なり洗面を済ませて戻ってくるんだ。その間は、三ヶ月経って習慣になってしまった、部屋の見渡しをしている。
今日の朝日は伸びがいいだとか、部屋の隅にある青々とした観葉植物をじっと見つめたり、机の上を見て、新しい本が増えていたり、そういう他愛もない事だ。ただし、窓の方は直視しないようにしている。そうこうしているうちに、30分なんてすぐに過ぎるんだ。ほら、もうじき戻ってくるぜ。
「きぃちゃん、ご飯ここに置いとくね。」
いつもすまないね。と、言いたいところだが、朝食は食べない主義なんだ。いつも手をつけないままだ。
「みやびー、遅刻するわよぉ。」
「はぁーい!!」
階下から母親が呼びかけた。今日はちょっと起きるのが遅かったらしい。昨日夜更かしして月なんかみてるからだ。
雅は革の鞄を背負い、こちらに向き直った。
「…きぃちゃん、雅の夢を叶えて下さい……。」
手を胸の前で合わせ、目を閉じて雅は夢を思い願った。頭の中に、雅の願いのビジョンが沸々と湧いてくる。
暗い空間に、真っ白な服に身を包んで浮いている雅。その顔は笑顔に満ちている。
「じゃあきぃちゃん、いってきます!!」
そう言い残して、雅は慌ただしく部屋を出ていった。今度は30分どころじゃなく、9時間くらい帰ってこない。
…何故って、小学校っていうのに通ってるかららしい。あ、漢字ドリル4…宿題忘れていったな、あいつ。
「宿題忘れた!!」
バタバタと部屋に駆け込み、ドリルを鷲掴んで出ていった。…これでまたしばらく部屋に静寂が戻ってくるはずだ。
そもそも、おいらは「きぃちゃん」じゃない。キイロイケウチって立派な名前があるんだ。だが雅はおいらのことをそうやって呼ぶ。他にも「キイチ」とか「きぃえもん」とか候補があったみたいだが、そんなのおいらには関係ない。あ、やっぱり「きぃえもん」はちょっと嫌かもしれない。
人はおいらの事を「夢を叶える蝶」って呼んでる。と言っても、おいらにそんな力があるだなんて到底思えない。だいたいおいら、まだ蛹だぜ?夢を叶えるには大人にならなきゃいけないのに。…おいらは大人になんか…蝶にはならない。雅には悪いが、おいらは蝶にならずに死んでいくんだ。
あいつも、おいらなんか買わなきゃ良かったんだ。中途半端に夢を見るくらいなら、初めから現実を見てた方が、余程将来の為になるってもんだ。それについこの前、学校で友達に『えー、なに?蝶飼ってるとかきもーい。』って言われたんだろ?とっととおいらを手放せばいいんだ。あ、でも蝶を飼うこと自体は全然キモいことではないと思う。おいらが言うのはなんだけど。
そんなことを考えながらおいらは青い屋根の虫かごの中から、雅の声が聞こえてくる、窓の方を見た。
おいらは、あの窓の向こうの世界にいたんだ。
〜2〜
雅と出会ったのは今から三ヶ月くらい前――そう、まだ少しじめじめしてた頃だ。
あの日おいらは育ての親に売られてたんだ。別に恨んだりしてないさ。みんなそうやって巣立っていったからな。うん、星が綺麗な夜だったんだが、嫌な予感もしてたんだ。まぁおいらは蛹になる前のことはあんまり覚えてないんだけどな。
あの日おいらは、今住んでいる虫かごよりもっと小さな、透明な瓶の中にいた。だけど、ガラス一枚を隔てて見る外の世界は、おいらにはあまりに壮大で、刺激的だった。
売りに出されたのは、雅に買われる前日からだった。丸一日外の世界を、朝から晩まで見てるとなんだかすごく怖くなったんだ。いや、おいらがビビりとかそういうのではない…はず…なんだけど。ともかく、たったあの一日で幾つもの命がおいらの目の前で消えていった。
そりゃあ人間がバタバタ死んだわけじゃないし、そんなの、おいらには関係ない。弱肉強食の、自然の摂理を目の当たりにして、次はおいらの番かもしれないって思ったんだ。
ただの蝶々は馬鹿だから、まんまとカマキリに騙されて食われてた。簡単にひらひらしてるから、あの鋭い鎌でざっくりやられちまうんだ。…でも…そのカマキリも、鳥に咥えられて飛んで行った。何もしてないのに、急に鳥が降ってきて、気付かないうちに鎌が下に落ちてたんだ。他にもおいらはよくわからないけど、やたらワンワンうるさいやつがいて、そいつは強いのかと思ってたら、何だかすごく速いものにぶち当たられて、血だらけになって死んじまった。
この時点でもう、なんだか色々嫌になってきてたんだ。
それなのに夜になると、蝶々でもないくせに、煮しめみたいな色の蛾がおいらがいる瓶の前を我が物顔でばっさばっさ飛んでやがった。気分が悪いというのに、おいらの中で苛立ちが膨らんでいった。偉そうにこっちを向いてにやにやしてたと思ったら、バチッて青い光にぶつかってあっけなく死んでいった。ざまぁみろ。これだけは、怖いって気持ちに勝ってたかもしれない。でも、あの青い光には触れただけで死んでしまうらしい。一体何なんだろう。外の世界にはおいらの知らないことが山ほどある。しかも、そのどれがおいらの命を奪っていくかもわからない。息をしている間に、あっけなくお陀仏してる可能性だって十分にあり得る。
でもおいらは蛹でいるかぎり、ずっとこの閉鎖されたガラスの内側で、安心して死に向かっていけるんだ。
何で死んだかもわからないような、そんなことは絶対にない。
だからおいらは、絶対蝶になんかならねぇ。
第一、おいらはただの蛹だし、人間の夢を叶えられるわけがないんだ。仮に叶えることができたとしても、他人の夢のために、おいらが早死にする必要はないはずだ。おいらに、夢を叶える力はないんだから。
だからおいらは、雅に買われた時、ほんのちょっぴり罪悪感に浸った。
雅はやたらとキラキラした大きな目で、夢を叶える力なんてないおいらがいる瓶を覗き込んできたんだ。おいらがいる瓶を手にとって、あらゆる角度からおいらを見てきた。
「この蛹いくらですか?」
「ん?1200円だよ。」
黒い帽子を深く被った育ての親が、しゃがみ込んで雅と同じ目線で喋っている。
「う〜ん…。」
いいぞ、その反応は金を持っていない奴の反応だ!!
