大阪教育大学 国語教育講座 野浪研究室 ←戻る counter

平成24年度 卒業論文

伊坂幸太郎作品群研究
〜「神」の役割について〜

大阪教育大学 教育学部
中学校教員養成課程 国語専攻
国語表現ゼミナール
092104 清久拓実
指導教官 野浪正隆先生

目次

第1章 はじめに
 第1節 研究動機
 第2節 研究目的 作中における「神」の役割を明らかにする

第2章 研究対象
 第1節 伊坂幸太郎に対する評価
 第2節 対象作品2作品『オーデュボンの祈り』『死神の精度』
 第3節 研究方法

第3章 分析と研究結果
 第1節『死神の精度』の千葉について
 第2節『オーデュボンの祈り』の優午、桜について

第4章 まとめと今後の課題
 第1節 全体考察
 第2節 今後の課題と参考文献

第1章 はじめに

第1節 研究動機

 私は、以前から伊坂幸太郎氏の小説を好んで読んでいた。『オーデュボンの祈り』から『SOSの猿』まで、文庫化されている書籍はすべて読み、『伊坂幸太郎全小説ガイドブック』なるものまで購入して読んできた。この『伊坂幸太郎全小説ガイドブック』を読み進めていく中で、一つのコラムと出会った。そのコラムは後述しているが、その中で「見通せないものの存在」という言葉が出てきており、興味を持った。読んでいくと、「全体を見渡せないというこの感覚は、神でもカカシでも名探偵でもない私たちにとって現実的なものだ。」ということが書いてあり、私は、伊坂幸太郎氏の作品には「神」として扱われているものたちが何人かいることに思い当り、伊坂幸太郎氏の作品の中での「神」はどのような役割をしているのかを考えていきたいと思い、卒業論文のテーマとして設定した。

第2節 研究目的

本研究の目的は、伊坂幸太郎作品のうち、『死神の精度』と『オーデュボンの祈り』の2作品に焦点を当て、それぞれの作品の中で「神」として扱われている人物たちが、物語の中においてどのような役割があるのかを明らかにして、それぞれに共通点があるのかを探っていくことである。

第2章 研究対象

第1節 伊坂幸太郎作品に対する他者の評価

 私が本研究をするきっかけとなったコラムを紹介する。

 本人がインタビューなどで語っている通り、伊坂幸太郎がデビュー前に愛読していた作家の1人に島田荘司がいる。御手洗潔という名探偵が活躍するシリーズで知られる島田は、不可思議な謎が推理によって合理的に解明される、本格ミステリ≠ニいうジャンルの第一人者である。大胆で奇想に満ちたトリックやエキセントリックな名探偵のキャラクターの魅力などを特徴とする島田作品は、1980年代後半に起きた新本格ミステリと呼ばれるムーヴメントに大きな影響を与えた。『オーデュボンの祈り』が00年に新潮ミステリ倶楽部賞というミステリの賞を得ることでデビューした伊坂幸太郎も、初期には新本格との親近性が感じられる作家だった。彼のデビュー作には未来を予知するカカシが登場し、殺人事件ならぬ殺カカシ″事件の真相を探る物語になっていた。あるいは、人間ではない存在による未来予知などといった超常現象の登場は、合理的な謎解きを主眼とする本格ミステリとは遠いと考える人もいるかもしれない。しかし、超常現象を作中に取り込んだ作例は、新本格では珍しくはなかった。昨年刊行の『文垂別冊 伊坂幸太郎』では、「伊坂幸太郎を作り上げた100冊」というコーナーで本人が自分に影響を与えた本をリストアップしている。そこでは山口雅也『生ける屍の死』も挙げられていたが、これは死者が蘇ってゾンビになる世界で連続殺人事件が発生する内容だ。また、京極夏彦は他人の記憶が見える私立探偵が登場する京極堂シリーズで人気を得たし、西澤保彦は超能力、タイムスリップ、人格転移などのSF的設定を用いた作品を多く発表していた。たとえ超常現象であっても、作品世界内でしっかりルール化されていれば、謎解きにおける合理性を壊すことはないのだ。その種のミステリ作品では、現象の超常性が謎解きの合理性に組み込まれるという倒錯が、むしろ面白みになっている。『オーデュボンの祈り』も基本的にはそのタイプのミステリ作品になっていた。一方、伊坂の第2作『ラッシュライフ』は、5つのストーリーが並行して語られていき、最後で相互の意外な結びつきが明らかになる構成となっている。それは、特定の名探偵が事件の全体像を推理するという内容ではない。しかし、作者が記述にあれこれ伏線をしこんでおり、最後で矛想外の全体像が示された時に読者が前のページにさかのぼっても物語の整合性がとれている、さらに簡単にいえばズルをしていないと判断できる作品になっていれば、それもまた叙述トリックと呼ばれるタイプの本格ミステリに分類される。たとえ名探偵が推理しなくても、読者の前には合理的に解ける謎があるからだ。先に触れた「伊坂幸太郎を作り上げた100冊」の1冊に『迷路館の殺人』もあげられていたが、その作者・綾辻行人は叙述トリックの名手として知られた新本格作家である。叙述トリック的な発想で『ラッシュライフ』を創作した伊坂は、後に『アヒルと鴨のコインロッカー』というこのタイプのミステリの傑作を書いている。ご存じの通り、伊坂は幅広い作風を持った狭義のミステリにとどまらない作家である。しかし、超常現象や特殊能力を作中のルールとして扱うこと(『陽気なギャングが地球を回す』『死神の精度』など)、作者が仕掛けた作品全体の構成の妙(『チルドレン』『グラスホッパー』など)は、彼の作品の多くに見られる。真正面から本格ミステリを書く作家ではないものの、伊坂の発想にはある種の本格スピリッツのようなものが含まれている。しかし、近年の伊坂は、これまで彼の美点ととらえられてきた伏線回収の巧みさをあえて自ら手放すことに取り組むようになった。それは、作中の謎が合理的に解明されないままになるということでもある。「『ゴールデンスランバー』を書く時期あたりから僕が変化してきているのは、「物語の風呂敷は畳まないで、いかに納得してもらうのか」にチャレンジしているところなんですよね。物語の風呂敷は畳むプロセスがいちばんつまらない。今、僕は書いていても読んでいてもそう思っています。だから物語の風呂敷は広げるけれど、畳まないで楽しんでもらいたいんですね」(『文垂別冊 伊坂幸太郎』所収のインタビュー)『ゴールデンスランバー』は、1人の普通の市民が巨大な権力から無実の罪を着せられ追われ続ける話だが、結末に至るまで悪の正体は判然としない。監視社会化が進んだ状況での権力を描いた点では同作と姉妹作的な内容である『モダンタイムス』でも、悪の側の実態は明確にならないまま物語は終わる。風呂敷は畳まれないのである。また、『SOSの猿』には孫悟空、『あるキング』にはシェイクスピアの『マクベス』にならって魔女たちというこの世ならぬものが登場するが、それらは『オーデュボンの祈り』の喋るうえに予知もするカカシ、『死神の精度』の死神などとは作中における意味あいが違っている。カカシや死神はルール化された存在であり、その作中世界としての合理性を壊すものではなかった。しかし、孫悟空や魔女たちは、風呂敷を畳もうとしても包めないような、作中世界にとっても非合理な存在になっている。このように近年の伊坂は、風呂敷を畳むように合理的に謎を解く本格スピリッツとは反対の嗜好が目立ってきている。とはいえ、これは伊坂幸太郎の中で根本的な変化が起きたということではないのではないか。確かにこの作家にとって大きな変化ではあるけれど、初期の作品にも予兆としてあった要素が、近作になって前面にせり出し大きく展開され始めたということではないのか。彼の作風の変化をたどると、そのようなものだと思われるのだ。伊坂は本格スピリッツのごときものを有しながらも、ストレートな本格ミステリには進まなかった。そうした作家的体質が、近年の変化の遠因になっていると考えられる。
 そのことについて語る前に触れておきたいことがある。風呂敷の畳みかたをめぐる変化以外にも、読者から伊坂の変化と受けとめられる要素はあった。彼は、『魔王』で大衆を扇動するカリスマ的政治家を登場させ、『ゴールデンスランバー』や『モダンタイムス』で監視社会化や巨大な権力を描いた。これらの内容は、小泉純一郎内閣の誕生、01年9月11日のアメリカでの同時多発テロ事件といったゼロ年代的な事象を背景にして、エンタテインメント作家である伊坂が社会性にも目覚めた―読者にはそのように見えただろうし、実際、そういう面もあるだろう。しかし、ふり返れば、外界から隔てられた島を舞台にし、喋るカカシのほか奇矯な人物が多く登場したファンタジー的なデビュー作『オーデュボンの祈り』にも、権力や監視といったテーマはみられた。同作には島で唯一、殺人を許された桜なる人物がいて、彼が「ルール」となっている。だが、桜が殺す殺さないをどんな理由で決定しているかは、他の人には理解できない。つまり、島の「ルール」である桜は、他人の生死を握る不透明で絶対的な権力になっているのだ。一方、力カシの優午は予知能力を持っているわけで、それは監視する能力と言い換えることもできる。本格ミステリの基本的なスタイルは、名探偵が合理的な推理により謎を解いた結果、悪と認定された者に罰が下される状態が訪れるというものだ。これに対し、すべてを監視しうるカカシが存在するならば推理する探偵は必要とされない。だから、『オーデュボンの祈り』は、予知できるカカシが殺されることで、ミステリとしての物語が始まる。しかし、物語が展開した末に、桜という不可解な権力が特定の人物を殺したとしても、悪と認定された者に罰が下されたことになるのかどうか、定かではない。その意味で特殊な権力を持つカカシと桜は、人知を超えた神のごとき存在なのである。これに対し、第2作の『ラッシュライフ』では、並行して進む5つのストーリーの登場人物たちは、自分が登場しないストーリーの内容は知らない。したがって、5つのストーリー全体を見渡せるのは作者と読者だけなのだが、読者は全体を見渡せてもストーリーに介入することはできない。それはデビュー作との比較で言えば、世界を見渡す能力はあっても一歩も動くことのできないカカシに読者の立場が似ているということでもある。『ラッシュライフ』には未来が見えると称する新興宗教の教祖が登場するが、彼は脇役にすぎず、作品の中心部にはいない。また、同作には「名探偵」というものを椰輸する文章も出てくる。名探偵とは、本格ミステリにおいて自らの優れた推理力によって事件の全体像を見通すキャラクターであるが、そのような特権的な存在は『ラッシュライフ』には登場しないのだ。たとえ、本格ミステリに登場する名探偵であっても、手がかりを元にして推理する以上、もし贋の手がかりしか与えられなければ真相には至れない。彼もまた事件の中の登場人物であり、その外部に立って神のごとく事件全体を見下ろすなどという特権は行使できない。本格ミステリというジャンルにおける名探偵の立場を真面目に突きつめるとそのような結論に至るという論考を、新本格作家の1人である法月給太郎は発表していた(『名探偵はなぜ時代から逃れられないのか』など)。そのような名探偵という立場の危うさ、苦悩を主題にした法月の実作に『ふたたび赤い悪夢』という長篇があったが、この作品もまた「伊坂幸太郎を作り上げた100冊」の1冊に選ばれていた。カカシや名探偵のような全体を特権的に見渡せるものがいない状態で、登場人物が他の動きを知らぬまま、(桜による殺害のごとく)運命としか呼びようのない状況に巻き込まれる。これが伊坂幸太郎の小説の体質なのであり、本格スピリッツのようなものを有しながらも名探偵的な特権的な視点が否定されているのだから、本格ミステリから遠ざかっていくのは当然なのだ。また、『ラッシュライフ』のごとく、登場人物は全体を見渡せないが読者は見渡せるという作品を書いてきた伊坂は、近年、むしろ見渡せないことに力点を置くようになった。それが、風呂敷を畳まず、謎が解明されない作風としてあらわれている。全体を見渡せないというこの感覚は、神でもカカシでも名探偵でもない私たちにとって現実的なものだ。伊坂は近作でこの感覚を追究している。孫悟空や魔女たちの登場は非現実的だが、彼らは見通せない存在であるという不透明性の一点において妙なリアリティをおびる。そのような独特のありかたで、伊坂ワールドは新たな次元に入ったのだった。
「風呂敷を畳まないということ」『伊坂幸太郎全小説ガイドブック』洋泉社

 この文章を読み、人間からは見通せない世界を、「見通している」人物たちがいること、その力によって人間の運命を左右する人物がいることに注目し、彼らの役割について考えていく。

