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大阪教育大学 国語学講義
受講生による 小説習作集

詩織

 
2013年度号
「星に願いを」112106
『部屋』112128
「文化祭事件」112206
「夢への一歩」112202
「不思議山のお狐様」112203
「星の行方」112111
「せみの抜殻」112208
「クリスマス ストーリーズ」112135
「もう中学生」112205


 

「星に願いを」
112106

 私はもう何日も森の中を歩き続けていた。狭い檻の中での生活に飽き、思い切って逃げ出してからどのくらい経ったのだろう。森で迷ってしまってからは、同じ景色しか見ていないためか、すごく時間が経ったように感じる。
“ぐぅぅ きゅるるるる”
私のお腹が弱弱しく鳴った。食べものを口にしたのは、脱走を決行した日の夕食が最後だ。
見慣れた飼育員がいつものように檻に投げ込んだ餌は食べ飽きた味ではあったが、私のお腹を満たした。
振り返ってみると、縛られた生活はとてつもなく退屈なものではあった。だが、食べるものに困ることは一度たりともなかった。いつもお腹いっぱい食べることができたのだ。
檻の中の生活も、そう悪くはなかったのかもしれない。



「みなさーん!こちらはトラのコーナーです!」
聞き慣れた台詞だ。私は動物園の檻の中で生活をしている。
団体の人間たちが旗を持った者を筆頭にぞろぞろ檻の前に並び、覗き込まれるのはいつものことだ。中には好き勝手にパシャパシャと音を鳴らしてピカピカと光を放つカメラという物を私に向けて写真というものを撮る者もいるが、もう驚きやしない。慣れている。
「トラ子がこっちを見たよ!」
母親に手をひかれた状態の男の子が私のほうを見てはしゃいでいる。
私はどうやらトラ子と呼ばれているらしい。なんだか古臭いしありきたり。年頃のメスにむかって、失礼な話である。
「メイ、もうすぐ修学旅行生が来るよ。写真に写る準備をしておかなきゃ。」
隣の檻に住むヒョウのオクトに声をかけられて我に戻った。
メイ。それが私の本当の名前。人間たちは私がトラであることを理由に、好き勝手にトラ子などという呼び名をつけて呼ぶけれど、私にはママにつけてもらったメイという名前がある。
小さい頃は本当の名前で呼んで欲しいがために、よく違う名前で呼ぶ人間たちに向かって牙をむいて声をあげ、にらみつけたものだ。
だが、私ももう大人だ。ここでの暮らしも長い。すました顔をして一日をやり過ごす術は、とっくの昔に身につけた。
“ザバーン ジャッジャッジャッ”
夜になり、騒々しい人間たちが檻の前から去ったと思うと、私たちの生活の場は水浸しにされる。飼育員がノックもなしに踏み入ってきて、こっちの都合は無視で檻の中を丸洗いするのだ。
餌の時間だってそうだ。お腹が空いていようがいまいが、与えられる餌はいつも同じ時間に同じものを同じ量だ。
 私はものごころついた頃には既に檻の中だったため、この生活が当たり前だった。毎日同じことの繰り返しで、退屈だし、うんざりすることも多いが、それ以上の楽しみを知らない。閉園後の少しの時間、動物同士で話すことが私の楽しみであった。
だが、私はそれにちっとも不満を抱いたことはなかったし、それなりに満足して暮らしていた。ここで暮らしている動物はみんなそうであろう。生まれてからずっと、飼育員に餌をもらって何の不自由もなく暮らしているのだから。私は、確信していた。動物とはみんな、このような生活をするものだとも思っていた。あの夜、そうでない動物の存在を知り、話を聞くまでは……。


 それは、月のない夜のことだった。閉園時間になったのだろう。園内の至るところにたっている背の高いスピーカーは、きれいなオルゴール調の音楽が流し始めた。人間たちはそれぞれ好き勝手な様子で私の檻の前を通り過ぎていく。私たち動物との別れを惜しみながらであったり、この後の自分たちの予定で頭をいっぱいにしてこちらを見向きもせずにであったり、中には自分の思うように動物が向いてくれなかったことをこぼしながらという人もいる。足を運ぶ調子もさまざまであるが、みな門の方向へと歩いていく。
そんななか、大きな帽子を頭にのせた小さな人間の子どもがひとり、門とは逆の方向へと駆けていった。
「あの子、迷子かな?もう閉園しちゃうのに、大丈夫かな?」
心の優しいオクトは、小さい子どもがひとりで歩いているのを見て心配しているようだが、私には関係のないことである。首をかしげてさぁ、とだけ発して軽く流し、黙々と与えられた餌を食べた。そして、飼育員が掃除道具を持って戻ってくる前に、水のかからないよう檻の隅にある台へと移動した。
高さのある台からは、少し離れた奥のキリンのコーナーがよく見える。いつもはむしゃむしゃ葉を食べる姿が目に入ってくるのだが、今日は違った。表情はわかりにくいが、伏せられた長いまつげから、きらりと光る大粒のしずくが落ちたことがわかった。
今日の降水確率は0%。夜空には雲ひとつなく、突き抜けるような澄んだ空に白く輝く星たちが所狭しと並んでいる。さっき落ちたのは、どうやら雨粒ではないようだ。キリンが泣いているのだろうか。彼の目からもう一滴、きらりと輝きを放ってしずくが落ちた。そのときだった。夜空から星がひとつこぼれ、流れて消えた。
あ、流れ星か……。私の目は、星が流れて消えた先まで自然と追っていた。それはキリンの目からこぼれ落ちたものが放つ輝きと似ていて、それのようにすぐに消えた。もしかすると私がさっき見たのは、キリンが泣いていた姿ではなくて、流れ星が流れ落ちる様だったのかもしれない。あんなに低いところを流れる星もあるのだな、などと考えてキリンのいるあたりに焦点を合わせた。
視線を戻した先に、もう彼はいなかった。


 それから少し経った満月の夜のことだった。動物たちがみな寝静まった頃、私は眠りにつけないでいた。すると、月明かりによって明るく照らされていた私の檻が、突然おおきな闇に包まれた。月明かりを遮るように何者かが檻の前を通ったのである。
時間でいうと夜中の二時くらいだろうか。動物たちはみな眠っていて、飼育員たちも仕事を終えて帰っていったはずだ。起きている動物がいるとしても、檻や柵の中である。誰も通るはずがない。
そんな状況で現れた大きな影に驚いてしまったからであろう。咄嗟に私は檻の奥まで逃げていた。
すると、大きな影は私の檻の前で足をとめた。私の気配に気づいたようだ。私は歯を食いしばり、自慢の牙をむいてみせた。上目遣いで影を睨みつけ、自分にできる精一杯の威嚇をした。おびえているということを相手に知られてはいけないと思い、必死だったのだ。
「おう、メイ。起きていたのか。」
影の持ち主は、まったくひるむ様子も無く私に話しかけてきた。どこかで聞いたことのある声だ。だが、それよりも、この者が私の名前を正しく呼ぶことに驚き、戸惑いを隠すことが出来なかった。
「ど、どうして……、なまえっ・・・・・・。」
うまく声にならなかった。だが、そんな私の言いたいことを察した影の持ち主は、さらりと返答をしてきた。
「どうして名前を知っているのかって?あぁ、驚かせてしまったねえ。僕は、マーチだよ。」
そう言うと、檻に顔を近づけてきた。
この影の正体は、流れ星を見た日に行方をくらました、キリンのマーチだというのだ。キリンのマーチが行方をくらましたことは、園中を沸かしたから忘れもしない。飼育員たちは目の色を変えて探し回っていた。あんなに大きなキリンがどうやったらそんな狭いところに入れるのだ、あの長い首がそんなところに収まるはずがないであろう、というような場所まで、額に汗を浮かべながら隈なく探している飼育員の様子は、無愛想に檻に向かって餌を放り込み、仏頂面で檻の中を丸洗いする彼らからは想像もできないもので、動物たちにとってはおかしくてたまらなかった。焦ってマーチを探す様子を楽しく見させてもらったものだ。
私の目の前にいる影の持ち主は、そのマーチなのだという。しかし、檻に押し付けられたその顔は、紛れもなく人間のものだった。私は戸惑いながらこう口にした。
「私の知っているマーチは、キリンなのだけれど・・・・・・。」
私のこの言葉を待っていたかのように、マーチであると主張をする、この人間は話し始めた。
話の内容はこうだ。

動物園で生まれ、幼い頃から動物園で飼われて育ってきたキリンのマーチは、人間たちに自分の生活を覗き込まれるのが嫌だと感じていた。苦痛で仕方がなかった。キリンは長い首を持つ動物であるため、どんな時でも彼の都合や気持ちとは関係なしに、人間たちからは立っている姿のみを求められる。立っていることしか許されない環境が彼を苦しめていたのであった。そしてついには、大好きな母親譲りの長い首を恨みまでしたという。
そんなある日の夜。閉園時間をすぎた頃、ひとりの人間の子どもがマーチの前に現れた。その子どもは、マーチの食事風景を見つめて、こうつぶやいた。
「いいなぁ。背が高くてうらやましいなぁ。」
よく言われることだ。人間にぼくたち動物の言葉が通じるはずがない。そう思いながら彼は、つぶやくようにこう返した。
「こんな長い首、要らないよ。背が高くたって、いいことなんかひとつもないんだもの。」
「じゃあ、僕が望みを叶えてあげる。」
その子どもは、すぐにそう言った。驚いたことに、その子どもには動物の言葉がわかるらしい。それにしても、こんな子どもの言うことなんて信用できない。マーチは子どもに向かって尋ねた。
「そんなことが君にできるのかい?」
すると、またしてもその子どもは、
「できるさ。」
と胸を張ってすぐにこたえて、大きな帽子を持ち上げてニカッと笑った。帽子の下から現れた顔には、大きな目がふたつと小さな鼻、ぷっくりとした赤い唇がバランスよく並んでいる。ニカッと笑うと、その唇が割れて間から白い歯が見える。頬には大きな傷があり、言葉づかいや顔つきからこの子どもが男の子であることがわかった。
「僕は星を操ることができるんだ。」
びっくりして言葉が出ないマーチに、かまうことなく少年は続けた。
「流れ星にお願い事をすると叶うって言うだろう?僕が星を流してあげる。お願いをしたらいいよ。」

 そこまで話すと、マーチだと主張をするその人間は黙ってしまった。しばらくの間沈黙の時間が流れた。月明かりが黙ったマーチを後ろから照らしている。この話を聞く限り、この目の前にいる人間がキリンのマーチであるということは本当のようだ。私は沈黙にた耐えることができなくなって言葉を選びながら尋ねた。
「それで、人間になりたいってお願いをしたの?」
マーチはゆっくりとうなずいた。顔をあげた時のその表情は、人間としての生活が、いかに楽しく充実したものであるかを物語っていた。
「人間になって、楽しいのね。」
私がそう言うと、マーチは返事もせずに様々なエピソードを聞かせてくれた。それが何よりの返事なのだけれど。

 私の胸は高鳴っていた。マーチから人間としての生活の話を聞いて、外の世界を知った。いつも周りをうるさく取り囲む人間というものに、初めて憧れを抱いた。今まで、私たちを見て騒ぐ姿と、無表情で退屈そうに掃除や食事の準備をする姿しか見てこなかったため、人間という生き物にそれほど魅力を感じなかった。
 だが、考えてみれば、人間は何に縛られることも、何に閉じ込められることもなく、好きなように歩き回っている。この狭い檻に閉じ込められて生活をするより、はるかに楽しいことだろう。
 人間としての生活を考えれば考えるほど胸は高鳴り、マーチと別れた後も、その夜は眠れなかった。人間になりたい。この狭い檻を飛び出したい。私はいつの間にか強くそう思うようになっていた。

 それから少し経った月のない日。私は餌も満足に食べずに、大きな帽子の少年が通るのを待ち続けていた。
月がなく、星がきれいに見える夜。それが星を操る少年が現れる条件だとマーチから聞いていたからだ。大きな目がふたつと小さな鼻、ぷっくりとした赤い唇から白い歯、頬に大きな傷……。私はマーチから聞いたその少年についての情報を唱えるようにつぶやきながら、檻の前を通り過ぎていく人間たちをじっと見ていた。
隣のオクトは、餌を全く食べない私を心配し、声をかけてくれていたが、声をかけてくれていたということは覚えているのだが、何と言ってくれていたのか覚えていない。私はとにかく無心で待ち続けていた。
オクトが餌を食べ終えた頃、私は大きな帽子を視界の端にとらえて、ごくりと音を立てて生唾をのんだ。大きな帽子はまっすぐこちらに向かってやってきた。

 それから何があったのか、少年とどんなやりとりをしたのか、はっきりとは覚えていない。ただ、私が夢中で少年にお願いをしたこと、そして少年がニカッと笑い、口元から白い歯をのぞかせたこと。それだけははっきりと覚えている。
 そして星が流れた次の瞬間、私は地面に吸い寄せられるように倒れた。起き上がろうと動かした前足は、既に前足ではなかった。期待を胸に、隣の檻に目をやると、オクトが目をまん丸くして腰を抜かせている。その様子から私は確信をしていた。
 私は、人間になったのだ。



 動物園での生活を振り返って、私の目からはぼろぼろと涙がこぼれ出ていた。
 あれほど憧れ、望んでいた人間としての自由な生活は、私にとってはかなり辛いものであった。人間界のルールというものを知らない私には、住み辛い世界であったのだ。
 そして動物の生活に戻りたくて、人間の姿のままではあるが、森へ入った。野生の動物という、自由な生活をしている仲間の存在を知ったからだ。
 だが、彼らのように自分で食べ物を調達をしたことがなく、その術を知らない私には、野生の生活などできなかった。私は今まで一度たりとも、与えられた餌以外の食べ物を口にしたことがないのだから。

それで、こうしてお腹を空かせて歩いているというわけだ。
私の空腹は限界に達していた。何日も慣れない二足歩行を続けたせいで、足も疲れてしまった。慣れた四足歩行をしようにも、人間の体というのは、前足と後ろ足の長さが大きく違うのである。ヨタヨタと休める場所を探していると、どこからか水のにおいがした。
せめて水だけでも、と思って私はにおいのする方向へと歩いた。すると、突然目の前におおきな湖が現れた。
水面は太陽の光を受けてキラキラと輝き、とてもまぶしい。深緑色の木々と、茶色い土しか見ていなかったせいか、目をあけていられない。頭がくらくらする。久しぶりの光だ。空の青さと水の輝きは、青という色がこんなにも美しいのだということを、私に教えてくれた。青という色の美しさを私は初めて知った。
そして、美しく澄んだ青い水に顔を浸し、夢中で輝く水をのどに流し込んだ。限界をむかえていたお腹には水がたまり、私の体は青で満たされた。
一息ついたときに、上から魚のにおいがひどくしていることに気づいた。どうやら私は水を飲むことに夢中になりすぎていたようだ。
気になって顔をあげると、そこにはたくさんの魚が網によって引き上げられていた。そして、激しい金属音と機械音が鳴り響き、あっという間に網の中の魚たちは水槽の中へと放たれた。
魚たちの行方を目で追い、放たれた水槽を視界にとらえた時、クレーンを操作している中年男性の存在に気づいた。
「その魚たちをどうするのですか?」
気が付くと、その男性に駆け寄って尋ねた後だった。
「この辺りに新しくできる水族館で飼うんだよ。」
作業中の男性は、こちらを見ずに、うっとうしそうに答えた。
 私は、この辺りに水族館ができるということに驚いた。人間になってから、しばらくは自由に動くことができるのが嬉しくて、心行くまで駆け回った。この辺りのことなら知り尽くしていると思っていたからだ。
「どこにできるんですか?」
そう尋ねると、
「動物園があった場所は知っているかい?あそこに水族館ができるんだよ。動物園は、もうつぶれてしまったからね。」
中年男性は、すました顔でそう答えた。

 気がつくと、辺りは真っ暗だった。私はショックのあまり気を失っていたのか、放心状態に陥っていたのか、正しいことはわからないが、とにかくひどい衝撃を受けたことは確かである。
 動物園がつぶれた。クレーンを操作していた中年男性の口から放たれた言葉は確かにそう聞こえた。それがもし本当なら、オクトは?他の動物たちは?みんなどうなったのだろう。
私は心配で、いてもたってもいられなくなった。動物園へ行って、確かめよう。そう思ったが、私は森で迷っているのだ。森から出られない限り、動物園にたどり着くことはできない。そして、こんな時でも、空腹は私を容赦なく苦しめる。
 どうしようもできない。無力な私は、森の中で倒れこんだまま動けなかった。
 その時、枯れ葉を踏みしめて、こちらに向かってくる足音に気付いた。私の顔の前で足音は止まり、私は顔をあげた。するとそこには、大きな帽子の少年が立っていた。正しくは、暗闇の中に、大きな帽子をかぶった少年の影があった。だが、帽子の形や体格、あとは直観的なもので判断をしたのだろうか、私はそれがすぐにあの大きな帽子の少年であるとわかった。
見上げるようにして見る少年は、帽子のつばの影から大きな目でさげすむようにこちらを見下ろしているのだろう。暗闇の中で光るふたつの瞳が怖くさえ思えた。そして、白い歯をのぞかせながら言葉を発した。
「望んでいた自由な生活はどうだい?人間のメイちゃん。」
私の答えをわかりきっているからだろうか。はなから答えを聞く気などなかったのであろう。少年は私の答えを待たずに続けた。
「君たち動物が人間になって動物園から逃げ出したせいで、動物園は赤字になってつぶれてしまったけどね。」
暗くてはっきりとした表情はわからないが、その声の調子から、私を軽蔑していることはよくわかる。
「もう懲り懲りよ。動物園に、みんなのところに戻りたいわ!戻してよ!」
私はうずくまった格好のまま、去ろうとする大きな帽子の少年の足をつかんでいた。少年は私の手を振りほどき、言い放った。
「人間の生活を望んだのは君だ。本当の幸せについてよく考えることだね。」
そして、暗闇の中に消えていった。
 私は泣いた。人間になりたいなんて考えなかったら、動物園はつぶれなかったのだ。私がもっとはやく動物園での生活の幸せに気づくことができていたら。私は声をあげて泣いた。


 気がつくと、檻の中にいた。体は黄色く、前足には自慢の柄がある。立ち上がってみると、しっかり四足歩行もできる。
 トラだ。私はトラに戻ったのだ。
「おはよう、メイ。」
聞き覚えのある声が隣からする。オクトに声をかけられたのだ。状況が理解できず、オクトに向かっていくつも質問をなげかけた。
「オクト、どこで暮らしていたの?動物園は?つぶれてしまったんじゃ……。」
それを遮るようにオクトは言った。
「メイってば何言ってるの!夢でも見てたんじゃない?動物園は大人気だし、僕もメイもずっとここで暮らしてきたじゃないか。それにしても、きのうの流星群、きれいだったね!」


 大きな帽子の少年がどこかでニヤリと笑っていることでしょう。赤い唇から白い歯をのぞかせて。
 幸せは、あなたの周りにたくさんあるはずです。私は、あなたたちが、大きな帽子の少年にお世話になる日が来ないことを祈っています。
 私は動物園で、幸せをしっかりとかみしめながら、これからも暮らしていきます。もう二度と、流れ星にお願いをしなくていいように……。

『部屋』
112128


 信号機が不規則に点滅している。文字盤に17とだけ刻まれた時計はチッチッと針の音を響かせるが、肝心の針は曲がって明後日の方向を向いている。どこからか微かに音楽が聞こえる。埃くさいソファに深く腰を掛けて、信号機と薄暗いランプが時折色を混ぜ合いつつ壁を照らしているのを私はぼんやり眺めていた。
 まただ。驚くでもうんざりするでもなく、ただそう思った。

「おい、聞いてるか。」
 からんとグラスの氷を回した音で私ははっと顔を上げた。
「ああ、ごめん。ちょっとぼうっとしていた。」
目の前に座っている幸介という男はいぶかしげな顔で私の顔を覗き込んでいる。
「最近由紀さんから、お前が元気ないって聞いたから会いに来たけど、本当に元気なさそうだな。」とため息をついて幸介は言った。
「俺としてはそんなつもりはないんだけどね。」と私は弁解してシャンディ・ガフをあおった。
「何かあったのか?」
「何かというほどでもないんだ。」ただの、とまで言って言いよどんだ。そうだ。気にするほどのことでもない。「ただの睡眠不足さ。」と私は言った。「最近暑くて寝苦しいんだ。エアコンのききが悪いみたいでね。どうもじめじめと暑いのは苦手だよ。」
彼に相談したところで何も変わるわけじゃないだろうし、会う機会も少ない友人をいたずらに心配させたくはない。毎日同じ夢を見る。ただそれだけのことだ。
「それだけか。」真剣な顔つきで彼がこちらを見つめる。
「それだけさ。心配させてすまない。」と私はつぶやくように言った。彼はしばらく何か言いたげに口をもぐもぐさせていたが、言葉を飲み込むようにウィスキーを流し込んだ。
「今週末はもっと暑くなるらしいから早く修理してもらったほうがいいぞ。」彼はこれ以上訊いても無駄だと悟ったのだろう。いささか腑に落ちない顔をしていたが、そのうち顔のしわは消えていった。
「そうだな、明日にでも頼む。」
「そうした方がいい。ところで、右の肘の上のところ引っ掻き傷があるけど大丈夫か。」
私は言われたところを見てみた。確かに傷があるが特に覚えもないし程度もたいしたものではなかった。
「きっと枝か何かで引っ掻いたんだ。これくらいなんでもないさ。」と私は言った。
「お前も案外抜けてるな。まあ何にせよ、彼女を心配させるなよ。」
「努力する。」そして私はモスコミュールを頼んだ。
幸介と別れた後、私は足早に帰路についた。夏の夜はじめじめとしている。ひっそりと額には汗がにじみ、シャツが肌にペタリとくっつく。まとわりつく空気が重く息苦しい。その不快感が私の心の内にある漠然とした不安をあおり、無性に私を急き立てた。
家に付いてリビングへ向かう。いささか淀んだ空気が満ちているがエアコンから出る冷風はなんら問題なく部屋を冷やしていく。部屋はベッドのわきのライトをつけても暗い。その中で暗闇にぽっかりと穴が空いたように見える窓からはささやかな月明かりが差し込んでいる。今日は酒のおかげでぐっすり眠れそうだ。シャワーは明日の朝でいい。ベッドを前にして、あの店を出る前に幸介が笑いながら言った言葉を脳内で反芻する。
「お前、おれが聞いてるかって言ったときぼうっとしてたって言ったけど、直前に窓がどうこう言ってたぞ。あれもしかして寝言か?」
どうやらあの時、気づかないうちに居眠りをしていたらしい。そういえばいつもの夢を見た気がするが、窓とは一体何だろう。私が彼に相談しなかった理由は彼が夢に関する精神鑑定に詳しくないからだけではない。いつも見ている夢なのにどんな夢なのか思い出せないのだ。相談しようにもうまく様子を伝えることができない。厄介なものだ。今日またあの夢を見たら起きたとき少しでもメモしてみよう。思い出そうとすると、とたんに霧散してしまうけれど少しならかけるかもしれない。それからすぐ私は紙とペンを枕元に置いてジャージに着替え、ベッドに倒れこんだ。

