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大阪教育大学 国語学特論2
受講生による 小説習作集

詩織

2011年度号
カンガルーの脱走と生活42101
僕は親友を殺したい92102
ウォーミングアップ92104
マスターベータソン92109
 

カンガルーの脱走と生活
042101

 僕らは派遣会社の登録会で知り合った。登録会というのは、派遣会社の支店ビルに行って規則なんかを読んで同意できるならその場でサインしてアルバイトとして登録される、といったなんとも胡散臭いものである。電話をかけたとき、登録会の時間と印鑑を持ってくるようにとだけ言われたので、おそらく会社に来る人はすべて登録されるのだろう。そしてすべての人をどこかへと派遣するのだろうか。電話の声も不明瞭だったためいい印象は持てなかったが仕事の割には高額な時給を目当てにしているので文句は言うまい。
 夕方になって支店ビルに向かった。派遣会社によって雰囲気は違うだろうが、僕が行ったビルは相当ひどい代物だった。エレベーターからして狭くじめじめとしていてここから上には良いことなんて何もないと告げていた。
 受付には人がおらず奥に声をかけるとしばらくしてからジーンズを履いた中年女性が出てきた。彼女は僕の呼び出しを不当なものと感じているのか不機嫌そうに今日の流れを説明し、担当者が向かうので待つようにと隣の部屋を指差した。通された部屋の絨毯はいくつもの靴に踏みつけられすぎて元の色を忘れており、そのことがいっそう僕の気を滅入らせた。
 担当者は茶色のスーツを着て現れた。彼のスーツは生まれたときからずっと着ているといった風で致命的なほどくたびれていた。彼は会社の規約と登録用紙を渡すと、目を通してからサインしてください、同意できない方はお帰りくださいと言った。規約の内容は別段変わったものでもないし、他のアルバイトでも書かされるような当然のものだった。しかし、ここでその文面をみるとどこか間違ったものに見えるのだ。書類にペンを走らせる音でさえすぐさま分解されて細かい塵になって絨毯に積もっていった。
 登録が済むと冊子を受け取りビデオでの研修を受けることになった。研修といっても出勤前には会社に連絡をいれる、仕事場の方々には気持ちの良い挨拶をする、というようなことを確認させられるだけだ。さっきまでいた茶色スーツはビデオをセットしてしまうとどこかに行ってしまった。世の中にはこんなに簡単な研修もあるのだ。
 登録会にいたのは僕をいれて三人だった。三人というのが多いのか少ないのかはわからない。一人は男でもう一人は女。二人とも僕と同じくらいの年齢に見える。ここでは深夜の仕事を中心に斡旋されるので僕のような学生には人気があるのかもしれない。研修のビデオを見ている間、僕はいちばん後ろの席だったので二人の様子を見ることができた。男は短髪で濃い緑色のシャツが肌の色とよく合っていた。女は髪が長く紺色のワンピースからメモを取る細い手がのぞいている。どちらもきちんとした服装だったが服の色合いがこのビルの持つ退廃的な雰囲気と妙に合っていてその背中はどこか疲れて見えた。あるいは二人からすれば僕だって同じようにくたびれて見えるのかもしれない。ここではすべてのものから歴史の匂いが漂っていた。それは過去に何人もの人がここを訪れ同じように扱われ登録されてきた繰り返しの記憶だった。コミュニケーションは省かれただの労働力として扱われているのだという感覚。そしてこれから先も変わらないだろうという予感だった。
 ビデオが終わると先ほどの担当が戻ってきて、仕事を割り振るので二週間先までの都合のつく日をネットから登録しておくこと、それを元にこちらから後日派遣先を紹介するのでメールの受け取り設定をしておくことを忘れないようにと言い、質問もなかったので登録会は終了となった。
 ペンや受けとった冊子をリュックサックに片付けて立ち上がったときにはもう誰も部屋に残っていなかったがその気持ちはよくわかる、僕だってこんなところにいつまでもいるわけにはいかない。道を引き返して出口まで向かった。受付には来たときと同じでやはり人はいなかった。廊下に出ると先ほどの二人がエレベーターを待っているのが見えた。
 「おつかれさまです」と男の方が声をかけてきた。
 着こなしから受ける落ち着いた印象とは違う明るい声だったので多少驚いたが、服のイメージからとりあえずシックと呼ぶことに決める。
 「おつかれさまです」と会釈すると、女の方も挨拶をした。
 彼女は歯を矯正しているようだ。なんと名付けるか迷ったがこちらもワンピースの印象からキキと名付けておく。
 エレベーターはこのビルに取り込まれて長く、すっかりくたびれてしまっているので僕らのフロアにやってくるまでにはずいぶんと時間がかかる。それと同じだけの時間を狭くて湿った中でこの二人と一階まで過ごさないといけないのかと思うと多少うんざりした。しかし彼らは座っているときに見たよりも服の色合いがしっくりときていて好感がもてるようになっていた。あの会社を離れて服自体もある程度自分のアイデンティティのようなものを取り戻し始めたのかもしれない。このビルの雰囲気から離れていくことで僕自身が回復してきたのかもしれない。
 「僕は近くの―大学に通ってるのだけれど、お二人も学生ですか」と、エレベーターが来る頃になってシックが話しかけてきた。
 僕もキキも顔を見合わせると、はい、そうですといったふうに頷いた。あまりこういうことには慣れていなかったが、ひさしぶりにちゃんとした人に声をかけられているようで悪い気はしなかった。エレベーターに乗ると行きと同じく湿った匂いがしたがそれほど気にはならなかった。
 「やっぱりそうですか。なんとなく同年代だなとは思っていたんですよ。ほとんど座っていただけだったけど、なんだか疲れましたね。お二人はここで仕事をもらいますか。僕はこういうのは初めてなのでよくわからないけれど、どこも一緒かと思ってやってみようと思うけど」とシックが言った。
 「そうですね、現場に行ってみないと合っているかわからないだろうし僕もいちどやってみます」と僕は言った。
 「私もやります」とキキも答えた。
 シックは頷いてから何かを考えるようにフロア表示を眺めた。それはもう「2」から「1」に変わるところで、間もなくドアが開いて入り口から少し肌寒い風が吹き込んできた。僕はやっと帰ることができると実感して、ふうと小さく息を吐いていた。
 「あらあら、おつかれのようですね。でもわかります、なんだかこのビルは、あの会社のせいかもしれないけれど、げんなりさせるものがあるな。今の方がましだけど、あそこにいるときは二人ともひどく疲れているように見えた」
 シックが少しにやっとして言ったことはまさに僕が思っていたことと同じだったのでつられてふふと笑いそうになった。それにしてもよく喋る、シックなんてつけたのは間違いだったかなと思った。キキはというと僕らのほうを伺っているので話しかけられて嫌な気分というわけではなさそうだ。ビルの入り口に近づいたときシックが言った。
 「じゃあ今日はおつかれさま、ということでこのまま帰るのもいいけど、みんな派遣をやるようだし提案だけど、いまから夕飯だろうしせっかくだからみんなでなにか食事しませんか。一度話していれば仕事に入ったときにやりやすいだろうし、予定を送るメールにしても、空いている日を揃えていたら時期的にも同じ仕事につけるだろうし。どうですか」
 愉快な提案だと思った。僕はこのようなバイタリティを持ち合わせていないので感心した。正直なところ、知らない人とうまく会話ができる気はしなかったが次回仕事で会ったときに急に仲良くなれるわけでもないし、それもまあいいか、という気分になった。
 「いいですよ。お腹も減ったし」といってキキを見た。
 「私もお腹が減りました」とキキは言った。
 「それはよかった。仕事仕事と言ったけれど楽しい夕飯にしましょう。これは僕の勘ですが僕らはきっと仲良くなれますよ、これだけ喋ってまだ自己紹介も済んでませんしね」とシックが言った。