第2節 対象作品について

 今回の研究対象に設定した『死神の精度』と『オーデュボンの祈り』についてあらすじなどを紹介する。
 『死神の精度』は、「千葉」という名前で人間界に派遣されてきた一人の「死神」が、6人の男女の調査を通して少しずつ人間に対する関わり方に変化が生じる様子が描かれている。この作品は、2006年の直木賞候補作品であり、ラジオドラマ、映画、舞台と様々なメディアに取り上げられている作品である。
 『オーデュボンの祈り』は、コンビニ強盗未遂で逮捕された主人公の伊藤が、パトカーの事故に乗じて逃走し、轟と言う男に萩島という、外界との交流をしていない島へと連れてこられる。その島には言葉を話し、未来がわかるカカシがいた。そのカカシ、優午が殺されてしまう。未来がわかるのにもかかわらず、なぜ優午は自分が殺されることを止められなかったのか?という謎を追っていく話である。この作品は、第5回新潮ミステリー倶楽部賞を受賞し、漫画や舞台などのメディアに取り上げられている。

第3節 研究方法

 本研究は、主に二つの作品の分析を千葉、優午、桜の3人の人物に焦点を当て、作品全体から人物の特徴や変化がみられる部分を探していき、まずは人物ごとにどのような行動をとっているかを探して抜き出す。その後、その行動から読みとれる特徴や変化について、それぞれの人物の特徴と、3人に何らかの共通点があるかを見出し、伊坂幸太郎作品における「神」の役割を明らかにしていく。

第3章 分析と研究結果

第1節 『死神の精度』の千葉について

調査対象
・氏名
・年齢
・性別
・職業
判定
・判定
・対象者の生死の描写
・判定方法
千葉による調査の前編からの変化 空模様
第1編『死神の精度』 ・藤木一恵
・22歳
・女性
・クレーム処理の電話受付
・見送り
・第6編でCDを聞くことから、生存していたことがわかる
・コイントス
・全編唯一の見送りが行われる
・千葉の基本的な仕事内容、思考、千葉たち死神の特徴が描かれる
小雨→雨脚が強くなる
第2編『死神と藤田』 ・藤田
・45歳
・男性
・やくざ
・可
・描写なし
・千葉により、上司に電話で報告される
・調査期間中のすべての時間を調査対象と過ごす
・調査対象の成し遂げたいことに協力する
小雨
第3編『吹雪に死神』 ・田村聡江
・不明
・女性
・主婦
・可
・描写なし
・千葉による報告は描かれていない
・複数の人物の死が描かれる
・調査最終日まで描かれずに物語が終わる
吹雪→弱まる→再び吹雪
第4編『恋愛で死神』 ・萩原
・23歳
・男性
・ブティックの店員
・可
・刃物で腹部を刺され、死亡
・千葉が調査部に電話で報告
・より積極的に人間と関わり、人間の心の動きを捕えた行動をとるようになる
・第6編で調査対象となる人物と接触している
・はじめて調査対象の死が描かれる
じめじめとした、やむことのない小雨
第5編『旅路を死神』 ・森岡耕介
・20歳
・男性
・記述なし
・可
・描写なし
・千葉による報告は描かれていない
・調査対象の過去を積極的に知ろうとし、はじめて自分から質問を投げかける
・調査対象の心の中にあるトラウマを解消するなど、人間の心情把握ができるようになる
雨→小雨→どんよりした曇り空→雨が再び降り始める
第6編『死神対老女』 ・新田
・70歳
・女性
・美容師
・可
・描写なし
・千葉による報告は描かれていない
・人間の願いをかなえるために、無償の労働をする
・第4編で会ったことのある人物(古川朝美)が調査対象になる
・千葉がはじめて「人間と過ごす時間が心地よいものだ」という感情を抱く
・はじめて快晴になる
土砂降りの雨→快晴

 この作品は、「死神の精度」「死神と藤田」「吹雪に死神」「恋愛で死神」「旅路を死神」「死神対老女」の六編からなる短編小説集で、六編すべてに登場する人物は「死神」である千葉のみである。それぞれの話では、登場人物、展開などが全く違っているのだが、「晴れ間がない暗い空」ということだけが共通の場面状況として設定されている。これは「死神」もしくは「死」の持つ暗いイメージと千葉を結びつけるものとして使用されている。そして、一見してつながりを持たない6編が進むにつれて、少しずつつながっていることが明らかになっていく。  「死神の精度」では、死神の仕事についての説明がなされる。それによりその後すべての編での千葉が登場する理由が、「人の生死を判断し、報告する(「可」もしくは「見送り」という判断基準)」という形で固定される。この編では千葉の調査対象は藤木一恵という二十二歳の女性である。千葉は事前に得た情報の通り彼女を見つけ、接触する。そして1週間かけて彼女が生きるべきか死ぬべきかを判断する。千葉は「できるだけ調査対象に関する情報を仕入れてから、正しい判断を下す」という考えを持っており、積極的に対象に関わろうとする。このことから、千葉は藤木の考えや今おかれている状況を知っていく。すると、藤木は今クレーム処理の電話受付をしているが、その中でしつこく電話をしてくる一人の男に悩まされていることが明らかになる。その男は有名な音楽プロデューサーで、藤木の声に惚れ込んで接触を試みようとしていたのだが、藤木はそのことは知らず、ついに男と対面した時に千葉に助けを求め、逃げ出してしまう。その日がちょうど七日目であったことから、千葉が生死の判断を下さなくてはならないのだが、全編を通して唯一「見送り」の決断を下す。決断に至った理由は「もし万が一、あのプロデューサーの直感が正しくて、さらに万が一、彼女が優れた歌手となることに成功したとして、さらにさらに、私がいつか訪れたCDショップの試聴機で彼女の曲を聴くときが来たら、それはそれで愉快かもしれないな、とは思った。」というものであり、その判断方法もコイントスで行おうとし、「正しい判断を下したい」という言葉に反した行動を取るなど最初の編にしてイレギュラーな部分が多く登場する。この編を先頭におくことで、千葉の死神としての特殊性を明確に示すことができていると考えられる。また、この唯一の「見送り」が千葉にとって最大の変化となって六編目で返ってくる。
 「死神と藤田」では、千葉の調査対象は藤田という四十五歳の男である。藤田はやくざで、自分の兄貴分のやくざが栗木という男に殺されたことから栗木の居場所を探しており、その情報を持って千葉は現れる。藤田の前に連れてこられた千葉は、やくざの中での藤田の立場を少しずつ知っていく。誠実や任侠を重んじ、「弱きを助け、強きをくじく」を信念とする藤田は自らの組からも疎まれる存在であり、藤田の属する組は栗木の組に交渉を持ちかけて、藤田を差し出すことが密かに決められていた。調査最終日の深夜、藤田を尊敬する阿久津に手助けを半ば強引に求められ、藤田を助けるために栗木を殺そうと企むが、逆に捕えられてしまう。栗木の事務所に連れ込まれた千葉は、そこで自分の同僚の死神が千葉の一日前に栗木の調査のために来界していたことを知る。藤田の命日予定日は次の日で、栗木の命日予定日が今日だと知った千葉はこの場に藤田を呼び出すために栗木に藤田の電話番号を教える。この編では、千葉は藤田に「可」の決断を下している。死神が調査している期間に調査対象の人間が死ぬことはないというルールのもとに藤田を呼び出したのだが、その決断に至ったのは、栗木に別の死神がついていたからであり、決して藤田や阿久津の為ではない。千葉はこの場面で、「正直に言ってしまえば、藤田がどうなろうが興味はなかった。私の仕事の結果が変わるわけでもなければ、評価が上がるわけでもない。ただ、どうせこういう場面に巻き込まれたのだから、最後まで見ていこうではないか、と思い直してはいた。」と述べている。人の死には興味はないが、藤田が「弱きを助け、強きをくじく」姿には興味を持っている。ここにあらためて千葉という死神としての価値観が示されており、「人助けはしない」という千葉のスタンスがこの編で明らかになっている。  「吹雪に死神」では、冒頭から一人の人間の死体が登場し、その後で千葉の今回の調査内容が描かれる。この編では初めて人の死が複数、そして直接的にえがかれている。今回の調査対象は田村聡江という女性で、冒頭の死体は彼女の夫の田村幹夫だった。田村夫妻を含む六名は、旅行会社のペア旅行に当選して物語の舞台となる信州の洋館を訪れていた。しかしそれははじめから仕組まれたもので、田村夫妻、元刑事の権藤、その息子として紹介された英一、料理人として洋館のホストに雇われたとして来ていた〈童顔の料理人(田村聡江の弟)〉ら五人が、真由子という女性を殺害するために誘い出したのであった。そこに千葉が、吹雪でこれ以上歩けないという理由で受け入れられる。そしてそのことから彼ら五人の計画は崩れていく。彼らは、吹雪が止んだら山の展望台へと全員で行き、そこで真由子を突き落として事故として処理するつもりでいたが、田村夫妻は密かに毒物を持ちこみ、夕食の鶏肉の香草焼きに混ぜて真由子を殺害しようとしていた。五人が真由子を殺害しようとしていたのは、田村夫妻の一人息子である和也が、真由子が仕組んだ結婚詐欺にあい、毒物を飲み自殺してしまったからであった。その復讐のために五人が集まったのだが、息子を殺された夫妻は自分たちの手で、息子の死因と同じ方法で殺害しようとしたのであった。ところが真由子は香草焼きが苦手で、千葉に頼んで代わりにこっそり食べてもらうことになり、自分では食べなかった。死神である千葉は毒を食べても死なないので無事であったが、真由子が食べたものだと思っている田村夫妻は、用意したものは毒ではなかったのかと疑問に思い、田村幹夫は翌早朝に毒をワインに混ぜて飲み、死亡する。この場面で、千葉は結果的に真由子を助けたことになるのだが、その理由が第一編で見た一組のカップルが料理を分け合っていたことにあり、その真似をしたほうが自然に見えるだろうと判断したのであり、決して助けるためではなかったことが分かる。田村幹夫は千葉とは別の死神が調査を終えており、八日目がちょうどこの日であったため担当の死神が見届けに訪れており、その姿をちらっと見た田村聡江が「最近知り合った蒲田という男に似ていた」と発言することで、千葉にはその男が死神であることが分かるが、それ以外の人物たちにはその男が犯人だという認識が生まれてしまう。そして予定外の出来事によって田村幹夫が死んでしまったことで四人のまとまりが少しずつ失われてしまう。
 次の犠牲者は元刑事の権藤で、彼は田村幹夫を殺したのは蒲田ではなく真由子だと思い、包丁で刺殺しようとするのだが、何らかの理由で包丁を奪われ、真由子に刺殺される。このときの権藤の行動は独断であり、無計画なものであったために、残された三人を途方に暮れさせることになる。このときも千葉が真っ先にしたことは死神探しだが、このときはすでに立ち去った後だったらしく、同僚を見つけることはなかった。また、このとき死んだ権藤を見た英一が「権藤さん」とつぶやいたことに千葉は疑問を持つ。親であるはずの権藤を苗字で呼ぶことに死神である彼でさえも違和感を感じており、このことで、千葉の中に五人の関係に少しずつ疑問が生まれてくる。それは千葉が少しずつ人間に興味を持ち始めているということであり、言葉では「人間の死には興味がない」と言っているが、人間に対する千葉のスタンスが少しずつ変化してきていることがうかがえる場面である。  そして次に、この編での最後の犠牲者である真由子が死ぬ前日に、真由子を調査していた死神である秋田が洋館を訪れる。千葉とは違い、秋田は人間の最後の一週間を華やかなものにしてあげたいと考える死神で、真由子の恋人として紹介される。そして明日真由子が死ぬことを千葉に伝える。そのときに秋田は、真由子の過去や性格についての情報を与える。その情報と千葉が死神情報部に問い合わせて手に入れた情報を元に、真由子が死んだ朝千葉は洋館に生き残っている田村聡江、英一、〈童顔の料理人〉に向かい、事件の真相を解き明かす。この謎解きをすることで初めて読者に事件の全貌を知らしめることになり、千葉の役割は死神というよりは探偵に近く、ミステリー要素の色濃い編になっている。さらにこの編では、千葉の調査対象である田村聡江に対する決断が明確に決まらずに物語が終わってしまう。このことから、この編の役割は千葉の人間への興味を強くさせるためにあるものだと考えられる。
 「恋愛で死神」では、冒頭の一行で千葉の調査対象が「可」の判決を受け、死が実行されていることが分かる。さらに、千葉が調査対象の死を見届ける必要があり、調査対象のもとへと行かなくてはならないのだが、ミュージックに夢中になっており、少し遅れたことが述べられている。このとこは、千葉が最も大切にしているのは「ミュージック」であるということを改めて示すものになっている。この作品では必ず調査開始何日目かが明確に示され、その日の出来事を要約した文章が始めの一文でえがかれている。今回の調査対象は萩原という二十三歳の男で、かなり整った外見を持つものの、それを分厚い眼鏡で隠してブティックで働いている。千葉は萩原の住むアパートの隣の部屋に引っ越してきたという設定で、萩原に近づく。萩原は、向かいのアパートに住み、毎朝バス停で会う古川朝美という女性に片想い中であり、毎朝古川が出てくるタイミングに合わせて出勤し、バス停で短い言葉を交わす。千葉は、調査初日は朝しか萩原を調査していないにもかかわらず、二日目に萩原が古川に片想い中であることを見抜いた。このことは、千葉が調査対象の心の動きと行動の関連性についても観察し始めたからであり、千葉がより積極的に調査対象に関わり始めたことを表している。さらに三日目には萩原が古川朝美から何らかの誤解を受けていると分かり、その誤解を解くための手助けをするために次のような行動までとる。