 天井のパズルが欠けている。真っ白のパズル。ピースが欠けたところからは元の天井の色が表れている。角から5つめのピースの横には天井と側面の壁を渡るようにして曲がったドアがついている。手は届かない。届いたところでおそらく鍵がかかっているだろう。他の8つのドアも全て開かないのだ。ドアの形状は大小さまざま、模様も形もさまざまである。ミニチュアセットのようなものから壁の高さと同じほどのものもある。鍵穴から見えるのは見たこともない外の世界。一体ドアはどこに繋がっているのだろう。9つという数には何か意味があるのだろうか。それにしても私はいつここに来ているのだろう。何度も繰り返した疑問がまた湧いてくる。気がついたらここに閉じ込められていて、気がついたらまたここに閉じ込められている。外に出た記憶はないのにまた閉じ込められたという感覚はある。一体何なのだろう。いつからここに閉じ込められるようになったのかも定かではない。無駄かもしれないが、またこの部屋を探ってみよう。もしかしたら今日こそドアの鍵が見つかるかもしれない。私はソファから腰を上げて手当たり次第物色した。
 部屋は狭く一人暮らしの一室ほど。ドアが9つと窓が一つ。埃くさいソファが一脚、部屋の真ん中に置かれている。ここで私はいつも目を覚ます。目の前にある本棚は2つ。どちらにも本はほとんどなく、単なる物置となっているようだ。片方の本棚にはキャンディーの缶やどこかの外国のポストカードの束、不揃いな食器、数枚のトランプ、埃かぶったキャンドルに、バネの緩んだピンブローチなどが所狭しと詰まっている。もう片方には丸い目覚まし時計が沈んだ金魚鉢とニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる魚、点かないステンドグラスのランプ、枯れた観葉植物が置かれている。どれもどこか壊れていたり欠けていたりして使えそうなものはない。本の間もしらみつぶしに探してみたが鍵はみつからなかった。右手には食器を運ぶ銀色の台車とドアが3つ。壁にはフォークとスプーンがそれぞれ数個かけられている。バス停の標識は途中で突起があり、女性用の華奢な傘が一本かけられている。信号機が部屋の隅に立っていて規則を無視して光っている。そして中でも異彩を放つ窓。さんの部分にはピアノの鍵盤が埋め込まれており、その横の壁にはマグカップが半分埋まっている。窓はガラスがはめ込まれておらず、暗闇に続いている。唯一部屋の外と繋がっている。窓の上の壁にはペンキで右向きの矢印が書かれているがこれが何を意味するのかは分からない。窓の下には何となく見覚えのあるようなおもちゃ箱が置かれていた。中にあったのはくまのぬいぐるみ、歯ブラシ、時計、欠けた茶碗、腐りかけたリンゴ、そして紙でできた金色の鍵だった。
私はその鍵を拾って9つのドアを開けに回った。しかし、8つのドアは開かず、残りの1つの天井のドアには鍵穴すら見当たらなかった。その後もしばらく物色してみたが部屋のどこにも鍵はなかった。難易度の非常に高い脱出ゲームをしている気分になった。ヒントすら見当たらない。いや、もしかすると雑多なこの部屋はヒントだらけなのかもしれないが、何をどう生かせばいいのか一つとして思い浮かばなかった。次第に私はいらつきを覚え、床の歪なつみきの城を蹴飛ばした。ガラガラと音を立ててあっけなく城は崩壊した。

「その夢を見始めるようになったのはいつごろですか?」と目の前の女性が問いかけた。
「3週間ほど前からです」と私は答えた。
「毎日同じ夢を見るのですか?」
「はい。うたたねしていてもその夢を見ます」
「それはどこか分かりますか?」
「いいえ。どこかの部屋という事しかわかりません」
「時間帯は朝ですか、昼ですか、夜ですか?」
「よく分かりません。ですが、窓の外が暗闇なので夜だと思います」
「ではその部屋の外に出たことはありますか?」
「いいえ。試みたのですが、出られませんでした」
「ガラスのない窓があるとおっしゃいましたね。そこからは出られそうにありませんか?」
「はい。窓の外は何も見えないほどの暗闇で深さも広さも分かりません」
「それは明晰夢ですか?」
「いいえ」
「分かりました」しばらくの間をおいて女性は続けて言った。「夢というものは記憶から引き出されていて、その選択方法は無意識的だと言われています。また、睡眠中の刺激が夢に反映されることもあります。後者は原因が明確ですが、前者は精神状態と関連しているという論が有力です。興味があったり不安だったりする対象をよく夢に見やすいと言われています。普段抑圧されて意識していない願望などが如実に表れるケースも多いのです」
「つまり、今の私の精神状態とこの夢は深く関係しているということですか?」
「その可能性が考えられます。ですので、まずはあなたの置かれている状況や環境、体調などを見ていきましょう。先ほど頂いたこの部屋の様子の絵ですが、次の診察までに分析いたしますのでこちらでお預かりしても構いませんか?」そう言って女性は視線を机の上に移した。そこには私が描いた部屋の絵が数枚置いてある。あれから少しずつ、目が覚めてから覚えていることをメモして描いたものだ。まだ空白の部分が多いが、それでもないよりは幾分マシになるだろう。少なくとも私の精神衛生上においては。
「はい」
「では今日はこれで終了です。次回からはこの絵をもとにカウンセリングを行っていきます。次回はいつにしましょうか」

私は次回の予約を入れて精神科を後にした。建物の外に出るとむわりとした熱気に包まれ、軽いめまいすら覚える。息苦しさを感じるほどに暑い。時によっては頭をかきむしって叫びたくなるこの感覚が、今は現実の象徴のようで安堵をもたらすのだから不思議だ。毎日感じているはずなのになぜか久しいように思えるのはやはりあの夢のせいなのだろうか。初めて見たときから何一つ変わらないあの部屋。覚えていることは多くはないがこの一か月でかなり部屋の様子が分かってきた。何も思い出せない朝もあり、歯がゆさに紙を破ったこともある。いつまでこんなことが続くのだろう。鬱々とした気分を振り払うように見上げた7月の空があまりにも青く眩しかったので、影の多い道を選びながら帰路についた。その途中、小さい電気屋のテレビ画面の向こうで涼しげなアナウンサーが凄惨な事件を淡々と伝えていた。それは画面のこちら側の私には何ら関係のないものだった。
何の変哲もない私の部屋は昼でも相変わらず薄暗い。窓を開けたまま出かけてしまったため、カーテンがゆらゆらと風に揺られている。急に明るい所から暗い所へ入ったためか、浮かび上がるような白いカーテンがまるでかつての夢をみているようなひどく曖昧な気分にさせた。3週間ほど前から、突然私は同じ夢を見続けるようになった。事故や誰かの死など衝撃的なことは何もなく、ただ安穏と日常生活を送っていた。初めのうちは面白さもあった。しかし、5日もたつと形容しがたい不安を感じるようになった。何かの暗示かもしれないと思い、様々な文献やサイトを調べて回ったが、このような事例は一向に見つからず、見るようになったきっかけを探してみたが思い当たるようなものは一切なかった。1つの窓を除いて出口のない部屋は日に日に私を追い詰めている。その窓さえなくなってしまったら。
そう考えると眠るのが怖くなる。寝る時間をできるだけ減らしているせいで心身共にだいぶまいっている。このままでは事態は悪化するだけだと少しばかり細くなった体に鞭を打ってカウンセリングを受けに行った。次のカウンセリングは5日後。それまでに何か進展はあるのだろうか。腰かけたソファがぎしりと鳴った。

壁を信号機が不規則に照らしている。どこからか微かに音楽が聞こえる気もするがきっと気のせいだろう。それは私がおそらくそうかもしれないと考えたことで脳が作り出した錯覚なのだ。ここには壊れたラジオと針のない蓄音機しかないのだから。
 ぎしりという音で自分がソファに座っていたことに気が付いた。この部屋にこんなものはあっただろうか。しばらく考えてみて、今あるのだからやはり前からあったのだという結論に至った。それにしてもおかしな部屋だ。時間も場所も分からない。暇をつぶそうにも本はすべて白紙。窓のピアノは調律は滅茶苦茶。バス停の標識は発音できないひらがなで行先は不明。壁のフォークとスプーンは鈍い輝きを放っている。今日もドアは開かない。いつもと変わらない、滅茶苦茶な部屋だ。ただ、気のせいか窓の外の暗闇が一層深くなった気がする。部屋をぐるりと回った後、私は窓から体を乗り出した。
「出るならここしかないのか」
そう呟いてソファに戻る。腰を掛けて唯一外へとつながるかもしれない窓から広がる暗闇をぼんやり眺めた。
一体どれくらいそうしていたのだろう。
「次は、台所、台所です」
突然静寂を破ったそれに大げさなくらい心臓がはねた。辺りを見回して音の出所を探す。するとそれは部屋の隅にたくさん積まれているラジオのうちの1つから出ていた。今まで一度たりとも鳴ったことのないそれが、何故。ぞわりと鳥肌が立つ。私は動けないまま、ラジオの山を見つめた。ラジオはかすかなノイズ音を出していたがしばらくすると止まり、部屋にはまた静寂が戻った。それでも私は動けなかった。心臓がうるさいくらいに脈打っている。滅茶苦茶な部屋なのだから、別に何があってもおかしくはない。そう思ってはいるが、この突然の変化に私は言い知れぬ不安を感じた。
 しばらくして落ち着きを取り戻した私は先ほどのラジオを手に取った。ためしに振ってみるとキンと床に何かが落ちた。拾って見てみるとそれは蓄音機の針だった。しかも状態はいい。レコードは一枚乗っていたと思い出しながら音楽でもかけて気晴らししようと蓄音機のもとへ向かう。針をつけていじっていると蓄音機は音を鳴らし始めた。知らない音楽だ。ソファに深く腰かけて聴き入っていると、ふとそれに人の声のようなものが混ざっていることに気が付いた。しかし不気味さはあまり感じられない。立ち上がって蓄音機に近づく。何か会話をしているようだ。初めはぼそぼそといっていたが、だんだんはっきりしてくる。いや、声だけではない。音楽もだ。音が迫ってくる。思わず私は目を閉じた。そして目を開けた時、見慣れたシーツが目に入った。向こうではブーンとうなりながら扇風機が首を振っている。物が少なく味気ないこの部屋は、まぎれもなく私の現実だった。テレビからどこかで聴いたような音楽が聞こえてくる。それは見たことのないドラマのものだった。そして私はテレビをつけたままベッドで寝てしまったのだと悟った。ふと枕元の時計を見ると10時を回っていた。寝たときの記憶が全くない。テレビも電気もつけっぱなしでいつから寝ていたのかは分からないが、おそらく帰ってきてからずいぶん長い昼寝をしていたのだろう。ぼんやりしている頭に酸素を送り込むと思考回路が動き始める。とりあえず夕食をとってシャワーを浴びよう。ベッドを降りてキッチンへ向かう。レトルトを温めようとレンジを開けてふと目線をそらす。レンジラックのとがったでっぱりに赤黒く乾いた血のようなものがついていた。身に覚えのないものだ。まあ、おおかたこの前由紀が来た時に引っかけでもしたのだろう。高さ的に袖のあたりか。怪我をしたなら言ってくれればよかったのに。やはり気を使ったのだろうか。心配をかけさせまいと。理由がどうであったにせよ、もういまさら私が口を出すことでもない。そう思いながら私は数日前の出来事を思い返していた。その日は真夏日で、うっとおしいぐらいに蝉の声が響いていた。彼女が訪ねてきたのは夕日で空が赤く染まったころだった。
「久しぶり。ちょっと痩せたね」それが彼女の第一声だった。「近くまで来たからちょっと寄ってみたの。きっとあなたのことだからあまり食べてないと思って。」ぎこちない笑顔で上げられた彼女の手には少し離れたスーパーの買い物袋が二つ下がっていた。――何にせよ彼女を心配させるなよ。幸介の言葉が脳裏をよぎる。急な来訪に驚きよりも申し訳なさの方が強かった。
「ありがとう、上がって」と買い物袋を受け取り、彼女を通すと彼女は少し遠慮がちに靴を脱いだ。
「私、ご飯作ったら帰るね」と彼女が振り返りながら言う。逆光で表情はよく分からない。
「どうして、君は食べないの?」
「私はいいよ。あんまりお腹すいてないし」
「せっかくだしゆっくりしていきなよ」
「ううん、本当にちょっと寄っただけだから。気にしないで。最近疲れてるんでしょ?」
「まあ、少しね」と私は彼女に夢のことを話すかどうか迷った。
「ほら。だったら今も無理しないで休んでて。顔の隈ひどいよ。お台所借りるね。すぐに作るから」彼女はそう言ってキッチンへ入った。手にかかる負荷は思ったよりも大きかった。買い物袋をキッチンへ運ぶとすぐに彼女に追い出されたので、手持ち無沙汰になった私は夕食が出来上がるまでソファに座って窓の外を眺めることにした。だんだんと空が青く濃くなっていく。
夜がすぐそこまで近づいてきていた。
「出来たよ」という彼女の声ではっと意識を取り戻した。どうやら私は居眠りをしていたらしい。外はもうすっかり暗くなっていた。目まぐるしく変わるテレビの画面がチカチカとまぶしく感じた。
「寝てたの?電気もつけないで」と彼女はリビングの電気をつけ、料理を運んできた。
「最近寝不足なんだ。」と私はまだぼんやりしながら答えた。いつテレビをつけたんだっけ。夢と現実の境目が曖昧になったような感覚がしていた。
「幸介さんから前に聞いたよ。クーラー壊れてるんだって?」と彼女はやはりどこかぎこちなく言った。
「そうなんだ」
「それで寝不足なの?」
「ああ」
「ねえ」それから少しの間を開けて彼女はこういった。「それどこのクーラーの話?」
急に耳から入ってくる音が鮮明になった。頭が一気に冴え、眠気は霧散した。心拍数が上がり、心臓の音がこの沈黙の中でやけにうるさく聞こえた。
「クーラーいつ直ったの?」と彼女はじっとわたしを見つめる。
「一昨日直してもらったんだ」と私はなるべくこの動転を悟られないように慎重に答えた。
「金曜日?」
「ああ」
「まだ寝不足は解消できてないんだね」
「昨日は忙しかったからあまり寝れていないんだ」
「そうなんだ。大変だったね。ねえ、本当にそれだけ?」と彼女は私に疑いのまなざしを向ける。「私にも言えないこと?私じゃ力になれないこと?」
やはり彼女に隠し通すことはできなかった。だが、全てを打ち明けることもできなかった。ただ沈黙を貫くしかできなかった。目の前に並ぶ料理からはまだ温かそうな湯気が立ち上っていた。
「私、しばらく来ない方がいい?」重たい沈黙の中、彼女が口を開いた。出てきた言葉は怒りとも悲しみともつかない調子だった。
「ああ」
「そっか」
「すまない」
「冷凍庫に今日のおかずの残りともう1品あるからまた食べてね。あと飲み物も入れてるから。洗い物溜めちゃだめだよ。洗濯物も。ちゃんとご飯作って食べてね。解決したら連絡ちょうだいね。仕事無理しちゃだめだよ。体には気を付けて。じゃあね」そう言い切ると彼女はバッグを持って振り返らずに玄関まで歩いていき、立ち止まる。「じゃあね」とやはり振り返らずに言うとドアを開けて静かに外へ出ていった。バタンと扉の閉まった音がむなしく部屋に響いた。追いかけようかとも考えたが、追いかけて何ができるというのだろう。夢のことを話すわけにはいかない。いや、全て話してしまえばよかったのだろうか。残された料理を口に運ぶと後悔が押し寄せてきたが、やはり今更どうしようもなかった。

 ウェットティッシュで血をふき取って、レトルトをレンジに入れる。このやり場のない思いはどうすればいいのだろう。夢のせいで私の日常は壊れてしまった。確実にあの夢は私を蝕んでいる。原因も解決策もまだ手がかりすらつかめない。疲労と焦りの中、私は自分がゆるやかに狂っていくのを感じていた。
 ある日、実家から1つの段ボール箱が届いた。中には私が子どものころに使っていた玩具やぬいぐるみなどが詰まっている。3回目のカウンセリングで、何度も見る夢は幼少期の体験が関係あると言われ急遽実家から取り寄せたものだ。ふたを開けると埃っぽい臭いとともに懐かしさがこみ上げてきたが、感傷に浸っている場合ではなかった。1つずつ記憶をたどりながら調べていく。しかし夢につながりそうなものは何も見つけられなかった。苛つきが募っていくのが分かる。睡眠不足も手伝って最近は非常に短気だ。正直もう我慢の限界だ。
私は手に取ったクマのぬいぐるみを力一杯壁に投げつけた。勢いよく跳ね返ったぬいぐるみは少しはずんで床に転がった。何も言うはずのないぬいぐるみは当然静かなままだったが、ビー玉のような目がじっとこちらを見ている気がしてひどく不気味な印象を与える。まるで私を非難しているかのような恨みがましい目だった。
「そんな目で見るな。そんな目で見るなよ。」
つぶやいた言葉が蒸し暑い部屋にジワリとにじんだ。

 またか。もううんざりだ。3色の光は人を苛立たせる効果でもあるのか。読めない標識も雑多な棚も開かないドアも全てが苛立たしい。いっそ壊してしまおうか。私はソファから立ち上がり、手当たり次第破壊していった。食器を床にたたきつけ、本を破り、信号機の軸を折り、時計を割り、本棚を倒し、おもちゃ箱をひっくり返した。あらん限りの破壊をし尽くした。壁も天井もボロボロになった。それでもドアは開かない。折れた標識でドアノブを力の限り叩いた。ガシャンと大きな音がしてドアノブは外れた。ドアノブがあったところを覗くと道路の向うに小さな本屋と薬局が見えた。私は手が切れることも構わずに穴に手を入れてドアを引っ張った。
「何でだよ」思わず言葉がこぼれた。
開いたドアの向こうは、灰色のコンクリート壁だった。他のドアも壊して回ったが、4つで止めた。もうドアの向こうに興味はなかった。ぐるりと部屋を見回すと窓の下にクマのぬいぐるみが転がっているのが目に入った。なんだか見覚えのある気がする。子どもの頃だろうか。いやもっと最近だ。一体どこで。私はその場で立ち止まり、考えに考えた。そしてふと、思い出した。
「部屋だ」
私の部屋で見た。なぜ。実家から取り寄せた。なぜ。幼児期を思い出すため。なぜ。カウンセラーが言っていたから。なぜ。記憶が洪水のようにあふれてくる。私が相談したから。なぜ。どきりと心臓がはねた。毎日、同じ、夢を見るから。ああ。この部屋は、夢だ。
その結論に達した瞬間、再びラジオが鳴った。それも今回は1つや2つの音量ではない。思わず私は耳をふさいだ。
「次は外、外、終点です。お忘れ物のございませんようお降りください。」
外。外だって。私はこの部屋に一つしかない出口に目をやった。それはぽっかりと開いて暗闇を湛えている。まるで誘っているかのように。ふらふらと近づいてその闇を見つめたものの、以前と変わらず深さも広さもまるで見当がつかないほどの暗闇。何か、落としてみようか。そう思って視線をずらすとすぐ足もとにあのおもちゃたちが散らばっていた。ちょうどいい。これを落としてみよう。いくつかまとめて持ち上げると、不意にクマのぬいぐるみが喋った。
「やめて」
驚きはしたが、これは夢だ。なんだってある。ぬいぐるみは壊れたCDのようにやめてと繰り返していたが、私は聞こえないふりをした。そしてそのまま手を離すとおもちゃたちは闇にのまれていった。だが、しばらくしても何も物音が聞こえない。もう声も聞こえなかった。どういうことだろう。それほど深いのだろうか。それとも深さなんてもとからないのだろうか。もしかしたらどこかにつながっているのかもしれない。ここにそれを知るすべなどない。でももういいのだ。これは私の夢だ。死にはしない。私は振り向いてもう一度部屋を見渡してから、窓の外に身を踊らせた。

 小さな電気屋のテレビ画面の向こうでは今日もアナウンサーが淡々と凄惨なニュースを読み上げている。
「昨晩未明、東京都品川区で男性の遺体が発見されました。遺体の周りには複数の玩具が散乱しており、現在警察は殺人事件として関連を捜査中です。それでは、次のニュースです。」