その時おいらは、買われなくて済むと思って浮かれていた。育ての親の言葉を聞くまでは。
「いいよ、お嬢ちゃんにはただでアゲル♪」
「ほんとに!?やったぁ!!ありがとうおじ、おにぃ…あれ、お姉さん?ん?」
「どれでもいいよ。さ、もっておいき。」
…愕然とした。
おいらただかよ。ってか今まで他の奴には売るの渋ってたじゃねぇか。だいたい、売ってるやつが男か女かすらよくわからなくて女の子が混乱してるだろうが。全く、世の中何がどう転ぶかわからない。
育ての親は、おいらが入っている瓶を少女からもらいうけ、瓶の首に、タンポポみたいな黄色いリボンをくくりつけた。おいらの視界に、ちらちらとそのリボンが入り込む。
「この子の名前は、キイロイケウチっていうんだよ。大事に育ててやってね。」
ラッピングを終えたおいらの住まいが少女の手に渡った。
「あとこれ、育て方の説明書。この子たちは普通の蝶々じゃないからね。頑張ってお育て。」
「うん、ありがとう!私雅っていうの。よろしくね、キイロイケウチ!!」
そうして笑顔の少女に、おいらは連れて帰られた。
去り際に育ての親をちらっと見たが、ほんの少し笑いながら、こちらに手を振っていた。
雅がおいらを連れて家に着くころには、大粒の雨が降り出していた。
昼間なのに真っ暗で、雷の音が響いて怖かったけど、あの時雅が着ていた真っ白なワンピースがふんわり揺れるのを見て、ちょっと気が和らいだのは、気のせいじゃなかったと思う。
〜3〜
ある日、今日は小学校が休みらしく、部屋の主が朝からずっとおいらを観察していた。
雅はベットの上に寝転がりながら、虫かごに入っているおいらをじろじろ見てくる。時折窓から入り込む風に、下ろした髪を乱されては少し鬱陶しそうに直しながら、虫かごの角度を変えていた。だったらいつもみたいにおさげにしておけば邪魔にならないのにとは思いつつも、おいらは何も言わない。
秋晴れの天気など気にもせず、雅は部屋に篭っている。おいらが言うのは可笑しいが、子供は外で遊ぶべきだ。外に飛び出して、この前おいらに自慢してた、縄跳びってやつをしてくればいいんだ。得意技の、何だったっけ、あぁ、あの恐ろしい鳥の名前のやつ、そうだった、隼の練習でもしてこい。どれだけ見つめても、おいらが蝶になることはないんだから。
「雅、お昼食べないの?」
「えっ、もうそんな時間?」
雅が手にしているおいらの虫かごが大きく揺れた。うえっぷ…。
本人は全く気付いていなかったが、少し前から母親が雅のことを呼びに来ていたんだ。母親は普通にノックだってしていたし、ドアを開けても気づかないくらい、雅はおいらのこと見てたんだ。…ちょっとくらい気づけよ。
「まったく、いつまでたっても羽化しない蝶々ばかり見て…。」
ちらっとおいらのほうを見ながら、雅には聞こえないくらいの小さな声で呟いた言葉は、至って正論だと思う。けれども、夢見る少女の前で、聞こえないなりにもそんなんことを言うのもどうかと思うのも事実だ。まぁ、その原因はおいらなんだけど。
「お父さん待ってるんだから、早くしなさいね。お母さん先行くわよ。」
「まってー!今行きまーす!!」
素早く枕元の目覚まし時計を確認すると、おいらをもとの棚の上にそっと戻し、またあのきらきらした大きな目で虫かごの中を覗きこんだ。
「きぃちゃん、ご飯食べてくるね!きぃちゃんは何か食べたいものある?」
ない。
「そっか。じゃあ晩ご飯までいらないね。」
母親からの催促に応じるように、雅はばたばたと部屋を出ていった。
えっ?おいら雅と喋れるのかって?喋れるわけないだろ。人間においらたちの声はわからないんだぞ。でもさっきのやり取りは単なる偶然じゃない。おいらが雅にテレパシィを送ったんだ。こっちからの一方的な発信はできるんだ。だけど人間はただ喋ってるだけ。おいらたちが受け止めてやらないと、単なる独り言なんだ。
「おや?こんなところに小生の同朋がいるじゃないか。」
ようやく観察地獄から解放されたと思ったら、久しぶりに同族の声をきいて驚いた。気配が一瞬つかめなかったが、声の方を確かめると、視線は窓際のカーテンレールの方を向いた。
「窓が開いていたものだからお邪魔してみれば、思わぬ出会いだよ。」
そいつはひらひらと星の模様がついた翅で舞いながら、おいらの虫かごの前まで飛んできた。
虫かごの前に着くや否や、星翅をたたみ、ちょっとかしこまってこちらを向いた。
「小生はタニアゲハ。チャームポイントはこのふっさふさの触角さ。綺麗だろう。」
今更だけど……ピンク色かよ!