 しばらくしてバスが、博物館前、で停車した。古川朝美が席を立ち、降車口へ向かっていく。彼女がバスから出るのを見たとほぼ同時に、私は立ち上がり、「おい、行こう」と大きな声を出した。何事か、と目を丸くする萩原を半ば無理やりに立ち上がらせた。「彼女を追うぞ。彼女が怒っている理由は、彼女から聞けばいい。今しかない。」閉まりそうなドアに駆け寄った。
『死神の精度』文藝春秋(文春文庫)

 この行動を見せたことで、千葉が萩原の心情を読みとり、萩原の本来の望みである古川朝美と親しい関係になるために協力していることが分かる。千葉にとっては、残り四日間の調査期間で萩原が落ち込み続けていたとしても何の影響もないはずであるが、前日に萩原の「千葉さんが言ったように、人生は短いんですから。何もないよりは、あった方がまだいいです。最高ではないけれど、最悪じゃない、そういうのってあるじゃないですか」という思いを聞いたあとであることから、「ないよりはあった方がいい」誤解を解くチャンスを作ったのだと考えられる。そうして千葉が作ったチャンスを萩原は何とか生かし、次の日に古川朝美と会い、事情を説明してもらうことになる。
 四日目の喫茶店で萩原と古川朝美が会う場面では、萩原が誤解される原因となった、古川朝美を悩ませる迷惑電話の内容について相談を受ける。このときに、千葉が以前担当した悪徳勧誘の会社に勤める男と、同じような仕事をした経験を話し、萩原たちにアドバイスをする。そしてある程度話が終わった頃に、古川朝美が萩原に「以前にどこかでお会いしたことがありますか?」と訊ねるが、萩原は会ったことはない、と嘘をつく。萩原が初めて古川朝美を見たのは、萩原が働くブティックのバーゲンに、古川朝美が来たときであった。それなのに、「会ったことはない」と嘘をついたのだが、その理由は後に明かされている。二人は好きな映画のタイトルを同時に口にするという行動を通して、さらに仲を深める。その様子を見ていた千葉は、「自分と相手が同じことを考えたり、同じことを口走ったりすると、なんだか幸せじゃないですか」という萩原の言葉を思い出す。千葉はまさにその状況を目にしたのである。
 五日目に千葉は、萩原がなぜ眼鏡をかけているのか、なぜ古川朝美に以前あったことがあるのを知る。「ないよりはあった方がいい」はずの恵まれた外見を持ちながら、それを台無しにする眼鏡をかけているのは、外見で判断されたくないという萩原の強い思いが理由であり、古川朝美に正体を明かさなかったのも、眼鏡をかけたままの外見で恋をしたいという思いからであった。その場に同席した、萩原が働くブティックの店長は「外見がいいのなんて、どうせ今のうちなんだから」「年を取ったら自然とダサくなる」と反論するが、千葉は自らが死神であり、萩原の寿命を司る立場であることから、「いや、そんなに長生きできるかどうか、保証はない」と言ってしまう。この発言は、後の千葉の萩原に対する判定を暗示している。そして千葉のこの言葉に対して、萩原は怒るでもなく、笑うでもなく、不思議そうにする。これは、萩原が死ぬときに理由が明かされる伏線になっている。
 六日目では、古川朝美を悩ます迷惑電話の男がついに古川朝美の部屋を特定し、ドアにペンキでメッセージを残していく。そのメッセージを見た萩原は、警察に連絡することを勧め、警察が帰った後にドアを薄い青色に塗る。その後古川朝美の部屋でピザを注文するのだが、千葉は今まで出前のピザを注文したことがないといい、自ら電話をかけて注文する。このことが、八日目に萩原が死んだあと、なぜ迷惑電話の男が古川朝美の部屋を特定できたのかを解き明かすための重要な行動になっている。そしてピザを食べ終わった頃、古川朝美がある芝居のチケットを二枚差し出してくる。萩原と一緒に行こうという狙いだったのだが、実はそのチケットを萩原も入手していた。そのことを知っている千葉は、古川朝美にそのことを伝えてしまう。萩原が持っていることを隠したままであればスムーズに話が進むのだが、死神である千葉はそこまで気配りをすることができない(というより、そうする必要があることを知らない)。しかし、そのあとに「二人は同じことを考えていたんだな」と言うことで、「自分と相手が同じことを考えたり、同じことを口走ったりするのって、幸せじゃないですか」という萩原の言葉を踏まえた発言をすることで二人の関係をさらに深めるきっかけとなっている。
 七日目の午後七時、千葉は萩原の調査結果を報告する。その直前に、萩原と古川朝美が二人で古川朝美の部屋に入っていくのを目撃し、あれがうまくいく恋愛なのだろうか、という感想を持っていた。しかし千葉が下した判定は、「可」であった。ここまで二人の関係に深く関わっていたにもかかわらず、報告は残酷なまでに淡々と行う千葉を描くことで、千葉という存在の特異性を改めて強調し、第一編で下した判定の特別さを強調する場面になっている。
 そして八日目、この編の冒頭に時間が戻り、萩原が持っていた謎が解明される。萩原は千葉が調査を始める以前から、癌に侵されており、もって一年だと言われていたのだ。そういう体であると知っていた萩原は、自分を外見ではなく中身を見て好きになってくれる女性を探し、古川朝美にも自分がバーゲンの時にいた店員だということも明かさずに近づいたのだった。さらに、古川朝美を悩ませ、萩原の命を奪った迷惑電話の男が、どのようにして古川朝美の住所を突き止めたのかという疑問は、ピザの宅配サービスを利用したのではないかという千葉の推理によって解明される。その推理を萩原に提示した時には、すでに萩原は息絶えていた。それを見届けるのが千葉の最後の仕事であるので、見届けた後はするべきことはないのだが、千葉は古川朝美の姿を見つけ、わざわざすれ違うようにして言葉を交わす。そしてその会話で、萩原と古川朝美の共通の台詞である「自分と相手が同じことを考えたり、同じことを言ったりするのって、すごく幸せに感じる」ということが再び繰り返される。それほどまでにお互いを結びつける要素がありながら、千葉のたった一言で叶わぬものになってしまうことを示すことで、「死」には抗うことができないことを伝えている。なお、この古川朝美は第六編でも登場する。この編では、全編を通して唯一調査対象の死がえがかれており、萩原の死が後の編の伏線になっていることがわかる部分になっている。
 「旅路を死神」では、調査対象は森岡耕介という二十歳の若者である。森岡は、五歳の頃に誘拐された経験があり、その時の犯人の一人と母親がいまだに連絡を取り合っている場面を目撃し、母親もその誘拐に関わっていたのではないかと裏切られた思いになり、母親を包丁で刺してしまう。その後、渋谷で一人の若者と喧嘩をして、相手を刺殺した後で逃走しようとし、千葉の車に乗り込んで北へ向かうように脅迫する。千葉によって、この森岡は「私が今までにあった人間の多くは、罪を犯すと、重い石や樽でも背負ったかのような、苦しげな雰囲気になった。苛立ちや怯えを見せたり、より凶暴になったり、とにかく、平常心を失った。けれど横にいる森岡はどこか、自然体だ。逃げ回り、時には神経質な面も出すが、ラーメン店で気軽に、店主に声かけもする。人を殺した意識や実感がないのだろう。自分の置かれている状況に、真実味が持てていない。無邪気で、屈託がない、とも言えるが、愚かともいえる。想像力が足りない」若者であることが示されている。この編では、千葉が調査対象により積極的に考えを述べる場面がえがかれている。とくに、この編で千葉は初めて調査対象の過去に興味を持ち、自分から調査対象である森岡に質問を投げかけている。これは、物語を展開させる役割としてだけではなく、千葉がより能動的に調査対象に関わろうとしていることの表れである。千葉が訊ねたのは次の場面である。

 近くにはほかにも車が何台か止まっていたが、私たちの車よりはかなり大きい。と言うよりも、私たちのこの車が極端に小さいのだろう。巨大な獣に囲まれた、小型犬を思わせた。ガソリンの代金を払い終え、再び発進させる。そして、交差点を二つほど抜けたあたりで、「おまえに、何の事件があった?」と私は訊ねてみることにした。目を瞑っていた森岡は、予想通り、眠っていたわけではなかった。右目の瞼を開き、私を見つめ、それから、「事件?」と身体を起こす。「昨日言ったじゃねえか。おれは刺したんだよ、お袋と赤髪のチンピラを」「そうじゃない」昨晩の落書き青年が言っていたのを思い出したのだ。あのスプレーをいじっていた青年は、トランクで震える森岡を見下ろした後で、「何か嫌な思い出でもあるのかな」と呟いた。その時だけ、雨雲がさっと裂けて、月が一瞬だけ顔を出し、トランクに光を射し込んだので、「それ、正解です!」と夜が伝えてきたかのようでもあった。「子供の頃に、何かトランクに嫌な思い出とかあるのかもしれない。事件とか事故とか。だからこんなに怯えているのかも」私が、トランクでの怯え方や、ホテルのベッドでうなされていたことを話すと、助手席の森岡はまず、「うっせえな。関係ねえだろうが」と口元をゆがめた。
『死神の精度』文藝春秋(文春文庫)

 千葉が訊ねなくても森岡がひとりでに話し出す場面もえがかれており、千葉が自ら訊ねたこの場面は千葉の変化を表すものとしての役割を担っている。また、この場面と少し前の場面に登場する「落書き青年」「スプレーをいじっていた青年」は別作品『重力ピエロ』に登場する「春」であることが推測される。そしてこの後に語られる森岡の幼少時代の事件が今回森岡が母親と若者を刺す原因となるものであった。さらに、今千葉と向かっているところが十和田湖の奥入瀬渓流という場所であり、そこで森岡はもう一人殺す予定であることが明かされる。それは、森岡が誘拐されたときに監視役をしていたと森岡が考えている男で、母親が連絡を取っていた男である。その男の名は深津と言い、森岡がホテルのベッドでうなされていた時に呟いていた人物である。森岡は深津を犯人のうちの一人だと考えているものの、深津によって救われたとも考えており、森岡自身、深津をどうするべきかわかっていない状態であることがうかがえる。この会話の後、森岡は母の取っていた行動に対する思いを千葉に打ち明ける。誘拐事件の後、森岡は自分が周りの人間から嫌われている、自分の周りには敵だらけだと思い続け、攻撃される前に攻撃して生きてきた。それでも母親だけは自分の味方だ、自分を理解してくれていると信じ続けていた。その母親が実は誘拐犯とつながりがあったと知り、裏切られた気持ちになった、という話を聞き、千葉は再び「春」の言葉を思い出す。そしてこの話を聞いた千葉が、最終場面で森岡を「救う」ことになる。
 そして次の日の夜は、小岩井高原にあるペンションに立ち寄る。そこで千葉と森岡は出された夕食を食べるのだが、この場面で、千葉が人間の行動を観察し、自分の糧にしようとするようすがえがかれている。それは次の場面である。

 それから私たちは、一階に降り、食堂のような場所で、夕食を食べた。次々と運ばれる皿には、綺麗に飾られた野菜や肉が載せられている。私たちの他にも、二組の客がいて、一組は若い女性二人、もう一組は男女だった。はじめのうちは、彼らの目を気にして、マスクをどうしようか、などと気にしていた森岡だったが、そのうちに料理に夢中になり、途中からはすっかり素顔を晒していた。舌を鳴らす。「これは」とフォークに刺した肉を頬張り、「やばいくらいに」と顎を動かし、「うますぎる」と飲み込んだ。忙しなく咀嚼しながら、小刻みにうなずいている。私はと言えば、相も変わらず、食事という作業に興味が持てないため、森岡の食べる様子を観察しながら、丹念に味わうふりをした。とりあえず、「これは」とフォークに刺した人参を頬張り、「やばいくらいに」と噛みながら、「うますぎる」と飲んだ。「馬鹿にしてんのか?」それを見ていたらしい森岡は眉をしかめた。「人参じゃねえか」
『死神の精度』文藝春秋(文春文庫)