 そのニュースを見たのは夜の九時頃だった。
 けっきょく僕らはシックの家が近いということでそこで鍋を食べることにした。秋も近づいているこのごろは夕方になると気温がぐっと冷え込む。あまり強くはなかったが風を受けながら歩いているうちに、シックが鍋を食べたいと言い出して、けっきょく全ての段取りを一人で決めてしまった。スーパーで野菜やビールを買い込むと、家に着いたのは六時半を回るかというところだった。シックの家は彼の服と同じように、落ち着いているけれど地味というわけではなく上品に見えるものばかりだった。最低限の家具だけで構成されており大きなテレビが少し異彩を放っているのを除けば居心地がよかった。僕が誘ったからと、野菜を切ったり鍋を洗ったりというようなだいたいの用意は彼がしてくれた。その間、自分から話しかけるのが苦手な僕はキキと何を話したものか迷ってしまい、二人で黙っていた。キキは机や椅子をひとつずつ触って何かを確認していた。初対面の人と話すことなんていくつあるのだろう。接点を探す作業も煩わしいし、そういえば誰かと仲良くなるとき僕はどうしていたのだろう。ここのところ、そういった当たり前だったことから離れて無頓着になっているかもしれない。シックが間にいるときはわりとスムーズに話せていたと思うけれど、なにを話していたのだっけ。さっきの話の続きを思い出そうとしていたら夕飯の用意ができたらしく、鍋を持ってシックがやってきた。僕はコンロに火をつけた。
 僕らは鍋を囲みながらありきたりの会話をした。誰がどこの大学に通っていて普段は何をしていてどんな音楽を聴いてというような、おおよそ初対面の者同士が話すであろう普通の会話だ。会話なんてものは水面に投げた石で広がっていく波紋のようで、とにかく投げないことには始まらない。しかしその投げ方の一つ一つをシックはとても上手にこなした。いろんな形や大きさの石を使って複雑な波紋を作っていった。僕らはその波にのって口を開くだけでよかった。僕は自分が普段よりおしゃべりになっている気がしたけれど悪い心地はしない。むしろもっと喋っていたくなる。シックは手元にある石を(それはとくに慎重に選んだという感じを与えない)ときに高く投げ、ときに鋭角に投げた。そしてその波紋はもちろん上品だ。
 長く話し出すと始めは無口に見えたキキもその短い返事がとても温かいものだとわかってくる。会話のほとんどは僕とシックがつないでいたが気持ちをちゃんと参加させてくれている。そういう優しい心遣いを感じる。
 そんな輪の中にいることを嬉しく思う反面、この中で僕はいったいどんな役割をしているのだろうという気になってくる。毎日学校に通って家に帰って、たまに生活を維持するために働く。そんな繰り返しの中に暮らしてきてこれほどまでに楽しい時間を過ごしたことがあっただろうか。派遣会社のオフィスで受けた気持ちも、そういった僕の繰り返しに対する鬱憤やストレスが反映したものを感じたのかもしれないと思い出した。そしてそんな繰り返しから脱出することは意外と簡単なことかもしれない。でもいまのところ僕はその脱出方法を知らずにぐるぐると生活を続けているのだ。酔っぱらっていたことも手伝ったのかそういったことも口にしてしまった。僕はいささか飲み過ぎていたし、照れる気持ちよりもこの時間を与えてくれた二人を讃える気持ちの方が強かったのだ。
 夕飯も一段落して、さてこれからどうしようかな、というときだった。一度にたくさんのことを話したから、みんなそれぞれの時間の中でゆっくりしていた。テレビの音量が少し気になったので画面を見るとちょうど九時からの番組に切り替わるところだった。それまでテレビはクイズ番組を流していたがあまり注意してみることもなくシックが話のたねとしてたまに指差すくらいだった。シックもテレビに気づいていくつかチャンネルを回した。そしてニュース番組を映したとき、そのニュースが耳に違和感を持って響いたのだ。

「・・・です。28日午後8時頃、大阪市天王寺区の―動物園からカンガルーが脱走しました。-動物園は移動動物園を運営しており、このカンガルーは栃木県内の動物園より同日譲り受け、移動車の檻から園内の施設に移そうと扉を開けたところ隙間から逃げ出し行方が分からなくなったようです。
 逃げ出したのは体長1m、体重40kgの1歳になる雄のカンガルー。通報を受けた天王寺警察署や飼育員ら十数名が現在も付近を捜索中です。飼育員によるとカンガルーは時速30kmで走ることも可能なため歩行者や車などに衝突して負傷する恐れがあるとして、周辺住民に注意を呼びかけています。次は・・・」

 普段ならなんてことはないニュースだ。たしかにここから天王寺まではわりに近くだし、カンガルーなんていう、誰もがかわいいと思っているような動物が実は自動車並の速さで走ることができて、ぶつかると危険があることには驚いたがそれも家の中にいては関係のないことだ。それでもなにかが気になってしまい、僕は二人に確認することにした。
 「さっきのカンガルーのニュースだけど、なにか不思議に思わない」
 二人は少し考えるようにうーんと唸った。僕も考えをまとめるためにしばらく間をとった。
 「なんというか、カンガルーが自分で逃げたのなら脱走でいいかもしれないけれど、いや、もちろん自分で逃げたのだと思う、園長さんか誰かが、ほらほらカンガルーちゃん、道をあけてあげるからどうぞお逃げなさい、なんていうわけがないからね、でもそれでもこういうときは誤って逃がした、と言うべきだと思うんだよ。それにカンガルーがとんでもないスピードで走ることができて危険だから負傷するかもしれないっていうけれど、負傷して困るのは誰だろう。なんというか、揚げ足取りみたいな話なんだけどさ、けっきょくのところこのカンガルーはなんで逃げ出したのかっていうのがとても気になるんだ。なぜかは自分でも分からないけどとにかく気になったんだよ」
 二人は少しあっけにとられたように僕を見ていた。たしかにどうでもいいような話題だし、それにこれまでにこんなにたくさんの言葉を僕が話したのは初めてだからかもしれない。
 「それにニュースを見てるとさ、カンガルーは天王寺に来る前も栃木の動物園にいたっていうじゃないか。なんというか、ここに来たのはおそらく野生のカンガルーじゃないわけだよ。だからさ、とくに帰りたい場所というようなものもないだろうし。もし栃木の動物園がカンガルーにとって我が家のような場所で長い移動のストレスでそこに戻りたくなったっていうのなら分からなくもないけれど、とにかくそこのところが気になっただけなんだ。彼は逃げ出してどこに行こうとしたんだろうってね。ごめん、少し飲み過ぎたようだね。この話はこれでおしまいにしよう」
 僕は言ってしまったあとで後悔した。三人で過ごして夕食も終わり宴もたけなわといったところに出す話題としてはあまりふさわしいものではないし、なにしろ答えの出しようもない話だった。シックとキキはもう僕を見てはいなかったが僕の話の中に沈んでいた。僕の話だ。しかし僕はそこから彼らを連れ出してくるだけの話も持ってないし石の投げ方だって知らないのだ。
 「話したいことはわかると思う。カンガルーの逃げ出した理由とニュースの伝え方じゃずれがあるんじゃないかというようなことだよね。さっきの話じゃないけれど、もしカンガルーの気持ちがわかれば生活の脱出につながるようなヒントがあるときみは感じたんじゃないかな。だからこそ、ニュースに耳がとまった」としばらくしてシックが話した。
 今度は僕が黙り込んだ。たしかにそういうところがあるのかもしれない。彼に感心してしばらく思索の中に降りていったが、やはりこのことは自分で答えを出すしかないのだ。それはこの話を終わりにする唯一の方法だが、どれだけ探しても手近なところに石なんて落ちていなかった。
 「でも簡単な話よね。とにかくカンガルーを捕まえましょう」
 
 「正確に言うと捕まえることが目的ではないわね、カンガルーを探しにいきましょう。もしカンガルーを見つけることができれば、彼に話を聴けばいいのよ。彼が答えをくれるのならあなたも繰り返しから逃げ出すことができるのかもしれないし。会社からの派遣じゃないけれど、わたしたちの初仕事としてはすてきね。とにかくおもしろくなってきたわ」
 キキが言うと、シックもそれがいいなと頷いてパソコンの電源を入れた。僕は台所に行ってコップに水道水をいれて一息で飲んだ。話をして混乱したことで酔いはだいぶ醒めていたが、それでもとにかくやってみようという気になった。やめるにしたって僕が決めないとこの話は終わらないのだ。どうやって話をすればいいのかわからなかったけれど、夜中にカンガルーを見つけ出すことに比べれば話を聞くほうが簡単な気がしたし、あるいは対峙してみればどうにかなるものかもしれないという気持ちになっていた。
 「いま調べてみたけれど、カンガルーは二kmくらいなら時速30kmでも移動することができるみたいだ。そして薄明薄暮性らしい、今日みたいな月の明るい日だと大きく移動することもあるかもしれないね。動物園前で降りたら三方向に別れて捜索することにしよう。それとカンガルーの脚力は強くて雌を奪い合うときには雄同士が蹴り合って勝負をするんだ。人間がその蹴りを受けたら怪我じゃすまないから、見つけたとしてもあまり近づきすぎないように。携帯をツイッターにつないでカンガルーで検索をかけておくと目撃情報が得られるかもしれないから、各自見ておくように。見つけたらお互いに電話で知らせたあとGPSでマッピングしてメールで連絡をとろう。」
 シックは登録会から帰るときのように、手際良く僕らをリードした。彼はカンガルーについての注意事項と天王寺区の―動物園周辺の地図をプリントして手渡してくれた。それから僕に懐中電灯とキキには防寒用のジャンパーを与えた。
 「日本でも正式な手続きを踏めばカンガルーを飼うこともできるらしいから、動物園に来るカンガルーもそういった野生にいるものとは違うものが連れられてきているのかもしれないね。すぐにわかることは基本的なことくらいだけだったけれど、あまりぐずぐずして他の人が見つけてしまっても終わりだしとにかく出発することにしよう。いまから出れば10時には動物園前に着くだろう」とシックが言った。
 「なんだか不思議なことになったけれど、話してみてよかったよ。行こう」と僕が言った。 
 「とにかく石を投げてみないことには話は始まらないのよ」とキキが言った。

 駅に向かう途中で鍋の材料を買ったスーパーに寄った。キキがカンガルーの好きな食べ物を持っていった方が見つけたときに役に立つと提案したからだ。イネ科の植物の他にはきのこ類や虫を食べるようだったので店にあるきのこを一種類ずつ買って三等分することにした。
 電車に乗っている間、誰も話をしなかった。それぞれにカンガルーを見つけるところを想像しているのだろう。僕はすぐに見つけることができるだろうとなぜか楽観的になっていた。動物園前で電車を降りると最後にシックが注意をした。
 「道をよく確認してあまり深追いはしないこと。目印がないと帰ってくるのも大変だからね。じゃあ検討を祈る」