タニアゲハとやらはご自慢のふさふさの触角を撫でながら身嗜みを整えだした。触角の手入れが済むと、今度は翅の模様が見えるように体の向きを変えて、そのふわふわで翅を指した。
「見たまえ、この美しい両翼を。ところで君はまだ成体にならないのかい?えぇと…」
「キイロイケウチです。」
「あぁ、キイロイケウチ君。よろしく。」
自慢の触角を片方曲げ、プラスチックの壁越しにおいらに握手をしてきた。当然おいらは蛹だから、その握手には応じられないんだが。
「それにしても、君の蛹は良い色をしているね。萌える若き命の黄緑じゃないか。ますます成体が楽しみだよ。」
「そんなことないよ。おいらが黄緑なのは、葉っぱに隠れやすいからだ。それにおいらは、成体にはならないぞ。」
「けれども、成体にならなければ飼い主の夢を叶えることができないだろう?」
「だって…夢を叶えてやったら……おいら死ぬだろ…?」
そうだ。どれだけ考えても、罪悪感を感じても、やっぱりおいらは自分の命が大事だ。
「それは、わからない。」
「えっ?」
「小生も、かつては君と同じ立場だったよ、キイロイケウチ君。」
「でも、あんた生きて…幽霊?」
「いいや、小生は正真正銘生きている。見てごらんよ、幽霊だったら、こんなふわふわな触角なんて持てっこない。」
はたしてその辺はよくわからないが、確かに、今おいらの目の前にいるピンク色の”ふぁんしー”な成体は虫かごの透明な壁に、もふもふと触角を押しつけながら、自らの生を主張した。タニアゲハは生きている。
「じゃあ、あんたは夢を叶えずして成体になったってのか?」
「馬鹿言っちゃいけないよ、キイロイケウチ君。小生もちゃんと飼い主の願いを叶えたさ。」
「じゃあ、夢を叶えたら死ぬっていうのは…?」
「半分嘘、だね。」
タニアゲハは押しつけ続けていた触角を手前に戻し、その乱れを綺麗に整えながら何やら意味深に言った。半分って、どういうことだ?夢の種類によるのか?それとも、夢の大きさによるのか?はたまた一切関係なく、生きるか死ぬかが半々なのか?それとも…生まれた時から決まっているのか…?
「何をそんなに思い悩んでいるんだい?そんなこと、考えるだけ無駄じゃないか。」
虫かご越しに一際星が大きく見えたかと思うと、タニアゲハはピンク色の翅をはためかせ、またひらひらと部屋中を舞い飛んでいた。
「君は些か考え過ぎだ。大事なのは、どう生きるかじゃないのかね?小生たちのような者は、人間に比べて寿命は短い。けれどもそんな人間の一生を左右することができる力を有しているのが小生たちだ。わかるかい?」
「言っていることはわかるよ。」
「次いで問う。君は今自由かね、キイロイケウチ君?」
「自由?まぁ、自由だな。」
「本当かい?では、君は今すぐその虫かごの中から飛び出し、外の世界に行くことができるのかい?」
「それは無理だ。おいらは蛹だから動けないし、だいたい…外の世界は危険だ。」
あの一日でおいらが見たことは、あまりに壮絶だった。無知のおいらに死の恐怖を植え付けた。…今度おいらが外に出るとき…それは成体になって、雅のもとを去った時だ。その時は、もうおいらのことを守ってくれる透明な壁は存在しない。
タニアゲハが言いたいことは十分承知している。おいらたちには、自由がない。その自由を得るには、幾重にもある試練を乗り越えないといけない。生きるか死ぬかもわからない状態で、飼い主の夢を叶えて、おいらたちは翅を手に入れる。でもそれで終わりじゃない。翅を得たおいらたちが、その時点で飼い主のもとを離れて、自由になるとは限らない。飛び立てる翅を有しながらも、これまでおいらたちを守ってきた虫かごが、自由を奪う牢に変化するのだから。いつ自由になるかも知れない、自由になったとして、その分死に至る危険性は計り知れない。
「そんな多大なリスクを負ってまで、おいらは自由がほしいと思わない。」
「君は、外の世界をまだまだ知らないんだよ。」
そりゃ、おいらは一度しか外の世界に触れたことがないから、外のことは全然知らないさ。でも何故だか今、おいらの中でタニアゲハに対して、なんだか言い表せない気持がこみ上げてきている。こんな気持ちになったのは初めてだ。あいつをぎゃふんと言わせたいのに、蛹のおいらには、どうすることだってできやしない。ただじっと、この気持ちに耐えるしかないんだ。
「けれども君は思慮深く、頭がいい、キイロイケウチ君。」
タニアゲハはまたひらひら舞いながら、おいらの虫かごの方に戻ってきた。でも今度はおいらから見えない、虫かごの上に乗っているらしい。頭の上から、あいつの声が聞こえてくるんだ。それにおいらの上に、あいつの影がかかって暗いんだ。
「小生が蛹であった頃、果たしてそこまで考えていただろうか。いや、そんなことが言いたいんじゃない。…良いかい、キイロイケウチ君、君は今、あわよくばこのままの姿で死にたいと思っているかもしれないが、それはナンセンスだ。君のその頭脳があれば、もしかすると危険を回避できるかもしれない。そう考えたことはないのかい?」
そんなこと…考えたこともなかった。されるがまましかできなかったおいらに、そんな発想あるわけないだろ。
「君は単なる蛹じゃあないんだ。夢を叶える蝶、そして何よりも自由な存在になれる可能性を秘めているんだ。」
「でもおいらは…」
おいらが言い切る前に、さっきまで頭の上にいたタニアゲハがまた、目の前に来た。
今度は、顔をおいらの方に向けて。
「君はまず、自信を持つことから始めたまえ。君の頭脳ですれば、外の世界なんて大したことないだろう。現に小生は生きて君の前にいるのだから。」
確かに…こいつよりは生き残れるかもしれない…。