 この行動は、千葉が人間のようにふるまうためのものであるが、何千年も前から人間の死を判定してきたはずの千葉が、いまさら食事の取り方を学んでいるのは、千葉がより人間に興味を持ち、人間らしく振舞おうとする心の表れである。
 次の日の車の中で、森岡は、訊ねられていないのにもかかわらず、自分が起こした事件のきっかけについて話し出す。これは、森岡が千葉を信頼したことを表している。森岡は、唯一自分を理解してくれていると思っていた母親にさえ裏切られたと感じていたのだから、自分のことを話すことはないはずであった。ところが千葉は、どれだけ脅しつけてもびくともせず、逃げるチャンスがあっても、逃げ出さずに森岡のそばにい続けた。千葉にとっては森岡を調査することが本来の目的なのであるから、逃げ出すことなどありえず、死神であるから殺人犯に脅されても何も感じないのは当然である。しかし森岡にとっては、自分の話を聞いても逃げず、嘘も全くつかない千葉は、一番自分にとって必要な人物になっていた。だからこそ森岡は心を許し、千葉に話を聞いてもらいたいと感じているのである。森岡にとって千葉のいる空間が安心できる場所となっているのだ。そしてこのことと、森岡と千葉が目指す十和田湖奥入瀬渓流という場所の関係性が、千葉と春の会話によって示されている。

 「これからどうするわけ」と訊ねられた時も、はじめは風が鳴ったのかと思ったくらいだ。「こいつは十和田湖に行く。おいらせ、というのがあるらしいが」「奥入瀬渓流」彼は少し頬をほころばせた。「知ってるのか?」「十和田湖からの川の渓流で、美しいよ。おれは一度だけ、観に行ったけど、とても良かった。十和田湖や奥入瀬は、安心する」「安心?」「俺はよく思うんだけれど、動物とは異なる、人間独自のつらいことの一つに、幻滅、があるじゃないか」「幻滅?」「頼りにしていた人間が、実は臆病者だったとか、信じていた英雄が、実は、馴れ合いを得意とする狡い男だったとかさ。味方が敵だったとか。そういうことに、人間は幻滅する。そして、苦痛に感じる。動物なら、たぶん違うんだろうけど」「それと湖が何の関係があるんだ」「あの広い湖とか、美しい奥入瀬の流れは、絶対に、俺を裏切らない。幻滅させない。そう確信できて、だから、安心できるんだ」「だから、こいつも、そこへ行きたがるのか?安心したくて?」とトランクをノックする。「さあ、違うかもしれない」彼はそこで片眉をあげた。「もしかしたら、彼の特別な理由があるのかもしれないそれをやり遂げなければ死んでも死にきれない、彼にとってのそういうものが、あるのかもしれない」
『死神の精度』文藝春秋(文春文庫)

 森岡は信頼していた母親に裏切られたと感じ、「お袋が敵だとは思わなかったな」と幻滅している。十和田湖を目指す理由は深津を殺すためではあるが、森岡と千葉が奥入瀬渓流を歩くことで、森岡の考えが変わることから、十和田湖奥入瀬渓流は森岡にとっての救いの場になるのである。十和田湖奥入瀬渓流に到着した千葉と森岡は、深津が働いている売店へ行くが、その日は深津は休みで、車を返しに後ほど来るという情報を手に入れる。そこで千葉と森岡は、ペンションの主人の助言どおり、奥入瀬渓流の下流から上流に向かって歩き始める。下流から歩いていると、途中のベンチで休む老人夫婦に出会う。そのそばを通り過ぎようとした時に、おばあさんの方が、立ち上がろうとして転んでしまう。それを見ていた千葉と森岡に対する老人夫婦の行動と、そのあとの千葉の推測により、深津という人物の本当の姿が浮かび上がってくる。

 「すみません」老女は手を地面につけながら、謝った。老人が慌てて、老女の身体に手をやり、支えようとする。「申し訳ないです、家内、ちょっと歩き疲れてまして」と私たちを見上げて謝罪するが、その彼自身の足も不安定に見えた。だから私は、「二人とも疲れているようだが」と指摘をしたのだが、男のほうは、「いえ」と力強く否定をした。「私は全く元気ですよ。家内だけです」と皺だらけの顔で言い、「ほら、つかまれ」と老女に声をかける。そして、私たちが来た方向へと去っていった。「年寄りが歩くにはつれえよな、ここ」森岡は言った。「あの男は明らかに疲れていた」私は疑問を口にする。「なぜ、嘘をついたんだ?」「強がったんだろ」「強がる?強がる必要があるのか」「知らねえけどよ、婆さんのためじゃねえの。爺さんまでも弱ってたら、婆さんが不安がるじゃねえか。だから、強がったんだろ。やっぱりよ、頼る相手は自分より強くねえと」「そういうものか」―――(中略)―――「どうでもいいことかもしれないが」私は緩やかに流れてくる川を見ながら、言った。先ほどの老人と別れてから、考えていたことだった。「何だよ」「こういうことは考えられないのか」「知らねえよ」私の言葉を聞く前から、彼は言った。「何だよ」「深津という男も、被害者だったんじゃないのか」「はあ?」森岡は顔をしかめた。「犯人の仲間じゃなく、誘拐されたおまえと同じ被害者だったんじゃないのか」「何だよそりゃ」「他の犯人は顔を隠していたのに、深津だけ顔を見せていた、というのが気になるんだ」と私は言ったものの、そのことが気になったのは、たった今だった。「杖をついていたのも気になるな。犯人が、怪我人を仲間にする必要があるとは思えない」「いい年の大人が誘拐されるかよ」「大人だって、金になるなら、攫われるんだろ?」私は言ってみる。「あんた何言ってんだよ。そんなことあるわけねえだろうが。深津自身が、犯人だって言ったんだっての」「それはあれだ」私は歩いてきた道を指差す。「さっきの老人たちと一緒ではないのか」「さっきの?」「深津は強がった」「はあ、何のために」「おまえの不安を取り除くためだ」私の言葉に、森岡は口を開きかけたが、すぐに噤んだ。「深津は、大丈夫だ、と言っておまえを安心させた。でも、もし深津も、誘拐された被害者だったとしたら、説得力があるか?おまえは安心したか?」森岡はすぐには返事をしなかった。一歩、二歩、と歩き、当時の忌々しい記憶を確認しているかのようだった。「知らねえよ」「深津もおまえと一緒にその部屋に監禁されていた。ただ、おまえを不安がらせないために、監視役を装っていた」「あのな、もしそうだとしたら犯人も、普通、深津を縛っておくんじゃねえのかよ。ガキの俺ならまだしも、大人だぜ」「確かにそうだな」私はうなずく。「なんだよ、あっさり認めんのかよ」「別に俺は、真実を知っているわけでもないし、真実が知りたいわけでもない。思いついたことを口にしただけだ」「あんた、何なんだよ」森岡はほとほと呆れ果てた、と溜め息をついた。さらに私たちは歩きつづけた。私としては、自分の口にした憶測についてはどうでも良かったのだが、少ししてから、「でもよ」と森岡が蒸し返した。「でもよ、深津がまともに歩けなかったからかもしれねえな」と。「仮に、部屋から出ても、あの足じゃあ、逃げられねえ。だから、部屋の中では自由にされてたのかもな。そうだ、犯人にしてみれば、縛ってなけりゃ、便所も勝手に行ってもらえるし、都合がいい」私は肩をすくめる。「俺はどちらでもいい。ただ、もしそうだとすると犯人の事故は、深津が起こしたのかもしれない」「何だよそれ」「深津は、車で移動させられるところだった。解放されるためか、殺されるためなのかは分からないが。とにかく、その日、車に乗せられた。そして、逃げるために、車内で暴れた」私は、昨日見かけた、蛇行運転を繰り返す赤いセダンを思い出す。「で、事故が起きた」「事故で死ななかったのはたまたまだろ。危なかったじゃねえか」「死んでもいいと思ったんじゃないのか」深津には死神がついていなかった、ということだろう。「その後で、俺を助けに戻ったってのかよ。さっさと逃げりゃいいのに」森岡は言ってから、「あの足でかよ」と洩らし、混乱を振り払うためなのか、乾いた笑い声を出した。「ねえよ、そんなこと」「ないか」「ねえよ」「でも、もしそうなら、母親が深津と連絡を取っていてもおかしくはない。深津は犯人ではないし、おまえの恩人だからな」「どうして深津は、俺の家に来たんだよ」「事件後のおまえが心配だったのかもしれない。被害者仲間だからな。おまえ、監禁されている時に、住所を教えたか?」「覚えてねえよ」森岡のこめかみに、血管が浮き上がる。「あのな、もし仮にそうだったとしてな、何でお袋は、俺に言わねえんだよ。正直に言えばいいだろうが。深津が犯人じゃねえなら、そう言って、説明すればいいだろうが」「俺はよく分からないが」私はそこで、仙台で会った少年との記憶をまた引っ張り出した。「おまえを、幻滅させたくなかったのかもしれない」「幻滅?」「深津はおまえにとって、頼りがいのある男だったんだろ。それが被害者だと分かったら、幻滅する。深津はそう思ったのかもしれない。どっしり構えた犯人のままでいなくちゃいけない、とな」「幻滅するわけないだろうが」森岡は歩きながら、両手で髪をがしゃがしゃと掻いた。混乱の原因はその毛の根にある、と言わんばかりの激しい掻き方だった。「ちょっと待てよ。もしあんたの言う通りだったとして」「おまえほど物知りではないが」「もしそうだとしたらよ、何なんだよ、これは。俺はお袋を刺して、チンピラを刺し殺したんだぞ。それが全部、俺の勘違いが原因ってわけかよ」「勘違いじゃない」「お袋や深津が本当のことを言ってくれりゃ、俺は無駄に人を殺さずに済んだかもしれねえじゃねえか。違う人生だったかもしれねえだろ。ふざけんなよ」私は、人のやることはたいがい無駄なものだと思っているので、それについては答えなかった。ただ、森岡が気づいていないようだったのだ、口に出した。「そういう下らないすれ違いは、人間の得意とするところじゃないか」
『死神の精度』文藝春秋(文春文庫)