 一人になると急に不安になった。動物園前は商店街が並んでいたが、仕事を終えた人々はとっくにいなくなり生活の光はまばらだった。入り組んだ道が多く車も通らなかった。彼らといるときは無謀なようにみえてもカンガルーはけっきょく誰かに発見されるのだろうしそれが僕らの誰かであっても不思議じゃないと考えていた。どうしてそんなに楽観的になれたのだろう。カンガルーどころか人の姿さえ見つけられないじゃないか。僕はずっと誰かの頭の中で暮らしていたのだとそのとき気づいた。居心地のいい誰かの考えていることが僕の考えていることだと錯覚していたのだ。月は雲に覆われて見ることができず雨が降る前の湿度の高い空気が肌にまとわりついてきた。その空気はあのビルのエレベーターを思い出させた。懐中電灯の光線が手前を照らしているがすぐ先は塵のように弱い光でそう遠くまでは見通すことはできなかった。
 とにかく石を投げてみないことには話は始まらないのよ、とキキが言った。けれど僕のまわりに石なんてないことは知っていたはずじゃないか。目印がないと帰ってくるのも大変だからね、とシックが言った。

僕は親友を殺したい
92102

 プロローグ


「え!?好きな人が出来た!?え!?ホントに!?」
僕は夜中にもかかわらず大声で叫んでしまった。
「……うん」
ヒナは顔を赤らめて小さくうなずいた。下を見たまま手でポケット○ンスターの蛇型のポケモンをつくっている。僕が昔教えてあげたものだ。ヒナは恥ずかしくなると何故かこの行動に出る。あぁ!なんて可愛いのだろう。とても愛おしい。かの国民的アイドル、可愛いポケモンランキングナンバー1の黄色いネズミ型ポケモンでさえヒナの可愛さをもってすればその存在はかすんでしまう。ただのドブネズミと化してしまうのだ!それだけ今のヒナは常軌を逸している。地上に降りた最後の天使、ラストエンジェルにふさわしい!あぁ!全ての生命体がヒナに跪くまでそう長くかからないだろう!ビバ!ヒナ!ブラボー!ヒナ!……しかし今はそれどころではない。ヒナに好きな人が出来たって!?聞き間違いだろう……。聞き間違いだ……。聞き間違いであってくれ!そんなことはあってはならない!あ、やばい、吐き気がしてきた。吐きたい。だけどヒナの手前、そんな愚行を僕が犯すわけがない。ヒナに対して失礼だ。ここは我慢だ。我慢の時だ。……まてよ。ヒナは好きな人が出来たと言ったが、それはもしかすると僕かもしれないじゃないか。現にヒナは今もモジモジしている。さっきから目を合わせてくれないぞ。僕と目を合わせるのが恥ずかしいのではないだろうか。いや!きっとそうに違いない!そうだ!このヒナの反応は恋する乙女がその対象となる相手を前にした時の反応ではないか!何かの雑誌で読んだことがあるぞ!やった!やった!やったよ!コ○助の歌声が僕の頭の中で無限リピートしている。このままヒナとファーストキ……おっと。想像したら本気で涙が出てきてしまいそうになった。涙が出ちゃう。男のくせに。BE IN LOVE IS YOU。あぁ。それにしてもヒナは可愛いな。さて、落ち着いたところで本題に入ってみよう。ここからが僕の第二の人生の始まりだ。すべてを捨ててでもヒナと一生を共にする覚悟など、10年前からしている。全てはここから始まるのだ。よし!聞こう!
「ヒナの好きな人ってもしかしてさあ、もしかして……」
「え!わかるの?」
ヒナが更にモジモジしだした。今度は下を見ながら手でドラゴン型ポケモンをつくっている。可愛すぎる!と言うよりもこの反応。確定だ!僕だ!
「まぁ……なんとなく分かるかな。」
僕だろ!なかなかその言葉が言えない。ヒナの口から言ってほしい。僕はそう思っていた。そのためならいくらでも待てる。さあ!ヒナ!言ってごらん!君の好きな人の名前を!
「……そっか。分かるよね。バレバレだよね。」
するとヒナは急に顔をあげた。1万ボルトの瞳が僕を見る。当然僕は感電死。
「ヒナね、水野さんが好きなの!」
「え?」
僕は頭が真っ白になった。
「だから、お兄ちゃんの友達の水野さんが好きなの!」
―――――――僕は親友を殺すことにした。




「お兄ちゃーん!」
笑顔のヒナが僕に手を振っている。
「もう、お兄ちゃん!」
起こったヒナが僕を見上げている。
「お兄ぃちゃぁぁん」
泣いているヒナが僕に抱きついている。
「お兄ちゃん。エヘ」
ヒナが顔を赤らめながら水野と手をつないでいる。
「あああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!!!!!!!はあっ。はあっ。はあっ。殺す!!はあっ。はあっ。」
最悪の目覚めだった。
タッタッタッ。誰かが階段をのぼってくる音がする。いや、この音は、ヒナの足音だ。
バタッ!
「お兄ちゃん!また大きい声出してー。近所迷惑だよ。」
天使が僕の部屋に舞い降りた。先ほどの不快な思いなど一気に消え失せた。
「ごめんよ。ヒナ。びっくりさせちゃった?」
「ヒナは大丈夫だけど、お隣さんにめいわくだって!最近お兄ちゃん朝は叫んでばっかりだよ。ほんとに気をつけてよ!」
バタッ!
そうしてヒナは僕の部屋から出ていった。と思ったら。僕のドアをちょっと開けてそこから顔をのぞかせて言ったのだ。
「朝ごはん!出来てるぞ!ヒナが作ったの!早く来てね。」
「行きます!」
僕は光速でヒナに近づいた。きっとウサイン=ボルトを越えただろう。
「いやー!あははは!」
ヒナは笑いながら僕から逃げるように走り出した。
「待ってよヒナぁぁぁぁぁぁ!たべちゃうぞぉ!!」
僕は両手を広げてヒナに襲いかかるようにヒナを追いかけた。本当に襲いかかりたかったが、そこは我慢した。
そう。僕はシスターコンプレックス。略してシスコンだ。妹が好きで好きでたまらない。この17年間、好きな人は妹のヒナだけだ。ヒナが生まれたその日から、僕はずっとヒナに恋をしている。実の妹にもかかわらず。もちろん血は繋がっていいる。ヒナと一緒の血が流れていると思うと心からゾクゾクしてしまう。本当に妹のヒナを愛しているのだ。
「お母さーん!お兄ちゃんに食べられちゃうよ―」
ヒナは笑いながら母に抱きついた。
「本当にあんたたちは仲がいいわね。ほら、早く朝ごはん食べて学校行きなさい」
「ハーイ!」
ヒナが元気な声で返事をした。本当にいちいち可愛い奴だ。僕も席に座って一緒にご飯を食べようと思った。しかし、母の鋭い視線を感じた。
「健二。ちょっとこっちに来なさい」
ちなみに健二とは僕の名前である。
「ちっ。」
僕は母に廊下まで連れてこられた。そして母はすごい剣幕で僕に詰め寄ってきたのだ。
「あんた、ヒナに手出してないでしょうね」
「出してないって。遊んでただけだって」
「あんたがいつ手出すかわたしは不安でしょうがないのよ」
そう。母は僕がヒナを愛していることを知っているのだ。一度ヒナが寝ている間にヒナにちょっかいを出そうとしたところを母に見られたことがあるのだ。その時、母に腕を折られた。それ以降僕はヒナに触れることさえままならないのだ。クソ。悪魔の化身め。
「大丈夫だって。息子を信じてよ。てか学校遅れるからご飯食うわ」
僕はにげるように颯爽とキッチンに向かった。早くヒナのご飯を食べたかったからだ。そして、ヒナのご飯を食べる姿を見たかったからだ。
 ヒナは僕の妹だ。10歳の小学生。とりあえず可愛いのだ。透き通る透明な肌に、キラキラ光る宝石のような目。整った小さな鼻に、上品すぎる薄い唇。綺麗な黒髪。将来はきっと大和撫子の具現者と呼ばれるに違いない。ヒナの凄いところはその容姿だけではい。ヒナは料理がものすごくうまいのだ。ヒナの作る料理はもはや母の作る料理を越えている。学校の給食の50倍は上手いとされており、月に一回ヒナがクラスのみんなに料理を作る日さえあるくらいなのだ。ヒナの料理を他の人間に食べさせるのはいささか抵抗があるが、ヒナが喜んでいるようなのでまぁいいだろう。こんな完璧なヒナだが、欠点がある。なんと運動神経が壊滅的にないのだ。言ってしまえばすごくドジ。なにもないところでこけるのは当たり前。ヒナはそんなベタなドジではないのだ。つい最近の出来事だ。ヒナは学校の掃除の時間中に何が起こったか分からないが、ガラスを20枚ほど割ってしまったのだ。本当にただ掃除をしていただけらしい。目撃者の子も「ヒナちゃんはわざとやってない」と言っており、当のヒナも大泣きながら先生に謝ったと聞いた。可愛すぎじゃないか。先生もその可愛さゆえにゆるしてしまったのだろう。仕方がない。気持ちは痛いほどわかる。こんな可愛い顔をして、料理もできて、それでいてドジっ子。ヒナは最強だ。可愛さの化身なのではないだろうか。完璧な人間など美しくない。その点ヒナは分かりやすいくらいに素晴らしい欠点をもっている。その欠点すらもヒナの可愛さに拍車をかけるものでしかない。もはや欠点と呼べるのかどうかさえ疑わしい。あぁ!愛しているよヒナ!あ、学校遅れる。早く食べよう。
「いただきまーす。ヒナ」
「はい召しあがれ―!」
「うわ、すごくおいしいじゃないか。さすがヒナだ」
「ありがとー!今日はお弁当も作ったんだよ」
「本当に!?すごくうれしいよ!ヒナの弁当は初めてだね!」
死んでもいいと思った。こんなにうれしいことは無い。
「あとお兄ちゃん。この弁当水野さんにも渡してほしいの!」
僕は今日、親友を殺すことにした。