「そうだ、君に小生が見聞きした外の世界のことを君に話そうじゃないか。」
そう言いながら、タニアゲハはまた翅を広げ、飛び立つ準備に入った。
「そう、飼い主のいない時にでも。また、この小窓を開けておいてくれたまえ。」
がっちゃ、とノブをひねる音がした。おいらはタニアゲハから、ベットの上の時計に目を移した。
思っていた以上に時間が過ぎていた。そりゃあ雅も戻ってくる。
「君に会えて嬉しいよ、キイロイケウチ君。奇跡の源に挨拶したいところだが、そろそろお暇させてもらうよ。」
「きぃちゃん。…あれ?窓あけっぱなしだった。」
雅が部屋に入る直前、タニアゲハは窓から外の世界に戻っていった。
雅が窓を閉めた後、四角いガラスの向こうに、ピンク色の蝶がひらりと舞っていた。
おいらはしばらく、その舞い踊る姿に見とれていた。
あんなに危険な外の世界で、あんなにも美しく、優雅に舞っている。
一緒に行きたい、とはさすがに思わないけれど。
「きぃちゃん、寒くなかった?」
ちょっとあつい。
「え?そう?じゃあ、窓開けとくね。」
半分まで開けた窓から、傾きかけた太陽の光が入り込んでいた。
〜4〜
「きぃちゃん、おはよ…今日もちょっと寒いね。」
桃色の同胞との出会いから、早三日が過ぎた。連日天候はよろしくなく、朝の部屋の中の冷え込みも著しくなっていた。おいら、凍死しちゃうよ。いや、それほどやわでもない。
「でも今日は、だんだん暖かくなって、晴れるんだって!!よかったぁ、やっと運動会の練習できるよ。私、縄跳びリレーに出るの。」
嬉しそうに運動会とやらの内容を語る雅だったが、おいらは今、それどころではなかった。
おいらは、高揚しきった気持ちを抑えられず、心の中でガッツポーズをしてみた。今日ほど雅の天気予報をありがたいと思ったことはない。やっぱり、雅はできる女だ。
そうと決まれば、早速窓を開けてもらおう。高揚し、散漫しがちな気持ちを一点に集中させ、雅の頭の中をイメージする。それから、輝く太陽、部屋の窓、部屋に入り込む風をイメージした。
外の空気…窓…開ける…
「きぃちゃん、まだ寒いけどいいの?」
雅はまだ曇天の広がる空を窓越しに見つめ、少々心配そうな顔をしていたが、晴れるという予報を信じて、半分ほど窓を開けてくれた。
「じゃあ、朝ご飯食べてくるね。」
雅が部屋を出てから、おいらはじっと窓の方を見ていた。
よくよく見れば、この四角いガラスの枠内には外の世界の一端が見えていたのだった。遠くには曇った空、その隙間から見え隠れする太陽の光、灰色で黒いつるが伸びている柱、隣の家の赤い屋根、そして一番手前に見えるのは、たぶん、金木犀だ。でもその枝に、二羽の雀が下りてきたから、おいらはすぐ窓から目をそらした。だって、窓が開いてるんだ、目が合ったらやつらが部屋の中に入ってきたら、たまったもんじゃないだろ。
そしたらすぐに、羽ばたく音がした。雅が戻ってきたんだ。
いつもより早いんじゃないかと思って時計を見たけど、相変わらず、三十分しか経っていなかった。
「ドリルも持った、体操服おっけー、よし、行ってくるね、きぃちゃん。」
今日は時間に余裕があるのか、持ち物の確認をしてから、雅は部屋を出て行った。やれば落ち着いて動けるんだな、あいつも。
窓から雅の姿は見えなかったが、行ってきますの声は、いつもより大きく聞こえた。
雅が学校へ行ってからしばらくして、母親が掃除機を片手に入ってきた。今日は早めに済ませてくれ。あんたがいたら、タニアゲハさんが入ってこれないだろ。
「あら、窓あけっぱなしじゃないの。」
そうは言いながら窓を全開にして、掃除機の線をおいらの下にあるコンセントに差し込んだ。けたたましく鳴り響く掃除機の音。おいらはこの音が大嫌いだ。頭が痛くなるし、せっかくの静寂が乱されてしまう。その間おいらは目を閉じ、じっと耐えていた。こうしていれば、掃除機の騒音の向こう側に、おいらの心臓の音が聞こえるんだ。そうやっていつも、この騒音をやり過ごしてきた。
ひゅぅぅん…と、ようやく騒音が鳴りやんだ。
目を開けて一瞬母親の姿を探した。雅のベットのところで、シーツを掛け替えていた。すると母親がベットの横に屈みこんだ。何か落ちていたらしい。
「あら、あの子、赤白帽忘れてるじゃない。」
おしいぞ、雅。今日は珍しく忘れ物確認までしたのにな。まぁそのウルトラマンみたいな色の帽子くらい、忘れたって大したことないさ。
「どうしたら忘れ物しなくなるのかしら…困ったわねぇ…。」
掃除機を片づけながら母親がぼそりとつぶやいた。
もう少し落ち着きが出たらいいんじゃないか?まぁ、それだけじゃないような気もするけど。そんなことはおいらには関係ないからな。
「今日は窓も開けっぱなしだったし…寒くなかったのかしら?」
掃除機を片付け終えた後、母親の足は次第に窓の方へ向かっていく。その手が、窓にかかる。
まさか。
ぴしゃっ。かちゃ。しゃぁっ。
ちっ…ご丁寧に鍵をした上に、カーテンまで閉めやがった。どうしてくれるんだ。
残念ながら、母親にテレパシィを送ることはできない。今日はあきらめるしかないようだ。この調子じゃ、毎日雅が窓を開けて行っても、タニアゲハさんが来る前に母親によって閉じられてしまう。さて、どうしたものか。また、雅にテレパシィを送ってみるか。
とりあえず雅が帰ってくるまでは、この薄暗い部屋の中で、おいらはぼぅっとしているしかない。
アンニュイな一日だ。
〜5〜
次の日
昨日、帰ってきた雅にテレパシィを送ってみたおかげで、今朝は今のところ窓は開いている。
窓…開ける…昼…ずっと…