 この場面によって、この編最大の変化が森岡に訪れる。老人夫婦の行動と、仙台での春との会話が伏線となって、千葉の推測につながる。深津は、森岡にとって心の支えになっており、幻滅させてはいけない、という深津の思いから森岡には伝えなかったのではないか、という千葉の推測は、人間の心理がよく考えられており、より人間を観察した結果と言える。特にこの森岡に対しては、思慮が浅いことにいち早く気付き、今までより多くの助言や関わりを持っている。これは、千葉が調査対象によって調査方法を変えていることが分かるものになっており、死神界の情報部によって外見や調査対象とのファーストコンタクトは決められているが、その後は千葉が調査対象を見て判断した行動を取るのであり、人間観察力に優れた死神であることの表れである。それには人間への興味が不可欠であり、この編では、より千葉の興味が表れていたからこそ、他の編よりも具体的に千葉の分析が描かれていたのである。
 奥入瀬渓流を辿り切った千葉と森岡は、渓流の出発点である滝に到着する。そこで、森岡は「これは人の一生みたいだな」と発言する。「ここはよ、川の上流、スタート地点だろ。それがこの滝だ。ここは派手だし、人も多いじゃねえか。それってよ、俺たちが生まれた時と似てねえか?俺たちも生まれた時はよ、こんなんだったんだろ?お祭り騒ぎでさ、人にも注目されてよ。みんなに喜ばれて。でも、それがどんどん流れていくうちに、今見てきたみてえな、地味で、ゆらゆら流れているだけになっちまう。何か、似てねえか?」と。それを聞いた千葉は、「下流の方も、悪くなかったと俺は思う」と答える。これは、千葉がこれまで見てきた人間たちの、すべての人生をまとめた感想だと考えた。これは、森岡にとっての救いの言葉になる。千葉と森岡は冒頭の会話で、「十年間の中で、何か有意義なことがあったか」ということを話していた。その時の会話では、人生はただの時間だ、と発言していた千葉だが、森岡がこの後深津に会ったときに、どうするべきかを判断しなければならない状況であることを理解し、「最善ではないけれど、最悪じゃない」行動がとれるように導くために、「時間が過ぎるだけの人生かもしれないが、その中にもいいことはある」というメッセージが込められていると考えられる。最終的には、森岡は千葉によって「死」の判定が下されることは千葉自身によって断言されているが、それまでの残りの時間で、昔から続いているトラウマを取り払う手助けをしており、これは千葉の同僚である「秋田」が、『吹雪に死神』で行っていた「どうせ死を迎えるのであれば、それまでは相手に幸せを与えるべきだ」という考えに基づいた行動と少し似ている。千葉はこの考えに、『恋愛で死神』で得た、「最善ではないけれど、最悪じゃない」という考え方を混ぜたような行動を取っている。これは、この物語が進んでいく中で、千葉が少しずつ人間に肩入れし始めたことの表れである。なお、この編でも対象者である森岡の死は描かれていない。
 次は、『死神の精度』最後の編である「死神対老女」について考察していく。この編では、これまで進んできた五つの編から積み重なってきた、千葉の特徴が崩される場面が存在する。今回の調査対象は、新田という七十歳の老女である。彼女は太平洋に面した町の、海が見下ろせる高台で美容師をして暮らしていた。千葉は調査のために、その店へ客として行くのだが、髪を切り終えた老女から「人間じゃないでしょ」と、すぐに見破られてしまう。この老女は、今までに何度も周りの人間を失っている。十代の時に父親を、二十代のときには、はじめて好きになった人を、さらに結婚後には旦那と長男を、それぞれ事故や事件で失っており、さらには客として来ていた有名な女優も事故で失うなどしており、その話を聞いた千葉は、「ずいぶん偏っている」という思いを口にする。事故や事件で人間が命を落とすことには、必ず死神がその人間を調査しており、一人の人間の周りに偏っていることは珍しいという。唯一彼女の周りで残った次男とは、二十年以上もの間音信不通であることも明かされる。その後、千葉は音楽を聴くためにCDショップへ行きたいといい、竹子という常連客の車で送ってもらう。その時に、千葉は老女からひとつ「お願い」をされる。「明後日、十代後半の男女数人を店に来るよう勧誘してきてほしい」というお願いを、千葉は渋々ながら引き受ける。「最終的にそれを引き受けたのは、第一に、もし依頼を請け負えばまた老女に会いに来る理由ができるからで、第二には、さっさとこの話を切り上げて、ミュージックショップに行きたかったからだ」と千葉は語っている。しかしこの行動は、死を迎える人間のために特別なサービスとして、人間の願いを叶えてあげる死神仲間とおなじことを千葉もするようになったということを表しており、人間とのかかわり方が明らかに変化していることが分かるものになっている。
 千葉は繁華街へと行き、CDショップで音楽を堪能したあと、老女に頼まれたことを実行する。はじめのうちは断られたり、坊主頭の高校生集団を勧誘しようとするなど、要領がつかめていなかったが、一人の青年のアドバイスを受けて、なんとか一人の勧誘に手ごたえを感じ、老女の店へと帰ってくる。そこで千葉は、ミュージックをかけてほしいと老女に頼む。そして老女がかけたCDは、第一編『死神の精度』で千葉が唯一「見送り」の判定を下した、藤木一恵のCDであった。千葉が「見送り」の判定を下したことで、「もし万が一、あのプロデューサーの直感が正しくて、さらに万が一、彼女が優れた歌手となることに成功したとして、さらにさらに、私がいつか訪れたCDショップの試聴機で彼女の曲を聴くときが来たら、それはそれで愉快かもしれないな、とは思った。」と述べていた千葉の言葉が現実のものになる。その後CDを聞き続ける千葉は、ソファで眠り始めた老女を「死神の調査期間中に相手が死ぬことはないので、そのまま放っておいても彼女の身体に問題はないだろうとは思った」ものの、二階の寝室まで抱えていく。この行動もまた、千葉の小さな「サービス」として描かれている。
 次の日も千葉は、繁華街へと行き、勧誘を続ける。この日は、以前千葉が担当していた営業職の男のやり方を真似て、十人ほどの男女から美容院に行くという約束を取り付けることに成功する。そのことを報告した後は、またCDを聞き、老女がソファで眠ったら、二階の寝室へと運んで行く、という繰返しをした。千葉は、「悪くない時間だ」という感想を述べており、人間と過ごす時間に対して好ましい感情を抱くようになっていることが分かる。このことを表す場面が次の日に描かれている。老女は、店をあける前に千葉を追い出す。「あんたが勧誘した客が来たときに、あんたが店にいたら、何か話しかけるかもしれないでしょ。そういうのは嫌だから」という老女の主張を、千葉は納得はしないながらも受け入れる。そして、繁華街のミュージックショップへと行こうとするが、自分が声をかけた若者のうち、何人が実際にやってくるのかに興味を持ち、店から少し離れたところに立ち、観察することにしたのだ。これは千葉にとって著しい変化である。ミュージックのために、第4編で調査対象の萩原が刺された場面には居合わさず、刺した犯人が逃亡してからその場に到着するという行動を取るなど、調査対象よりもミュージックを優先する姿がえがかれていたが、ここではそのミュージックよりも人間に興味を抱き、その場に残っている。この変化は、この物語全体を通して貫かれていた、人間への興味の無さが変わったことを表しており、この物語最大の変化であるクライマックスへとつながっている。
 老女が仕事を終えた後、千葉が店へと戻り、客を呼ばせた理由を訊ねるが、老女は答えない。そうしてまた、千葉はCDを聞き、ソファで眠った老女を二階の寝室へと運ぶ。この繰り返しを重ねることで、千葉がより人間に近づいていくことを表している。実際に千葉は、「何年もこれが日課となっているかのような感覚があった。」と述べており、老女とのかかわりを通して、人間世界へと急速に入っていっていることが分かる。そして翌日、朝の八時過ぎに竹子が店にやって来て、昨日の約束の結果と理由を老女に訊ねる。ここでも初めは答えずに、竹子が着ていたジャケットの話題にずらす。そのジャケットは、何十年も前に老女が購入したもので、老女のお気に入りであったものを、今再び流行り出したことで竹子が譲り受けたのであった。そのジャケットを見た千葉は、不意に記憶に引っかかるものを感じる。「ジャケットに見覚えがあるのか、それともそれを着た竹子をどこかで見かけたのか、もしくは老女についての覚えなのか、とにかく、思い出すべき情報がありそうで、頭を悩ませた。」と述べている。この謎は物語の最終場面で解かれる。そしてこの後で、老女の口から昨日の出来事の真相が語られる。実は、音信不通であった次男から一週間ほど前に電話がかかって来て、老女に孫がいることが判明したのだ。その孫が、老女に会いに来たがっているのだが、次男は、「孫だと名乗ること、あくまで客として老女の店に訪れること、余計な会話はしない事」を条件として孫を美容院へ行かせると伝えてきた。訊ねてきた客が孫だと分かることを恐れた老女は、千葉に依頼して、孫と同年代の客を集めたのであった。それに対して千葉と竹子は、「それでよかったのか」と訊ねるが、「どの子かは分からなかったけれど、昨日の客の中にいたんだから、孫には会えた。それに、一生懸命頑張って、どの子も凄く似合う髪にしてあげたから。」と答え、ほほ笑む。千葉はその笑みの中に、喜びと同程度の寂しさも滲むように感じている。その話の後、竹子が大学へと出かけて行き、老女は千葉に、一つの賭けを持ちかける。

 「賭けてみない?」「賭ける?何を」「晴れてるかどうか。雨が止んでるかどうか」老女は右手を伸ばし、窓を指差した。まだ、カーテンは閉じたままで外は見えなかったが、けれど私には開けずとも答えが分かっている。「止んでいるわけがない」「じゃあ、賭けようか。私は晴れていると思うよ」「どうしてそう思う」「今日は、晴れてもいいと思うから」「根拠になってない」「じゃあ、賭けようよ」私は気乗りしなかった。見るまでもなく、雨が降っているに決まっていた。経験上、そうとしか言いようがない。そのことを告げると彼女は、「つまんない男ね」と声を出し、つかつかと窓際に歩いていった。別に私が勝ったところで長生きさせてくれなんて言わないのにさ、と笑い、さっとカーテンを開けた。すると、だ。「ほら」振り返る老女の向こう側に、私が見たことのない晴天が広がっている。
『死神の精度』文藝春秋(文春文庫)

 この場面で、全編を通して途切れることのなかった雨が上がり、千葉にとって初めての晴天があらわれる。これは、先ほど述べたように、千葉が人間世界により近づいたために起こった変化で、千葉が人間に興味を持ったことをあらわすものになっている。この晴天を見た千葉と老女は、海岸までやってくる。そこで最後の謎が明かされる。千葉が「次男とは音信不通ではなかったのか」と訊ねると、老女は、「あれは、少し嘘」「でもね、昔何かの映画で言ってたけど、ちょっとした微妙な嘘は、謝りに近いんだってば」と答える。その言葉を聞いた千葉は、ようやく、この老女に以前あったことがあるのを思い出す。この新田という老女は、第四編「恋愛で死神」に登場していた、古川朝美であった。そして竹子に譲ったジャケットは、千葉が調査していた萩原が彼女に売ったものであることが分かる。さらに、この編の冒頭で老女が言った「二十代の時には、はじめて好きになった人も死んじゃって」というのが、萩原であることがわかる。この場面につなぐために、全編で唯一、千葉の調査対象である萩原の死が描かれていたのである。ちなみにこの老女に対する千葉の判定は「可」である。さらに、この編では千葉は一度も名乗っていない。これは全編で唯一のことである。もし名乗っていれば、老女古川朝美に千葉が死神であり、萩原の命を奪ったことが分かってしまっていたであろう。
 以上六編を通して千葉という人物を見ていくと、どの作品にも共通して言えることは、千葉が何よりも大切にしていることは、調査ではなく「ミュージック」であるということだ。第四編の萩原の死を見届けに行くのが少し遅れていることや、藤木一恵を「見送り」にしていることなどからうかがえることである。千葉は、全編を通してミュージックを聴かないということがなく、少しずつ人間に興味を持っていくものの、第一に考えているものは人間ではなく「ミュージック」であることが描かれている。もう一つは、千葉が担当するすべての調査対象の命運を握っている、ということである。第一編の藤木一恵を除く五人は、「可」の判定が下され、八日後に人生が終わる。第四編の萩原は、すでに癌に蝕まれており、もともとの余命が一年であったが、それ以外の人物はまだ寿命は続いていくはずであった。しかし、第二編の栗木や第三編の田村聡江、第五編の森岡耕介などは、自分のやり遂げたい事は成し終えた後に八日目が訪れることになっており、栗木や森岡の場合は、千葉の手助けによってそれが成し遂げられている。逆に第一編の藤木一恵は、千葉が「見送り」の判定を下してから、自分の才能を生かして物事を成し遂げており、千葉によって人生を充実したものへと変えられたのである。これらを見ると、千葉自身は、人間に興味がない、ただ仕事だから関わっているといい、「可」「見送り」の判定を通して調査対象の生死を決定するために人間界に来ているのだが、調査対象たちにとっては、生死を決定される以上に、千葉によって「救われて」いるのである。千葉は人間の命を奪いに来ているのではなく、救いに来ていると言えるのである。

第2節 『オーデュボンの祈り』の優午、桜について

人物設定重要視するもの行動の変化
遊午 ・1855年に作られ、島が外界との交流を絶った後も、島が時代遅れにならないよう、知識を与え続けるために存在している
・未来を知ることができる
・未来についての情報は決して人に与えない
・鳥
・島の住民
・鳥を守るために未来の情報を与え、人間の行動を意図的に操作して自分の望む未来を選ぶ
・自らの意志で死ぬことを選び、島へ知識を与える仕事から降りる
・男が見ても美しいと思うほどの整った顔立ちをしている、30代前後の男性
・島のルールとして殺人を黙認されている
・人と馴れ合わない
・花
・自分から主人公に話しかけるようになる

 優午と桜は、萩島という外界との交流を一切しない、閉ざされた島の住人である。「オーデュボンの祈り」の主人公である伊藤は、仙台市でコンビニ強盗をしようとして捕まった後、目の前の警察官が中学時代の同級生の城山であることを知り、護送される途中パトカーの事故に乗じて逃げ出し、轟という、島で唯一外界との交流を持つ男によって萩島へと連れてこられる。この島は江戸時代に生きた「支倉常長」という人物が、サン=ファン=バウティスタ号という遣欧使節船でヨーロッパへと宣教師を呼びに行く前に存在を知られ、鎖国のせいで宣教師を呼ぶことに失敗した支倉常長は、この島を密かに利用することを考える。日本が鎖国する中で密かにヨーロッパとの交流を続け、日本が開国にむかう時期に鎖国する。その後は轟家のみが外界との接点を持つようになる。そんな島には、ある一つの言い伝えがあった。「ここには大事なものが、はじめから、消えている。だから誰もが空っぽだ。島の外から来た奴が、欠けているものを置いていく」というものだった。島の住民たちは、この言い伝えについて長い間考え続けていた。そんなところへ、曽根川という男が、それから3週間後に伊藤が、それぞれ轟によって連れてこられたのだ。そして伊藤がこの島で出会うのが、優午と桜などの人物たちである。優午は人語を話し、未来が見える案山子である。伊藤はこの島につれてこられた翌日に、日比野という青年に島を案内してもらったときに優午に会う。初めは疑ってかかった伊藤だが、島に来る前に城山という、伊藤と中学が同じで、伊藤を捕まえた警察官のことまで知っているのを聞き、話を続けるうちに受け入れるようになる。