ウォーミングアップ
092104

ここが僕が通う県立西郡高校か。
冷たい風が吹いている。 まだ早朝なのでグランドには誰もいないようだ。

中学の時からの日課のランニングの途中で少し寄り道してみたのだ。

ふと人影が見えたので建物の裏に廻る。

「パァン!」

いきなり物凄い音がした。

そこにはとても今の球を投げたとは思えない華奢な身体をしたピッチャーがいた。


「しゃぁ、ナイスボール」その声で我に返る。

ピッチャーと反対側にいた青年がボールをなげかえす。
そして
「どうしたんだ?こんな朝早くからランニングか?」と僕に話しかけてきた。僕は慌てて逃げだした。

なんで逃げたのだろう。真辺悠一(マナベユウイチ)は自分でも不思議に思いながらランニングを再開する。

家に帰り、朝御飯を食べる。

「あんたの制服出しといたよ。」と母が言う。


「おぅ、サンキュー」


「どうだった?」


「何が?」


「学校よ。さっき見て来たんでしょ?」


「あぁ、結構綺麗だった。」


「そう。」


「ごちそうさま。」
そう言って席を立ち、部屋に入る。

濃紺のブレザーと灰色のズボンが掛かっていた。


今日から三年間お世話になる制服だ。
真新しい制服に身を包み、家を出る。

校門をくぐる前に朝の二人がいた建物の裏へ廻る。
誰もいなかった。

少しホッとしながら学校に入り、クラス表を探す。


「悠一!こっちこっち。」中学校の時にバッテリーを組んでいた橋本和哉(ハシモトカズヤ)が大きなコルクボードの前で呼んでいた。


「クラス一緒だぜ!よかったな、友達がいて!」


「え…お前と一緒かよ。」と、軽口で返す。


そんなことを言いながら階段を上がり、教室に入る。

「おはよっ。悠ちゃん、和ちゃん。また一緒だね」中学の同級生だった谷口美佳(タニグチミカ)が窓際から声を掛けてきた。
「おー、おはよ。」

「あっ、お前。俺の時とえらい違うじゃねぇかよ」

「そーかぁ?一緒じゃん。」


「…全然違うだろ」

それから始業式が終わり、放課後。

「よしっ、行くぞ悠一。」

「おぅ」
もちろん野球部の練習だ。

二人は野球部に入るためだけに学校に来たようなものだから、初日から準備してきたのだ。

二人がグランドに着くと、
「あっ、今日の朝の奴じゃん」と、いきなり声がした。

横をみると朝のキャッチャーが立っていた。


僕はものすごく慌てた。

あの短い時間で覚えられていたのか、と思った。


すると、
「ピッチャーだろ?」とその人が言った。


僕は思わず、
「なんで解るんですか?」と、言った。


「やっぱりな。なんとなくだよ。」と言って笑った。


「俺は土屋浩平(ツチヤコウヘイ)。二年でキャッチャーやってる。ってか見たか。」と言った。


「キャッチャーなんですか!?」と、それまで黙っていた和哉が興奮しだした。


「そうだ。お前はこいつの相棒か?」


「はいっ!一年四組橋本和哉です!よろしくお願いします!」


「おぅ、よろしく。
ちょっと投げてみないか?」


最後の言葉は僕に向けたものだった。
「えっ、僕が、ですか?」


「そう、お前が。俺が捕るからさ、早くアップしてマウンド行けよ。」



まさか初日に投げれるなんて…でも、あまりにも急過ぎだ。

「やったじゃん悠一。さ、早くアップしようぜ。」


「…何で和哉が嬉しそうなんだよ。」

「何でって、そりゃ嬉しいだろ。ここまで育てたのは誰だと思ってんだよ。」

「そりゃうちの母ちゃんだろ。」などとアップをしながら言っていると、


「アップ終わったか?」
土屋さんだ。


「あっ、もうすぐ終わります!」と、和哉が言った。


「ヨシッ、じゃあ俺もプロテクター着けて来る。」そう言って部室へ入って行った。


「うわー、緊張してきた!!」

「だから、何で和哉が…」

「いいから、ほらボール。」そう言ってボールをよこす。


「最高のボール投げろよ。」急に真面目な顔になって僕を見た。


「あぁ」そう言うと、和哉はニヤッと笑った。

ドクン…ドクン…
マウンドに立つとものすごく緊張してきた。


「もう少し力抜けよ。最初は軽く投げて、それから変化球とか投げてもらうから。」


「…はい。」


シュッ……
パシッ

シュッ……
パシッ

シュッ……
パシッ

「じゃあ、そろそろ座るぞ。」


「はい、お願いします。」


「よし、じゃあまずは一番得意なボール投げてくれ。」



悠一は大きく息を吸って振りかぶり、身体を沈めてアンダースローのフォームから腕を振った。
パァン!
「おぉ、いい球投げるねぇ。」土屋さんはそう言ってボールを投げ返してきた。


僕が投げたのは、ストレートだ。今朝見た球が忘れられなかった。


僕が今投げた球は、今朝のそれには到底及ばなかった。

「次は変化球いきます。」僕はそう言った。せめてこれだけは負けたくない、と思うボールがあった。


「こい。」土屋さんが構えた。

シュッ………


「えっっ?!」

ガッ!!


ボールは土屋さんのミットをかわして土屋さんの身体に当たった。

「…スローカーブか??」土屋さんがマスクを外して言った。

「はい、一応。」そう答えた。

僕としては、なかなかのかかりだった。


「…どうでしたか???」恐る恐る聞いてみた。


「あそこまでかかる球はあんまり見ないなぁ。」と言って土屋さんは笑った。
「すげえな。土屋が捕れないなんて珍しいぞ。」
「なぁ。なんかいいもん見た。」
「ストレートとの差なん`ぐらいあるんや??」
次々と声を掛けられた。


「そんな一度に話しかけるなよ。困ってるだろ。」土屋さんがやってきて止めてくれた。
「でもさっきのはマジで焦った。名前は??」と聞いてきた。

そういえば名前言ってなかったよな。 そう思いながら、
「あっ、一年四組の真辺悠一です。よろしくお願いします。」

すると、一番最初に話し掛けてきた人が、
「あ、俺は唐澤孝行(カラサワタカユキ)二年でショート
よろしく」と言った。



「俺は楠田弘樹(クスダヒロキ)二年。セカンドやってる。」と、二番目の人が言った。


最後に関西弁の人が、「俺は榊俊哉(サカキトシヤ)二年でサードやってる。大阪から土屋に誘われて、このど田舎へ来たんや。俺らは中学バラバラやけどリトルからの知り合いやねん。」
小学生の頃からのライバルか…なんだか漫画みたいだ。

「まっ、とりあえず入部希望者も集まったことだし、自己紹介も兼ねてミーティングするか。」そう言って土屋さんがプロテクターを外した。

「新入生は部室前に集合してや。」と、榊さんが他の一年に呼び掛けた。
そこで初めて他の一年がいることに気付いた。
「他にいたのか…」と呟くと、
「いるだろそりゃ。」と唐澤さんに返された。


「おい土屋、カントクは??」と榊さんが聞いた。
「カントクならそこにいるぞ。」そう土屋さんが言うと、部室の中から
「ミーティング始めるぞぉ。おっ、結構来たな。」という声とともに一人のヒョロッとした男が出てきた。
「あ〜、俺がここの野球部の監督の長谷川亮佑(ハセガワリョウスケ)だ。別に敬語とかは気にしないから、普通に呼んでくれ。ちなみに二年三組の担任だから。」