『部屋』完

「文化祭事件」
112206


「文化祭の出し物は演劇に決まりました。」
委員長がたった今そう宣言した。
演劇か。幼稚園の舞台でやって以来しばらくだな。
 文化祭の出し物を決める会議は、6限目のホームルームに行われた。中学3年の僕たちは、各々案を考えてきて皆でその案の中から文化祭の出し物を選出した。ちなみに演劇の他に出た案はと言うと、合唱、お化け屋敷、焼きそば屋などそれはそれはたくさんの意見が出た。文化祭の出し物は体育館の舞台で行われるのが我が校の伝統だ。決まりごとだ。よっていくら案が出ようとお化け屋敷や焼きそば屋などできようもないのだけれど。
僕がなんとなしに会議をぽけーっと見ていると知らぬ間に文化祭の出し物は演劇に決まったのだった。
その時、髪の長い女の子が立ち上がった。
「三学期はいろいろと忙しいでしょ。ですから、あまり練習をする時間はないと思います。先程演劇に票を入れた人達が劇をして、そうでない人は裏方でいいと思います。」
彼女の意見にクラスの中の数人がうなずく。なるほど僕達は受験生だ。ともなると、クラスの出し物などより、受験勉強に励みたいというのも納得できる。
するとまた一人、黒ぶちの眼鏡をかけた少年が立ち上がった。確か彼は学年で1、2を争う秀才だ。
「先程の意見に賛成です。どうしても演劇をしたいのなら、したい人だけでやればよいのではないでしょうか」
彼の発言は、クラス内の他の連中を刺激したらしい。教室の中がざわめき始めた。そしてそのざわめきを代表するかのごとく、
「今の意見には反対です」
いくぶんか鼻にかかった声の男の子が手をあげた。
「入試があるのは文化祭の少しまえです。終わってからいくらでも練習できるんじゃないですか。」
すると教室のあちこちから、
「そうだよ、勝手すぎるよ」
「せっかくクラスで団結しようって言ってるんだ。そんなのわがままだよな」
などといった意見があがる。
こいつらこそ気楽なもんだな。
そんなこんなで演劇はクラス全員で協力しあうことに決まった。となると、何を演劇でするかが次の議題となる。これにも結構意見が出た。ハリー・ポッター、風立ちぬ、猫の恩返し、、、どれもこれも有名な話ばかりだ。しかし皆今一つぴんとこない。議会が煮詰まってきたころ、クラスでも一際活発な男の子が立ち上がってこう言った。
「あのさ、おれの住んでるアパートに童話作家も住んでるんだよ。劇の台本頼んでみるのなんてどうだ?」
しばらく教室はしんとした。ややあってまたざわつき始めた。
「それって結構面白くない?」
「どこにもない新作だよね?実現したらすごいよ。」
彼の提案は程なくして可決された。肝心のその童話作家とやらに台本を頼みに行くのは言い出しっぺのさっきの男の子に決まった。名前なんだったっけな。
そうこうしている内に6限の終わりを告げるチャイムがなった。程なくして下校の時間だ。さぁ帰ってゲームにでも興じるとするか。ちょうどこの間買ったばかりだし。
帰ろうとする僕だったが、
「おい、ちょっといいか」
と声をかけられた。
何だ?僕に用だなんて。
物好きなやつもいるもんだと思い、振り返ってみるとそこには先程童話作家に演劇の台本を頼むのはどうかと進言した男の子が立っている。なんだなんだ、金なら貸さんぞ。
「俺さ、童話作家のとこ行くのはいいんだけれど、本なんてほとんど読んだことないからなに話したらいいか分かんないんだ。お前、いつも本読んでるだろ。一緒に着いてきてさ、上手いこと話してよ。」
なんということだ。童話作家に演劇の台本頼みに行くのは彼だけではなかったのか。
しかし、童話なんてそんなに読んだことないぞ。僕が好きなのは現実に起こりうる内容のものばかりだ。ファンタジーとかそんなに好きじゃないんだが。
「いいじゃん。俺一人じゃ心細くてさ。お前このあと特に用事ないだろ?帰宅部だし。つきあってくれよ」
用事がない帰宅部だと。心外だ。僕には帰ってゲームをするという崇高なる用事があるのだ。ただの帰宅部じゃあないぞ。
しかしめったにないクラスメイトの頼みである。無下に断るのもなんだか後味が悪いだろうと思ったので着いていってやることにした。

 聞くところによると何でもその童話作家、二年ほど前に賞を取ったらしい。結構大きな賞だったそうだ。しかしそうなると、問題がある。賞を取るような童話作家が、たかが演劇の台本ごときに貴重な時間を割いてくれるのだろうか。原稿料とか取られるんじゃあるまいな。そんなことを考えているうちに童話作家のアパートに着いた。売れっ子作家の住まいにしては質素なものだ。いや、こんなこと言うと童話作家はもちろんクラスメイトにも失礼だな。自重しないと。
童話作家の部屋の前まで来た。表札を見ると「北野」とある。北野さんか。覚えたぞ。クラスメイトがインターホンを鳴らす。なかなか積極的なやつだ。しばらくすると北野さんとおぼしき人がドアのすき間から顔をのぞかせた。
「ええと、どちらさまかな。」
なんの連絡もなしに突然押し掛けたのだ。北野氏はきょとんとしている。僕がまごついていると、クラスメイトが自身と僕の紹介を始めた。
「突然お邪魔してすみません。僕は谷口で、こっちは福本と言います。実は僕達、こんど学校で演劇をすることになったんですが、なかなかどんな演劇にするか決まらなくて。するとどうです。僕達の町には有名な童話作家の北野さんがいらっしゃるじゃあないですか。そこでお忙しいところ申し訳ないのですが、演劇の台本とか頼めないでしょうか」
これは驚いた。こいつ僕の名前知ってるのか。いや、クラスメイトだし知っていてもおかしくはないか。しかも上手いこと言うもんだなぁ。そういう才能あるんじゃあないの。
「あぁ、君、ここに住んでる谷口さんところの子か。いや、有名だなんて、所詮一冊作家だよ。二作目も出せていないしね。それにしても演劇の台本かぁ。僕は、そんなもの作ったことはないぜ」
そりゃあそうか。演劇の台本なんて作る機会なんてそうそうあったもんじゃあないよなぁ。
「そこをなんとか。是非頼みたいんです。文化祭にはこの町の人が大勢訪れますし、北野さんが書いた台本ともなれば、注目されると思うんです。クラスの皆も楽しみにしてます」
「うぅん、そう言われると弱いなぁ。ちなみに、文化祭はいつなんだい?」
「3か月後です」
「じゃあ結構時間あるな。ちょっと、考えさせてくれるかい。ちょうど、今短編の童話を執筆中なんだ。それを演劇の台本に直せないか、少し頑張ってみるよ」
おいおい、やったじゃないか谷口とやら。お前はクラスのヒーローだぞ。僕が保証してやる。
「ありがとうございます。それで、劇の主役なんですけど、背が低くて、運動神経抜群の設定にしてもらえないでしょうか」
…はい?
「それって、君のことじゃあないのかい。はは、君は演劇で主役をやりたいわけだ。よろしい、主人公はそんな男の子にしてあげよう。えぇと、そっちの君も主人公にしてあげようか。いちおう、主人公は兄弟の予定なんだ」
待て待て。いろいろと話がつかめないぞ。するとなんだ、谷口は自分が主役をやりたいがために北野氏に演劇の台本を頼みに来たのか。ずる賢いやつだな。しかも、僕が主人公だって?幼稚園の頃の演劇じゃあ、台詞すらしゃべってないぞ。木の役だったし。
「ふむ、これはなかなか面白い台本が書けるかも知れないぞ」
北野氏は満足そうに谷口と僕を交互に見ている。おい、これは現実なのか。お母さま、大変です。今年の文化祭、僕は主役を演じることになりそうです。是非見に来てください。
帰り際、谷口は僕にこう言った。
「やったぜ、福本。頼んでみるもんだろ、俺たち主役だぞ。台本できて、受験も終わったら頑張ろうな」
どうも、本当に主役になりそうだ。

 それから早1ヶ月ほどが過ぎた。北野氏はかなり頑張ってくれたようで、台本は出来上がっていた。演劇の台本、その内容はざっと次のようなものである。
ある村に、とても仲のよい二人の兄弟がいた。
兄の勘吉は背は低いが運動神経抜群、正義感に溢れている。弟の金次郎は運動神経はさほど優れていないが豊富な知識と鋭い洞察力を備えており、二人で村人の抱える様々な問題を解決していた。
そんなある日、二人の両親が悪い人たちに拐われてしまう。何が起きても両親を取り戻すことを固く決意した二人は悪い人たちの組織に彼らだけで戦いを挑む。しかし、どんなに二人が優れていても多勢に無勢、返り討ちにあってしまう。絶望の淵に立たされた二人を支えたのは、今まで彼らが救ってきた村の人々だった。様々な困難を村人と共に乗り越える二人。ついに悪の親玉と対峙する。しかしここにきて村人たちもまた、二人の両親同様人質として捕らわれてしまう。追い詰められる二人。そこで金次郎は悪の親玉を持ち前の豊富な知識と鋭い洞察力で出し抜くことに成功する。いよいよ勘吉と悪の親玉との一騎討ち。激戦の末、悪の親玉は遂に敗れ去る。見事両親と村人を救いだした二人。万歳!
といったところである。兄弟目だちすぎじゃあないか?この台本がクラスの皆に紹介された時、評判があまりよろしくなかった。というのも、どこか子どもっぽいというか、中学3年がする演劇にしては幼稚すぎるという意見が多かったのだ。それに関しては同意なのだが、童話作家が無理矢理中学3年の演劇の台本を書いてくれたのだ、このあたりが妥当で、限界だと僕は思ったのだ。谷口はと言うと、口を尖らせて皆の意見を聞いていた。これは主人公は女性にするべきだという意見が出たためである。分かりやすいやつめ、主役としての立場が危うくなってきたので、気が気ではないのだろう。僕はというと、少し主役の可能性が下がったことにほっとしたのだけれど。
そんなことがあって、北野氏執筆の演劇の台本は手直しを加えられることになったのである。

「夢への一歩」
112202


―第30回全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会 大阪予選 決勝戦―


「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花…」

静寂が漂っている部屋に、響く歌の声色。
その歌が途切れた瞬間、あたり一面に静寂が漂い、部屋の空気がピンと張りつめる。
私は、息を小さく吸い込んだ。
この瞬間は何度きたって本当に緊張する。
体を前に倒して、肩の力を抜きつつも、耳を澄まして、全神経を耳と指先に集中させる。
指の先まで電気が流れるような感覚。
大丈夫、大丈夫。きっと私ならできるから…。
 そう自分に言い聞かせた。

「せを…」 パン…!

たった一秒、コンマ数秒、その一瞬ですべてが決まる、と言っても過言ではないかもしれない。
上の句が「せ」で始まる歌は、100首とすごい数が揃う百人一首の中でもたったひとつ。
「瀬をはやみ  岩にせかるる 滝川の… 」
川の瀬の流れが速いので、岩にせき止められ、水の流れが2つに別れるが、また合流して一つになる滝の川。その滝川のように、今はあなたと離れていても、いつかまた一緒になれると信じています、という強い恋心が表わされている。崇徳院の詠んだ恋の歌。
この札は、いわゆる一字決まりといわれる札である。
一字決まりとは、その句の上の句の最初の一字を聞いただけで下の句が分かり、札が取れる句のことを指している。一字決まりの札は100首の内の7首。「む・す・め・ふ・さ・ほ・せ」なんて暗号みたいなおぼえ方が有名あるが、この札を取るためには覚えていて当然であり、もちろんそれに加えて瞬発力は欠かせない。
一字決まりの札は私の得意分野である。
 (絶対に渡すわけがないじゃない。大丈夫、きっといける…。)
私の手は札めがけてまっすぐ一直線上に伸びて行きった。


—————――――――—————――――――—————


「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」

この歌は、百人一首の100首の中には含まれておらず、競技かるたのはじめに詠まれる、いわゆる序歌とよばれるものである。
“これからかるたに向かうんだ”と心を鎮めて落ち着け、私の心を集中させてかるたに向けさせてくれる歌である。
この句が読まれると、背筋がピンと伸びる。そして、指の先までまるで電気が走ったかのように神経を集中させ、一つ目に読まれる句に向けての集中力が最大に高まる。

難波津(なにわづ)に、咲いたよこの花が。冬の間は籠っていて、今はもう春になったと、咲いたよこの花が。

 難波津の歌は、帝の御代の御始めを祝ったものであるとされている。
この句の難波津とは、今の大阪市中央区あたりを指しているのだという。
中央区と言えば、難波宮跡公園や、かの太閤・豊臣秀吉が築いた大阪城がある。
その大阪城からすぐの場所に、私の学校はあった。
私が本気でかるたに目覚めたきっかけは、そんな学校に入学して早一年が過ぎようかとしていた中学校一年生の冬のこと。中学入学と同時に東京から大阪へ引っ越してきた私も、一年がたちようやく大阪に慣れてきたかな、と思うようになったころである。私が大阪に来て、そしてこの学校に入学して以来、初めてのかるた大会であった。冬の「かるた大会」なんて、正直どこの学校にでもある行事だ。小さいころから暗記が得意だった私は、その中でも百人一首だけは誰にも負けない自信があった。百人一首との出会いは幼稚園の頃、何気ないきっかけで覚えた一句。

「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」

とある日の帰り道、夜空に輝くきれいな月を見てお父さんが教えてくれた阿倍仲麻呂の歌である。今でも月を見るたびに、私はこの句を思い出す。
天を仰いで遠くを眺めてみると、月が昇っている。あの月は奈良の春日にある、三笠山に昇っていたのと同じ月なのだなあ。唐に渡ったきり日本に帰ってくることのできなかった仲麻呂の故郷をなつかしむ気持ちがにじみ出ている一句であるといえるだろう。
幼稚園の帰りに、何回も繰り返して覚えたこの句を自慢げに披露してみすると、「百人一首なんてよく知ってるね」と、お母さんも幼稚園の先生も褒めてくれた。褒められることがうれしくて、私は次々と百人一首を覚えて行ったのである。
お気に入りの一句。絶対にこれだけは渡さない…!そう思っていた。
しかし、その思いは簡単に打ち破られることとなったのは、校内の冬のかるた大会、決勝戦のことである。
百人一首を全て覚えている私は、自信に満ち溢れていた。実際、そのおかげで、決勝戦に来るまでは特に苦労することなんてなく、百人一首が読み切られる前に相手より速く狙いの札を見つけて取ることができた。
(楽勝じゃん。このまま優勝できるかもしれない…!)
そう楽観して油断してしまったのがいけなかったのだろうか。
かるた大会の決勝戦、目の前の相手は同じ中学1年生とは思えないほど、桁外れに強かった。私が目で札を見つけたときにはもう、彼女の手は、その指先は札の上にあったのである。私の一番自信のあった「天の原」の札、それは私の体の前においてあったにもかかわらず、さらわれてしまった。本当に一瞬。彼女の方が速かった。私が札を抑えようとしたその下に、いつの間にか彼女の手が入り込んでいたのである。
何枚かは運も手伝って食らいつくことができたものの、結果は、20枚差。力の差は歴然だった。
決勝戦で当たったのは、偶然にも、同じクラスの出席番号が私のひとつ前の女の子だった。いつも、ふたつくくりをしている、メガネが似合うユキちゃん。大阪弁が特徴的な、マイペースで、ほんわかした雰囲気の女の子。私とは対照的だと思っていたし、今まで話したことなんて数えるくらいにしかなかった。そんな印象をずっと持っていただけに、かるたになったとたんの切れのよさとその変貌ぶりには驚かされた。
「かるたでだけは、絶対負けへん…!」
試合中、ぼそっと、おとなしかった彼女の口から、そんな言葉がとびだした時には驚いた。その宣言通り彼女のかるたは私を寄せ付けない強さだった。しかし、ただ強いだけではなく、私が苦戦している横で、かるたを取る彼女の眼はキラキラ輝いており、自然と楽しんでいるんだな、という雰囲気が伝わってきた。

学校のかるた大会とは言え、負けてしまったことは、ものすごく悔しかった。しかし、それよりも、「かるたって、こんなに面白いんだ…!!」との思いが心の底から湧き上がってくるのを感じた。彼女が語る眼の奥には、私が今まで見たことのないような世界が広がっている気がした。そして、私は心の中で、いつか絶対追い越してやるんだからと小さく宣言をしてみた。その年のかるた大会はユキちゃんの優勝、私の準優勝で幕を閉じた。
百人一首は好きだ。たった17音の中にとても広くて深い世界が広がっている。今まで、百人一首といえばその句を覚えて鑑賞して楽しむものばかりかと思っていたが、この冬のかるた大会で改めてかるたの面白さに気づかされたのである。その日の帰りは、ユキちゃんと帰り、かるた会の話などをいろいろ聞かせてもらった。そして、彼女が小学生の時からかるたを続けていること、競技かるたのルールなどについて、かるた会での話、かるた日本一のクイーンについて、など興味がそそられる話ばっかりだった。その中でも驚かされたのは、今のクイーンはまだ高校生で、中学生の時にクイーンになって以来ずっとその座を死守しているということである。
 「中学生、私とそんなに変わらない年で日本一になれるんだ!かるたってすごいね。私も、もっと本格的にかるたやってみたい。」
 彼女の話を聞いてそんなことを思っていたとき、ふと、学校が始まってすぐのクラブ紹介の前に、担任がぼそっと言っていた言葉が脳裏をよぎった。
「今回紹介するクラブ以外にもな、今は誰も部員おらんから休部しとるんやんやけど、俺が若いときは登山部とかるた部があってな、その顧問もしとったんや。もし、気になるやつ、まあおらんかもやけど、おったら考えるから声かけてくれな。」
 …そうだ、かるた部!復活させればいいじゃん!
今思えば、短絡的な考えかもしれない。後で思い返しても、驚くほどの決断力と行動力だったと思う。
「ねえ、ユキちゃん。私たちで一緒にかるた部を復活させない…?私にかるた教えてよ!」
なぜこんな思い切った決断ができたのかはわからない。ただ、私の心はかたく決まっており、何かに背中を押されるように気づけばそう言ってしまっていた。彼女はいきなりだったこともあって、一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに笑顔になってうなずいた。
 そうなると、意外なことに積極的に動いてくれたのは彼女の方だった。
「実は、私ずっとかるた部のことは気になっててん。でもな、かるたなんてやってんの私だけやろうし、興味ある人おらんやろなってあきらめとってん。でも、ほんまよかった。」
 と、次の日さっそく入部希望の子を二人も見つけ、一緒に職員室の担任の元へ急いだ。
「先生、かるた部を復活させたいねん!」
 私たちがそろってくるから何事かと身構えていた先生だったが、普段おとなしいユキちゃんのいきなりの宣言に、更に度肝を抜かれたのか、しばらくぽかんとした顔をしていた。そして、真剣な顔になって考えてくれ、顧問を引き受けて部活を復活させるための条件として、練習場所を自分たちで確保することと今後自分たちでどのような練習を行っていくかを考えていくことを提示した。
かるた部は、長い間休部していた部活だったため、部室の割り当てはほかの部活に回されており、どうやら残っていいようだった。校内を探索した結果、練習場所として休憩スペースのようになっている校舎の最上階の端にある談話室を利用して、床の上に茣蓙を弾いて練習することとなった。問題はまだまだ山済みであるが、少しずつ形になっていった。
肝心の部員は、私とユキちゃん、そしてユキちゃんがさそってくれたかるた大会の準決勝でユキちゃんに負けて3位となったトモミちゃんと、かるたに興味があると言ってくれたミオの計四人。この時期はもうみんな部活に入っていたり、塾などで忙しいから無理なのではないかとあきらめかけていたが、かるた大会でたたかった子や、いろいろあって運動部をやめてしまった子がもう一度やり直したいなど、それからの3日間で噂を聞きつけた部員はさらに4人増え、倍の計8人にもなった。そうして私たちのスタートは切られたのである、とはいうものの経験者はユキちゃんひとり。競技のルールや札の並べ方、決まり字を覚えるなど、やるべきことはたくさんあった。
競技かるたといえば、百人一首の札を取るだけの、もしかしたらのほほんとしているイメージがあるかもしれないが、とんでもない。
競技はまず二人で向い合せになって行い、まず百人一首の100枚の札を裏向けにしてよく混ぜまるところからはじまる。そして、そこから互いに25枚ずつ取り、自分の陣地(自陣)に3段に分けて並べるのである。自陣と相手の陣(敵陣)合計50枚となり、残りの50枚は箱にしまって競技には使わない。
試合のルールは、簡単に言えば、読読み上げる百人一首の上の句を聞いて、出来るだけ早く下の句の書かれた札を取りに行くのみである。しかしながら、読み手は出ている札・なおされた札に関係なく100首全て読むこととなるため、実際には並べられていない空札が詠まれることもあり、注意が必要となってくる。そうして、自陣の札を取ったら一枚減り、敵陣の札を取ったら相手に札を一枚送って自陣の札を一枚減らし、自陣の札を早くゼロにした方が勝ちとなる。
こうみれば単純で簡単に思われるかもしれないが、実は奥が深く非常に難しい競技なのだ。分類上は文化部に所属するものの、私はこれの激しさは立派な室内運動部であると主張する。百人一首の歌や、それぞれの句の決まり字を覚えることはもちろんのこと、音への反応や瞬発力、そして何より集中力が試される。複合的な要因が絡み合ってくるのだ。
 練習メニューに関しては、かるた会に所属しており経験も豊富なユキちゃんが取り仕切ることとなった。意外なことに、畳に向かって札をとる練習だけでなく、体力作りのための運動や素振りなど、和気あいあいとする中でも一生懸命練習を重ねていった。
 かるたでは、E〜Aと各級に分かれている。最初はE級から始めた初心者組の私たちであるが、試合を重ねていくにつれて各級内での優勝も増えD→C→Bと徐々に階級を上げることができた。そんななか、ユキちゃんははじめのB級からさらに腕を上げ、優勝し、A級へと昇格するなど、各々が実力をつけていった。