 「とにかく、優午は未来が分かるんだ」日比野が、もどかしそうに言う。「天気予報と呼ばれるものがあるでしょう。あれも未来のことを当てるではないですか。数週間先、1日先、1週間先。私も、要はそれと同じです」カカシが喋った。「天気予報は、外れることもあるけれど」「私もですよ。時々、外れます」カカシが微笑んだようにも見えた。目を凝らしても、ただの目の細かい布があるだけだというのに。「すぐ先のことは、確実に分かります。ただし、数週間先、1年、数年、と先のことになると外れることも多くなります。その日が近づくにつれて、未来は鮮明に見えてきます。レンズの焦点が徐々に合うようにです」「それで、僕が来ることも知っていたんだ?」「それこそ、100年以上も前からその可能性は見えていました。いくつもある可能性のルートの中にあるという程度ですが。それが3週間前くらいに、伊藤さんが来ることがはっきりとしました。それなので、正しく言えば、3週間ほど前から知っていたことになりますね」「優午は、1週間くらい先のことなら完全に知っているんだ。この世の中のことはみんな知っている」日比野は、自分たちの未来はそちらの方向からやってくると信じているのか、丘のある方角に目をやり、空に顎を向けた。「そうですね、1週間くらい先のことなら。それ以上先のことになるとわかりません。だから、あなたがこの先どうなるのか、島をいつ出ていって、仙台に戻ってからどうなるのか、訊ねられても私には答えられませんよ」まさに僕はそれを訊きたかったので、先手を打たれた気分になる。「わからない、ですか」「正確に言えば、断定できない、ということです。あなたの未来について、私はいくつかの経路を知っています。未来へのシナリオは、大きく分けて何十通りもあります。細かく分岐すれば、何億通りにもなるでしょうね。でも、そのうちあなたが実際に辿る未来はひとつしかありません。いったいどの未来になるかは、ほんの少しの条件でも変わってしまうんですよ」カカシはゆっくりと穏やかなトーンで話していた。「だから、今の段階では分かりません。特定できませんと言ったほうが正しいでしょうか」「状況によって変わるって、天気だとか、温度だとか?」「たとえば、ある男女が出会う可能性があるとします」カカシの声は、妙に優しい。「あくまでも可能性です。その日の天気が雨であったら、いえ、もっと言ってしまえば、歩く道に小さな虫の死骸が落ちていたとしたら、それだけで男性が歩くコースを変えてしまうかもしれません。そうなると、女性とは会えない。未来を断定するには、細かいことを知っている必要があるのです。そして、遠く離れた将来のことになればなるほど、ディテールは把握しにくくなります」「だから断定できない」僕はうなずく。「ってこと?」「私は無責任なカカシなんですよ」「それ、カオス理論だ」と僕はつぶやいていた。どこかの気象学者が見つけた科学理論のはずだ。「規則はあるのに予測はできない」「難しいことを言う奴だな」と日比野がからかう声を出す。簡単に説明できないだろうか、と頭を回転させ、たとえ話を探した。「ジューサーと言うのを知っているかい」「果物を突っ込んで、かき回してジュースを作る機械だろ」日比野は即答した。「ジューサーに果物を入れると、ジュースができる。みかんを入れるとみかんのジュースができるし」「バナナの時もある」「そうするとバナナジュースだ。ようするにさ、そういう規則がある。何を入れたら何ができるのか、それが決まっている。で、たとえば、ある時にとても美味しいジュースができたとする。材料を混ぜたら、とても美味しいジュースになったんだ」「そいつは良かった」「そう。良かった。だから、別の日に、もう一度同じジュースを作ろうとしたのに、今度はうまくいかなかった。材料がひとつだけ足りなかったんだ。もしくは量が少なかったんだ。そうしたら、まったく似ても似つかない飲み物になった」「ぜんぜん、味が違うのか?」「そう、ぜんぜん違う。材料がほんの少し違うだけで、まったく違うジュースができる。とても敏感な機械なんだ。それでもって、これをカオスって言う」「まずそうな名前だな」「全部の材料が前と同じで、量も1ミリグラムの単位まで同じなら、同じ結果になるんだ。同じジュースが作れる。そのかわりに調味料が一振り足りなかっただけで、まったく違う結果になるんだ。部屋の湿度や温度も同じにしないといけない」同じ結果を得るためには、すべての材料を、環境を、誤差ゼロで用意しなくてはいけない。不可能に近い。決定論なのに予測不可能。初期値鋭敏性と言われる。「優午の言っていることと似ているかもしれない」日比野が首を振った。「ようするに条件が少し違えば、結果はまったく別のものになるってことだろ。逆に言えば、優午はその細かい条件を知っている。だから未来がわかるってわけだ」「私の周りには、鳥たちがやってきます。北からの12月の風が、人の噂を運んできます。情報は、とても細かいことまで聞こえてくるんです。そうですね。今の話はとても近いと思います」カカシは、どんなたとえ話をしても、そうやって僕を受け入れたのかもしれない。「私はおそらくそうやって未来を知っています。人よりも数多く、情報を正確に知っているのでしょう。だから、ジューサーに入れれば、未来がわかります」「神様のレシピだ」日比野が表情を変えずに言った。「未来は神様のレシピで決まる」錯覚ではあったが、カカシはうなずいたかのように見えた。「神様のレシピにはとても多くの材料が並んでいて、贅沢です」僕はそれをとてもいい響きの言葉だ、と思った。
『オーデュボンの祈り』新潮社(新潮文庫)

 この場面で伊藤は優午について、論理的に説明しようと試みている。それが伊藤にとってリアリティを持つために必要なことであったからだが、このなかで優午が述べている未来がわかる理論が、この物語の謎を解くための重要なヒントとなってくる。
 優午は萩島が鎖国にむかう時期につくられた。優午は未来を知ることができるが、それを人間に教えることはない。伊藤はそう教えられるのだが、日比野に案内された日の夜中に、目を覚ました伊藤が優午のもとを訪れると、優午から未来に関する情報をいくつかもらう。しかし、優午はその翌日に「殺され」てしまう。優午はばらばらにされ、畑から引き抜かれ、頭の部分は持ち去られてしまうのだ。「オーデュボンの祈り」では、優午が登場する場面はこのように序盤に集中しており、案山子殺害の謎が「オーデュボンの祈り」での中心となる。優午は未来が見えるはずなのに、自分の死を予測できなかったのか、予測できたのならば、なぜそれを知らせなかったのか、というところが物語全体を通して考えられていく。伊藤と日比野が事件の真相を追い求めていく中で、伊藤の他にも優午から未来に関する情報を与えられて、それに従った行動を取る人物たちがおり、それはすべて「優午にお願いされた」行動であった。その「お願い」は、優午があることを成し遂げるために行われていたものなのだが、一つ一つの行動には、ほとんど共通点がなく、その行動が行われるだけではほとんど何も変わらないように見えるものばかりであった。轟が優午に頼まれたことは、河原でブロックを拾って、別の場所へと持っていくことであり、若葉という少女は、草を結んで作る罠をある場所につくるよう頼まれ、佳代子という女性は、日比野とデートするよう頼まれ、十代の少女は、伊藤の暮らすアパートへ包丁とバターを届けるように頼まれている。伊藤に与えられた未来に関する行動の情報は、分かれて半年になる静香という女性へ手紙を出し続けること、自転車をこぐこと、自分のしたことがいいのか悪いのかも判断できなくなって飛び降りようとする男がいたら助けることである。これらの行動は、優午が自ら「未来のことは話さない」というルールを破っていることを表している。このルールはきっちりと決められたものではなく、優午がつくられた江戸時代に、ある女性が「先のことなんて知らないほうが楽しいんだ。もし誰かに聞かれても『面白くなくなるよ』って言って、教えないほうがいいさ」と言ったことを優午が守っているだけである。優午には未来が見えても人の感情まではわからないということが優午自身によって語られており、そのことが原因で恨まれることもあった。それにもかかわらず守り通してきたこのルールを優午自らの意志で破ったのは、「リョコウバト」という絶滅したと思われていた鳩が萩島で見つかったことを知り、その鳩を撃ちに来た曽根川の手から守るためであった。「優午は、人間よりも動物のほうが好きなのではないか」という推測を、萩島の住人であるウサギという人物が述べている場面がある。

 「でも、不思議なもんでね。優午ってのはカカシであるもんだから、みんな、何となしに人間の仲間のように思っているじゃねえか」「だろうね」「わたしは最近、しみじみ思うんだけどね、優午はわたしらなんかよりも、他のもののほうが好きなんじゃないかって」「他のもの?」「たとえば、犬とか猫とかさ」「犬とか、猫、ですか」「あれは知っているかい?」彼女は言う。「猫ってのは死に際に人前から姿を消すと言うだろ」「聞いたことはあるよ」僕はうなずく。「優午のまわりにはさ、猫の死体がよくあるんだ」「どうして?」「朝になると、何匹も優午の足下にいたりするんだ。そんでもって死んでる。わたしはね、猫も自分が死ぬのが、わかるんじゃないかって思うのさ。具体的に『死ぬ』っていう意味がわからなくても。何となしに、終わりがわかる。だからさ、そういう時、猫とかは優午の近くにいって安心したいんじゃないのかねえ」ようするに彼女が言いたいのは、猫は死ぬ時に優午に添うてもらいたいのだ、そして優午自身もそれを望んでいるのではないか、ということだった。「だから、わたしは思うんだよ、優午が本当に好きなのはわたしらみたいな人間じゃなくて、犬とか猫とかそういうもののほうだって」「カカシというのは、本当は鳥から田圃を守るものなんだ」僕はそう言った。「ああ、そうだってねえ。轟の親爺がそんなことを言っていたねえ」ウサギさんは笑った。「変なもんだ」「優午は鳥を追い払わないんだ?」「カカシなのに鳥贔屓だ」と彼女はおもしろそうに言った。
『オーデュボンの祈り』新潮社(新潮文庫)

 さらに、ウサギの祖母が昔一度結婚し、子どもも生まれて幸せに暮らしていたが、ある夜落雷によって倒れた木の下敷きになり、旦那と子どもが死んでしまった時に、優午に向かって「なぜ教えてくれなかったのか」と問いかけた時にも、「豚に、『おまえは一か月後、生きながらに首を切られて、食べられるんですよ』と教えることは私にはできません。私の腕に止まる鳥に、『明日、おまえは暇つぶしの狩りで撃たれて死ぬんですよ』とも言えないんです」と答えており、決して人間を第一に考えていないことが描かれている。
 優午は、リョコウバトを曽根川の手から守るために、あらゆる対策を取ろうとするが、曽根川が萩島にやってくることを阻止できなかったのだ。そのため、優午はリョコウバトを守るために曽根川を殺害することを決意する。しかし、優午は動けない。そこで、萩島にいる人間を使って、実行しようとする。そのための準備や実行する際の役割を与えるために、優午は未来に関する情報を限られた人間に与えたのだ。それは、優午が未来のいくつかのルートから意図的に行動を操作して、自分の望む未来を選んだことになる。優午にはそういう能力があったのにもかかわらず、今まで島で起こった犯罪や事故を防がなかったことは、ウサギの言うことを証明するものになっている。
 優午は、曽根川の殺害を実行するために、自分を田中という人物に曽根川を呼び出させる。田中という人物は、リョコウバトがこの島にいることを発見した人物である。田中は鳥が好きで、ジョン・ジェームズ・オーデュボンの描いたリョコウバトの絵を持っており、鳥と優午が唯一の友人だと言いきるほどである。
 自分が生きていると、事件が起こると警察が犯人を訊きに来るため、曽根川に直接手を下したものの名を伝えなくてはならなくなる。それを防ぐため、また自分が与えた情報が確実に実行に移されるようにするために、自らが犠牲になる。田圃から引き抜かれ、頭をどこかへ持ち去られる。そして萩島全体で、優午の選んだ未来が進行し始める。轟がブロックを運んだ場所に、若葉が草を結んだわなを作る。その近くで、日比野を誘った佳代子がデートをし、そのデートを演出するために、伊藤は自転車をこいでライトで照らす。そこへ、田中が曽根川を呼び出す。電灯も何もない暗闇の中、曽根川と向き合う田中の足下には、轟が運んだブロックが落ちてあり、田中は護身用にそのブロックを手に持ち、曽根川が近づくのを待った。その時、伊藤が日比野と佳代子にいたずらをしようと、一度だけ自転車を大きく左右に揺らし、ライトの光を動かす。その光が曽根川と田中に当たり、曽根川はよろめいて若葉が作ったわなに足を取られ倒れ込む。そこに、田中の持っていたブロックが落ちる。田中が眩しくて手を離してしまったのだ。そのブロックは曽根川の後頭部に落ち、曽根川は死ぬ。すべて優午が選んだ人物が頼まれた行動を取ることによって成し遂げられた、「選ばれた未来」が完成する。曽根川が死ぬことにより、リョコウバトの絶滅は避けられたのである。しかし、そのために優午を殺してしまった田中は、自分のしたことが本当に正しかったのかわからなくなり、島の見張り台の上まで登って飛び降りようとする。田中は、生まれつき右足の付け根から大きく曲がっており、歩くことすら一苦労な足であったが、誰の力も借りずに登り、途中で引き留めようと島の住民が登ろうとすると「誰かが後を追ってくるなら、すぐにでも飛び降りる」と言い、だれにも止めさせなかった。その場に駆け付けた伊藤は、「自分のしたことが、良いのか悪いのかも判断できなくなって、飛び降りようとする男がいたら、助けるんですよ」という優午の言葉に従い、田中のもとに行く。そしてそこで優午が殺されてからの一連の事件の真相を知る。
 優午の守りたかったものは、リョコウバトだけではない。優午を作った禄二郎という江戸時代に萩島にいた男が、喋るカカシ、優午を作る理由を述べている。