「あと、俺らはハッセンって呼んでるから。」と、榊さんが口を挟んだ。


「榊お前後でグランド五周な。
それと、気付いたと思うがこの部には三年がいない。二年も五人だから、試合は一年にも出てもらうからな。」とハッセンは言った。


「えっ?!五人ですか?!」と、僕の隣にいたボサボサ頭が言った。


「そうや。だから俺らは去年試合一回もやってないねん。練習も基礎練ばっかり。おもんなかったであれは。」


「榊プラス五周な。
そういうことだから。頑張ってアピールしてくれよ。
じゃあ自己紹介してもらおうかな。」
そうして自己紹介が始まる。

「藤田肇(フジタハジメ)です。ポジションはセンターやってました。よろしくお願いします。」

と、背が高くてがっしりした青年が自己紹介をした。

「杉田順平(スギタジュンペイ)です。ポジションはセカンドです。外野もやってました。」

隣のボサボサ頭が言った。

「真辺悠一(マナベユウイチ)です。ピッチャーです。よろしくお願いします。」

そして次に、
「一年四組橋本和哉(ハシモトカズヤ)です。キャッチャーです。よろしくお願いします!」和哉が元気よく自己紹介した。


「渡辺俊弥(ワタナベトシヤ)です。ショートやってました。」

一年の中で一番小さい奴が言った。


「尾崎康裕(オザキヤスヒロ)です。ファーストです。よろしくお願いします。」

ものすごく身長が高い奴だ。2bぐらいありそうだ。


「清水瑞稀(シミズミズキ)です。どこでも守れます。」
イケメンだ。


「吉村賢介(ヨシムラケンスケ)です。ピッチャーやってました。」

ライバル出現。
背も高いので結構速い球を投げそうだ。


これで全員の自己紹介が終わった。

すると、カントクが、
「じゃあ次はマネージャーを紹介する。」と言ってマネージャーを呼んだ。


僕と和哉の口が開いた。

「はじめまして。谷口美佳(タニグチミカ)ですっ。よろしくお願いします。」

美佳だった。


そしてもうひとり、
「植田茜(ウエダアカネ)です。中学の時からやっていたので大体の事は出来ます。」


美人だ。

黒髪はポニーテールにして、大きく切れ長の目。

整った顔立ち。

美佳も美人なのだが、横に並ぶと、美佳は可愛く、茜は完璧な美人という感じだ。


隣を見ると、和哉が、
「……惚れた…」と呟いていた。

早い。分からなくもないが。


「よし、マネージャーも入ったことだし、気合い入れて練習するかっ」土屋さんが言った。

「あっ、言い忘れてたけど俺がキャプテンの土屋浩平(ツチヤコウヘイ)だ。よろしく。」


何となくみんな解ってたみたいだ。

「俺は榊俊哉な。サードやから。」


「俺は唐澤孝行。ショートやってる。渡辺、よろしくな。」


「はいっ!よろしくお願いします!」渡辺が緊張しながら答えた。


「俺は楠田弘樹、セカンドだ。杉田よろしく。」


「よろしくお願いします。」杉田が言った。






僕はさっきから気になっていることを聞いた。
「あの、朝投げてた人がいないんですけど…」


すると土屋さんが、
「あぁ、あいつ掃除サボったから一人でさせられてんだよ。馬鹿だからな。」と言って笑った。

僕はちょっと憧れが薄くなった。「よぉし、じゃあまずは一年の実力も見たいからシートバッティングからやるか。守備も希望のポジションについてくれ。」とカントクが言った。