—————――――――—————――――――—————

 …私たちがかるたを始めてから二年半。
中高一貫校でそのまま高校へ内部進学した私たちは練習を重ねた。そして、6月はじめ、気持ちを新たに初めての高校選手権大会予選に挑んだ。通称、高校選手権。かるた甲子園ともいわれる、全国の高校位置を決める大会である。中学生の頃は、かるたなんてと物珍しげに見られることも多かったが、最近では漫画の影響でかるたに興味を持ってくれる人も増えたこともあってか、校内での応援の声も増えてきた。中学時代からの積み重ねもあってか、順調に予選を通過していき、なんとか予選の決勝戦、つまり大阪府の代表を決める試合まで進むことができた。相手は代々全国大会に大阪代表として出場している強豪校である。
高校選手権は団体戦、8人で1チームとなって登録、実際の試合ではそのうちの5人一組での出場となる。5人がそれぞれ当たった相手と各々1対1で戦い、ルールは個人戦と同じだが、3人以上が勝った方のチームの勝ちとなる。私たちは部員が高校1年生のみだったこともあって、府内でも珍しく、全員1回生のチームでの出場になった。今まで聞いたことも無いような学校、そんな私たちが決勝戦までたどり着くなんて、誰が予想しただろう。
(ここまで来れたんだもの、いつも通りやろう。)


「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花…」

静寂が漂っている部屋に、読手によって序歌が読まれる声が響き、部屋の空気が張りつめる。大丈夫、そう自分に言い聞かせながら耳を澄まして、全神経を耳と指先に集中させる。

「瀬をはやみ  岩にせかるる 滝川の… 」

私の手は、相手が入る隙も与えず、まっすぐと伸びて「われてもすに あはむとそおもふ」と書かれた札に向かっていった。
よし、出だしは順調!周りを見ると、一枚目は3対2の僅差だけど、私達がリードしている。
「さあ、一枚!」
自然と心の底から声が出た。一枚目、しかも一字決まりを取れ、チームとしてもリードできた自信は大きい。
札の移動が終わり、みんなの手が下がると再び下の句が読まれる。
「われてもすえに あわんとぞおもう…」
体重を膝に乗せ、腰を浮かせる。
そして、「おもふ」の音に合わせて、息を小さく吸い込み、次の札に備える。
「あしびきの…」
危ない!相手の動きにつられそうになったが、空札だった。深呼吸をして、心を落ち着ける。心臓の音が体全体に響く。平気なつもりでも指の先まで緊張でが地がちで震えてしまう。
第3首目、「もも…」は自陣中央、さっきの深呼吸で少し落ち着けたのか丁寧に抑えに行けた。
ここまで出だしは順調だったが、第4首目に読まれたのは、「きみがため…」。私が苦手とする大山札である。6字目まで、どちらの句か見分けがつかない。「お」は私の自陣に、「は」は相手の陣地にある。「お」の札囲い手で守りつつ、いつでも飛び出せるように。相手も同じ気持ちだろう、お互いの間に緊張が漂う。しかし、よまれた札は「は」。何とか過去いての隙間に手を滑り込ませようとするも、相手のすきのない守りを破れず手が止まってしまった。
「どんまい、さあ集中!」
唯一、一人だけ大山札を抑えたユキちゃんから掛け声がかかる。
(そう、大丈夫。気にしちゃ負けだ。一枚差。まだまだできる。)
私は腕で汗を拭いて、深呼吸をする。ふと何気なく視線を上げると、相手の顔が目に入ってきた。相手は汗一つ書かず、涼しい目をしている。
——どうして?私の方が1枚多く取ってるはずなのに、どうしてそんなに余裕があるの?
 6月の梅雨の暑さというのだろうか、この時期ならではの夏の暑さが私の体力をむしばんでゆく。ポトリ、と顎を伝って汗が畳の上に落ちた。
深く息を吸い込み、ぐっと身体を前に傾けた。感覚の全てを聴覚に集めるように、耳を澄ます。
焦るつもりはないが、心臓がバクバクと高鳴る。
 落ち着けと、ゆっくりと自分に言い聞かせる。
「なげき…」
パン!
しかし、札を払った音は私だけ。
しまった…!私が払ってしまった札は「かこちがほなるわがなみだかな」の「なげけ」、正しくは空札であった「いかにひさしきものとかはしる」の「なげき」である。次こそ、と思っていた5首目、まさかの私のお手付きである。これで、札の数が並んでしまった。
本当にかるたの勝負は一瞬だな、とつくづく感じる。
 落ち着こうとすればするほど、焦りが出てきて仕方がない。
 その時、
「大丈夫。」
小さな声が聞こえて横を見ると、笑顔のユキちゃんがいた。
「さあ、楽しんで一枚!」
 その掛け声で、はっと我に返る。
もう一度落ち着いて。歌が詠まれていくにしたがって、変化していく決まり字をもう一度頭の中で整理する。

「あいみ…」
よし。相手の指が届く、本当に寸前のところで札を払うことができた。
「取ったよ!さあ、一枚。」
 私の掛け声と、相手の掛け声がほぼ同時だった。
「よし、まず一勝!」
相手校の一人が先に一勝を上げた。負けた友達の顔はここからは見えないが、きっと悔しいだろう。肩が震えていた。一対〇、まだまだ巻き返せる。私だって負けるもんか。

「むら…」
パーン!一斉に札を払う音が部屋に響く。よし来た、一字決まり!
「取ったよ!」
「こっちも!」
さっきの負けを振り払うかのように、残っている私たち四人全員がとることができた。
そして、
「一勝したで!」
の声。横を見ると、ユキちゃんが圧倒的枚数差で勝利していた。

その後、一進一退を繰り返す中で、こちら側も相手校側も一勝ずつ挙げ、二勝二敗。残りは私のみ、私で勝負が決まるんだ。これが最後か。私の自陣も相手の陣も残り一枚ずつ。

「す…」
音が読まれたその瞬間。相手陣の札であったにもかかわらず、不思議なことに私の指はまるで吸い込まれていくかのように、その札に伸びて行った。

「住の江の 岸による波 よるさへや 夢の通い路 人めよくらむ」

勿忘草が咲くという、住の江の岸によせては返す波のように、今宵も切ない気持ちでいます。なぜ、昼だけではなく夜の私の夢の中の通い路までも、あなたは人目を避けようとなさるのでしょう。

得意な一字決まり。
たった1秒のことではあったが、まるで時が止まったかのように長く感じられた。
根拠はないが、なぜか自信はあった。
(いける、いや絶対取ってやる。)
そんな気持ちが報われたのだろうか。
札を見てみると、相手の手の内側に私の指が入り込んでいたのだ。
「よし、K高勝ったぞ!」

最後に礼をしたときに相手の顔を見ると、今まで気づかなかったが額や髪は汗でぐっしょりぬれていた。白熱した戦いとは、こんな試合を言うんだろう。方のちから一気に抜け、じわじわと勝利の実感がこみ上げてきた。

表彰式、いままで私はここまで誇らしげに胸を張れたことがあっただろうか、
「第30回全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会、大阪代表はK高校に決定いたしました。」
名前を呼ばれて、優勝カップを手にしたとき、はじめて名を刻むことができた実感が湧いてきた。勝ててうれしい気持ちと、今後の全国大会に向けてのプレッシャーが交錯する。ここからが本番だ。

7月の終わり、熱い日差しが照り付ける中、私たちは全国大会の舞台となる、近江神宮の階段の先を見上げる。階段を上り、朱色の楼門を抜けると、左側に時計館宝物館がある。近江神宮が作られたのは、実は昭和15年と比較的新しいが、その設立の由緒として上げられるのが、この土地に由来する、百人一首の第1首目「秋の田の…」を詠んだ天智天皇が初めて日本で作った水時計といわれる。百人一首の始まりの場所ともいえるかもしれないな、なんて考えていると、ふっと、頬を風が撫でた。私は、一つの歌を思い出した。

  風そよぐ ならの小川の 夕暮れは
          みそぎぞ夏の しるしなりける

“風がそよそよと吹いて、楢(なら)の葉をゆらしている。奈良の小川の夕暮れ時は、もうすっかり秋のようだけれども、その川のほとりで行われているみそぎの行事だけが、まだ夏のしるしなんだなあ”という意味の歌。禊とは、旧暦六月三十日と十二月三十一日に行う儀式である。旧暦と今では日付がずれてはいるものの、旧暦7月はもう秋だったらしい。

まだ大会が始まってないのに、すぐに百人一首に例えてしまう自分のカルタ好きに苦笑してしまう。そして、「風そよぐ」中、楼門から後ろを振り返ると、さっきのぼってきた階段が伸びていた。振り返ると、ここまで登ってきたんだな、と感じる。予選での試合を思い出し、これは今まで私たちが頑張ってのぼってきた高さでもあるんだなとも思う。でも、まだまだ、これからが始まりなんだ。私たちは、まだ夢へのスタートラインに立ったに過ぎない。

  難波津に 咲くやこの花 冬ごもり
 今は春べと 咲くやこの花

難波津である大阪から出てきた私たちは、どこまでこの高校選手権で咲けるのだろうか。
 不安と期待を胸に、一歩踏み出す。

「よし、頑張るぞ!」
声に漏れてしまった私の決意は、風にかきけされ、その風はまるで私の決意を運ぶように近江神宮の中へと吹いていった。

「不思議山のお狐様」
112203


不思議山のお狐様(前篇)

 甲高い声が山の中に響き渡った。連日の残業疲れのためにうとうとと微睡んでしまっていた私は、突然現実に引き戻された。子供がお遊びで出すような悲鳴などではないただならぬ気配を感じたが、山の梺の公園でいくらざわつこうが何もできないことに変わりはない。
かろうじて膝の上に乗っている文庫本を回収し、一度伸びをする。頭の上から木の葉がひらりと落ちてきた。…なんというまぬけな状態で寝ていたんだ私は。
公園では、先ほどの悲鳴が気になるのであろう、楽しそうに遊具で遊んでいた子供たちが、離れた所で見ていた親のところへ駆けて行くのが見えた。しかし、不思議だ。普通は親の方が先にざわつき始めるものなのに。特にあの、井戸端会議が趣味です、とでも言いだしそうな母親連中が揃いも揃って何をしているんだ。あぁ、井戸端会議に夢中で聞こえませんでした的なやつか。それにしてもあの悲鳴はなんだったんだろう。そんなことを考えながら、どうせ少し演技力のある子供のいたずらだろうとのんびり構えていたのだが。

 「おい、そこの。」
せっかくの休日だし、我関せず、のんびり過ごそうとページをめくり始めた時、非常に憎たらしい声がすぐそばから聞こえてきた。声変わりのしていない少年のような声。でも、どこかで聞いたことのあるような不思議な声だ。…まぁ、私には何の関係もないが。どうせ隣のベンチに座っていた餓鬼共のいずれかだろう。無視だ、無視。私にはこの小説を読み終わるという使命があるのだ。なんだかよくわからない使命感に燃えつつ、10行ほど文字を追っていくと、また同じ声がした。
 「聞こえていないのか。おい、そこの人間。」
 明らかに私に向けて声を発している。しかしなんだ。今時の子供というのは大人に向かって「おい」だの「人間」だのまったくもって失礼極まりない言葉づかいをするものだな。面倒だが声をかけられたのだから顔くらいは拝見してやろうか。大人の威厳というものを見せてやらねば。威厳もかけらもない私が言っても何の効果も得られないだろうが、少し胸を張って声のする方へ顔を向けた。
 「・・・」
 「・・・?」
 誰もいない。確かに声が聞こえたはずだが。聞き間違いか?いや、そんなはずはない。いたずら特有の「話しかけて逃げる」というものなら、走り去ったときの足音が聞こえるはずだ。しかし足音も何も聞こえなかったし、そもそもいつの間にか私のいるベンチの周りには人っ子ひとりいなくなっていたようだ。おいおい、やめてくれよ、いろんな意味で。
 あたりを見回してみると、本当にさっきまでの公園なのかと疑いたくなった。ここで本当に人が誰もいなかったらオカルト的展開になるのだろうが、目を凝らして真剣に探してみると、離れた所にいまだ井戸端会議中の奥様方が見えてほっとした。騒ぎまくっていた子どもたちは母親の足にしがみついているようだった。にぎわっていたはずの公園が静かになっているのも気にはなったが、私が気になるのは、遊具で遊んでいたはずなのに、そんなにさっきの悲鳴が恐ろしかったのだろうか、母親にしがみつく子どもたちの姿だった。しかも、なぜかこっちを凝視している。変な人がいる、という目で。
 ん?まてよ?では、さっきの声は誰が出したものだ?ここからあそこまでは離れすぎているし、最近めっきり運動しなくなったとは言え現役時代にはそこそこ走れた私だ。そんな私が走ったとしても、あそこまで行くには時間がかかるだろう。さてはあの子たちの誰かがこの近くに隠れているのか?可能性があるのは、ベンチの近くに生えている大きな銀杏の木の陰だろうか。

 公園の中にはそれは綺麗な黄色い葉をつけた銀杏の木がならんでおり、木の回りだけでなく、公園中を銀杏の黄色い葉が染め上げていた。ベンチから見える山の紅葉とのコントラストが綺麗である。もちろん、黄色い絨毯のように敷き詰められているのはこのベンチ周辺も例外ではなく。少し足に力を入れてみると、カサリと落ち葉の擦れる音がした。
 「・・・だ、れかいるのか?」
 いたずらにしてはうまいことやるな、と感心してしまっている自分がいるが、とりあえず声をかけてみる。そういえばこれが本日第一声か。声を発していなかったために少しばかり掠れてしまった。返事の代わりであるかのように、銀杏の木が枝を揺らした。
 「誰もいないのか?」
 再度声をかけてみるも、人のいる気配はない。ただ木の葉が掠れる音が聞こえるだけだ。
何もいないようなら本当にただの空耳だ、と本を開きかけた時、足元を白い何かが横切った。
 「!?なんだ!?」
 思わず立ち上がり、ベンチの下に入っていったであろう“それ”を追ってみる。ベンチ下から出てくる気配がないので、意を決して覗き込んでみることにした。
 …180近くもある大の大人がこんな格好をしているんだ、どうせまた子どもたちから変な目で見られるのだろうな、と何とも言えない気持ちになった。子どもから変質者に送るような視線で見られることには慣れている。まぁ今回はぎょっとするような視線で見られても仕方ない、とため息をもらし、四つん這いの状態でぐいっと首をベンチ下へと押し込んだ。地面との距離が10数センチしかないために少し暗く、目を凝らして先程の白い何かを探す。と、何かがキラリと反射した。
 「…ねこ?」
否、きつねだ。
 小さい白いキツネがこちらを見つめ返していた。反射していたのはキツネの目だったようだ。白いモノの存在が何であるかが分かった瞬間、何処かホッとした私がいた。・・・しかし、キツネなんてこの地域に出るものなのだろうか?もっと寒い地域に出るものだとばかり思っていたが…それともキツネに似た他の動物か?まあいい。
 「なんだ、お前。山から降りてきたのか?」
 少し警戒しているように見えるキツネに、声をかけた。こんなナリをしているが、動物は好きだ。言葉が通じるなんて思ってもいないが、話しかけてしまうというのは動物好きなら分かってくれるだろう。赤ちゃん言葉でないだけましだと自分の中で勝手に結論付ける。
 「おいで、恐いことないから。ほら。」
 少しずつ警戒を解いてくれているのだろうか、恐る恐るといった風にこちらに近づいてきた。せっかく近づいて来てくれているのに、顔を突っ込んだままではキツネも出てきづらいだろう。よいせ、とベンチ下から顔を戻し、登場を待つ。
ベンチの下から出てきたキツネは、思っていたよりも大きかった。と言っても、私の腕におさまる程度には小さかったが。もしかしたら、人に飼われていたキツネなのかもしれない。毛並みが驚くほど綺麗だった。白い細い毛がふわふわと揺れる尻尾、金色に見える二つの瞳。子どもの頃よく動物図鑑で見たキツネとは、なんというか、品格さえ違っているような。野生のキツネとはどこか違うな、と思った。
 「よしよし、よく出てきたな。どうしたんだ、お前。どこかの家の子か?家出してきたのか?」
これほどまでに毛並みがいいと、飼い主も捨てようという気持ちは起きない気がするものだが。確実なことなど何もないが、捨てられたわけではなさそうだと勝手に自己完結してみる。未だ完全には警戒の解かれていないキツネは、私の顔をじっと見上げている。そんなに恐い顔をしているのだろうか。恐くないよ、という気持ちを込めてできるだけ笑顔を作り、何気なしにキツネの背中を撫でてみた。警戒している様子ではあったが、素直に撫でさせてくれた。
「おぉ…」
いけない、思わず感嘆の声を上げてしまった。キツネの体はヒヤリとしてすこし冷たく、しかしふわふわとしていてさわり心地が良かった。ちょっとお高めの毛皮のコートでも、ここまでのさわり心地はしていまい。キツネを安心させてやろうと触り始めたのに、いつの間にかそのさわり心地の良さにキツネの背中を撫でまわしてしまっていた。初めは警戒していたキツネの体からだんだんと力が抜けていくのが掌の感触で分かった。まぁ、それに気をよくしてさわりまくっているわけだが。
「おい、人間。何の許可もなく触るとは、失礼だと思わんのか。」
にやにやと(きっと、正面から見たら逮捕されるレベルで気味の悪い笑みだっただろう)毛並みを楽しんでいた私の耳に、先ほどの少年の声が響いた。思わず顔を上げてあたりを見回すも、何の姿も見えない。すぐ近くから聞こえたと思ったんだが。いやでも、キツネに触っているのが見えているのだから、そんなに遠くにいるわけではないだろう。もしやこのキツネの飼い主か。
「どこにいるんだ?すまない、出てきてくれないか。」
さすがに姿が見えないと気味が悪い。人の気配が全くしないのでそろそろ空耳だと思いたくなってきた。キツネを抱く腕に力が入ったからか、キツネが身じろいだ。と、その時。

「ここだ。どこに目がついているんだ」
…ばあちゃん、27年生きてきたけど、こんな不思議な現象に遭遇するなんて思ってもみなかったよ。

 キツネだと思っていたものは、(ぱっと見どうみてもキツネでしかないが)キツネではないらしかった。よく出来たぬいぐるみかなにかで、どこかにマイクでも仕込んであるのだろうと思ってお腹周りをもふもふさせていただいたのだが、いい加減にしろと一喝された。なんとも手厳しい。
そんなお狐様はただ今絶賛毛づくろい中である。
「で、わたくしめに何用でございますか?」
 言葉通り狐に化かされているのではないかと思うが、休日だしまだ私になんの影響もないようなのでそういった薄ら暗い面は無視しておく。地面にそのまま腰を下ろした私は、やることもないので毛づくろいの様子を見ていたのだが。
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・・・・おい」
 散々声をかけてきておいて、いざこちらから歩み寄ってみたらこの態度か。
 キツネはといえば、ちらりとこちらに視線をよこした後、再び毛づくろいに集中しだした。地面いっぱいに広がった銀杏の黄色がキツネの毛に反射してきらきらと輝いて見えるが、今はそれも腹ただしい。
「あの。私も暇じゃないんですが。用がないようであれば帰りますよ。」
 流石にこれ以上わけのわからないものに時間を割くのも馬鹿らしいか、と思い腰を浮かした時、キツネが顔を上げた。
「待て。頼みたいことがある。」
 きらりと光る双眼を見た瞬間、あ、まずったな、という後悔の念が頭をよぎった。

紅く染まった木々の隙間から日の光が差し込んでくる。こうやって山の中を歩いていると、普段会社で感じている疲れが一気に吹き飛んでいくような気持ちになる。モズの鳴き声が山の中に響いていて、さわさわと木の葉の擦れる音が聞こえる。たまに視界の端で紅葉がひらひらと踊るのを見るのはなかなか楽しい。
 秋色に染まった山の中を歩くのは久しぶりで、スキップし始めそうな勢いで歩いていた。(周りから見れば気持ち悪く見えることくらい、よく理解してるつもりだ。)
「どこを見て歩いているんだ洋介、さっさと歩け」 
 肩に乗ったお狐様が尻尾で私の後頭部を叩いてきた。ペシッという軽い音が周囲に響く。
「痛っ。ちょっと、地味に痛いからやめてくださいよ。」
 そうだった。お狐様がいたんだった。
 久しぶりの休日だというのに、よくわからない生き物に懐かれてしまったせいで森林浴すらできないなんて。
「ていうか・・・お狐様、肩に乗るの止めていただけませんか。」
 本当に狐に憑かれているようだから、という言葉は胸の内だけで呟いておく。肩に乗っているはずなのに、お狐様の重みを感じない為に気付くのが遅くなってしまった。決して私が鈍感なわけではない。断じて違う。そしてお狐様、と呼んでいるのも、私が率先して呼びだしたのではないということをここに示しておく。いや、最初に呼び出したのは私だが、敬意を表して呼んでいるわけではないのだ。あまりの上から目線で接してくるので皮肉を込めたつもりで呼んだものが、冗談だと受けとめてもらえなかったらしい。なんということだ。
はぁ、というため息をついて、お狐様の言う目的地へと向かう。山に入ることなんて何年振りか、というくらい久しぶりで、子どもの頃よく実家近くの山を友達と駆け回っていたことを思い出した。中学に入って山遊びもやめてしまったが、あの頃は山全体が私たちの遊び場だったのだ。 
私がなんとも言えない感傷に浸っている一方、お狐様はというと、先程から尻尾で私の背中やら後頭部やらをぺしぺししてきて、大変機嫌が良さそうである。先に言っておくが、たとえもふもふしたものであっても、勢いづいたものに頭を叩かれるのはなかなか痛いものなのである。しかもお狐様の攻撃には容赦というものがない。
「ふん、無駄にでかいナリをしておるんだ、私に肩を献上するくらいどうということもないだろう。」
加えてこの悪態である。
「痛っ。いや、献上していませんから。まだ辛うじて私のものです。あと無駄にでかいって何ですか失礼な。」
「お前の所望していたもふもふだぞ。ほれ、喜ばんか。」
「ちょっと、聞いてるんですか。もふもふは所望してましたが、今はそのもふもふが首をくすぐるんでやめてください。」
「・・・」
「ちょっと、何黙ってるんですか。話聞いてください。首根っこ掴んで放り投げますよ。」
「ほう、人間風情が私に触れるなどと申すか。」
「やっぱり聞こえてるんじゃないですか。」
 この「ものすごい上から目線」にも段々と慣れてきた。何だかんだ言いつつお狐様も悪い奴ではなさそうだし。うん、言いたいことは言ったわけだ。今からすることも許されるだろう。
「すみません、ほんとうにくすぐったいので。失礼します。」
 お狐様の首根っこを掴んで地面に降ろす。お狐様が一度ぶるりと身体を震わせてから此方を振り向いたので、慌ててこちらも立ち止まる。踏んでしまいそうになるから突然止まるのはやめて欲しい。そういう意味では肩に乗っていてもらった方が良かったが、口が裂けても言わない。
「おい、人間のくせに生意気な。私より頭が高いとは何事だ。」
「肩に乗っていたときも私の方が頭は上でしたよ。ていうかそんな理由で乗っていたのなら、頭の上に乗ればよかったんじゃないですか?」
「おお、なるほどな。」
「なるほどな、じゃないです。ものの例えってやつです信じないでください。ほらもう頭の上に跳び上がる準備をしない。」
 後ろ足を曲げて今にも跳びかかってきそうな様子のお狐様に掌を見せて諦めてもらう。
何だかんだ生産性のないやり取りを繰り返すなかで、ようやく目的の場所に着いたらしい。