学校から帰ってきて、革のリュック(どうやらランドセルというらしい)を下しながら、雅は今日学校でやった運動会の練習について、おいらに熱く語っていた。いつものおいらなら、ほとんど話は聞かずにいるが、今日は頼みごとをするんだから、ちょっとくらい、聞いてみてもいいかな、と思った。雅が一通り話し終えたところで、テレパシィを送ったのだった。
「そっかぁ、今日はお母さんが窓閉めちゃったんだね。」
雅にしては鋭い観察だ。おいらは時々、この子の冷静な判断に驚くことがある。普段はあんなに慌ただしいのに。でも、聞くところによると学校じゃあ、成績ってのもよくて、中でも理科が得意らしい。なるほどだから、おいらみたいな蛹を平気で飼えるんだな。
「じゃあ明日は開けといてもらえるようにお母さんに言ってみるね。でも、なんで窓を開けといてほしいのかなぁ…?きぃちゃんは、どこにも行かないよね?蝶々になる時は、雅も一緒だからね。」
いつもはきらきらしている大きな瞳が、この時は少し潤んでいた。涙が零れるわけじゃないけど、少し、ほんの少しだけ、雅の不安そうな声が聞こえた。
おいらは、おいらは一体どうしたいんだろう…。成体になるのは嫌だ。だけど、もう少しだけ、外の世界にも触れてみたい。タニアゲハさんの話を聞けば、ひょっとすると、もう二度と外の世界なんて見たくないってなるかもしれないし、それはおいらにはわからない。とりあえず今のおいらにできることは、タニアゲハさんとの接触を待つばかりだった。
例によって、母親が掃除にやってきた。さぁ、今日は窓を閉めてくれるなよ。
「窓を開けておいてって…この虫のためにまぁ。」
そういいながら、いつものようにおいらの下あるコンセントに掃除機の線をつなげて、騒音を鳴らしだした。
この間だけは、おいら何にも出来ないんだよなぁ…。目をつぶってじっとしていれば、あっという間に終わるんだけど。
「雅が帰ってくる前に開けておけばいいわね。」
え…ちょっとまて、一体どういうつもりだ!?そうこうしているうちに、窓はぴしゃりと閉められてしまった。
なんてこった。今日もまた、アンニュイな一日を過ごさなきゃならないのか。くそぅ…。もういい。雅が帰ってくるまで寝よう。
がちゃっとドアの開く音がしたから、おいらは浅い睡眠から目が覚めた。あの影は、母親だ。やっぱり窓を開けに来たらしい。
「ただいまー!!」
雅の声だ。バタバタと階段を上がってくる音が聞こえる。その足音はどんどん大きくなっていく。やっぱり、雅の帰宅に慌てた母親が、急いで窓の鍵に手をかけた。
「ただいま。あれ、お母さんどうしたの?」
「え、いや、あなた、窓を開けておいてほしいって言ってたでしょ?それで…」
雅の視線は、母親の背後に見える、鍵がかかったままの窓枠に向けられていた。
「…?窓、閉まってるよ?」
「い、今さっき閉めたのよ。日も陰って寒くなるでしょ?」
待て待て、今日はずっと開いてなかったぞ。母親の前ではあまり使いたくはなかったが、いたしかたない。
窓、閉まる…ずっと。
「え、そうなのきぃちゃん?窓、開いてなかったの?」
「雅?どうしたの?」
母親にはおいらのテレパシィは通じないから、雅が一人で喋っているようにしか見えないんだろうな。でも雅の驚いている様は、どう頑張ったって演技できるようなものじゃなかったから、母親もちょっと混乱気味の様子だった。
「きぃちゃんが、窓は開いてなかったって言ってるの。」
「えっ?」
「だから、きぃちゃんが開いてなかったって。…お母さん、窓開けに来てたの?なんで開けといてくれなかったの!?」
予想以上に声を荒げた雅に驚いた。近頃、雅に対する印象が変わってきた。大人しい、けれど少しおっちょこちょいな女の子だと思ってた。いや、実際そうなんだが、雅の見えない部分が見えてきた気がする。
人間って外の世界と似てるのかもしれない。
「雅、あなた、喘息持ってるでしょ?ずっと窓を開けておいたら、埃とか沢山入ってくるじゃない。だから、窓を閉めたのよ、わかった?」
「でも…きぃちゃんが…」
「…雅は本当に優しい子ね。でもね雅、あなたがその蝶々の事を大事に思っているくらい、お母さんもあなたの事が大事なのよ。」
母親の言い分もまぁ、言いたいことはわかる。でもそれが親の愛情だとかそうでないってのが、おいらにはわからなかった。
「お母さん…私は大丈夫だから、お願い。窓開けさせて。開けないと、いけない気がするの。」
「また蝶々が言ってるの?」
「ううん。きぃちゃんは、何も言ってないよ。」
確かにこの時、おいらは何にも言ってなかった。だから、雅の事を不思議に思った。ここ何日かテレパシィを送っているからだろうか。いや、そんなことは関係ないはずだ。けれども、ぎゅっと手をにぎりしめ、母親を見上げる雅を見ると、その横顔は何だかいつもより大人に見えた。
「なんかね、よくわかんないんだけど…そんな気がするの。」
諦めたように母親がため息をつきながら、渋々窓を開けることを承諾していた。ただし、今週だけという条件付きで。
〜6〜
「じゃあきぃちゃん、行ってきます!!窓開けといたからね。」
ようやく窓の開いた一日がやってくる。流石の母親も、もう窓を閉めるなんてことはしないだろう。少なくとも、今週中は。
おいらは少し緊張しながら窓の方を見ていた。この数日で、朝の空気が一気に冷たくなった。ちょっと体が固いのは、そのせいもあると思う。
気がつけば、掃除機の騒音が始まっていたけど、今日は目を閉じることはなかった。
掃除機の音は微かにしか聞こえず、窓から入り込む細い風の音の方がおいらの耳を支配していた。
風の切れ目にひやりとしながら、じっと窓を、窓の向こうの世界を見つめていた。
これまでの風の音とは異質な、ドアの閉まる音で、母親の気配が無くなったことにようやく気付く。