みんながグランドに散って行く。

「なんでやぁ〜!!」

榊さんはカントクに追い立てられてランニングを始めた。

最初のバッターは和哉だ。


そして、
「ピッチャーは真辺と吉村でまわしてくれよ。ウチの馬鹿エースがいないからな。」と、土屋さんが言った。


「先に投げてもいいか??」吉村が言った。


「あぁ、いいよ。あいつ中学から知ってるからつまんないし。」と言って僕は笑った。


「さっきのスローカーブ凄いな。また見せてくれよ。」


「分かった。期待しといて。」


そして吉村が投球練習を始めた。オーバースローのフォームで中々速い球を投げる。


「そろそろいいか?」と、土屋さんが声を掛けた。

「はい、大丈夫です。」



そして吉村の第一球。


「ズバァン!!」


音が…ありえないくらい重い。


もちろん和哉はバットを振っていなかった。



「何だよ今の…
ありえねぇだろ。」

そう言いながらバッターボックスから一旦出る。


「この一年はバケモンばっかりだな。ストレートがこんなに重かったり、変化球がありえないくらい曲がったり…。」

と土屋さんがこぼした。

だが、その後すぐに、
「まっ、榎本には敵わないけどな。」と言った。

僕はすぐに朝のあの人が浮かんだが、吉村は見てないので少しイラッとしたみたいだ。


「どんなやつだよ…」と悔しそうにこぼした。





一方で和哉も驚いていた。


「これより速いんですか?!」と土屋さんに聞いていた。



「速いで、あいつの球は。ここに来てへんかったら確実に甲子園で投げてるやろうな、去年に。」
榊さんが走りながら言った。






「もぅいいですか?投げますよ。」吉村がしびれをきらして言った。


「ああ、悪い。こい。」
そう言って土屋さんが構え、和哉がバッターボックスに立った。


吉村がモーションにはいり、二球目を投げた。




「ガキィン!」


和哉が打ったボールはバックネットに転がっていった。




(あれ??意外とタイミング合うな…)
和哉はそう思った。






(なっ?!タイミング合ってやがる!)
吉村は驚いた。まさか二球で当てられるとは思っていなかった。



そして三球目。





「カイィン!!」
和哉のバットが快音を鳴らした。


痛烈なゴロが吉村の足の間を抜けた。


「センター!いったぞ!!」と土屋さんが叫ぶ。


だが今にも抜けそうな時、ショートを守っていた渡辺がボールに飛び付いた。
そしてボールをファーストに投げる。


しかし和哉は50b5秒9の俊足キャッチャーだ。

ファーストを守っているのは尾崎。長い身体をめいいっぱい伸ばしてボールをとる。

クロスプレーになった。審判(カントク)の判定は…





「アウト!!」


「ウオォー!!上手ぇぇ!!!俺でも今のは無理かも。」



榊さんが走っているので代わりにサードに入っていた唐澤さんが叫んでいた。





和哉は、

「うわぁ…絶対抜けたと思ったのに。どんだけ守備範囲広いんだよ。」

と悔しそうに言った。


僕も和哉があのコースに飛ばしてアウトになるのを初めて見た。



「ナイス渡辺。助かったわ。」マウンドから降りながら吉村が言う。



次は僕の番だ。



「じゃあ次のバッターは…清水、お前が打て。」と、カントクが指名した。


ライトにいた清水が走ってきて、杉田が代わりにライトに入る。






その間に軽く投球練習をする。すると土屋さんがやってきて、
「お前ストレートとスローカーブ以外に何投げれんの??」と聞いてきた。


「後はスライダーとチェンジアップです。」と答えた。


「そんなに投げれんのか?!
じゃあ指一本がストレートで二本がスライダー、三本がスローカーブ最後に四本がチェンジアップな。
サインだすから。」と言った。


「分かりました。」

そして清水がバッターボックスに入り、土屋さんからのサインは…一本。
ストレートだ。


僕は頷き投球モーションに入った。
「パァン!!」土屋さんのミットが鳴る。

「ボール!」



清水はピクリともしなかった。




(嫌な見逃し方だな…)そう思った。最初からボールになるのが分かっていたみたいだ。



二球目のサインはスローカーブ。


グラブの中でボールの縫い目を触る。


そして第二球目。


清水は踏み込んで打ちにきた。


しかし、

「パシィン!」


バットに掠らずに土屋さんのミットにボールが納まる。



「…すげぇ。あんなに曲がるのか…。」
吉村が呟いた。





「すげぇ。」
清水がバッターボックスから出ながら言う。

しかし顔は笑っていた。
(いいピッチャーいるじゃん。)
そう心の中で呟き、再びバッターボックスに入る。




三球目に清水はストレートをファールした。
しかしタイミングはピッタリだった。



そして四球目。


土屋さんはチェンジアップのサインを出した。



アンダースローのフォームでストレートと同じ腕の振りでボールを投げる。



「クッッ!!」



「パシィン!」

「ナイスボール!!残念だったな清水。三振だ。」土屋さんが清水に言う。



「全然分からなかったっす。ストレートだと思ったら球が来ないんですよ。」と清水が答えた。

「ナイスピッチ。」吉村が手を出してきたのでハイタッチをしてマウンドを降りる。


久しぶりの実践形式で楽しかった。
その後も一年が次々とバッターボックスに立ったが、僕と吉村の前にバットからは快音は聞こえなかった。

そして僕の番が来た時、

「じゃあ次は俺が打つわぁ。」と、ランニングを終えた榊さんがバッターボックスに入った。



「真辺!こいつはウチの4番だからな。気合い入れて投げろよ。
守備もボケっとしてたらボール当たるぞ。」

土屋さんがそう言ってマスクを被る。





第一球目はチェンジアップのサインだ。


僕はおもいっきり腕を振った。




しかし、
「ガッキィィン!!」


榊さんはフルスイングしてきた。


「レフトォ!!!」

土屋さんが今度はレフトを守っていた清水に向かって叫んだ。







ボールはそのまま曲がりファールゾーンへ飛び、ネットに当たって落ちた。


「あちゃー、ちょっとタイミングズレたか。」榊さんが残念そうに言った。



「怖えぇぇ…マジやばいだろ今の飛距離。どんだけぇぇ」と、吉村が言った。



…ちょっと古いかもな。




ともかく、第二球目。今度はスライダーのサイン。



僕の中ではスローカーブほどではないが、結構自信のある球だった。


だが、再び榊さんのバットが快音を鳴らす。「カイィィン!!」ボールは真っすぐセンター方向へと飛んでいく。



そしてセンターにいた藤田の頭上を越えてグランドに弾んだ。


「センター!ボール三つ!!」土屋さんの声で榊さんを見ると、二塁ベースに到達してそのままサードへと走り出していた。


藤田がボールを掴み、すぐにサードへと投げた。

かなりの強肩だ。


そしてサードの唐澤さんにボールが渡った。


その時榊さんは……

二塁ベースに立っていた。


「…あれ??今走ってませんでした??」

藤田が不思議そうに尋ねた。



「途中で戻ったで。見てなかったんか??」



「俺いっつも投げてすぐは帽子がズレるんであんまり見えないんですよ。」


藤田がそう言った。


「なんやそれ」

榊さんがかなりウケたように笑った。


この人スゲェ…

そう和哉は思っていた。


今まで悠一の球を受けてきて、初対戦であそこまで悠一の球を飛ばすバッターと出会ったことがなかった。


それを…


榊さんは天才だ。

悠一も同じように榊の方を見て思っていた。


この人に認められている榎本というあのピッチャーの球を早く見たい、と思った。


「次、俺打ちたい。」

そう言ってサードから唐澤さんが走ってきた。


そして榊さんと交代してバッターボックスに入る。


「よろしくお願いします!」


吉村が挨拶をしてマウンドに上がる。






そして、第一球目。




先程のストレートとは打って変わって、緩い変化球を投げた。

「おぉっ?!カーブか。あんだけストレート見せといてこれ投げられると対応できないわ。」


唐澤さんが言った。

第二球目。

今度はストレートと同じスピードだった。

だが、バッターの手前で鋭く落ちた。
「うわっっ?!」


唐澤さんが空振り、土屋さんのミットを弾き、ボールはバックネットまで転がっていった。

「なんや、今の??吉村、お前今どんな球投げたんや??ストレートがものすごい落ちたで。」


サードから榊さんが言う。


確かにスピードはストレートだった。


だが、落ちた。
「今のは、俺のウイニングショットです。一応スプリットのつもりです。」


吉村が答える。



「おぃおい、今年の一年はえげつない球投げる奴ばっかりやな。」






「だよな。こりゃ打てねーわ。俺が捕れないんだからな。」


土屋さんがそう言いながら、唐澤さんの肩を叩く。







「まだ1ストライク残ってるだろ。やらせてくれ。」




唐澤はやる気満々だったが、











「すんません遅れましたぁ!!!!教室掃除を一人でやらされていました。」



僕は「教室掃除」と聞いた瞬間に誰か解った。


榎本さんだ。ようやく、あの球を見れるのだ。
フォームの始まり

フォームの終わり


「お前遅いよ。早く着替えろ。一年に示しつかねぇだろ。」

近くにいた楠田さんにどつかれ、キャプテンの土屋さんに蹴飛ばされながら、必死で部室に逃げ込む。



しかし、部室には…










「こら、榎本!!何分遅刻しとんじゃ!!着替えて走ってこい!!」


カントク、長谷川がいた。



「いやいや、先生が掃除させたんじゃ…」

榎本さんが言いかけると、




「はよ走れや。俺も走らされたんやからな。」


榊さんから追い打ちが飛んできた。



「榊まで…。この部には味方がいねぇぇ!!!」


そう叫びながらランニングへと逃げた。




「まったく。あいつが榎本な。榎本彰(エノモトアキラ)。一応エースだ。」


長谷川カントクが言った。


「真辺と吉村もいい球投げるじゃないか。

でも、それでも、まだあいつのほうが上だな。あいつは今まで土屋にも榊にも打たれたことがないからな。」
「えぇ?!そんなに凄いんですか?!見てみたいっす!!!」

和哉が興奮して言った。




「じゃあ一年全員バッターやるか。
おぉい、榎本!!もういいからすぐ肩作れ。一年が打ってみたいってさ。」



長谷川カントクが榎本さんを呼び戻した。








「ほほぉう、俺の球を打ちたいってか??」


榎本さんが怪しく笑う。








(怖ぇよ。あの人…)



一年全員がそう思った。







「じゃ、まずは…そいつ!!名前は??」

榎本さんが指名したのは、



「俺っすか??わ、渡辺です。」


渡辺だった。






「セコいんだよっ!お前今1番小さい奴狙っただろ??なぁ、そうだろ??!」



楠田さんが榎本さんを締め上げながら尋ねた。




「いや…あ…うん…そうだけど…苦しいんだけど…俺一応エースなんだけど…」


途切れ途切れの言葉で認めた。




(この人マジでエースか??)

だが、一旦榎本さんが投球練習を始めると、一年全員の目の色が変わった。



(…スゲェ。なんてコントロールなんだ…)



榎本さんの投げたボールは土屋さんが構えたミットへとまっすぐに吸い込まれていった。






「よしっ、いいぞ。渡辺、バッターボックスに立て。」


榎本さんが言い、渡辺がバッターボックスに入る。




「渡辺ぇ、頑張れよぉ。そいつの顔面にぶちかましたれ!」


榊さんがサードから恐ろしいことを叫んだ。



(なんちゅうことを言うんだよあの人…)



それは渡辺だけではなく、一年と榎本も思った。



「そうだそうだ!ぶちかませ!!」


楠田さんまで叫びだした。






「お前らうるせぇよ」


土屋さんが止めてようやく榎本さんが投球モーションに入り、第一球を投げた。
「スパァァン!!」

土屋さんのミットが音を立てた。


榎本さんが投げた球はスライダーだった。


渡辺はバットを振っていなかった。



「…ボールだな。渡辺、よく見たな。」


土屋さんがそう言い、ボールを投げ返す。



「や、今のは振れなかっただけです。あんな急に曲がるとは思いませんでした。」


と、渡辺は言った。




そして、第二球目。







「ズドォォン!」


先ほどとは比べものにならない音がした。




(これが…この人のストレートか…)

吉村は土屋さんが言った意味が分かった。



スピードも球威もまるで敵わない。




渡辺は空振りしていた。


(…ジャイロボール??!)




そう、バッターボックスに立った渡辺だけが気付いていた。




榎本のストレートはジャイロだった。
「…今のはジャイロですよね??」


渡辺は土屋さんに聞いてみた。





「おぅ、よく分かったな。お前ボールを見る力持ってるな。」


土屋さんが答えた。



「今までずっと1番バッターやってましたから。」



(そうだ、俺は1番を打ってたんだ。粘れるだけ粘るぞ。)



そう決意して、渡辺は再びバッターボックスに立つ。








そして第三球目。








「ガツッ」




渡辺は榎本さんの投げたフォークを上手くカットし、ファールになった。












第四球目。










「ズドォォォン!!」



榎本さんのジャイロボールが唸り、土屋さんのミットに収まった。




「やっぱ無理だぁ…」


ガッカリした様子で渡辺が部室の方へと歩いてくる。




「渡辺、どうだ。ウチのエースは。」


カントクが問う。




「スゲェっす。まさかジャイロが投げれるなんて思いませんでしたよ。」


渡辺がそう言うと、


「ジャイロ!?マジで??」


「スゲェ…」


「なんでそんな人がここに??」


「ジャイロって何??」


「ってかあのスライダーやフォークも相当曲がってたぞ。」


「やっぱりエースなんだ…」



と、一年がざわめいた。


「じゃあ次は…」

榎本さんが言いかけると、



「今日はここまでだ。時間も時間だしな。軽くノックして終わりだ。一年もさっきのポジションについてくれ。」



とカントクに遮られた。





そういえば陽もだいぶ落ちていた。

遠くでカラスが鳴いている。


翌日、教室に入ると渡辺と和哉が後ろの席で話していた。


(そういえば渡辺ってうちのクラスだったんだよな…気付かなかったけど)