「これがお社だ。」
 きりっとした(少なくとも私にはそう見えた)表情で2、3歩先を歩いていたお狐様が立ち止まる。
「・・・え?」
 お狐様が顎で示した場所を見るも、林が広がっているだけだった。
さすがにこの林を「お社」と呼んでいるのだとしたらびっくりするのだが、お狐様の様子を見ているとどうやらそういうことではないらしい。しかし、何度見ても林は林のままで。林の奥を見てみても、ただ木が連なっているだけだ。
「・・・」
「・・・」
・・・うん、どうみても林だし、ここはお狐様の視力がおかしいということにしておこう。
「・・・あの、お狐様。林以外何も見えませんが。」
そう告げたとき、お狐様は少し悲しそうな顔をしたように見えた。
「・・・はぁ。力のない者は私の社すら見えないというのだな」
 嘆かわしいことよ、と言いつつ林の中に入っていく。
 ・・・訂正。悲しそうな顔なんてどこにもなかった。あれは私を哀れむ表情だ。そういえば、ばあちゃんが言っていた。キツネは人間を化かすから気を付けろ、って。いまさら思い出したところでどうしようもないけれど。
「ついてこい、力のないお前にも見えるようにしてやる。」
ばあちゃんの言葉を思い出したからか、一瞬このまま帰ってやろうかとも考えた。ただ狐に化かされるのでなく化かす、というのは後々何か起こりそうなので、言われるがままついていくことにした。

 林の中に入る時、何かよく分からない空気の層のようなものを潜り抜けた感じがした。目に見えない為、確かなことは言えないのだが、目に見えない身体にまとわりつくような壁を潜り抜けたような、不思議な感覚だった。もしや細い糸で作られた蜘蛛の巣だったのか?そういえば昔蜘蛛の巣に引っ掛かった時こんな感じに粘り気があったはずだ。思わず振り向いて確かめたのだが、蜘蛛の巣どころか通り抜けてきたはずの林すら姿を消していた。
 ・・・嘘だろ?
「お狐様!林がないです!」
 驚いたそのまま声をあげてしまった。自分の声が思いの外大きく聞こえて、子どもか、と少し恥ずかしくなった。
「なんだ、林がなくなるのは初めてか?」
 さもつまらなさそうな声のお狐様だが、林がなくなるのが普通みたいな言い方されても困る。
「初めてに決まってるでしょう!そこらの人間がこんな舞台型マジックみたいなこと簡単にできると思いますか!」
そんな簡単に不思議体験製造できるなら地味なサラリーマン生活なんて送らずにテレビにでも出てるよ、と心の中でつっこみを入れる。
「ぶたいがたまじっくとは何だ。」
 そうだこいつキツネだった。
「何でもないです。すみません。」
「おい、ぶたいがたまじっくとは何だ?呪いの一種か?答えろ人間。」
 なんだそれはなんだそれは、と足元をくるくる回るお狐様に何でもないですから、と答えていたら、目の前に建物があることに気付いた。
「うわぁ・・・」
 教科書に出てきそうな厳かな作りの神社が目の前に現れた。思っていたよりも大きかったそれに圧倒されたが、足元でニヤついているお狐様が癪だったのでこれ以上何も言わないでおこうと口を閉じた。
「素晴らしいだろう」
「ソウデスネ」
昔ながらといったその神社は、やはりと言っていいのか、人の世にあるものとはどこか違う雰囲気を醸し出していた。心なしか霧のようなものが見える気がする。
「おい、突っ立ってないで歩け。行くぞ。」
妖怪の出てくる小説や絵本などでよくある不思議な世界が目の前に広がっているような、来てはいけないところに来てしまったのではないかと今更ながら後悔してきた。もう私は既にこの時点で、キツネが喋ることが既に不思議であることなんて忘れていたのだった。

「それで、私にいったいどうしろと」
お社の中に入ったはいいものの、御堂のようなところに連れて行かれたまま何も言わないお狐様にしびれをきらして、こちらから切り出してしまった。お狐様は先ほどからお堂の奥の方を見つめたまま動かない。
「私の声が聞こえているから、そこそこ力を持っていると思ったのだが。お主を連れてきたのは失敗だったか。」
やっと声を出したと思ったらこれか。なんと失礼な。
思わず心の声が出かかったが、ここは我慢だ。我慢するんだ。
「ゴホンッ、あー、・・・私の姿、って言ってますけど、たぶんあの公園にいた子供たちにも見えていたと思いますよ。お狐様の姿は。」
 キツネに向かって話しかける大男、という構図はさぞ恐かっただろうな、と思いながら何気なしに告げると、ぎょっとしたように頭だけ振り返った。
「なんと?」
「いやだから、子どもたち遠くでキツネだー!とか言ってたの聞こえませんでした?あの子たちにもお狐様の姿が見えていたんだと思いますよ。」
皮肉で言ったんじゃなかったのか。
本当に私にしか見えていないと思っていたのか、ぶつぶつと独り言を言いだしたお狐様。
「高貴な私の姿が見えるなど・・・いや、そうか。お前のようなものにも見えるんだ、そうだな。うん・・・」
「なんなんですかもう。」
私はいったい何のためにここに連れてこられたんだか。どうやら考え事をしているらしいお狐様の規則的に動く尻尾を見つめていたが、ずっと立ったままでいるのもしんどいしな、と尻尾から御堂へと観察対象を変えることにし、御堂の中を探検してみることにした。
お社に入った時にも感じたが、ここには人の気配がしない。にも関わらず、御堂にくる道中も、手入れが行き届いているようで埃の一つも落ちていなかった。御堂の中も、どこから入ってきているのかは分からないがほのかに光がさしているようで、明るかった。これもお狐様の力なのだろうか。御堂の奥には大きな扉があり、その前には何か貢物のようなものが置いてあった。ここからはっきり見えるほど御堂内の光は明るくなく、丸いものが置いてある、ということくらいしか分からなかった。さすがにこれ以上奥に行くとお狐様に何か言われそうだ、と元いた場所へと戻る。
・・・もうそろそろ良いだろうか。
「お狐様、私は何をすればいいんでしょうか」
いまだにぶつぶつと独り言を言っていたお狐様の背中に声をかけると、お狐様の尻尾がピタッと動きを止めた。ゆっくり振り返ってこちらを見てくる眼光が思った以上に鋭くて、自然と背筋が伸びる。
「お前に調べて欲しいものがあるのだ。」
そう言って奥の貢物を顎で示してきた。
「・・・とってこいと?」
「お前の方が大きいんだ、取ってこい。」
「体の大きさと物を取りに行く関係性が全く分かりませんが、話が進まないので取ってきます。」
先ほど探検していたときには見えなかったが、やはり奥の扉はとても立派なものだった。鉄でできている格子の奥には幕がかかっているのか、かすかに何かがあるのは分かるが、目をこらしてもよく見えない。気にはなるが、神社で言うところのご神体か何か祀っているんだろうと適当に納得し、貢物を見てみる。
丸いよく分からない物体や、たぶん果物だろうものまでさまざまなものが置いてあったが、並んで置いてあるものの中で一つだけあれ、と引っかかった。
「お狐様、これですか?」
貢物の中心に置かれていた小さな鏡のようなものを指で示す。それだけ他の不思議な空気をまとった貢物達とは違い、どうみても古く、かつて人間が使っていたのであろう雰囲気が感じられた。
「・・・そうだ。それだ。」
お狐様の瞳が懐かしそうに見えたのは気のせいだろうか。あまり深く追求すべきではないのだろうな、と見なかったことにして、触っていいかとだけ聞いた。
持ち上げたそれは、私の手のひらに納まってしまうほど小さく、何十年も手入れされていないように見える。泥がところどころについたままかぴかぴに乾いてくっついており、鏡の中にいる自分自身の姿が濁って見えるほどだった。
「えっと、これをどうするんですか。」
紋様のついた小さな手鏡をお狐様の眼前に捧げてみる。少し動かしただけでぽろぽろと泥が落ちてきた。
 「持ち主を探してほしいのだ。」
手鏡を見つめたまま数十秒。返事を待っていたら、ようやく答えが見つかったらしい。
 「持ち主、って、この手鏡のですか?」
 「あぁ。もちろんそれだ。」

 お狐様の話は、簡単に言うとこういうことだった。
 昔、お社に迷い込んできた子どもがいた。突然に林がなくなるという不可思議な現象と、それに呼応するかのように現れる厳かな建物に驚いたのか、不安だったのか、あるいは両方か。子どもは泣いてしまって、帰りたいと叫んでいたそうだ。
 「昔から山を通る者が私の社を見てしまうことは多々あった。林を歩いているうちに迷い混んできてしまうらしい。しかし、あのような幼子は初めてであった。」
 泣いてばかりの子どもに、最初はお狐様もどうすれば良いか分からず、困り果てていたようだ。
 「従者の姿も見えんし、ましてや高貴な私の姿など力のないものには見えん。」
 「(従者?)・・・じゃあどうしたんですか?」
 こちらはどうなったのか心配して聞いているというのに、お狐様は呆れた顔でこちらを見てきた。
 「お前は今何を見ている」
 「・・・は?・・・あぁ、なるほど」
 泣き止まない子どものために、文字通り"キツネ"へと姿を変えて、子どもの前に現れたらしい。
 突然現れたキツネに最初は驚いた表情を見せていた子どもも、ふわふわした毛並みと可愛らしい風貌にだんだんと笑顔になっていったそうだ。(勘違いしないでほしいのだが、可愛らしい、というのはお狐様自身が言った言葉だ。)
 「『きつねだ!』と言って私の体に顔を埋め、ぎゅっと力任せに抱きしめられた。人の子というものは加減を知らんのか?非常に苦しかったぞ。」
 口調はいかにも憎々しいとでも言わんばかりだったが、一つ一つを思い出すように話すお狐様は優しい目をしていた。・・・私に向ける顔と全く違うのはどういうことなんだろうか。
 まだ人の言葉を話せなかったのでお狐様から問いかけることもできず、、泣き止んだ子どもがたどたどしく話す内容から、その子が山をおりたところにある村の子どもだということを理解していったらしい。しかし、早いとこ村へ帰そうと思っても言葉が通じないために四苦八苦したそうだ。
 「どうすればいいのか分からなくてな。ただその子が泣かないようにとだけ考えていた。」
 「優しいじゃないですか」
 「優しいのではない。泣かれると煩いからな。私は煩いのが嫌いだ。それだけだ。」
 「へぇ・・・」
 ニヤニヤしてお狐様を見ていると、膝を尻尾で叩かれた。痛い。
 「毬を出して遊んでやった。後を追っかけてやると喜んでおったわ。」
 外からお社が見えないように、お社からも霧に隠れて外が見えないので、唯一、微かに聞こえる外の音だけを注意して聞いていたそうだ。その子の母親が子どもを探しに山に入ってくるとすぐに分かるように。しかし、いつまで経っても探しに来ない。いつの間にか二日が過ぎてしまっていた。

「星の行方」
112111


ショータはステージの裏に立っている。遠くから歓声が聞こえる。自分の名前を叫ぶ声が聞こえる。ショータはただただ消えたかった。
 
そこスタッフが歩いてきて、
「ドアが閉まるからねー。」
と言った。
 
早く、早く・・・、早くこの世から消えたい。その願いはもう三年前のあの決意をしたときから想い続けていた。
 そう、このステージは最後の晴れ舞台。
俺の最後のステージだ。
見ていろ、俺の生き様を!

足元には、「ここで止まれ」と書いた紙がある。舞台裏は暗い。そんな暗闇でも分かるように文字は蛍光色で書かれている。そんないまさらなことを思った。ショータを乗せたせりが上がっていく。上の方にヒカリが見えた。
眩しすぎる照明。自分の登場に湧く観客の声。もうそれを目にすることも、耳にすることもないだろう。自分のことを待っていてくれるファンはたくさんいるのだろうけど。

ごめんね。
俺は君たちを裏切るよ。
この公演が終わるとサヨナラだ。
キラキラと輝くこの場所はいつだって幸せな気持ちにしてくれたよ。
自由奔放で迷惑と心配ばかりかけてきた俺の最後のワガママを聞いてくれ。
いつもカメラ目線でかっこつけて、そんな自分が大好きだった。
隙あらば小ネタをはさんでアピール。
あと、ちなみに俺はトンチキなやつなんかじゃないからね!?みんな変わり者だなんて言うけど、俺いたって普通だからね!?

ステージのセンターにアイツ、ユウタと二人並んで立った。3年ぶりに隣で歌う。観客はその姿により一層大きな黄色い悲鳴をあげた。ふとアイツと絡んだ視線。俺だけに分かるようにひっそりと柔らかく微笑んだ。ただそれだけで、少し気持ちが浮上した。その笑顔がもう一度自分に向けられる日がくるなんて、思いもしない時期もあったのだから。ふにゃんと微笑んだアイツの姿はあの日のままだった。

まだまだ若かった頃、アイツと俺は二人でいるのが当たり前であるかのようにいつだって一緒にいた。歌のレッスンも、ダンスのレッスンも。他にも同じように練習している同年代のやつらはいたけれど、ショータにとってユウタは特別な存在だった。年下のユウタはショータを兄のように慕い、ショータも弟のようにかわいがっていた。ひとりっこだったショータには弟ができたみたいでとてもうれしかったのだ。

「ショータ、このコーナーで優勝したら、お前を北海道旅行に一緒につれていってやる。」

テレビ番組のゲームコーナー。かっこつけてそう言ったアイツがなんだか可愛くてそれもいいなと思ってしまった。

「ユウタ、てめー、生意気なんだよ。一緒に来てくださいだろ?(きゅうううんん!!!そんなこと言うほどオトナになったんだねえええ!!!お兄ちゃんうれしいよ!!!)」

素直に気持ちなんて伝えてやらなかったけど。結局、俺が優勝して希望していた沖縄旅行になった。そしたら、今度は、

「俺も沖縄つれてって。ねえ、ショータいいでしょ?」

「(〜〜〜うううう、かわいい弟の頼みごとだあああ!!!お兄ちゃんいいところ見せるべき!?!?!?)」

年下っぽく甘えてきやがった。俺がその目と声に弱いのを知ってて。いつだってそのふにゃんとした笑顔がにくたらしかった。そうして、流されるままに二人で沖縄に行ったんだ。今思えばアイツのしたたかさや、計算されたかわいこぶりっこはこの時から始まっていたのだ。弟キャラを全面にだしてくるアイツになんだかんだ俺は甘かった。俺だって、俺だって、本気を出せばかわいくきゃぴるんってキャラできるのに!

絡み合った歌声、隣で踊ったダンス。そのすべてが心地よかったし、周りも徐々に二人を認めはじめた。ステージでは、二人でセンターに立たせてもらえるほどにまで成長していった。グループの中でだって、二人はペアだった。

「俺、ショータの隣で歌ってるときが一番好きだ。俺の声をお前のきれいな歌声が包み込んで上へ、上へと押し上げてくれる。2本のリボンが絡み合うみたいにくるくると巻き付いて豪華に綺麗になるんだ。」

いつもは騒がしい楽屋でたまたま二人きりになったときアイツが言った。

「いきなり、何はずかしいこと言ってんの。(デレ期キタコレエエエエエ!!!え、そういうの今言っちゃう?え、いつも俺に対してツンツンじゃん?うわああああ俺今報われてるうううう。)」

めずらしく素直なアイツに返事なんて返せやしなかった。

「俺、お前の歌好きなんだよ。だから、俺の隣でずっと歌ってろよ。」

真剣な顔してアイツは言った。

「もう、ほんと今日のお前なんなの。珍しく素直だし。まじ調子狂うわ。つーか、なんで上から目線なんだよ。ずっと隣で歌ってろとか。(いや、ほんとなんなの!?どうしちゃったの!?さりげなく俺の未来決められちゃってるし!!!でもそんなところもいいよ!!!あぁ、それでも、やっぱり、うれしい、な…)」

「あー、ショータが照れてるー!ほんとは嬉しいくせに。正直になりなさい。」

やっぱり、俺は素直な返事なんてできなかった。アイツの言うとおり、内心喜んでいる自分もいたのだけれど。本音なんて言ったらアイツが調子にのるだけだ。だから、アイツにとって俺も唯一無二の存在だと思ってくれていると信じていた。

けど、年月がたつにつれて、いつの間にか二人の間に大きな壁ができていた。先に壁をつくったのは俺か、アイツか。それとも周りの大人たちがつくったものだったのか。隣で笑い合っていた2人は視線を交わすことなく背を向けてちがう方向を見続けた。こうして二人の関係は氷河期を迎えた。

もはや、きっかけは何だったのか思い出せない。少しずつ、でも、着実に距離は開いていった。俺の後ろをついてきていたアイツがいつしか隣に並ぶようになり、ついには一歩前を歩くようになっていた。それは嬉しいことだったけれど、悔しいことでもあった。二人のまわりには嫉妬と眺望が渦巻いていた。

そんな二人には関係なく、ステージの回数を重ねるごとに人気が出てきた。そして、ついに大ブレイクした。自分たちは何ひとつ変わっていないのに、まわりの環境が目まぐるしく変化していく。何が何だかわからないままに、毎日与えられた仕事をこなしていた。

人気が出るのはいいことばかりじゃなかった。行き過ぎたファンのストーカー紛いの行為の急増。マスコミからの批判。精神的負担が多くなった。

ショータはいつの間にか追いつめられていた。心のどこかが崩壊していくのを感じた。気の合う仲間たちと夜の街に繰り出し、はしゃいでみたけれど、満たされない。オンのときの自分とオフのときの自分。バランスをとることができなくなっていった。臆病な自分を守りたくてバリアを張った。これ以上だれも自分に近づいてこないように。以前はよく見せていた全開の笑顔も仕事ではほとんど見せなくなった。架空のショータを作り上げ、それを演じるようになってしまった。過度なリップサービスやファンサービス。求められれば答えてしまう。新たなファンを獲得するために、飽きられないように。気づけば、あからさまアイドルと言われるにまでなっていた。

そんな俺をアイツはあきれた目をしてみていた。

テレビをつければ、お昼のワイドショーで俺とアイツの不仲説なんてものがおもしろおかしく報じられていた。アイツは自分の見せ方を分かっている、努力の天才だ、真面目だなんて紹介されている。俺は人を引き付けるオーラがある、生まれながらにして天才だ、カリスマだと言われた。そんな正反対の二人はお互い相容れないのでしょうだなんて知ったような口を聞かないでほしい。
それも所詮イメージでしかないだろ。天才?カリスマ?やめてくれ。俺はそんな人間じゃない。きっかけはたしかに俺がつくったけれど、いつの間にかキャラが独り歩きしてるじゃないか。まわりがそう仕立て上げただけなんだ。

ショータは後輩にとっても憧れの人となっていった。何人かはショータのことが本当に大好きだった。それはもう、信者であるかのように、ショータに心酔していた。

あるときショータは気の許せる遊び仲間だった後輩に本音をもらした。その後輩にも相方と呼べる存在がいた。その相方はショータに憧れ、心酔しきっていた。

「俺は天才でも、カリスマなんかでもないんだよ。まわりが勝手にそう思ってるだけなんだ。」
後輩は何も言えなかった。

「ほんとはアイツの方がスゲーやつなのにな。アイツは努力家で野心家だ。まだまだ、上にいける。それに、こんな俺でも、呆れながらでも、相方でいてくれる。ハハッ、女々しいな、俺。こんな関係になっちまったってのに。まだ、アイツが俺のこと見ててくれてるんじゃないかって期待してる。」

「あの人は、ユウタさんは、きっとショータさんを見捨てたりしないと思います。ショータさんの隣に立っていると思います。二人はお互いに特別な存在なんでしょう?2人出会って輝いたのは運命だったんでしょう?少なくとも俺たち後輩はあなたたちの背中を見続けてきました。いつだって2人は綺麗な歌声と最高のパフォーマンスを見せてきたじゃないですか。」

「そうなのか、な・・・。お前らはこんな風になんなよ?こんなの辛いだけだ。」

後輩はまた何も言えなくなってしまった。後輩は自分の相方のことを思い出していた。

ある日のテレビ番組の収録。その日は憧れだった先輩とも会えてショータは久しぶりにテンションが高く、大口を開けて笑った。

「ったく、これだからショータは。」

「もう。そんなこと言わないでいいじゃないですか〜。」

「また今度、メシ一緒に行こうな。」

「やったー。イイとこ連れてってくださいね。絶対ですよ。」

収録の内容を思い出して、やっぱ俺あの人だいすきだなーなんて思いながら、歩いていると、スタッフに声をかけられた。

「ショータ君、お疲れ様。」

「おつかれさまです。」

「今日はいつものショータ君と少し違ったね。なんかショータ君っぽくなかったよ。みんな、キラキラ王子様なショータ君を期待しているんだからさ。」

そう言って、俺の肩を叩き、笑いながら通り過ぎていった。
気分は急降下。俺が大口で笑うのはだめなのか?くだらないノリに乗っかるのはダメなのか?世間が求めるのはいつでもキラキラオーラ全開のショータ。本当の俺はどこにいる?
とうとう、ショータは疲れ切ってしまった。グループを抜けたい。この世界から離れたい。そのことをメンバーや関係者に伝えた。三年前の暑い夏の日のことだった。
その時、ショータはだれにも内緒で一人、賭けをしていた。九十九パーセント負けると分かっている賭けをした。残り一パーセントの勝率にすべてを懸けた。賭けの内容はいたって簡単だ。アイツが俺を引き留めるかどうか。アイツが少しでも、俺を必要としてくれるなら、ずっと隣でいようと。