 案山子に口を作るんだ。禄二郎はそう言った。祈る作業のように、徳之助には見えた。木に作った穴に対して、おまえは口になるのだよ、しゃべりなさい、と教え諭すような執拗さがあった。「もう少しだ」と彼は言う。「案山子なんか作ってどうする?」「案山子は田に立てる」禄二郎の言葉はしっかりとしている。「私はこの島を救えない。島は外との門を閉ざす。私には止められない。爪を剥がされ、膝の下を木槌で殴られて、能無しのように転がるしかなかった」咳をする。「案山子はこの島を見捨てない。私の案山子がこの島を時代遅れにさせない」ひときわ大きな咳を吐き出すと同時に、禄二郎が突っ伏した。徳之助は一瞬、茫然としたがすぐさま後ろから抱きかかえるようにして、上半身を持ち上げた。酸味のある匂いがした。嘔吐している。あれだけ血を流し、痛めつけられていれば、吐かないほうがおかしかった。「ロク、ロク」と声をかける。生きていられるわけがなかった。何だよ俺は声をかけることしかできねえのか、と徳之助は思った。禄二郎は目を開けた。奇跡のようでもあった。「徳之助がいてよかった」「どうした」「私は案山子を作る」「さっきからそればかりだ」徳之助は、自分が泣いている、その理由がわからずに戸惑っていた。「そればっかりじゃないか」「作るが、運べそうもない。この甲板で作り上げるのが精一杯というところだ。だから、私が作った案山子はおまえが運んでくれ。どこでも良い。田に埋めてくれればいい」いつもであれば鼻で笑うところだったが、徳之助はそうできなかった。「死ぬようなことを言うな」禄二郎はまた吐いた。胃液なのか、黄色いものが飛ぶ。しばらくして、無言のまま禄二郎が指を出した。腕が震えている。徳之助はその先に目をやった。球があった。見たこともない球体だった。「それが頭なのか?」球体には、穴が開いている。何でできているのか見当もつかなかった。「頭だ」と禄二郎はうなずいた。「これで包むんだ」そう言いながら、禄二郎は手元に落ちている布を一枚、指差した。灯りを近づける。白い生地が浮き上がる。夜に光る真っ白の絹だった。「それこそ、なけなしの金を払って手に入れた絹だ。それが一番上にくる。皮膚だ」いつからこんな案山子のことを計画していたのだ、と徳之助は不安になる。「私の手は汚れている。最後は徳之助がその布を取って、くるんでくれ」「わかった。わかった」承諾をしたというよりは、友人が絶え絶えにしゃべるのがつらくて、うなずく。絹を拾った。本当に上等のものだった。手ざわりも柔らかく、ふわりと浮かべれば夜空に舞い上がっていきそうな白さだった。上品で、軽い。何と引き換えに禄二郎はこれを手に入れたのだろう。「この島には何かが欠けている」と禄二郎はこぼすように言った。「おまえは、欠けていても埋める必要はない、と言ったな」「私は思うのだけれど」彼は言葉を止める。怪我のひどさもさることながら、それは何かをためらうようでもあった。何を思うのだ、と徳之助が先を促す。「それを欠けさせたのは、支倉様ではないだろうか?」「何?」「いや、ただ思っただけだ。支倉様は、この島から余計なものをすべて取り払おうとしていたのではないか、そう思ったのだ」「何だ、それは」「私は頭がおかしくなっている」「自分で言ってどうする」徳之助は明るい調子で言おうとするがうまくいかない。焦燥ばかりを感じる。「俺はどうすればいい」と必死に禄二郎の後ろ姿へ声をかけていた。「俺はどうすればいいんだ」「私の案山子を運んでくれ。それから、私のことを父に報告する。彼はああ見えて、ひどく子供が好きなところがある」「知っている」「きっとかなり落ち込むだろう。どうにか彼を笑わしてあげてくれ」「それが一番難しい」泣いている徳之助は、声が裏返っていた。「そうしてお雅と仲良く暮らすことだ」「その案山子はどうなる?」「島を救う」それきりしゃべらなくなり、後は吐きながら、手を動かし続けていた。泣きながら、徳之助は空を見上げる。いっそ、空が落ちて来い、と思った。
『オーデュボンの祈り』新潮社(新潮文庫)

 優午は閉ざされていく島を時代遅れにさせないために、島に知識を与え続けるために作られたのだ。優午はその役割を百年以上続けてきたが、いつの時代にも未来について訊ねてきたり、悪い出来事があった時に「なぜ教えてくれなかった」と非難され続けてきた。伊藤は、「優午は『自分がいるから世の中は改善しないのだろうか』たぶん、そんなことを考えたのかもしれない」と分析していた。優午は、何でも知っている神様のような位置から降りたかったのだ、と。優午は萩島を時代遅れにしないように、と守ってきたが、ウサギの言うように、人間よりも鳥のほうが好きで、その鳥を虐殺して絶滅に追い込んでしまった人間に失望したのだ。そして、絶滅したはずのリョコウバトが萩島で発見されたことで、何としてでもリョコウバトを守り抜こうと考え、人間を操り、曽根川を殺害したのである。しかし、島に対する愛着は捨てきれず、島の住民にとっての最大の謎であった「この島に欠けているもの」を、伊藤を操って届けさせたのだ。「この島に欠けているもの」は「音楽」であった。伊藤が手紙を出し続けたのは優午に言われたからであり、その手紙に「そういえば、君のアルトサックスが聴きたい」と書いたことで、静香という伊藤の元恋人が城山によって島につれてこられた時にアルトサックスが持ちこまれ、言い伝えの丘で演奏されることになる。優午はそれを聞くために、ばらばらになった後で頭を園山という画家に持ちかえらせ、その後丘に持っていくよう「お願い」していた。
 優午はこの物語全体を支配する、まさに「神様」のような存在である。人間の行動を操り、すべてが偶然のように見える出来事を、計算して完璧に配置していることからもうかがえる。また、未来を見通す力を人間のためではなく、リョコウバトを救うために使うことから、優午は決して人間の味方ではなかったこともわかる。優午にとって、人間は友人と呼べる存在ではなかったのだ。田中が「俺の話し相手は、鳥と優午だけだった。」と述べているのに対し、優午は「あなたには鳥がいるでしょう。私も鳥が唯一の友人です。そうなるとあなたは私の友人の友人ですね」と述べている。この会話からも、優午が守るべきは人間ではなく鳥であったことがわかる。それでも、自分を作った禄二郎が守りたかった萩島を守り、この島に欠けているものを埋めたり、自殺しようとする「友人の友人」田中を伊藤に救わせるなど、この島の住民に対しては愛着があったことも示されている。
 次に、桜について考察していく。桜は、男が見ても美しいと感じるほどの整った顔立ちをしており、萩島で唯一「殺人が許された」存在である。日比野いわく、「人殺し。そうでなかったら、法律だ。ルール、規則、人殺し。倫理と道徳」という存在である。桜は、自分の判断で人を殺す。しかし無差別というわけではなく、殺される人間は必ず何らかの「悪いこと」をしている。ある少年は、鳩を壁に投げつけて殺していたところを見つかり、桜に射殺される。ある少年は、日常的に弟を虐めていた。ある日、弟の手足を縛ってドラム缶に入れ、そこにホースで水を注ぎ、溺れさせようとしていた。その場を桜に見つかり、泣きながら「子供だから、これが悪いことだってわからなかったんだ」と言い訳するが、射殺される。善人で知られる税理士の男は、実は家で妻を虐待していた。税理士は「妻は精神が不安定な人間だ」と島の住民に吹聴していたので、あまり姿を見かけなくても不思議に思わなかったのである。ある日、金槌で妻を殴ろうとしたところ、妻が必死に逃げだし、家の外に裸で飛び出していく。精神が不安定だと吹聴している彼は、まったく動じずに妻を追おうとする。玄関を開けると、そこには桜が立っており、いつも通り妻の精神の話をし始めるが、射殺される。「理由になっていない」というセリフとともに人びとは殺される。「悪いことをしたら罰が当たる。これは基本的なルールだろ。これを守らなければ、誰も悪いことを我慢しない。罰がなくちゃ、罪はなくならないわけだ」「俺たちは、桜が誰かを殺すことを受け入れているんだ。地震が起きて人が死ぬ、洪水に老人が巻き込まれる。そういうのと一緒だ。しかも、桜には何らかの理由がある。ルールがある。無差別でないだけ、天災よりもよっぽど納得がいくだろう?」という日比野の言葉からも、島の住民は皆、桜の裁きを受け入れていることがわかる。しかし、桜の判断基準については謎のままであり、ただ単に「悪いこと」をしたら裁かれる、というわけでもないのだ、とも述べられている。実際に、桜に殺されなかった犯人もいる、と日比野は伝えている。このことから、桜による殺人は不透明なものであると同時に、人びとを恐怖で支配する存在であることがわかる。人びとには桜の判断基準が全くわからないので、日比野の説明のように「天災」とほぼ同列に扱われ、「見えない力」として人びとの運命を司っている。この桜の判断基準について考えることのできる場面がある。

 僕には、寄りたい場所があった。話をしたい。桜という名の男と話を交わさなければいけない。そう感じていた。だから、日比野と別れると、記憶を頼りに桜の家を目指した。平屋の、青い屋根が遠くに見えると、僕の心臓は早鐘を打ちはじめた。好奇心と恐怖心がない混ぜになっていた。コンビニエンスストアへ強盗に入り、アルバイトの青年を脅しつけた僕を、彼は無言のまま拳銃で撃ってくるのではないか、そんな予感があったし、一方では、一刻も早く撃たれなくてはいけないのではないか、という思いもあった。「桜はルールだ」日比野の言葉が、頭に残っていた。「何か用か」桜は、僕を見もせずに、言った。以前、立ち寄った時と、様子は変わらなかった。彼は平屋の外にいて、木製の椅子の上で足を組んでいる。細く、長い足だ。そして、詩集を読んでいた。高く、まっすぐに伸びた大きめの鼻が目立つ。二重瞼の目は、諦観と知性を滲ませていて、美しい。肩まで女性のように髪を伸ばした彼は、病弱な詩人のようにも見えたが、ひ弱な雰囲気はなかった。脂肪が削ぎ落とされている。鋭い。それから、丸テーブルの上には無造作に拳銃が置かれていた。僕はぎょっとして、身体を震わせる。撃たれるのかもしれないな、と覚悟した。「用と言うほどのものではないんだ。ただ、話をしたくて」震えそうになる声を、必死に抑えた。よれて絡まる毛糸を、手で懸命に伸ばす感じだ。「ハナシ?花、詩」彼は、駄洒落まがいの返答を口にしたが、それすらも詩のように思えた。「日比野にいろいろ聞いたんだけど」「見ない顔だな」桜が、短く言う。「島の外から来たんだ」と僕は打ち明けた。彼はそこではじめて、テーブルに詩集を置いた。僕の顔を見る。「どうして、俺にそれを話す?」と不思議そうに、顔をかたむけた。嘘をついてもばれる気がしたのだ、と正直に答えた。「俺は、世の中の大抵のことを知らない」「優午の逆みたいな言い方だ」「優午か」桜はつぶやく。「この島の人たちはあなたを特別な存在だと思っている」「処刑人と言ったか?」桜は、無表情のまま、肩を上げた。「みんなが、あなたのことをどう思っているのか、知っているわけ?」「勘違いをした奴が、『どこそこのだれそれを殺してくれ』と頼みに来たことは、山ほどある」「そういう人が来た場合、どうするの」「そいつ自身を撃つさ。うるさい奴は嫌いなんだ」それが、冗談なのかどうかもわからなかった。体温を感じさせない、冷気が含まれているような、声だった。「怯えているのか?俺がおまえを撃つとでも思っているのか」「実は、思っているんだ」僕は、眉を下げる。「人が人を裁けると思うか」「思う」これは、僕の本心だった。死刑や刑罰の問題が起きるたびに持ち出される「人が人を裁いて良いのか」という主張が嫌いだった。何人殺しても死ななくても良い、という法律はすでに法律じゃない。「おまえは肉を食うか?」唐突に、桜の質問はそんなものになった。「豚や牛、鶏肉も食べるよ」「犬は?」「食べない。猫も食べない」「魚は?」「食べる」「食べるものと食べないものはどこで線が引かれる?」僕は頭をひねる。身体の大きい動物は、食べないのだろうか。いや、牛は犬よりも大きい。象の肉も食べることができるかもしれない。ただ、ペットの猫は食べない。考えたすえに、「友人であるかどうか」と答えた。「犬でも猫でも金魚でも、自分の友人となったものは食べられないよ」「人間にも、友人と友人でないものとがいるはずだ。友人以外の人間は食うのか?」返答ができない。人が、動物を食って生きているのは当たり前のことだけれど、その基準についてなんて、考えたことがなかった。「おまえの住んでいるところでは、動物をどうやって殺すんだ」「スーパーマーケットに並んでいるよ」と僕は言ってから、笑ってしまった。「食べるための肉は、お店に並んでいるんだ。切られて、ちょうどいい大きさになって、サランラップをかけられて、用意されている」「サランラップ?」「透明のふたでね、肉の載った皿はそれで覆われて、売られている」「ここも同じだな。動物は家畜農家で殺されて、市場で売られている。ようするに、殺して肉を食っている実感はない。そこの過程は、はしょられている」僕たちは、あちらこちらの動物を殺して、そうして生きている。ただ、それを誰もが忘れている。忘れるように作られている。そういうシステムだ。「一人の人間が生きていくのに、いったい何匹の、何頭の動物が死ぬんだ」桜の声は、答えを求めているようには聞こえなかった。「考えたこともなかった」「これからは考えろ」と、命令するように彼は言った。「動物を食って生きている。樹の皮を削って生きている。何十、何百の犠牲の上に一人の人間が生きている。それでだ、そうしてまで生きる価値のある人間が何人いるか、わかるか」僕は黙っている。「ジャングルを這う蟻よりも価値のある人間は、何人だ」「わからない」「ゼロだ」