「あっ、悠一!!今日なんか野球部の新入生歓迎会があるらしいぞ。

榊さんの家がお好み焼き屋なんだって。」

和哉が言った。


「へぇ。じゃあ今日は練習は無しか??」



「やってからだって。お腹空かしてかららしいよ。」


と言って渡辺が笑う。




「新入生ってことは私達も行っていいのよね??」


美佳だ。後ろに和哉いわく【茜様】がいた。


「おはよっ!!!」

和哉が元気よく挨拶した。


「うん、おはよっ!!」

返事をしたのは美佳だった。


【茜様】はなぜか僕の横の席に座り、


「おはよ、真辺君。
で、私達も連れて行ってもらえるの??」

と言った。


「うん、榊さんが『マネージャーは絶対!!』って言ってたよ。」


と、多少悲しそうな顔で和哉が答えた。



「やったぁ!!!」


美佳と茜は手を取り合って喜んだ。


「私本格的なお好み焼きって食べた事無いから楽しみ!!」


茜がそう言った時、


『キーンコーンカーンコーン』


と、チャイムが鳴って先生が入ってきた。


「はい、席に着いて!!」


と中年のおばちゃん先生が言った。




ちなみに塚本恵という。










「あれ??茜ちゃんこのクラスだったの?!」


と和哉が驚いて聞いた。


「ひどいなぁ。このクラスだよぉ。」







マジで…






どれだけ僕たちがクラスを見てなかったかが、ようやく分かった。
「ヨーシ、今日はここまでだ。片付けが終わったら各自ストレッチして部室前に集合!!!」


土屋キャプテンの号令で練習が終わった。





グラウンド整備も終わり、皆が部室前に集まりだした。


「ヨシ、じゃあ一年は着替えて校門前に集合な。それから全員で榊ん家行くからな。」


土屋キャプテンが言い、僕たちは急いで制服に着替えて校門へ行った。





「歓迎会って何するんだろうな。」


吉村が言った。


「普通に飯食うんじゃないの??」


清水が答えた。


「それだけ??なんかもっとあると思った。」


「いや、何するか知らないけど、大体そんなもんだろ??」


「でも榊さん、なんか面白いことしてくれそうな人じゃん。」



などとしゃべっていると、土屋キャプテン達が来て、


「じゃあ行こうか。」


と言って歩き始めた。


僕や和哉は自転車通学なので、自転車を押しながらついていった。


すると、

「着いたぞ。ここだ。」


と、土屋キャプテンが言った。


「えっ、近っっ!!!!!!!」


杉田と和哉が思わず叫んだ。








そう、お好み焼き【醍醐】は学校の校門を出て徒歩3分のところにあった。
「いらっしゃ…なんやお兄ちゃんかい」


店に入ると、かわいらしい顔をした女の子がエプロンをつけて忙しそうに働いていた。


「なんやはないやろ!!今日は客や客!!」

榊さんが答える。


「あっ、いらっしゃいませ。野球部の方ですね。奥の座敷へどうぞ。
ほらお兄ちゃん、はよ案内しぃ!」


榊さんが妹に急かされて僕らを連れて店の奥へと入っていく。


僕らの他に、常連客のような人が何人かいた。


「おー早苗ちゃん。久しぶり。俺らはミックスをお願い。」


土屋さんが先に注文をしてから座敷に入った。


「わぁ、すごーい!!こんな大きな鉄板みたことない!!」


茜が驚いて言った。


そこには大人数用の長いテーブルがあり、鉄板が中にはめられていた。

それぞれがテーブルの周りに座った時、早苗と榊さんのお母さんらしき人が具の入ったボウルを沢山持ってきた。


一番入口に近い場所に座っていたので、僕は立ち上がって早苗の手からボウルを取った。


「あっ、すいません!ありがとうございます。」


早苗は少し赤くなりながら僕に礼を言った。



「んじゃ、焼こか。一年でお好み焼き作れるやつおるかぁ??」


「あ、俺は焼けますよ。」


吉村がそう言ってボウルから具を鉄板に流し出した。


しばらくして吉村がお好み焼きをひっくり返すと、綺麗に焼けていて、いい匂いがした。


「おぉ、上手いやんけ。土屋なんか今だに焼かれへんのに。」

そう言って榊さんが笑った。


「どーでもいいから早く食わせろ!!!」


榎本さんが反対側から言った。


「自分で焼けや!!お前は出来るやろ!!」





それから榊さんに色々教わりながら皆はようやく出来上がったお好み焼きにありついた。
しばらくは各々が焼いた
お好み焼きを頬張り、


「うまい!マジで!」

「ほんと美味いっす!」

「最高っす!」

「早苗ちゃんっていくつですか?」

「また今度お母さんとかと
一緒にきたいですー!」



等々、他愛のない会話が
鉄板の上を行き交った。



大体一段落した頃に、


「ちょっと聞いてくれるか?」
と土屋キャプテンが立ち上がって言った。


「今年これだけ新入生が入って、
ようやく試合が出来るようになった。


そこで俺たち二年がなんで
この高校に来ることになったのか

今日はそれを聞いてもらうための
新入生歓迎会でもあるんだ。」



そう言って周りを見渡した。



一年生達は全員が興味津々の
顔をしてキャプテンを見つめていた。
「あれは俺たちが中学3年の
夏休みのことだった。」


「よっ、語り部!!」



茶々を入れた榎本さんを
思いっきりしばき、


「俺たちはそれぞれの
シニアを引退した。


そうしてここのメンツと
連絡を取り合って
それぞれがどこの高校に
進学するかを話していたんだ。



皆そこそこの強豪校から
推薦入学の話が来ていた。



だけどある時、急に榊が
一度集まろうと言いだして
5人で海に行ったんだ。



そこで榊から、ここの高校の
監督に熱心に誘われていて、
強豪校よりもここで
甲子園に行ってみないかって
俺たちに持ちかけてきた。−−

「強いとこ行って甲子園に
出るのも悪くないかもしれんけど

俺はおまえらと一緒のチームで
一から戦ってみたいねん!!
自分たちの力がどこまで
通用するか試したいねん!!」


強い日射しが照りつける砂浜で
榊がいつになく真剣な目をして
俺たちに訴えかけていた。


「けどおまえはずっと
名港に行きたいって言ってて
実際に推薦の話も
来てるんじゃなかったっけ?」


楠田がアイスクリームを
舐めながら尋ねる。


「せやけど、俺はその監督の話に
ものすごい魅力を感じてん!
強豪校は甲子園出て当たり前
って言われるけど

無名校から甲子園って
めちゃくちゃ燃えるやろ?」

榊は目を輝かせて言った。



「けど来年から野球部できるって
部員集めるの大変だろ?


しかも俺たちみたいなレベルでも
甲子園なんて遠い目標なのに
寄せ集めみたいなチームで
上がっていけんのか?」


唐澤にもっともな疑問を
投げ掛けられ榊は言葉に詰まる。


「それはそうやけど……
やってみたいって
思ってしもてん…。」


俯きながら呟いたのを聞きながら
土屋は少なからず魅力を感じていた。
「確かに榊の言うとおり面白そうだよな。」


土屋が言うと、榊はさらに目を輝かせて

「せやろ、せやろ!どうせやるなら好きな奴らと好きなように野球したいやろ?」
と周りを見渡して言った。



−−

「…とまぁ、こんな話をして、結局みんな集まったってわけだ。」

土屋さんが話し終えた。



「やからウチでは全員が楽しく、勝てるチームを目指したいんや。それにはおまえら一年もおれらに言いたいことは、はっきり言うてくれてええからな。みんなで甲子園目指そうや!」


榊さんはそう言ってお好み焼きを平らげた。



一年生は全員、顔を輝かせて、
「僕たちも全力で楽しんで野球します!よろしくお願いします!」
と叫んだ。



この日から県立西郡高校野球部は本格的に始動した。

マスターベータソン
92109

フリージャーナリストというとなにかしゃれた仕事を想像するかもしれない。合コンでは名刺を見せるだけで一歩リードのインテリジェンスあふれるかっこいい仕事だと思われる人も多くいることだろう。そんな諸君に告ぐ、それは大きな間違いだ。
フリージャーナリストの仕事は楽じゃない。面白い記事を書くため、時には命を賭して取材に向かわなければならないこともあるのだ。かつて私は、表向きには超大手の製薬会社だが裏社会で麻薬の密輸を行っているK製薬の重役にインタビューをしたことがある。相手には「業界トップを走り続ける秘密」という内容の記事を書くためと伝えていたが、もちろん真の目的は麻薬の裏取引の秘密を聞き出すこと。相手にこちらの意図を悟られないように慎重に取材を行ったが、相手に勘付かれてしまい相当な拷問を受けた。体中に暴行を受け、筋肉弛緩剤を大量に投与されてゴミ捨て場に投げ出されたのである。しかし、それでも私はジャーナリストを続けている。この世界には、みなに伝えなければいけないことがまだまだたくさんあるのだ。
今日も今日とて、私は取材のため群馬の山奥に足を運んでいた。そこにたったひとりで住んでいるというある男に会うためである。話によるとその男は日本では四人しかいない「ベータソン」の一人なのだという。私はその「ベータソン」という全く聞いたことのない職業の男に会うことに一抹の不安を感じ、護身用にスタンガンをかばんに忍ばせた。
 しばらく歩いていると一軒の山小屋を見つけた。外壁にはツタがまきつき、いたるところにカビが生えている。どう考えても人が住んでいるとは思えない、廃屋同然の小屋だった。本当にこんなところに住んでいるのだろうか…そう思いながら私は小汚いドアをノックした。
「すいません、誰かいませんか。」
「はーい。」
この山小屋には似つかわしくないさわやかな声がきこえ、これまた似つかわしくない小綺麗な身なりの男が現れた。歳はおそらく私と同じくらいで20代後半くらいだろう。
「すいません、おじゃまします。えっと…三浦裕康さん、ですか。」
「ええ、そうですけど…あ、もしかしてお電話いただいたジャーナリストの。」
「はい。高見です。今日はよろしくお願いします。」
私は三浦氏に促され、丸太の椅子に腰掛けた。
「コーヒーでいいですか。」
「いえ、おかまいなく。大丈夫です。」
「まあそう遠慮なさらずに。さ、どうぞ。」
「すいません。ありがとうございます。」
三浦氏はタキシード姿のまま、私の向かいに腰掛けた。とても紳士的な立ち振る舞いで、まさか彼が「ベータソン」なんてきいたこともない仕事をしているとは思えない。私には三浦氏はマジシャンにしか見えなかった。
「今日はすいません。取材にご協力いただいて。」
そう言って頭を下げると、三浦氏はあわててこう返した。
「いえいえ、こちらこそわがままを言って申し訳ないです。自分が山を降りたくないからって高見さんをこんな山奥まで…」
「ははは。まあ、いい運動になりました。ではインタビューを開始してよろしいですか。」
私はテープレコーダーを取り出し、録音ボタンを押した。
「ええ、どうぞ」
こうして、日本人ベータソン、三浦裕康へのインタビューが幕を開けた。