俺は意を決して言った。

「俺、このグループを抜けたい、です。芸能界をやめたいです。」
「ねぇ、なんで?ショータくん!」
「どうした?」

メンバーは口々に「なぜ?どうして?」と言ってきた。そんな中、アイツは一言も発さずに俺を見ていた。そんなアイツに他のメンバーが
「ユウタも何か言えよ。」
と言った。

「それはもうショータの中で決まったことなんだろ?あんなにステージが大好きで天職だと言ってたお前が生半可な覚悟で言ってるわけじゃねえんだろ?それなら、俺はお前の決めたことに口出しはしない。」

アイツは俺をじっと見つめたまま、そう言った。

俺は賭けに負けた。

どうやら、アイツにとって俺はもう必要がなくなったみたいだ。用がすんだら、興味をなくしたらしい。俺が隣にいなくてもアイツはやっていけるんだ。

いや、違う。

本当はずっと分かってた。知らないふりをしてきただけだった。アイツはずっと俺を見てくれていたから。俺が辛くて苦しくてひとり楽屋の隅で泣いていたときも。いつだって俺を支えようとしてくれていたって。そんなアイツだから、無理やり俺を引き留めるなんてしないだろうって。口が悪くて、俺様で、俺と同じぐらい自由きままで、テキトーで、わがままなアイツだけど、本当は優しいやつなんだって知ってるから。だから、俺がこれ以上ボロボロにならないように、壊れてしまわないようにそう言ったんだって。

しかし、すぐにグループを抜けることはできなかった。事務所の大人たちがそれを許さなかった。

「ショータはまだまだ輝けるじゃないか。どうした?一体何が不満なんだ?」

どうやら、俺にはまだまだ使い道があるらしい。

「ショータ、お前は分かっているのか?お前には、このグループにはどれだけの金がかかっているのか。スポンサーへの対応も必用なんだぞ。」

お偉いさん方はそう言って俺を引き留めようとした。

「いいよ、ショータ。君の好きなようにしなさい。」

そんな中、社長がそう言った。

「しかし、社長。ショータには」

「君たちは黙っていなさい。」

そうして俺のほうに向きなおして言った。

「君がやめたいというならば、やめたってかまわない。しかし、すぐにそうさせてやることはできない。仕事のオファーはたくさんある。それから、君はもう世間に顔と名前が知られすぎてしまっている。普通の生活が送れるかどうかは分からないよ。それでもいいのなら、君の要求を受け入れよう。」

「・・・ありがとうございます。」

「ショータをこの世界に引き込んでしまったのはこの僕なのだから、責任はとるよ。街中で君を見かけたとき、この子はダイヤの原石だと思ってスカウトしたんだ。僕の読み通り、君は第一線で輝けるまでに成長したね。だけど、君は純粋すぎた。この世界に染まりきることができなかった。素直すぎるんだよ。ショータがこの世界からいなくなるその日まで、僕は君を全力でプロデュースするよ。それが、僕の責任だ。」

結局ショータは三年後にやめることで話し合いは落ち着いた。それからの三年間もショータは世間とのギャップに苦しみ続けた。しかし、楽しいこともあった。

「ショータ、今度久しぶりに二人でメシ食いに行こう。」

「えっ、俺で、いいの、か?(うわっ、まさか誘われるなんてええええ!!!俺、どんな顔すればいい?何着ていけばいい?)」

「お前がいいから誘ってんだろうが。それとも何?お前は俺と行くの嫌なのかよ。」

「そっ、そんなことない!まさか、お前から誘ってもらえるなんて思ってもなかったから。だから、驚いただけ、だ。(うわあああツンの部分出してきたああああ!!!せっかくの貴重なデレが!)」



アイツとの関係が修復されていった。長かった冬が雪解けを迎えた。昔までとはいかないけれど、俺とアイツはまた笑いあうようになった。




この公演は始まったばかり。最高の笑顔と感動を観客に届けなくてはならない。アイツと息を合わせて歌い始める。俺の最後のステージをしっかり目に焼き付けておいてくれ!俺は最後までみんなの王子様でいつづけるからね!
















「はい、カットカットカーーーット!!!誰がさせるかこんな脚本!!!」

「ちょ、ちょっと!ユウタなんで止めちゃうの!」

「世界に入り込みですヨー。ショータ君。」

「よくこんな大がかりな脚本書けましたね…。」

「ちょっと、みんなまで!俺の最高傑作なんだから!はい、はやくユウタはこのセリフ言って?ちゃんと感情込めてよ?切なげに微笑みながら言うのがポイントなんだからね?」

『ショータ、俺にとってお前はかけがえのない存在だったんだ。ずっと隣でいたいと願ったのは嘘じゃないよ。だけど、俺はお前と一緒に堕ちていくことはできない。俺にはここしかないんだ。俺はこの場所でしか輝けない。今までありがとう、ショータ。お前がいたからこそ、俺がダメになりそうになったときだってお前が手を差し出して引っ張り上げてくれたね。お前は自由になったんだ。俺のそばを離れて、キラキラの王子の皮を脱ぎ捨てて、幸せをみつけるんだよ。』

「誰が言えるか、こんなセリフ!なげーよ!爽やかすぎるだろ!俺こんなこと言うキャラじゃないし!」

「そんなもったいぶらずに言ってよ〜.いいじゃんか〜ユウタのケチ〜。」

「うるっせえええええ!!!駄々こねんな!年上のくせにめんどくさい!」

「ひど〜い。たまには年上を敬えよ〜。先輩を敬えよ〜。」

「先輩だってたった1週間の差だろうが!はい、この話は終わり!お前の長編妄想も終わり!撮影俺らの番だぞ。」

「えっ、もうそんな時間!?やばっ!ユウタ先行かないでよ!?急いで準備するから!」



慌てて支度するショータは気づかなかった。ユウタがそんな姿をあのふにゃんとした笑顔で見つめていることも、一言漏らしたつぶやきにも。



「お前が輝けるのは俺の隣にいるときだろう?俺たちが隣にいるのは運命だ。そんな簡単に手放すわけがない。」



ショータとユウタはスタジオへの廊下を2人並んでバタバタと走ってていく。今もっとも重要なのは撮影の時間に遅れないことだ。そしてファンのもとに最高の笑顔を届けるだけだ。今日も2つの星は隣で輝く。

「せみの抜殻」
112208


くまぜみの鳴き声が騒がしく、入道雲が、窓の外に大きくそびえたっている。つけっぱなしのテレビから聞こえる音を、ただ何となく聞き流しながら、彼はずっと窓の外を見つめていた。
最近はやけに暑い日が続いているようだ。天気予報でも毎日『記録的な暑さが……』などと騒いでいる。空は青く、眩い太陽の光が窓から差し込んでくる。
大学生になり、夢にまで見た一人暮らしが始まった。新しい部屋は、5階の、日当たりも眺めも良いところだった。最初は、慣れない場所で、全く落ち着かず、違和感ばかり覚えていたが、一人暮らしが始まり、もうすぐ3か月、それだけの月日が経とうとしている。
彼はベッドに横になりながら、窓の外をずっと眺めていた。明るい日の光が、木々に降り注ぎ、青々と茂らせた葉を揺らしながら、まるで何か楽しそうに語り合っているように見える。
近くに市民プールがあって、この時間になると、少し大きめのプールバッグを振り回しながら、楽しそうに走ってゆく小学生の姿が見受けられる。「あまりふざけすぎるなよ」と彼は心の中で思いながら、彼らがじゃれあいながら走ってゆく姿を眺めていた。
そっと風が舞い込んできて、部屋のカーテンを揺らした。風は優しく、彼の頬をなでた。夏の匂いがする。それに誘われるように視線を動かしてみようと思ったのだが、彼はやはり、窓の外をじっと見つめていた。
彼の部屋には、飾られた花瓶の横に、四角い木製の写真たてが置いてある。その写真には、彼の家族の姿が写っている。引っ越しの日に、自分が寂しがるといけないからと言って、母が無理やり置いていったのだ。彼の家族は、彼のほかに、父と母、それと、妹のチカ、そして、祖父がいる。
写真にはもう一人、年をとった女性が写っている。彼の祖母である。祖母は去年の冬、他界した。優しい祖母で、彼も祖母のことが大好きだった。しかし、そんな思い出のたくさん詰まった写真が、今では彼の目に触れることはほとんどなく、申し訳なさそうに、花瓶のそばにひっそりと、たたずんだままになってしまっていた。
――お盆が近づくこの季節になって、ふと、彼の中に昔の記憶がよみがえってきた。


 彼の実家は農家だった。毎年稲を育てて、収穫していたが、稲作は祖父がほとんど一人で行っていた。彼が生まれた頃から、祖母も農業を手伝うようになり、米だけでなく、ブドウの世話も行うようになった。ブドウ畑と呼ばれる畑は、山の急斜面にあって、彼の祖母が、毎日そのブドウ畑でブドウの世話をしていた。
祖母は毎年ブドウを収穫すると、それを絞ってブドウジュースを作ってくれたり、収穫したブドウを凍らせて、シャーベットを作ってくれたりした。
当時小学生だった彼は、祖母のことが大好きで、その手伝いをするために、学校から帰ると、毎日、ブドウ畑へ自転車を走らせた。
祖母が働いていた場所は、山の中腹あたりの区画で、そこまでは自転車が一台走れるくらいの細い道が通っていた。山の斜面は、緩やかな上り坂であったが、自転車で登るのは、当時小学生の彼には少し辛かった。しかし、祖母がそこまで自転車で登っているのだから、自分も頑張らなくてはと、重いペダルを、前に前にこぎすすめて登るのであった。
 その日もいつものように、彼は学校から帰ると、ランドセルを置き、少しばかりのおやつと、水筒に残っている麦茶を肩からかけて、ブドウ畑へと自転車をこいだ。
畑の入り口まで来たとき、彼は、いつもは目にすることはない救急車が、畑のある山のふもとに止まっているのを目にした。今到着したばかりらしく、運転席と助手席から、人がどっと降りてきて、何か慌ただしく作業をしているようだった。彼は不思議に思いながらも、その横を通り過ぎ、祖母が仕事をしているいつもの場所へと向かった。
山はいつもと違って、騒然としていた。木々は低くうなりながら枝を揺らし、不気味にとどろいている。向かい風に目を細めながら、彼はいつもの角を曲がりかけた。彼は突然、ブレーキを握った。キキ―っと耳をつく音が鳴り響いた。祖母が仕事をしている場所に、今日はたくさん人が集まり、何か心配そうに話し合っている。ブレーキの音が響く間に、彼は全てをさとった。
「ちょっと、どいて、どいて!」タンカを走らせた救急隊員が、固まっていた彼の横を通って行った。運び出されたのは間違いなく祖母であった。彼は、少し離れたところから見ていたけれど、頭を抱え、まるでゆでられた海老のように丸く縮こまったそれは、やはり彼の祖母だった。
それを見て、彼は恐怖と困惑で全く動けなくなってしまった。タンカで運ばれる祖母を彼は追うことができなかった。山のふもとで救急車のサイレンが鳴り響いた。そしてそれはあっという間に、小さくなり、やがて聞こえなくなってしまった。
事情を知っていた久保田のおじさんが、何があったのかを彼に話してくれた。
彼は、ひとまず家に帰ることにした。家ではすでに連絡があったらしく父も母も、バタバタと用意をして、病院へ行ってしまった。彼は、チカと二人、祖母の無事を祈ることしかできなかった。4時間程たってからだった。父が家に帰ってきた。しかし、その眼は喪失感をまとっていた。彼はチカと一緒に病院へ連れていかれた。
……祖母は一命をとりとめたらしい。彼はひとまず安心した。では、父のあの目の理由はいったい何だったのだろうか。
病院につくと、祖母のいる病室へ案内された。彼は祖母と対面した。そこには、酸素マスクを装着され、さまざまな管でつながれた祖母の姿があった。
すっかり変わり果てた祖母は、ピクリとも動かずに、ただ死んでいるかのように見えた。彼が来たのを見て、叔父さんが祖母に呼びかけた。「ばあさん、孫が来てくれたよ……。

 ――ショクブツジョウタイ。小学生の自分には全く理解できなかった。父も母も、祖父も、医師にそう告げられたと言っていた。


救急車の音が少しずつ大きくなり、さっきまでのくまぜみのせわしい鳴き声が、かき消された。それが通り過ぎるのと同時に、彼ははっと我に返った。窓の外の入道雲はまた一段と大きくなり、いつの間にか、日の光は一層白く降り注いでいた。
彼はふと、隣の部屋が少し騒がしいことに気が付いた。よく考えてみると、今日一日、ずっと騒がしかったような気がする。「隣に誰か引っ越してきたのかな……。」彼はそんなことを考えていた。
これまで、隣の部屋については意識することはなかったけれど、これまで誰も生活していなかったのだろうか?隣の部屋のことは、彼は何も知らなかった。というよりも、何も知らされていなかったのだから、知らないで当然である。どんな人が引っ越してきたのだろう。
彼は少し隣の部屋の様子が気になった。そして、少しだけ、隣の部屋に意識を向けてみた。人の声がする。彼の部屋のドアの向こうで、誰かが話をしている。
「……どうもありがとうございました……お世話になりました……。」「ん?ありがとうございました?」彼はふと、疑問に思った。そして、少し考えて、「そうか、お隣さんは今日から新しい場所に引っ越すんだ。どうも、今日一日ばたばたしているなと思っていたが、引っ越しのための荷造りをしていたんだな。今日まで毎日静かなもんだから、隣には誰もいないと思っていたが、実は隣の部屋でも、誰か生活していたんだな。」と、彼は思った。隣の部屋では、彼の想像通り、荷物の片づけが行われていた。きっと自分の部屋が気に入らなかったか何かだろう――、彼はその程度に考えておくだけにした。
それからどれくらい経っただろう。日の光は、ゆっくりとオレンジ色に変化し、くまぜみの声もどこかへ消えてしまっていた。彼はふと、隣の部屋が、またしんと静まり返っていることに気が付いた。「どうやら荷物の整理も終わって、無事に引っ越しも済んだんだな。」
彼は、静かになったことにほっとしながら、相変わらず窓の外を見つめていた。
今日はなぜかすがすがしい。冷房をつけなくても、窓を開けているだけで、ずいぶん快適に過ごせる気温である。優しく吹く風は、昼間の通り、窓のカーテンを揺らしていた。
彼はまた、ふと始まったばかりの夏休みを振り返ってみた。そういえば、まだ今年はスイカを拝んでいないなということを思い出した。「そういえば、ずいぶん前だが、祖父が知り合いからもらってきてくれたスイカを、みんなで食べたこともあったなあ――。」窓の外に再び意識をやると、今度は部活終わりの中学生たちが、自転車で群れをなして下校していた。


 6年前、中学三年生だった彼は、高校入試のための受験勉強に追われていた。特に夏休みは、毎日塾に通い、彼も、「今年は勉強した思い出しか作れないだろうな」と、半ばふてくした気持ちで夏休みを過ごしていた。ところが、お盆のある日、家族でスイカを食べながら、花火をして、楽しい思い出をつくることができた日が、一日だけあった。地獄の日々が続いていたのでこの一日だけの楽しい思い出は、よく覚えている。父も母も、祖父も、チカも、彼もみんな楽しい夏のひと時を過ごすことができた。
その3日前、病院へお見舞いに行ったときのこと、祖母は相変わらず、病室のベッドに寝たまま、天井を眺めていた。お盆も近くなり、担当の医師から、祖母を家に連れて帰ってあげたらどうかという提案をされた。父も母も祖父も、それがいいと思って、今年のお盆は実家へ連れて帰ってあげることにした。実家にベッドが運び込まれ、祖母も父に運ばれて、ベッドの上に仰向けに寝かされた。祖母は、ずっと天井ばかり見つめていた。もちろん酸素ボンベをつけた状態でなければならないから、祖母のベッドの周りにはいろんな機械も設置された。それでも、そんな祖母と一緒に、スイカや花火を楽しんで、久しぶりに家族全員の思い出を作ることができたのだった。
けれども、彼は、本当に、全く動かない祖母を見て、その現実をどうしても受け止めることができなかった。「気分はどう?」彼は時々祖母に話しかけた。けれども、祖母は反応するどころか、瞬きもせずに、ただじっと天井を見つめるばかりだった。「なんで返事してくれないの?そんなの、おばあちゃんじゃない!」彼は一方通行の触れ合いに嫌気がさし、そんなひどい言葉をかけてしまうこともあった。
今思うと、祖母にもし、意識があったのなら、自分は本当になんと残酷なことを言ってしまったのだろうとくやまれるのだった。
結局、彼は祖母に謝ることができないまま、祖母は秋の終わりに、病院で息を引き取った。
彼は、自分を恨んだ。どうして祖母に、もっと優しい言葉をかけてあげなかったのだろう。植物状態になってしまってもなお、祖母は確かに生きようとしていたのである。確かに、祖母はそこに生きていたのだ。それなのに――彼はどうしてあんなひどいことを言ってしまったのだろう。今になってとりかえしのつかないことをしたと嘆いていた。
彼は、祖母が発作で倒れた日、何もできなかった自分を悔やんでいた。当時小学生だった彼は、彼なりに、自分の無力さに絶望していたのだ。祖母を亡くした彼は、自分が将来、医者になって、これからもっとたくさんの命を救いたい、自分と同じ、悲しい思いをする人がこれ以上生まれないように、と思うようになっていった。
その目標が彼の中で、決定的なものになったのは、祖母が亡くなって、すぐあとだった。彼は、医者になることを目指して、勉強し、学区内トップの進学校に入学することができた。彼は、高校でも成績が優秀で、将来有望だと誰からも期待されていた。
そんなある日、彼はいつものように予備校での授業を終え、友達の洋介と二人、自宅へと帰宅しようとしていた。
「なあ、洋介、お前将来何になるつもりなんだ?」彼は、何となく洋介に尋ねた。
「俺か?俺は、今は何になりたいとか、特にそういうことは考えてないなあ……。お前はどうなんだよ。」
「俺かあ、俺はな、医者になろうと思ってんだ。ばあちゃん、俺が小学生の時に植物状態になっちゃったんだけど、俺、そん時、なんにもできないのがすごく悔しくて……、今でもよく覚えてるんだけど……」彼は言葉に詰まった。洋介がすかさず聞いた。
「悪い病気だったの、おばあさん。」
「いや、発作だよ。救急車で病院に運ばれたんだけど、間に合わなかったみたいで……、後で親父と、ばあちゃんとこ行ったんだけど、そんときには機械をいっぱいつけられて、もうダメなんだってすぐにわかった。」彼は下を向いたまま続けた。
「俺はばあちゃんがいなくなるのが怖くて何もいえなかったんだけど、一緒にいたおじさんが、『ばあさん、孫が来てくれたよ』って言ったとき、それまで全く動かなかったばあちゃんが、何かを伝えようと必死で口を動かしているのが見えたんよ……。」
彼らの歩く歩道の横を、何台も自動車が追い越していく。信号が赤に変わって、彼も洋介も足をとめた。
「おばあさんは何て言ってたの?」洋介が彼の顔色を見ながら、尋ねた。
「わからない……。それがばあちゃんが最後に残してくれた生きた証になっちゃったから。お医者さんは。酸素を与え続ければ……、植物状態になってなら、生き続けることができますよって……。どうしますかって……。」
信号が青に変わった。とおりゃんせが低く鳴り響いた。彼は話すのをやめ、それ以上は語らなかった。冬の冷たい木枯らしが吹き始め、秋の気配もすっかりと消え失せようとしていたころのことだった……。

 空はもうすっかり夕焼け色に染まっていた。
 ……なぜだろう。なぜ、洋介と話した、この時の記憶だけがこんなにも鮮明に思い出されるのだろう。自分の頬に、涙が流れるのを感じた。
……俺は、泣いている……。


木の葉の揺れる音とともに、どっと風が吹き込んできた。カーテンは先ほどよりも激しく波打ち、彼のほほを先ほどよりも勢いよく吹き抜けっていった。それと同時に、ドアをたたく音が聞こえた。誰だろうと思って、しばらく何も言わないままでいると、ドアが開いて誰かが入ってきた。
「お盆になったら、実家に帰ってくるんじゃないかと思って、先よみして迎えに来ちゃったわよ!」あかぬけした母の声だ。間違いはなかった。どうやら鍵をかけ忘れていたらしい。彼は、母の突然の来訪に驚いたが、ちょうどお盆の時期は、実家に帰省したいと考えていたので、いいタイミングだとも思った。
妹のチカも一緒のようだ。「こら、チカ、ちゃんと手を洗いなさい。」チカが部屋に走り込んできた。彼は、先ほどの涙を拭きとってしまいたかったが、チカに泣いているところを見られてしまった。
「お母さん、お兄ちゃん、泣いてるよ!」小学生のチカは、めづらしい状況を差し押さえたかのようで、さも得意げに、母親にそう言った。
「お兄ちゃん、まだちゃんと感情が残ってたんだね!ちょっとずつ元に戻りはじめてるんじゃない?」
「いいえ、チカ。そんなはずないわ。お医者さんも言ってたけど、人間は、植物状態になってしまった後でも、時々、こうやって、反射で涙が流れることがあるそうなの……。お兄ちゃんはね、確かに今も生きてるわ。だけど、チカのことも、誰のことも、もうわからなくなってしまっているのよ。」
またいつもの話だ。チカはがっかりして買ってもらったスナック菓子を食べ始めた。
「それは違う!俺はチカのことも、母さんのことも、ちゃんとわかってる!俺はまだ生きてるんだよ!」彼は必死で叫んだ。できるものなら、彼はチカをぎゅっと抱きしめてやりたかった。……しかし、彼には叫ぶことも、抱きしめることも、瞬きをすることさえできなかった。
彼は3か月前、ある事故がきっかけで、病院に搬送され、その日以来、植物状態になってしまっていたのだ。