それほどまでに、おいらは窓に夢中だった。
今日は本当に時間が経つのが早い。ひんやりした朝の風が、いつの間にかぬるく、窓際の影も姿を変えていた。
ざぁっと、一度強い風の音がした。それに合わせて瞬いたら、おいらの視界の隅に桃色が入り込んでいた。
「ごきげんよう、キイロイケウチ君。」
「タニアゲハさん。どうも。」
平坦に聞こえたかもしれないが、おいらは嬉しくてたまらなかった。
「タニアゲハさん、あの…窓…。」
「何も言うまい、キイロイケウチ君。小生は君が窓を開けてもらおうとしていたのを知っているよ。」
自慢げに言いながら、そしてひらひらと、ゆったり舞いながら、タニアゲハさんがおいらの方に飛んでくる。
「君の飼い主さんが頑張っていたじゃないか。外で聞いたよ。」
そうか。タニアゲハさんは、外の世界で雅と会ったんだ。
「だが、何事にも障害はつきものだ。そんなこともあるさ。」
タニアゲハさんは、これまでの間に何が起こったのかを十分承知しているみたいだった。
「あの、タニアゲハさん、おいら、あんたの話が聞きたいんだ。外の世界って、どんな所なんだ?」
「外の、世界かい?」
おいらの虫かごの真ん前に止まり、ゆっくりと翅をたたみながら。
「ふふふ…外は、本当に広いよ。君、隣の家の屋根の色はわかるかい?」
「ああ、それなら見える。赤色だ。」
「そうだ。じゃあ、この家の屋根の色は?」
「この家…?」
そんなの、おいらは見たことがない。
今日もふさふさの触角をいじりながら、おいらのことを試すように見てくる。
「この家の屋根は、君の虫かごの屋根と同じ、青色だよ。」
「そうなのか。なんか、変な感じだな。…そういえば、タニアゲハさんはどこから来たんだ?」
「小生か?小生は、隣町のマンションにいたんだ。今はこの辺りにいるがね。」
「まんしょん…ってなんだ?」
「あぁマンションは、たくさんの人間が住む高い建物で、家の集まりみたいなものだよ。」
「へぇ、そうなのか。」
それからタニアゲハさんは、この家の近くのことをたくさん話してくれた。
雅が通っている小学校や、家の近くにある公園のこと、他にも、人間の乗り物のこととか、ワンワンうるさいやつの正体(犬っていうらしい)や、そいつらがなぜ人間に従っているか、ってことまで教えてくれた。
聞けば聞くほど新しいことばかりで、混乱半分だったけど、新鮮でとても楽しかった。
「時にキイロイケウチ君、君は、今の状況をどう思う?」
「はい?」
こいつは時々変なことを言う。
「君は今、孤独か?」
これまでの話しぶりに比べると、ほんの少し落ち着いて、いや、暗い感じで話し出した。
「小生は、成体になって自由を手にした。けれども、それと同時に、孤独にもなった。飼い主のもとを離れ、君に出会うまで、小生は自由の代価、孤独に耐えねばならなかった。…孤独はさびしい。これは小生の我儘かもしれないが、小生は、君に早く成体になって欲しいんだ。そうすれば、孤独を感じることが減るだろう。それは君も同じことだ。」
悲しげな表情をして、おいらの方を向き直ったタニアゲハさんを見て、なんだか不思議な気分になった。
「すまない、余計なことを話してしまったね。今日はここまでにするとしよう。きっと飼い主も帰ってくるころだ。」
「明日も、来てくれますか?」
「もちろん。では、失礼。」
舞い出ていく桃色の姿を見送ったら、何故だか一気に疲れてしまった。
帰ってきた雅にお礼をつぶやきながら、おいらはぐっすり眠った。
それからは、連日タニアゲハさんの話を聞くことができた。
話を聞くほど、外の世界に興味を持ったことは事実だが、その一方で、やっぱり怖い世界だとも思った。
あの日おいらが見た一日は、やっぱりこの世界のほんの一端にすぎなかったんだ。
〜7〜
日曜日、いよいよ明日から窓は開かなくなってしまう。
今日は雅が公園に連れて行ってくれるらしい。外に出れるのは嬉しい気もするが、どうにかなってしまわないかという不安の方が大きい。そうこうするうちに、おいらは虫かごごと、昼間の公園に連れてこられた。
「きぃちゃん。ブランコのってくるね。」
雅は、おいらを木のベンチの上に置くと、パタパタとブランコなる遊具の方へ行ってしまった。
その時のことだった。今思えば、ほんの一瞬間の出来事だったと思う。
蛹のおいらは動けるはずもなく、何もすることができなかった。
ひらひらと舞う淡い桃色の蝶。
虫かごのおいらに気付いて蛇行しながら近づいてくる。
「やぁキイロイケウチ君。ごきげん――――。」
ふいにおいらの目の前を黒い影が通り過ぎた。
タニアゲハさんが消えた。
何がおきたのかわからない。
辺りを確かめようにも、蛹のおいらにはそれができなかった。
地面に映る影が次第に大きくなっていく。
その黒い影は姿を現した。
今まさに虫かごの前に降り立ち、その瑠璃色の目でまっすぐおいらを見た。
鋭く尖ったくちばしに、動かなくなったタニアゲハさんを咥えて。
光沢を持っていた羽はその輝きを失い、自慢のふさふさの触覚はすでに一本なくなっていた。
食いちぎられたタニアゲハさんの胴体が、捕食者の足元に落ちていった。
その瞬間おいらはただ、くちばしに挟まれたタニアゲハさん見ていることしかできなかった。
でもくちばしの周りに淡い桃色の粉がついて、きらきらしていた。
不謹慎にも、きれいだと思った。
ほらみろ、やっぱり外の世界は危険じゃないか。
以前のおいらならきっとそう言っていたに違いない。
でも今は、悔しくてたまらない。何もできない自分が。
やっぱりおいらは、成体にならないといけないのかもしれない。そうしないと、ずっと悔しいままだ。
「きぃちゃん?」
まばゆく、黄色い光が辺りを包んだ。体が熱くてたまらない。