――三浦さんは日本でも数少ない「ベータソン」の一人ですが、まずはまだ日本国内になじみの薄い「ベータソン」についてご説明いただけますか。
 簡単に言うと、何でも屋ですね。まあ、世間でよく言う便利屋とか何でも屋よりは難しいことをしていますが。
――何でも屋、ですか。なんか一気に親近感がわきますね。
 ははは。そうですね、訳分からないですもんね、ベータソンって。でも別に最近日本に入ってきた文化でもないんですよ。
――そうなんですか!知りませんでした。勉強不足で(笑)
 いやいや、知ってるとは思いますよ。だって、例えば忍者。あれも言ったら当時のベータソンみたいなものですからね。まあ、私たちベータソンは忍者みたいに特定の主人に仕えたりはしませんが。古くは平安時代からその存在は知られていて、当時日本では「なりわれ」と呼ばれていたみたいですね。
――そんな古くからですか!知りませんでした。主にどのような依頼があるんですか。
 クライアントの個人情報にかかわるので依頼内容の詳細は言えません。しかし、三時間で終わるような仕事から一年ぐらいかかるものまで様々ですよ。クライアントも専業主婦から政界の超大物まで多様ですしね。
――専業主婦から政治家まで…。とんでもない幅ですね。ところで三浦さんは普段は山奥で生活しているわけですが、仕事の依頼はどのようにはいってくるのですか。今回はお電話でこのインタビューを依頼しましたが、他の仕事も基本的には電話対応なんですか。
 そうですね。主に電話やメールで受け付けています。ただ、電話もメールもここで受け付けているわけではないんですよ。ざっと見渡してもこの部屋に電話はないでしょ。
――確かに。では、どのように依頼を受けるのですか。
 実は私が受けている依頼は私が選んでいるわけではないんですよ。各国のベータソンはみなニューヨークに本部を置くフリーベータソンに所属する義務があり、さらに各国に支部が存在するんです。そのフリーベータソン日本支部が全ての依頼に対応し、日本にいる四人のベータソンに能力に応じて振り分けることでやっと私たちは仕事にありつく、という手はずになっています。
――ですが、私が電話した際は直接三浦さんにつながりましたよね。というのも国内のベータソンで番号が知られているのが三浦さんだけだったのですが。
 ベータソンの世界は厳密な階級社会です。下からC級、B級、A級、S級、そして全ベータソンのトップでフリーベータソンの代表を務めるただ一人の人物マスターベータソンの五段階に分かれており、全てのベータソンが完全に能力だけを判断材料として各クラスに分類されるのです。ベータソンになりたての時はみんなC級に属するのですが、年に一度の編成会議で能力さえ認められれば一気にS級になることもあり得ます。昨日の部下が今日の上司になることもあるんです。私はS級に属するのですが、S級ベータソンは依頼の達成の他に本部から特別任務を与えられます。私は広報の仕事を任されており、このようなインタビューの仕事等は基本的に私が引き受けるんですよ。
――なるほど。三浦さんは見たところお若いようですが、その若さでS級となるとよほど優秀なベータソンなのですね。各階級にはだいたいどのくらいの人数がいるのですか。
 いえいえ、私はたまたま運が良かっただけですよ。それにベータソンの仕事自体平均年齢が若い仕事なんです。私も特別若いわけではないんですよ。だからS級も五十人中二十人くらいが二十代のベータソンですし。その他A級が百人、B級が百二十人、それ以外がC級で、現在だと二百人くらいはC級に属しています。つまり全世界のべータソン人口は五百人に満たないんです。ひとつの職業として市民権を得るにはまだまだ私たち現役が頑張っていかなければと思いますね。
――ますます興味深い職業ですね。では三浦さんはこの仕事のどこにやりがいを感じますか。
 そうですね、まず誰かの役に立っているという実感が得やすい仕事であることですかね。やっぱりせっかく働くのならば自分のお金のためだけじゃなくて、他人を喜ばせたいですから。あとは、ベータソンが裏で世界を動かしている、といっても過言ではない仕事であることもそのひとつですね。
――裏で世界を動かす仕事…ですか。具体的な内容は教えてもらえないんですもんね。
 いやあ、すいません。やはり信用問題なので。
――いえいえ、それは私たちジャーナリストも同じですから。どうしても外に出せない情報はありますよね。

 私は焦っていた。この三浦という男、なかなか饒舌だが肝心な情報は一切出さないつもりである。このままでは「ベータソン」という職業の謎だけがどんどん深まるばかりだ。便利屋…フリーベータソン…マスターベータソン…世界を動かす…全く話が見えない。なにか、なにかもっと「ベータソン」というものが明確に分かるような情報はないだろうか。
 そう思った矢先、三浦氏はトイレにたった。これは千歳一遇のチャンスである。彼がトイレに行って帰ってくるまで約一分、この部屋でなにかをしまうことができそうな場所は暖炉の上の小さな引き出しだけである。いける、確実に中を調べられる。私は急いで暖炉のほうへ行き、三段ある引き出しを下から開けていった。通帳、印鑑、給与明細、パスポート…給与明細!これだ。いったいこの男はいくら稼いでいるのか、S級ベータソンの月給がどれほどのものか、それを知るだけでもだいぶ情報に厚みが出るものである。私は給与明細をかばんにしまい、引き出しを閉じた。間もなく三浦氏が戻るころだろう。私は席に戻った。
「すいません。お待たせして。」
「いえいえ。」
「返していただけますか。」
「へ?」
「給与明細、返していただけますか。」
私は震えた。目の前のタキシードの男に恐怖したのだ。確かにあの時、三浦氏はトイレにいたはずだ。少なくとも私の行動が見える位置にはいなかった。私は気味の悪い感覚に陥りながら、震える手で給与明細を渡した。
「大変な職業ですね、ジャーナリストも。仕事のために泥棒のようなこともしなけばならないなんてね。もっとインテリでかっこいい職だと思ってましたが、およそ人に胸を張って言える仕事じゃないな。」
返す言葉がなかった。私はその場で悔しさと恐怖とが入り混じった感情をかかえ震えていた。
「そんな怯えなくてもいいじゃないですか。私は別に超能力者でもないし、この部屋を監視しているわけでもないですよ。高見さん、あなたはジャーナリストとしてはすばらしい方なのかもしれませんが、泥棒としては四流ですね。人のうちでものを漁るならもっと静かにやらなくちゃ。」
「え…。」
「音ですよ、音。引き出しを漁る音がガサガサと聞こえてきたんです。もし本当の泥棒なら通帳と印鑑でも持っていくのでしょうが、あなたは違う。あなたなら給与明細をほしがるはずです。私が月にいくらくらい、どこからお金をもらっているのか、その内訳はどうなっているのか。ベータソンについてまともな情報が得られていないあなたなら給与明細を手がかりに別ルートで調査を進めるでしょうしね。」
「なるほど…おっしゃる通りです。申し訳ありませんでした。」
「まあ、それがジャーナリズムの表れなのかもしれませんが…うん、いいでしょう。」
「え、なにがですか。」
「私たちベータソンがなにをして生活しているかお教えしましょう。ただし、これはあなたのジャーナリスト魂に負けて、あなただけに教える情報です。決して記事にしないでください。といっても記事にできないと思いますが。」
最後の一言に、私はえもいわれぬ不安を感じた。この男、なにかある。私たち素人がおいそれと踏み込んではいけないなにかが。
「私を含め、S級ベータソンの月収は平均200万ほどです。もちろんそれに見合う仕事もしています。以前、中東で独裁政権が倒れた際に、その国の独裁者の像が倒されたでしょ。」
「ああ、そうですね。ニュースでも繰り返しとりあげられたし、私もあの時その国にいましたからこの目で見てますよ。」
「あれ、私が先導したんですよ。」
呆気にとられた。この男はなにを言っているのだろう。
「すいません、おっしゃっている意味がよくわからないのですが。」
「いや、そのまんまの意味ですよ。私が市民を先導して独裁者の像を倒したんです。というより、当時の独裁政権をたおすための運動を数ヶ月に渡り先導していたんです。革命軍のトップとして。」
「革命軍…。あなたがあの革命軍を率いていたんですか。」
 革命軍のことはよく覚えていた。というのも、私は革命軍に命を救われたのだ。当時、私は一度その国の軍に囚われたことがあった。現地の実態を知るため、軍の目を掻い潜りながら写真をとり、現地人に話を聞き、その代価として水や食料などの救援物資を与えていた。そんなことを続けていたある日、私がいつものように戦火に焼かれ廃れた街を歩いていると不意に背中に機関銃の銃口を突きつけられたのだ。そのまま私は軍の収容所に連れて行かれ、凄惨なまでの拷問を受けた。意識も朦朧とし、もはやこれまでと死を覚悟したその時である。数名の武装した市民がそこにいた軍人を撃ち、私を収容所から助けてくれたのだった。礼を言うと、彼らは革命軍を名乗り「明日への希望を捨てないように。」と一言告げて立ち去った。彼らはそれから数ヶ月、私は潜入取材を続け、ついには政権が倒される瞬間に立ち会うに至った。
「なぜあなたが革命軍を…。」
「アメリカ政府から依頼があったからですよ。当初アメリカ政府はあの国がもっと早くにアメリカに降伏するとかんがえていました。しかし予想以上に抗ってきたので、より強烈な軍事介入をせざるを得なくなり、それに対して世界中から非難が集まった…そうなると、米軍もあまり攻撃は仕掛けられなくなるでしょう?だから米軍は内側から破壊することにたんですよ。」
「それでアメリカ政府からベータソンに依頼があった、と。」
「ええ。それがめぐりめぐって私のところへ。」