 ――3か月前、大学受験の合格発表の日、彼は、結果を確認するため、試験会場だった大学に足を運んだ。結果は見事に合格だった。彼はまた一歩、医者になりたいという自分の夢へと近づいた。
彼はその日、高校へ結果を報告に行かなければならなかった。いつもの道を歩いて、高校の前の交差点にさしかかった時、彼は、じゃれながら歩道を歩いてくる小学生が目についた。そのうちの一人が突然、友達とふざけていた勢いで、道路に突き飛ばされたのだ。それを目撃した彼は、荷物を投げ捨て、車道へ転がり込んだ小学生を助けようとした。
間一髪で、男の子は助かったが、男の子を助けた彼自身は、走ってきた乗用車にひかれ、意識不明の重体に陥ってしまった。
気が付くと、彼は、自分が病院のベッドの上で横になっていることに気が付いた。
しかし、すでに体は言うことを聞かず、瞬きすらできなくなったいることに気づいた。そのとき、彼は初めて、自分が植物状態であるということを自覚したのだ。
そして、この3か月間、彼は、この病院の5階の、この個室で一人治療を受けていたのだ。
彼は、植物状態というものがどういうものなのかを理解した。しかし、彼には受け入れられなかった。植物状態になっても、自分自身にはしっかりと意思は残ったままだったのだ。自分には意思があることを、何とか相手に理解してもらおうと、何度も何度も試みたが、見舞いに来る人たちは、彼を見るたびに涙ぐみ、「かわいそうに……」というだけで去っていってしまうのだった。彼にはどうすることもできなかった。
ただ、彼はそんな中で、自分の祖母のことを思い出していた。それまでは、植物状態の患者は、感情がなく、ただ呼吸をして、心臓を動かしているだけの状態としか考えていなかったけれど、実際はそうではないということを理解した。そうして寂しくなった……。


 彼は母親に運ばれ、チカと一緒に実家へ帰ってきた。お盆は2、3日の間、実家で過ごすことができた。しかし、家に帰っても、誰もが彼を憐れむような目で見つめ、「かわいそうに……。」とつぶやくばかりであった。彼はかつて、自分が祖母に対して言ってしまった、あのひどい一言を思い出した。
お盆も過ぎ、彼は再び病院に戻ってきた。それから一週間がたった日であった。
この日はなぜか家族の表情が暗かった。夕立が近づいているのか、窓の外に広がる空も、やけに薄暗く、不気味だった。酸素は絶えず送られてくる。酸素マスクは、彼を生かしてくれる唯一の命綱である。
医師がドアを開けて病室に入ってきた。定期検査であろうか……。ところが医師は、なぜか病室の電気もつけず、看護師に、ベッドの周りに集まるよう指示をすると、じっと彼の顔を覗き込んだ。医師はしばらく彼の目をじっと見つめ、それから今度は家族をベッドの周りに集めた。
母親はハンカチで目を抑えながら、声をもらさず泣いている。
「息子さんは、最期までよく頑張りました……。」この言葉が何を意味しているのか、彼にはすぐにわかった。引き留めようにも、彼には為す術がなかった。
「俺が目指していた医者というのは……こんなにも残酷なものなのか……」彼は力の限り叫んだ。
医師は彼のまぶたを引き上げ、しばらく照らした後、ペンライトを胸ポケットにしまった。そして、彼の酸素マスクに手を伸ばし、ゆっくりとそれを、彼の口元から取り外した。
――。

「クリスマス ストーリーズ」
112135


俺の話 〜健太との25日〜

「クリスマスって、やっぱ良いよなぁ。」
 授業の間の休憩時間。携帯画面を眺めながら、隣で健太がニヤついている。
「へぇ、そんなに楽しかったんや?」俺は尋ねる。大学の講義室は、寒すぎるか暑すぎるかのどちらかの切り替えしかできないのだろうか。暖房が効きすぎている時もあれば、今は、エアコンから冷風が出ているとしか思えない。
「うん。楽しかった。」コイツのこういう素直なところが可愛い。もちろん変な意味ではない。そんな趣味はないし、俺にだって彼女はいるんだ。
「それにしても、クリスマスに学校とか、訳分からんな。」
そう、今日は十二月二十五日。世間はクリスマス。にも関わらず、俺たちは学校に来ていた。理由は簡単、まだ冬休みではないからだ。にしても、こうも律儀にちゃんと登校する必要があるのだろうか。そう疑問を抱きながら、俺たちは今日も、律儀にちゃんと登校した。
「クリスマスを登校日にしたやつ、絶対彼女おらんわ!」健太がぼやく。
「いや、彼氏かもしれやんやろ。」なぜその「クリスマスを登校日にしたやつ」が男である前提なのだ。
「え?どういう意味?ゲイってこと?」コイツのこういうところがやっぱり可愛い。素直というか天然というか。健太の質問には答えずに、
「やっぱみんな来やんなー。」と、呟く。
三限目の講義室はいつもより随分あっけらかんとしている。午前中も座席の半分以上が空いている状態だったが、教授も、何か「暗黙の了解」といった様子で、いつも通り講義を行っていた。
ただ「クリスマス休み」を取るのは学生だけではないようだ。あのドイツ人教授も外国語の講義の休講通知を出していた。友人の話によると、彼は家族とホームパーティをすると言っていたらしい。が、俺は彼女とのデートだな、と確信している。
「今頃みんなは、なばなの里でも行ってるんやろなー。」健太がぼやく。
「なんで、なばなの里なんだよ。」
「クリスマスといえば、なばなやろ。」
「確かに、なばな綺麗やけど。」
「やっぱり、なばななんだよ。」健太はよっぽどなばなの里に行きたかったんだろうな。そしておそらくは行けなかったんだろう。
「まぁ、でも昨日楽しかったなら、ええんちゃう?」
「そやな。みんなも楽しんだらええ。」
「ところで、健太は昨日、何してたん?」俺は気になったことはすぐに口に出す。
「ひ、み、つ。」
口元を緩めながら幸せそうに言われると、イラっとしつつも許してしまう。健太は妙に口が堅い。いや、健太のことだ、本当は言いたいはずだ。きっと、彼女との二人だけのものを、大切にしたいのだろう。そういえば、彼女の名前もまだ聞いていない。
「ごめんな。」と言って、両手を顔の前で合わせる健太は、今紛れもなく幸せだ。地球が反対に回り出すことはあっても、このことだけは揺るがない。
「あ、美智子様来た。」
健太は急いで、携帯をしまう。あだ名が「美智子様」の算数科教授だ。ただ「美智子様」に「来た」は馴染まない。せめて「いらっしゃった」か「おいでになった」にすべきだ。そんなことを考えながら、手元の携帯で時間を確認する。待ち受け画面に映る二人は幸せそうな笑顔を浮かべている。俺は、ふと昨日の出来事を思い出して、一人笑みをこぼす。


          
美咲のママの話 〜美咲との23日〜

ぷるるるるる、ぷるるるるる、
「美咲ー。電話出てー。」
「美咲がー?」
「お願い。ママ今手が離せないから。」
「はーーーい。」
 受話器を取る音が聞こえる。美咲が「えっ」と小さく叫ぶ声が聞こえた。美咲はさぞびっくりしただろう。まさかサンタさんから電話がかかってくるなんて。私は昨晩のことを思い出す。

「今年のクリスマスイブは、帰りが遅くなるかもしれないんだ。」これは私の夫だ。「もしかすると、帰って来れないかもしれない。」
「仕事?」
「ああ。年末の追い込みがかかって、俺たち中堅は四苦八苦してるんだ。」
「今年は私がやろうか?」
「いや、俺にやらせてくれ。父親らしいことがしたいんだ。」
「どうせ、パパだって分からないのに。」
サンタさんは毎年やってくる。その存在を信じていい子にしている子のもとに。
美咲も、最近「いい子」にしようと頑張っている。もっとも、私が「いい子にしてないと、サンタさん来ないよ!」と軽く脅かしているせいでもあるが。
「でも、サンタさんが来なかったら、美咲悲しむよ。」
「美咲には、俺からちゃんと伝える。」
 夫はそう言ったが、まさか「サンタさんになって電話をかける」なんて言い出すとは思いもしなかった。

 受話器を置く音が聞こえた。
「ママー。」
 そう言って美咲が駆け寄ってくる。
「どうしたの?誰からだった?」
「サンタさんからだった。」驚きと寂しさがない交ぜになったような表情だ。
「え!サンタさんだったの?」
「うん。」
「サンタさん、何て?」
「えーっと、」美咲は先ほど聞いたことを順番に話し始めた。
「今年はね、いい子がね、多いんだって。」「だからね、サンタさんね、忙しいん
だって。」「だからね、サンタさんね、遅れるかもしれないって。」よく言えたね。と頭をなでる。
「そうなんだー。サンタさんも忙しいんだね。だって世界中の子どもにプレゼント配ってるんだもんねー。美咲、いい子にしてサンタさん待てる?」
「うん。美咲、サンタさん待てる。」
 美咲は、本当はずっと前からクリスマスを楽しみにしていたはずだ。この子はいつの間にこんなにたくましくなったんだろう。
「ねぇ、お母さん。」
「ん?どうしたの。」
「お父さんは、早く帰ってくる?」美咲、それはすごく良い質問だけど、すごく嫌な質問だよ。
「そうだなー。お父さんもサンタさんと一緒で、今お仕事頑張ってるんだよ。だから、美咲はお母さんと一緒に応援しようね。」
「分かった。」
二十五日の朝に間に合わなくても、せめて二十五日の夜は早く帰って来て!そう願いながら、美咲をギュッと抱きしめた。


実果の話 〜カオリとの24日〜

 待ち合わせは、名張駅のホーム。だったはず。大樹はまだ来てないようだ。時計を確認すると集合時間の五分前だった。ちらっと待合室に目を遣ると、一つだけ席が空いている。ラッキー。速足で待合室に入ると、ちょうど向かいのドアからも人が入って来た。
「あっ。」
どうやらその人も座りに来たみたいだ。目くばせをして、どうぞと言うと、
「いいよいいよ、あんたが座り。」とその人も言う。
「いえ、私はいいので座ってください。」
「ええって、座りぃや。」
「いえ、どうぞ。」
 私たちはしばらくそれを繰り返したのち、待合室にいる他の視線が気になり始め、外に出ることにした。
「あんた、今日はどこ行くん?」考えられないほどの馴れ馴れしさに
「あの、お会いしたことありましたっけ?」とつい聞いてしまう。
「多分ないけど、さっき会って、友達になった。」そうだったっけなぁ。首を捻りながらも、悪い人ではないと思った。何よりすごく話しやすい。
「うち、カオリって言うねん。あんたは?」
「あ、私は実果です。」
「みかって、中島美嘉の美嘉?」
「違います。ていうか中島美嘉の美嘉ってかなり珍しいと思いますけど。」知らず知らずのうちに大きな声を出している自分に気付く。カオリさんは、ハハハと大きな口を開けて笑っている。
「ほんでさ。今日はどこ行くん?」
「今日ですか?」初対面の人にどこまで話すべきなんだろうか。そんなことを考えているうちにカオリさんはどんどん話を続ける。
「ちなみに私は、彼氏の家でパーティ。あんたは?」
「私は、」彼女はすごく真剣な眼差しでこちらを見ている。「私は大阪にイルミネーションを見に。」
「へー、イルミネーションデートかぁ。うちは人ごみ苦手やからやめとこって言ってんけど、やっぱりクリスマスと言えばイルミネーションやなぁ。」まだ誰と行くとも言っていないのに、すでに彼氏といく前提になっている。まぁその通りだからいいか。彼女にはなんだかかなわない。
「大阪のどこ行くん?」
「中之島ってとこなんですけど。」
「え!知ってるで!『光のルネサンス』とかなんとかいうやつやろ?」
「あ、そうです!でも、人いっぱいでしょうね。」
「そやろなぁ。帰りの電車ぐったりやろうな。寝過ごして、青山町まで行っちゃうパターンやな。」
 面白い人だなぁ。私は思わず笑ってしまう。
「あ、でもうち行ったことあるわ!」
「え、『光のルネサンス』にですか?」
「いや、青山町に。寝過ごして。」
 私たちは、顔を見合わせて笑った。
「ところで、おっそいなー。」
「そうですね。」時計を見ると、集合時間を十分も過ぎていた。カオリさんと話しているうちにそんなに時間が経っていたんだ。あの遅刻常習犯!大樹の顔を思い浮かべる。
「あんたんとこの彼氏は、どんな人なん?」
「え。」唐突な質問に驚く。
「ちなみにうちんとこのは、一言でいうと天然やな!なんか抜けてるというか、素直というか。でもそういうところが好きで。あんたんとこのは?」
「私の彼は、」カオリさんが、何のためらいもなく「好き」と言ったことに驚き、そしてうらやましいな、と思った。「私の彼は、思ったことは遠慮せずに言ってくれて、いつも私のことを考えてくれる大切な人です。」
 私は、カオリさんみたいにまっすぐ「好き」とは言えなかったけれど、「大切」という言葉に、私の「好き」を託した。
「そっか。幸せそうやなぁ。」
「はい。」はっきり言えた自分が嬉しい。
「ちなみに、うちの彼、教育大生。すごない?」カオリさんはいつでも急だ。ストレートな質問も、ストレートな自慢も。
「え!私も、私の彼も教育大生です!」共通点の発見に興奮してしまう。もしかして、すこし嫌味だったかも知れない。
「え、どこの教育大?」カオリさんは細かいことは気にしない、すごくサバサバしていて感じの良い人だ。きっと彼氏さんもすごく良い人に違いない。
「大阪です。」今度は嫌味に聞こえなかっただろう。
「一緒やん!じゃぁ、あんたの彼氏とうちの彼氏、友達かも知れんな!」
 同じ大学だからといって、そうである確率は、極めて低いと思ったけれど、そうだったら素敵だな、と素直に思った。
「それにしても、遅いなー。」
「そうですねー。」
 彼が来たら怒ろう。でも、怒る前に、カオリさんのこと、カオリさんの彼氏のことを話したいと思った。


良一の話 〜弘士との26日〜

「お疲れ。どうだった?」
「なんとか。そっちは?」
「こっちも、なんとか。」
これは同僚の弘士との今朝の会話だ。ただ、仕事の話ではない。サンタクロースの話だ。
「美咲ちゃん、待っててくれたんだ?」美咲ちゃんは、弘士の一人娘だ。
「そうなんだよ。ああ見えて強いんだよな。お前の所はどうだった?」
「うちも、ちゃんと待っててくれたよ。」
 うちの会社はこの時期になると、年末の追い込みがかかる。最悪の場合、二十五日の夜にも帰れないような状況だったが、俺も弘士も必至でノルマをこなし、なんとか間に合わせることができた。
「そういえば、弘士。お前、サンタクロースになって電話したんだろ?」
「ああ。」弘士が笑う。
「その話気になってたんだよ。上手くいったか?」
「美咲が出てくれて、『うん、分かった。』って言ってくれたよ。」
「美咲ちゃん、素直だな。」
「電話の最後には『お仕事頑張って』だって。サンタさんのプレゼント配りは仕
事だと思ってるんだよ、美咲は。」
「仕事だろうよ。もしあんなのが本当にいたら、俺たちの追い込みよりも過酷だよ。」
「良一の娘も、素直に待ってくれてたんだろ?」
「おう。聞いてくれるか?」
「今日は何でも聞けるぞ。」
弘士は昨日までの顔とは全く違う、スッキリとした顔つきをしていた。
「俺がな、『サンタさんは忙しいから、遅くなるかもしれない』って言ったら、娘が何て言ったと思う?」
「普通なら、分かったとか、嫌だとかだろうけど。」
「普通なら、な。でも娘はこう言ったんだ。『パパが早く帰ってくれたらそれでいい』って。」
「それは泣ける話じゃないか。」
 俺は、娘のその言葉があったから、仕事を完了することができた。そして娘がいるからいつも頑張ろうと思える。
「ところでさ。」弘士が言う。「ドイツのサンタクロースって双子だって知ってるか?」
「双子?」俺は素直に驚く。
「一人は、あの紅白の衣装で、いい子にプレゼントを渡すらしい。」
「普通だな。もう一人は?」
「もう一人は、黒と茶色の衣装で、悪い子にお仕置きをするんだと。」
「クリスマスにお仕置きされちゃたまらないな。」まるで秋田のなまはげみたいだ、と思った。鬼の面をつけて「泣く子はいねぇか?」と言うあれだ。
「ドイツの父親は大変だよな。」弘士が言う。
「悪いサンタ役も楽しそうだけど。」俺は不敵に笑う。
「イタリアのサンタは、」と弘士が続けようとしたので制止する。弘士は雑学野郎で、スイッチが入ると止まらないのだ。
「ところでさ、」話題を変える。「クリスマスが終わったら、次はお正月があるだろ?」
「そうだな。」自分の話を中断させられ、すこし不満そうな顔で弘士が頷く。
「親戚のカオリちゃんが今年で二十歳になるんだが、お年玉、もういいよな?」
「二十歳は立派な大人だからな。」
 いつから俺は「大人」になったんだろう、とふと思った。そして、幼いころの記憶を辿り、ぼんやりとしたサンタクロースの面影を見た。


俺の話 〜家族との25日〜

 俺は大学からの帰り道、二人の女の子に出会った。一人は初対面。もう一人は知り合いだった。
 クリスマスの日の授業が終わると、健太に手を振って教室を出た。いつもなら二人で帰るところだが、健太は何やら用事があるらしい。二人で帰るときは、大声で喋り、二人だけの世界を楽しむが、一人で帰るときは、周囲の世界になるべく溶け込む。こういう時は誰にも声をかけてほしくない。
「あのさ、もう講義って終わったん?」こういう時に声をかけてくるのは大抵がおばさんだ。あの人たちは、空気が読めないのではなく、読もうとしていない。真偽を確かめるべく顔を上げると、そこにいたのは、知らない女の子だった。俺がぽかんとしていると、
「だからさ。講義はもう終わったんって聞いてるんやけど。」歳は俺と同じくらいだが、見覚えはない。
「え、あ、うん。今終わったけど。」
「そう。ありがとう。それじゃあ。」
 そういって、そそくさと講義室に入って行った。いったいなんだったのだろう。あの馴れ馴れしさ、どこかで会ったことあったかな?首を捻りながら、講義室を後にした。
いつもの帰り道も、クリスマスとなれば、少し違った雰囲気だ。電車の中は、クリスマスの広告が埋め尽くし、いつもよりカップルが多い。それらによって電車全体の雰囲気が高揚し、車両もスキップするように揺れているみたいだ。
「夕食には間に合いそうだな。」
「ああ、ホッとするよ。」
 前に立つスーツ姿の二人の会話が聞こえてきた。俺はといえば座って文庫本を広げていたのだが、無意識の内に少しだけ聞き耳を立てている。
「喜んでくれるかな。」
「もちろん。」
 俺は二人が持っている大きな袋を見て納得する。クリスマスプレゼントだ。「スーツを着たサンタクロース」か、と内心で呟く。本当のサンタクロースはあんな紅白の衣装は来ていない。親父もこんな風に、毎年プレゼントを用意してくれていたんだな。
「それじゃ。」
「おう、また明日。」
 一人が降りて行った。残された一人は、少し離れたところ、空いた座席に座った。
 サンタクロースは中三の時まで来てくれていた。高校一年生のクリスマスは、今年は来ないだろうと思っていながらも、やっぱりちょっと期待した。そんなことをふと思い出す。クリスマスイブの夜の、あのワクワクは今でも忘れられない。
「サンタクロースはお父さん」。そんなことはとっくに分かっていた。親父だって分かっていたはずだ。俺がそれに気づいているということを。でも、毎年十二月二十五日の朝、枕元にはプレゼントが置かれていた。親父から直接もらうよりも、サンタクロースという架空の人物にもらう設定のほうが、なんだか胸が高鳴った。そして幼いながら、その「設定」に従って、疑わなかった。気づいていないフリをした。
そして親父の方も気づかれていないフリをした。直接渡したほうが、親としての株が上がるというものを、その日だけはサンタクロースに手柄を献上する。
クリスマスの夜、世界中で、「サンタクロース」という架空の人物を通じて、親と子の不思議なコミュニケーションが行われている。
電車が停まり、俺は立ち上がる。駐輪場に着いたころには、小雨がぱらついていた。あいにく、雨具は持ち合わせておらず、アパートまで自転車をとばすことになった。
濡れた体をこすりながら部屋の鍵を探していると、隣の部屋の扉が開いた。
「あ、お兄さん。」この可愛い声は、美咲ちゃんだな。隣の部屋に住む5歳の女の子だ。
「こんばんは。今日はクリスマスやね。」
「うん。」
「プレゼントもらった?」
「あのね、パパからね、ううん、サンタさんからね、電話がね、あってね、」まるで分節を区切るように、少しずつ伝えようとする様子が微笑ましい。どうやらまだプレゼントはもらっていないようだ。
「今夜は来てくれるといいね。」
「うん。」
「これから、どこ行くん?」
「今からね、サンタさんを、ううん、パパをね、迎えに行くの。」
「そっか、気を付けてね。」
 美咲ちゃんに手を振って、冷え切ったアパートに足を踏み入れる。手さぐりで電気の位置を突き止めると、動きを止めていた部屋が、呼吸を始める。そこで後ろから声がした。管理人が荷物を預かってくれていたようだ。
「ここ置いとくから。」そう言って、管理人は去った。俺は、残された荷物を抱え、
中へ入った。
 荷物は実家からだった。中身は、秋田名物きりたんぽと、野菜が入っていた。だが、理解に苦しんだのは、段ボールの隅に入っていた鬼のお面だ。節分にはまだ早い。そして、何やら手紙まで入っている。おそるおそる手紙を広げると、
「大樹へ」という字が見えた。母の字だった。内容は、ざっと言えば次のようなものだ。
「元気にしているか。彼女はできたか。どうせ寂しいクリスマスを過ごしているだろうから、サンタさんからクリスマスプレゼントを贈る。」
 母の予想を裏切ることにはなるが、おかげさまで彼女はいる。しかし、二十五日に一人であることを考えれば、母の予想は半分正解だ。「サンタさんから・・・」という気取った文は実に母らしい。「サンタさんから」と言っておきながら、文末にでかでかと「母より」と書くところもそうだ。懐かしい。
 問題は鬼の面だ。何気なく、じっと見つめていると、声がした。
「泣く子はいねぇか!」
はっとして、布団にもぐりたくなる。もちろん声は気のせいだったが、その鬼の面には幼いころの思い出がつまっていることに気が付いた。
「なまはげかよ。」
 今となっては、恐れる必要も、理由もなかったが、幼いころに染みついた恐怖がよみがえってくる。と、ともに、その「恐怖」は、幼かった俺がなまはげから逃げてたどり着いた、母の胸の「温もり」も引きつれてきた。懐かしい。
 そのまままどろみ、しばらくして立ち上がる。なまはげの面を窓際の棚の奥にしまった。嬉しいけれど、大学生の部屋には馴染まない。そして何より怖い。
 なまはげを封印し、顔を上げると、窓の外が気になった。急に故郷が恋しくなったのだ。故郷を想うときは、「空を見る」と相場で決まっている。窓を開けると、招いてもいないのに、寒気が勢いよく部屋に上がり込んでくる。そして気づく。
 雪だ。          
 さっきまで降っていた雨が雪に変わっていた。これは秋田は大雪だな。目下に輝くビルの明かりやイルミネーションに、故郷の星空を想う。
いつまでも故郷を偲んでいては、体が冷えるばかりだ。俺は窓を閉めて、室内に向き直る。部屋の真ん中では、母からのクリスマスプレゼントが静かに待っていた。
「よし!今夜はきりたんぽ鍋だ。」
 台所で、鍋パーティの支度をする。今頃、実果も家族とのクリスマスを過ごしている。そして俺も、一人ではない気がした。
 昨日は実果とのクリスマス、そして今日は家族とのクリスマスだ。みんな、いつの間にかサンタクロースのことなんてすっかり忘れて、大切な人との時間に、幸福を感じている。サンタクロースって切ない役回りだ。
隣の部屋から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。ぐつぐつ言い出した鍋のふたを開ける。中から上がった湯気が眼鏡を曇らせる。お椀に一人分の量をよそって、一口。あったかい。美味しい。今、俺は幸せだ。間違いない。地球が反対に回り出しても、このことだけは揺るがない。
ありがとう、親父、お袋、そして実果。
目から頬に伝うものがあった。窓際の棚の奥から、「泣く子はいねぇか。」と聞こえた気がした。