雅の声が近くで聞こえるが、今はそれどころじゃない。
ちょっとずつ、黄緑色の衣に切れ目が入り、ピリピリとめくれていく。
「きぃちゃん、すごい!蝶々になるんだね!!」
一気に解放したいが、そんなことをしたら翅がちぎれてしまうのは目に見えている。
しかし、鮮黄色の片翼が衣から出始めると、そこから体中の熱が発散されていくようで、幾分楽に感じられる。
その分、翅一枚が出るまでが長かった。
気の遠くなるような時間が過ぎたような気がした。
「頑張れきぃちゃん!!」
辺りを包んでいた光は次第に消え始め、その代わりに向こうの空から茜色の光が顔を出す。
そんな様子を見る余裕が出るほどに、気分は楽になっていた。
なんだ、案外時間は経ってないんだな。不思議なもんだ。
辺りが暗くなる前に、雅は虫かごを出来るだけ揺らさないようにして家に帰った。
その間にも、衣を全て脱ぎ、いよいよ後は翅を広げて乾かすだけ、とまでなっていた。
自分の体を見ると、黄色がかった半透明だった。まだ十分に乾いていないため、タニアゲハさんみたいなふさふさの触角があるかはわからない。ただ、早くこの翅を広げ、この虫かごの中から飛び出してみたかった。
俺は、雅に最後のテレパシィを送ることにした。
外…出る…夢………叶う。
「…きぃちゃん…。お別れ…なの?」
…………。
俺はお別れだというのも何だか嫌だった。だから黙ってた。流石にちょっとずるいよな。
「そう、だよね。蝶々になったら、こんな狭い所はいやだもんね。」
雅の目から、涙がこぼれていった。
…雅…ありがと…。
「きぃちゃん…!!」
翅が程良く乾いたところで、俺は翅を動かしてみた。
ふわりと体が宙に浮く。
虫かごの中で、彼方此方に当たりながら、虫かごの上部のふたを目指す。
何度も何度も翅を動かし、ようやく、その狭い虫かごを飛び出した。
俺が次に目指すのは、あの窓の外。さっきまで、囲いの中から眺めていた世界。
少し冷たい向かい風が、俺の門出を邪魔したが、何にでも障害はつきものだと、タニアゲハさんは言っていた。
「元気でね、きぃちゃん。」
雅に見送られながら、俺は窓を超え、外の世界に飛び出した。
〜8〜
―――20年後―――
『次のニュースです…今日の日本時間…』
街角のビジョンに、ニュース番組が流れる。
『女性宇宙飛行士の……雅さん……』
とぎれとぎれにその声は聞こえてくる。
どうやら、事前インタビューの映像のようだ。
『宇宙ステー…蝶の飼育…これは…子どもの頃に…』
ビジョンには真っ白な宇宙服を着た、黒髪の女性が笑顔で映っていた。手には、黄色いリボンが結んである青い屋根の虫かごを持って。
『私の夢を叶えてくれた、大切な存在なんです。』
「おじさん、この蝶々見せて。」
男の子が、この蝶たちを売っているであろう黒ずくめの大人に声をかけた。
「いいとも。この子たちは特別な蝶々でね、夢を叶える蝶々なんだよ。」
黒ずくめは、台の上のガラス瓶を並べ直しながら、少年に尋ねた。
「君は何色が好きなんだい?」
「僕ね、黄色が好きだよ。」
「それだったら…」
ふと黒ずくめの口元があがった。
「この蝶々にしたらどうかな?カナリアみたいな黄色い蝶々になるんだけど。」
「へぇ!!じゃあ、それにする!!」
少年が手にした瓶の中には、黄緑色の蛹が入っていた。
「名前はね、キイロイケウチっていうんだ。…大事にするんだよ。」
少年が受け取った瓶には、黄色いリボン。
少年が家に着く頃、昼間だというのに空は真っ暗で、大粒の雨が降りだしていた。
「あそびは夜とはよく言ったものです。」ひとり夜に混じりそうな黒の法衣をまとった志賀僧正明尊は天を仰いで、誰に話しかけるともなしに呟いた。
そうすると、どうやらそれが聞こえていたらしい、傍に佇んでいた伶人の一人が相槌を打った。
「今宵は、げにめでたき宴遊となりましょう。」
僧正はうん、と頷くと、天から伶人に目線を移した。
ふくらかな貌からだつきのその伶人は、萩重の直衣を着ているようすであったが、闇の中では齢のほどまでは分からなかった。
切れ長の眦はやや釣りあがり、薄い唇は朱を塗ったように赤かった。焚いているのは落葉であろうか、秋の草に混じって麝香が匂った。女のようなにおいであった。
僧正はこの伶人に興味を感じた。彼は漢詩を心得ていたが、それよりも今宵のあそびをこの伶人と共に楽しみたいと思った。
「御身は、いずれの舩にお乗りになるのか。」
「管絃の舩にと。志賀僧正はどちらに?」
「おや、愚僧のことをご存知か。同じく管絃のにと考えております。失礼ながら、貴殿は名をなんとおっしゃるのか。」
一瞬間があって、伶人は夜目にも赤い唇で、ふ、と笑みを作った。
「僧正に申し上げるほどの者ではございませぬ。行きましょう。」
伶人は笑みを湛えたまま、既に設けの整った奏楽の舩の方へてくてくと歩きだした。
「おや、こちらへいらっしゃるのは和邇部用枝殿か。」伶人の影をみとめた楽人らは賛嘆の声を上げた。
「どうやらそのようです。それでは、今宵はかの和邇部家の篳篥を堪能できるというわけですな。」
「楽しみです。このように間近で用枝殿の調べを拝するのは初めてのことですので。」
しかし、伶人の後ろから黒い法会が近づいてくるのに気がついた彼らは目の色を変え、声をひそめて口々に囁いた。
「用枝殿のお隣にいらっしゃるお方はまさか志賀僧正では?」
「なんとまあ。僧正は篳篥の音をお耳にするだけで大層気分を害されるということです。」
「そのようなことになれば、宴はきっと不愉快なことになりましょう。」
「用枝殿は一体どういうおつもりか。この場に居る者が僧正の篳篥嫌いを知らぬはずはありません。」