 同じ質問を二十年近く昔、桜は優午にぶつけていた。「生きている価値のある人間はいるのか」深夜、島民は寝静まっている。桜は、優午の前に立っていた。桜はまだ少年で、生まれてはじめて人を撃った夜だった。相手の身体から零れてくる血を触ったために、桜の両手は赤黒く濡れていた。人の命を奪ったというのに、その堂々たる美少年の肉体は、精神は、震え一つ見せていなかった。「人に価値などないでしょう」カカシははっきりとそう言った。「誰一人?」「私を作ってくれた、禄二郎という人がいました」「そいつは別格なのか」優午は、それについてははっきりと返事をしなかったが、「ただ」と言った。「ただ、タンポポの花が咲くのに価値がなくても、あの無邪気な可愛らしさに変わりはありません。人の価値はないでしょうが、それはそれでむきになることでもないでしょう」今日、はじめて人を殺したのだと、少年である桜はそこではじめて告白をする。優午はすでに知っていることにもかかわらず、はじめて聞いたという口調で、短い相槌を打った。死よりも詩のほうが良い、と桜は小声で呟いた。「花というのは綺麗です」カカシはなおもそう言った。

 「花でも植えるか」桜は椅子に座ったまま、僕の立っている地面の付近を指差した。「え」聞き返しても、答えてはくれない。「人に価値がない。だから、人を撃つわけ?」「いや」と桜は否定した。「正気でいるため」と短く答える。「正気ではいられないの?」「俺が何とか正気でいるのは、詩と拳銃があったからだ」「詩と拳銃?」「人は騒々しい。うるさいのは嫌いだ」「騒々しいのが苦手なんだ?」「撃つ」と桜はそう言った。彼の発する言葉があまりに、冷たいので、息が吹きかかった空気がその場で凍っていくのではないか、とも思えた。「桜は春に咲く。景色を桃色に変える。舞う。舞って、散る」「それは本当の桜のことだよ」「俺は、本当の桜になりたいんだ」僕は、彼の姿をじっと見つめながら、いくつかのことを同時に、考えた。彼は人を撃つ。彼は詩を読んでいる。彼は喧騒を憎んでいる。彼は拳銃を持っている。彼は人を殺している。彼は島に人殺しを認められている。彼が本当にやりたいことは、ナイフのように研ぎ澄ました詩を弾倉に詰め込んで、誰彼構わずに、それで撃ち殺すことなのかもしれない。彼は美しい。「全員を撃つことはできない」またしばらくして、僕がまだ立っていることに気がつくと、桜はそう言った。なるほど彼は、この世の中に存在する人間を、全員、撃ち殺したいのかもしれないな、と思った。それができないために、彼は価値のない人間の代表を独断で選びだして、撃っている。そうではないだろうか。「おまえも何かやっているだろ?」詩集に目を向けたまま、桜は言った。「おそらくは、この島に来る前にだ。顔でわかる」図星ですよ、とあやうく告白をしそうになる。コンビニエンスストア強盗なのです、と。けれど、怖くて言葉が出なかった。島の外はどうだ、居心地がよいものなのか、とつづけて桜は訊いてくる。「きっと、あなたの拳銃の弾は足りなくなるよ」と僕は答えた。「そうか、島の外はそんな場所なのか」彼はつまらなさそうに、言った。そんな気はしていたのだ、とそういう風にも見えた。
『オーデュボンの祈り』新潮社(新潮文庫)

 桜は、なぜ人を殺すのかという伊藤の問いかけに対して、「正気でいるため」だと答える。人は騒々しい、だから殺すのだ、と。桜に殺された人物を見ていくと、何らかの罪を犯してはいるが、それが原因で殺されたのではなく、その場で言い訳を口にしたり、嘘をついたり、泣きついたりしていることにあったのだ。桜が人を殺す時に口にする、「理由になっていない」というのはそういうことなのだ。そしてもう一つ、桜は人間を憎み、人間のために動植物が殺されていくことを許さない。何十、何百の犠牲の上に立つ価値のある人間はいないと発言していることからも、桜は人間を最上位には置いておらず、動植物を守るために人間を殺すことに何の抵抗もない。人が生きるためには動植物が犠牲になるのはしょうがない、とは考えておらず、むしろ人間が生きなくてもよい、と考えている。そのため、鳩を壁に投げつけて殺していた少年は殺されたのだ。桜にとって、人間の年齢は重要ではない。たとえ少年であっても、騒々しかったり、動植物を虐殺していれば殺されるのだ。また、「俺は、本当の桜になりたいんだ」という桜の考えの基が、優午との会話を通してわかる。桜がはじめて人を殺したとき、優午が「花というのは綺麗です」と答えた。これは、花というものは何も犠牲にせずに生きていくことができるからである。何十、何百の犠牲の上に人間は生きているのだから、桜も当然そのようにして生きている。桜はそれが苦痛であった。そのため、何も犠牲にすることなく生きることができる「本当の桜」にあこがれ、花を育てるのである。伊藤が桜にはじめて会った時、桜は「詩を食べて生きる」と発言している。このことからも、桜が生き物を食べて生きることを避けようとしていることがわかる。実際に、脂肪が削ぎ落とされている、という描写からも、桜が極力食べ物を口にしないようにしているのではないかということがうかがえる描写が、桜になされている。  人間を騒々しい生き物だと憎んでいる桜だが、伊藤に対しては他の住民よりも少しだけ心を許しているように感じられる部分もある。桜が自ら人に話しかけたのは、伊藤に対してだけである。桜と伊藤が花について話した少し後に、桜は若葉から花の種をもらう。その種を庭に埋めたことを伊藤に告げるのである。それに対し、伊藤は「花を育てることは、きっと詩を読むことと似ているよ」と答える。桜はこの言葉を気に入り、自分でも好んで使う。そして、「踏んだ奴は、撃つ」と言い、種を埋めた場所を悪意を持った人間が踏むならば殺すということを伝える。このことが、伊藤を「救う」。  仙台から逃走した伊藤を追って、伊藤の元恋人である静香と轟を人質にとり、城山が萩島にやってくる。そして伊藤のところへと行こうとするのだが、その途中にあった平屋に立ち寄ることにする。その家は、桜の家であったため、轟は反対するのだが、城山によってその場に連れて行かれる。そこで桜と対峙した城山は、種を埋めた場所を踏みつける。その結果、警察官である城山に向かい、桜は拳銃を突きつける。城山は、「警察に拳銃を向けて、どうするんだ」「拳銃を下せ」「警察だ。拳銃を下せ」「拳銃を下せ。言うことを聞け」と桜に向かって大声を出す。それに対して桜は、「理由になっていない」と言い、拳銃で城山を撃つ。城山が桜に撃たれて死亡することで、この物語最大の「敵」が滅び、伊藤や静香、轟たちの命が救われることになる。桜が自ら望んでとった行動ではないものの、結果的に人間を救うことになったのである。さらに、この場面で、城山が話しかけても反応を示さなかった桜は、轟の「こ、こいつらは伊藤の知り合いらしくてな」という言葉を聞いてはじめて顔を上げることからも、伊藤に対する親密度がうかがえる。

第4章 まとめと今後の課題

第1節 全体考察

 これまでみてきた中で、三人の「神」としての役割を持つ者たちには、いくつかの共通点があることがわかった。一つ目は、千葉には「ミュージック」、優午には「鳥」、桜には「花」、とそれぞれが一番に大切にしているものが「人間」ではない、ということだ。三人の「神」は、人間を自分の思いのままの道を辿らせることができる。千葉と桜は人間の寿命を変えることができ、優午に至っては次の行動まで操作することが可能である。そのため、人間とのかかわりが一番深く、人間のことを一番に考えていてほしい存在であるはずなのだが、この「神」たちはそういう人間の考えを無視して、人間に興味を持っていなかったり、人間に失望していたり、人間を憎んでいたりする。「神」は決して人間の味方としては描かれていないのである。ただ「見えない大きな力」として、人間を支配しているのである。しかし、千葉と桜は、物語が進むにつれて少しずつ人間への感情が変化していくことが描かれている。千葉は「死神対老女」の新田(古川朝美)とのかかわりの中で、老女と過ごす日々に対して、「これはこれで、悪くない時間だ」と述べており、物語の初めから述べられていた「人間の死には興味がない」というスタンスが変化したことがわかる。桜は、伊藤とのかかわりを通して人間(伊藤のみであるが)に自分から話しかけるようになる。日比野がその様子を見て驚いていることも描かれており、今までそういうことがなかったことがわかり、桜の人間に対する考えに変化があったことが示されていた。それでも、そのことが二人の仕事に影響することはなく、千葉は老女に「死」の判定を下し、桜は花の種を埋めた場所を指差し「踏んだら撃つ」と伊藤に対しても宣言するなど、「神」としての立場を見失うことはなかった。常に人間にとって「見通せない存在」であり続け、物語が完結した後も「神」の立場であり続けることが示されていた。
 二つ目は、人間の味方ではなくても、人間を「救う」存在であることだ。千葉の考察で述べたとおり、千葉は「可」の判定を下した調査対象の最もやり遂げたかったことを成し遂げる手助けをし、成し遂げた後で「死」を迎えるようにしており、千葉がそうしようとしていないものの、人間に「救い」を与えていた。優午は「友人の友人」である田中が自殺しようとしているところを、伊藤に前もって情報を与えて救い、桜は城山を殺すことで伊藤、静香、轟の命を救っている。優午は救うことを望んでいたが、千葉と桜は「結果的に」救っているという違いはあるものの、どちらも人間にとって良い結果をもたらしている。
 そして、「死神の精度」「オーデュボンの祈り」の二作品の「神」の最大の役割は、人間にとって不可解な存在であり続け、決して人間の味方をするわけではないことを示しながら、人間が忘れがちなことに気づかせることである。千葉は、人間が常識だと思っていることに疑問を持ち、そのことを調査対象に質問して考えさせる。さらに、「命には必ず終りがある」ということを考えさせるために、「死ぬことについてどう思う?」という質問を投げかけていた。優午は、人間の愚かさを解くために、「オーデュボン」の話を伊藤に聞くよう伝えた。桜は、人間が何十、何百の動植物の犠牲のもとに生きていることを考えろ、と伊藤に話した。人間は、「神」を通して自分たちが何気なく生きている世界が、たくさんの犠牲のもとで成り立っていることを知り、すべての命には限りがあることを知らされる。「神」の役割は、人間の味方をすることではなく、人間にとって本当に必要なものに気づかせることにあるのだ。

第2節 今後の課題と参考文献

 今後の課題としては、今回は「神」を人物に絞って考えていったが、言葉にも「神」としての役割があるものもあり、言葉との関連性にも触れておきたかったことが悔やまれる。そのほかにも、伊坂作品の特色である「作品間リンク」など、考えていきたいものがたくさん出てきたので、今後も継続して考察していきたい。

参考文献
伊坂幸太郎(2008年)『死神の精度』文藝春秋(文春文庫)
伊坂幸太郎(2003年)『オーデュボンの祈り』新潮社(新潮文庫)
円堂都司昭(2011年)「風呂敷を畳まないということ」『伊坂幸太郎全小説ガイドブック』p122−p125洋泉社

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