「もう中学生」
112205


「潤一、晩ごはんよ〜。」
階段から母さんの声が聞こえる。今はこっちで手が離せないんだ。勝手に行くから静かにしてくれ。
「潤一、ただの晩ごはんじゃないわよ〜」
 一体、どんな晩ごはんなんだ?今日は特別な日なのか?そういえば、なんとなくだけど、いつもと違うような・・・いやいや、それどころじゃないんだ。黙っていてくれ、頼む。
「潤ちゃん、ママの作ったごはんが出来てるわよ・・・」
 ヤバい、こんなときの母さんはあの時だ。早く行かないと・・・おお!
「早く降りてきなさい、何度言ったらわかるの。早くお子様気分から抜けてちょうだい、いいわね。」
間に合わなかった。部屋を出てすぐに、あの形相で立たれてはどうしようもない。というか、いつの間に部屋の前までやって来たんだ。まったく、神出鬼没ってやつはこのことか。塾の小テストで覚えた四字熟語が、まさか、こんなところで役に立つとは。何が起こる分からないな。
「早く来なさい!」
 再度、階段から「鳴き声」が。はいはい、今すぐ行きますよっと。いつにも増して、「鳴き声」は大きく響いていた。

 「なんだ、『ただの晩ごはんじゃない』って、いつもの、ふつうのカレーじゃん。これじゃ、いつも晩ごはんだよ。」
 「何言ってるの、潤一。カレーといえば、『カリー』でしょ。インドの料理じゃないの。こんなに外国の料理を作れるって、ママはすごいでしょ。ね!」
 どや顔で見つめる母さんは、時々自分よりも子どもじゃないかって思えてくるのは気のせいだろうか。こう思う自分は冷めているのだろうか。
 「外国の料理って・・・それじゃ、僕だって外国の料理を作れるよ。それも短時間で。」 
 「へえ、潤一にもそんな才能あったっけ?で、どんな料理を作れるのかしら?」
 「母さんも父さんもおじいちゃんもおばあちゃんも、みんな誰でも知ってる料理だよ。」
 「いいから、早く教えてちょうだい。どんな料理なの?」
 「う〜んと、ラーメン。だって、ラーメンって中国の料理でしょ。僕だって、たったの3分で外国の料理が作れるよ。それも、ふたを開けて、お湯を入れるだけでね。」
 母さんの甲高い笑い声が食卓に響く。今度は楽しさを表現する「鳴き声」か。いろんなバリエーションがあるんだな、「鳴き声」には。
 「なかなか、おもしろいじゃない。なるほど、ラーメンね。考えたわね。潤一も少しは大人になったんじゃないの?けれど、袋のラーメンも忘・れ・ず・に!」
 そう言って、母さんは『カリー』を食べ始めた。サラダとセットになっている夕食は、何の代わり映えのない普通の夕食だ。けれども、確かに特別な夕食なのかもしれない。
「あ〜あ、今の潤一の様子、お父さんにも見てほしかったなあ。すっごい、冷静にラーメンを作れることを解説してたの。お父さん、いまごろ、シンガポールのどの辺にいるんだろうね?」
 母さんは、すこしもったいないと言わんとばかりにこのことばをこぼした。
しばらくは、シンガポールでの仕事が控えているそうだ。外国での仕事に忙しい父さんは、日本にいる期間がほとんど無い。そのため、家で家族が揃うということが無い。母さんと一緒にご飯を食べるのも、ゆっくりと食べることができるのは朝ぐらいで、夜は塾でコンビニ弁当やおにぎりを友だちと食べるのが日常で、違和感はなかった。
 自分にとっての日常生活は、みんなとは違って、ある意味、部分的に「大人」に近づくためのステップなのかもしれない。こう思っていたので、寂しいとか、悔しいとかという気持ちは生まれなかった。
 ただ、自分がどう父さんに見られているのかが気がかりだ。今のラーメン返しだって、もしかしたら「ふざけるな!親をからかうんじゃない!」って言うかもしれない。自分を受け入れる存在としての父親の姿は、どんなに受験勉強したって分かるはずもない。
 
 「あっ、そうそう、潤一に大事な話があるの。」
 さっきまでの「鳴き声」が一変、普通の母さんの「声」に戻った。
 「最近ね、この地域でクマとかイノシシとかの被害があって、昼過ぎも警察のパトカーがサイレンをガンガン鳴らしてすごかったの。」
 「うん。それで。」
 「それでね、町の自治会っていうのかな、このあたりの人たちの集まりがあって、そこの話し合いに参加してきたの。」
 その報告が大事な話なのか。夕食で一時中断となった例の約束を果たさないといけないんだ。久しぶりに母さんと家で晩ごはんを食べたけど、また食べる時もあるから別に今話さなくても。
 「今年は何とかして被害を減らすために、自治会で環境整備をやるの。来週の日曜日。それで、各家庭から一人は出ないといけないんだけど・・・」
 「母さんが行けばいいじゃないの。僕には関係ないことだから。あと、日曜日は忙しいし。」
 「関係ないことなんじゃないわよ。加藤さんが、ちょうど被害に遭ったらしいのよ。詳しくは聞いてないけど。」
 「それと、その日私はお父さんのお母さんだから、潤一のおばあちゃんの所に行かないといけないから、どうしても出られないのよ。ね、だから日曜日参加してね。お願いね。」
 「そんな、いきなり言われても・・・それに、僕はまだあれだよ、中学生なんだよ。そんなクマ退治のために頑張るなんてできないよ。」
 「けど、今『頑張る』っていうことばが出てきたじゃない。お母さんは、潤一に頑張れなんて一言も言ってないよ。ただ、参加してねって言っただけだよ。けど、参加するということに頑張ろうという気持ちがあるんじゃないの。それって、すごく大事なことだよ。『まだ』じゃなくて、『もう』中学生なの。」
 急に、まじめな母さんにスイッチが切り替わった。いろんなスイッチを持ってるんだな、母さんは。
 「そうだけど。けど、知らない人の中で作業するの、いやだよ。僕だけなんじゃない?中学生が来てるのって。」
 「確かにそうかもしれないね。ただ、逆に潤一の中学生の姿を見せられたらかっこいいと思うけどなあ〜」
 まじめスイッチオフ。通常操作オン。
何だか、振り回されてるような気もするが、母さんがそこまで言うなら仕方ないのか。けれど、居場所がなく、話し相手もおらず、ただおろおろしてやり場のない時間を過ごす等身大のリアルな弱い自分だけははっきり想像できる。
「大丈夫よ、潤一。きちんと自治会の人たちが面倒を見てくださるから。それじゃあ、我が家の代表は潤一で決まり!」
 母さんの言うことも分かるが、自分にだって都合はある。そう思いながら、自分の部屋へと戻った。
「『まだ』じゃなくて『もう』中学生なの」
 母さんのことばをふと思い出す。
 「そんなこと言ったって、『まだ』は『まだ』なんだもん。」
・・・
 モーニングコール。いつもの朝がやって来た。ん、いつも朝か?
 「潤一、起きなさい。朝だよ〜。今日は、いつもと違う朝ごはんよ!」
 昨日のように怒られるのはまずい。今日は早く行こう。せっかくの休みなのに、なんでクマ対策なんかに行かないといけないんだよ、まったく。しかも、また「いつもと違うシリーズか」。また、どうせちょっとしたおふざけなんだろう。
 階段を下りる。
「あれ、なんだこれは。本当に家だよね?おかしいな〜」
 予想していたシリーズを裏切るまさかの結果が。なんと、朝食がいつものパンと牛乳ではなく、ごはんに味噌汁、それに焼き鮭まであるではないか。一体どうしたんだ。母さん。
「はったりと思ったでしょう。今回は本当にいつもと違うわよ。」
「今日は、クマ対策に我が家の一日隊長として働いてもらいますからね。力をつけてもらうために、まずは朝ごはんのきちんとした食事をとって頑張ってもらいたいのよ。」
満面の笑みを見せて母さんはスイッチを入れた。
「ここまでした以上、訳のわからない理由をつけて逃げないのよ。いきなり、腹が痛くなったとか、手が痛くなったとか。」
「逃げるってなんだよ。そんなに信頼が僕にないの?」
僕の一言で、母さんの違うスイッチを入れてしまったようだ。
「そういうわけじゃないけど、昨日の様子を見てたら納得してなかったようだから。」
「そりゃ、そうだよ。いきなり出ろって言われて、しかも中学生だからってかっこいい姿を見せられるとか、こっちの方こそ『訳のわからない』ことだよ。」
「ごめん、ごめん。潤一の気分を悪くしちゃったのね。お願いしますという意味で、冗談のつもりで言ったの。気にしないで、朝ごはんが冷めちゃうわよ。」
 いつもと違う朝ごはんだが、出される料理の時間帯が違うだけで、結局いつもと変わらないな。焼き鮭も相変わらずの塩加減。
 「ごちそうさまでした。何時にどこに集まればいいの?」
 「あっ、言ってなかったっけ?ごめん、ごめん。9時に公民館の前に行けばいいのよ。お昼ごはんは、お弁当を作ってあるからそれを持って行って。」
 「あと、くれぐれも皆さんにはご迷惑をおかけしないでね。」
 「はいはい、分かったよ。」
 僕が行くことで迷惑になるなら、行かさなくていいのに。心の中で思ったことを口にしようとしたが、自分のスイッチを切った。
 「せっかくだから、公民館まで一緒に行く?皆さんにご挨拶をしてあげるから。ね?・・・さすがにそれはいやかな、潤一?」
本気でひとごとだと思ってるだろ。心というものは便利なものだ。思ったことも自分の中でとどめることができる。・・・いや、心というより、心を持つ自分が偉いのか?まあ、スイッチの使い方に関しては、母さんの方が上手だからしばらく見習いでいよう。
「いってきます。」
「いってらっしゃい、潤一選手!」
母さんの大きな声が玄関に響いた。
・・・
 「おはようございます。今日はよろしくお願いします。」
 外向き用のスイッチに切り替え。うまくいったかな。
 「おお、おはよう。今日はせっかくの休みなのに、ごめんな。来てくれてありがとう。」
 朝の目覚めに思ったことを的中させるな、このおじさんは。まあ、当たり前か。中学生が休みってことぐらい誰だって分かるか。
 「皆さん、彼が今回の作業で一番若い参加者です。なので、いっぱい働いてくれると思うので、なんでも教えてやってください。」
 「そうなのか、よろしくな。」
 「わざわざ来てくれたのね、ありがとう。今日の作業、一緒に頑張りましょうね。」
 いろんな人にいろんなことばをかけられた。けれど、共通するのは全員年配の人だということだ。平均年齢はいったい何歳なんだ?
 「では、若い彼も来てくれたということで、作業を始めていきましょうか。」
 最初に声かけてくれた人が、どうやら今回のリーダーのようだ。確かに、そんな雰囲気のある人に見える。
 「今回、皆さんとともに行なう作業は、主に草刈りとゴミ拾い、それから何本か木を切っていくことです。木の伐採は私たちだけでは難しいので、業者の方にやっていただきますが、それまでの作業は私たちでやっていきましょう。よろしくお願いします。」
 「よろしくお願いします。」
 あいさつが終わり、とりあえずゴミ拾いをしよう。けど、ゴミ拾いってクマ対策に関係があるのか。何だか、雑用をやらされているように思うが、みんなやっているし、とりあえず拾っていこう。
 「ねえ、小学何年生なの?」おばあさんが話しかけてきた。
 「ええと、小学生ではなく、中学2年生です。」
 「まあ、それはごめんなさいね。失礼なことを言っちゃったわ。」
 「いえいえ、気にしないでください。結構間違われるので、もう慣れましたから。」
 おばあさんの、なんとも言えない表情を見て、「しまった」と反省した。僕はまだ、スイッチを扱えない見習いなんだ。悪いことをしてしまったな。
 「どうだい、調子は。」リーダーが声をかけてきた。
 年を間違えられて恥ずかしかったです、と声に出かけたが、なんとかスイッチを切り替えられた。
 「はい、頑張ってます。結構ゴミが多くて大変です。」
 「そうか、頑張ってくれてるんだな。良かった。確かに、この辺りは草がたくさん生えたり、人があまり来ないところだから捨てる人が結構いるんだ。」
 リーダーの声が右肩下がりに小さくなった。
 「ゴミ拾いが終わったら、草刈りを頼むな。よろしく。」
 「はい、頑張ります。」
リーダーの表情が和らいだ。そして、僕の肩をポンと叩いた。
・・・
「ゴミ拾いありがとうございました。次は、草刈りに行きますか。」
ゴミ拾いにこんなに時間がかかるなら、ゴミを捨てさせないために何かしないといけないんじゃないか。ありきたりだけど、看板を立てるとか・・・けど、まあいっか。どうせ、看板を立てても捨てる人は捨てるし。でも・・・
「どうしたんだい。何だか考え込んでるけど。何かあったのかい?」
さっきのおばあさんがまた声を掛けてきた。
「・・・いや、何でもないんです。どうせ、言っても仕方ないことだし。」
「何か思ってることがあったら、言った方がすっきりすると思うよ。何を考えてたの?」
「・・・でも」
「どうしたんですか、石川さん。男の子に話しかけて。何かありますか?」
リーダーがこちらのやりとりに反応する。正直、困ったことになったぞ。ヤバいなあ。
「この子が、何か言いたげな顔をしていたんで、何を考えてるのか聞こうとしたんですよ。」
「ほう、そうなんですか。君、何か言いたいことがあるのかい?」
「言った方がいいわよ。」
おばあさん、いや、石川さんがそう念押ししたので、言うことにした。早く注目の的から外れたいという思いもあるし。
「ええと、せっかくゴミも拾ったので、ああと、ゴミを捨てないために・・・」
「捨てないために?」
むしろ、注目の的になってるじゃん。思い切って言うか。思い切りのスイッチを入れる。
「捨てないために、注意書きの看板を立てたらいいと思います!」
 「おお!」
 聞き入った人たちがざわつく。いけないことを言ったかな?
 「良く考えたね!偉い!さあ、皆さん、彼の意見についてどう思いますか?」
 「わしは、賛成じゃ。」
 「私も賛成よ。よく言ってくれたね。頑張ったわね。」
 口々に賛成ということばが飛び交う。スイッチの効果が効いた。
 「彼の意見を取り入れ、看板を設置することにしましょう。彼に大きな拍手を!」
 「あ、ありがとうございます。」
 正直、すごく照れ臭かったけど、やりきった感は大きい。何だか勇者になった気分だ。
 「さあ、後半戦もよろしくお願いします。」
 「よろしくお願いします!」
 一番大きな声を出せた気がする。この調子で、次の草刈りも頑張るか。
 初めのやる気の無さはどこに行ったのか、だんだん僕は選手になりつつあった。
・・・
 「草刈り機は危険なので、草を刈る道具でやってください。」
 とは言っても、道具も鎌だから危険だけどなあ。っていうか、鎌なんて使ったことないし、どうしたらうまく使えるんだろう。とりあえず、見よう見まねで草を刈ってみる。だめだ、うまくいかない。
 「鎌を使うのは初めてかい?」
 「はい、そうです。草刈りなんてほとんどやったことがないんで。」
 石川さんが話しかけてくれたので、こう返事をした。
 「やっぱり。慣れていないと思ったらそういうことだったんだねえ。」
 「どうすれば、うまく刈ることができますか。」
 「コツはこうやって草を持つの。それで鎌はこうやって・・・」
 石川さんがお手本として実演してくれた。さすが、慣れた手つきで草を刈っていく。ある意味草刈り機みたいだ。
 「じゃあ、やってみようか。」
 お手本通りに草を持って、刈る。うまくいかない。
 「草の持ち方はいいけど、鎌はこうやって持ってくるの。」
 再挑戦。今度こそ成功しようというスイッチが入る。
 「ッガ。」
 歯切れのいい刈った音が聞こえた。無事成功だ。
 「よくできたね。なかなか大したものよ。ね、松田さん?」
 「ああ、とっても上手だったよ。その調子で頑張ってな。」
 「はい、ありがとうございます。」
 草刈りでこんなに褒められるとは思わなかったな。けど、褒めてもらえるのはうれしい。どんどん、刈って行こう。
 こうして、草刈りも順調に進めるきっかけができた。歯切れのいい音はやはり気持ちのいいものだ。テンポを上げてどんどん刈って行こう。
 「若いもんはやっぱり力があっていいもんだ。」
 「本当にそうですねえ。私らも見習わなくちゃ。」
 自分の振る舞いが、こんな形で変わるとは。ただ草を刈ってるだけなのに。けど、草を刈るごとにすっきりしていくのは目に見えてわかる。自分の仕事の成果が表れるようだ。仕事がはかどる。
 季節は夏から秋に変わり、朝晩が涼しくなる時期だが、やはり昼になるころは暑い。汗がじわじわかいてくる。かかんだ体勢をずっととっていたので腰も痛くなる。
 「ああ、腰と足が痛むねえ。」
 やはり、熟練の技術を持った職人でも、体力には逆らえない。刈った草を重たそうに運んでいく姿が見える。重そうというより重たいんだけど。しかも、地面がでこぼこしていて運びづらいのは明らかだ。
 「草、持っていきましょうか?」
 何気ない一言だが、いつもと違う。何が違うんだろう。
「そうかい、ありがとう。さすが、若いもんは気が利くねえ。」
 「本当に助かるよ。ありがとうね。」
 参加者の平均年齢が高いのは目に見えてわかる。だからこそ・・・
 「草刈りも一通り終わりました。皆さんのお力で何とかここまでやってこられました。本当にありがとうございました。今回の作業では、小さいけど大きな働きを持った青年が活躍してくれました。大きな拍手をお願いします。」
 「ありがとう!」
 「助かったよ!」
 拍手とともにいろんなことばが飛び交った。思わぬリーダーからの一言に、恥ずかしさと誇らしさを感じた。そして、達成感を味わった。
 「それでは、今回の作業はこれで終了します。木を伐採するのは、また後日業者に頼みたいと思います。それと、青年が提案してくれた看板については、自治会で検討しますので、回覧板で詳しい内容をお知らせします。ありがとうございました。」
 「ありがとうございました!」
 帰りに、差し入れでジュースとせんべいをもらった。年配の人たちは、終わりの一杯ということでお酒を飲んでいたけど、自分もなんだか大人になったような気持ちがした。
・・・
「おかえりなさい。お疲れ様でした!」
にっこりした顔で出迎えてくれた。心なしかいつもよりも口角があがってるような。
「ただいま。今日は本当に疲れたよ。いろいろ頑張ったから、お腹がすいたなあ。」
「今日もまたまたいつもと違うわよ〜」
 そんなことを言う母さんは、決まってはったりが多い。何年母さんの息子をやってるんだって話だ。
 「じゃ〜ん、特製2日寝かしたカレーライス!」
 「いつもと同じじゃん。2日寝かしたって、放置してただけなんじゃ・・・」
 「いやいや、2日寝かすことで味わいが深まるのよ。分かる?」
 「はいはい、分かりました。じゃあ、いただきます。」
 「召し上がれ!」
 いつものカレーライス。いつも母さんの味。しかも2日連続で。けれども、いつもだけどいつもじゃない。ちょっと甘く感じて、ウスターソースを継ぎ足した。
次の日の登校途中は、顔なじみにたくさん出会った。リーダーに石川さんに松田さん、それに・・・いろんな人との出会いによって、いつもの道がより活気づいた。