「しかれば今宵、用枝殿がお乗りになることは…」
次の瞬間、用枝は既に彼らの目の先に静止していた。そうして、先ほどの笑みのまま平然と言い放った。
「今宵は、わたくしめは打物でもつかまつります。」
用枝の一言に、彼らは無言で目を見合わせた。僧正は、そんな彼らをよそに、用意の整ったの先頭に真っ先に乗り込んだ。続いて楽人たち、最後に用枝も乗った。
舩は岸を離れ、ゆっくりと湖上に繰りだした。薄も打松も遠のき、次第に他の二艘も離れていった。まるで現世から切り離されて浄土へ赴くようだと、僧正は思った。
月明かりが、僧正の細い指が支える瑠璃の杯を満たしていた。
夜は次第に更けてゆき、月はいつしか中天から琵琶湖に浮かぶ三艘の舩を照らしだした。貴人たちはみなほろ酔いになって、思い思いに演奏をしている。竜笛は心寂しく、笙は柔らかに湖中にしみ込み、琵琶は物悲しく、筝は瑞々しく湖面に響いた。用枝も、用太鼓を軽やかに打ち鳴らした。宴酣であった。
ところが、管絃者の一人が何気なく船尾に目をやると、用枝が懐から何かを取り出だしたものを湖に沈めている。管絃者はぎょっとして言った。
「用枝殿。それはよもや篳篥を潤しているのではないでしょうな。」
管絃者は声を低くし、語気を強めた。頬がこわばっている。
背を向けていた用枝は無表情に振り返ると、息だけで微笑んだ。
「そうではございません。ただ手を洗うだけでございます。」
水に浸った直衣の二藍がその濃さをもう一段、ほんのりと増していた。
その時すう、と風が吹いて、月に薄っすらと鱗雲がかかった。
湖上にもうっすら影が落ち、人々はしんと静まった。
用枝が、水から笛を取り上げた。
ぽちゃり。
周囲の視線は用枝に集まるともなく集まった。そうして彼の手に水に濡れた篳篥をみとめた彼等は一様に色を失い嘆息しあった。
「さればこそ。つまらぬ者を乗せたせいで興が冷めてしまうわ。」
しかし、用枝はそれを気にかける風もなく、愛笛に乗った露を払うと濡れ手のまま蘆舌を口に含んだ。
褐色の漆を塗りつくした六寸ほどの竹管の先から、音が流れ始
めた。
僧正はゆっくりと船尾へ振り返り、用枝を凝視した。
その視線に気がついた用枝は、挑むように船首に対して半身の体を正面に向けなおすと、目を細めた。細めたかのように見えたが、朧月の弱い光の中で、それは判然としなかった。僧正の目にはただただ、暗闇の中でつやつやと輝く篳篥と、艶なる用枝の眼差しだけが白くはっきりと映ったのである。
これが篳篥か?あの鈴虫や轡虫のようにかしがましく、うたてけぢかくききたくもなかった篳篥の音色か。
しかしそれは、紛れもなく僧正が嫌悪した篳篥の音であった。
慎み深くも奔放な調べは迦陵頻に相違なかった。旋律は一本の糸のようになだらかに紡がれ、極楽に住むという人面鳥身の霊鳥の美声を思わせた。音は天から星のように降った。そうして、僧正の痩躯を撫でては、水面に静かに落ちていった。
朧月の下、僧正は用枝の肩越しに確かに見た。
まさしく湖上を舞う迦陵頻の姿だった。それは明らかに、現世を離れた瑠璃色の極楽のものであった。迦陵頻は濃やかな羽と、絹のようにしなやかに伸びた尾とで、微かな月影の中で時に赤く時に青く、色を変えながらひらり、ひらりと水面を撫ぜた。その羽毛でおおわれていない顔は不気味なまでに白かった。端正な顔立ちの中で、最も僧正の心を捉えたのは唇の朱だった。毒々しいとまで思わせるその口元からは顔よりも更に白い歯が小さくのぞき、そこから声とも音ともつかぬ、えもいわれぬ調べが流れだしている。
いま己の耳を満たしているのは果たしてこの霊鳥の息吹か、それともかの伶人の篳篥の旋律であったか。
迦陵頻は用枝の頭上へ飛んでくると、彼の薄い唇とふっくらとした指先の動くのに合わせて鮮やかに舞いつづけた。そのさまはみやびと言うよりほかなく、僧正はただ呆然としていた。
ふいに、迦陵頻と目があった。翡翠の瞳が、豊かな黒髪の隙間から真っ直ぐに僧正の身をとらまえた。
ふっつり。
睡蓮が花開く音―僧正は今までそれを耳にしたことがなかったにもかかわらずそう分かった―が聞こえたかと思うと、迦陵頻は忽然と姿を消し、目線を下へ移すと用枝も既に篳篥を口元から離していた。
途端に僧正の目から、思い出したように急にはらはらと涙が落ちた。
かくも美しき調べがあろうとは。
見渡すと、同乗していた楽人達もみな涙を流していた。用枝だけが変わらず例の笑みでいる。
用枝がようやく口を開いた。
「戻りましょう。もうじき陽が昇ります。」
空はもう曙の色だった。山のきわも白く、明るくなっている。
それでも僧正の鼻腔には、まだ麝香が微かににおっていた。
ドアの目の高さのところに液晶パネルがあって、
○ 献体する
○ 角膜・骨髄等の移植に同意する
○ 火葬して無縁墓地へ埋葬する
○ 親族に遺体引取りの連絡をする
○ その他
死後の処理が表示された。繁造は人差し指を「火葬して無縁墓地へ埋葬する」の上に持っていって軽く触れた。「これでいですか」という確認が大きく表示され、合成音声が聞こえた。
はい ・ いいえ
が表示された。繁造は「はい」を選びながらすこしイライラした。もう死ぬと決めているのに、別の選択を常に勧めて来るように思えた。たしかに、人を殺す立場からは、その行為が本当に死に行く人の間違いない意思によってのものだということを確認して記録しておきたいのだろう。仕方がないとは思う。が、これ以上ナーバスなことはないくらいの状態だから、どうにかならんかと思う。
「はい」を人差し指で押すと、ドアがゆっくりと向こうに開いていった。部屋の真ん中に歯医者の診察室においてあるような椅子がある。
「椅子にお座りください」と合成音声が指示する。